10年前
【調査会NEWS1246】(24.10.17)
10年前の今日は帰国した5人がそれぞれの故郷に帰った日です。5人は都内で2泊してそれぞれの故郷に帰りました。救う会では当時副会長だった西岡さんが地村夫妻とともに小浜へ、事務局長だった私が蓮池夫妻とともに柏崎に行きました。柏崎に着いて、市役所の広場での歓迎行事、あの熱気は今も忘れられません。
私はこの日蓮池さんの実家で1泊させてもらい、翌日一段落するのを見届けて帰京しました。あれから10年経ったと思うと月日の経つ早さに驚きます。なにしろ救出運動が始まってから9・17まで5年、それから今日まですでにその倍の時間が経過してしまっているのです。
ところで、9月17日の「飯倉公館事件」はこれまでもあちこちに書いていますが、飯倉公館で福田官房長官・植竹外務副大臣から説明を受けたときはマスコミもシャットアウト、拉致議連役員でも同席できたのは自民党議員だけでした。したがって中にいた私たちと外にいた人たちには完全な情報ギャップができていました。官邸の術策にはまっていたのですが、当時はそんなことは全く考えている余裕がありませんでした。何しろ豪華な外務省のゲストハウスで官房長官や外務副大臣から「亡くなっておられます」と言われたのですから、信じたくなくてもその言葉は重くのしかかっていました。
議員会館から帰ってきて、涙の記者会見の後、泊まっていた三田会館で家族会の人たちと今後のことを話し合いました。「本当かどうか分からないから最後まで頑張ろう」とは言ったものの、皆が「もうだめだ」という雰囲気だったと記憶しています。終わった後で有本嘉代子さんが「私たちは本当に確認できるまでがんばるから」と言っておられたのがせめてもの救いでした。
翌朝、平壌から帰った安倍官房副長官、拉致議連の西村幹事長、平沢事務局長が三田会館に駆けつけてくれました。「ともかく総理から直接話を聞きたい」と要請したものの、会えると言われたのは1週間以上後でした。もうだめかという思いで記者会見を開き、それぞれのご家族は帰途につきました。
「これから一体どうしたら良いのだろう」という思いで泊まっていた部屋の荷物を片付けていると平沢事務局長から電話がかかってきました。「平壌に行っていた梅本駐英公使(前の北東アジア課長で支援のために参加していました)が東京に帰っている。明日ロンドンに戻るが今日中なら会えるかも知れない」とのことでした。
ぜひお願いしますと言って夕刻会ったのは私と横田めぐみさんのご両親、弟の拓也さんと哲也さん、蓮池薫さんのご両親と兄の透さん(当時家族会事務局長)でした。それ以外の方は連絡が間に合いませんでした。外務省に入っていく前、横田早紀江さんが「死刑宣告を受けに行くみたいね」と言っていたのを今でも覚えています。
聞きたくないと思いながら、証拠のような話を伝えられるのだろうと思っていた私たちは梅本氏から「確認していない。平壌で北朝鮮側から聞いた話を東京に伝えただけ」と聞き、思わず耳を疑いました。
問い詰めているうちに梅本氏は席を外して戻って来なくなりました。私たちは急遽外務省のロビーで記者会見を行い、説明しましたが、マスコミの意識は「8人死亡」で固まってしまっており、この矛盾についてほとんど報道されることはありませんでした。未だに救う会の皆さんが「拉致被害者は生きている」と言わなければならないのはまさにあのときのことが原因です。当時「北朝鮮はこう言っている、しかし何も確認できていない」と政府が発表していれば、その後の状況は全く異なったでしょう。
私にとっては国家権力というものの恐ろしさに直面したときでした。この事件と特定失踪者問題調査会ができてからの政府の特定失踪者に対するさまざまな対応、とりわけ山本美保さんに関わるDNAデータ偽造事件などを経て、「国家を護ることと権力を守ることは別なのだ」と悟ることになりました。
以上、10年という月日は重く、放っておけば自分の記憶も風化してしまうのではないかと考え、もう一度あのときのことを知って頂きたいと思った次第です。
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