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きのうの午後、台湾南部の高雄市からバスで中壢、高鐵桃園站へと乗り継いで、桃園空港(臺灣桃園國際機場)までやってきた。

日本国のパスポートを持つ日本人である私は、特別なビザがなくとも90日間続けて台湾に滞在できる。きのうの9月6日がその90日め、帰国するか一旦別の外国に越境する必要があった。

しかし私はとっくに日本で稼いだ貯金を使い果たし、帰りの航空券も持たず、労働許可証がないため台湾で仕事もできない流浪漢(リウランハン)--日本でいう浮浪者と成り果てていた。そんな私がこの空港に来た目的は、しかるべき機関にオーバーステイを報告し、自首逮捕されることだった。

高雄にも国際空港はあるが規模が小さい。首都・台北市に近い台湾最大の空港までわざわざ交通費を使ってきたのは、ここなら政治的な手続きもスムーズに進むのではないかと考えたからだ。

また、24時間オープンの国際空港であればロビーで平然と仮眠できる。飲食店はあるしトイレにも困らない。

夕陽の沈む頃に、これまで何度も利用したことのある第2ターミナルに着いた私は、2階のセブンイレブンで缶ビールとフライドチキンを買ったり、1階の回転寿司店で3皿だけ寿司をつまんだりして、運命の“91日め”を迎える心の準備をした。というより、飲んで気をまぎらわせた。

不法滞在の犯罪者としていくばくかの誠意を見せるため、7日0時を迎えた瞬間に自首しようという気持ちもあった。ところがいざとなるとそんな勇気はなく、2階のひと気の少ない休憩スペースに4連の椅子を確保して、靴を脱ぎ、ごろりと横になった。熟睡はできず、ちょっぴりきつめの冷房にふるえながら、深夜から8時頃までそこでぐだぐだしていた。台湾不法滞在1日めの朝だ。

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セブンイレブンで缶ビールとピータン粥の朝食。20~30元のお茶のペットボトルを買おうと思っても、横に39元の500ml缶ビールを見てしまったら、どうしてもそっちに手が伸びる。アル中ではないと信じているが、一番好きな飲み物がビールなのだから仕方がない。

ASUSのノートパソコンを持っていて、空港なら無線LANが使い放題、逮捕直前までの暇つぶしになると考えていた。高雄でも香港でも空港のLANはパスワードの設定なく使えた。しかし、ここ桃園はどうも勝手が違うようだ。4階のレストランの一角で無線が使えた記憶はあるが、料理が高いので行きたくない。

試しにセブンイレブンの飲食コーナーでPCを開けたら、なんと「7 WiFi Free」に自動でつながった。街なかのセブンのWiFiは有料だ。国際空港ならではのサービスだろうか。とにかくありがたい。

かといって誰からメールが届くわけでもなく、古い知人のブログやTwitterをのぞき見たり、日本のYahoo!やlivedoorニュースをチェックするくらいで、1、2時間もすれば飽きてしまう。

ネットでの就職活動もとうに諦めた。働く気力さえ今は失っている。

工作証(労働許可証)がなくとも、台湾でアルバイトをして賃金を得ることは可能だった。もちろん非合法だけれど。自分の無気力、無努力、少しかじっただけの台湾國語(北京語)を用いたコミュニケーションの不自由さ、それらが邪魔をして、せっかくの機会を潰してきた。

過去の話はどうでもいい。まずは9月7日の自首についてだ。

昼食としてセブンイレブンで缶ビールとミニソーセージを購入。もうとっくに自首してもよかったが、刻一刻と活気に満ちていく空港で、まだ私は気後れしていた。それと、台湾セブンイレブンで66元以上の買い物をするともらえる特典シールが、朝食の時点で9枚になった。あと1枚あればカップ麺と交換できる。昼食の買い物で10枚めのシールを手に入れ、夕食にカップ麺を食べ、特典を使い切ってから逮捕されようとセコイことを考えた。

夕方、10枚のシールを貼った台紙を30元のカップ麺と交換し、同時に缶ビールも買った。台湾で一般的な調味料「沙茶」をたっぷり溶かしたスープを飲み干しながら、今年4月に癌で亡くなった台湾人の友人を思い出していた。彼は自分の息子が作った鍋料理の具を、この沙茶につけて食べるのが大好きだった。

予想外に大盛りの麺をゆっくり残さず平らげ、ビールを空け、付録のみそ汁を飲み干して、いよいよ「入出國及移民署」の窓口がある3階の出境ロビーへと上った。

出頭にふさわしい場所として空港内ではここしか見当たらなかった。たとえ違っても所管の警察に通報してくれれば、目的は果たせるに違いない。

考えがあまかった。

移民署のとなりは銀行の両替所で、お札を財布にしまう欧米人のグループが立ちふさがっていた。彼らが去ったあと、周りに誰もいないのを見計らい、窓口の女性係官に話しかけた。

「我是日本人,叫●●。我有嚴重的問題」
(私は日本人で●●といいます。重大な問題を抱えています)

「什麼事?」
(何事ですか?)

こうして私は台湾滞在91日めを迎えオーバーステイとなったこと、お金がなく、帰りの航空券もなく、日本に家族がいないことを台湾國語で告げた。彼女は私の言葉を理解した上で、こう答えた。

「沒辦法」
(何も方法がない)

どうやら移民署はこうした問題の管轄外らしい。そのあと彼女は受話器を取り、どこかに電話をかけ、再度こう言った。

「沒辦法。昨天走就好」
(どうしようもない。きのう出て行けばよかったのに)

お金がないからチケットを買えず、出国できないとあらためて伝えた。今までこういうケースはなかったのか?

「今までオーバーステイの例はあっても、みんなお金を持っていた。お金もないのは初めてだ。なので、どうしようもない」

これが私が聞き取れた彼女の見解だ。「初めて」は“第一個”、一人めという単語を使った。ちなみに現時点で不法滞在の罰金が2千元、何日か経つと4千元に上がると言われたが、その期限は聞き取れなかった。聞き直す余裕もなかった。

先週だったか、高雄の交流協会(実質的な日本大使館)に電話したときも、「こちらでは何もできません。日本の家族に連絡するのに電話を貸すことくらいしか」と言われていた。移民署ではきっと、電話すら貸してくれないだろう。

「那...睡覺就好」
(それじゃあ…寝るっきゃねぇじゃん)

なんの落ち度もない係官に捨て台詞を吐いた私は、2階の休憩区に戻り、昨夜の4連椅子よりも暖かそうな革張りのソファに横たわった。

脳裡には、過去の己の恥ずかしい言動、人に対して申し訳ない、でも相手にしてみたらどうということもないであろう些細な所業が次々と去来する。この先どうするかという発想は浮かばない。どうしようもないからここに来て、どうしようもなくここにいる。

「早く死にたい」と20年来の口癖をつぶやきながら、硬いソファの上でからだを丸め、やがて眠りに落ちた。