【まとめ】「的を得る」と「的を射る」の誕生と成長の歴史
「的を得る」が誤用であるという主張は、2013年12月に『三省堂国語辞典』が、これまで同辞典が掲載してきた「的を得る」誤用説を撤回したことで、ほぼ俗説と確定しています。
それについてはこちら「【逆転】「的を得る」:「誤用説は俗説」と事実上決着へ」をご参照ください。(2014.5.24)
「正鵠を~」「的を~」の派生の経緯については、誤用説との絡みを含めて別の記事にまとめましたのでそちらをご参照ください。
補足:「的を得る」誤用説 と「的を得る」の元は「正鵠を得る」説 の比較検討
現在では、たいへん精確な調査をされた方によって「正鵠を得る/射る」「的を射る/得る」の登場時期は、私のこの記事よりも遥かに遡ることがわかっています。
「正鵠を得る/射る」(より古い形は「正鵠を得る」です。実際の使用例も古くから「得る」が圧倒しています。)
http://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2013/11/16/223832
「的を射る」(初出は1906年の辞書で、そこには「的を射るは、いわゆる正鵠を「得る」の意味だ」と書かれています)
http://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2013/11/09/223835
「的を得る」(「的を射る」よりも150年以上古い用例を報告されています)
http://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2013/10/14/223832
※ 2013年12月の『三省堂国語辞典』による誤用説撤回で、実質的に私のブログは役割を終えたと考えていましたが、最近この記事のアクセスが増えていることに気づき以上追記致しました。(2016.2.20)
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「的を得る」を巡る問題を調べながら、複数の記事をエントリーしたために、全体像が分かりにくくなってしまいました。そこで長年培った狭く浅い知見と、(昨日、永田町の図書館で調査したばかりの)最新の情報を駆使し、「的を得る」と「的を射る」の誕生から今日までの経緯について、以下、調査結果と仮説をまとめてみます。
(すべての始まりは「正鵠を得る」)100年以上前から戦後まで
「物事の核心をつく」という意味の近代日本語の慣用表現は、「正鵠を得る」に始まります。「青空文庫」で確認できる「正鵠を得る」の使用例は20を数え、「正鵠を得る」が明治期から昭和の敗戦直後まで広く使用されていたことがわかります。また「正鵠を失う」「正鵠にあたる」など、いくつかのバリエーションも存在します。しかし、1946年に「国語改革」で「当用漢字」「現代仮名遣い」が制定されて以降、「正鵠を得る」は急速にその出番を失っていきます。
(「正鵠を得る」から「正鵠を射る」は生まれた)1930年代
「正鵠を射る」は、昭和初期1930年代になって「正鵠を得る」のバリエーションのひとつとして使用されるようになりました。「青空文庫」で「正鵠を射る」は2例しか確認できず、「正鵠」の眷属としては最後期に登場した比較的マイナーな表現だったと思われます。「正鵠を得る」同様、「国語改革」以降、その姿はほぼ見られなくなります。
(そして「正鵠を射る」から「的を射る」が生まれる!)1946年以降
「国語改革」によって時代になじまなくなった「正鵠を射る」は、その後「的を射る」と姿を変えて使用されるようになります。坂口安吾は国語改革以前の歴史的仮名遣いで書かれた作品に「正鵠を射る」、国語改革以降の現代仮名遣いで書かれた作品に「的を射る」を使用しており、これは「的を射る」が「正鵠を射る」から変化した証拠のひとつと考えられます。「青空文庫」では戦後早い時期から「的を射る」の用例を4つ確認することができます。(参照:「坂口安吾に見られる「的を」と「正鵠を」の互換性」)
(「正鵠を得る」からは「的を得る」が生まれた!?)1946年以降
「正鵠を射る」が「的を射る」に変化したように、「正鵠を得る」から「的を得る」が生じたと思われますが、私は今のところ1946年直後の用例を見つけていません。高橋和巳が1970年に小説で使用した例は置き換えが発生した証拠としては新しすぎます。30年前には普通に使用されていた「電算」「主記憶」という用語は、今は「コンピュータ」「メモリ」に置き換えられていますが、これを障害なく置き換えるにはITの常識が必要です。同じように「正鵠」を「的」に置き換えるには漢籍の素養が必要で、置き換えの発生を証明するには、証拠として漢籍の素養が文化人に共有されていた時期の用例が必要です。その意味でこの説は、状況証拠のみで成り立っており、現時点では証拠不十分です。
(「的を射る」が辞書に採録される)1991年※「辞海」初版(1954年)への採録を確認しました。(2011.7.23追記)
これ以降、「的を射る」は辞書に採録され「的を得る」は載っていないという情況になります。これが「的を射る」は正しく「的を得る」は誤用であるとされる最大の原因ですが、「的を射る」の誕生した経緯を見ても「的を得る」が「的を射る」の誤用だというのは著しく妥当性を欠いていると言わざるを得ません。(参照:「「的を射る」は、何時から「広辞苑」に載ったか?」)
(「的を得る」は誤用という説が喧伝される)2000年頃以降
何回目かの日本語ブームで、「的を得る」は「的を射る」の誤用であるという説が脚光を浴び、世間に広く喧伝されました。実際には「的を得る」がかなり広範囲に使用されていた実情もあり、この説に対する議論も起こります。誤用説は「的は得るものではなく射るもの」「的を得るは辞書に載っていない」などを根拠として主張されており、歴史的に全く妥当性がありませんが、「「的を射る」と「当を得る」との混用である」などもっともらしい説明が広く受け入れられ、一部の国語辞典や慣用句辞典には「「的を得る」は本来間違い」と記述される状況になっています。
(「的を得る」が辞書に採録される)2001年
皮肉にも誤用疑惑が世間に広まる中「的を得る」が「日本国語大辞典」に採録されます。ただ「日本国語大辞典」の「的を得る」の語釈は「的確に要点をとらえる。要点をしっかりと押さえる。当を得る。的を射る。」となっており、明確には記されていないものの「的を射る」「当を得る」の誤用だったものが普及した結果認知されるにいたったと解釈できなくもありません。
(「的を得る」支持率が大幅に低下する)2003年頃
平成15年に実施された文化庁のアンケートでは、10代20代の若い世代で「的を得る」支持率が大幅に低下している実態が浮き彫りになりました。この原因は、「的を得る」は誤用という説が世間に広く浸透したことだと思われます。(参照:「「的を得る」は、市民権を得るか?2」)
(「的を得る」の今後)2010年以降
日本国語大辞典に採録されたとはいえ「的を得る」の今後は決して明るくありません。誤用説は全国に広く浸透しており、商業用のメディアでも「的を得る」は校正の対象となっていますし、ATOKの使用者なら「的を得る」を使用しようとすると「誤用である」とサジェストを受ける状態です。誤用論に違和感を感じている人でも、使用することでいらぬ指摘や誤解を招くことを嫌って使用を避ける傾向があり、果たして「的を得る」が市民権を得ることができるかは予断を許さない状況です。
(上記の諸説の問題点)
以上、既得の知見と今回の調査に基づいた「的を得る」と「的を射る」の誕生から現在までの経緯です。私は内容にかなり自信がありますが、いくつか証拠不十分な点もあり完璧ではありません。主要な問題点を以下に記します。
・ 「的を得る」に1946年直後の用例が見つかっていない。
(これが私の説の最大の弱点です。国語改革を契機に「正鵠を得る」から「的を得る」が生じたなら、1946年から、あまり時をおかずに使用例があるはずです。)
・ 「的を射る」に1946年以前の用例が見つかると大きく説が揺らぐ。
(「的を得る」とは逆に、1946年より以前に「的を射る」の用例が見つかると、国語改革を契機に「的を射る」が発生したという説の妥当性が大きく揺らぎます)
・ 「的を射る」が1946年以前に辞書に載っていると説が崩れる。
(同じ理由で、1946年以前に「的を射る」が辞書に採録されていると説が崩壊します)
私は「的を得る」という表現が誤用だという説に予てから違和感があり、今回自分の疑問を解決するために色々と調べてみました。その結果、「的を得る」が誤用だとする説に妥当性が無いことに確信が得られました。また正しいとされる「的を射る」が意外に新しい表現であることがわかり、更にその誕生の経緯が「的を得る」と全く同じではないかと思われる「証拠」にも行き当たりました。
概要はつかめたと思うもののまだまだ証拠は不十分なので、今後も「的を得る」については成り行きを見守りたいと思いますが、このまとめを以って、「的を得る」に関する調査をいったん終了したいと思います。もし私の説を補強する、または崩す証拠をお持ちでしたらコメントにお知らせくださると幸甚です。
(2011.7.23修正)
その後の調査で「的を射る」が1954年の「辞海」初版に採録されていることを確認しました。(本文に追記)
また、「的を得る誤用説」は「三省堂国語辞典」第3版(1982年)が初出と思われます。
それ以外にも多くの知見が得られているので、いずれこの記事の誤りを修正したまとめを書くつもりですが、「的を得る誤用説」が誤りであるという点と、全体の流れについては大きな変更の必要は感じていません。
(2011.1.23修正)
※「日本語 誤用・慣用小辞典」(国広哲弥著 講談社現代新書1991年)に、「三省堂国語辞典」の「的を射る」の項に「{あやまって}的を得る」と記載されている、とあるのを見つけました。
またネット上の情報で1972年「新明解国語辞典」に「的を射る」が採録されているという情報に接しました。これは後日確認します。
いずれにしても辞書への初出が「広辞苑 第4版」ではない可能性が高いため、暫定的に(「的を射る」が辞書に採録される)の1991年を消し、それぞれの段落の最初にあった、以下の二文を削除しました。
「「的を射る」の登場から40年以上が経過した1991年、「広辞苑 第4版」に「的を射る」が採録されます。」 (「的を射る」が辞書に採録される)
「「的を射る」に遅れること10年。」 (「的を得る」が辞書に採録される)
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コメント
はじめまして。「的を得る」関連で、いくつか調べてみましたので、ご紹介したいと思います。いささか長文となってしまいましたが、ご一読いただければ幸いです。
●的を射る
「神戸大学附属図書館 新聞記事文庫」
(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html)より
1946年以前の「的を射る」の用例を見つけました。
・「この評言は正に的を射ておるの観がある」
(大阪毎日新聞 1928.7.10-8.4)
・「それほどに鋭敏な彼の直観力さえ実際に的を射たのは十中六分で」
(報知新聞 1930.10.12-10.17)
・「まさに的を射た市の輸出補償」
(神戸新聞 1936.4.3)
注:実際の新聞紙面とは、若干表記の違いあり。
※「核心をつく」の意味としては、この3例のみ。一方で「正鵠を得る」は、300例以上ありました。
●的を失する
「国会会議録検索システム」
(http://kokkai.ndl.go.jp/)より
「的を失する」の用例を見つけました。
・「その的を失しておるものである」
(吉村正 1956.4.25)
・「いささか的を失するのではないか」
(泉美之松 1959.3.27)
・「答弁の的を失しておるかもしれませんけれども」
(鎌田要人 1965.12.24)
・「あるいは的を失しておりましたら」
(天日光一 1971.3.2)
※「正鵠を失す」から生まれた表現でしょうか。用例は上記の4つのみでした。
●的を得る
○「国会会議録検索システム」より
1950年代の「的を得る」の用例を見つけました。
・「的を得た答弁をしてくれてないのです」
(岡本愛祐 1951.11.5)
・「これでは的を得たところの円満な遂行というものは」
(内村清次 1953.3.5)
・「堤委員の御指摘はまことに的を得ないものである」
(堤ツルヨ 1953.6.24)
○石山茂利夫『今様こくご辞書』p.95より
『三省堂国語辞典』初代編集主幹の見坊豪紀先生が採集された、一番古い「的を得る」の用例は、1966年頃のものとのことです。
※口頭語としては、戦後数年ですでに使われていたようです。一方で、文章語の古い用例が見つかったという話は聞いたことがありません。「的を得る」が誤用と見なされる原因は、ここにあるのではないでしょうか。
投稿: 久御山 | 2012年3月27日 (火) 22時38分
久御山 様
大変参考になりました。ありがとうございました。
その後、1940年代前半に「的を射る」の用例があるのは見つけていたのですが、素人の用例採集はそこで行き詰っていました。
1908年に「鵠的を得る」(的を捉える、程の意味)などという用例もあり、「正鵠を得る」→「的を得る」はほぼ間違いないと見立てがついていましたが、一方で『三省堂国語辞典』第三版が「あやまって的を得る」とし、その後1997年から2010年にかけて4冊の国語辞典が誤用説に追随した理由が分かりかねていました。
お陰様で、ほぼ全容がつかめた気がします。近々もう少し追加で調べを進め、改訂記事を書かせていただこうと考えております。
貴重なご教示に重ねて感謝申し上げます。
取り急ぎ、御礼まで。
投稿: BIFF | 2012年3月28日 (水) 05時24分
BIFF 様
久御山です。コメントをお読みくださいまして、ありがとうございました。その後、新たに情報を集めましたので、ご報告させてください(以前にも増しての長文をお許しください)。
●1970年以前の「的を得る」の用例
(URL先のPDFのリンクをクリックしてください)
・1951年 鎌倉昇〈ケインズの批評が的を得ていないことは〉(402頁15行目)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/132225
・1957年 伊東広太〈いっそう的をえたものとはいえぬのである。〉(39頁 下段8行目)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/9713
・1957年 鍋島泰夫〈的を得なかった点も多々あると思うが,〉(230頁 左段4行目)
http://www.metsoc.jp/tenki/index_tenki.php ※1957年(vol.4)→No.7→鍋島氏のPDFを選択
・1962年 岡武史〈的を得た説明がある。〉(549頁 右段5行目)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002066972
・1965年 星野良樹
〈その貯蓄行動の可能性を強めると言う事の方が的を得ていよう。〉(351頁2行目)
〈ある程度的を得ているといえるが、〉(353頁5行目)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/27695
・1965年 中山和久〈辻教授の指摘は的をえているということができる。〉(135頁 最終行)
http://www.waseda.jp/hiken/jp/public/review/index01_10.html (第2巻 第1号「労働法における近代化」)
●戦前の「的を失す(失う)」の用例
・1923年 山口正太郎〈前掲論者の反對論は的を失してゐると云はねばならぬ。〉
〔「掲」「者」は原文では旧字体〕(91頁9行目)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/128044
・1924年 福田敬太郎〈勝田氏の營利經濟對厚生經濟の論旨をもつて的を失つたものであると考へる。〉(383頁6行目)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_00053634
・1936年 岩井茂〈的を失したる如き言もなしとはしないであらう。〉(93頁7行目)
http://shark.lib.kagawa-u.ac.jp/kuir/metadata/4002
●『三省堂国語辞典』第3版より以前に書かれた、「的を得る」誤用説
・1969年8月22日付『読売新聞』朝刊 9面「言葉は美しい」(筆者不明)より引用
〈「的を射た」と「当を得た」の「的」と「当」(めざすもの)とが交錯して、「的を得た」や「当を射た」を生じて、結構、使われている。〉
※これがもし事実ならば、「的/当 交錯説」の裏づけになり得ますが、私は1960年代の「当を射る」の用例をまだ見つけていません。
・1977年7月11日付『毎日新聞』朝刊「月曜手帳」(竹井謙)
https://dbms.ninjal.ac.jp/sinbun/data/index.php?mode=detail&-recid=469625
※本文は未見ですが、「的を得る」について書かれた記事だと思われます。
投稿: 久御山 | 2012年7月 8日 (日) 22時38分
久御山 様
レスポンスが遅く、申し訳ありません。仕事に追われて、調べ物や勉強がしにくい日々をおくっております。
今回もまた、本当によく調べられていて大変勉強になりました。ありがとうございました。
特に1950年代の「的を得る」の用例採集、また1969年「読売新聞」掲載の誤用説(筆者不明が残念ですが)は、貴重な資料だと思います。
お陰様で、私の仮説に訂正すべき点が多々見つかりましたので、なるべく早く修正記事を上げたいと思います。(8月頃になってしまいそうですが)
「的を得る」誤用説が誤りではないかということについては、私個人の力では真偽を確定することは難しく、修正記事ができたところで誤用説を掲載している辞書の編集部に書簡を送ってみようかと思っています。
投稿: BIFF | 2012年7月12日 (木) 13時06分
的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望
正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)。用例もある
正鵠は的の中心の黒星のこと→それは西周、大槻文彦、服部宇之吉たちが勝手に作った意味が日本と中国に広まっただけ。正鵠の本来の意味は的の中心の黒星ではなく単純に的のこと。正も鵠も的の大きさで言い分けるだけ。「皆侯之中、射之的也」と反論したら笑うよ?
得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。得より取のほうがよっぽどマシかもね
射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→違う。射るには当たる意味がある。これは日本古来の意味。用例もある
昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ
中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。正鵠を得るは諸悪の根源である
正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた(どれも戦前から使用)。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=中正鵠≠正鵠を得る=得正鵠=的を得る
的を得るは誤用じゃない→誤用は言葉の意味を誤って使うことで、言葉そのものを誤ったときには使用できない。的を得るは誤用ですらない
的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
根拠を出せ→民明書房にも劣る駿河台予備校世界史講師中谷臣のトンデモソースを信じる君が大好きなネット検索で調べてみよう。それでも納得できなければ、辞書や古典とかいろいろ読んでみよう。もちろん角川や三省堂以外もね
無根拠で得るを否定する無責任なヤツは得る正当論に反論できなかった。論破したから正論だ→なにが正論かは時と場合によって変わるし、論破によって正論か決まるわけでもない。文化庁などの総意を無視して詭弁をふりかざす無責任なことは止めてください
間違った言葉を使う人は勉学的バカだが、そういう人をバカにする人は人間的バカである。そして的を得る・得正鵠・正鵠を得る信者は両方の意味でバカである
お前、逃げるのか?お前は正しいんだろ?だからこんなことになったんだぞ!なのに逃げるのか!全部お前のせいでこうなったんだぞ!逃げるなんて許さないぞ!
投稿: 野原しんのすけ | 2014年4月20日 (日) 19時53分
野原しんのすけ さん
ブログの記事をきちんと読んで、ご自身で資料を検証されてからコメントを頂ければ幸甚です。
貴方と同じIPで連続投稿されたほぼ同文のコメント9個は非表示にさせて頂きました。
私は中国語にない表現を誤りとする貴方に与しません。「「正鵠を得る」は誤りだが正しいとせざるを得なかった」という貴方の独自解釈は、面白い考えだとは思いますが、私の目からは正当性が認められません。
古来長きにわたり中国語と日本語は傍層関係にあって、文化的に優位であった大陸から多くの「語」が日本に輸入されました。しかし文化も語法も違う日本では輸入された「語」が元々の中国でとは違う用法で用いられ、使用されているうちに「語」の意味そのものも変遷していきます。これは全く「誤り」ではないと思います。
「吾人の一生を指導感化して、一層確実に善の目的に適中するを得せしむること、恰も弓手の狙ひをとるべき鵠的を得たるが如くならしむる所以ならずんばあらざるなり」これは明治41年元田作之進の翻訳文の一節ですが、「得る」の語は現在よりもかなり広いニュアンスに用いられているのがみてとれます。この用法は中国語にはありませんが、私は誤りだとは思いません。
また記事でも表明したとおり、私は「的を射る」という慣用表現の成立にはその前提として「正鵠を得る」があると考えています。「正鵠を得る」を元来誤りと否定すれば「的を射る」自体が慣用表現として成立しないと考えます。
投稿: BIFF | 2014年4月21日 (月) 07時01分
また出た…。「言葉は生き物」だのなんだの。この意見は聞き飽きたよ…。
あなたは「中正鵠」という正しい語句を完全無視し、
『例えば、慣用句ではない「的を射る」(的に向かって矢を放つという意味)の用例は』などと「射る」の「当たる」の意味を完全無視し、
「正鵠は的の中心の黒星」などと意味不明な発言をし、
今度は『ブログの記事をきちんと読んで、ご自身で資料を検証されてからコメントを頂ければ幸甚です。』『私の目からは正当性が認められません。』『「正鵠を得る」を元来誤りと否定すれば「的を射る」自体が慣用表現として成立しないと考えます。』と言ってのける。
BIFFさん、結局君も的を得る・得正鵠・正鵠を得るを信じる哀れな人々と何一つ変わらないんだね…。
「正鵠を得る」がなければ「正鵠に中つ。正鵠に中る」という「要点を上手く捉える意味の語句」が日本で真の語句として使われるはずだった。
そして「中正鵠」の敵討ちのために「正鵠を射る」が生まれた。けれども敵を倒すことができなかった。
歴史の闇に葬り去られた「中正鵠」の想い、日本で正しい言葉として使われる夢が叶わなかった「正鵠に中つ。正鵠に中る」から託された夢、使命を果たせなかった「正鵠を射る」から受け継いだ意志。
「的を射る」は戦う。
「正鵠を得る」「得正鵠」「的を得る」が存在しない、「中正鵠」「正鵠に中つ」「正鵠に中る」「正鵠を射る」「的を射る」のみが存在する、真実の世界を取り戻すために。
コピペでもなんでもいい。
今日まで正鵠を得る・得正鵠・的を得ると戦ってきたみんなを、希望を信じた和語と漢語を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。
それを邪魔する正当論なんて、壊してみせる…変えてみせる…。…これが私の祈り…私の願い…。
さぁ、叶えてよ?インキュベーター!!
投稿: 鹿目まどか | 2014年4月21日 (月) 17時34分
鹿目まどか さん
やはり記事を読まれてないでしょう?
「「正鵠」の意味は、単なる「的の中心」ではないという話」(この記事にもコメントは頂いていましたが。)
http://biff1902.way-nifty.com/biff/2011/04/post-0e40.html
まじめな議論をされる意図がないことは今回のコメントで理解できましたので、今後は今回と同様のコメントは非表示とさせて頂き、私からの返信も遠慮いたします。用例等正当な根拠を伴わない仮想の持論は、ご自身のブログで展開されるべきだと思います。
(追記)
「中国に「中正鵠」の用例がある」という趣旨の反論を頂きましたが、日本語の慣用表現について考察する当記事と関わりの無い内容ですので、非表示にいたしました。
また、貴方のテンプレートにもあるように「正鵠を得る」の元になった表現は「中正鵠」ではなく、礼記の「不失正鵠」です。
「不失正鵠」は、江戸末期乃至明治初期に「正鵠を失わず」とそのまま日本語読みで取り入れられ、その「不失」を「得」に替えて成立した表現が「正鵠を得る」です。
「得失」は中国語でも日本語でも対義関係にありますから、中国語の「中正鵠」を根拠に、日本語でのこの言い替えを間違いと主張するのには無理があると思います。
投稿: BIFF | 2014年4月21日 (月) 18時20分