毎年11月中旬辺りになると喪中ハガキが届くのだが今年は何の気配もなく過ぎたので、そろそろ年賀状の準備をと思っていた矢先の事だった。藤枝在住の従姉から連絡があった。喉を詰まらせ嗚咽の混じった震える声で「政人が亡くなった…」。私は暫く返す言葉が出ず従兄の顔が走馬灯の様に脳裏を駆け巡った。数年前に直腸癌が発覚し治療に専念し一旦は回復したものの、その後再発。そして再び抗がん剤等で治療を続けていたがその甲斐もなく僅か3ヶ月で力尽きてしまったと言う。60代にして命を落とすとは本人が一番無念の思いだったろうと思う。
従兄はプロのサッカー選手だった。ジュビロ磐田の母体であるヤマハ発動機で活躍。絶頂期には「FWの神戸」と呼ばれ試合の度に新聞のスポーツ面を賑わせていた。小学生の時、サッカーボールを追い掛けて広いグラウンドを縦横無尽に走り回る姿を思い出す。そんな従兄を私は教室の窓から恨めしそうに眺めていた。自分は心臓が悪いため運動は禁止。体育の時間はいつも一人教室に取り残されていた。そんな私とは対象的な従兄は身体も大きく健康に恵まれ足も速かった。
サッカーボールに自分の夢を乗せて走る姿が眩しかった。中学を卒業すると静岡中の高校からスカウトが殺到。勿論サッカーの名門「藤枝東高」も当然その中に含まれたが、何と父親が藤枝北高に勝手に決めてしまったようだ。本人はやはり藤枝東に行きたかったと後で聞かされた。
そしてその勢いのままヤマハ発動機に入社しプロデビューを果たす。自分の夢を実現した18歳の若者は自信に満ち溢れ己の信ずる道を突き進んだ。そして月日は流れ従兄にとって最初の試練に遭遇する事となる。やはり従姉「三千代」からの電話だった。「政人が脳内出血で緊急入院」の知らせ。入院先はなんと私が最初の心臓手術を受けた「静岡市立病院」。私はその翌日新幹線に飛び乗りお見舞いへと急いだ。ベッドの傍らには従兄の奥さんが心配そうに付き添っており、私に一礼した。白い鉄パイプで出来た病院のベッドが妙に懐かしく感じる。従兄の意識はハッキリしているものの口が聞けず半身麻痺の状態だったが、私をひと目見るなりその大きな眼を更に大きくして驚きその内、涙をポロポロと溢し始めた。私が来ることは知らなかったようで、嬉しかったのだろうと思う。闘病生活の長い私は自分が誰かを見舞う事は滅多になく、いつもその逆でお見舞いばかり頂いているため、見舞うことの尊さ有り難さをこの時に初めて実感した。
従兄は見た目は少し怖い部分もあったが、心根は実に優しく思い遣りに充ちていた。私の父が亡くなった時、真っ先に駆け付けてくれ「何かあったら俺に相談しろよ」と父の亡骸の前で小さく震えていた自分を温かく励まし力付けてくれた。サッカーで鍛えた強靭な身体の持ち主だった事から半身麻痺からの回復も早かった。自宅に戻ってからはリハビリの日々だったが、言葉も話せるようになり杖を付きながらも自力で歩けるまでになった。ただ、懸念として残ったのは病気知らずの健康な身体に恵まれた事が従兄にとっては仇となり自信過剰になっていたのではないかと思われる。
人生は枯れ葉の如し、散って土に還る。従兄はきっと今頃は空の彼方でサッカーボールを追い掛けているかも知れない。心より御冥福をお祈り申し上げます。
※暫くの間、喪に服すため新年のご挨拶は控えさせて頂きますので宜しくお願いします。