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屍越えて
No title
まずは遅ればせながら、ブログの再開を嬉しく思います。
本当ならばもっと早くお邪魔したかったんですが、やはり自分の中でこの記事の事件が非常に重く、それをなかなかまとまった言葉にできていなかったという事があります。そういう事もあり、まずはこちらの記事へお邪魔させていただいた次第です。
事件当時から今日この時まで、日本社会における、今回の事件の犯人であるところの自称「イスラム国」(わたしは現地の呼び名であるダーイシュと呼ぶことにしています)の”悪魔”化は急激だったと思います。”悪魔”化というのは要するに、たとえば日本社会における”北朝鮮”の一般的なイメージを思い浮かべるといいかもしれないです。
何をするかわからず、残虐で、野蛮で、暴力的で、危険な存在であること。そしてそれゆえに彼らに対しては「何を言ってもいいし、何をしてもいい」存在であること。
実際にそういう面はあるにしても、そうでない面もあることを忘れてしまっている感じ。
いや、実際ダーイシュという組織は奴隷制復活を宣言するし、勉強している少女や女性を殺傷するし、他教徒の女性を誘拐して改宗と結婚を強制するし、自身に同調しない者は同じムスリム=イスラム教徒でも殺害する…etc.まぁ、いろいろろくでもないことをしている、ろくでもない連中です。 その価値観の多くはわたしたちとは相いれないし、危険で交渉が難しい相手であることは間違いありません。
ですが、そんな相手であっても、当時ふたりの日本人の命が彼らの手に握られていたという現実、そしてかれらを助けるためには、そんな連中とであっても交渉は絶対にしなければいけないと言う現実を、わたしたちは当面受け入れ、向き合わなければいけないはずでした。
当たり前の事ですが、ダーイシュは怪物でも宇宙人でもありません。コミュニケーションが絶対に不可能な存在ではなく、彼らもまた泣きもすれば笑いもする人間です。
ところが”悪魔”化が急速に亢進した結果、そういう理解が困難になってしまったように思えました。要するに相手は「交渉の余地などない狂人、狂信者」なのだから、話が通じるわけがない、むしろそんな連中と交渉することなどあってはならない―
こういう観念的な、嫌悪感が強まって、交渉せねばならないのにしてはならない、というジレンマに日本社会が陥ったのではないか、という危惧があります。これは対”北朝鮮”の姿勢でも同じことが起きています。
このジレンマに耐え切れず、ダーイシュとの交渉それ自体に難色を示す、要するにふたりは見殺しにしようぜ的な意見が事件が露見した当初から散見されました。
いわゆる「自己責任論」です。大手メディアは今回だいぶ抑制的だったと思いますが(もちろんゼロではありませんでした。「自決しろ」とまで言った人間もいます)、変化球として、後藤氏が残したメッセージ―「何があっても自分の責任です」というビデオが繰り返し放送されてもいました。
これは要するに最悪の事態に陥ったとしても、最終的な責任をふたりにすべて負わせてしまおうという一種の予防線なのかな、と思ってみていました。穿って見すぎかもしれませんが。
そんな中で多くの人を惹きつけたのが池内恵東大准教授の以下のブログ記事でした。
ttp://urx2.nu/guiL
「中東・イスラーム学の風姿花伝」「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ
これに対するカウンターとして泥 憲和氏の以下のFacebook 投稿がありますが、
ttp://urx2.nu/gukg
おそらく拡散度から言えば前者が圧倒的だったと思います。
池内氏の文章は、実際、ある種の人たちには非常にキャッチ―にできていました。冒頭で「マスゴミ」批判をし、文章のいたるところで人命を第一とする「サヨク的」思考をこき下ろす。多くの人がふつうは躊躇する「身代金を払わない」=「人質を見捨てる」ことの合理性を(言外に)説き、政府を事件の責任から切り離し、その上で政府に批判的な人たちへ「テロを絡めて安倍首相を批判するのはテロへの加担行為だ」とまで言い切ります。
大変意地の悪いい方をあえてします。池内氏のこの記事を称揚する人たちは、上で指摘した「ジレンマ」から、自己正当化とともに解放され、自身へ批判的な人間たちに対しては「テロへの加担者」という悪の烙印を押し、絶対的な優位性を確保できます。思考停止して、この言説に乗っかってしまえれば、どんなにか楽だろうかと思います。
これを読んで、わたしは思いました。
これは「戦時の言葉だ」、と。
平たく言い換えましょう。
「この非常時にいやしくも首相閣下を批判するとは何ごとだ。首相閣下への批判は、日本国を分断しようという敵の策略だ。さては貴様、不穏分子、敵性分子だな」
そういう事と、池内氏のいう事のどこが違うのでしょうか。
安倍首相は「切れ目のない安全保障」を説き、「テロとの戦い」に本格的に「(文字通りの意味で)参戦」しようとしています。テロとの物理的な戦いの終わりなどありません。
終わりのない”戦時”の始まりです。つまり、これからは”非常時”が日常になる。常時”非常時”の社会で、政府批判は「この非常時に!この非国民、テロ支援者め!」 という言葉で常に封殺されうることになります。
実際に2月3日の参議院予算委員会では、共産党の小池議員とのやりとりで、他ならぬ安倍首相がその言葉を口にしました。
ttp://www.twitlonger.com/show/n_1skensb
その安倍首相および日本国政府は、秋原さんが指摘された通り、ダーイシュと二人の解放に向けた交渉を自発的にはほとんどしていません。
事の経緯を追う限り、政府はダーイシュに二人が拘束されている可能性に気が付きながら中東で例の「2億ドル支援の演説」をしたことは間違いがありません。
報道ステーションの以下の特集では、その演説が水面下で続いていたダーイシュと後藤氏の家族や支援者となった会社との交渉をご破算にした可能性についても言及されています。
http://bit.ly/1yow9QT
政府の動きは人質を救出するどころか、その可能性を自ら潰していたとさえいえる状況です。
そして2月になって、菅官房長官は、政府がダーイシュと交渉するつもりが一切なかった事を明かしています。
ttp://urx2.nu/gXYb
菅官房長官「身代金用意せず」、イスラム国との交渉を否定
この報道があってなお、この事件への政府対応を評価する声が、そうでない声よりも多数でした。
ttp://bit.ly/1yoBqrB
身代金も用意せず、交渉もしない。こう明言する人たちが、いったいどのように人質を取り戻すつもりだったというのでしょうか。そしてどうしてそれが正しいと評価されうるのでしょうか。
日本社会全体が批判的な目で政府や事件を見る事をしなくなっていく、いえむしろ政府のすることや事件そのものから目を逸らしていく様子に、わたしは正直激しく落ち込みました。
そして政府はこの事件を奇貨として自衛隊を「軍」として実戦下に放り込もうとしているのは、この記事で秋原さんがご指摘した通りです。
それに対する日本社会はどうでしょうか。わたしには日本社会が、政府に騙され、誘導されているまったき被害者のようには見えません。
なんだかいまの日本社会はみずから両目を覆いながら、ただなんとなく政府に手を引かれていっているかのようです。それがいかに危険な事かは、70年前を思い返すまでもなく自明の事だと思うのですが。