今ではあまり知られなくなったが、内田魯庵は、欧米文学の紹介や社会小説の先駆者として、
また鋭い社会批判で有名であった。

作家・百田尚樹が、
「沖縄の2新聞を潰せ」とか沖縄史についての嘘つき(でっち上げ)発言をしてまで、
必死になって「安倍晋三すりより」の売文ビジネスをしている。
賞味期限切れ間近を自覚しているから、百田はバーゲンセールに忙しい。

内田魯庵は、作品『破垣』を発売禁止処分にされた経験があるためか、言論・出版の自由について、
次のように大切な発言をしている。

〈およそ、不義敗徳の社会の裏面におこなわるる間は、まだ邦家[国家]の幸いなり。
今の社会のごとく、至るところ公然と、
[不義敗徳が]表面におこなわれて、おこなう者が恬(てん)として恥じず、
視(み)る者は常時[いつものこと]として怪しまざるにおいては、
たとい、文士の筆を扼(やく)するとも、百世のもと、いかにして永く歴史家を欺くべきを得べき。
一文士の一制作を容易になし得べく。……
秦皇[秦の始皇帝]を学んで、書を焚(や)き、文士を坑(あな)にするもまた、なし難きにあらず。
ただ、それ、いかにして、満天下の耳を壟(ろう)し眼を盲(もう)し、
もって、全く視聴するなからしむるを得べき。〉(「『破垣』について」)



[百科辞典の普及、ジャンルとしての「批評」の確立――内田魯庵の仕事]
文芸評論家として出発した魯庵は、33歳の時(1901年)丸善に入社、
1.『ブリタニカ百科辞典』の輸入・販売をおこない、
百科辞典そのものと百科辞典的なものの見方・考え方を普及
2.丸善のPR誌『学鐙』に拠っての文学の社会性、写実性の深化・拡大を求める評論を発表
3.ドストエフスキー『罪と罰』、トルストイ『復活』をはじめ、
アンデルセン、ポー、ディケンズ、ゾラ、デュマらの作品を翻訳
などをした。

魯庵のお陰で、日本の知的水準は、かなり国際標準化した――とさえいえる。
内田魯庵は、1929年6月29日に亡くなった。