2006年11月13日(月) コメント:0 トラックバック:1
最初に断言してしまいます。「いじめられっ子にならない」は無理です。何がきっかけで、何が原因でいじめられるか、もはや基準などないからです。勉強ができてもできなくても、活発でもそうでなくても、容姿が良くても悪くても、金持ちでも貧乏でも、いじめられるときはいじめられます。昨日のいじめっ子が今日のいじめられっ子になる、というケースも、逆のケースもあります。
いじめは、「劣っていること」に起因するのではなく、「周りと異質であること」に起因しています。第三者から見てどんなに感じの良いひとでも、あるグループの中で誰かがそのひとのどこか少しでも異質な部分を見つけて「あいつキモい」と言い始め、周りがそれに同調したら、いじめは始まる、と私は認識しています。いじめは一対多のコミュニケーションです。これが多対多になり得たら、いじめは成立しません。が、「一」に付くことを選び取ることは、「周りと異質になること」を意味するために、「一」に同情的であってもなかなかそれを選び取ることができない、というのがいじめの構造だと思います。
「一対多」と書きましたが、それはけっして相対している(向かい岸に居る)のではなく、「いじめっ子」と「いじめられっ子」はスペクトラム(連続体)をなしていて、その間に直接関与はしないけれども「いじめるっ子」に近い層から、「いじめられっ子」に近い層までがある、というのが私のイメージです。そして、脅迫、誘惑、強要、どんな手法をもちいるかはいろろあれど、真ん中の層を心情的に引っ張り込んで、自分たちの立場を強化しているのが「いじめっ子」です。
「いじめっ子にならない」すなわち、「いじめっ子」から遠い立ち位置を示すひとたちが増えれば、「一対多」の「多」の絶対数は減り、「いじめられっ子」は楽になります。それには、「いじめっ子にならない」「なってはいけない」「いじめっ子(で居ること)は悪だ」「いじめっ子(であること)は恥ずかしいことだ」という価値観を刷り込む(社会全体で確立する)ことがダイジと考えます。何より、「いじめられっ子にならない」では、「いじめられっ子」がよろしくない存在のようなネガティヴな響きをもってしまい、最初に「いじめっ子ありき」で、それを肯定しているかのような印象すらあります(「「『いじめられっ子』にならないためにしてきたこと体験談」大募集」のコメント欄にもそういう指摘がありました)。
ここはやはり、毅然として「いじめっ子に近くならない・ならせない」(ここでは「子」という表現をつかいましたが、大人も含む)ことを考えていきたいし、考えてほしいと思います。というわけで、「いじめっ子に近くならない・ならせない」ために考えたこと・実践したことトラックバックにて大募集(トラックバックの手法が取れないひとのためにコメント欄も開いていますが、できれば、トラックバックにて伺えれば幸いです)。
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