前回にひきつづき考えている。
“だれが読んでもわかるように書く”のは、理想や目標としてはありえるけど、ほんとうに、ぼくたちは“だれが読んでもわかるように”書きたいんだろうか?
ということについて。
何かを表現するときに「3つの距離」を気にしたりしている。
1つは、自分だ。
自分への距離。
表現するものは、自分に届くだろうか?
本当に自分が表現したいことだろうか?
表現の出発点である自分自身を裏切ってないだろうか?
2つめは、相手だ。
目の前にいる相手。
何かの共同作業なら、スタッフのことだ。
歌を歌っているのなら、その場で聞いている目の前の相手のことだ。
目の前にいる相手は、すぐその場でリアクションを返してくれる。
瞬間瞬間で、表情や言葉で、高速で微細でインタラクティブなやりとりを交わせる。
その相手に届くようにするにはどうすればいいだろうか?
3つめは、世界だ。
目の前にいない相手への距離。
ブログに書いたとしても、読んでリアクションをくれる人はわずかだ。
ほとんどの人は、何のリアクションもしない。
真意が届いたのかどうか、確認のしようがない場合がほとんどだ。
その想定することも難しい多数の人々へ届くのかどうか。
以上の3つの距離を考えると、それぞれに表現のコードが変わってくることがわかる。
何か表現するものを創るときは、たとえ最終的に、3つめの距離を想定するにしても、常に、1つめ、2つめの距離も気にしなければ、創り得ない。
自分も相手もいない表現が、それ以上のところへ届くことは、ほとんどないだろう。
“だれが読んでもわかるように書く”のは、3つめの距離の意識の持ち方だ。
前回の流れで考えるならば、モデル読者をどう想定するか、という問題だ。
不特定多数の読み手を想定する場合、表現の送り手はモデル読者を想定する。すべての人を想定することは実際的には無理だからだ。
そして、表現の受け手も、その想定されたモデル読者のコードで、表現を受け取ろうとする。もちろん、そのコードは、暗黙のルールなので、正確にコードが受け渡されるわけではない。なんとなく、相互のやりとりのなかで、次第に作られてくる。
お笑い芸人がイジメられて、怖い怖いと叫んでいても、それはリアクション芸ということで、実際に陰惨なひどいイジメが行われているわけではない、というコードを受け入れることによって、ようやく、大勢の人は、それを笑うことができる。
コードは、送り手と受け手の共同作業で作られていく。
“だれが読んでもわかる”のなら、モデル読者は想定しなくてもいい。コードに従う必要もない。そういった想定を飛び越えた受け手もふくめて、すべての、だれもかもが、読者なのだから。
だけど、やっぱり、ぼくには、この“だれが読んでもわかる”が、単純に素敵なことだとは思えない。
なにか、昔のSF小説によくあったユートピア世界のように思える。想像するだけなら綺麗で美しい理念のユートピア世界。だけど実現してしまうと、あまりにも無味乾燥な世界で、結局、主人公が壊してしまう、というようなパターンで描かれるユートピア世界だ。
“だれが読んでもわかる”ものを目指した瞬間に、その表現は、相手が唯一無二の存在であるという独自性を消し去ってしまう。
3つめの距離「世界」の向こう側にいるのは、大勢のだれもかれもではなく、たったひとりの誰かであり、その人に向けて、ぼくは書いているんじゃないのか。
いくら書いても、どのように書いても、自分の想定を裏切り、超えていく、そんな読者をこそ、ぼくはモデル読者として想定すべきじゃないのか。
いつまでもいつまでも、送り手と受け手のコードが変化していく。相互作用の中でルールを変化させるために書いていく。ひとつ書くこと、そのこと自体が、書くことの意味であり、新しいルールであるように。
“だれが読んでもわかる”といった受け手の独自性を無視した立ち位置ではなく、いつまでもわかってもらえないズレが生じる場として、コードが無限に変化していく場として、書き続けるべきだ。
だから、いつまでたっても、書きたいように書けやしない。でも、書くのだ。
「ブログ文章術」は、今回で終りです。ありがとうございました。っつても、ぼくは、
まだまだ書くけどね。