現代思想10月号より、裁判員制度を考える(1)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」
- 2008/10/22
- 12:23
現代思想10月号で裁判員制度の特集が掲載されていました。
安田弁護士と森達也氏との対談や刑訴法の小田中教授の手記など、大変興味深い内容でしたので、ご紹介していきたいと思います。
興味のある方は是非現代思想10月号をお読み下さい。お勧めです。
「刑事司法の死の淵から」安田好弘+森達也(p.28~)より要約抜粋
(光市事件)
弁護団の主張は、当たり前ですが、空想や捏造でなく客観的な法医鑑定や精神鑑定に依拠していました。
殺害方法が検察の主張と違うと言うことも、少年が当時精神的に幼くて強姦という行為を行うのは困難だったろうことも、全て鑑定に基づくものです。弁護団はたとえ奇異に映ることでも法医鑑定と犯罪心理鑑定と精神鑑定の結果なのだから、裁判所も無視できまいと考えていました。
また、どんなに不自然、不合理であったとしても、有利不利を問わず事実は全て明らかにすべきだ、そうでないと事件の本当の姿、彼の本当の姿が明らかにならない、と考えてもいました。
かつてはそれでよかった。刑事弁護はあるべき姿で存在できていました。
でも今ではそれがすっかり変わってしまったことを思い知らされます。
安田弁護士と森達也氏との対談や刑訴法の小田中教授の手記など、大変興味深い内容でしたので、ご紹介していきたいと思います。
興味のある方は是非現代思想10月号をお読み下さい。お勧めです。
「刑事司法の死の淵から」安田好弘+森達也(p.28~)より要約抜粋
(光市事件)
弁護団の主張は、当たり前ですが、空想や捏造でなく客観的な法医鑑定や精神鑑定に依拠していました。
殺害方法が検察の主張と違うと言うことも、少年が当時精神的に幼くて強姦という行為を行うのは困難だったろうことも、全て鑑定に基づくものです。弁護団はたとえ奇異に映ることでも法医鑑定と犯罪心理鑑定と精神鑑定の結果なのだから、裁判所も無視できまいと考えていました。
また、どんなに不自然、不合理であったとしても、有利不利を問わず事実は全て明らかにすべきだ、そうでないと事件の本当の姿、彼の本当の姿が明らかにならない、と考えてもいました。
かつてはそれでよかった。刑事弁護はあるべき姿で存在できていました。
でも今ではそれがすっかり変わってしまったことを思い知らされます。
森氏は、「弁護団は裁判所戦術だけを考えていて、メディアを通じて醸成される民意についての考察や戦術がほとんど欠落していた。それが弁護団のミスではないか」と指摘し、安田弁護士もそのとおりだと答えます。
「弁論欠席した時から世間との乖離が始まるのですが、私たちは裁判所とやりあっているのであって世間とやりあっているのではない。世間を意識すると言いたいことや言わなければならないことも言えなくなるし、やらなければならないこともやれなくなる、そうなったら弁護は終わりだと思っていた」(安田弁護士)
しかし、現実は‘終わり’に一歩近づいていました。
「かつては法廷という限られたスペースが刑事司法の舞台だった。ところがこの十数年、危機管理意識が高揚する過程と並行して、悪を断罪せよとの民意がとても強くなってきた。だからメディアはこのドラマの一部始終を中継する。しかもメディアによって提供されるストーリーは、たった一人で闘う健気な被害者遺族と、凶悪な悪を庇う二十数人の悪辣な弁護士軍団という構図に終始した。
こうして噴出する勧善懲悪的な民意が、刑事司法の場に強いバイアスをかけています。
以前はそうではなかった。裁判官ももっと独立した判断ができた。でも今はそうはいかない。
極論すれば判決は事前からきまっていた。メディアと民意によって。刑事司法は大きくかわりつつあります。ある意味で死にかけている。」(森氏)
安田弁護士も、司法が全体として大きくかわってしまっていたことを認識していませんでした。そこは反省する点であるとしても、じゃあ、どうすればいいのか。
残念ながら答えは今の所見いだせません。なぜなら裁判所はもう被告人、弁護人のほうを見ず、検察、メディア、市民、社会、被害者しか見ないのですから。
刑事弁護を社会に合わせたところで勝てやしない。社会は「救え」でなく「殺せ」と言ってるのだから、手の打ちようがないのです。
「刑事司法は死んでしまったのだと実感させられています。」という安田弁護士の言葉に、現在の刑事司法の絶望的な心停止状態をひしひしと感じます。
森氏は言います。
かつてのやり方が通用するのが本来の司法のあり方だ。民主主義を担保する要因として、もっとも変わってはいけない司法がポピュリズムの暴風にさらされている。この流れを本当はとめなくてはならない。弁護士は闘い方を変えるべきじゃない。それは司法のこの激しい劣化を認めてしまうことになる。
しかしなぜこうなってしまったのでしょうか。
(続きます)
「弁論欠席した時から世間との乖離が始まるのですが、私たちは裁判所とやりあっているのであって世間とやりあっているのではない。世間を意識すると言いたいことや言わなければならないことも言えなくなるし、やらなければならないこともやれなくなる、そうなったら弁護は終わりだと思っていた」(安田弁護士)
しかし、現実は‘終わり’に一歩近づいていました。
「かつては法廷という限られたスペースが刑事司法の舞台だった。ところがこの十数年、危機管理意識が高揚する過程と並行して、悪を断罪せよとの民意がとても強くなってきた。だからメディアはこのドラマの一部始終を中継する。しかもメディアによって提供されるストーリーは、たった一人で闘う健気な被害者遺族と、凶悪な悪を庇う二十数人の悪辣な弁護士軍団という構図に終始した。
こうして噴出する勧善懲悪的な民意が、刑事司法の場に強いバイアスをかけています。
以前はそうではなかった。裁判官ももっと独立した判断ができた。でも今はそうはいかない。
極論すれば判決は事前からきまっていた。メディアと民意によって。刑事司法は大きくかわりつつあります。ある意味で死にかけている。」(森氏)
安田弁護士も、司法が全体として大きくかわってしまっていたことを認識していませんでした。そこは反省する点であるとしても、じゃあ、どうすればいいのか。
残念ながら答えは今の所見いだせません。なぜなら裁判所はもう被告人、弁護人のほうを見ず、検察、メディア、市民、社会、被害者しか見ないのですから。
刑事弁護を社会に合わせたところで勝てやしない。社会は「救え」でなく「殺せ」と言ってるのだから、手の打ちようがないのです。
「刑事司法は死んでしまったのだと実感させられています。」という安田弁護士の言葉に、現在の刑事司法の絶望的な心停止状態をひしひしと感じます。
森氏は言います。
かつてのやり方が通用するのが本来の司法のあり方だ。民主主義を担保する要因として、もっとも変わってはいけない司法がポピュリズムの暴風にさらされている。この流れを本当はとめなくてはならない。弁護士は闘い方を変えるべきじゃない。それは司法のこの激しい劣化を認めてしまうことになる。
しかしなぜこうなってしまったのでしょうか。
(続きます)
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