2009年05月02日 00:00
昭和27~28年の阪急百貨店
先日、きーぼーさんから昔の写真を提供していただきました。そこには昭和28年頃の阪急百貨店が写っています。TOSSYさんからも以前その頃の屋上の写真をお借りしていたので、今回はその当時の写真のご紹介です。
これは昭和28年6月に撮影。きーぼーさんのお祖母さんです。後ろの阪急百貨店、右端が黒っぽいですね。ここが第一期館と第三期館との境目です。「お母さん、きれいに写ってますね♪」
ちなみに現在の写真です。第一期館の外壁は赤茶色だったのですが、現在建設中の外壁もそのイメージの色です。
「阪急百貨店50年史」より
昔のカラー写真を探していたら出てきました。珍しい写真ですよね。外壁色が赤茶色と黄色に分かれていて今と同じです。左の第5期館が完成しているので昭和32年頃の写真のようです。昭和42年に創立20周年の記念事業の一環で外壁工事が行われ、同じ色(黄色)に統一されました。
こちらは少しアングル違いです。ところで後ろに写っているタイルの建物は何なんでしょう?気になって調べていたらゴリモンさんのページにたどり着いちゃった。
『昭和27年の梅田阪急ビル』 ゴリモンな日々
ということで、その写真もきーぼーさんに提供していただきました^^
この写真はゴリモンさんの記事でかなり細部までつっこんでおられるので、あえて細かくは触れないでおきます。日本初の阪急も出資している新日本放送とか、外国人専用・阪急シュリロ売り場の一般開放とか、ホワイトストアとか…がこの写真一枚で語れます。貴重な写真です。
で、どこだどこだ?
ここかな?
この建物の裏から撮影しているのかもしれない。
余談ですが、この建物はのちに有料トイレになります。
「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
これ!当時大阪駅構内にも有料トイレがありました。
おもっきり脱線ですね…^^;
脱線ついでに、ここにもトイレがあります。昔はトイレが多かったんですかね。
さて、お祖母さんの後ろに写っていた建物はどうもこの建物のようです。
これがまた謎。
看板には「十三○行のりば」と読めなくもない…。でもただの看板のようです。
もしかしたらこれって地下街への空気の取り入れ口なんだろうか?
この写真はきーぼーさんのお祖父さんのご友人です。
なんとここは大阪駅の屋上なんだそうです。位置的にかなり高い場所のようですね。
向こうに阪急百貨店の屋上が写っています。
「昭和の大阪」より
おそらくこの高層階の屋上から撮影しているのではないかと…
(追記)
2枚上の大阪駅屋上からの写真は昭和23~24年頃の写真のようです(私のうっかりミス^^;)。この写真は「阪急百貨店50年史」の写真で戦後すぐの写真です。○で囲んだシルエットが昭和26年以降の写真には存在していません。2枚上の写真には後ろにこれが写っていますね。
(追記2)
「75年のあゆみ」の写真です。屋上に新日本放送のスタジオ新築工事が竣工したのは昭和25年12月10日だそうです。
この写真はTOSSYさんからお借りした阪急百貨店の屋上です。
ちょうど昭和27~28年と聞いてます。
本格的な機関車があったのですね。びっくり。
昭和27~28年といえば、戦後生まれの団塊の世代の方々が小学校に入るころでしょうか。先日叔母(昭和21年生)と話をしていたら、「私らが中学校の頃は21クラスあったんよ。それもひとクラス50人以上…教室はきゅうきゅうやった(笑) でも後の子らはもっと多かった」と言っていたのを思い出しました。梅田の街には子供があまり写っていないけど、子供がめちゃくちゃ多かった時代なのですね。
「おおさか100年」より
最後にこんな写真を。ここは体育館です。
当時は子供が多かったので、教室が足りず、教室以外の場所もつい立てをして、授業をしていました。後ろの子は隣のクラスの先生の声の方がよく聞こえたんじゃないかな^^
この時代って、貧しいんだけど、子供がたくさんいて、
もしかしてとてもいい時代だったのかもしれないな。
ちなみに現在の塚本小学校では1クラス約30人で1学年3クラスです。
僕らの頃の半分以下…
ちょっと考えさせられます。
(関連記事)
きーぼーさんのお祖母さんの他の写真がこちらで綺麗にまとめられています。
『Fさんの戦前・戦中 』 日本古写真倶楽部
『Fさんの戦後 』 日本古写真倶楽部
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(追記)
「阪急百貨店二十五年史」より
昭和25年に開設されたホワイトストア。
「阪急百貨店二十五年史」より
昭和26年頃には催し物売り場をやめて、食堂と喫茶に衣がえしています。
「阪急百貨店二十五年史」より
食堂となったホワイトストアの店内。着物姿の女性が数名見えますね。
「阪急百貨店二十五年史」より
昭和31年、本店ホワイトストアの解体にともない、8階東館に「喫茶ホワイト」が開店しています。その後、昭和32年に8階西館に喫茶、食堂の「ホワイトストア」が開業。それにともない、「喫茶ホワイト」は「ランチパーラー」と改称しました。
この写真は西館の「ホワイトストア」です。夕方から夜8時までは銘酒スタンドとして営業していたようです。
「阪急百貨店二十五年史」より
この写真は昭和34年、2階に開業した食堂「風車」です。
同時期の昭和35年、西別館1階に「風車コーヒーショップ」が、
東側1階階段昇り口に「風車アイスクリームパーラー」が開業しています。
ちなみに昭和34年当時の食堂献立の値段です。
大食堂:ランチ100円、ビーフカツ50円、ライスカレー70円、ホビー70円。
ランチパーラー:コーヒー50円、ホットケーキ60円、フルーツジュース70円。
グリル:カレーライス100円、ハンバーグステーキ100円、えびフライ150円、ビーフカツ100円。
甘味横丁:鰻丼150円、焼めし100円、富士カクテル(氷)50円。
ライスカレーとカレーライスがあるのが面白いですね。
(追記)
「おおさか100年」より
村山実さん。この写真は昭和46年頃だそうです。この年は監督もされています。
先日、きーぼーさんから昔の写真を提供していただきました。そこには昭和28年頃の阪急百貨店が写っています。TOSSYさんからも以前その頃の屋上の写真をお借りしていたので、今回はその当時の写真のご紹介です。
これは昭和28年6月に撮影。きーぼーさんのお祖母さんです。後ろの阪急百貨店、右端が黒っぽいですね。ここが第一期館と第三期館との境目です。「お母さん、きれいに写ってますね♪」
ちなみに現在の写真です。第一期館の外壁は赤茶色だったのですが、現在建設中の外壁もそのイメージの色です。
「阪急百貨店50年史」より
昔のカラー写真を探していたら出てきました。珍しい写真ですよね。外壁色が赤茶色と黄色に分かれていて今と同じです。左の第5期館が完成しているので昭和32年頃の写真のようです。昭和42年に創立20周年の記念事業の一環で外壁工事が行われ、同じ色(黄色)に統一されました。
こちらは少しアングル違いです。ところで後ろに写っているタイルの建物は何なんでしょう?気になって調べていたらゴリモンさんのページにたどり着いちゃった。
『昭和27年の梅田阪急ビル』 ゴリモンな日々
ということで、その写真もきーぼーさんに提供していただきました^^
この写真はゴリモンさんの記事でかなり細部までつっこんでおられるので、あえて細かくは触れないでおきます。日本初の阪急も出資している新日本放送とか、外国人専用・阪急シュリロ売り場の一般開放とか、ホワイトストアとか…がこの写真一枚で語れます。貴重な写真です。
で、どこだどこだ?
ここかな?
この建物の裏から撮影しているのかもしれない。
余談ですが、この建物はのちに有料トイレになります。
「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
これ!当時大阪駅構内にも有料トイレがありました。
おもっきり脱線ですね…^^;
脱線ついでに、ここにもトイレがあります。昔はトイレが多かったんですかね。
さて、お祖母さんの後ろに写っていた建物はどうもこの建物のようです。
これがまた謎。
看板には「十三○行のりば」と読めなくもない…。でもただの看板のようです。
もしかしたらこれって地下街への空気の取り入れ口なんだろうか?
この写真はきーぼーさんのお祖父さんのご友人です。
なんとここは大阪駅の屋上なんだそうです。位置的にかなり高い場所のようですね。
向こうに阪急百貨店の屋上が写っています。
「昭和の大阪」より
おそらくこの高層階の屋上から撮影しているのではないかと…
(追記)
2枚上の大阪駅屋上からの写真は昭和23~24年頃の写真のようです(私のうっかりミス^^;)。この写真は「阪急百貨店50年史」の写真で戦後すぐの写真です。○で囲んだシルエットが昭和26年以降の写真には存在していません。2枚上の写真には後ろにこれが写っていますね。
(追記2)
「75年のあゆみ」の写真です。屋上に新日本放送のスタジオ新築工事が竣工したのは昭和25年12月10日だそうです。
この写真はTOSSYさんからお借りした阪急百貨店の屋上です。
ちょうど昭和27~28年と聞いてます。
本格的な機関車があったのですね。びっくり。
昭和27~28年といえば、戦後生まれの団塊の世代の方々が小学校に入るころでしょうか。先日叔母(昭和21年生)と話をしていたら、「私らが中学校の頃は21クラスあったんよ。それもひとクラス50人以上…教室はきゅうきゅうやった(笑) でも後の子らはもっと多かった」と言っていたのを思い出しました。梅田の街には子供があまり写っていないけど、子供がめちゃくちゃ多かった時代なのですね。
「おおさか100年」より
最後にこんな写真を。ここは体育館です。
当時は子供が多かったので、教室が足りず、教室以外の場所もつい立てをして、授業をしていました。後ろの子は隣のクラスの先生の声の方がよく聞こえたんじゃないかな^^
この時代って、貧しいんだけど、子供がたくさんいて、
もしかしてとてもいい時代だったのかもしれないな。
ちなみに現在の塚本小学校では1クラス約30人で1学年3クラスです。
僕らの頃の半分以下…
ちょっと考えさせられます。
(関連記事)
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(追記)
「阪急百貨店二十五年史」より
昭和25年に開設されたホワイトストア。
「阪急百貨店二十五年史」より
昭和26年頃には催し物売り場をやめて、食堂と喫茶に衣がえしています。
「阪急百貨店二十五年史」より
食堂となったホワイトストアの店内。着物姿の女性が数名見えますね。
「阪急百貨店二十五年史」より
昭和31年、本店ホワイトストアの解体にともない、8階東館に「喫茶ホワイト」が開店しています。その後、昭和32年に8階西館に喫茶、食堂の「ホワイトストア」が開業。それにともない、「喫茶ホワイト」は「ランチパーラー」と改称しました。
この写真は西館の「ホワイトストア」です。夕方から夜8時までは銘酒スタンドとして営業していたようです。
「阪急百貨店二十五年史」より
この写真は昭和34年、2階に開業した食堂「風車」です。
同時期の昭和35年、西別館1階に「風車コーヒーショップ」が、
東側1階階段昇り口に「風車アイスクリームパーラー」が開業しています。
ちなみに昭和34年当時の食堂献立の値段です。
大食堂:ランチ100円、ビーフカツ50円、ライスカレー70円、ホビー70円。
ランチパーラー:コーヒー50円、ホットケーキ60円、フルーツジュース70円。
グリル:カレーライス100円、ハンバーグステーキ100円、えびフライ150円、ビーフカツ100円。
甘味横丁:鰻丼150円、焼めし100円、富士カクテル(氷)50円。
ライスカレーとカレーライスがあるのが面白いですね。
(追記)
「おおさか100年」より
村山実さん。この写真は昭和46年頃だそうです。この年は監督もされています。
コメント
ばんぼー | URL | t/Klp7tQ
赤茶色
こんにちは、GW2日目です^^
阪急の赤茶色は「なんで今までと同じ色にしないのだろう?」と思っていたのですが、理由が判りました。
当時を知っている人には懐かしい色になるのですね。
昭和27年の写真。自動車がなんともかわいらしいデザインです。背が高くて後ろも広そうですので、今の自動車のデザインにも取り入れられそうです。
話変わって、雑誌大阪人の最新号は十三特集でした。
久しぶりに十三の町ををぶらぶらしたくなりました。
http://osakajin.osakacity.or.jp/newissue/index.html
( 2009年05月03日 09:30 [Edit] )
ゴリモン | URL | CFnWuolQ
おぉ、さすが新之介さん。検証がとても解りやすいです!
きーぼーさんの写真もTOSSYさんの屋上写真も価値がありますね。リアルタイムを知る人は当時を振り返れるし、知らない人間には貴重な資料です。
しかし‥‥“調べていたらゴリモンさんのページにたどり着いちゃった”には笑っちゃいましたよ^^;
( 2009年05月04日 01:15 [Edit] )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
昭和27~28年の阪急百貨店といえば
十三の新北野中学3年生のころ前後何年かが、たぶん最も足繁く阪急百貨店へ行った時期だと思います。
と、いうか中高生があまり他に行くところが無かったというのが正しいかも知れませんね。
その頃屋上で写した写真の背景に、TOSSYさん提供の写真の鉄柵とまぎれもなく同じ柵がはっきりと写っていますね。写したカメラはカール・ツァイス、テッサーF2.8-80mm付きのドイツ製SUPER 6(six)で、撮影者は阪急電車のブレーキシューはじめ新幹線のパーツや列車の行く先案内板などのメーカー・Uブレーキのぼんぼん、U君で、ぼくの手にも、おなじテッサーF2.8付きの、こちらは無銘の6X6蛇腹式距離計連動カメラが写っていますが、こちらの焦点距離は75mmでした。
そんなことで、阪急百貨店のシュリロ貿易のショーウインドウに怪しく?輝くハッセルブラッドやリンホフ・テヒニカを見に、シュリロのお姉さんと顔なじみになるくらいよく通ったものです。
勿論とても手の届く金額ではなかったのですが、憧れであり夢のカメラでした・・・・・
ちょっとショボイ当時の自作カメラのスケッチです。
Picasa Web Album 自作カメラのスケッチ
http://picasaweb.google.com/PINBOKE/CROW31955
(一番最後はアニメーションです)
( 2009年05月04日 13:19 [Edit] )
きーぼー | URL | kNOGdEho
トイレだったのですか
ありがとうございます、祖母の右に写っている建物は何だろうと思っていたのですが、謎が解けました。
良く見つけましたね~。「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」では有料トイレの記事としてこの写真が載っていたのですか?
4月21日発売のRail Magazine6月号掲載の昭和26年の写真では、この建物の近くの立て看板が「十三~~バスのりば」と読めます。
http://www.rail-magazine.jp/rm/new/index.html特別企画「関西電車巡り~58年前の記憶~(下)」内。
写真についての祖母のコメントです。「バスガイドさんみたい、けっこうかっこええな(笑)」
「(掲載)べつにええよ知らん人ばっかし、おばあちゃんの事なんてだーれも知りはらへん。
(新之介さんに)モデルさんにして下さい言いはってもええわ(=顔出しOK)。」との事。
2枚をつなげてパノラマ写真にしてみました。この日の祖母の日記には「阪急に行った。途中私は中ヒールのこんびでではじめて寫眞を撮ってもらった。」とあります。
http://kiiboo.hp.infoseek.co.jp/hunyara/s28hankyu.jpg
当時祖母が住んでいたのは甲子園口でしたが、当時は阪急百貨店ぐらいしか遊ぶ所が無かったそうです。
その頃の祖母の日記にはこの写真が撮られた昭和28年6月16日をはじめ、
「日曜で主人が居ないので、お隣のSさんと映画に行って阪急に行って七階からゆっくり思う存分見て歩き、(昭和28年8月9日)」
「吹田の課長様宅へお礼に行った帰りに阪急でいろゝ買い物をした。(同8月22日)」
など阪急が良く出てきます。ちなみに昭和4年3月生まれの祖母は同月創業の阪急百貨店?梅田阪急ビルと同い年で、両者ともこの時24歳です。
祖父の友人の写真だけは昭和23~24年頃の撮影ですよ。職場の屋上ですね。
日本古写真倶楽部さんの「Fさんの戦後」は現在も随時更新中です。
( 2009年05月04日 18:55 [Edit] )
きーぼー | URL | kNOGdEho
なぜ祖母が阪神百貨店には全然行かなかったのかと思いましたが、そういえば当時の阪神百貨店は低い建物だったんですよね。
( 2009年05月04日 21:33 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ばんぼーさん
GWをしっかり休んでしまい
返事が遅くなりました^^;
外壁の色に関しては私もなぜ赤茶色なの?と思っていました。その色が当初の色と同じイメージであることは最近新聞記事で知りました。
でも、一年も前にゴリモンさんの記事で触れられていたんですよね。当時はまだ外壁が露出していなかったのであまり気にしていませんでした^^;
大阪人は私も取り上げました。
ぶらぶらしてみてください。
自分で言うのもなんですが
面白い町だと思います。
( 2009年05月06日 17:00 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ゴリモンさん
そーなんですよ。
阪急百貨店を調べるとゴリモンさんとのりみさんが
必ず引っかかってきます^^;
阪急百貨店に対して「愛」があるですよね。
たぶん…^^
( 2009年05月06日 17:05 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
pinboke_planetさん
なぜかこのCROW-3というカメラに
興味を持ってしまった。
検索しても引っかかってこないです。
中古屋をのぞいていたら
いつかは出会えるかな?
ウエストレベルファインダーで
35mmで一眼なんて初めて。
( 2009年05月06日 17:26 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
きーぼーさん
有料トイレは当時大阪駅構内にあったらしく、
このトイレも有料だったと以前何かで読んだ記憶があります。
ただ何で読んだかが思い出せない…。
またどこかでその記事に出会えると思っています。
お祖父さんのご友人の写真は昭和23~24年頃の撮影でしたね。ゴメンナサイ。当時の写真を追記しました。
阪神マートが阪神百貨店と名称を変更したのは昭和26年11月となっています。ただ、きーぼーさんがおっしゃるように規模は小さいですね。でも売り上げは結構よかったようですよ。
阪神百貨店の歴史も面白そうですよね。
昭和12年頃、阪神電鉄が百貨店計画を具体化したときに阪急電鉄は猛反対しています。
理由は大阪市で百貨店が飽和状態だから。
その両者が今は同じグループで2011年を戦おうとしている。
過去を知ると未来がもっと面白くなるかもしれませんね。
( 2009年05月06日 18:12 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
新日本放送
屋上にあったのは覚えています
漫才学校の公開録画を見ました
蝶々さんとか南都雄二さん 森光子さんがいました
昭和30年代初めごろです
ホワイトストア 聞いたことがあるような気がします 今度長姉にでも聞いてみます
あの屋上の写真は 古い蛇腹式のブローニー セミ版のカメラでした
ミノルタだったと思います
調べてみたらこんなのが見つかりました
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-04-02
父の持っていたものは 戦前に出たセミミノルタではないかと思います
21年にはカメラを買う余裕はなかったはずです
ファインダーがピョコンと立ち上がるカメラでした
父は35mmも持っていたのだけれど 玄関にちょっと置いていた隙にこそ泥に盗られたといっていました
新しい阪急のビルがドンドンと立ち上がってきていますが 屋上で金魚すくいをしたり 犬を見たりした子供のころの思い出は懐かしいです
屋上にあったペットショップで 秋田犬もどきの黒い犬を買ってもらいました
日本犬なのに ロンという名前をつけました
阪急沿線の阪急住宅に住み 阪急電車に乗って 百貨店に行くか 宝塚遊園地に行くのが子供のころの楽しみでした
( 2009年05月07日 02:03 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
そごう食堂
>なぜ祖母が阪神百貨店には全然行かなかったのかと思いましたが、そういえば当時の阪神百貨店は低い建物だったんですよね(きーぼーさん)
戦後の梅田ではもう1つ、心斎橋本店を占領軍に接収されたそごうが国鉄ガード下(現在の梅田食堂街あたり)に一時小店を構えていたそうです。
私にその記憶はありませんが、心斎橋にそごうが戻ってからも、その名残というのか「そごう食堂」というのが、私が成人を迎えた昭和40年代まで営業を続けており、そこは良く利用しました。
味、お値段とも非常にリーズナブルで、はやっていたと思います。
( 2009年05月07日 05:50 )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
>>検索しても引っかかってこないです・・・
説明不足で申し訳ないですね。
ぼくの自作カメラなので一品限り、現物は天六の実家のどこかにあるかも知れませんが・・・
ウエストレベルの35mm一眼レフは当時「アサヒフレックス」(ペンタックスの前身)があって、ペンタプリズム式は、まだ無かったと思います。
レンズは次兄の旧海軍将校用双眼鏡の前球のみ使用(約300~400mmだったかな・・)、24mmX24mm判は当時裏紙つきのボルタ判というフィルムがありましたが、ぼくのはパトローネ2個使いの巻き戻しなし35mmフィルム使用、フィルム送りは金属爪のクリック音を利用(セミ判カメラで35mmフィルムを使うというせこいキットからヒント)しました。フィルムサイズが小さいのはレンズの中心部のみ利用するためで、結構実用になり、走行するスクーターや故郷の山々の写真などを撮りました。
( 2009年05月07日 13:37 [Edit] )
新之介 | URL | -
TOSSYさん
写真をお借りしてからかなり時間がたってしまいました。
遅くなってごめんなさい。
阪急百貨店の屋上は私も何度か連れて行ってもらった記憶があります。ただ、大人になってからの方がよく行っていたかも…。百貨店の屋上は気分転換にはとてもいい場所でした。
新しい百貨店には屋上はあるのかな?屋上は百貨店にとってはあまり儲からない場所でしょうが、あるのとないのでは大違いですよね。
私は屋上のない百貨店にはあまり魅力を感じません。
男だからかな…?
( 2009年05月07日 15:37 )
新之介 | URL | -
increscentmoon さん
梅田に心斎橋そごうがあったかもしれないのですか?
それはまた面白い情報ですね。
ぜひ調べてみます。
何かでてきたらご報告いたします。
でてくるかな…^^
( 2009年05月07日 15:41 )
新之介 | URL | -
pinboke_planetさん
(; ̄Д ̄) そ、そこまで手作りでしたか…
驚きです。
カメラの改造はめちゃくちゃ難しそうなのでビックリ。
そのカメラで撮った写真をいつか見てみたい…
( 2009年05月07日 15:50 )
きーぼー | URL | kNOGdEho
>有料トイレ
あ、良く読んだら祖母の右の建物は謎のままですね。
さすが有料、「梅田トイレット」なんて梅田を代表する高級なトイレみたいな響きです(笑)
>ただ、きーぼーさんがおっしゃるように規模は小さいですね(新之介さん)
ちなみに祖母のその頃の日記に「阪神」は一度だけ出てきました。
>心斎橋にそごうが戻ってからも、その名残というのか「そごう食堂」というのが、(increscentmoonさん)
いま中之島図書館から借りている「昭和の鉄道情景」の昭和33年頃の阪神百貨店屋上からの写真に、国鉄ガード下の「そごう食堂」が写っていましたよ。そごうが無いのにそごう食堂だけ残ったというのは何だか妙な事態ですね。
( 2009年05月07日 17:48 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
Re:そごう食堂
>そごうが無いのにそごう食堂だけ残ったというのは何だか妙な事態ですね。(きーぼーさん)
本来の物品販売は返還後心斎橋に戻ったのでしょう。
やはり小規模では阪急に太刀打ちできない事もあったと思います。
しかし折角の一等地ですから権利を手放すのが惜しくて食堂に絞って営業を続けたのだと思います。
前にも書きましたように結構はやっていて、雰囲気はまさに百貨店の大食堂(事実そうなのですが、笑)、昭和40年代にも営業していましたから、阪急沿線の方なら入ったことがあるという思い出のある方もたくさんおられると思います。
( 2009年05月08日 05:42 )
新之介 | URL | sDz630us
きーぼーさん
>有料トイレ
「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」を再確認したら有料トイレと書いていました。この本だったみたい。
今日、中央図書館に寄ったんだけどそごう食堂が写った写真を見つけられませんでした^^;
また後日、探してみます。
( 2009年05月08日 23:32 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん
フォローありがとうございます^^
こんなサイトがありましたよ♪
黒崎そごうメモリアル
http://isisis.cocolog-nifty.com/i/
そごう百貨更生デポーの画像
http://isisis.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2007/10/09/depo.jpg
( 2009年05月08日 23:59 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
そごう食堂
入ったことはありませんが バス降り場がガード下だったので いつも横を通っていました
今も覚えいているのは 冬になると 張り紙だったか 旗のようなものだったかは忘れましたが 「かす汁 始めました」というのが出るのです
それを見ると冬だなぁと思いました
朝早くからしていたような記憶があります
ホワイトストアのこと 次姉に聞いてみました
入ったことがあるといっていました
食堂だったようです
ブタマンがあって それを食べていたといっていました
学生だったのでいつもおなかがすいていたのでしょう 安くておなかがいっぱいになるといって みんな食べたんだといっていましたね
コーヒーを飲んだことはないから喫茶ではなかったと思うと言っていました
後に阪急百貨店の新館が完成したときにそんな名前の食堂が百貨店内にあったような気がするのですが 確信はありません
もう少し年上の姉にも聞いてみますね
( 2009年05月09日 02:01 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
風車
そごう食堂の狙いは、阪急梅田、国鉄大阪、阪神梅田間の連絡客で、ここなら阪急、阪神の大食堂のように8階まで登らなくても利用できるという簡便性にあったと思います。
昭和40年代、阪急が2階陸橋出入り口に「風車」を設けたのも同じコンセプト、対抗策だったのでしょう。
今は地下へもぐる人が多いですが、当時は陸橋利用者が今よりずっと多かったような気がします。
( 2009年05月09日 07:16 )
新之介 | URL | sDz630us
ホワイトストア
TOSSYさん
ホワイトストアは第5期館が増設されるまで、
一時的に仮設された店舗だそうです。
昭和25年12月に開設されて、
昭和31年1月に閉鎖されました。
当初の催し物を見ると、衣料雑貨バーゲンや
100円~300円百貨均一会、
化粧品のおしゃれカーニバルなどを
やっていたようです。
その後、全体を食堂・喫茶に衣がえしています。
閉鎖後はおっしゃるように、
8階東館食堂に喫茶ホワイトが
営業を続けていたようです。
( 2009年05月10日 14:20 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
風車?
increscentmoonさん
>…2階陸橋出入り口に「風車」を設けた…
この風車がわかりません^^;
ちょっと昔の写真を探し中…。
風車ってなんですか?
( 2009年05月10日 16:30 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん
風車って2階にあったレストランですね。
それでコメントの意味が理解できました ^^;
スミマセン…
( 2009年05月10日 16:35 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
風車サンデーという名のパフェ
風車に風車サンデーというパフェがありました
アイスクリームとフルーツの少し小ぶりなパフェで よそよりお安くて 当初は確か50円 大食堂よりも安かったのです
中学生でも食べることの出来るお値段で 友だちと良くいきました
阪神の村山選手を見たこともあったなぁ
100円ランチがあったような覚えがあります
( 2009年05月10日 19:41 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
TOSSYさん
風車サンデー50円、
食べてみたい^^
画像は綺麗でないですが
風車の写真が出てきました。
風車にホワイトストア、
なかなかいい調べ物ができました。
TOSSYさんとincrescentmoonさん に感謝^^;
( 2009年05月11日 00:16 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
阪神の村山投手
阪神の村山は、入団当時阪神沿線ではなく、阪急沿線の石橋付近に住んでいたと思います。
( 2009年05月11日 05:38 )
increscentmoon | URL | -
↑好漢村山
当時はスター選手でも地味で、電車通勤という人も多かったと思います。
>阪神の村山選手を見たこともあったなぁ (TOSSYさん)
地元ナイターでの選手の球場入りは、午後4~5時ごろ、高校生の下校時間と重なっていたはず。
村山が阪急から阪神に乗り換えの途中で「風車」に寄ってというのはよく見られた光景だったかもしれません。
余談ですが、別の場所で私服の村山を見た事があります。
飾らない青年教師という感じで好イメージでした。(文中敬称略)
( 2009年05月11日 06:56 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
富士カクテル
あぁ 思いだしましたぁ
暑くて カキ氷を食べたい時は 富士カクテルをたべたのだった
普通のカキ氷よりもちょっとおしゃれなカクテルグラス様の器に入っていたのです
友達同士で どっちにするって相談して決めていたんだわ
どちらも50円時代が けっこう長く続いていました
何しろ1ヶ月のお小遣いがたぶん高校のときで1000円だったと思います(中学のときは300円)50円は うれしいでした
タバコ屋の横の階段を上がっておく風車
8階の片隅にあった小さな細長い店が甘味横丁(そんな名前だったとは知りませんでした)
< ライスカレーとカレーライスがあるのが面白いですね
これは大食堂とグリル 店が違うからでしょう
大食堂は たぶん ご飯にソースがかかっていて グリルは ソースポットに入っていて 福神漬けも違う容器に入っていたのではないかなぁ
確か昔 カレーライスとライスカレーは どうちがうというのが 漫才のネタになっていたと思います
( 2009年05月11日 15:12 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん
村山実さんの写真をアップしました。
初めてこの記事を見た人は驚くでしょうね^^
TOSSYさん
富士カクテルをご存知でしたか。
うれしい。
カキ氷だったんですね^^
カレーポットか。なるほど。
子供の頃阪急百貨店で食べたカレーは、
たしかポットに入っていたような…
かすかな記憶ですが…。
( 2009年05月12日 00:30 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
ホワイトストアの屋外庭園
ホワイトストア食堂は、現在のシティホテルの一階カフェテリアという感じでした。
屋外庭園テラスが併設されていて子供の目にもお洒落に見えました。
たぶん夏の夜は文字どおりのビヤガーデンになったのでしょう。
早く大人になってボクも地上の野外ビヤガーデンで一杯やりたいと思っていましたが、お書きのように昭和31年に閉鎖されてしまったので間に合いませんでした。(笑)
( 2009年05月13日 18:33 )
新之介 | URL | -
increscentmoonさん
屋外庭園ですか。
いいですね。一度見てみたいです。
きーぼーさんから阪急百貨店の屋上の写真も
いくつか提供していただきましたので
屋上の記事も書いてみようかと計画しています。
資料をもっと集めないと…
( 2009年05月14日 11:27 )
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( 2011年04月12日 12:25 )
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( 2021年06月15日 18:21 )
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