※ネタバレがありますので、ご注意ください!歴史修正主義者というのは、やり口が世界共通なのですね。言い草がネトウヨと全く一緒で「ホロコースト」を「慰安婦」あるいは「南京大虐殺」「沖縄集団強制死」にそのまま置き換えることができます。上映中、ホロコースト否定論者のアーヴィングの顔を何度安倍首相や小林よしのり等に変換して見たことか
ある日、主人公の歴史学者デボラ・リップシュタットの講義に乗り込んできたホロコースト否定論者のデヴィッド・アーヴィングは、リップシュタットを遮って自説の演説を始めだし、ユダヤ人を殺せというヒトラーの命令書はない、だからヒトラーはホロコーストを命じていないと言い放ち、証拠となる文書を見つけた者には1000ドル出す、と聴衆を煽ります。
これはまさに「慰安婦を強制連行しろと言った文書はない」と一緒です
そして講義を盗み撮りしてたアーヴィングは自分のHPにリップシュタットが彼の反撃にまともに答えなかった動画をあげて「victory!」と勝利宣言していました。
これも「はい論破!」のネトウヨと全く一緒です。
これをPCで見た時のリップシュタットのムカつきは私には嫌という程わかりました(笑)
めっちゃ既視感でしょ?
アーヴィングは、リップシュタットは著作の中で自分の名誉を毀損したとしてイギリスで提訴します。アメリカではなくイギリスで提訴したのは、イギリスでは名誉毀損罪の場合、立証責任は被告にあるから、自分に有利だと考えたのでしょう。
リップシュタットがアーヴィングの標的になったのは、ユダヤ人の女性だったからです。
レイシズムとミソジニー。これも同じです。
ネトウヨが慰安婦問題をことのほか激しく攻撃するのは、相手が韓国人の女性だからで、レイシズムとミソジニーそのまんまです。
弁護団は、法廷ではリップシュタットやホロコーストサバイバーは証言させない、という弁護方針をとります。
ホロコーストは存在したことを法廷で述べたいリップシュタットや傍聴に来ていたホロコーストサバイバーは、その方針に納得がいかず、何度も弁護団と衝突しました。
しかし弁護団は、もしホロコーストサバイバーが証言台に立てば、ガス室への入口は左だったか右だったか、といった重箱の隅つつきな質問をし、記憶が曖昧だったり間違ってたりすれば揚げ足を取り、サバイバー達は嘘つきだと言う絶好の場を与えることになる、として弁護方針を変えることを認めません。
これも既視感ありまくりです。
ネトウヨ達は血眼になって慰安婦だった女性達の証言の細かい食い違いをあげつらって、「ほら見ろ、あいつは嘘をついている」と否定してきます。年月日や場所、それからどういうふうに連れていかれたか等々。
人間は一生PTSDになるような酷い体験については記憶が曖昧になるものですし、既に70年の月日が立っていますから、全ての記憶が寸分の狂いもない方がかえって不自然なくらいなのに。
そして弁護団はこうも言います。
アーヴィングのような人間はサバイバー達に欠片も敬意を抱かず、その刺青(収容所で刺青を入れられた)は本当に収容所で入れられたものかどうかわからない、それで一体いくら稼いだのか?とサバイバーを侮辱するに決まっている。サバイバー達をこの激しいセカンドレイプに晒してはいけない、と。
これもまたまた既視感です。
ネトウヨ達は慰安婦だった女性達に何度、「売春婦」「金目当ての嘘つき」「いくらせしめれば気が済むんだ」という罵倒を浴びせてきたか。
そして、サバイバーをアーヴィングの侮辱から守るだけにとどまらず、サバイバーとリップシュタットという「真実」を、決してアーヴィングと同じ土俵に乗せてはいけない、と。
この方針にやがてリップシュタットも納得していきます。
検証のため弁護士とリップシュタットでアウシュビッツを訪れたとき、リップシュタットは、大虐殺の現場では死者達に敬意を払うよう弁護士に怒りをぶつけます。しかし弁護士は、勝つための証拠をここに探しに来たのであって巡礼に来たのではない、といいます。その夜、弁護士はリップシュタットにアウシュビッツの感想を聞かれ、こう答えました。
「もしもあのとき私があの場にいて命令されていたら、従わざるを得なかったと思う」
レイシズムやヘイトが大きなうねりとなってからでは、もう抵抗できなくなる。だからまだ小さな芽のうちに摘まねばなりません。そのためにヘイトスピーチは野放しにしてはいけないのだと再確認させられるシーンでした。
弁護団の『何がおきたのか、ホロコーストはあったのかを立証するのではなく、アーヴィングの主張が誤りであることを立証する』という手法は、並大抵の労力ではなかったようです。
というのも、アーヴィングの主張が根拠のない嘘であることを証明するには、彼の著書に書かれている脚注をさかのぼり、情報源を突き止め、それを吟味しなければならないのですが、脚注には出典元が全然丁寧に書かれていなかったので、探すのに苦労したそうです
それでも
『膨大な資料からアーヴィングの著書の脚注をさかのぼり情報源を突き止めた結果、証拠であるとされたものは全てゆがめられていたことがわかった。一部だけを切り取った部分的な事実だったり、日付は書き換えられ、順番は並べ替えられ、議事録には出席していない人が付け加えられていた。つまり否定論を証明する証拠など存在しなかった』
やがて法廷で弁護団は、「アーヴィングはガス室を殺人部屋でなく死体を消毒する部屋だと言っていたが、何故これから焼却する死体を消毒する必要があるのか、死体焼却のためなら何故扉に除き窓がついていたのか」とアーヴィングを問い詰め、アーヴィングから「私はヒトラー専門家であってホロコースト専門家ではない」という言質をとります。
弁護団はすかさず「ホロコースト専門家ではないのなら、ホロコーストについて知ったかするのはやめるべきだ」とたたみかけました。
そして、ついに一度もリップシュタットとサバイバーを証言させることなく、勝利をつかむことができたのです。
「歴史を否定する人と同じ土俵に乗ってはいけない」ことの大事さを感じることができました。
もしもアーヴィングの挑発に乗って「何が起きたか」をリップシュタットやホロコーストサバイバーが法廷で語っていたら、勝利できなかったかもしれません。
最後に、敗訴してもアーヴィングはホロコースト否定論をやめないと宣言していました。これもネトウヨそっくりですね。
「歴史を否定する人と同じ土俵に乗ってはいけない」これはとても大事なメッセージだと思います。
パンフに掲載されている木村草太教授のレビューから引用すると
この映画は、メディアによる「両論併記」に大きな問題があることを示唆している。確かに誠実に学問的検討をして議論が分かれる場合には、双方の主張を吟味することが不可欠だ。しかし、ホロコーストの否認と歴史学の一般的見解とを併記すれば、前者が後者と並び立つ重要な見解であるような錯覚を与えるだろう。弁護団は、リップシュタットとアーヴィングを、同じ土俵に絶対に立たせなかった。これこそが正しい対応なのだ。
日本に蔓延する歴史修正主義にも、ホロコースト否定論と全く同様のことが言えます。
日本のマスコミの皆さん、いかがですか?
両論併記すべき場合とすべきでない場合の区別、ついてますか?
もしも
「地球は太陽の周りを回っているという説もありますが、一方、太陽が地球の周りを回っているのだ、との説もあり、今後論議を呼びそうです」
といったぐあいに、地動説と天動説を「両論併記」報道したら、どうですか?
歴史修正主義者達の主張はレイシストによるデマの類であって、天動説同様、ホロコースト否定論同様、学問的な検討や議論に値する見解ではありません。サンフランシスコ市の故・リー市長が大阪市の吉村市長が申し込んだ会見を拒否したのは当然の対応でした。議論の余地などないからです。
何でもかんでも安易に両論併記して、とりあえず「公平中立」を装うのは、情報の質の違いを見極めてそれに応じた取り扱いをする知性に欠けていると言うこと。知性を冒涜する反知性主義といえるでしょう
この点、集団的自衛権が違憲であるとする見解と合憲であるとする見解を対等に「両論併記」した政府やマスコミは、反知性の塊でした。今思い出しても腹が立ちます。
ついでですが、歴史修正主義は、レイシズムやヘイトスピーチと密接不可分であり、人倫に反するものだということを付け加えておきます。
歴史修正主義者達は過去の事実をねじ曲げるだけでなく、被害者を差別と侮辱で貶めます。日本軍の性暴力の被害者に対し、彼らが売春婦だの嘘つきだのと罵るのは、もはや人間性を厳しく問うべきレベルの問題です。現に、歴史修正主義者である吉村市長がサンフランシスコ市と姉妹提携を解消したことを支持する者達が、急逝したリー市長をいかに冒涜しているか、ヤフコメを見ればわかります
↓
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171212-00000567-san-n_ameこれが普段「日本人は礼儀正しい」だの「日本スゴイ」だの自画自賛してる歴史修正主義者たちの正体です
政府がこういう人物で占められており、マスコミも無批判なのですから、倫理も知性も崩れていくのが当たり前です
この映画のマスコミでの評判は私が知る限り、総じて高いものばかりです。
しかし軽蔑に値する歴史修正主義に対して非常に甘いマスコミが映画「否定と肯定」を賞賛するなら、それは矛盾もいいところです。
ホロコースト否定論はデマであり歴史修正主義だが、慰安婦問題や南京大虐殺の否定論は歴史修正主義ではない、とは言わせません。それは歴史学会が
声明を出してることからもあきらかです
この映画を賞賛したいのなら、この映画はまさに日本が直面している問題であると認識し、歴史修正主義に甘い自分たちの態度を改めるべきでしょう。
ところで、この映画、原題はdenial(否定)なのに、どうして邦題は「否定と肯定」なのでしょうか?何故、「否定」と「肯定」を「両論併記」するみたいな題名にしたのか・・・少々疑問に感じました。
次のエントリーでも、もう少し映画を見て思うところの続きを書きます