プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

詩集 天国の地図/神戸 俊樹
¥1,260


長い闘病生活を余儀なくされてきた著者が、生きる糧とした詩作。

魂の叫びの集大成!


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 毎年11月中旬辺りになると喪中ハガキが届くのだが今年は何の気配もなく過ぎたので、そろそろ年賀状の準備をと思っていた矢先の事だった。藤枝在住の従姉から連絡があった。喉を詰まらせ嗚咽の混じった震える声で「政人が亡くなった…」。私は暫く返す言葉が出ず従兄の顔が走馬灯の様に脳裏を駆け巡った。数年前に直腸癌が発覚し治療に専念し一旦は回復したものの、その後再発。そして再び抗がん剤等で治療を続けていたがその甲斐もなく僅か3ヶ月で力尽きてしまったと言う。60代にして命を落とすとは本人が一番無念の思いだったろうと思う。
 従兄はプロのサッカー選手だった。ジュビロ磐田の母体であるヤマハ発動機で活躍。絶頂期には「FWの神戸」と呼ばれ試合の度に新聞のスポーツ面を賑わせていた。小学生の時、サッカーボールを追い掛けて広いグラウンドを縦横無尽に走り回る姿を思い出す。そんな従兄を私は教室の窓から恨めしそうに眺めていた。自分は心臓が悪いため運動は禁止。体育の時間はいつも一人教室に取り残されていた。そんな私とは対象的な従兄は身体も大きく健康に恵まれ足も速かった。
 サッカーボールに自分の夢を乗せて走る姿が眩しかった。中学を卒業すると静岡中の高校からスカウトが殺到。勿論サッカーの名門「藤枝東高」も当然その中に含まれたが、何と父親が藤枝北高に勝手に決めてしまったようだ。本人はやはり藤枝東に行きたかったと後で聞かされた。
 そしてその勢いのままヤマハ発動機に入社しプロデビューを果たす。自分の夢を実現した18歳の若者は自信に満ち溢れ己の信ずる道を突き進んだ。そして月日は流れ従兄にとって最初の試練に遭遇する事となる。やはり従姉「三千代」からの電話だった。「政人が脳内出血で緊急入院」の知らせ。入院先はなんと私が最初の心臓手術を受けた「静岡市立病院」。私はその翌日新幹線に飛び乗りお見舞いへと急いだ。ベッドの傍らには従兄の奥さんが心配そうに付き添っており、私に一礼した。白い鉄パイプで出来た病院のベッドが妙に懐かしく感じる。従兄の意識はハッキリしているものの口が聞けず半身麻痺の状態だったが、私をひと目見るなりその大きな眼を更に大きくして驚きその内、涙をポロポロと溢し始めた。私が来ることは知らなかったようで、嬉しかったのだろうと思う。闘病生活の長い私は自分が誰かを見舞う事は滅多になく、いつもその逆でお見舞いばかり頂いているため、見舞うことの尊さ有り難さをこの時に初めて実感した。
 従兄は見た目は少し怖い部分もあったが、心根は実に優しく思い遣りに充ちていた。私の父が亡くなった時、真っ先に駆け付けてくれ「何かあったら俺に相談しろよ」と父の亡骸の前で小さく震えていた自分を温かく励まし力付けてくれた。サッカーで鍛えた強靭な身体の持ち主だった事から半身麻痺からの回復も早かった。自宅に戻ってからはリハビリの日々だったが、言葉も話せるようになり杖を付きながらも自力で歩けるまでになった。ただ、懸念として残ったのは病気知らずの健康な身体に恵まれた事が従兄にとっては仇となり自信過剰になっていたのではないかと思われる。
 人生は枯れ葉の如し、散って土に還る。従兄はきっと今頃は空の彼方でサッカーボールを追い掛けているかも知れない。心より御冥福をお祈り申し上げます。
※暫くの間、喪に服すため新年のご挨拶は控えさせて頂きますので宜しくお願いします。

 

 

 10月もそろそろ下旬に差し掛かった頃、秋桜を撮るため浜離宮恩賜庭園へと向かった。ところがキバナコスモスは生い茂る様に咲いていたのだが私の目的だったピンク色の秋桜は何処を見渡しても咲いておらずすっかり意気消沈し、早々に庭園を後にした。時間的に暗くなるまでには十分余裕があったので庭園からかなり近い所に築地大橋があるため、気持ちを切り替え橋へと向かった。橋の中央辺りまでは長い緩やかな上り坂なのだが、これが私にとってはかなりキツイ。息切れと早まる鼓動を鎮めつつやっと中央に辿り着いた。隅田川を行き交うクルーズ船に向けてシャッターを切った。コロナが蔓延していた頃は隅田川からクルーズ船の姿が消え川面から寂しい波の音だけが虚しく木霊していた。
 そんな数年前の出来事が嘘のようにクルーズ船が波を切って勢いよく走って行く。まるで通勤時間帯の電車のようにひっきりなしに行き交っている。そんな日常の穏やかな風景をカメラに収めていた時だった。勝どき方面から一人の男性がやって来た。褐色の肌と精悍な顔付き。ひと目で日本人ではない事は分かった。私の前を見向きもせず通り過ぎ少し行った所で立ち止まり、スマフォをかざして撮影を始めた。夕陽が西に沈みかけ辺りに一日の終りを告げ始める。これはシャッターチャンスだと思い彼の横顔にピントを合わせパシャリと一枚。夕暮れの中に佇む男性、異国の風に吹かれて何を想っているのだろう。
 彼は私から5m以上離れた所に立ち東京湾に沈みゆく夕陽を眺めていた。その夕日に照らされ褐色の精悍な彫りの深い顔がより一層際立っていた。撮影許可を取らずいきなりだったので、撮影後直ぐに彼の傍に行き撮ったphotoを見せると大変喜んでくれた。「Where are you from?」とへったくそな英語で質問すると「タイから来ました」と日本語の返事にびっくり。そこからは日本語での会話となった。彼はMello君といい、明日タイへ帰国すると言う。日本語がとても上手なので何度も日本へ来ているのだろうと思った。タムロンの300mm望遠レンズだったのでかなり離れた場所からの撮影。焦点距離は260mm、絞り6.3、シャッタースピードは1/100。ポートレートには単焦点レンズがオススメのようだが離れた場所からの撮影が出来る望遠レンズも良いものだと分かった。欲を言えば1.8位の明るいレンズであれば闇の中でも三脚なしで撮れるだろう。

 

 

 

 

 昨年の秋に初めて彼岸花を撮ったが、その切っ掛けは若くして自ら死を選んだ母の想いについて記したかったから。母親の思い出は幼い頃の記憶を探っても何一つ見当たらなかったが母の後ろ姿だけは今も心の中に刻み込まれている。今回は父について…。11月5日は42歳で亡くなった父の命日。父(信夫)については過去の記事で何度も書いて来たが、パトカーをタクシー代わりに使って静岡から藤枝に帰った時の事が最も印象深く残っている。
 それは私が15歳の時だった。養護学校を卒業し清水市駒越にあった療養型職業訓練施設に入所していた頃、――静岡県警藤枝署は15日、同県藤枝市本118、住吉会系組織暴力団極東会桜組み幹部・神戸信夫(39)を恐喝容疑で逮捕した。取り調べによると、調理師である山崎忠雄さん(29)に調理の仕事を依頼したが断わられた為、再三に渡り因縁を付け仕事を手伝わなければ金を出せと脅したと言う――。
 上記の内容が静岡新聞朝刊の三面記事に掲載され父の顔写真まで乗っていたため、紛れもない事実だと受け止めるしかなかった。酒に溺れて身を持ち崩してしまった父ではあったが、人様を傷つけるような乱暴を働いた事は暴力団同士の争いは別としても普段は優しく借りてきた猫の様に大人しく優しい父の人柄を考えるとこの記事には疑念が残った。馬鹿が付くほどお人好しで利用され易い人格で人から依頼ごとを受けると断れない質のため、この時も過去の事件同様に他人の罪を被ったのだろうと思った。刑期を終えて出所日が決まり静岡刑務所を出た後まっすぐ藤枝に帰らず静岡市内の酒場に立ち寄り久しぶりの酒で飲み過ぎてしまい酔った勢いでパトカーを呼び出しそのまま乗り込み藤枝の実家まで送り届けてもらったらしい。酒のせいで気が大きくなりそんな大胆な行動が出来たのだろう。人前では絶対に泣き顔を見せない父だったが、私の前では酔いつぶれながらも顔を涙でグシャグシャにしながら「雪、雪…」と必ず母の名を呼んでいた。それほど母の事を愛していたのかも知れないけれど、母が父の元を去ったのは全て父の自業自得であった。
 葬儀場で最後のお別れで父の顔を見た時、それまでグッと堪えていた悲しみが堰を切った様に溢れ出し涙が止め処なく流れた。待合室で約2時間私は号泣。そんな私を囲む多くの人達は掛ける言葉も見当たらず私の鳴き声だけが葬儀場に響き渡っていた。
※『小説・傷だらけの鎮魂歌』より一部内容を抜粋した。ヒガンバナについて彼岸花・曼珠沙華の呼び名がなぜ二つ存在するのか分からなかったため調べてみると正式名は彼岸花であるが、曼珠沙華はサンスクリット語で『赤い花』と言う意味だった。これで少し花音痴から一歩前進した気がする。

 

 

 

 向日葵が咲く時季になると必ず訪れるのが葛西臨海公園。昨年その時期はペースメーカー植え込み等で入院中だったため今回は2年振りとなる。目的はひまわりの撮影だったのだが、時期が遅すぎたようでひまわり畑は元気のない俯いた顔ばかりが目立った。と、同時に人気の観光地なので、訪れる人も多く若い女性たちが畑のあちこちで見受けられた。多分、国外からの観光客もかなり多いように思われた。
 ひまわり畑の直ぐ近くに日本最大級と言われる『ダイヤと花の大観覧車』があり、向日葵の背景に観覧車を入れて写真を撮る人も多かった。一眼レフを始める前、2018年の春だったか、ポピーと観覧車のコラボをスマフォで撮影したが、それが初めての観覧車撮影だった。
 今回はその目的だった向日葵を諦め、風景撮影に徹する事にしたがやはり陽が落ちてからライトアップされる大観覧車は圧巻である。長時間露光で撮影すると観覧車が高速回転しているように見えるのが面白い。花火のようにも見えるし、池の水面に映り込む逆さ観覧車も実に美しい。幾度となくこの観覧車を撮っているのに過去の写真と比べても全く同じに見えないのは、その日の天候や使うレンズによって被写体の表情が変化するので何度撮っても飽きる事がない。
 使用したレンズは中国メーカーのLAOWA14mm超広角単焦点レンズ。小さくて軽いため、心臓の悪い私にとっては有り難いレンズである。絞り羽が5枚と言う点もお気に入りで10本の光芒が鋭く伸びる情景は正に光の帯である。電子接点が無いためピントも絞り値も全てマニュアルとなる。使い始めは戸惑ったが今は設定ミスもなく使いこなしている。夜景撮影の殆どはこのレンズを使用している。そう言えばお台場の観覧車は解体されてしまったが、その跡地は今どうなっているのだろう。パレットタウンとして人気の高かったお台場の象徴でもあったあの観覧車、その近くにはユニコーンガンダム像があり、私も何度かカメラに収めている。割と最近、小池都知事の発言で知ったのだがお台場に巨大噴水を建てると言う計画が進んでいるようだ。世界最大級になるらしいからその完成が楽しみである。

 

 

 東京に40年ほど住んでいるがこれまで上野の不忍池に一度も訪れる事はなかった。子ども達がまだ幼い頃には上野動物園に家族4人で時々出掛ける程度だった。不忍池に特別な興味もなかったのだが、SNSに投稿された写真の中に蓮の花が多く目立っており、その清らかで神秘的な美に魅入られてしまい自分もカメラに収めたくなった。チューリップの時もそうだった様に蓮の花を私はまだ一度も撮った事がない。何処へ行けばあの美しいピンクの花を撮る事が出来るだろうかと、その日から頭の中は蓮の花で一杯になった。
 ネットで調べるとトップに表示されたのが不忍池だった。蓮自体は私の故郷である藤枝の『蓮華寺池』が地元では有名で、子どもの頃、池に入り蓮の実を取ってオヤツ代わりに食べていた事を思い出す。極貧でその日の食事もままならないいつも腹を空かせて涙を流していた小学生だった私。蓮の実を生のまま口に放り込んでいたが、それだけで空腹が満たされる訳もなく乞食のような日々だった。それでも栄養価の高い蓮の実のお陰で苦難を乗り切る事が出来た部分もあったのだろう。まさに『仏様の花』である。
 天気も上々で申し分のない撮影日和。レンズを2本携えて不忍池へと出掛けた。初めて眼にする池は想像していたより遥かに広かった。池一面に蓮の緑で埋め尽くされて、肝心の蓮の花が見つからない。「時季が早すぎた?遅すぎた?」とイメージ通りの花を発見出来ず途方に暮れてしまった。それでも折角ここまで来たのだからと、辯天堂に寄ってお参りしてから帰ろうと思った。
 辯天堂の少し手前の左の方に手水舎があるのに気付き、その龍神様に向けてシャッターを切った。撮影を終えた後、龍の口から流れ出る水で手を洗い口に含み身体を清める気分に浸った。ここで花音痴である私の無知がまたもさらけ出てしまったのだが、蓮の花は午前中に開花し、午後には閉じてしまう事を初めて知った。こちらの都合に合わせて咲いてくれる花ばかりではない事を改めて痛感した。
 因みにアップした蓮の花の写真は不忍池ではなく『小石川後楽園』にて撮影したものである。近づいてアップで撮りたかったが池に入る訳にもいかず、タムロンの300mm望遠レンズで撮影した。レンズの圧縮効果が前ボケ後ボケを演出してくれており、まさに神秘的・幻想的な蓮の花となってくれた。
 そう言えば10月5日で三尖弁手術から2年が経った。月日の流れが早すぎて気持ちが追付いてくれないが、頑張ってくれている今の心臓に感謝しよう。

 

 

 Nikon公認ニッコールクラブ静岡支部の写真展が18日大盛況の内に幕を閉じた。12~18日の開催期間中にギャラリーへ足を運んでくれた方は300人を超えた。この数字が多いか少ないかは私には分からないがクラブの諸先輩方が口を揃えて「大成功!」と語っていたので目標を達成出来たのであろう。私の友人である養護学校時代の同窓生数人、ブログを通じて知り合った方も数人が訪れれてくれ自身のブログで写真展の紹介をしてくるなどして応援を頂き感謝の極みである。同窓生とはお会いする事が叶わなかったのは残念で欲を言えば5年前の様に『プチ同窓会』が出来たら尚更の事よかったのだが…。

 一眼レフデビュー5年と言う節目にあって目標に掲げていた写真展が現実のものとなり、節目を締め括るに相応しい年となった。普段パソコンやスマフォで見ていた写真が、A3サイズの紙に印刷されるとそれは全く別次元の写真へと生まれ変わる。自分の作品でありながら客観的な視座で捉える事が出来、新たな発見に繋がるのである。それにしてもメンバーの皆さんそれぞれ固有の視点で作品を生み出すそれは研ぎ澄まされた感性の豊かさあってこそのものであるだろう。

 15日、正午の新幹線で一路静岡へ、13時少し過ぎに静岡着。ところが故郷に戻っても私の方向音痴が邪魔をした。ギャラリーは北口から徒歩7分と近いにもかかわらず、馬鹿な私は南口に出てしまい右往左往して散々遠回りし13時30分にギャラリー着。東京も暑いが今年の静岡はバカが付くほど猛烈に暑い…。背中には10キロを有に超える重たい荷物が汗塗れの私の脚を引っ張る。冷房の効いたギャラリーに着き、ホッと胸を撫で下ろしたものの心臓はバクバクで破裂しそうな息切れ。ソファで暫く呼吸を整えたのち息子とご対面。息子は訪れたお客様への対応に追われ、私と会話する時間がなく、ゆっくり会話が出来たのはギャラリー閉館後の事だった。

 そして翌日16日は藤枝在住のカメラ歴55年を超える大先輩と一緒に再びギャラリーへ。私の写真を見て「随分腕を上げたな!おれにゃあこういう写真は撮れんよ」と静岡弁丸出しで褒めちぎってくれた。ギャラリーを出た後、時間がたっぷりあったので先輩の車で日本平へ。一番高い展望台から天気の良い日であれば清水港と富士山が見渡せる筈だったのだが、空一面を灰色の分厚い雲が覆い雨まで降り出して来た。この日ばかりは運に見放された気がして、一気に疲れが出て早めにホテルに戻った。調子が良ければ17日は藤枝へ行き墓参りの予定だったが余りの疲労感に歩くのも辛いほどだったので11時の新幹線で帰路に着いた。疲れが取れるまで1週間も掛かってしまい体力・筋力の衰えを痛感した。

 

 

夜空を彩る花火の中に

あなたの影が揺らいで見える

浴衣の裾を昨日の雨で

少し濡らした私を

大丈夫?と

小さな肩を優しく抱いた

そのあなたは今

夜空の花火となって

私を見詰めていることでしょう

あの夏の日

二人の絆が途切れた時に

もう花火は見ないと誓ったのに

 

 

 8月3日、板橋、戸田で同時開催された花火大会へ行った。天候は雲一つ止めぬ晴天で空からギラギラと輝く真夏の太陽が地上を睨み付けていた。荒川に架かる笹目橋を渡り、打ち上げ会場のある戸田公園方面へと歩を進めた。絶好の撮影ポイントを確保するため、打ち上げ開始の時間より4時間前に荒川河川敷へ。その場所は2019年の花火大会の際に訪れていた事もあり直ぐ近くに救護所があったのを思い出し、さほど苦労せず見つける事が出来た。
 昨年の花火大会は皆さんもご存知の通り病院のベッドで隅田川花火大会をスマフォで眺めていた。予定通りに計画を立て「今年こそは花火を撮る!」と長年の目標を抱いてその日を待ち望んでいたのに、想像すらしなかった心停止…。病室に響いたのは花火の音より大きい看護師さんの声だった。「神戸さん、神戸さん!」悲痛にも似たその呼び掛けで私は死の淵から呼び戻されたのである。私は心臓病を患ってから「九死に一生を得」体験を何度かして来た。最初は12歳の時でやはり不整脈で心臓が止まり失神、その場に倒れ込んだ。周りに人はおらず外灯もなく真っ暗な細い道だった。どの程度倒れていたかは定かではなかったが、自分で気が付いて何事もなかったかのように自宅へ帰った。顔面を強打していたので前歯が少し欠けてしまった。傷だらけの顔を見た祖母が血相を変えて「とし、どうした!?」「転んじゃった」とあっさり返答。それから2週間ほど経ったある日の昼間、実家に帰る途中でやはり不整脈で心停止、そのまま失神。気が付くと道の端にある側溝にスッポリ嵌って仰向けに倒れていた。二人の大人(男性)が心配そうに私を覗き込んでいたが、私は「大丈夫」と言って、そのまま帰宅。その数日後に2度めの緊急入院となった。そして年月が流れ33歳の時に心不全で余命1年の宣告。最近では2013年1月に心原性脳梗塞を発症し、右半身が完全麻痺。この時、意識を失う寸前「もう終わった…」と思った。ところが幸運の女神が微笑んだかは分からぬが後遺症が全くなく10日で退院。2020年4月にはコロナ感染疑い、夥しい咳と血痰、発熱が続いた。肺のX線は真っ白だったが、何故か1週間ほどで完全回復。こうして病歴を振り返るとキリがないのであるが、昨年の心停止は恐怖そのものだった。「死」をいままで以上に実感する事となった。生きている事の尊さ、こうして写真を撮れる喜びは私の人生の全てと言ってもよい。
 花火の話題がすっかり病気にすり替わってしまったが、今回漸く花火をカメラに収める事が出来、長年の目標をひとつ達成出来た。ただ、一つ残念なのはカメラの設定を間違えてしまった事。花火を前にして興奮のあまりいつもの夜景撮影と同じ撮り方になってしまった。本当はバルブ撮影をしたかったのである…。9月下旬に都内でもう一つ花火大会があるようなので撮りに行こうか思案中…。

 

 

 16回目を迎えるニッコールクラブ静岡支部の写真展が開催されます。静岡支部は2009年設立、現在のメンバーは私も含め11人と少ない方ではありますが、Nikonをこよなく愛しカメラ歴の長いベテランカメラマンの集団です。副部長である私の息子『鈴木勇樹』は、世界からも注目を集め難易度の高さで定評のある『ニッコールフォトコンテスト』で昨年、モノクロ部門(組写真)で入選を果たしました。
 そんな息子から今年4月に静岡支部に入会して欲しいとの打診があり、私自身も静岡出身のため、快諾に至った次第です(会費は息子が負担)。支部は構成員10人を切ると存続出来ないため、私に白羽の矢が立った訳です。息子は静岡市葵区にて『パソコンサロンゆうらく』を経営、パソコンに限らずデジタル製品、ソフトなどの講師を務める傍ら、プロのカメラマンとしても活動しており、企業のWebページ制作など幅広くその高いスキルを遺憾なく発揮しております。
 今年の私の誕生日に息子から届いたメッセージを読み胸が熱くなり涙が溢れ落ちました。
 「過ぎ行くはずの風景を一枚一枚カメラで切り取る姿そのものが、まさに詩の一節です。SNSを通じて眺める事が出来る父上のお写真の数々。ただの光景を超え、心の深い感情を映し出しています。心臓病という試練の中でも、父上の強さ、決して諦めない心は、わたくしの大きな支えとなっています…。」
 息子が私の写真を認めてくれた事はこれまで、そしてこれからの撮影ライフに大きな自信を植え付けてくれるものとなりました。そして更にはニッコールクラブ支部活動の支部批評に提出した作品を担当した日本写真家協会会長である『熊切大輔』氏から『最優秀賞』に選んで頂いた事は大きな励みとなり増々精進を重ね、自分にしか撮れない新たな写真活動へのジャンプ台となりました。
 写真展については当初、参加するつもりはなく辞退したのだが、後日、息子から参加して欲しいと強い要望があったため、出品する事となった。作品数は一人4点。東京でしか撮れない作品をと希望があり複数点をデータで息子に送った。写真展を開くとなるとかなりの費用が掛かる。会場費、印刷費、額縁、マットなどなど。今回は印刷・マット代は息子が負担してくれる事となり私の出費はなし。写真は紙に印刷して初めて作品となる。アナログからデジタルに時代は変わり写真もパソコン、タブレット、スマフォなどの端末で見るようになったが、普段見慣れているデジタル画像を紙に印刷してみると驚くほど印象が変わってくる。
 印刷品質にもかなり拘りを持って接しないと希望する結果は得られないようだ。一眼レフを始めて1年も経った頃、将来、写真展を開きたいと言う願望が加わった。個人では費用が掛かり過ぎて現実的ではないが、今回の様なグループ展なら夢を実現させる事が出来る。支部員の皆様が多忙な中で貴重な時間を割いて展示会の準備を1ヶ月前から進めてくれており、頭が下がる思いである。この場を借りて「お疲れさま、ありがとうございます。」と感謝の意を込めたいと思う。
 一つ気がかりなのは写真展が開催されている期間に自分が会場に足を運べるか…。病気を抱えている手前「この日に行く」という約束が出来ない。いつなんどき「心不全」を起こすか分からないため、確実な約束が果たせないのは実に残念極まりない。
 ※静岡支部は現在もメンバー募集中のため、もしこのブログを読み部員になっても良いと言う方がおられましたらご一報下さいませ。

 

しずぎんギャラリー四季

https://www.agora-sgs.jp/shizuoka

 

 

 

 初めてスカイツリーを撮影したのは2012年8月だった。スカイツリーは同年2月に完成しているのでオープン間もない頃。友人と東京ソラマチで待ち合わせし、スカイツリーに上るつもりであったが、全国から観光客が集まっており、4時間待ちのアナウンスが…。とてもそんなに待てなかったのでソラマチの和食屋に入り食事をして帰宅。その帰り際にスカイツリーの真下からパチリと記念撮影。
 その頃はカメラ等には全く興味がなく現在の自分を取り巻く環境は夢物語のようである。今は写真撮影を中心として時間が流れている。一眼レフを始めてそろそろ5年を迎えるけれど、まだまだ覚える事は沢山あり過ぎて眼が回るほどである。今回アップしたスカイツリーはスマフォでの撮影である。最近のスマフォカメラの性能は著しい進歩を遂げており、一眼レフ顔負けの美しい写真が撮れるので驚きだ。
 日本ではi-phoneの人気がダントツであるが、私はガラケーをスマフォに替えてから一貫してSamsungのGalaxyシリーズを使い続けている。2023年5月にGalaxyS23にアップグレードして現在に至っている。カメラ性能だけを見るとi-phoneより解像度が優れているように思う。i-phoneを使った事のない私が呟いても説得力は欠けるが…。
 スカイツリーの撮影スポットは数多くあるけれど、最も人気の高い場所はスカイツリーの下を流れる北十間川に掛かる十間橋で川面に映り込む『逆さスカイツリー』は有名。写真好きの方なら一度は撮った事があるのではないだろうか。私はこの十間橋から更に歩いた所にある歩道橋の上から撮影した。確かブログにもその写真を投稿した記憶があるのだが…。スカイツリー本体と川に映り込んだスカイツリー2つの全体像を撮ろうとすると斜めの構図でないと入らなかった事を覚えている。
 スマフォで撮影していた頃の写真を見るとやたらと斜めの構図で撮りまくっていた。どうも斜めが大好きだったようである。一眼レフを始めて間もない頃はその斜め撮りのクセが抜けなくて風景写真の殆どが斜めだった(^_^;)。三脚を使い本格的に夜景を撮るようになってからよほどの事がない限り斜め撮りはしなくなった。スカイツリーは夜景のライトアップも素敵であるが、私は夕暮れに染まるスカイツリーの方が好きである。

 

 

恋も未練もみな捨て去れば

いつかあなたを忘れるかしら

移ろう季節に手を伸ばし

届かぬ想いと知りつつ待った

雨の季節が過ぎればきっと

たたんだ傘に涙雨

 

滲んだ恋は涙のせいね

流れる雫と一緒に濡れて

恋に溺れる魚になった

泳ぎ方すら忘れて独り

色づく季節にさよなら告げて

咲けどみだるる花の雨

 

ひとりよがりの恋だった

あの日あなたの背中を見詰め

せめてあなたの心に届く

花になりたい咲かせたい

例え命が枯れ果てても

命燃え尽きるまで咲きましょう

 

 

 

 

 一年前のほぼ同じ時季に白山神社の紫陽花は撮ったのだけれどその時はどういう訳か撮影意欲を掻き立てる出会いが残念ながらなかった。だが今年は違った。咲いている花は同じなのにカメラを向けると訴え掛けて来るものがあり、それをファインダーを通してビシビシと感じたのである。一球入魂ではないが、シャッターを切る時、全身全霊で被写体と向かい合う。命が宿っている生命体の美を超越した世界観を垣間見たような感触を覚えつつ、あらゆる方向から撮って行く。
 それほど広くない白山神社ではあるが、神社裏手の小さな公園の花壇にも数多く花を咲かせていた。「文京あじさいまつり」の行われる期間はおそらく来場者で埋め尽くされるだろうと思いそのイベントを避けて「まつり」の前に訪れた。期間限定で公開される有名な「富士塚」の紫陽花は撮れなかったが、日中の明るい内から日没までかなり長い時間を紫陽花の撮影に費やした。
 陽が西に沈み神社や公園に設置されている外灯が点り始め、薄暗い中の明かりを頼りにそれらの光を掻き集めて最も印象的なガクアジサイを集中的に撮影。公園内はその外灯で意外と明るかったが、気が付くと辺りには人の影も消え失せており、その夜の静寂の中にシャッターを切る「パシャパシャ」の音だけが夜の闇に吸い込まれ木霊していた。時計を見ると20時を回っており、慌てて帰宅の途に着いた。