それでも無縁社会は大問題な気がする
●NHK「無縁社会」はイライラしたが、「無縁社会」自体は現代の大問題であると思う。
NHKでやった討論会みたいなのは本当につまらなかった苛々(イライラ)した。
しかも、なんか自作自演もあったみたいで、もめている。
とは言うモノの無縁社会って現代の解決せねばならぬ問題の一つだろうと思っていたので見たのだ。
そもそも、無縁社会ってなんぞや…それをwikiさんに聞くと
無縁社会(むえんしゃかい 英:unconnected society)とは、単身世帯が増えて、人と人との関係が希薄となりつつある現代社会の一面
とある。
世の流れに逆らって生きる僕が何故こんなキャッチーな言葉に惹かれたかと言うと、ミドルエイジクライシスというNHKの番組を見たからだ。
15分くらいの映像なので見てみて欲しい。
父1人、子1人の家庭の話なのだが、働きながらの子育ては実に大変そうだ。
思ったのはどうして誰か彼を助けてやる人がいないんだろうということだ。
近所のおばちゃんでも何でもいい。
こんだけ人間の多い日本なんだから、誰かが彼を助けてやれることできるだろう。
児童施設にランドセルを送っている暇があるなら彼を助けてよ。
なのになぜ誰も彼を助けないんだ?
そう思ったのだ。
もちろん、本当は助けてあげる人が沢山いるけれども、NHKが無縁社会キャンペーンのために、そういう部分を報道しないでいるという可能性もなくはないが、僕はこの映像を見て、誇張はあるにしても、こういう「無縁社会」が実際に存在することの「蓋然性」を強く感じた。
(蓋然性【がいぜんせい】…ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。)
●「無縁社会」の生じる必然的メカニズム
明治の富国強兵から、太平洋戦争後の高度成長に至るまでの、爆発的な経済成長が、この問題発生の背景にあると僕は思っている。
この150年間の高度成長を支えたのは技術成長もあるが、大きい部分として、人材の移動、生産要素の生産力拠点にたいする集中化があると思う。つまり、各地方に散らばっていた人材を、生産拠点に移住させることによって生まれる「規模の経済」や「集積効果」が、150年の経済成長を支えた、そう思うのだ。
江戸末期にあった305の藩を47の都道府県に整えたこと、個別地域の最適化ではなくて、日本国全体としての最適化を行ったことが、日本の150年の高度成長を支えた。
このときに起こった感情的な軋轢が、たとえば大正の女工哀史のような話であったり、あゝ野麦峠であったりした。さらに言えば明治末期から大正の労働運動だってこの地域を越えた資本主義的な生産要素の配置の最適化によって生じた感情的な問題が発端だろうし、226事件だってそうだ。
で、戦後の高度成長期には団塊の世代と後に呼ばれる人々が「金の卵」とよばれ中学校や高校を卒業するとすぐさま田舎を離れ東京などの生産力拠点に移住することとなる。これも同じ流れだ。
つまり、議論を再整理をすると、日本の150年の経済成長は、もっとも重要な生産要素である労働力の配置を全日本的に最適化すること…「故郷」から「会社」に移住させることによって生まれた。
だが人間は「共感」を必要とする社会的な存在だ。
地元から切り離された人々は、生きるために必死に「共感」の基盤を作る。
郷土愛はもちろん、母校愛、愛社精神、同じ冷遇を受けている労働者への共感としての労働運動、新興宗教…
それらの様々な装置が、この全日本的な生産要素の最適化を側面から支えることになった。
なかでも重要なのが愛社精神と言うやつで、というのは、そもそも労働力の移動が生産活動にまつわることだから、この「故郷から会社への移住」を正当化するうえでも、「会社」自体を共感の基盤とみなす愛社精神が、一番ポピュラーな共感基盤になるのは必然であった。
とくに太平洋戦争後は、日本全体を覆う共感の基盤としての「国家」が消えてしまったのだから、なおさらこの「会社」という共同体の重要性は高まる。他に共感を生み出す基盤が無いからだ。
終身雇用と呼ばれていたのも、こういうことが裏にある。日本の「会社」とよばれるもの、あれは「会社」じゃない。「会社」と言う名の「故郷」なのだ。「故郷」なんだから、そこを抜ける意味が無い。よっぽどラディカルな人でないと「故郷」は捨てない。
だが、問題は、「会社」はやはり共同体ではなく「会社」であったということだ。
バブルがはじけ、「会社」=「共同体」の欺瞞が継続不可能となる。
リストラや実力主義なんて言葉が流行する。
自分で自分のキャリアを守るためにMBAを取得したり、転職をしたり、そう言うことが起き始める。
昔は、会社で、家庭の事情を話したり、ときには社宅で、お互いの家庭的不都合をカワリバンコに補っていたことが、「え、どうして?社宅の掃除をみんなでやんなきゃいけないの?」という声が出てくる。最初は小さかった声もそう言う声が増えれば、どうどうと言えるようになってくる。同じ社宅に住んでるからって、何でもかんでも互いに知っているようなことはなくなっていく。
日本の「会社」が横並び出世だったのは、共感の基盤を崩さないためだ。
剛腕の変人よりも、凡庸な人格者が選ばれてきたのも同じだ。
だが、それはバブルまでの話だ。
バブル以降は、抜け駆けをして頑張ったやつが報われる。
となると、お互いのマイナスは打ち明けないことになる。
「あそこは家庭に問題あって大変だから、いつ仕事を投げ出すか分からない。だから、この仕事任せるのやめときましょう」
そう言われるのが怖くて、問題があっても同僚にも上司にも打ち明けない。黙って頑張る。
会社の人に打ち明けても仕方が無い。もはや「会社」は「故郷」なんかじゃない。たんにビジネスの場にしか過ぎなく共同体ではないから、よっぽどでないと助けあわない。それぞれはそれぞれの生活がある。
会社は会社だ。
だからそういうドライな姿になったのは別に間違いではない。
間違いではないが、「会社」だけが唯一の「共感」の基盤だった人々はどうすればいいのだろう?
途方に暮れる。
「会社」は「故郷」だから安心ですよと東京に連れて来られた「金の卵」。それは嘘ではなかったが、その約束は孫の代で放棄された。残ったのは「故郷」を無くして途方に暮れる「金の卵」の孫たちである。
これが「無縁社会」が生まれた理由であると僕は思う。
僕が「無縁社会」が現代に大問題としてあることに「蓋然性」があると言ったのはこのためだ。
●「無縁社会」は必然であるが、それが問題であるのは、人間にとって共同体が重要である場合だ。
ただ、この議論には前提がある。
上の方で「人間は「共感」を必要とする社会的な存在だ」と書いた部分だ。
これが前提になっている場合にのみ「無縁社会」は大問題だ。
しかし、そもそも、この前提を是認しない人はいると思う。
人間は「個」であって「共同体」なんていらないよ、という人だ。
そう言う人は「会社」が「共同体」でなくなってなんの問題があるの?ようやく人間が近代的「個」人として自立すべき時が来たんじゃない。今さら共同体が必要って馬鹿?というわけである。
僕の尊敬する池田信夫氏もそういう論調のような気がする。
だが、僕は「共感」の基盤としての共同体は必要であると思う。
その証明はほぼ不要で、「人は独りで生きていけないから」という凡庸な慣用句で足りる。
誰かが困っているときになぜ人は助けてやるのだろうか?
子供に、「どうしておばあさんに席を譲ってあげなきゃいけないの?」そう聞かれたらどう答えるか。
「いつか、お前がおばあちゃんになった時に席を譲ってもらえないと嫌だろう?」そんな答え方をするか?それは利他行為を利己的行為に読みなおす言い方だが、子供はそんなことを納得しないだろう(もちろん納得する子供だっているだろうが)。自分がおばあちゃんになるというのは子供にとって論理的には分かっても、心の底から納得のいく論理ではない。
「おばあちゃんに席を譲る」理由は決まっている。それは問答無用で「席を譲りたくなる」からだ。理屈は必要が無い。たとえば、目の前のおばあちゃんが知り合いのおばあちゃんで、彼女の足がどれほど弱っていて大変か知っていれば、おばあちゃんに席を譲ることに理由はいらない。共感とはそこにある。知り合いのおばあちゃんじゃない場合はどうか。知り合いのおばあちゃんに似た人がいればそれでいい。似ているから、理屈不要で、そのおばあちゃんに同情し席を譲ることができる。知り合いにそのようなおばあちゃんのいると感じることのできる状況を作り出すのが共同体の役割だ。他人にいかに共感できるかその基盤を作り上げるのが共同体だ。
そこには介護サービス云々という市場システムを通す行為とは別種の行為が存在する。
もちろん、市場万能主義者なら言うように、「電車の中で席を譲ってもらう権利を売買するマーケットを作ればいい」という意見もあるかもしれないが、しかし、その意見が如何に笑うべき意見かは言うまでもないだろう。
マーケットで取引可能な財やサービスばかりでないことをもう一度思い出すべきだ。
先のNHKミドルエイジクライシスに描かれている父子家庭も、ご近所隣り組があれば、それでその生きることの大変さはかなり軽減することができるはずだ。
●新たな共同体と古い共同体
「ご近所隣り組」と思わず書いた。
古っと思われる人も多いと思う。
池田信夫さんも「日本は本来「有縁社会」で、その縁が失われるのは嘆かわしいという湿っぽいノスタルジア」と言っている。
「ご近所隣り組」という縁はまさにその湿っぽいノスタルジアの最たるもののようにも思えるだろう。
だが、僕には、この「ご近所隣り組」がやはり必要だと思わざる得ない合理的理由があるような気がする。
「ご近所隣り組」が必要であることを説明するために、そうではない新しい共同体のことを考えてみる。
それはfacebookによる共同体である(mixiでもいいが)。
facebookは人々をつなげるものであり、それは人間を幾つもの属性に分解し、それぞれのクラスタでの共同体を仮想空間に形成することができる。
これまで「会社」などの共同体が果たしていた心理的部分はある程度、その仮想空間での共同体でカバーできるだろう。
だが、やはり先のミドルエイジの父子家庭のことなどを考えればわかるが、ご近所の味方に勝る味方を考えられるだろうか?
facebookなどネットによるつながりは、距離に関わらず心を近づけてくれることにメリットがある。
だが、いま「無縁社会」をつなぐに必要なのは、あの父子家庭がそうであるように、実際に手を貸してくれる物理的距離の近い人だ。もちろん、馬鹿市場主義者が言うかもしれないことのように、そういうサービスを考え出すこともできるが、それがどれほど隔靴掻痒なことであるか。
今まさに弱り切って自殺しようとする人がある。必要なのは、ネットを使って彼を止めてくれるサービスを検索する人ではなく、いまそこに行って、死のうとする彼を抱き止めてやる人だ。
そう考えたときに、古いかもしれないが、僕はやはり「ご近所隣り組」に勝る新しい共同体を思いつかないのである。
●僕らのすべきこと
もちろん池田信夫さんが
ハイエクも論じたように、どんなコミュニティも自生的秩序として維持されるかぎりにおいて続くのであり、コミュニティを政府が作り出すことはできない。個人主義にもとづく市民社会は快適ではないが、日本が自由経済システムをとった以上、後戻りは不可能である。政府の役割は縁を作り出すことではなく、個人の自立を支援する最低保障だ。未練がましい無縁社会キャンペーンは有害無益である
と言うように、たしかに、その共同体の生成を、政府が行うべきというのは違うのかもしれない。
しかし、新しい共同体は自生的に現れてくるだろうか。
現れてくれればそれに越したことはない。が、自生的に現れたものが全ていいかどうかは分からない。変な草木が生えてしまい、出来た後にもう一度それを全部焼かなければいけない場合もあるかもしれない。
僕はいま新興宗教がその場所に立ち現れる可能性を感じる。ナチス的な何かかもしれない。
心の隙間に忍び込むのはいつでも怪しい存在だ。
池田信夫さんが言うように、雇用の流動化を推進する政策こそがいま必要なのは間違いが無い。
それは急がれなければならない。
茂木健一郎さんが言うように、就活などの古臭いシステムも破棄しなければいけない。
それは本当に大事なことだ。
だが、それだけでは足りない気がする。
NHKミドルエイジクライシス「父子家庭を生きる」に出てきたような、弧絶した家族に手を差し伸べる「何か」が必要なのではないか。
映画「悪人」や映画「告白」そして映画「海炭市叙景」、最近上映された映画に描かれている悲劇の根底には、すべて共同体の破壊がある。三池版の「十三人の刺客」であっても、やはり共同体の機能不全を描いている。
問題はみんなが気付いている。
その解決に必要なのは新しい共同体なのか古い共同体の復活なのか、だとすれば、誰がその共同体を作るのか。政府か自生的に発生するものなのか。それとも共同体などいらない世界に突入するのか。
その答えをまだ誰も知らない。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
本来、人間は他人と交わりたいモノなのです。本来もっている…まさに本能だと、私は思います。 中には過去の出来事がトラウマになって自ら他人と隔絶する人もいるでしょう。
共同体は今でもしっかり生き残っています。都会や地方は問わずです。
ですが、やはりバブル崩壊以前より結びつく大きさが小さくなっているのです。
地域全体ではなく、ごく、小さな単位に…核家族ならぬ核共同体と云うべきでしょうか。
むろん昔のようなコミュニティーだって残存しています。
明治以降、日本は世界に追いつけ!追い越せ!でやってきました。
先の戦争で国土は灰燼となり、また1から追いつけ!追い越せ!でバブルを迎え、世界一の経済大国となりました。
しかし一番になったら、目標を見失い、バブル崩壊で日本経済は凋落の一途…
政治家から庶民まで自己保身に走る有り様。
お年寄りに席なんてゆずりません。
身勝手な日本人が増えました。
あるTV番組を観ていてもコレってナシです!って思います。
身勝手な人が増えたら地域共同体なんてなりたちません。
だから単位が小さくなっていると思います。
昔でしたら困っている人に手を差し伸べたら素直に受けて下さるのが言わば当たり前でしたが、席を譲っても「年寄り扱いするな!」と逆にいわれて、次から言えなかったり、例えば公共交通機関で子供が騒いでいるのを他人が注意しても「ウチの子が何か悪いことしました?」とか、たとえ叱ったとしても「ほら、おじちゃんが怒ってるから止めなさい。」など親の教育が間違っている為に大人になって自己保身に走ったり自己反省ができない身勝手な人間になってしまうと思うのです。
要因はこれだけではありませんが、もう少し「他人(ひと)の痛みを知る」=思いやりを持つ、事が大事なのではないでしょうか。
思いやりがあるならイジメも減るでしょうし、ケンカをしても殺すまではしないでしょう。
あ、忘れてはいけないのがマスメディア、TVの存在です。
人の命を軽く描く番組が多いです。
人が生き死にするのがどれだけの事なのか…
今の日本人にはその意識が低い。
ネット上で簡単に「死ね」という言葉が横行する。
人の命はそんな簡単なもんじゃない。
感情的になってしまいましたが…
すいません。
私の意見は間違っているかもしれませんが、こういう意識を持つ人がまた増えたら日本は良くなると思います。
日本人は基本的に優しいですから。
投稿: にっし~ | 2011/02/16 07:01
個人と社会(国家)の関係はアリストテレス以前からの人類の課題としていまだ最適解が見つかっていないのではないかと思います。
個人的には「つながり程度」つまり最適な距離感は個々によっても異なり、また、外部的環境の変化や時間によっても変わってくるものだからではないかと感じています。
プライバシーが無い共同生活に永く居ると個としての欲求が大きくなり、孤島で永く暮らせば人恋しくなるものです。そういう意味では日本も社会的な発展途上国であり国民自体が昇華して最適解に収束するよう国家の役割も重要になるのではないかと思います。
また、物事はへある方向へ収束する場合と発散する場合があり良い方向へ収束する場合は自由に任せても良い場合がありますが、発散する場合はその悪循環をどこかで制御する力が必要になります。
これもバランスが重要で制限するか自由にするかというステレオタイプで考えるのではなく両方のバランスを常に監視して対応して行く必要があると思います。
投稿: | 2011/02/18 07:31