感情で情報を判断していませんか? | 暇人の部屋

感情で情報を判断していませんか?

ネットの世界は様々な分野に関して、色々な人たちが自由に発言できます。ただ、専門分野に踏み入ると、その分野の専門家やある程度知識のある人と、単純に興味がある位の人たちの間でかなりのギャップが生まれてくることがあります。特にトンデモ・疑似科学と言われる説が絡みやすい分野はそれが多いです。

私の興味は主に歴史であり、その中でも古代史や古代文明とかなり古い時代に関心が強いのですが、この分野は特に色々と誤解・トンデモ説が多い分野です。

過去記事でも取り上げていますが、与那国島の海底地形ムー大陸マヤ文明といった話はネットでも好んで取り上げられる話題ですが、私のような普通の古代史好きには頭が痛い話でもあります。
特に「古代に関心がある」という人達がそれに関わるコミュニティなどで、「古代のロマン」とこれらの話を話題にされると、こちらとしてはどうしても「それは違う」と指摘せざるを得ません。「ほうっておけばいい」という指摘ももっともではあるのですが、やはり「間違った情報」がネットで流されあたかも事実であるかのようにされてしまうのは弊害が大きすぎるからです。

・ネットは公共の場
まずネットは基本的に誰でも見られるオープンスペースです。コミュニケーションだけでなく、調べ物など、情報を得るために利用する人たちも沢山います。そういう人たちが間違った話や不正確な情報、その専門分野で支持を得ていない説を真実だと思い込んでしまったり、いわゆる「通説」と同じくらいの説得力がある説だと勘違いされてしまうのは、一応その分野で知識を積んでいる身としては、見過ごせなくなります。
「何かを知りたい」という人が間違った話を信じてしまう、信じているのを見れば「それは違うよ」とどうしても忠告したくなりますし、特にその話を信じる反応が多そうな場合、訂正はしないと、間違った話が広まることになってしまいます。
ネットの情報は玉石混交ですが、そのような話ばかりになるとネットが誤情報と間違いだらけの単なる石の山になるだけで、それを気づかない人たちが情報ツールとして利用しつづけることになるだけです。どうしても誰かが間違っているものは間違っていると指摘しなくてはならないのです。

・議論での誤解
ただし、相手が間違いを素直に受け入れてくれるかどうかは全くの別問題です。大抵はかなりの反発をされます。それはある意味当然で、本人たちは「自分の知識・情報をみんなに教えてあげたい」という親切心や、「自分はこんなことも知っているんだぞ」と言う自慢でネットに書き込むわけですから、それを否定されていい気持ちになるわけがありません。この傾向は特に、「既存の学問・情報が間違っている」と思い込んでいる人や、その披露した知識が他の読者に支持されている場合に強いです。
しかし、その書き込みに好意的な反応が大きいときは、間違いを指摘するほうは、上記の理由で、より危機感を感じて指摘をするのです。
こうなると、後は議論して「どこが間違っているか」「なぜ間違っているか」ということをとことん示していくしかありません。そうなった場合敷居の低い場所では、ROMしている人たちから、「そんなに厳しく指摘しなくても」とか、「両論併記でいいじゃないか」「人の感情を傷つける」という非難が出てくることがままあります。議論になった場合、まず確実に専門的知識の多いほうが相手を追い詰めていってしまう結果になりますから、見ている人たちは専門知識を有する側が冷たく、思いやりがないように見えてきます。
正直、これが一番困ることで、ROMしていたり、調べ物をしている人たちに注意してもらいたいことなのです。

・間違っている人を言い負かすことが目的ではない
まず第一に、指摘する側は基本的にその間違った主張をする人だけを相手にしているわけではないのです。ネットという誰でも読める公共の場に掲示されてしまった以上、間違いを指摘する側は、それを読む人、つまりROMしている人たちや、その後もそのログを読む人たちにも間違いだと分かるようにすることを優先します。相手の感情を慮って、間違いを正しいとしてしまうと、指摘の意味がなくなってしまいます。相手の感情に迎合せずに間違いは間違いと主張するのは、議論の相手、議論そのもの、読み手の人たち、学問や専門、そして事実に対して誠実にあろうとするからなのです。
そして、厳しく追及してくる形に見えてしまうのは、基本的に相手が間違いを認めずに固執する場合でが多いです。その時のパターンは過去記事で以前書いてあります。間違いを主張する人はプライドを傷つけられるわけですから、固執するのはある意味仕方がないかもしれません。しかし、指摘する側はその人のプライドより正確な知識を示すほうを優先せざるを得ません。議論する相手に迎合することだけが優しさや親切心を示すとは限らないのです。
「もう少し相手の気持ちを汲んであげて」と思う人もいるでしょうが、学会などで間違いを指摘された側が「感情を傷つけられたから謝れ、両論併記しろ」と言っているシーンを思い浮かべてください。滑稽としか感じないと思いませんか? まさにその状況なのです。「素人だから」と言うのは通じません。間違いを頑として認めずに議論の土俵に上がってしまったら、もう「専門家」「素人」という区分はなく、両者は対等であって、主張の中身・妥当性だけが問題になります。そうでなければ議論の意味がなくなってしまいます。

こういうやり取りを見て、「厳しい」「荒れている」と印象だけで判断してしまうことは大変危険です。紳士的にできないのか?と思う人の気持ちも分かりますが、それは難しいのです。誰でも自分の主張が間違っていると指摘されたら、感情的な反発が生まれますから、なかなか認めてくれませんし当然気分を害する場合もあります。またその人に同調・同情している読者も否定してくる人間に不快感を持つことも多々あります。しかし、解説や指摘を行う人間は情報のチェック、誤解のない、正確な指摘・表現をするためには冷静な、客観的な口調をするしかないのです。そして、全ての人間に感情的反発を受けず、納得させられる人間など存在しえません。専門家は神様でもスーパーマンでもなく、ただの人間なのです。それ以上のことを要求されても応えようがないのです。そして、人間ですから、相手が一向に受け入れずに感情的非難ばかりをしてくれば気分も害しますし、口調も厳しくなったりしますし、場から排除されれば無理に指摘し続けようとはしません。そうしたら読者は間違った情報しか受け取れなくなります。そうして自分たちで情報をシャットアウトすることになります。そういう場は私も何度も見てきましたし、経験したことがあります。結局、誰が一番損をしているのか、考えてみてください。

間違いを指摘する側にとって、一番優先させなければいけないのは間違っていることを明確にすること、正しい知識・考え方を読者に示すことなのです。そうでなければ、通じない相手との議論という、はっきり言えば無意味な行為をしません。


・議論の本質を見極める
議論に慣れていない人はその辺りでどうしても感情に流されてしまいますが、実は、本当に不誠実なのは明確に間違いが示されているにも関わらず、指摘を頑として認めず、議論にも関わらず証拠もない陰謀論や感情論に訴えたり、人格非難に走ったりする方なのです。これらは正しい情報と全く無関係な訴えなのは分かるはずです。
勿論、指摘する側に聖人君子が揃っている訳ではないですし相当攻撃的な人もいますから、かなり厳しい糾弾をする場合もあります。その場合は難しいかもしれませんが、まず議論の頭から読んで、その糾弾がどこから始まったのか?を見極めることです。大抵、主張の根拠を聞いたり、根拠の間違い・弱いことの指摘をしたことに対してきちんとした反論・説明を行っていない箇所があると思います。
この感情と理性をきちんと切り分けて「議論そのもの」を読むことが読み手には要求されます。どちらが明確な根拠に基づいて話しているか、根拠の妥当性をチェックしているか、感情に流されずに理性的に判断しているかが問題であって、言葉が厳しすぎるといったことは本質ではないのです。厳しい言い方ですが、それが出来ないと「正しい情報を取得するためのツール」としてネットを利用することは難しいのです


古代文明などと言った話だと「これくらいでおおげさな」と思う人がいるかもしれませんが、この弊害は恐らくどこの分野でもネット上で学問的な見解が絡む話なら共通の悩みです。カール・セーガン博士の『悪霊にさいなまれる世界』の冒頭にでてくる「バックリーさん」が大量に発言しているのが今のネットの姿でもあります。「本当のことを知りたい」と思っている人でしたら、真っ先に知るべきことは、『何がポイントか自分たちも積極的に考えて見極めていくこと』なのです。ネットは検索すれば答えが出てくる辞書でも百科事典でもなく、何かを深く知りたいなら、学問的姿勢・理性的判断など、様々なことについて自己責任で考えることが要求されるツールなのです。感情をなくすことは勿論できませんが、自分も含めて人は感情に流されやすいことを自覚して無闇に感情的に判断せず、一呼吸おいて冷静に情報を見直してほしいと思います。


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