『ドカベン』については、長らく心に引っかかり続けていた問題がある。そう、いわゆる「ルールブックの盲点の1点」である。
これは単行本35巻(文庫版では23巻)に所収されたエピソードで、先に述べたアピールプレイにまつわる不可解な得点を描いたシーンである。水島の代表作『ドカベン』において、読者のおそらく95%くらい(あるいはもっと)が首をかしげ、プロ野球関係者でさえ「これはありえん!」とまで言ったらしい。
結論から言えば、大方の疑問に反して、正しいのは水島であった。そして、微妙なルールにまつわるこんなシーンを少年野球マンガで描ききった水島の株は大きく上がった。
プロ野球選手がうなるほどの考証が『ドカベン』にはあるのだ。これはマンガとしてのおもしろさとはまた違う側面かもしれないが、しかし野球マンガ、もっと大きく言ってスポーツマンガ全体の裾野を広げえた、水島マンガの質のあらわれであると思う。
つまりこのシーンで水島が説得的に描き出したのは、「野球はそれ自体としてドラマたりえる」ということなのだ。今回は水島マンガにおけるこの部分を味わってみたいと思う。
というわけで、その「ルールブックの盲点の1点」を、公認野球規則に立ち返りながら見直してみる。
まず、文庫版23巻pp304-305から引用したページをひととおり読んでほしい。そしてプレイの流れをひととおりアタマに入れよう。
このエピソードを読んだ南海ホークス(当時)の野村克也は、「あんなウソを描いたらアカンで」と水島に言ったらしい。が、絶対の自信を持っていた水島は、野村の前で審判に確認し、このエピソードがルール的に正しいことを野村に理解させたという話が伝わっている。
実はこれ、『ドカベン』の読者なら誰もが憶えている話だが、いまだに理解していない人が多いと思うのだ。というより私自身がよくわかっていなかった。「ははぁ、こういうことか」と思ったのはほんの2ヶ月ほど前のことである。ブログでこのエピソードをとりあげようと思い、ネットや野球ルールを調べてみて、ようやく理解したという泥縄である。『ドカベン』でこのエピソードが掲載されてからすでに30年。長らくほったらかしていたものだ。
流れがアタマに入っただろうか。
じゃ、いくぞ。
(1)設定
山田太郎二年生夏の神奈川県予選三回戦・明訓高校×白新高校戦。
投手戦で0-0のまま延長戦に突入。10回表、明訓の攻撃。
(2)状況
守備側・白新のエース・不知火守が、死球やバントヒットなどで1アウト満塁のピンチを迎える。
攻撃側・明訓高校のランナーは以下。
1塁ランナー:山田太郎
2塁ランナー:殿馬一人
3塁ランナー:岩鬼正美
ここでバッターボックスに入るのは明訓高校5番レフトの微笑三太郎。
(3)経過 時系列で書く。この順番が超重要。各選手の動きをアタマに描きながらお読みください。
①打者・微笑三太郎がスクイズを敢行。もちろんランナーは3人とも飛びだす。
②しかし微笑のスクイズは小フライとなり、不知火守がこれをスライディングキャッチ。これで2アウト。
③3塁ランナー・岩鬼正美は帰塁しようとせずにそのままホームイン。
④1塁ランナー・山田太郎は帰塁しようとするが、不知火は1塁に送球し、山田は間に合わず。これで3アウト目が成立。
⑤不知火ら白新のメンバーはチェンジのためベンチに戻っていく。
(4)結果
白新のメンバーがベンチに戻るためにファウルラインを越えたその瞬間、上記③の岩鬼のホームインが成立し(!)、スコアボードに「1」が刻まれる。
不知火は茫然として叫ぶ――「ば、ばかな、どうして1点がはいるんだ!」「ワンアウトフルベースでおれがとってツーアウト、一塁へ転送してスリーアウトチェンジじゃないか!」
しかし判定はくつがえらず、これが決勝点となって明訓高校が勝利する。
以上、これが「ルールブックの盲点の1点」として有名なエピソードである。
引用したページは、明訓高校監督・土井垣将がこの得点を解説するシーンである。プレイの流れはこのページだけでもだいたいわかると思う。
しかしなぜ岩鬼のホームインが認められるのかはこれを読んでもわからなかった。見開き左ページに公認野球規則が引用されているが、これを読んでもサッパリわからない。初見で理解できる人は、すでに野球の審判レベルの知識を持っていると思われる。ま、私がアホなだけかもしれませんけどネ!
さて、この得点が理解できない(ex. オレ)としたら、その理由はハッキリしている。つまり「アピールプレイ」という概念がわかっていないのである。
実際の野球においてランナーをアウトにするプレイはおもに「フォースプレイ」と「タッチプレイ」である。このほかに守備妨害や走者追い越しといった反則でアウトになることもあるが、これはめったに見られないプレイだろう。
しかし、フォースプレイやタッチプレイとはちょっと違った形でランナーをアウトにする手段がある。それは「アピールプレイ」である。『ドカベン』のこのエピソードはこのアピールプレイを理解しているかどうかにかかってくるのだ。
アピールプレイを理解するためには、ほかのふたつのプレイと対照させるのが早いだろう。厳密さにはこだわらず、それぞれを簡単に説明する。
★フォースプレイ
ランナーが自分の塁の占有権を失う場合が「フォースプレイ」になる。
たとえば、ノーアウトランナー1塁でバッターがショートゴロを打った場合、バッターランナーは1塁をめがけて走ってくるので、1塁ランナーは1塁の占有権を失い、2塁をめざして強制的に走らなければならない。これはルール的に強制されるプレイなので「フォース(force)プレイ」という。
フォースプレイでランナーをアウトにするには、ランナーにタッチする必要はない。ボールを持った守備側が、ランナーがめざしている塁を先に踏めばアウトが成立する。こういうアウトを「フォースアウト」という。先の例で「6・4・3のダブルプレイ」が成立するのは、これがフォースプレイだからである。
一般に、ランナーにとって自分よりも後の塁に別のランナーがいる場合は「フォースプレイ」になる。たとえば2塁ランナーにとって1塁にもランナーがいれば、また3塁ランナーにとって1塁・2塁にもランナーがいればフォースプレイになるということだ。
★タッチプレイ
自分よりも前の塁にランナーがいない場合はタッチプレイになる。公認野球規則には「タッチプレイ」という用語はないが、野球中継でよく使われている用語なので、フォースプレイと区別する形で「タッチプレイ」としてくくっておく。
たとえばノーアウト2塁でバッターがショートゴロを打った場合、2塁ランナーは3塁をめざす必要はない。1塁にランナーがおらず、2塁に向かって走ってくることはないので、2塁ランナーは自分の塁の占有権を持ったままだからだ。
このランナーをアウトにするには、2塁から離れている状態のときに、ボールを持った守備側がランナーにタッチしなければならない。上の場合はゴロを捕ったショートが飛び出した2塁ランナーにタッチすればアウトになる。
が、この場合、ボールをサードに送り、そのサードが3塁を踏んでもアウトにはならない。ランナーは2塁の占有権を失っていない(つまりフォースプレイではない)ので、2塁に戻ればすむことだからだ。
この例のように「アウトを取るためにはタッチが必要となる」プレイは、慣例として「タッチプレイ」と呼ばれている。
★アピールプレイ
これが問題である。ざっくり説明すると、「攻撃側が規則に反したプレイをしたとき、守備側がこれを審判にアピールし、アウトの承認を求める」というプレイである。
これは、いわゆる「タッチアップ」を例に出せばわかりやすいかと思う。
たとえばノーアウトランナー3塁で、打者がレフトフライを打ち上げたとする。ランナーはレフトの捕球を確認してから3塁をスタートし、レフトからの送球よりも早く本塁を踏めば得点が認められる(枝葉のことだがここはフォースプレイではなくタッチプレイ)。
しかし捕球よりもスタートが早かったとしよう。この場合、ボールを持った守備側が「スタート早すぎ!」と審判にアピールして3塁を踏み、審判もこれを認めればホームインは取り消され、ランナーはアウトになる(アピールアウト)。これが典型的なアピールプレイである。
ここで注意すべき点は、守備側がアピールするまで審判は知らんぷりしていることである。
審判はもちろん3塁ランナーのスタートが早すぎたことを確認している(だってそれが仕事だから)。しかしそれを守備側に教えてやったりはしない。教えるのはエコヒイキなのである。アピールがあって初めて早すぎたことを審判も認め、ようやくアウトを宣告することになる。審判のこの「知らんぷり」がアピールプレイの特徴となっている。
この例でわかるように、アピールプレイは、フォースプレイではないにもかかわらず、ボールを持った守備側がしかるべきベースを踏み、これを審判にアピールすればアウトが成立する。ここに誤解される余地がある。「ベースを踏めばアウトになる」という規定がフォースアウトと似ているので、「これはフォースプレイである」と誤解しやすいのだ。やや先回りして言えば、不知火が誤解しているのはまさにここである。
フォースプレイとアピールプレイには決定的な違いがある。かなりフクザツな話になっているが、ここがポイントなのできちんと書いておこう。
★フォースプレイの場合、攻撃側の第3アウトよりも早く、別の走者がホームインしていたとしても、その得点は認められない。
例) 1アウト1・3塁で打者がショートゴロを打ち、6・4・3のダブルプレイを喰らった。この場合、ダブルプレイ成立よりも早く3塁ランナーがホームインしていたとしても、得点は認められない。
★フォースプレイではない場合、攻撃側の第3アウトよりも早く別の走者がホームインしていれば、その得点は認められる。
例) 2アウト1・3塁で1塁ランナーが飛び出してしまい、1・2塁間に挟まれた。挟殺プレイの間に、しかし3塁ランナーが本塁突入。この場合、挟まれたランナーがアウトになるよりも早くホームインすれば、得点は認められる。
ここで、「④1塁ランナー・山田太郎は帰塁しようとするが、不知火は1塁に送球し、山田は間に合わず。これで3アウト目が成立」というプレイを考えてみよう。
これはフォースプレイなのか? 違う。なぜかというと、山田は1塁の占有権を失っていないからである。むしろその占有権を確保しようとするために1塁に戻ろうとしているのだから、フォースプレイではありえない。
ではタッチプレイなのか? これも違う。ボールを持ったファーストがベースを踏めば山田はアウトになる。タッチが必要なアウトではないのだから、タッチプレイではない。
じゃあやっぱりアピールプレイ? 先に述べたタッチアップの例と同じで「スタートが早すぎた」ということなのだから、アピールプレイと考えるのが妥当に思えてくる。
ところがこれをアピールプレイと考える筋道には大きな欠落があるのだ。というのも、守備側がとくにアピールをしなくとも、ボールを持ったファーストがベースを踏んだ瞬間に審判はアウトを宣告しているのである。アピールプレイでこんなアウト宣告はありえない!
さあ、わけがわかんなくなってきたでしょ? じゃあこれはどういう種類のアウトなんだよ!
実はこれ、公認野球規則の表現が微妙すぎる部分だと思うのです。
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