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2006年8月15日

軍隊

元北朝鮮工作員である安明進氏があるところで講演した折、こう語った。

「軍隊というのは結局人を殺すためのものですよ。国を守ると言っても、相手を倒さなければならないのだから」

 確かに、警察と軍隊の大きな違いは武器の使い方だ。警察は法を執行するために必要最小限の武器を使うのだが、軍隊は武力をもって相手を制圧することによってその目的を達する。そうすると、とどのつまりは安明進氏の言葉のように、敵を殺すのが目的(もちろん、戦争というのは政治の一形態であり、威嚇だけして目的を達することができればその方がいいから、最終的目的というわけではないが)ということになる。

 しかし、戦後日本の再起を防ごうとした占領軍(特にアメリカ)と、積極的か消極的かは別として、その意図を汲んできた政治家や官僚によって、60年間、このことは誤魔化しに誤魔化しがかさねられてしまった。

 本当の話かどうか、私の手許には記録が見つからないのだが、民社党にいた当時(1970年代か80年代だと思う)、国会の質問で「北海道に極東ソ連軍が上陸したらどうするのか」という質問に、「上陸したソ連軍の規模に見合う手錠を持って警察がかけつける」という答弁があったとの話を聞いたことがある(もし、正確なやりとりをご存知の方がおられたら教えていただけると幸いです)。実際にあったかどうかは別として、少なくとも発想はそういうことだったろう。

 幸いにしてそういう事態はなかったが、警察がかけつけていたら、「警察比例の原則」で対応することになる。つまり、相手以上の武器は持たず、しかも相手が撃ってから応戦するということだ。これはつまり動員された警察官全てを死なせることを意味する。おそらく、そうやっておいてから政府は「国民の皆さん、見てください。警察では対応できないんですよ。仕方ないから自衛隊を出しますよ。憲法違反なんて言わないで下さいね」と言っておそるおそる自衛隊を出すのである。これと似たような話は麻生幾氏の小説『宣戦布告』(映画は石侍露堂監督)にも出てくる。

 まあ、1970年の安保闘争の時代なら「自衛隊は軍隊ですから、戦争になれば人を殺すのは当たり前です」などと総理や防衛庁長官が言ったら政権が倒れるどころか日本中がひっくり返ってしまったろうし、安保アレルギーが少なくなった今でも、こんな言葉をまともに聞いたら「憲法9条を守れ」などと言っている人の中には憤死してしまう人もいるのではないか。

 しかし、現実はそういうことだ。そして、その現実から、右も左も、政治家も官僚もマスコミも、そして国民も目を背けている。皆外から言うだけでプレイヤーになろうとしない。ついでに言えばプロのプレイヤー、現役自衛官でもベンチに座ったままでマウンドにもバッターボックスにも立たない人がほとんどだ。「選手のくせになぜ試合をしないのか」と言われると、「政治にかかわらないことになっていますから」と逃げるのだろう。まあ、軍人と言ってもお役人であり、家族を食わせていかなければならないのだから、「職を投げ捨てても軍の本来のあり方を追求せよ」とは言えない(この点自衛隊に過大な期待は抱くべきではない)。

 そうすると、グランドに出ていくのは民間人と現役自衛官の中間にいる私たち予備自衛官の役目なのかも知れない。私自身にその覚悟があるかと聞かれれば考え込まざるを得ないが、少なくとも招集されれば武器を持たされる(つまり、命令があれば合法的な殺人を行い得る)一方で、通常は現役自衛官に、その武力によって守ってもらっている民間人であるという両方の立場を持つ私たちに果たし得ることはあるのではないかと思っている。

 冒頭に書いた安明進氏の言葉は、軍民を問わずしっかりと向き合うべき言葉である。

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