モバイル社会シンポジウム2008「モバイルが超えるシステムの境界」・対談「フィルタリングを求める社会とゾーニングの未来」 参加

モバイル社会研究所主催のモバイル社会シンポジウム2008「モバイルが超えるシステムの境界」の二日目の対談「フィルタリングを求める社会とゾーニングの未来」に行ってきました。
もはや当たり前のものとして認識されつつある携帯電話での有害サイトのフィルタリングについて、技術としてのフィルタリングの話だけでなく社会の側でそれをどう理解しどのように運用していくべきかという議論が展開されました。


※要注:以下のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

対談:フィルタリングを求める社会とゾーニングの未来

モバイル社会研究所・野網氏による調査の結果

2008年2月に中学生親子・約600組、高校生親子・約600組を対象に調査

  • ケータイ普及率
    • 中学生・・・約6割
    • 高校生・・・9割以上
  • 学校裏サイトの認知度
    • 中学生本人・・・約7割
    • 高校生本人・・・約8割
    • 中学生の親・・・約7割
    • 高校生の親・・・約7割
  • 学校裏サイトの利用経験
    • 中学生本人・・・9%
    • 高校生本人・・・20%
  • 学校裏サイトの利用意向
    • 中学生本人・・・8%
    • 高校生本人・・・8%
  • 学校裏サイトを現在利用
    • 中学生本人・・・3%
    • 高校生本人・・・5%
Web社会の進展による社会の変化
  • 「Web社会」とは
    1. 分散型ネットワークや共有文化に基づく自由な総表現社会
      (ネットベンチャー的、Web2.0的)
    2. 情報技術の普及によって集合行動・コミュニケーションが量的・質的に変化した社会
      (技術決定論的)
    3. 「モノ」から「情報」へ価値がシフトした状況で各人がコミュニケーションを再帰的に(自己)定義しながら渡る社会
      (情報社会論的、後期近代社会論的)
  • 情報技術の普及・進展を伴う社会変動により、政治・市場・文化・教育・家庭などの各領域に求められる役割・期待が従来のものから変容してきた。
  • モバイル教育・インターネット教育をどうするか、情報の流通経路をどうするかという情報アクセス・情報設計の議論だけでなく、情報技術の普及を前提としてどのような社会を構想・設計するかという議論も必要では。
Web社会の問題点と反応
  • 「ウェブの功罪」「ネット社会の”闇”」と呼ばれる現象
    • 誰でもインターネットに繋がるゆえに、集合知の叡智だけでなく、「子ども(未成熟な市民)」の参入による問題発生。
      • 注:「未成熟な市民」の比喩としての「子ども」(後記)
    • 意図しない情報の流通可能性、犯罪遭遇リスクの増加。
    • 分散ネットワーク上で問題発生時の一元的な管理・対応の不可能性。
  • Web社会の問題化の背景
    • 従来は情報へのアクセシビリティが「場所」「時間」「年齢」「身分」その他で区別・管理されていたが、Web社会の到来によって社会の様々な領域における従来の区別が相対的に弱体化。
    • 従来の区別の失効に対する不安やその発露としての対策ニーズの高まり。
    • これまで慣習やWeb以前のメディアを前提としてきた制度を再帰的に設計しなおす必要がある段階。
  • Web社会でのトラブル
    • 炎上:価値観の異なるクラスター間の齟齬に対して道徳感情・正義感に後押しされて過剰反応。
    • 新規参入者・ネットリテラシーが相対的に低い人を揶揄・排除。
    • 学校裏サイトへの懸念:教師・親・一部生徒の目の届かない所での情報流通への不安。
    • 意図しない個人情報の拡散(Winny、プロフ等)。
    • 出会い系サイト:大人を介さず子どもがコミュニケーション上で直接リスクを負う可能性。
    • ネット自殺・ネット心中:従来から存在したが手段が変化。
  • Web社会への対策としてのアジェンダ・セッティング
    • (被害者としての)「子ども」をインターネットから守れ。
    • (加害者としての)「子ども」からインターネットを守れ。
  • 情報設計の内容・導入要件も注意すべきだが、そもそもなぜフィルタリングが導入されるのかという社会設計と連動した形での議論、なぜ情報設計を行うのかという合意形成の必要性。
    • ガイドライン(フィルタリング導入の要件の提案)
    • 現在のWebに対する環境整備のニーズが高まっているものの、特定の理想・価値観による一元的なルール設定・対処は様々なニーズの反映・有効性の観点から困難かつ非現実的。
    • インターネットを完全なる「自由/規制」「チャンス/リスク」という対比で考えるのはアンバランス。
    • 情報の非対象性、情報リテラシーの差、情報ニーズの違いをどのような形で取り入れ、棲み分け、各々の自由を実現していくか(「子ども」/「大人」、ネットリテラシーの高/低など)。
ゾーニングとフィルタリングの現状
  • ゾーニング
    • 適切な集合行動を導くための区別・配置。
    • レコメンデーション機能、アクセスポイントの設定、保護者の許可等の要所でのチェック等。
  • フィルタリング
    • 特定の属性を持つ人々の情報アクセシビリティを管理・制限・選別。
    • 学習・コミュニケーションの機会そのものを消失してしまう可能性。
    • すでに存在する「コンテンツ」への制限は可能だが、生成する「コミュニケーション」への制限は困難。
      • 学校裏サイトでの問題は「コンテンツ」か?「コミュニケーション」上のものか?
      • 極端な例では学校の外でインターネットでコミュニケーションすること自体を問題視。
    • 内容を問わずコミュニケーションそのものを失効(場合によっては不可視化)。
  • フィルタリングの方法
    • ホワイトリスト方式
      • アクセスOKのサイトのリストを作成、そのサイトのみアクセス可能。
      • コストは安いが、mixiやモバゲー等の勝手サイト*1へのアクセスが一律に不可能となってしまう。
    • ブラックリスト方式
      • アクセスNGのサイトのリストを作成、そのサイト以外にアクセス可能。
      • アクセスNGサイトを常にモニタリングしなければならないためコストが高い。
      • リストによる制限がザルになりがち(ドメイン変更等での回避)。
      • リスト追加基準の公平性・透明性の問題。
    • セルフラベル方式
      • サイト(管理者・運営者)による自己申告を利用。
      • 悪質業者のみブラックリストで制限。
    • ソーシャルブックマークによるホワイトリスト方式
  • フィルタリングの原理的な問題
    • ポルノ等のコンテンツ(画像・動画・文章・ページ等の対象)の規制には有効。
    • タグ・識別を付与することで制限する発想。
    • そもそものフィルタリングが導入検討される問題は出会い系サイト・学校裏サイトのいじめ等だが、コンテンツ規制の延長線上では原理的には対処のしようがない。
      • コミュニケーションはコンテンツのようにタグ分類で識別できない。
      • 人と人の相互行為にタグを貼り付けるのか(誰が?リアルタイムで?)。
      • コミュニケーションの場を規制しても、別にコミュニケーションできる場があれば発生可能性は存在。
      • コミュニケーションの結果は基本的に事後的にしかわからない。
  • 現在進みつつあるフィルタリングの方向性
    • プロファイリング型
      • ユーザーの属性によりコミュニケーションできる範囲を事前に制限。
        例)メール送信の年齢範囲制限、検索結果の年齢制限。
      • コミュニケーション制限だけでなく相手の存在自体を認知できない設計も可能。
    • モニタリング型
      • トレース可能なログ・証拠による監視。
        例)アクセスしたサイト履歴を保護者に事後送付。
      • 発信者の規制ではなくユーザー側の自主規制・抑止効果を期待、低コスト。
社会の側でどう考えていくか
  • 調査によると、フィルタリングを親の許可を得て解除したいと考えている子どもが半数、親が許可しないかもしれないが解除を望む子を合わせると4分の3の子どもが解除を望む状態。
    • 保護者はケータイ・インターネットの現状を教えることができない/教えていないため、安易に供給側でシャットアウトする規制・環境を望んでしまっているのでは。
    • フィルタリングの前に親-子、教師-生徒の社会関係の中で子どもたちの感覚・常識・リテラシーを養う教育を先に試みてみるべきでは。
  • 現状のインターネット・ケータイの利用状況は中高生のコミュニケーションを多様化、スキル向上に寄与しているのか?
    • 統計を見る限り学校裏サイトを利用している中高生は予想以上に少ない(中学生3%、高校生5%)。
    • 現状のインターネット・モバイルの利用形態は、実質的にフィルタリングがかかっていないにも関らず、あまりにも身近な範囲に限定されてしまっている。
    • リテラシーの向上のためにはときにリスクに直面したり失敗したりして免疫をつける経験も必要。
  • 学校裏サイトは実際は身近なコミュニティのコミュニケーションを補完する方向で機能している(身近なメンバーの相互確認)。
    • 身近なコミュニティ内で様々な失敗可能・再起可能なコミュニケーションのロールプレイングの場としても捉え直すことができる。
    • 現状の少ない利用状況(中学生3%、高校生5%)の中で発生した問題をフレームアップして規制をかけたりコミュニケーションの可能性自体をなくしてしまっていいか。
  • フィルタリング技術は人が(恣意的に)人にフィルタリングをかけるという方向へ進む可能性がある(デイリーミー現象)。
    • キャス・サンスティーンの議論では、アメリカではインターネットを利用して自分にとって快適な都合のよう情報環境を構築できてしまうがゆえに従来存在した公共性を成立させるための議論が成立しなくなってしまう可能性を危惧。
    • さらにインターネットが導入されて出会わなくてよかった者同士が出会ってしまうことで政治的議論が発生する以前にコミュニケーションから駆逐されてしまう現象も発生しているのでは。
  • 現状起こっている問題に対応するための対策議論だけでなくロングスパンの社会的設計・情報設計の議論が必要。
    • 子どもが置かれている状況を情報技術のみ・法規制のみでどう対応しようかという議論だけでは不十分。
    • 家庭・地域・教育等の領域で社会的に方法論が蓄積されていくことが必要。
    • 現在議論されているフィルタリング規制・法案が今後の情報技術の発展を阻害してしまう可能性も存在。
「大人」と「子ども」の違いとは、Web社会での成熟とは
  • Web社会では個別の場・サイトで期待される能力・リテラシーは異なってくるので、共通の「大人」「子ども」概念を導入することは難しい。
  • Web社会での「大人」の条件・成熟の条件は多元化されており、それぞれの場のニーズ・コミュニケーションの質が異なる。
    • 参加者による相互認証・相互ラベリング・相互監視のようなゾーニング・合意形成が可能か。
  • 現実社会で大人と認識されている存在がネット上では必ずしも「大人」であるとは限らない(安易にフィルタリングを望んでしまっている)ということをいかに自覚できるか。
    • ある種のチュートリアル(最低ランクのリテラシー獲得)を通過してからインターネットへアクセス可能とする構想は実現可能性があるかも。
    • ケータイにフィルタリングを導入したいとパブリックに発言するためには、ある種のスキルやリテラシーがないと有効でないとする仕組がむしろ必要ではw

今回の討論内容についてはモバイル社会研究所の未来心理で発表、情報環境ガイドラインも提示予定とのこと。

※要注:以上のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

追記:2008-03-11

はてなダイアリー・雑種路線でいこうの楠さんによるフィルタリングに関する記事がアップされています。

追記:2008-03-13

参議院議員松浦大悟氏の「マンガ論争勃発のサイト」でのインタビュー記事です。

*1:携帯電話インターネット接続サービスで閲覧可能なウェブサイトの中で、キャリア公式のカテゴリに収録されていないもの。

映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』鑑賞

kwkt2007-11-04

あんまり映画館に行って観るつもりはなかったのですが、僕が(勝手に)信頼している映画レビューサイト「虚馬ダイアリー」のid:toshi20さんが封切初日に鑑賞されて大変誉めておられたので、109シネマズ木場のレイトショーで、山崎貴監督の映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』を観てきました。

設定は前作から数ヵ月後ということで、前作のメイン人物はみな登場。前作よりも時代背景の描写は省略されており(「日本橋」と「羽田空港」と「特急こだま」くらい?)、まさに前作のその後の「物語」が中心でした。前作の物語の後を望む方々のためにまさに望まれるままの物語が展開。前作が前編としたら今回が後編といった趣。
観客は中高年の方々が多く、まあ物語は安心して観れるし、ベタで感動的だし、(想定されている)観客が望むものがすべて詰まっている感じではありました。終了後にところどころで拍手も。
ベタとかいろいろ言っていますが、僕も前作同様とあるクライマックスシーンでまた涙してしまいましたとも。あと鈴木社長(堤真一)が戦友・牛島と語り合うシーンがよかったです。ここは西岸良平テイスト(?)。
とりあえず観客に望まれている(であろう)ものをしっかり提供している2時間以上の力作・大作ということで。

赤木智弘『若者を見殺しにする国』・雨宮処凛『生きさせろ!』購入

若者を見殺しにする国―私を戦争に向かわせるものは何か生きさせろ! 難民化する若者たち
 10/26に発売されたはずの双風舎赤木智弘氏著『若者を見殺しにする国』がamazonからようやく本日届きました。amazon、いくらなんでも配送が遅すぎ。一緒に購入したのが雨宮処凛氏著の『生きさせろ! 難民化する若者たち』。
先日とある「社会における『ギャップ』」がテーマのトークイベントに行ったところ、某先生が「若者の貧困」をとりあげていたのですが、そのとき雨宮処凛氏の名前は出てきたのですが、赤木智弘氏の名前は出てきませんでした。僕は並列で出てくるのかなと感じていましたが、ある方曰く、その先生の口から赤木さんの名前は出ないであろう、と。
両者はともに「若者の貧困」をテーマに論を張られていると感じますが、なぜ雨宮処凛氏の活動は好意的に評価され、赤木智弘氏は無視されてしまうのか。その違いは何なのでしょうか。

荻上チキ『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』購入

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書 683)blog「荻上式(旧・成城トランスカレッジ)」「トラカレ!」を運営されているchikiさんこと荻上チキさんの初の単著『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』が、本日ちくま新書より発売されたとのことで、渋谷ブックファーストにて購入しました。
インターネットが生活のインフラとなりインターネットに関係しない人・モノ・事がほぼ存在しなくなったと言っても過言ではない昨今において、Web上で起こっている現象を考えるために多くの人が見聞きしたことのある具体例を示し、必要な概念・単語を丁寧に解説し、背景や作動原理を分析するという内容です。
そこで起こっている出来事に過剰に防衛的になるのでもなく、逆にインターネットの可能性を楽観的に信じきってしまうのでもなく、眼前のディスプレイで起こっている出来事を僕らが解釈するための枠組を提供してくれているという意味で、まさに「ネット時代の『教養』書」といった趣です。

「そんなこと全部知っているよ!」というネットヘビーユーザーの方々は自らの行動を省みてみるために、ネットが生活上手放せないという方々は自分のネット上でのアクションがどんな可能性(善し悪し含む)を秘めているのかを知るために、そして新書という手軽な形式ですから、インターネットは便利だから使っているけど騒がれてる事件はちょっと怖いしよくわかんないよという方々、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』読んでみてWebで世の中が良くなるって書いてたけどそんなに良いことばっかり起こるってホント?って思われた方々には特にオススメな気がします。

  • トラカレ! ― 知と情報を繋ぐ人文系ニュースサイト ―
    http://torakare.com/

『リンダ リンダ リンダ』鑑賞

kwkt2007-09-10

ご存知の方々にとってはいまさらながらなのですが、山下敦弘監督の2005年のヒット作品『リンダ リンダ リンダ』をDVDで鑑賞しました。


とある高校の文化祭で軽音楽部の女子が急造バンドでブルーハーツの「リンダリンダ」を上演するまでの紆余曲折を描いた青春ドラマ。友情・恋愛・成長と青春ドラマの王道的作品と言え、高校生の輝かしくもはかなげな一瞬が見事に表現されていました。どうしてあの時期の女子ってあんなにカッコいいんでしょうね。


しかしそれだけではなく山下ファンには見逃せないシーンも盛りだくさん。特に男子陣w まともな男子はドラムの女子が想いを寄せる子くらいで、あとはもう登場する男子という男子のほぼすべてが笑えました。観た人にしかわからないネタですが

  • 最初に自販機にやってくる男子
  • 妹が電話している後ろで腕立てしている兄貴
  • コクる友人を窓の外から覗いている友人の男子

のたたずまいが最高w コクる松山ケンイチや山下監督の分身と思しき文化祭撮影メガネ男子もよかったです。どうしてあの時期の男子ってあんなに痛かったり笑える対象となってしまうんでしょうねw

映画『SiCKO』鑑賞

kwkt2007-09-07

渋谷のシネマGAGAにて話題のマイケル・ムーア監督最新作映画『SiCKO』を観てきました。一応形式的に紹介するとすれば、国民皆保険制度のないアメリカの状況と国民皆保険制度が存在し医療費ゼロのカナダ・イギリス・フランス・キューバの状況を比較して際立たせることで「なぜ今アメリカに国民会保険制度が存在しない」を問いかけるドキュメンタリー作品。


9.11の際にボランタリーに民間救助を行ったための呼吸器系の後遺症に悩まされるも保障もなく保険もない人々をひきつれてテロ容疑者が収監されているというグアンタナモ刑務所の前で「収監者と同じレベルの医療を受けさせてくれ」と叫ぶパフォーマンスがあるものの、ドキュメンタリーの作り方の話は別として、扱われているテーマは日本の僕らにも身につまされるものだったように思いました。


アメリカの)保険会社は利益確保のために保険給付を一定レベルに抑えるべく既往症でリスクが高ければ加入をはね、給付の際も過去の病歴・既往症を探し出して契約無効としたり、保険会社に関連する病院でなければ適切な治療が受けれず子が死んでしまった例など、医療が営利目的で運用される場合の副作用が様々な例を挙げて描写されます。アメリカでは国民皆保険は医療の「社会主義化」をもたらし非効率・非人道的・官僚的になってしまい国民の医療の自由が損なわれるとの言説が流通しており国民皆保険制度が成立たない様子も示されます。


その国民皆保険制度を運用しているカナダ・イギリス・フランス・キューバの人々のインタビューとアメリカの人々のインタビューの比較が極めて象徴的。ムーアは医師に問います。「これまで自分のところに来た患者・怪我人に対して保険に加入していないからと追い返したことは?」「入院患者が入院費を払えないからと病院から追い出したことは?」もちろん医師の答えはそんなことありえるのと言った感じの「NO」。アメリカの保険会社に所属していた(良心的な)医師は過去の自分の行為を苦渋に満ちた表情で懺悔します。「保険申請をはねつける医師ほど優秀とされる構造があった、自分がどれだけの人々に申請拒否をしてきたかを考えると耐えられない」と。医療が保障となっているかビジネスとなっているかという違い。一方の医師は患者を治療すればするほど評価され、一方の医師は原価を下げれば下げるだけ評価される構造。劇中でこんな趣旨の言葉がありました。「国民には健康と教育と(物事を変えられるという)自信が与えられるべきだ」と。


ベタですが言ってしまいます。日本は国民皆保険制度は存在するもヨーロッパの国々のような社会の(精神的)余裕はなく、自己負担は当然であり払えないのは自己責任、医療費の負担引き上げはやむなしといった雰囲気が強いと思います。マイケル・ムーア監督が「なぜ他国にできて自国にできないのか」と問いかけます。ヨーロッパでは高等教育費も無料だったり安かったり。日本では医療費や教育費(や住宅費)で個別の家庭・家計はどれだけの犠牲(という言葉が不適切であれば「機会費用」)を払ってきた/いる/いくのだろう。
本当に「豊かな社会」というのであれば上記の意味の「機会」の平等を実現すべく医療と教育はそれが必要な人々には可能な限り低コストで保障されるべきだと強く感じました。ベースがあればこそ皆が安心して「自由に」様々なことにチャレンジできるようになるのではないでしょうか。

マル激の神保さんによると今回のドキュメンタリーの作り方にもちょっと問題があるのではないかとのことでしたが、このようなテーマを扱った作品はアメリカのみならず日本においても十分に意義のあることだと感じました。また神保さん曰く、かつて日本が国民皆保険制度のよいサンプルだったものが現在は状況が悪くなっているのでサンプルとして選ばれなかったのではないかとのことでした。本当に他人事ではないです。

TBSラジオ・竹熊健太郎氏×宮台真司氏「ヱヴァンゲリヲン新劇場版公開記念 深夜の緊急対談」情報

TBSラジオにて9/2 25:40〜28:00で竹熊健太郎氏×宮台真司氏「ヱヴァンゲリヲン新劇場版公開記念 深夜の緊急対談」が放送されるそうです。観た人は要チェック。

追記

TBSラジオ文化系トークラジオLifeのサイトにて番組のmp3ファイルが配信されています。