センセーショナルな犯罪報道の先には何が待っている? | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

センセーショナルな犯罪報道の先には何が待っている?

 マスコミがセンセーショナルに流す報道、それによってわたしたちが「常識」として受け入れてしまう「治安悪化」の先に何が待ち構えているのか、それを書こうと思う。


 こちらも龍谷大学の浜井浩一さんの論文を参考に下記に要約させていただく。

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 日本の刑事政策の大きな特徴に、刑務所人口の安定があった。欧米諸国で過剰収容が問題となった20世紀後半、また大戦後においても、30年以上日本は過剰収容を経験していない。

 犯罪率が多少上昇傾向にあった昭和末期から平成初期にかけても刑務所人口は減少しつづけている。ところが日本の刑務所人口は1993年を底とし2000年には初めて定員を超える。無論、過剰収容は「犯罪が増えたわけではない」。つまり、今迄犯罪として実刑ではなかった者が刑務所に入ってきているのだ。

 刑務所の過剰収容の報道は、あたかも凶悪犯罪が増えたかのごとく文脈ではあるが、立件数が増えたのである。さらに世論に伴う「法の目の拡大化」があり、その原因は犯罪不安による厳罰化である。

 政治家にとっては、厳罰化の流れに異議をとなえることは国民の声を無視していると受け止められかねない。交通事犯に対する刑法改正の場合、参院本会議において、反対ゼロ票で成立しているのが証左である。

 刑務所の過剰収容はゴミ問題に喩えるとわかりやすい。

(不謹慎ではあるが、わたしが決して受刑者をゴミ扱いしているわけではない)

家庭や企業から排出されたゴミがあふれた場合、ただ単にゴミ捨て場や焼却場を増やせばよいものではない。現実問題として、処理能力を増やすには限界があり、ゴミ焼却場を増やすことは、予算も必要である。実際処理しきれなくなったゴミが出現し、ゴミのたらいまわし、不法投棄など新たな社会問題が起きる。

 犯罪者を刑務所に入れて社会から捨てた気になっても何の解決もしない。 受刑者の多くはいずれ社会に戻る人たちであり、ゴミにふたをしただけでは、そのつけはいずれ社会が負うことになる。

 ゴミ問題では国民にそうした問題を徹底周知し、ゴミを減らし、リサイクルを促進するように啓蒙することをやってきた。同じことが必要だ。

 凶悪犯罪が本当に増えているなら、力の有り余っている凶悪犯人が収容されてくるだろうが、そのようなことはない。

 刑務所人口は労働市場をコントロールするメカニズムがあるという研究がある。厳罰化によって、高齢者、心身障害者など市場価値がなくなった人から順に送り込まれているとされる。

 高齢となって仕事ができなくなり、初犯(執行猶予期間中)にもかかわらず、さつま揚げ一個の万引きで老人が受刑する姿をみると、福祉の手から漏れた人々にとって刑務所が最後の受け皿になっている気がしてならない。

 また近時、外国人の犯罪が大きな問題となり外国人受刑者が増加している。その多くは就労目的で来日である。日本の経済失速によって働き口を失った結果生活費目的の窃盗などの微罪で違法行為に手を染めた人たちである。人口10万人当たりの受刑(拘禁)率で比較すると日本人の受刑率は35.8人であるのに対して難民認定され日本に定住している(日本しか帰るところのない)ベトナム人の場合644.4人で18倍である。

 厳罰化によって、高齢者、心身障害者、外国人らが送り込まれてくるのをみると、まさに労働市場で価値がなくなった人から順に送り込まれているのではないか思うほどだ。

 最近は再犯期間5年を超えるいわゆる準初犯者がじょじょに増加している。再犯期間が30年を超えるものも少なくない。つまりいったん立ち直ったものが高齢になるに従い不況の波をかぶって戻ってきている。

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 刑務所人口の増加はやはり少年犯罪報道が活発化した時期と重なる。少年法改正を契機に厳罰化トレンドにシステム構築の流れが変わったのは確かだろう。

 ただ、私は以前の少年法改正について、一概に反対というわけではない。やはり少年法は事実認定については問題があったし、犯罪被害者については全く想定していなかった。何か起きたときにシステムをどうするかという議論は安寧な社会システムを作るうえでは欠かせない。きちんとしたデータをもとに話すべきことだと感じる。

 しかし、少年法改正に、現実化してしまった被害者化思考は、どうしても「厳罰」を欲望する。被害者の気持ちは痛いほどわかる。しかし、そこから、あふれ出すものがより大きな不幸をうむ場合のことは考えなくてはいけない。量刑も実態をふまえた議論が必要である。

 社会全体が許容性を失うと、法の網の目は広がり、刑務所を増やさなくていけないという短絡的な解決案が生まれてしまう。日本の刑務所の、更正のシステムは、受刑者の刑務所間の流動を前提に作られている。

 アメリカの例にあるように、経済不況の緊縮財政において治安維持費を増額させるためには福祉の予算が犠牲になることが少なくない。いまや日本は残念ながらそういうトレンドだ。

 浜井教授は論文をこう締める。「アメリカのように200万人もの国民を投獄して安心を買う国になるつもりなのだろうか。」と。

 そのとおりだと思う。そもそもアメリカのような治安状況と日本は全く異なる。
将来、刑務所をたくさん作ることになれば、その税金は実態にそくしたものではないだろう。福祉の予算を削ってまで、治安にリソースを注ぐ奇妙な熱意に対して、冷静にならなくてはいけないなと思う。
正直いうと、数字をみるのは非常に難しい。浜井教授がいっているように、「再犯率」とりまとめて出されると、準初犯というような数字は見えてこない。「性犯罪者」の再犯率は高いとされ、さまざまな統治方式がすごいスピードで作られているが、ほかの罪種のほうが高いものもあるし、再犯をどう定義するのかも非常に重要なのである。
私はマーケティングの仕事をしているので、コストと手間と効果をいつも考える。犯罪者の調査にお金をかけて、犯罪予測という効果が確立されたこともないものは、選択しない。
「地震予知」のために、国中を掘り返している莫大な予算の使い方をどうしても無駄に思ってしまうかんじに似ている。全部調べられないし、地震が起きるときは起きる、と考えるからだ。現在の犯罪予測もそんな「夢」を追いかけている気がする。再犯をしなかったものを調査し、どういう手当てやサポートがあったのかを調べ、福祉的な方法を考えるだろうなあと思う。

 

参考文献

浜井浩一(龍谷大学 教授)

「過剰収容の本当の意味」矯正講座23号 2002年

横浜刑務所首席矯正処遇官のときの論文

浜井教授の論文は、受刑者を「ゴミ」と喩えている。一瞬そのたとえに驚くかもしれない。しかし、そういう喩えを使ってまで、「わかりやすく」伝えたいという気合を感じる。この論文は学者然とした、わかりにくさが全くない。「伝えたい」という気持ちがとても通じる。ぜひ本稿をあたっていただきたいと思う。