フィンランドの英語
教育はとても興味深いものでしたので、触れておきたいと思います。
フィンランドでは、みな当たり前のように英語が話せます。フィンランドで暮らす外国人は英語だけで生活していけるので、わざわざフィンランド語を覚える必要がないくらいです。
それに比して、私達日本人は、概して英語がからっきしダメです。
英語は中高6年通して最も力を入れてる教科ですし、英会話学校の数も日本が世界一です。にもかかわらず、TOEFLの順位は世界110位。
何故こうもできないのでしょうか。
時々聞かれる言い訳(?)が日本語と英語では文法が違いすぎるから、というものです。
しかし数ヶ月も英語圏に留学しホームステイすれば、英語のコミュニケーション能力は驚くほど上達します。その習得能力は他国からの留学生と特に遜色ありません。母国語との文法の違いは、いつまでも言語習得の大きな障害にはならないでしょう。
6年以上毎日勉強しても、海外で数ヶ月英語漬けの生活を送れば習得できるレベルの足元にも及ばない・・これはやはり日本の英語
教育はどこかががおかしいのだとしか思えません。
日本での英語の授業と言ったら、次のようなものです。
日本で私が受けてきた英語の授業というのは、オーラルコミュニケーションの授業以外は、日本語で行う。(略)
授業前は、まず長文がひとつあれば、タイトルから文章まで、分からない単語は辞書で意味を調べてくる、これが予習のひとつとなる。その後、授業内で先生とその意味を確認しながら、文章を文ごとに区切り、分解して理解していく。これが主語、これが述語、これが目的語、これはこの構文、と言う具合だ。最後に分解した文章をつなぎ合わせ、全体的な意味を確認する。ひとつの話につき、相当なスピードでやっても3,40分はかける。2ページ以上の長文は、2時間ほどかけて勉強することもある。
つまり授業では英語というのは読むものではなく、解くものであって、それは私にとって数学と同じだった。(p.101より)
日本で私が経験していた英語のテストというものは、文章を読んで日本に訳したものを覚えたり、単語を覚えたり、動詞の活用を覚えたり、とりあえず覚える作業が多い。電子辞書を常に携帯し、分からない単語があれば線を引いて、その下に調べた意味を書き、テスト前に丸覚え。これこそ日本のテストである。(p.107より)
どれもこれも身に覚えのある体験です(笑)
ではフィンランドの英語の授業はどのようなものでしょうか。
まずフィンランドでは英語の番組や映画などに吹き替えが一切ありません(あってもディズニーアニメくらい)。子どものうちからそれを見て育つのですから、日常で英語を浴びる機会は圧倒的に多いです。
(日本では声優さんによるアフレコは単なる通訳ではなく、もはやカルチャーとして確立した分野ですから、吹き替え無しを真似するのは無理ですね)
英語の授業は小学校からあります。授業は初級でも英語オンリーで行います。たとえ生徒がフィンランド語で質問しても答えは英語でかえってきます。普段英語を聞き慣れているので、子どもは大して抵抗はないかもしれませんね。
授業では頻繁に映画やドラマ、ニュースを鑑賞します。
英会話の授業では、結構スラングを勉強するそうです(「生きた英語」ってやつですね)2,30個のスラングの意味を確認したあと、それをいくつかつかって小芝居をしたりします。
特にひどい間違いをしない限り、先生は文法の間違いに目くじらをたてないようです。
言語は「聞く」「話す」「書く」の三分野ですが、それを全部ほとんど英語ばかりで行います。「聞く」「話す」は勉強というより「英語の回路を頭の中に作って、慣れる」に近い感覚かな、という印象を受けました。
あと、とにかく英語でエッセイを書かせるそうです。授業だけでなく、宿題もテストもとにかくエッセイを書かせます。(もちろんエッセイの内容は自分で考えます。)
真由さんはこのエッセイが大の苦手だったそうです。
言われてみれば、私達は英語で自分の意見を主張したり、長文のエッセイを自分で考えて書くという作業を、授業でほとんどやりませんね。そのせいか、いざ英語で作文しようとすると、まず頭の中で日本語で文章を作り、つぎにそれを英語に変換する、という直訳作業にどうしてもなりがちです。
そういう「ニホンゴエイゴ」では自分の言いたいことがちっとも先生に伝わらず、先生は苦笑ばかりしていたそうです。
「日本語から直訳しながら書いていた私のエッセイは、言ってみれば英語ではなく、日本語だったのだ」と真由さんは書いています。これではいけないと感じた真由さんは発想を変えます。
そこで私はエッセイを書くときには英語で物事を考えるようにした。英語で物事を考えると、単語力の貧しさから考える事柄も小学生なみになるが、仕方ない。重要なのは難しい言葉をわざわざ辞書で調べず、自分の書ける範囲でしっかり起承転結のある文章を書くことだった。
そうしてできた文章は、単語はやはり小学生なみではあったが、今までのエッセイと決定的に変化したことがあった。
それは、先生が私の述べたことを理解したことだった。
これで私は人に読ませるエッセイを書くことに一歩近づいた。
この「簡単な単語を使って言いたいことを述べる癖」(たった今、名付けてみました)は、会話の上でも非常に役に立った。これを実践してみると、まわりの留学生が話す英語も私のレベルとたいして変わらないことに気づいた。(p.113より)
こうして「I~」から始まる文章ばかりで何が言いたいのかちっとも通じなかった真由さんの英語は、「とてもすばらしい」「この1年で驚くほど進歩した」という絶賛を先生からもらうほど上達しました。
ちなみに、真由さんがフィンランドにいる間に最も伸びた能力、それは読む能力と、自分の考えを論理立ててを表現できる能力だったそうです。
とにかく全ての教科でやたらエッセイを書かされるのですが、エッセイを書くとは「自分はどう考えるのか、自分の頭で思考する」訓練であり、「どう書けば自分の言いたいことを人に伝えることができるか」の訓練です。フィンランドでは全ての教科でそれを鍛えるのです。
フィンランドはPISA調査で読解力世界一ですが、こういう授業方針ならさもありなん、です。
ところが面白いことに(と言ったら申し訳ないのですが)、日本へ帰った直後の真由さんの英語のテスト成績は惨憺たるもので、英語のクラスはなんと一番レベルが下のクラスになってしまったそうです!
真由さんは、留学中、フィンランド語の足りないところを英語で補ってプレゼンテーションできるまでになっていたのに、「英語ができない」と評価する日本の学校!
なぜ真由さんが散々な点数になったのか分かる気がします。
だって、自分の経験からも言えますが、日本の学校の英語のテストって、英語で言いたいことを伝えられるか、相手の言いたいことを理解できるかのコミュニケーション能力を見るのではなく「
英語のテスト問題で点数を取るための勉強ができているかどうか」を見るものだからです。
こういう日本の英語学習では、テストでいい点数採れても決して英語でコミュニケーションをとれるようにならないでしょう。
言葉ってコミュニケーションの手段なのだから、英語学習の本来の第一目的は、英語でコミュニケーションがとれるようになることではないかと思います。でもこれじゃ一体何のための英語
教育なんだか・・・って「受験のための英語
教育」でしたね。なんだか6年も努力するのが虚しく思えます。
やはり日本の偏差値
教育、受験
教育の下では、英語も常に点数をつけ順位をつけなくてはなりませんから、語学教育も歪んだものに陥ってしまうのではないでしょうか。
そしてなるほどと思ったのは、何故語学教育するのかの目的がフィンランドではしっかり意識されていることです。次はそれについて書きたいと思います。
(続く)
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