「現代の貧困」 岩田正美 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

「現代の貧困」 岩田正美

現代の貧困 岩田 正美
 日本における「貧困研究」は少ないです。ルポや自伝みたいなのはあっても・・・。なぜかというと世間もアカデミックも忘れていたから。この本は冒頭から「貧困」自体を正確に測定することの困難さを説明することからはじまっています。また、本書からはアカデミックの中での「貧困研究」自体の困難さも伺えました。

 著者の岩田正美先生は日本の貧困研究の第一人者だそうです。『犯罪不安社会 』を読んでくださった方が気づかれると思いますが、「犯罪」は「貧困」との関わりから逃れることはできないと気が付き、自分で興味をもっていろいろな文献を読みましたが、数少ない日本の「貧困」研究をされている岩田さんの本はとても勉強になりました。こういった新書でわかりやすい本は貴重だと思いました。
 以下本書に書いてあったことです。
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 1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」という有名なフレーズで戦後の復興をうたいあげたが、同年の厚生白書は『果たして「戦後」は終わったのか』と反論し、復興の背後に取り残された人々の貧困を最低生活基準すれすれのボーダーライン(境界)層として示し、それが972万人いることに警鐘をならした。(略)「総中流化」の中で、戦後復興下の格差と貧困に継承を鳴らした厚生省(当時)も含めて、きれいさっぱり貧困問題の追求をやめてしまったのである。
 私ははじめて大学に就職した70年代の半ば、「新しい貧困の意味」という小さな論文を書いて直属の教授に叱られたことがある。貧困のような「古くさいモン」をテーマにすることはまかりならない、というのであった。貧困ではなく、消費者問題や高齢者のケアなどの新しいテーマに向かうのが当然と、教授を考えたのであろう。
 例外は、時々思い出したように登場する識者の「清貧」論か、テレビやコミックスのビンボー物語である。めざしを食べていた実業家、戦前・敗戦直後のつつましいけれども人情あふれる生活の賛美、あるいはビンボー脱出をテーマにしたテレビ番組等々。(略)もちろん、それらは現実の「貧困」を「再発見」したものではなく、「非日常のファンタジー」であり、いわば「飽食時代のスパイス」に過ぎない。
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 いまや年金天引き制度をすでに成立させている厚生省ですが・・当時そのような白書は出していたとは知らなかったなあ。
 そして岩田正美先生が筑摩書房のサイト で以下のようなことを書いていらっしゃいます。現在の状況とよく比較される昭和初期の貧困の言説状況や調査について、です。
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 都市下層の人々は、自由労働者・日雇、都市に流入してきた求職者、労働宿泊所の泊まり客、救済制度の対象となる要保護世帯、不良住宅地区等々、多様な角度から徹底的に把握されている。これらは主に社会事業やここから分化しつつあった労働や住宅等を担当していた行政が、それぞれの関心から直接調査を行ったもので、今読んでも臨場感があり、当時の「下層」の実態や、これに対応しようとした行政の視点がよくわかる。むろん調査をやったからといって積極的な政策が出てきたわけではないし、種明かしをすれば、これらの調査そのものが知識階級失業対策事業の一つだった。が、それにしてもこれらの資料に述べられている多様な「実態」は迫力と臨場感がある。(略) 
 これはどうも70年代ごろからの日本社会の特質ではないかと思うのだが、社会の精神分析のようなものばかりが好まれる。だから具体的な貧困そのものは置き去りにされて、それが生じている社会を高みから分析する、場合によっては貧困を茶化す、というような傾向が強い。
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 「知識階級失業対策事業の一つだった。」とは・・・キツいひとこと・・・がそのとおりなんでしょうねえ。

 参考に(というか思い出したのですが)書評家の豊崎由美さんと岡野宏文さんが当時の小説について以下のようなことを著書『百年の誤読 』のなかで語っています。

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豊崎 驚くべきことに『蟹工船』(※ちなみに昭和4年)が発表された頃、有力新聞紙のほとんどが左翼小説で埋められたんですって。

岡野 意外だよね。てっきり一方的に弾圧されるばかりのマイナーな分野だと思いきや・・・。さすが貧乏文学隆盛の1920年代のいうべきかな。

豊崎 ま、川端康成ら新しい文学の一派の台頭によって、すぐに消えたらしいんですけどね。康成なんかフフンと鼻で笑って「あんなものはいずれ早晩落っこちますよ」と予言してたんですって。ところで当時の労働者って新聞購読する金銭的余裕なんてあったんでしょうか。意外と裕福な家庭のマダムが遊園地のアトラクションを楽しむみたいに、貧乏くさいナップ小説読んでたんじゃないかな。「あらまっ、やだ。貧乏って怖いわねー」なんて驚嘆の声を上げながら。


豊崎 しかしですね、この蟹工船ってのに高等遊民の代助を乗せたかったですよ、わたしはっ。

岡野 代助!トヨザキにとってあらゆる文学の試金石、代助(苦笑)。

岡崎 だって地獄ですよ、地獄。脚気で死んだ人の顔いっぱいに蝿がたかってるだの、北海道の炭鉱じゃマグロの刺身のような肉片が坑内の壁にべったりついてるだの。トロッコで運んでくる石炭の中に指がばらばら入ってるだの。

 

岡野 僕が面白いと思ったのは、この「蟹工船」の「工」が工場の「工」だってこと。ようするに加工船だから船舶の漁に関する就業法規に従わなくてもいいんだっていうわけ。じゃあ、本当に工場なのか、労働法はそれに従って運用されているのかというと、それはもう海の上だから関係ないってことで栄養失調で死ぬほど働かされるわけだよ。その悪巧み。経済、ゼニもうけへの熱意ってほんと面白いこと考え出すなって感心した。

豊崎 船の監督が、この事業は一会社の儲け仕事じゃない、〈国際上の一大問題〉で〈日本帝国人民が偉いか、露助(※ロシア人の蔑称)か。一騎打ちの戦いなんだ〉って抜かしやがんのね。だったら、競争に打ち勝つためにのメシくらいちゃんと食わせてやれよ。

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 ちなみに豊崎さんがこの本のなかで、たびたび言及する代助っちゅうのは夏目漱石の『それから 』に出てくる主人公のエリート青年なのですが・・・最初の代助への豊崎さんのつっこみは笑ってしまったので抜粋しておきます。

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岡野 これはさ(『それから』のこと)、知的エリートが、どうやって自分の信条と生活の折り合いをつけていけばいいのかっていうことを考察した実験小説なんだよね。

豊崎 実際新しいですよ。特に代助が。だって、この人、朝風呂入ってんですよ。朝シャンですよ、明治の時代に!

岡野 しかも、歯を丁寧に磨いて、肌をぴかぴかに手入れして、そんな自分を鏡に映してしばしうっとり(笑)

豊崎 で、食卓につくと〈熱い紅茶を啜りながら焼パンにバタを付けている〉って・・・プーッのくせにっ! こういう小説読んで、明治時代の庶民は反感覚えなかったんでしょうかね。

岡野 その庶民のこともボロクソ。身の回りの世話をしてくれる書生を指して〈代助から見ると、この青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰まっているとしか考えられないのである(略)彼は必竟何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さえある〉。

豊崎 泣くね、そんなこと言われたら泣く、号泣する。

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  『百年の誤読』はもとの本を読んでなくてもおもしろいし、もとの本を読んでみたくなります。豊崎さんのエリート突っ込みがほんとに受けます(いやあ日本のエリートって、総体的にはとても優秀なんだとは思うのよ)。


 岩田先生の本に戻ります。

この本を読んでいて嬉しかったのは、うちのブログにたびたびコメントをくださる、山野良一さんが引用されていたこと。181頁からの「児童虐待と若い家族の貧困」という見出しから186頁までをご参照ください。もうお読みになってらっしゃるでしょうか?

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 今回の『現代の貧困』は、格差論、「下流」論の流れの中では後発グループに属するが、単なる格差論の延長でなく、また高みからの文明論でもなく、まっとうで地道な貧困論を一般の読者に届けたい、という編集者と私との一致した思いで出来上がっている。ありていにいえば、地道な貧困論は一般の方々にはわかってもらえないのではないかと懐疑的になりがちな私を、編集者が叱咤激励してようやく出来上がったというべきであろう。

 これまでの格差論や「下流」論と貧困論の違いを感じていただきながら、貧困の大きさだけでなく、貧困の「かたち」やそこに釘付けにされた「不利な人々」と、その不利を作り出す構造に関心をもっていただけたら、ありがたいと思う。

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 正座して読まなくちゃ。