最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを。
そして、いつもその原因は「日本精神」・「日本人的価値観」を失ったことにあるのではないかと思うのである。
かつての日本人は「武士道精神」にも表わされているように、道徳的に非常に優れた価値観を持っていたように思う。それは「徳」の高さを至上のものとする価値観だ。「徳」とはまさしく「勤勉」「正直」「誠実」「勇気」「謙虚」「滅私奉公」等々といった古来からある「日本人的価値観」である。今の政治を見ていると想像もつかないが、かつて日本の武士は「法」より高い次元の「徳」や「礼」で裁かれた。いわゆる「法治主義」では無く「徳治主義」だった。
日本国民は余り知らないが、戦後の「台湾」はそれら日本人的価値観を「日本精神」(「リップンチェンシン」)といって未だに語り継いでくれている。
話は変わるが、今マスコミで毎日のように取り上げられている大津の「いじめ」問題も、根本的な原因は「日本精神」を失ってしまったことに由来するような気がする。
昔読んだ本の中に「いじめはなぜいけないか、それは『卑怯』(ひきょう)だからだ」と書いてあった。強い者が弱い物をいじめる行為は、ただただ「卑怯」だからダメなんだと。
「卑怯」という言葉を調べてみると、「勇気がなく、物事に正面から取り組もうとしないこと。正々堂々としていないこと。また、そのさま。」と書いてあった。まさしくこの「卑怯」という概念について、学校や親や社会は子どもたちにしっかり受け継いでいるだろうか。
今回の「いじめ問題」について、責任の所在の明確化も確かに大切である。その責任が、いじめた子どもにあるのか、知っていて無視した教師にあるのか、あるいは管理者である文部科学省や市長や教育長や教育委員会にあるのか、あるいは助けを求めたにもかかわらず対応しなかった警察にあるのか。それはそれでしっかり検証し議論されるべきである。
しかし私は、先に述べたように、根本的な「精神的荒廃」についての議論をしなければ何度も陰湿な「いじめ」が繰り返されるように思うのである。
ではどうやって「日本精神」を取り戻すのか。
そもそも「日本精神」が失われてしまった原因は、戦後もたらされた「欧米の思想」にあると私は考えている。そしてその「欧米の思想」の教科書ともいうべきものが「日本国憲法」であると私は思う。
日本の全ての教科書に、日本国憲法の「三大原理」というものが取り上げられ、全ての子どもに教育されている。その「三大原理」とは言わずと知れた「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」である。
戦後の日本はこの三大原理を疑うことなく「至高のもの」として崇めてきた。しかしそうした思想を掲げ社会がどんどん荒廃していくのであるから、そろそろ疑ってみなければならない。むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。
まず「国民主権」について。「国民主権」とは「国家の政策決定権は国民一人一人にある」という民主主義の根本思想であるが、長谷川三千子先生によれば、そもそも「民主主義とは、人間に理性を使わせないシステム」である。つまり民主主義が具体化された選挙の「投票行動」そのものが「教養」「理性」「配慮」「熟慮」などといったものに全く支えられていないからである。しかしながらこのことは、世界の歴史を見ると第一次世界大戦以前は常識であった。第一次世界大戦前は、民主主義はすぐに衆愚政治に陥る可能性のある「いかがわしいもの」であり、フランス革命時には「恐怖政治」を意味した。民衆が「パンとサーカス」を求めて国王・王妃を処刑してしまったからである。戦前の日本では「元老院制度」や「御前会議」などが衆愚政治に陥らない為のシステムとして存在していた。しかし戦後の日本は新しい「日本国憲法」の思想のもとで、民主主義を疑わず、またその持つ問題点を議論することなく、衆愚政治に陥ることを防ぐシステムもつくらず、ただただ「民意」を「至高の法」としてしまった。
次に「基本的人権の尊重」について。私はこれが日本精神を破壊した「主犯」だと考えているが、この「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。全ての国民は、国家があり、地域があり、家族があり、その中で生きている。国家が滅ぼされてしまったら、当然その国の国民も滅びてしまう。従って、国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」という「日本精神」があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。「基本的人権の尊重」という言葉に表された思想の根底には、国家がどうなろうと社会がどうなろうと自分の「基本的人権」は守られるべきだという、身勝手な「個人主義」が存在している。従って、国民は国家や社会に奉仕することをしなくなり、その身勝手な個人主義に基づく投票行動が政治を衆愚政治に向かわせ、政治は大衆迎合するようになっていった。それは言うまでも無く「国民の生活が第一」を高らかに叫ぶ今の政治に如実に表れている。
三番目の「平和主義」については、言わずもがなである。国際社会は、冷酷に国益と国益がぶつかり合う「無政府状態」の「争奪・略奪社会」である。そこに日本精神である「正直さ」や「譲り合い」といったたぐいの精神は微塵も存在しない。それは尖閣諸島問題を見れば明らかである。にもかかわらず「日本国憲法」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べ、「戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認」を規定した。冷静に考えれば、これでは到底他国の侵略に備えることは出来ない。そのことがわかっているからこそ、日本は自衛隊をつくり維持して来たはずである。
以上述べたように「日本国憲法」の問題は9条の問題だけではない。「日本国憲法」の思想そのものが「日本精神」を破壊してしまったと私は考えている。
今の荒廃した政治、社会をよく見つめなおし、国家の在り方の基本である憲法をしっかり論じることが必要であると思う。そしてそのことが「日本精神」・「日本人的価値観」を取り戻す「カギ」になると私は思う。
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