トランプ効果


日本時間の2025年1月16日の未明にアメリカのジョー・バイデン大統領がガザの停戦合意を発表した。2023年10月から15か月間にわたって続いてきたガザと周辺での武力衝突が終わりそうだ。

各種の報道によれば、合意の骨子は、まず6週間の停戦、その間にハマス側は押さえている人質の総数の約3分の1の33人を解放する。イスラエル側も収監しているパレスチナ人のうちの一部を釈放する。またガザへの人道援助の増加である。そして、その後に幾つかの段階を経て、人質全員の解放と恒久的な停戦に到る。

この内容は、昨年5月に提示されていた内容と、ほぼ同じとされる。それでは、これまで停滞していた停戦交渉が、なぜ、今になって結実したのだろうか。

ガザの停戦合意の背景として4点に注目したい。まず第1にトランプ次期大統領の強い圧力だ。次期大統領は、自分の就任前の停戦を求めた。またバイデン政権と密接に連携しながら、トランプの交渉担当者も、イスラエル側と接触した。就任前の大統領の外交への関与の憲法上の問題をはらみながらも、トランプの当選は停戦合意への大きな圧力となった。

ところで昨年11月の大統領選挙では、トランプは自分は戦争を止める平和の候補だとアメリカのイスラム教徒に支持を求めた。そして民主党のハリス候補以上の支持をイスラム教徒から集めた。これが激戦州のミシガンをトランプが制した大きな要因だった。同州は、イスラム教徒やキリスト教徒など中東系の市民の比率の高さで知られている。トランプは、その約束を就任前に果たした。

第2にイスラエルの国内政治の同国も、この合意の達成に寄与した。大きな変化は、野党から停戦合意への支持の申し出だった。これまでは極右の閣僚が、停戦に合意すれば、内閣から離脱してネタニヤフの連立政権を崩壊に追い込むと脅してきた。

さてネタニヤフ首相の連立政権は現在64議席を維持している。イスラエルの国会にあたるクネセトの定数は120である。なおイスラエルは1院制だ。このうち強硬派は、イタマール・ベングビール国家治安相とベザレール・スモトリッ千蔵相である。ベングビールの率いる「ユダヤの力」党は、6議席、そしてスモトリッチの宗教シオニスト党は7議席を持っている。この2人が抜けると13議席を失いネタニヤフ政権は過半数割れで崩壊してしまう。

そのため、この2人の反対が停戦合意へのブレーキになってきた。ベングビール自身が、これまで停戦合意を潰してきたと発言している。

ところが、今度は、野党が、その際には連立に参加してネタニヤフの政権を守ると提案したわけだ。これがネタニヤフ政権による合意の受け入れを可能にした。

第3にレバノンのヒズボラに大打撃を与えたのでネタニヤフ首相の人気が盛り返している。ガザのハマスによる奇襲を受けたために、失墜していたネタニヤフの権威も回復している。これでガザの停戦をイスラエルの世論に売り込めると本人は判断しているようだ。

第4には、ネタニヤフは、その最大の関心事であるイランの核開発の問題に焦点を当てたがっている。おそらくネタ二ヤフは、近い将来のイランの核関連施設への攻撃を考えている。その際に、できればトランプの協力を、少なくとも黙認を、求めている。ここでトランプに花を持たせて、イラン対応での協力を求めようとしている。ガザでの停戦を、イランとの対決の序曲としたいとの思いだろう。

なおイランのペゼシュキアン大統領もトランプ次期大統領も、とりあえずは対決ではなく対話の姿勢を示している。トランプの意向を受けてか、次期国務長官に指名されたマルコ・ルビオ上院議員は、議会での証言で対イラン交渉に含みを残す発言をしている。

カーターとバイデン


ところで、合意は、残り時間がわずかとなったバイデン政権の仲介努力の成果だ。しかし、すべての人質の解放は、トランプ次期政権の下で完了する。これは1979年から1980年にかけてのイランでのアメリカ大使館人質事件を想起させる。

この事件は、カーター政権がイランと交渉し、人質はカーターの大統領としての任期の終了までにイランを離れるはずだったが、イラン側が人質の乗った飛行機の空港からの離陸許可を出さなかった。カーターの任期切れまで。結果として、人質は次のレーガン政権が始まってイランを離れた。イランの革命政権は、最後までカーターを辱(はずかし)めた。人権外交を謳(うた)いながら、秘密警察で国民を抑圧していたイラン国王を支持していたカーター大統領を、イランの革命勢力は軽蔑していたからだ。

見えない停戦後の統治


最後にバイデン大統領は、合意成立の発表では、停戦発効後に誰がガザを統治するのかという問題に関しては、言及しなかった。暗にハマスによる統治もしくは統治への参画を認めたのだろうか。

ニクソン政権で国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャーが、ベトナム戦争への言及で、「正規軍は勝たなければ負けるが、ゲリラは負けなければ勝つ」と発言した。ハマスは、ゲリラ組織として生き残り、勝ったのだろうか。

2025年1月16日(木)午前9時15分 記
 

ホワイトハウスのアラブ人

 

そして2024年11月の大統領選挙でドナルド・トランプ前大統領が圧勝した。実際の政権の発足は、2025年1月だ。しかし、ジョー・バイデン現大統領ではなくトランプを中心に既に世界は回り始めている。

 

トランプの中東政策は、どうなるのだろうか。特にレバノンやイランを、どうするつもりだろうか。人事を見ていると、超イスラエルよりの人物たちの国務長官や国防長官などの要職への指名が続いている。しかし、就任には上院の承認が必要だ。 共和党が多数派を占めるとは言え、必ずしもトランプ派ではない共和党の議員も残っている。また指名された人物たちの資質の問題もあり、何人かの承認には苦戦が予想される。

 

前トランプ政権の発足時には、国防長官のジェームズ・マティス将軍など、存在感のある「大人」がいた。ところが、今回は、もともとは反トランプだったが、ポストが欲しくて立場を変えた 「新」親トランプ派など、「子ども」 ばかりである。思想、信条、信念節操とかいうたぐいの言葉からは、距離のある人々である。トランプ幼稚園の園児たちという風情で、とてもトランプに物申すような存在ではない。吹けば飛ぶような閣僚たちになりそうだ。

 

注目すべき例外は世界一の金持ちのイーロン・マスクである。このマスクがイランの駐国連大使と会談したと「ニューヨーク・タイムズ」紙が伝えた。イラン側は、この会談を否定しているが、同紙によれば、アメリカ・イラン間の緊張の緩和のための会談だった。この報道が示すのは、トランプのイランとの軍事衝突を避けたいとの意向ではないだろうか。

 

また『ワシントン・ポスト』紙によれば、レバノンでの停戦が近づいている。トランプが仲介する形で停戦を実現させ、それを新大統領の外交的勝利としてプレゼントしたいとイスラエルは計画している。同紙の報道である。イスラエルは、戦火を収める大統領というトランプの自己規定に配慮しているのだろう。

 

新しいトランプ政権で注目しておきたいのは親族たちである。トランプの親族である。前トランプ政権では、トランプの娘イバンカの夫のジャレド・クシュナーが中東政策では大きな役割を果たした。このクシュナーは、トランプ新政権では公職につかないようだ。だが、それでも、その動きが注目される。

 

実は、もう一人の親族を、ここで紹介しておきたい。トランプと前妻の間の末娘のティファニーが2022年に結婚した。夫のマイケル・ブーロスは、レバノン系である。その父親のマスアドはナイジェリアで大きなビジネスを展開している。日本のスズキなどの販売で成長した企業グループを支配している。もともとのルーツはレバノン北部のキリスト教徒の村だ。

 

このマスアド・ブーロスが今回の大統領選挙で大きな役割を果たした。というのは激戦州ミシガンに入りイスラム教徒などに戦争を止める「平和の候補」トランプへの投票を訴えた。ミシガン州にはイスラム教徒の多数派の都市ディアボーンなどがある。 保守派の『フォックス』 テレビが、アメリカの「ジハードの首都」などと紹介して物議をかもした都市でもある。このディアボーンには、レバノン系移民が多い。ちなみに、ここに自動車のフォード社が本拠地を置いている。

 

マスアドは、ミシガン州でのトランプとイスラム教徒の集会を設定するなど、駆けずり回った。

 

イスラム教徒にジェノサイドに加担しているとヤジられるのを恐れて、イスラム教徒との直接の公開での接触の場面を持たなかったハリスとは、鮮明な差であった。もともと保守的な価値観を持っている人々が多いイスラム教徒には、妊娠中絶の禁止や性的マイノリティへの配慮が過多だとする共和党の主張は受け入れられやすい。 共和党は、こうした面も強調した選挙キャンペーンを展開した。

 

そして投票結果は、どうだったのだろうか。イスラム教徒の票が流れた先は、第三の政党である「緑の党」のジル・スタインだった。そしてトランプだった。つまりイスラム教徒からの得票数では、民主党のカマラ・ハリス候補よりも、トランプの方が多かった。2020年にはバイデン候補が大半の票を取った層で、トランプは善戦して接戦のミシガン州を抑えた。差が、たった8万票だっただけに、ハリス候補のイスラム教徒票の「取りこぼし」は響いた。大統領選挙はトランプの「圧勝」だった。というのは七つの激戦州の全てで勝ったからだ。しかし、いずれの激戦州でも僅差だった。接戦での勝利を七つ積み重ねた圧勝だった。マスアドはミシガンでのトランプの秘密兵器だった。

 

このマスアドは、すでに外交面での役割も果たし始めている。トランプが狙撃された際に、ヨルダン川西岸地区のラマラに拠点を置くパレスチナ暫定自治政府のマフムード・アッバス首班の御見舞の書簡をトランプに渡した。 またトランプの感謝の書簡をアッバス議長に伝達した。

 

この人物はレバノンでは自らが国会議員選挙に出馬しかかったほど政治好きである。 レバノンではキリスト教徒の大物であるスレイマン・ファランジという大統領候補を支持している。レバノンに影響力の強い隣国のシリアのバシャル・アサド大統領とヒズボラが支持する人物でもある。

 

トランプの娘婿の父親のマスアド・ブーロスの、トランプのホワイトハウスでの動きが注目される。親戚というのは解任されることのない安全な「ポスト」である。このホワイトハウスのアラブ人に注目したい。

 

-了-

なぜ、このタイミング

 

さて、議論を前に進めよう。イスラエルは、なぜ、このタイミングでの対ヒズボラ攻勢を決断したのだろうか。まずヒズボラとイスラエルの間には、ガザの爆発以降、約1年にわたって低レベルの戦闘が行われていた。双方の国境付近の軍事目標に限定した攻撃の応酬が続いてきた。

 

これによって、イスラエルとレバノンの国境付近に生活していた人々が避難を迫られた。イスラエルの場合、その人口は6万人以上になる。

 

この人々が、2023年10月以来、1年もの避難生活を迫られたわけだ。自分の家に戻りたい。故郷での安全な生活を取り戻したい。そうした思いが強まり、声が高まってもおかしくない。故郷に戻りヒズボラの脅威を受けないで安心して暮らしたい。そうした北部から避難した人々の声は、確かに無視できないほど大きい。

 

もう一つの要因は、ガザでの戦闘が一段落したとの認識だ。ハマスの壊滅という目標は、イスラエルは達成していない。しかし、ハマスの軍事力に大きな打撃を与えて、その脅威を大幅に低下させた。

 

であるならば、イスラエル軍の主力を北部のヒズボラとの戦争に転用できる。 そもそも、イスラエル軍の上層部には、いつかはヒズボラとの軍事的な対決が必要だとの議論が根強かった。これだけの脅威を放置しておくわけにはゆかない。いつの日か、軍事衝突が避けられないとの認識だ。

 

だが軍事大国のイスラエルにとっても、ヒズボラは簡単に戦える相手ではない。まず兵力面での準備が前提条件となる。イスラエル軍の規模は通常は十数万である。これでは、ヒズボラとは戦えない。

 

ところが現在は、イスラエル軍は、予備役を招集して数十万の規模に膨れ上がっている。 これだけの兵力を動員すると経済的負担が重い。また国民の理解を得るのも大変である。よほどの場合でなければ、これほどの動員は行わない。しかしながら、イスラエルにとっては、今が、その「よほどの場合」なのである。

 

これだけの兵力を、せっかく動員しているのだから、ヒズボラと対決する絶好の機会だとの認識は、確かにイスラエル軍には存在する。2023年秋のハマスとの戦闘の開始以来、この機会にヒズボラ問題を「解決」したいとの思いは、イスラエル軍の指導層の一部には、常に存在していた。

 

そして最後に、政治的な動機も、この作戦に踏み切る背景にあった。これは、ネタニヤフの政治的な生き残り戦略でもある。もしガザが停戦になれば、ハマスによる奇襲を受けた責任の調査が始まるだろう。そうするとネタニヤフ首相の責任は免れないだろうからだ。

 

また戦争によって半凍結状態にある同首相につきまとう三件の汚職疑惑に関する裁判も本格的に再開されるだろう。ネタニヤフ首相が政治的に生き残るためには、戦争の継続が必要なのである。

 

そうした様々な要因がかさなりあって、 2024年9月16日のイスラエルの閣議決定が行われた。この決定は、新たな戦争目的を加えた。それは、北部の6万人以上のイスラエル市民の故郷への帰還である。

 

いよいよイスラエルがヒズボラとの戦争を決断したのかと推測させる新たな目的の追加だった。それまでのイスラエルの戦争目的は、ハマスの殲滅と人質の解放だったからだ。イスラエルは、いよいよ北に向かって矢を放つ体制を整えた。その翌日に通信機器の爆発が起こった。振り返って見ると、それが、大規模な攻撃の嚆矢(こうし)だった。

 

イスラエルによる〝予習"

 

通信機器の爆発、幹部の殺害、大規模な爆撃など、たたみかけるようなイスラエル軍の攻勢だった。それを支えたのは、ヒズボラに関する詳細な情報だった。イスラエルの長年にわたる諜報活動の成果だった。2006年のレバノン戦争の「宿題」にイスラエルは取り組んでいたわけだ。

 

これが2003年秋に始まったハマスとの戦闘との違いである。ガザ周辺の武力衝突はハマスの奇襲で始まった。イスラエルは「飼いならしている」 つもりのハマスによる攻撃は想定していなかった。この奇襲によって低下していた軍や諜報機関への信頼感、そしてネタニヤフ首相の支持率は、「北の矢」を射って以来、回復した。

 

ミサイル部隊への打撃の意味

 

イスラエルはヒズボラの戦力の8割を破壊したと発表している。その割合が正しいのかどうかは別としても、大きな打撃をヒズボラが受けたのは事実である。

 

これによってイスラエルのイラン攻撃を抑止していたレバノンからの脅威が大幅に低下した。イスラエルは、イランに対して動きやすくなった。ヒズボラのミサイル部隊が大きな打撃を受けた軍事的な意味だ。

 

>次回に続く