ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

中国の国家社会状態と日本の社会状態をどう捉えるか。

  止めようのない中国の勃興を、日本はなぜそれほど苦々しく思うのだろう?

記事原文のurl:https://journal-neo.org/2019/01/11/why-is-japan-so-bitter-about-unstoppable-rise-of-china/

[http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1335849/74933861:title=執筆者]Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、Revolutionary Optimism, Western Nihilism含めて多くの本を書ている作家。オンライン誌 「New Eastern Outlook」独占記事。


私のコメント

このブログに転載するにあたって、添削させてもらった。 

Andre Vltchek氏の日本への指摘はほぼ当たっていると思う。

また名古屋など地方都市の状況など日本マスコミでは知りようのない実態が記されていて、改めて矛盾の深さを知らされた。

しかしAndre Vltchek氏が指摘する日本の問題が起きている、その中心原因には手が届いていないように思われる。
多くを話せないので詳論はできないが、どうやら日本の社会主義運動をあまりご存知ではないように思われる。

また氏は中国を共産党を共産主義と考えているようだが、そうとは言えない現象も見え隠れしているのではないだろうか。

東南アジアへの強権的で大国主義的、覇権主義的な侵攻(まだ確定的ではなく「進行」かも知れないが)をしていることや、少数民族への同様な政策などと、社会主義思想と精神とは、ましてや共産主義思想と精神とも合致しているとは言い難いだろう。もちろん中国への外国からの干渉や妨害活動も懸念され、それらに対する強権策もやむをえない、早急な対応策なのかも知れない。

しか少数民族への暴力的弾圧や小国への覇権主義的態度は今始まったことではなく、毛沢東以来続いている事から見ても、その大国主義と覇権主義は根深いものがあると見るべきだろう。

そのような視点から見て、中国が社会主義だとか共産主義だとかの思想と精神を体現しているとは言い難いだろう。
加筆部 
しかし中国共産党という名が示す通り自身では共産主義と共産党だと自称自認しているのだろうし、貧困の克服や官僚の汚職摘発などを行い近代化への法治主義を広めようとするなど、旧弊を克服し社会主義的な政策も実行されていて実績もあげている、その点も考慮されるされるべきだろう。
が、それでもなお社会主義を規定する概念では「生産手段の社会的所有」が実現で来ているか否かに社会主義国の実質があるか判断できるはずだが、ソ連北欧など旧社会主義国ではその「社会的所有」が国家的所有すり替わったときから、経済政策上の誤りの道に入りやがて泥沼に足を取られ他の要因も重なって自滅に至った。
そこから反省総括して、社会生活層に置いては原初的商業資本主義制を取り入れ、民間、個人の利得要求に基づく生産参加と販売消費のサイクルが取り入れられ、ロシアや中国ベトナムなどの経済成長が実現する社会と国家ができるようになったのだろう。
だがそれでもなお「生産手段の社会的所有」は実現しておらず、社会主義的社会基盤である、社会主義的生産関係、社会主義的生産様式、社会主義的社会様式は整ってはいないだろ。現在でも世界に社会主義国、共産党を自称する国とその党があるが、そのような社会科学的な根拠を持った「社会主義」は一つも実現していない。ましてやそれらの党や国において、その共産党が共産主義を自称自認していようが、共産主義的生産様式を自覚しているものはあるとは言い難いだろう。
Andre Vltchek氏がそれら社会主義を規定する判断基準をお持ちなのか不明だが、類推的で根拠は薄いがどうもそのような科学的評価基準をお持ちでないように思える。

その件は置いても、

そのようなAndre Vltchek氏の捉え方を翻って見るならば、日本の社会主義運動と共産主義党のことを眼中に置いていないように見える。

日本の共産党は世界的に知られているようにソ連共産党と中国共産党の国を挙げての干渉と戦ってきた、世界諸国の共産党としても稀有な党である。

氏は30年ほど日本に居たとしているが、日本に共産主義者と共産党が存在し90年以上大衆的な運動を組織し戦って来ていることを知る機会がなかったのだろうか?

選挙になれば全国で宣伝活動も展開し大型バスの宣伝カーでもスピカーを通してそれなりの音量で、その存在と政策を広めている。近頃では党大会もネット配信して日本の政党で一番公開性が進んでいる、公理である民主主義を継承している唯一の党となっている。

氏がもしそれを知っていて敢えて無視してるとすれば、日本国民の意識に徹底的に刷り込まれている反共主義、反共産党意識と通じるものがあるのではないだろうか。

日本国民が他国国民より権力と財界大企業に従順なのは、さらに戦後から駐留し続けている米国に従順なのは、権力との闘争を公言し国民の闘争意思を代表する共産党を無視し、国民が日本共産党に注視し接近しないように、国民の意識に共産党への嫌避感を刷り込んでいるからこそだろう。

そうして国民の闘争意思が寄って立つ集合点を見失うように国民自身がなるように、洗脳されているからだ。その洗脳は明治政府が生まれてから現在までの、長い年月変わらず自家中毒化するほど徹底的に刷り込まれている。

だから日本の良識的リベラルを自認する知識人たちでさえ、幾十年も「野党」なるものを支援しながら、その野党が様々生まれ盛衰し消滅してきたのに、90年以上闘争を掲げ実践している「野党」の共産党だけは支持しない、あるいは不承不承「野党」として容認するという、盲目的愚民同様の醜態を保守しているのである。

さてAndre Vltchek氏は、日本共産党が存在し続けていることを認めるのか、無視し続けるのか、日本国民が寄って立つ闘争の中核を無視し存在しないかのように振舞うのか、自身に問うべきだろう。

知識人が自身を保守しようとする意識と精神を問わないこと、そこに戦わない国民を産む原因があるのだろう。
日本の知識人層が自身の反共刷り込みを保守する、盲目的縛り(アレコレの知識に見合った分の理論)を打ち破る時に、多くの国民も戦い始めるではないだろうか。


投稿: 吟遊詩人 | 2019年1月15日 (火) 01時55分(以上の投稿分)

以下
加筆 

Andre Vltchek氏の文章でに気になることがある、本題とは直接関係しないのだが、一般的な「評価基準」基準を巡る問題においては、上の社会主義が否かの判断における評価基準の問題と関わるという点では関係があるのだろう。
そこで加筆するが、氏は度々「好き」「嫌い」の判断基準を述べそこから裁定を下されておられるが、氏が好き嫌いの判断を下すときは氏の知識を自身だけが信じてその判断を下すやりかたは、あまりにも乱暴ではないだろうか。あるいは横暴といえるのではないだろうか。貴方の知識の範囲で好き嫌いだと読者に言われても、読者は氏がなぜ嫌いとし好きとするのか皆目分からず、その裁定判断は何も言ってはいない。それどころかそれまで述べていたことが氏の主観判断でしかないことを表明することになってしまうのではないだろうか。つまり客観的根拠に忠実な姿勢を堅持していないのであある。あるいは社会科学的根拠に依拠しようとはしていないのだろう。それでは公開で行われる客観的探求に資することはできないだろう。客観的探求においては各自は主観の好き嫌い判断基準を捨てて、客観判断基準に立って始めて共通理解が得られ、その真実性が確立させるのだろう。

そもそも好き嫌いで判断裁定することは、乳幼児が覚える原生的初歩的判断基準であって、成長に伴って様々な判断基準を獲得し、やがては自身からは外にある社会的民族的、国的な共通言語、共通の意味内容を持って意思疎通の基盤としているのだろう。

だから客観的には、好き嫌いをいう人格は主観主義者のうちでも自身こそ至上とする暴君的人格者だといえよう。早急にそのような幼児的主観判断基準を改めて、捨て去り、客観的判断基準に忠実になるよう進言したい。哲学そこからしか始まらないと思うがどうだろうか。