現代思想10月号より、裁判員制度を考える(5)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」
- 2008/11/30
- 15:31
(以下、現代思想10月号 『小田中聰樹 あるべき「司法への国民参加」とは』及び安田弁護士と森氏の対談を、私なりに要約)
Ⅱ②被害者参加制度と裁判員制度
裁判員制度とセットで導入されたのにもう一つ被害者の参加がある。今回の裁判員裁判は厳密に言えば単なる「裁判員裁判」ではなく「裁判員被害者参加裁判」だ。
こうなると、軸足は「裁判員に迷惑をかけるわけにはいかない」というだけでなく、「被害者にも迷惑をかけるわけにはいかない」ということになるので、ますます裁判は拙速になり、公判前手続で重要な証拠が排除されたり、公判でも徹底した尋問制限が行われるのは必至と思われる。
被害者等は検察官と並んで座り、反対尋問も出来る。被告人、弁護人は直接被害者の激しい怒り、悲しみに晒されるから、萎縮するだろう。
また、被害者等の反対尋問は参考人に対しても行われる。被告人側の情状証人にはかなり厳しい反対尋問が予想され、なり手がなくなるだろう。
法廷は被害者の感情が支配する場になる。光市事件裁判で死刑判決が出たとき、裁判所の外にいた群衆がどっと湧いた。そういう感情が法廷に持ち込まれるのだ。感情の方が事実よりも強く裁判員を動かす。冷静で慎重な判断をする雰囲気は失われるだろう。情状証人が何を言っても無駄だ。
「あの子は小さいときはとても良い子で・・」と言おうものなら「良い子ならこんな事件おこしてないでしょ」、また不遇な環境の中で育ってきたことを言えば「同じ境遇にいても立派に頑張っている人はたくさんいる」と返され、何も言えなくなるだろう。
こういう中にあっては、裁判員は検察と被告人両当事者に対する冷静公平な第三者としてでなく、潜在的な被害者、被害者遺族という立場に立ってしまいやすい。裁判員は被告人を裁判の一方当事者としてでなく、憎しみの対象、制裁の対象としてとらえるようになる。裁判は被害者vs被告人という図式になり、裁判員は糾弾される被告人を見るのだ。
これでは刑事裁判における当事者主義が崩壊してしまう。(※当事者主義とは、対等な当事者である被告人と検察が攻防して、両者から中立の第三者の立場の裁判官が両者の攻防を見聞きして判断をくだすという刑事裁判の構造)司法は民主主義の重要な担保であり、そこに感情が導入されてはいけないという意識が昔はあったのだが・・
(被害者参加制度の欠陥についてhttp://www.jlaf.jp/jlaf_file/070622keiso.pdf#search='刑事裁判 当事者主義'が参考になります)
法廷で闘うべき、相対する当事者は、被害者と被告人ではありません。確かに被害者は検察官に近い位置にいるといえるでしょうが、法廷で闘うべき当事者たりえません。なぜなら 、法廷は犯罪事実が存在したかしないかの真実を追究する場所だからです。被告人が相対して闘う当事者は、「こんな酷い目にあった、どうしてくれる」という被害者ではなく、「こんな事実が存在した」と主張する役割を持つ検察官なのです。
たとえば否認事件を想像してもらうと分かりやすいかもしれません。否認事件であれば被害者が被告人に怒りをぶつけること自体が不合理です。無実を主張している被告人なら被害者に向かってこういうでしょう。
「こんな犯罪にまきこまれて本当にお気の毒だと思います。私もあなた同様怒りと悲しみを感じます。しかしその怒りは私にぶつけないで真犯人にぶつけていただきたい。だって私はやっていないのだから」
(話は少しずれますが、再審で無罪判決が出たときにマスコミは必ず被害者遺族に感想を求めに行きますが、あれは少々的外れではないかと思います。)
公判整理手続によって、徹底的に整理された善か悪かのエッセンスだけしか法廷に持ち込まれず、そこに被害者感情が注入される。すると弁護側はまともに弁解できない空気に満ちてしまう。感情に支配された人間にどんな正当なことを言ってもほとんど無駄だ。
そして裁判員はわずか三時間後には評決を出さねばならない。
これでは冷却期間をおいて冷静に考える時間がない。感情に支配され興奮したまま評決を出すことになってしまう。裁判員が9人という大人数では、声の大きい人、押しが強い人の意見ががまかり通るだろう。本当に拙速裁判だ。
裁判官は調書や鑑定書や証拠をよく読み込み、つきあわせながら真実発見をしていく作業に慣れているが、裁判員はそうではないから、裁判員は裁判官の主導を仰いでついて行くことになるだろう。
専門家の裁判官の前でイニシアティブを取るのは非常に困難と思われる。
また評議は密室で行われ、そこでの話し合いについては守秘義務がある。するとそこでの評議の仕方に抗議したいことがあってもオープンにできず争いようがない。それもふくめ、裁判官主導型になるだろう。
裁判員もまたお飾り的存在で、単なるオブザーバーにすぎないのだ。どう転んでも、裁判員は裁判官と対等に議論は難しい。まるでゼミの先生と生徒みたいなものだ。
ところが、実際には下にも置かないような好待遇を受ける。町のおじちゃんやおばちゃんたちが、裁判所の絨毯のうえを歩き、しかも、警備の人から敬礼をされて「ご苦労様です!」と挨拶され、玄関からではなく、その人たちだけしか通れない秘密の裏道や地下通路を通って建物の中に入って、裁判官に鄭重にに扱われて、法廷のひな壇の上に上る。あのひな壇の上に上ってみればわかりますが、法廷の中にいる検察官や被害者、被告人や弁護人、傍聴人やマスコミ関係者、全ての人を見下ろすことができ、法廷の隅々まで見渡せる所に座るわけです。被告人は自分に向かって謝る。検察官も被害者も弁護人も自分に対して恭しく敬語を使う。裁判員はわけもなく突然偉くなってしまうわけです。この人たちが、眼下に被告人に、果たして小さく縮こまっている思いをはせることができるでしょうか。片方には悲しみと憎しみに塗れ、被告人に対する怒りと敵意をあからさまにしている被害者がいる。その悲しみや苦しみはその被告人がもたらしたものです。被告人には同情の余地がないとなるのではないでしょうか。
(略)
例えば陪審員のように、裁判官とは別に法廷の横壁に沿って座って、被告人や弁護人とほぼ同じほぼ同じ目線で法廷での出来事を見ているのなら話は別ですが、そうではないのです。「遠山の金さん」と同じひな壇に上ってしまうのですよ。(安田弁護士と森氏の対談より)
実際に裁判所は裁判員を下にも置かない扱いをする予定のようです。まさに「統治主体意識」に絡め取られる瞬間ですね。国民が司法に直接参加したという体面だけが取り繕われているに過ぎず、真の司法への国民参加の実が伴ってないといえるでしょう。
ところで、昨日は通知が届き始める日でしたが、最高裁が開設した専用のコールセンターには問い合わせが870件寄せられ、そのうち半数が裁判員辞退に関するものだったそうです(11/30中日新聞朝刊)
あなたの元に通知はきませんでしたか
その通知書を、国民主権を実現するチャンスを手に入れた栄誉あるものだと感じる人はいるでしょうか?「悪いはずれくじをひいてしまった」という感覚しかないのではないでしょうか。
裁判員になることは私たちにとって市民としての権利ではなく、お上からの下された招集命令、義務なのです。
権利ならば放棄することもまた自由、理由を述べずに拒否出来るはずです。しかし該当事由がない限り断ることはできません。そもそもこの出発点から間違っています。
そして選ばれた人はいやいや裁判員にさせられた上に守秘義務まで課されます。担当した事件が重くてきついものなら、誰でも人に喋ってその負担を少しでも軽くしたいのが普通です。でも誰にも喋れない苦痛を罰則をもって強いられるのです。
プロである裁判官や弁護士などが守秘義務を守るのは当然ですが、そうではない一般市民が、やりたくもない裁判員にむりやりならされた上、こんな理不尽な苦痛を強いられるいわれはないはずです。
どこが司法の「民主化」なのでしょう。自発的に参加する市民の権利であることが、国民主権の表れといえる最低条件ではないでしょうか。
司法への国民参加に続く
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