アニメキャラは対象aとなりえるか? またはオタク文化からみたサントーム論
2007/02/17/Sat
斎藤環氏の影響か、オタク文化をラカン論(ジジェク含む)を引用して論じているブログ記事が多い(記事1、記事2、記事3)。もちろんこのブログにもそういった記事が多数ある。
以前の記事で、アニメキャラをラカン精神分析論の対象aになぞらえて表現することについて書いたことがある。
それは勢いに任せて書いた記事だったので、ラカン論としての構造的なところのきちんとした思考を行っていなかったように思う。なのでそのあたりのことをだらだらと言葉にしてみようというのが今回の目的である。
対象aとは欲望の原因である。なので、アニメキャラを欲望していれば、なるほどアニメキャラを対象aだと言っても構わないように思える。アニメキャラは現実の人間の代理物であるので、アニメキャラを欲望することは、人間が人間を求めるエロス的な欲望の代理である、という構造が基本となるだろうか。即ちアニメキャラとは現実的な他者、即ち想像界の他者の内、自らの姿と類似した他者=人間の代理物であるわけだ。しかしオタクという人種は、そういった現実的な他者を避けている。オタク文化に限らずコギャルも自らを記号化することで、想像界から自らを象徴界の他者の位置に持ってこようとしている。ギャルがよく使う言い回しである「私って○○な人だからー」という言葉がこのことを直接的に表現している。
多分私にこういった固定観念があったのだろう。だからアニメキャラを対象aという概念で表現することに違和感を覚えたのだ。即ち、その錯誤行為的な表現の裏に、象徴界主義的な、ロゴス中心主義的な、ポストモダン病とも言うべき、不気味な何か、無意識的な傾向を感じてしまった。もちろんそういう傾向はポストモダンを生きる私にもあるものだ。だから私は思考停止してしまったのかもしれない。
少しラカン論のおさらいをしておきたい。
人は対象aという究極的な「愛」とでも言えるような領域を目指してしまう。このベクトルが様々な置き換えをされ、反復されるのが欲望である。では、このベクトルの始点はどこか。それは自己だろう。自我は「他者の欲望」を鏡面的に受け入れることで、「他者の欲望」というやり方を学び、そのやり方をもって対象aを求めるベクトルを具体化させる。そういった意味では、自我→対象a、即ち自我が始点と言えるが、もう一歩踏み込んでみたい。
自我が模倣する「他者の欲望」の起源は、母親である。赤ん坊が母親を求め、母親が赤ん坊を求める関係性の中に、「他者の欲望を反復する」「欲望とは他者の欲望である」という構造の起源がある。赤ん坊は母親に対しその胎内にいた頃のような同一化を求めるが、同時に母親という鏡を通して、母親と同一でない自分というものを手にいれ、自分の身体という代理物により、胎内にいた頃の「求めるだけ与えられる」というような全能感を満足させる。この時の他者は母親と限定して書いたが、実際には母親でなくとも母親的な他者が基本となろう。生まれたばかりの赤ん坊にとって、他者とは全て母親なのだ。大仰のようにも聞こえるが、胎児にとっての母親の胎内は全世界そのものである。つまり生れ落ちた瞬間の赤ん坊にとっての世界=全他者は母親であるという名残を持っていてもおかしくはない。この母親を暗喩する全他者という鏡により、赤ん坊は母親との同一化という対象aの「代わり」に自我を手に入れるのだ。これがラカンの鏡像段階論のベースとなっている。同一化していた(胎内にいた)頃の記憶が残る赤ん坊は、母親が自分を求める欲望を反復することで、欲望を覚えるのである。
生まれたばかりの赤ん坊が同一化的な他者=母親を求めるベクトルが、成長した大人の欲望のベースであり、そのベースを暗喩したり換喩したりして生じるのが欲望の実体である。なので対象aに向かうベクトルの始点は自我ではなく、生まれたばかりの赤ん坊の主体=エスであると言えるだろう。S→対象aという構図だ。しかし大人は言葉を手に入れている。去勢されて象徴界に参入している。言葉を手に入れることで主体は象徴界から姿を消す。象徴界に残されるのは、姿を消した主体から暗喩作用な影響を受けたシニフィアン=S2だけだ。ラカン論ではこの姿を消すことを斜線で表現し、象徴界から抹消された主体(エス)を/Sと表現する。故に大人の欲望の本質は、/S→対象aというベクトルで表現される。この→の場所に立ち現れるものが、幻想(ファンタスム)であり、ラカンはそれを/S◇aと表現した。/Sと想像界の他者=小文字の他者aの間に幻想◇があるからこそ、小文字の他者を対象aと錯覚できるのである。
ここで、全ての欲望は/S→対象aをベースとしている、と書くと矛盾が生じる。それはフロイトが唱えた「死の欲動」という概念の存在があるからである。
/S→対象aというベクトルの道程で、/Sは様々なシニフィアン(=S2)に変化し、他者というシニフィアン(=A)を対象aに見立てる。S2とAが同一化、即ちS2=Aとなることが、母親との同一化を起源とし、その代理としての欲望の目標だ。しかしS2=Aという領域は代理でしかない。人はS2=Aの裏にある対象aを求め続ける。だから欲望には際限がないのだ。私たちが現実的な日常で経験する「愛」という幻想は全てこの領域のものである。
S2=Aという領域の裏にあるのが対象aである。この対象aは他者との同一化の最終地点とも言えるだろう。なので対象aは他者であり自我でもあるのだ。となると、S2=Aという領域と対象aを短絡することも可能である。そう、自らを対象aの位置に持ってくればよいのだ。であるならば自己愛的な形の愛、ナルシシスムが究極の愛なのだろうか。
ここでもう一度/S→対象aというベクトルを思い出そう。この間にS2=Aという地点が存在するのだから、/S→S2=A→対象aと表現できるだろうか。S2は/Sの影響を受けたシニフィアンである。抹消された主体=/Sのシニフィアンは存在しないが、それを表現したのが象徴的ファルス=Φである。全てのS2にΦの暗喩作用が及んでいる。この「存在しない」S2の中心軸、暗喩の根源はS1(知の中心)と表現できる。なので先に書いたベクトルはこう書き直される。
/S→S1=Φ→S2=A→対象a(このベクトル+リビドー=生の欲動)
対象aの近似的位置に自己を持ってきた場合、S2=Aという領域の裏にあるS1=Φ、/Sが置き去りにされてしまうのだ。対象aの近似は、想像界に存在する。このことは、対象aの起源的な関係性である母親と赤ん坊の関係を思い出すとわかりやすい。赤ん坊は言葉を持っていない、象徴界に参入していない。赤ん坊にとっては体感の世界である想像界しか存在しないのだ。だから対象aの近似は想像界の他者=小文字の他者となる。S2=Aと対象aの間にある壁とは象徴界と想像界の壁であるとも表現できるだろう。ということは、「想像的な」やり方ならば、対象aの近似の位置に自己を持って来ることが可能である。欲望の対象としての自分を想像するわけだ。だからこの想像的同一化の対象はナルシスティックな、理想自我的なものとなる。しかしそうやって壁を乗り越えても、置き去りにされた/Sと対象aの同一化とはならない。対象aの側に想像的に移動された自己は、今度は自己愛的に/Sを目指す。対象a→/Sというベクトルだ。フロイトは、このベクトルがリビドーと結びついたものを事後的に「死の欲動」と呼ぶこととした。また、先に設定した/S→対象aという逆のベクトルがリビドーと結びついたものを、厳密に言うならばS1からS2へとシニフィアンを掴み続けることを「生の欲動」=エロスと呼んだ。
「死の欲動」のベクトルは想像界から対象a=/Sという領域を目指すベクトルであり、これによる欲望は、想像界と現実界の重なりとなる「他者の享楽」という性格を帯びる。つまり、「死の欲動」による享楽は受動的で、想像的で、体感的という印象になる。このベクトルは、
対象a→S2=A→S1=Φ→/S(このベクトル+リビドー=死の欲動)
と表せる。
一方、このベクトルと逆方向である「生の欲動」とは、象徴界においてS2というシニフィアンを掴み続けることであり、これによる享楽を「ファルス的享楽」と呼ぶ。これは能動的で、「所有」的な印象を浮かばせる享楽である。
生の欲動が、抹消された主体/Sから対象aへとシニフィアンを際限なく掴んでゆく欲望となり、死の欲動が、自己を他者の対象aとみなしてそこから抹消された主体/Sへと向かう欲望となる。即ちS2という他者としてのシニフィアンを身に纏い、そこからS1=Φへと向かうベクトルの欲望である。これは例えば絶対的真理を求める学問的希求や、絶対的強さを求める少年漫画的主人公が持つような欲望であり、性に関わる場においては本来の意味で性倒錯的な欲望であり、妄想的にそれを求めると精神病としてのパラノイアを引き起こすものだ。対象a的な立場からΦという自己内部の方向に向かうこのベクトルによる欲望は、自己愛的で自己満足的な印象を生む。
まとめよう。人間の欲望は二種類に分けられる。それは他者を手に入れようという「所有」的な欲望と、自己愛的で自己満足的な欲望である。これは/Sと対象aが同一化する道程のベクトルの違いが原因となる。前者の欲望による享楽は「ファルス的享楽」であり、その欲望の本質が「生の欲動」である。後者の欲望による享楽は「他者の享楽」であり、その本質は「死の欲動」である。
しかし、構造的に捉えるならば、どちらも/Sと対象aの同一化を目指していることに変わりはない。同一化してしまうその瞬間は、シニフィアンを掴み続けることが終わる瞬間であり、それは「死」と同値である。つまり生の欲動も最終的には死へと収束してしまうのだ。「死の欲動」は/Sと対象aの同一化への方向そのものを示すという解釈を採るならば、「死の欲動」の内の一つの様式が「生の欲動」であるとも言える。これが、フロイトが「死の欲動」の優位性を唱えた理由である。
余談になるが、BLについて書いた以前の記事の中で、BLにはまる女性たちの欲望は、対象aに近似して象徴界に登録された/Laから大文字の他者の場所にある欠如というシニフィアンS(/A)を目指している、と書いた。女性にとってS(/A)はS1にあたるので、/La→S(/A)というベクトルは対象a→/Sと同じ方向であり、死の欲動のベクトルであると言える。BL=やおいの祖である中島梓氏が、やおい論を述べた著作のタイトルを『タナトスの子供たち』としたことは慧眼であると言えよう。
これら二つの欲動を基にした欲望は、一人の人間に混在し、外見上同じ形の欲望であっても、時と場合で変化する。例えば恋愛なら、相手を所有したいという欲望と、所有されたいという欲望が混在する。最も良い例はフェティシスムだろう。フェティシスムの対象であるフェティッシュは、その象徴的な覆いに想像的な母親のペニスを写し出す。フェティシストはその覆いに投射されるイメージに対し想像的同一化を求め、それを(その覆いを)所有するなどのやり方で象徴的同一化を試みる。想像的同一化と象徴的同一化の狭間で、停止したビデオのようにそこで留まるのがフェティシスムである。
想像的同一化は対象aへ向かうベクトルで、象徴的同一化はΦへ向かうベクトルである。本来逆方向となるベクトルを同時に両立させることで、フェティシストはその対象であるフェティッシュへの欲望をその覆いの上に停止させているのだ。
また、対象aについて、前の記事にも書いたことをもう一度おさらいしておこう。
対象aに最も近接している代表例は、赤ん坊と母親の関係である。赤ん坊にとってのこの関係は、本当の意味での現実である現実界に近接した領域でもある。人は世界を刺激として器官でキャッチしそれを脳で処理する。つまり妄想と現実の明確な区別はつけられない。現実的には不可能だが、器官のない身体でしか認知できないのが現実界である。器官と脳での象徴化処理が未熟な赤ん坊は大人と比べ現実界に近い位置にいると言えよう。つまり、対象aとは想像界と現実界を強く暗喩するものなのだ。逆に言うと、想像界と現実界的なものが感じられないと、対象aたりえない。
しかし、想像界と現実界を暗喩すれば対象aであるというわけではない。例えば、身の回りで起こった思いもよらない悲劇的な、外傷的な出来事は、想像界の出来事であり現実界を暗喩する。現実界とは器官のない身体でしか認知できない世界で、何が起こるか全く予知できない世界だからだ。
人は何故対象aを求めるのか。それは母親の身体の一部であった時代から生れ落ちた赤ん坊が求めるもの、そう、「求めるだけ与えられる」という全能感だ。赤ん坊はへその緒から栄養を受け取るように母親の母乳を欲する。この全能感、即ちファルスを求めることが対象aを求めることになる。しかし幼児は言葉を覚えることで、去勢されることで、そのファルスが絶対に得られないことを知らされる。これは象徴界から抹消された主体=/Sであり、象徴界においては、去勢痕となった象徴的ファルス=Φであり、象徴界の主軸となりかつ存在しないシニフィアンであるS1=知の中心である。人は大人になっても、この赤ん坊時代の欲望の構図を、あたかもトラウマのように暗喩や換喩で様々な形に変化させ、反復しているのだ。
このことから、対象aはその発生要因から言って、想像界、現実界、象徴界三界全てに関係していなければならないということがわかる。このことをラカンは、三界をボロメオの輪で表現し、その中心にある三つの輪が重なる領域を対象aと示した図で表現した。
ここでアニメキャラの話に戻ろう。
アニメという表現は映像であり、イメージ=想像的な表現である。しかし、斎藤環氏によれば、ジャパニメーションは漫画の強い影響を受けており、漫画はさまざまな記号(漫符など)を組み合わせた「ハイ・コンテクスト」な表現であるため、アニメも「ハイ・コンテクスト」な表現となっている、とする。コンテクストとは広義の文脈性であり、文脈とは構成する要素である記号、即ち象徴的なものが干渉しあうことで生じるものだ。だから斎藤氏や東浩紀氏は、「オタクはアニメを『読んでいる』」といった表現をする。アニメや漫画は、もちろん絵ではあるので想像的表現ではあるが、象徴界にも強く比重を置いた表現であるのだ。
ハイ・コンテクストであるということは、現実界から距離があるということだ。このことがアニメキャラを対象aたらしめない一つの理由だ。
とはいえ、現代は社会が複雑化している。これは象徴界が複雑化しているということでもある。社会の法や暗黙の了解が巷に溢れている。なのでアニメではない現実的な世界もハイ・コンテクスト化している、という表現を私はしている。石器時代の人間の身の回りには、予知できない世界、海中や森や山の中などといった世界が広がっていた。現実的な日常が現実界と強く共鳴していたと考えられる。それと比較すると、現代の私たちの現実的日常は、科学や論理という記号の集合体によりハイ・コンテクスト化され、現実界から遠く離れてしまっていると言える。無意識的な超自我が記号的に複雑化してしまっているのだ。シュルレアリスムのような無意識主義は、超自我コンプレックス、象徴界コンプレックス、コンテクストコンプレックスの表出とでも表現できようか。そもそも精神分析的な「コンプレックス」という用語そのものが、複雑化した超自我に対応した結果を表しているのかもしれない。人類が、本来持っていた象徴化能力を介助する道具として言葉を発明し、その象徴的世界が複雑化されていったとするなら、人類は言葉の発生から未だ同じ複雑化という方向を進んでいるのである。これは「無意識は言語のように構造化されている」というラカンの言葉にも呼応する。
この場合の記号的な複雑化とは、S2の複雑化である。先に書いた/S◇aの幻想◇は、構造的にはS1→S2に当てはまる。幻想は言葉とともに複雑化されていったのだ。
複雑化していく超自我の抑圧や幻想の対応として、フェティシスムは誕生したと考えられる。複雑化した超自我と幻想。それはS2で構成される迷路だ。生の欲動に従って小文字の他者aを求めても、その他者の内面の象徴的世界も複雑化している。その関係は、愛の語らいがすれ違うように、S2というシニフィアンの迷路の中ですれ違う。なので主体は死の欲動的なベクトルでの対処を試みる。即ち、彼は他者aの場所に想像的に移動し、対象aに近接した立場からS2という幻想の迷路に飛び込むのだ。これはまさに「女性」に与えられたシニフィアン/Laと同じ構造をしている。そして、/La的な大文字の他者をさすらうシニフィアンとなった自己は、例えば「所有」というシニフィアンの待ち合わせ場所で、象徴的同一化を暗喩する場所で彼らは出会う。生の欲動的なベクトルと死の欲動的なベクトルがぶつかり合う場所で、彼は対象aを求める「歴史の記憶」を携えながら、ラカン曰く「突然停止した映画」のようにそこに留まる。この発想の転換とも言える死の欲動的なベクトルの導入は、シニフィアンの連鎖を止めるという意味で去勢の否認であるとも表現できる。人類は言葉を手に入れた瞬間から多かれ少なかれ皆言葉のフェティシストであるとも言えるが、去勢を承認したという意味でフェティシストではない主体は、生の欲動に従い対象aを求めS2を掴み続けることとなる。彼が掴むS2は次のS2へと暗喩的に連鎖していく。だから彼は対象aという想像的他者に永遠に辿り着くことができない。こういった行為を反復することでS2が豊かになり、以前のS2は無意識下へと収納され超自我が形成されて、社会的な「大人」となっていくのだろうが、このことは脇に置いておいて、先を急ごう。
斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』における表現によれば、オタクという(文化的)部族はマニアと呼ばれる部族から派生したものであり、マニアとはフェティシストのことである、としている。オタクとマニアの違いはこのフェティシストの度合いである、ということだ。このことについては以前の記事でも触れたことがあるが、そちらも読んでいただきたい。
オタクとマニアの違い、即ちフェティシスムについて簡単に述べておこう。マニアはフェティシスムの構造に沿って、その欲望の対象=フェティッシュに対し、その覆いに想像的ファルスを投影させるやり方で、想像的同一化を図る。その目的はフェティッシュを対象aの側からS2に移動させるためである。投影の仕方はS2→対象aという象徴界から行うものなので、言語的な置き換え、例えば換喩的なやり方となる。だから対象物が人間の姿をしていなくてもよい。即ち、例えばそれが人間の身体の一部や戦車や鉄道車両や自動車であっても、その姿をイメージとして独立させ(想像界の他者化させ)、そのイメージを覆い=ヴェール化させ、そのスクリーンに想像的ファルス=ペニスを持つ母親であり父親=主体が想像的同一化したい対象を、「換喩的に」投影するわけだ。こうすることで自らを対象aに近接する場所に移動させる。そして対象をS2という象徴界の他者の世界に放り込むのだ。そうして彼らはS2のどこかにある待ち合わせ場所に留まり、それと戯れる。例えば戦車のスペックという記号的なものを眺めているだけで楽しくなってしまうマニアの姿を想像してもらうとわかりやすいだろうか(決してマニアを批判している文章ではありません。念の為)。こういった欲望の様式は「象徴的同一化と想像的同一化の狭間で生きている」と表現できるだろう。
対象がアニメキャラだった場合と比較してみよう。それは人間の形即ち自己と類似したイメージを持つものなので、戦車などと比べ想像的同一化のための換喩は容易いだろう。むしろ換喩という表現すら怪しいほどだ。しかしそれは逆に対象を想像界からS2という象徴界へ放り込むのが難しくなることでもある。想像的同一化という引力に縛られやすいという表現になるだろうか。この対象aを暗喩する同一化の引力が、オタク文化内にいるオタクの方々がその「萌え」などの文化を理論的に説明しようとしても、オタク文化外の人間に共感を得られる論とならない原因の一つである。オタク文化の外にいる人間たちにとって、アニメキャラや漫画の登場人物は、(体感的な)想像的同一化の対象となりえない「紙に描かれた絵」に過ぎないのだ。
対象a的な、想像的同一化の終着点に近接すればするほど、実際の自己との差異を発見することになる。アニメキャラならば、それは「絵」であり「二次元」であるという象徴的かつ現実的な差異だ。この差異によって逆説的に同一化は阻害されてしまう。想像的同一化に満足できないまま、対象aを抹消された主体/S即ち象徴的ファルスΦと象徴的同一化させようとしてしまうと、それはパラノイアの兆候となる。自己愛的な妄想が形成されてしまうのだ。想像的にしろ象徴的にしろ同一化していくことは差異が眼前に現れることでもある。この差異により同一化は否定されてしまう。ここにおいてパラノイアの構成要件である「同一化」「差異化」「否定」の三つが揃ってしまう。フェティシスムは、パラノイアを防衛する一つの欲望の様式とも言えるだろう。
一つの具体例を紹介しよう。これも斎藤環氏の前掲書に述べられているもので、オタク文化においてはアニメキャラで自慰することを否定する人も(かつては)ごく少数だがいた。それを文中では「抜き否定派」と呼んでいる。
ある美少女漫画の熱狂的なファンであり、「抜き否定派」の彼は、その作品を性的にパロディ化する(エロパロ)ことは登場人物を汚すことであり、その作家の気持ちを傷つけるとんでもない行為だと考えていた。彼はコミックマーケットに赴いてもエロパロ系の作品には一切目を向けない。彼はネットでその主張の論陣を張っていたが、大方のオタクの反応は、「あなたは虚構を虚構として楽しめないのか?」と批判的だったそうだ。
彼はしかし、その「エロ同人誌との戦い」に終止符を打つことになる。
その原因は、彼が熱狂的に愛する作品のあるエロパロ同人誌だった。それはその作品の作家本人が書いている同人誌だったのだ。心無いオタクたちに登場人物を汚され心を痛めているはずの作家本人が、エロパロ同人誌を書いていた。この象徴的「否定」により、彼は再び去勢されてしまった。ファルスの欠如=去勢を承認せざるを得なかったのだ。
この具体例が示すところは、オタクという文化的部族の母体であったマニアという部族の作法は、オタク文化では否定されてしまう、ということだ。彼はオタクではなく、マニアだったのだ。マニアの作法に沿って、対象物即ち漫画作品と想像的同一化を試みた結果としての事例であると言えよう。
この事例を斎藤氏に報告しているのは、当時(1990年代)のオタクの一人である。彼はその報告の中でこう述べている。
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つまり、すごく熱中して作品を楽しんだり語ったりする側面も当然あるわけですけど、同時にある別の側面では完全に醒めているような状態といいますか。自分の好きな作品をあれこれいじれてこそおたくなわけで、作品を神聖化して奉ってしまったら、それはたんなるマニアとかファンに堕落してしまうでしょうね。
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では、オタクはアニメキャラや登場人物たちに対しどのような作法=構造でそれに接しているのだろう?
彼らは対象に対し、フェティシストのような想像的同一化を試みない。先程のオタクの方が、「抜き否定派」の彼について述べている文章を、もう少し引用する。
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彼の衝撃は、自分の感動がすべて幻想であり、錯覚であったことを、まさに作家本人によって思い知らされたことによるものでした。自分が孤軍奮闘、守り抜こうとしていた純潔が、実は存在すらしていなかったことを知り、彼はパニックに陥りました。漫画はしょせん紙とインクで作られた幻想であったことに、彼は「初めて」気がついたのです。ここホントは笑うところなんですけどね、でもちょっと、シャレになってないっす。
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オタクであるこの文の筆者は、漫画やアニメが「幻想」であることを知っている。幻想は欠如した主体/Sと対象aの間に生じるものだ。なのでこのことは、彼は幻想を「幻想」という象徴的代理物だと知っている、即ち漫画やアニメの登場人物が対象aではないことを知っている、または対象aとして考えていない、と言い換えることもできるだろう。
オタクは確かにハイ・コンテクストな虚構世界の中、即ちS2というシニフィアンたちと戯れている。その姿は/S→対象aというベクトルに沿ってシニフィアンを掴み続ける「生の欲動」そのものである。しかし彼らはS2の裏に対象aがあることを信じていない。それもそうだ、現実的な日常=想像界からの逃避行の行き先がオタク文化だからだ。ただ純粋にシンボル記号たちと戯れることを楽しんでいる。だから彼らは時には逆方向の「死の欲動」的な、シニフィアンを殺害してくいく方向にも身軽に転進できる。対象aの放つ引力を恣意的に弱めた結果、斎藤氏が前掲書の中で「斜に構えた熱狂」と表現するこの身軽さを得られたのだ。また斎藤氏はこの「斜に構えた熱狂」こそ「おたくの本質」だとしている。
こういったことから、オタクの方々が自らの所属するオタク文化を論理的に説明しようとしても、それはオタク文化の外の人間から見れば「戯れ」としか写らなくなるわけだ。フェティシスム的に、マニア的にその文化を愛しているならば、その行間に「非論理的な」説得力が生まれるのかもしれないが、それは先に述べたようにオタク文化の作法では否定される作法となる。この作法は超自我的なものなので、アニメキャラに対するフェティシスム的な愛情は(存在したとするなら)無意識下に抑圧されてしまう。なのでどうしてもそれらの論は、無意識の影響を受けながら、オタク文化作法という超自我的な検閲により、暗喩的換喩的に置き換えられた言葉として表出したものとなる。そういった文章の論理は、オタク文化の外の人間にとって、的を得ない、上滑りしている行間が透けて見えてしまう。これを私の印象で述べるなら、そういったオタク文化の作法という特殊な超自我に従っている不気味な「素直さ」「純粋さ」という表現になる。それはともかく、このような一つのパラドクスが、まず最初にオタク文化論が(精神的に)乗り越えるべき壁ではないだろうか。その突破口は何かと問われれば、オタク文化の外にいる私は「客観性」的なもの、という曖昧な表現しかできない。客観性というものは、論理的な文章をもって説明すれば自動的についてくるものではないのだ。
また、少し話はそれるが、こういった身軽さを言外に強制されているような感覚は、オタク文化の外にも存在しているのかもしれない。宮台真司氏はそういった感覚を、「強迫的アイロニズム」やギャルが感じている「<システム>を生きる痛み」などと表現しているのではないだろうか。強迫しているのは恥の文化的な超自我という<システム>であろう。斎藤氏も前掲書内で述べているように、日本文化はもともと虚構との相性がよい文化である。しかしそれだけでは社会が立ち行かない。なのでそれを抑圧するものとして、超自我的な作法という形の、恥の文化的なものがあるのではないだろうか。この抑圧が、「強迫的」という表現に繋がるのだろう。ちょうどラカン派の精神分析医である藤田博史氏も、『性倒錯の構造』という著作の中で日本人の行動パターンを「きわめて強迫的」と表現している。オタク文化は日本文化の特徴をデフォルメしている文化だとも言えよう。
以前私はオタク二分論として、「パラノ/スキゾ」という対比項を導入した(記事1、記事2)。パラノはその内的動力が「想像界>象徴界」であり、スキゾは逆であるという単純化した仮定義でこの二分論は構成されている。
このオタク二分論は、先にも述べたようにマニアという文化的部族から派生したスキゾ的人格グループがオタクという部族であるが、最近のオタク文化(1990年代中頃を境とした2000年以降)は、一般化することで本来マニアとなるべき、人口的にはスキゾを圧倒するパラノ的人格がオタク文化に流入しているのではないか、という風に要約される。
スキゾ的オタクは象徴界の内的動力、具体的には抽象化能力や象徴化能力、類化能力が優れている。よって、想像的な他者である対象aの引力などとは関係なく、S2という他者のシニフィアンの群れと戯れることが可能となるのだ。
しかし、スキゾ的人格によるこの戯れは非常に浮遊的なものと言えるだろう。
マニア=フェティシストのS2での留まり方は、生の欲動と死の欲動の逆方向のベクトルがぶつかり合うS2で構成された幻想の迷路の中の「待ち合わせ場所」において、「突然停止した映画」のようにそこに留まる。逆方向の欲動のベクトルがありそれらが平衡しているからこそ、そこでの留まり方は強固なものとなる。「マニアは(マニアとなった以降)一生マニアであり続ける」といったような言葉にその強固さが表現されている。
それに比べて対象aを原因とした引力を恣意的に弱めたスキゾ的オタクは、引力から解き放たれている代わりにS2の中を浮遊してしまう。これはオタクはマニアに比べ愛着を持つ対象物が限定されない、身軽に愛着する対象を取り替えることができるという表出にあてまはるだろう。また、S2=象徴界が浮遊している故、その対象物はマニアの対象物と比べ「実体性」が低く、「虚構性」が高いものとなるのだ。その欲望の構造からいって、オタクは虚構度の高い対象の方が親和性が高いのである。即ちスキゾ的オタクの対象物への愛情は「斜に構えた熱狂」的であり、「戯れ」的である、ということだ。これは、先に述べたように対象aの引力を恣意的に弱めた結果可能となった様式である。
「恣意的に弱めた」と書いたが、対象aに向かうベクトル即ち「生の欲動」は欲望の根源的なものであるので、人によって(それこそパラノ的かスキゾ的かによって)差はあるだろうが、対象aが放つ引力は打ち消すことができないものである。その引力から逃れられない人間が、後から既にそこにあるオタク文化に参入すると、その作法が「ハイ・コンテクスト」化された文化と出会うこととなる。オタク文化の「ハイ・コンテクスト」な超自我を受け入れることは、彼の象徴界がボロメオの輪から外れてしまう力を受けることになる。象徴界、想像界、現実界という三界がばらばらになってしまいそうになるだろう。そこで彼らはそれらを繋ぎとめるために第四の輪を導入する。ラカン論ではこの第四の輪を「人間という症候」「サントーム」と呼ぶ。サントームについて述べたブログ記事があるのでそこから再引用させてもらおう。
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症候ジョイスに基づいて強調されていることは、主体の構造の構成における(技術の研鑽、工夫を凝らした方法といった月並みな意味での)人工物の重要性である。ラカンは、あらゆる発明は結局、サントームであるとまで言う。
『精神分析事典』より
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ここで「技術」という言葉があるが、かつて「art」という言葉は技術と芸術双方の意味を持っていた。そういった意味ではここでの人工物の重要性には、芸術も含まれるだろう。このサントームというものは、「生成物であり起源である」という両義性を持つもので、象徴界にあるものだが何物をも「象徴しない」。また、精神病を分析する上での核であるが、幻想でも症状でもないため、分析の対象となりえない。
先にも少し触れた「他者の享楽」「ファルス的享楽」と対比させてこれを説明する。「他者の享楽」は想像界と現実界の重なりにあり、重なりからそれを引いた「残り」が対象aである。「ファルス的享楽」は象徴界と現実界の重なりにあり、重なりからそれを引いた「残り」が対象aである。
想像界と象徴界の重なりにあるのは「sens=意味」である。ジジェクはこう述べる。これに享楽を見出すならば「意味の享楽」となり、重なりからそれを引いた「残り」は対象aとなる。その享楽は(まさにオタク文化のハイ・コンテクスト的な)浮遊的な享楽である。この享楽の領域にある、「クッションの刺し縫い点」、即ち「一の線」であり、刺し縫い点である「一」であるのに浮遊している(=生成物であり起源である)シニフィアン=「一者」が、「サントーム」である、と。
象徴界におけるシニフィアンは全て「そこに存在しない」象徴的ファルスΦの暗喩作用を受けている。そんなS2の中、「意味の享楽」の領域で暗喩を(それこそハイ・コンテクスト的に)積み重ねた上で、主体は浮遊する「一」なるシニフィアンを発見する。このシニフィアンは何物をも象徴しない。それがサントームだ。これは、S2の暗喩を遡る、死の欲動のベクトルを進み到達する(抹消されている故到達不可能だが)のがΦなら、サントームは生の欲動のベクトルを進み到達するΦの裏の顔とも言えるだろう。Φが赤ん坊の頃の全能感を象徴しているなら、サントームは自分に対し去勢を行った恐怖の対象である「父の名」である、と言えるかもしれない。
暗喩を積み重ねることは、サントームという「父の名」に向かっているとも「事後的に」言えるだろう。先に、対象aに向かう時主体は際限なくS2というシニフィアンを掴み続けると書いたが、掴み続けること自体が享楽となり、対象aの引力から解き放たれ無限に暗喩を積み重ねていくある瞬間に、このサントームは表れるのだろう。対象aを愛というならば、愛を求めていくうちにその愛の「駆け引き」に目的が移ってしまうことを考えればわかりやすいだろうか。
また、「他者の享楽」が「死の欲動」というベクトルによるもので、「ファルス的享楽」が「生の欲動」というベクトルによるものだとしたら、「意味の享楽」とは、S2という迷路の中で周囲を巡回しているような欲動の形によるものである、と言えるだろう。そこにはもはや、発生過程からして想像界と現実界とに強く関係してしまう対象aの引力は存在しない。対象aはあらゆる欲望の原因なので、「サントーム」は、欲望を生み出すものでも欲望から生まれるものでも欲望そのものでも、ない。
オタク文化は、暗喩の積み重ねとも言えるハイ・コンテクストな表現である。ではオタク文化の表現作品はサントーム的なものを醸し出しているのだろうか。
それの代表例としては、多少不適格かもしれないが、私は『エヴァンゲリオン』を挙げておきたい。この作品のある一つの側面が、ハイ・コンテクストであるからこそ成り立った、サントーム的な行間を醸し出していると言える。その一つの側面とは、タイトルや作中の用語に哲学や心理学の用語を引用させたことなどである。これらの学問の用語は、科学的な用語などと比較し多義性に富んでおり、他のシニフィアンが大量に(学問のシステムにより)ぶら下がっているもので、非常に暗喩的効果が強いと言える。この側面を違った言葉で述べている文章を、東浩紀氏の著作『郵便的不安たち#』から引用する。
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この作品は、その細部に至るまで(エヴァ操縦席のデザイン・コンセプトからビールの銘柄まで)、過去の小説、マンガ、アニメ、映画、音楽への徹底した引用・参照の束で作られている。コードウェイナー・スミス、フィリップ・K・ディック、市川崑、ジェイムズ・キャメロンらから、村上龍、神林長平、成田美名子、大槻ケンヂなどの80年代作家たちへと続くその参照のリストは、膨大な固有名を含んでいる。20代以上のファンの多くがこの仕掛けを喜んだのは、言うまでもない。
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つまり、『エヴァンゲリオン』に用いられた引用句はそこから他の言葉、シニフィアンそのものを多く暗喩するシニフィアンであると言える。作品内に散りばめられたシニフィアンそのものを暗喩する引用句が、暗喩の積み重ねの土台となり、受取手はその土台に勝手に暗喩を積み重ね、その上に立つことで、サントーム的な「一者」のシニフィアンの面影が見れたのだろう。しかしテレビ版最終回において、そのサントーム的なシニフィアンの面影に、メタフィクションというシニフィエを与えてしまった。物議を醸した最終回だったが、作品の収まり、完成度としてはこの終わり方が適切だったと私は思う。サントーム的な何を象徴しているのかわからない何かのシニフィアン的なものに収まるような、わかりやすい結末を与えてくれた。それを避けた劇場版のラストは、物語的に終わりを導いただけになってしまっているが、テレビで放映された箇所はかなり圧縮されているため、映画作品単体で考えると、引用句の詰め込みによるサントーム的な面影が無くなってしまった。
話がそれてしまいそうなのでこの作品についての文章はここで止めておこう。
『エヴァンゲリオン』以降の作品について、確かにエヴァ的な大量の引用という手法が用いられた作品もあるが、そこにはサントームを感じられない。それは何故か。
オタク文化の表現は、非常に性的なものが多い。斎藤氏の言う「虚構としてのセクシュアリティ」がその文化の重要な位置を占めている。BLについての記事でも書いたことだが、ここで再度簡単に述べておく。オタク文化の表現作品は、浮遊する虚構世界と現実界を繋ぎとめる命綱としてセクシュアリティが利用されている。これは対象aを暗喩するものである。つまりセクシュアリティを主題にした作品は、対象aの引力から逃れられないということだ。だが、『エヴァンゲリオン』もセクシュアリティを扱っていないわけでもない。事実その女性キャラは男性オタクにとって性欲の対象として捉えられていた。しかしその引用句の傾向を考えてみよう。その参照元はアニメやマンガに限らず、様々なジャンルから拘りなしに引用している。唯一共通するのは背後にたくさんのシニフィアンを背負っている引用句である、ということだ。この参照の仕方により、セクシュアリティを主題としている本来のオタク向けテレビアニメの文脈と違う場所を得ていると言えるだろう。つまりオタクたちは性的な視点でその女性キャラを見る視聴方法と、大量の引用句を発見して楽しむ視聴方法とを混在せずに『エヴァンゲリオン』という作品を視聴できたのではないだろうか。それらはパソコンのHDDのパーテーションのように区切られているのだ。などと言いながら、少し苦しい言い分であることは自分でもわかっている。なので先の文章ではこの作品のことを「多少不適格」であり、サントーム的なものを生み出しているという解釈は「一つの側面」である、という表現をしておいた。
また、引用句自体の性格もあるだろう。暗喩するシニフィアンが大量でないと、『エヴァンゲリオン』のようなサントーム的効果は出ないと考えられる。引用の仕方も重要だろう。これらの引用が暗喩の連鎖をして目指すのは、「何物をも象徴しないシニフィアン」=サントームである。暗喩の連鎖に製作者が(意識的にしろ無意識的にしろ)何かの意味を求めると、その連鎖は生の欲動的な、対象aの引力によりS2を掴み続けるベクトルとなる。
マニアから、対象aの引力から逃れることができる素質を持ったスキゾ的人格のグループが派生し、オタクという新しい文化的部族を形成した。このスキゾ的資質を帯びた部族の到達点の一つが、『エヴァンゲリオン』という作品であろう。その作品はこれまでのアニメにないサントーム的な側面を持っていた。対象aに囚われにくいという彼ら自身の素質と、オタク文化として培ったパロディ的な引用というコンテクストが共鳴しあって、恐らく偶発的に、かつ無意識的には必然的に、そういう側面を生んだと言える。これは一つの側面でしかないが、この側面が『エヴァンゲリオン』という作品を、他にはない突出した作品たらしめたのではないか。この言葉で表現しにくい、強いて言うならサントーム的な側面を、『エヴァンゲリオン』という作品は「発明」したのだ。
「必然的」と書いた理由を説明しておこう。ラカンはこの「サントーム」という概念を、作家ジェイムズ・ジョイスについての論文において説明した。ジョイスは、その性格に精神病(パラノイア)的な兆候が見られるが、ついに病としての精神病を発病することはなかった。ボロメオの輪が解体することはなかったわけだ。これは彼が小説作品を書く行為において、サントームという第四の輪を形成していたからだ、とラカンは述べる。サントームに導かれたシニフィアンの群れが作用することで、ボロメオの輪からばらばらになりかけていた象徴界を、サントームにより形成された「偽穴」の中に収めることができた、ということだ。
私の「パラノ/スキゾ」二項論でいうなら、ジョイスはその内的動力が想像界、象徴界ともに強かったのだろう。小説は文字の芸術であるため、想像的動力は働きにくい。結果彼の小説は、小文字の他者である対象aの引力から離れ、ジジェクの言うところの「意味の享楽」を存分に表現する作品となったのだろう。対象aの引力から離れた、シニフィアンを積み重ねる享楽の中で、「一の線」的なシニフィアンの面影を感じ、それに向かうことが第四の輪を形成していったと、事後的に説明されるわけだ。「一者」「父の名」というシニフィアン=サントームに向かうことで、第四の輪=サントームが形成される。「生成物であり起源である」という両義性がここに立ち現れている。
『エヴァンゲリオン』という作品は監督の庵野秀明氏の個人色が強いので、こういう仮説も立てられるかもしれない。即ち、ポストモダンにおけるアニメ文化というハイ・コンテクストな世界の中で、象徴界が浮遊し三界がばらばらになりかけていた庵野氏の無意識が、この側面を生み出す要素を作品に埋め込ませたのではないだろうか。そういった事後的な解釈として、「必然的」という言葉を用いたわけだ。
また、ハイ・コンテクスト化という、象徴界を分離させる力とも言うべき何かを感じているオタクたちは、ボロメオの輪の解体を食い止めるために、同人誌やプチクリという形で「必然的に」表現者の側にまわってしまうのだ。しかし、対象aの引力に囚われている彼らは、その表現行為によってサントームを見つけることも形成することもできないだろう。
『エヴァンゲリオン』が発表されたまさにその90年代後半ぐらいから、オタク文化は一般化していった。結果、スキゾ的人格を人口的に圧倒するパラノ的人格がオタク文化に流入した。想像界の内的動力が強いパラノ的オタクは、小文字の他者である対象aに鋭敏であり、対象aが発する引力に囚われやすい。アニメやマンガという表現は、いくらハイ・コンテクストを土台にしているとはいえ、小説と比較すれば想像的表現であると言える。こういった仮説を設定するならば、今のオタク文化の表現作品は、スキゾ的オタクが主流だった以前と比べ、対象aの引力に囚われやすい傾向が強い、と言える。即ち、『エヴァンゲリオン』のような、精神病の防衛ともなりうるサントーム的な側面を持つ表現作品は、今後現れにくい、ということである。
今のオタク文化において、対象aの引力に囚われている表出の例は、いくらでも挙げられる。
例えば先に述べたようなセクシュアリティという命綱を必要としていることは、対象aの引力に囚われていることを示している。これはあくまで命綱であるので、セクシュアリティの本質に迫る、エロスとは何かを問うような作品は、オタク文化では避けられる。エロスを問うことは命綱を解体することになるからだ。オタク文化のセクシュアリティとは、「虚構としてのセクシュアリティ」という商品を、オナニーのために消費しているエコノミーしかそこには存在しない。
メイドカフェや、アニメのコスプレでサービスする風俗店なども、体感的で現実的な日常、即ち想像界と現実界の引力=対象a的な引力に囚われていることの表出になるだろう。
「泣きゲー」と呼ばれる、性的な目的でアニメ的美少女と戯れるゲーム=エロゲの一ジャンルの流行にもこのことが表出している。泣くのは、ゲーム内のキャラに対し想像的同一化を試みているから、ゲーム内での悲しい出来事に反応して泣いてしまうのだ。作家の佐藤亜紀氏は、ゲームに限らずアニメ的なキャラに感情移入して泣くオタクたちのことを「エモエモ泣いている」と表現し、批判した。それが書かれていたのはいささか感情的な文章だったが、こういった表現はさすが作家と思わせる。
また、ハーレム系と呼ばれる作品群も、受取手にハーレムの中心にいる男性キャラに想像的同一化させることで、作中の性的な享楽を楽しませる表現だと言えよう。
ツンデレやクーデレ(クールでデレデレ、という意味らしい)といったアニメキャラの性格分類を、現実の女性にあてはめて会話することも対象aの引力に囚われた結果の出来事だろう。
最近、斎藤氏の影響か、作品自体の精神分析的視点による分析ではなく、あたかもアニメキャラを実際の人物のように見立てそのキャラを精神分析しているブログ記事などを見かける。これなどはアニメキャラを対象aとして見ている直接的な表出と言える。作品の表現者の無意識や言外のメッセージを分析するのではなく、あたかもアニメキャラに無意識がある如くそれを捉えているのである。アニメキャラに無意識などない。その作品から立ち上がる無意識的なものは、表現者のものである。
こう書くと、対象a的な引力に縛られた表現作品全般をけなしているように思われるかもしれないが、そうではない。登場人物に対し読者を感情移入させるような、想像的同一化のベクトルを促進させるような表現も、一つの表現手段である。対象aを暗喩させる作品とでも言えようか。ラブロマンスを扱う作品はこの表現技術が重要になるだろう。ともかくここで言いたかったのは、最近のオタク文化の特徴として、想像的同一化を促進させる目的の表現作品が多い、対象a的なものを暗喩させる作品が多い、パラノ的人格と相性がいい作品が多い、という点を言いたかった。簡単に言えば、最近のオタク文化は非常にパラノ的である、ということだ。
ここで、冒頭に書いた私が感じた不気味さについて思考を巡らせてみよう。
確かに表現作品には、登場人物に受取手を感情移入させるような、対象aへのベクトルに受取手を導く技術はあるし、対象a的な行間を立ち上がらせる、対象aを暗喩させる要素は存在するし、それは否定しない。映画や小説の登場人物に想像的同一化的なアプローチとしての感情移入をするなと言っているわけでも、愛の本質をテーマにした作品を否定するわけでもない。こういった感情移入を逆に阻害する技術として、「異化効果」なる概念だってあるくらいだ。もちろん、アニメやマンガの作品分析の一助として、対象aという概念を用いることだって否定しない。実際この記事で私はそれをやっているわけだし。では、アニメキャラを対象aとすることに、私は何故不気味さを感じたのだろうか。
これは、オタク文化固有の問題であると思う。
斎藤氏は前掲書において、こういうオタク擁護論を展開している。即ち、ラカン論では本当の現実である現実界は到達不可能であり、私たちの日常にある現実的世界は厳密には妄想と明確な区分ができない。つまり「虚構」と「現実」は明確に区別されないものである。オタク文化はその「虚構のリアリティ」を維持するためにセクシュアリティを利用している。そのセクシュアリティが倒錯的なのも、マニア=フェティシスムのような死の欲動のベクトルを導入した結果であり、このベクトルが性倒錯的なものの本質にあるため、自然な成り行きと言える。フェティシスムなどは人類の歴史の古くから存在する欲望の様式なので、オタク文化が特別問題視される謂れはない。むしろ物語などの虚構世界に倒錯を求めることで、現実的日常を健全に生きることが可能となる。加えて、日本文化はその特徴をしてフェティシスム的、倒錯的である。即ち想像的同一化傾向が強く、死の欲動というベクトルに沿って象徴界での戯れを得意とする文化である。そして、最も重要なのが、オタクたちの熱狂は「斜に構えた熱狂」であり、そのスキゾ的軽やかさで倒錯的な虚構としてのセクシュアリティを楽しんでいる。なので社会的な間違いを犯すことはない。これが斎藤氏の論旨だろうか。
生の欲動のベクトルとは、主体がΦにせきたてられ、対象aの引力に導かれ、象徴的思考の中で大文字の他者A=S2を構造化していく。フェティシスム的な死の欲動のベクトルとは、具象的対象に想像的同一化を試み、理想自我的に対象aに近似したシニフィアンに自己を置いて、Φに向かって大文字の他者A=S2を殺害し、構造を破壊していく。
古代におけるフェティシスムの具体例としては、偶像崇拝が挙げられる。斎藤環氏が「戦闘美少女」というキャラ類型を「イコン」と表現したのはこういった意味を含めてのことだろう。宗教はその発生過程からして人の象徴的思考を豊かにさせることを命題としているため、構造を無化する偶像崇拝は避けられる傾向にあった。仏教なども本来は偶像崇拝を否定していたのだ。この象徴的思考の複雑さが、人間とその他の動物の違いであるならば、/Sを目指しS2の構造を無化させる死の欲動のベクトルは動物化のベクトルとも言えよう。これは東浩紀氏がオタク文化を代表とするポストモダン文化を「動物化」と表現したことにも繋がるだろう。
死の欲動も生の欲動も、目指す最終地点は/Sと対象aの同一化、即ち「/S=a」の領域である。宗教(三大宗教以前のものも含む)は、主体がΦのせきたてと対象aの引力に導かれる前提で、人類の象徴的思考を豊かにさせる役割を担っていた。しかしそんな中、ベクトルとしては死の欲動的なS2の構造を無化させる方向を進むのだが、対象aの引力から逃れることを前提として成り立つ思考様式が出現した。それがギリシャ哲学などを祖先とする「学問」である。「学問」は「何故?」という問いかけとその答えを言葉(や数字などの記号)にして、身体の外に「排泄」する思考様式を採っている。これは死の欲動ベクトル的にS2の構造を無化させることと等しい。しかしそれがフェティシスムとならなかったのは、対象aの引力から逃れることを前提としたからである。即ち、感情論や主観やパトス的なものを排除する「限定的」な思考様式を採用したから、同じ死の欲動のベクトルであってもフェティシスムとならなかったのだ。
「生の欲動」は際限なくシニフィアンS2を掴み続ける。S2の構造は無限に拡大していく。だがそれを処理する人間の思考能力(象徴化能力)にも限界があるだろう。よって人はフェティシスム的な欲望の様式をもって構造の拡大を「停止」させる。人によってそれがうまく機能することもあるだろうが、「フェティシスムはパラノイアの防衛である」といったように精神病的な「狂気」を生む可能性も秘めている様式である。フェティシストとなれればよいが、S2で構成された幻想の迷路の中、その「待ち合わせ場所」で逆方向のベクトルが出会えない場合だってあるだろう。すれ違った生の欲動と死の欲動は、対象aの領域において想像的同一化=想像的去勢の否認を形成し、Φの領域において象徴的同一化=象徴的去勢の否認を形成する。これらが他者に否定されることでパラノイアの症状が発生する。
際限のないS2の構造の拡大に対抗する、フェティシスム以外のもう一つの手段として生み出されたのが「学問」だったのではないだろうか。「サントーム」化も「学問」も、/Sと対象aの同一化への力を遠ざける前提を導入して、S1に向かっているのだ。違いは、学問はS2を排泄する死の欲動的な方向で、S1にある「真理」などといったΦを目指しているのに対し、サントーム化はS2を暗喩的に積み重ねる芸術的行為などにより、生の欲動的な方向で、S1にあるΦの裏の顔である「父の名」というサントームを目指している、と言える。
比喩的にまとめよう。生の欲動とはシニフィアンを「食べ」続けることである。しかし食べ続けるだけでは生きていけない。フェティシスムのように食べるのを「停止」させたり、学問のように「知」(=S2)を「排泄」する必要がある。これが死の欲動だ。
この比喩を採用するなら、近代の科学信仰的な、ロゴス中心主義的な状態は、「食べる」ことをやめ「排泄」だけに拘ってしまった拒食症のような状態だと言える。一方オタク文化は、「食べる」ことをやめずに過食症となり、嘔吐や下痢を起こしているような状態であると言えよう。言葉は悪いが、この嘔吐や下痢が、サントームへの力を受けているにも関わらず対象aの引力から逃れられていない表現行為、即ち同人誌やプチクリのような現象にあたる。
斎藤氏は、1990年代のオタク文化を、「斜に構えた熱狂」的な軽やかさを本質とし、それを根拠にしてオタク擁護論を展開した。しかし私は現在のオタク文化について、斎藤氏の言う軽やかさをスキゾ的人格によるものとし、そうではない一般人的なパラノ的人格が流入してきて、パラノ化とも言うべき傾向がある、と考える。つまり斎藤氏がオタクの本質とした「軽やかさ」を失っていると私は思う。もちろん現在のオタクたちも「斜に構えた熱狂」という文化作法を表面上守ってはいるように思えるが、その作法の奥には、対象aの引力に囚われたマニア的熱狂が潜在していると分析できる。限定された文化が一般化してしまったことで、日本人としての特徴である超自我に対する「強迫的」な印象を、オタク文化も漂わせるようになってしまったのだ。
マニアという文化的部族から派生したスキゾ的人間たちによるオタクという部族は、サントーム化を進めることで、第四の輪=サントームを手に入れ浮遊する象徴界を繋ぎとめておこうとした。それが「斜に構えた熱狂」という作法を生み出した。しかし皮肉にもその結節点とも言うべき『エヴァンゲリオン』という作品以降、オタク文化は一般化し、パラノ的人格が流入してきて、パラノ化が進んだ。よってこの「斜に構えた熱狂」という超自我的な作法が、対象aを求めることから生じる欲望を抑圧した結果、日本文化の特徴でもある強迫神経症的な「強迫的」という表出を生み出すことになった。
オタクたちはこの「斜に構えなければならない」アイロニカルな作法を守りながら、対象aの引力になされるがままとなっている。むしろこの抑圧が、対象aを求める引力を強めている印象すらある。それは何故か。超自我そのものがS2による構造であり、本質的に生の欲動に従って形成されるものだからだ。元々は死の欲動的なベクトルから生じた行為でも、作法となってしまった時点でそれは生の欲動を加速する「構造=システム」となってしまう。「斜に構えなければならない」作法が、逆に対象aへの引力を強めているのだ。これは学問だってそうだ。死の欲動的なベクトルで成り立った「学問」という行為は、科学信仰的、ロゴス中心主義的な作法になってしまい、世界を能動的に構造化している。学問という作法に染まった私たちは、生の欲動に従って、ファルス的享楽的に、自然を都合のいいものに作り変えよう(構造化しよう)としているではないか。
本来、生の欲動=エロスへのベクトルを短絡させないために、S2で構成された迷路で迂回させるというのが、宗教や倫理の目的であった。だから迷路は複雑であればあるほどよかったのだが、この迷路の存在が、エロスの幻想を複雑化させ、豊かにしてしまった。禁を犯すことがエロティックなのはそのためだ。抑圧されればされるほど、愛=エロスの幻想は燃え上がってしまうのだ。
これが冒頭に書いた、「アニメキャラ」と「対象a」という言葉を並立させた時に、私が感じる不気味さの正体だ。
フェティシスムの欲望様式もとらず、サントーム化に進むこともできず、本来の学問的行為に倣うこともせず、今のオタクたちは/S→対象aという基本的な「愛を求める」やり方で、アニメキャラを「素直に」欲望しているとするならば。
他人の愛の形に口を出せば馬に蹴られるだろう。しかしあえて書いておきたい。対象aの領域は同一化の領域であり、その引力は同一化への引力だ。フェティシストのようにアニメキャラに対し感情移入などを通して想像的同一化を試み、それを反復しているとしよう。アニメキャラは作品世界の中の登場人物だ。アニメキャラというフェティッシュは、登場人物としてのそのものと、その外套のようなアニメ的世界が二重化しているフェティッシュと言える。アニメキャラを対象aとみなしてしまうと、その外套に捕まってしまう。一般的なマニアが持つフェティッシュは、そのもの自体の外部には私たち自身の外部にあるのと同じ現実的な世界が広がっているのと対照的だ。簡潔に言おう。アニメキャラを対象aと見做す、つまり想像的同一化が進むと、彼の自我はアニメの世界に捉えられてしまうのだ。そんな馬鹿な、と思われるかもしれない。しかし先に述べたようにラカン論では、「虚構と現実の区別はつけられない」のだ。
少し婉曲的だが例を挙げよう。随分前になるがテレビで、ある解離性同一性障害(多重人格障害)を持つ若い患者について放映されていた。その患者に表れる他の人格は、アニメ的な名前を持ち、その設定も「前世」などといったアニメ的な要素を備える人格だった。この患者は、アニメ的な世界に囚われていると言えないだろうか。その人はそういう疾患を持っているからであり、私たちは違う、と言うのは簡単だ。しかしそれで終わらせていいことだろうか。
その人の世界の認知の仕方が、無意識的にアニメ的世界を根拠にしている、という表現になるだろうか。他人がどういう世界の認知をしていても、私には関係ない、とも言える。例えば言語が違う外国人は、私たちと違った象徴化をもって世界を認知しているだろう。しかし、それがアニメの世界となると話は違う。彼が根拠にしている世界は人が作った世界だからだ。彼が私を見るとき、私は彼の中でアニメキャラになっているだろう。私は人が作った世界になどは住みたくない。自分のことをアニメキャラ的に認知されたくない。ブロイラーのように一列に並んで、エロ作品を食い散らかし、オナニーをしているようなオタクたちが作った世界の住人にはなりたくないのだ。
それでもオタクたちはアニメと現実的世界の区別はついている、と反論するだろう。現実的な日常からの逃避先としてアニメという世界を選んだのだから、納得できる言い分ではある。しかし、アニメキャラに対して想像的同一化を求めていない、と言い切れるだろうか。フェティシストがするように、アニメキャラのヴェールに想像的ファルスを写し出してはいないだろうか。斎藤環氏は前掲の『戦闘美少女の精神分析』において、「彼女(戦闘美少女)はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し」ていると書いてある。この分析は、まさにアニメキャラに対し想像的同一化しようとするオタクたち自身の分析になる。
斎藤氏が分析した1990年代のオタクはともかくとして、今のオタクたちは、本当に「現実と虚構の区別はついている」のだろうか?
対象aとは自我と小文字の他者が同一化する領域である。「アニメキャラは対象aである」と言う人間がいたら、彼はアニメの二次元の世界を生きていることになるのだ。
そもそも「虚構と現実の区別はない」から、そもそも「日本人は虚構と倒錯に親和性が高い」から、オタク文化が特別問題というわけではない、という斎藤氏のオタク擁護論に対し、私はこう反論する。「虚構と現実の区別はない」から、「日本人は虚構と倒錯に親和性が高い」から「こそ」、私たちは虚構と倒錯に対して真摯に接しなければならないのではないか、と。
以前の記事で、アニメキャラをラカン精神分析論の対象aになぞらえて表現することについて書いたことがある。
それは勢いに任せて書いた記事だったので、ラカン論としての構造的なところのきちんとした思考を行っていなかったように思う。なのでそのあたりのことをだらだらと言葉にしてみようというのが今回の目的である。
対象aとは欲望の原因である。なので、アニメキャラを欲望していれば、なるほどアニメキャラを対象aだと言っても構わないように思える。アニメキャラは現実の人間の代理物であるので、アニメキャラを欲望することは、人間が人間を求めるエロス的な欲望の代理である、という構造が基本となるだろうか。即ちアニメキャラとは現実的な他者、即ち想像界の他者の内、自らの姿と類似した他者=人間の代理物であるわけだ。しかしオタクという人種は、そういった現実的な他者を避けている。オタク文化に限らずコギャルも自らを記号化することで、想像界から自らを象徴界の他者の位置に持ってこようとしている。ギャルがよく使う言い回しである「私って○○な人だからー」という言葉がこのことを直接的に表現している。
多分私にこういった固定観念があったのだろう。だからアニメキャラを対象aという概念で表現することに違和感を覚えたのだ。即ち、その錯誤行為的な表現の裏に、象徴界主義的な、ロゴス中心主義的な、ポストモダン病とも言うべき、不気味な何か、無意識的な傾向を感じてしまった。もちろんそういう傾向はポストモダンを生きる私にもあるものだ。だから私は思考停止してしまったのかもしれない。
少しラカン論のおさらいをしておきたい。
人は対象aという究極的な「愛」とでも言えるような領域を目指してしまう。このベクトルが様々な置き換えをされ、反復されるのが欲望である。では、このベクトルの始点はどこか。それは自己だろう。自我は「他者の欲望」を鏡面的に受け入れることで、「他者の欲望」というやり方を学び、そのやり方をもって対象aを求めるベクトルを具体化させる。そういった意味では、自我→対象a、即ち自我が始点と言えるが、もう一歩踏み込んでみたい。
自我が模倣する「他者の欲望」の起源は、母親である。赤ん坊が母親を求め、母親が赤ん坊を求める関係性の中に、「他者の欲望を反復する」「欲望とは他者の欲望である」という構造の起源がある。赤ん坊は母親に対しその胎内にいた頃のような同一化を求めるが、同時に母親という鏡を通して、母親と同一でない自分というものを手にいれ、自分の身体という代理物により、胎内にいた頃の「求めるだけ与えられる」というような全能感を満足させる。この時の他者は母親と限定して書いたが、実際には母親でなくとも母親的な他者が基本となろう。生まれたばかりの赤ん坊にとって、他者とは全て母親なのだ。大仰のようにも聞こえるが、胎児にとっての母親の胎内は全世界そのものである。つまり生れ落ちた瞬間の赤ん坊にとっての世界=全他者は母親であるという名残を持っていてもおかしくはない。この母親を暗喩する全他者という鏡により、赤ん坊は母親との同一化という対象aの「代わり」に自我を手に入れるのだ。これがラカンの鏡像段階論のベースとなっている。同一化していた(胎内にいた)頃の記憶が残る赤ん坊は、母親が自分を求める欲望を反復することで、欲望を覚えるのである。
生まれたばかりの赤ん坊が同一化的な他者=母親を求めるベクトルが、成長した大人の欲望のベースであり、そのベースを暗喩したり換喩したりして生じるのが欲望の実体である。なので対象aに向かうベクトルの始点は自我ではなく、生まれたばかりの赤ん坊の主体=エスであると言えるだろう。S→対象aという構図だ。しかし大人は言葉を手に入れている。去勢されて象徴界に参入している。言葉を手に入れることで主体は象徴界から姿を消す。象徴界に残されるのは、姿を消した主体から暗喩作用な影響を受けたシニフィアン=S2だけだ。ラカン論ではこの姿を消すことを斜線で表現し、象徴界から抹消された主体(エス)を/Sと表現する。故に大人の欲望の本質は、/S→対象aというベクトルで表現される。この→の場所に立ち現れるものが、幻想(ファンタスム)であり、ラカンはそれを/S◇aと表現した。/Sと想像界の他者=小文字の他者aの間に幻想◇があるからこそ、小文字の他者を対象aと錯覚できるのである。
ここで、全ての欲望は/S→対象aをベースとしている、と書くと矛盾が生じる。それはフロイトが唱えた「死の欲動」という概念の存在があるからである。
/S→対象aというベクトルの道程で、/Sは様々なシニフィアン(=S2)に変化し、他者というシニフィアン(=A)を対象aに見立てる。S2とAが同一化、即ちS2=Aとなることが、母親との同一化を起源とし、その代理としての欲望の目標だ。しかしS2=Aという領域は代理でしかない。人はS2=Aの裏にある対象aを求め続ける。だから欲望には際限がないのだ。私たちが現実的な日常で経験する「愛」という幻想は全てこの領域のものである。
S2=Aという領域の裏にあるのが対象aである。この対象aは他者との同一化の最終地点とも言えるだろう。なので対象aは他者であり自我でもあるのだ。となると、S2=Aという領域と対象aを短絡することも可能である。そう、自らを対象aの位置に持ってくればよいのだ。であるならば自己愛的な形の愛、ナルシシスムが究極の愛なのだろうか。
ここでもう一度/S→対象aというベクトルを思い出そう。この間にS2=Aという地点が存在するのだから、/S→S2=A→対象aと表現できるだろうか。S2は/Sの影響を受けたシニフィアンである。抹消された主体=/Sのシニフィアンは存在しないが、それを表現したのが象徴的ファルス=Φである。全てのS2にΦの暗喩作用が及んでいる。この「存在しない」S2の中心軸、暗喩の根源はS1(知の中心)と表現できる。なので先に書いたベクトルはこう書き直される。
/S→S1=Φ→S2=A→対象a(このベクトル+リビドー=生の欲動)
対象aの近似的位置に自己を持ってきた場合、S2=Aという領域の裏にあるS1=Φ、/Sが置き去りにされてしまうのだ。対象aの近似は、想像界に存在する。このことは、対象aの起源的な関係性である母親と赤ん坊の関係を思い出すとわかりやすい。赤ん坊は言葉を持っていない、象徴界に参入していない。赤ん坊にとっては体感の世界である想像界しか存在しないのだ。だから対象aの近似は想像界の他者=小文字の他者となる。S2=Aと対象aの間にある壁とは象徴界と想像界の壁であるとも表現できるだろう。ということは、「想像的な」やり方ならば、対象aの近似の位置に自己を持って来ることが可能である。欲望の対象としての自分を想像するわけだ。だからこの想像的同一化の対象はナルシスティックな、理想自我的なものとなる。しかしそうやって壁を乗り越えても、置き去りにされた/Sと対象aの同一化とはならない。対象aの側に想像的に移動された自己は、今度は自己愛的に/Sを目指す。対象a→/Sというベクトルだ。フロイトは、このベクトルがリビドーと結びついたものを事後的に「死の欲動」と呼ぶこととした。また、先に設定した/S→対象aという逆のベクトルがリビドーと結びついたものを、厳密に言うならばS1からS2へとシニフィアンを掴み続けることを「生の欲動」=エロスと呼んだ。
「死の欲動」のベクトルは想像界から対象a=/Sという領域を目指すベクトルであり、これによる欲望は、想像界と現実界の重なりとなる「他者の享楽」という性格を帯びる。つまり、「死の欲動」による享楽は受動的で、想像的で、体感的という印象になる。このベクトルは、
対象a→S2=A→S1=Φ→/S(このベクトル+リビドー=死の欲動)
と表せる。
一方、このベクトルと逆方向である「生の欲動」とは、象徴界においてS2というシニフィアンを掴み続けることであり、これによる享楽を「ファルス的享楽」と呼ぶ。これは能動的で、「所有」的な印象を浮かばせる享楽である。
生の欲動が、抹消された主体/Sから対象aへとシニフィアンを際限なく掴んでゆく欲望となり、死の欲動が、自己を他者の対象aとみなしてそこから抹消された主体/Sへと向かう欲望となる。即ちS2という他者としてのシニフィアンを身に纏い、そこからS1=Φへと向かうベクトルの欲望である。これは例えば絶対的真理を求める学問的希求や、絶対的強さを求める少年漫画的主人公が持つような欲望であり、性に関わる場においては本来の意味で性倒錯的な欲望であり、妄想的にそれを求めると精神病としてのパラノイアを引き起こすものだ。対象a的な立場からΦという自己内部の方向に向かうこのベクトルによる欲望は、自己愛的で自己満足的な印象を生む。
まとめよう。人間の欲望は二種類に分けられる。それは他者を手に入れようという「所有」的な欲望と、自己愛的で自己満足的な欲望である。これは/Sと対象aが同一化する道程のベクトルの違いが原因となる。前者の欲望による享楽は「ファルス的享楽」であり、その欲望の本質が「生の欲動」である。後者の欲望による享楽は「他者の享楽」であり、その本質は「死の欲動」である。
しかし、構造的に捉えるならば、どちらも/Sと対象aの同一化を目指していることに変わりはない。同一化してしまうその瞬間は、シニフィアンを掴み続けることが終わる瞬間であり、それは「死」と同値である。つまり生の欲動も最終的には死へと収束してしまうのだ。「死の欲動」は/Sと対象aの同一化への方向そのものを示すという解釈を採るならば、「死の欲動」の内の一つの様式が「生の欲動」であるとも言える。これが、フロイトが「死の欲動」の優位性を唱えた理由である。
余談になるが、BLについて書いた以前の記事の中で、BLにはまる女性たちの欲望は、対象aに近似して象徴界に登録された/Laから大文字の他者の場所にある欠如というシニフィアンS(/A)を目指している、と書いた。女性にとってS(/A)はS1にあたるので、/La→S(/A)というベクトルは対象a→/Sと同じ方向であり、死の欲動のベクトルであると言える。BL=やおいの祖である中島梓氏が、やおい論を述べた著作のタイトルを『タナトスの子供たち』としたことは慧眼であると言えよう。
これら二つの欲動を基にした欲望は、一人の人間に混在し、外見上同じ形の欲望であっても、時と場合で変化する。例えば恋愛なら、相手を所有したいという欲望と、所有されたいという欲望が混在する。最も良い例はフェティシスムだろう。フェティシスムの対象であるフェティッシュは、その象徴的な覆いに想像的な母親のペニスを写し出す。フェティシストはその覆いに投射されるイメージに対し想像的同一化を求め、それを(その覆いを)所有するなどのやり方で象徴的同一化を試みる。想像的同一化と象徴的同一化の狭間で、停止したビデオのようにそこで留まるのがフェティシスムである。
想像的同一化は対象aへ向かうベクトルで、象徴的同一化はΦへ向かうベクトルである。本来逆方向となるベクトルを同時に両立させることで、フェティシストはその対象であるフェティッシュへの欲望をその覆いの上に停止させているのだ。
また、対象aについて、前の記事にも書いたことをもう一度おさらいしておこう。
対象aに最も近接している代表例は、赤ん坊と母親の関係である。赤ん坊にとってのこの関係は、本当の意味での現実である現実界に近接した領域でもある。人は世界を刺激として器官でキャッチしそれを脳で処理する。つまり妄想と現実の明確な区別はつけられない。現実的には不可能だが、器官のない身体でしか認知できないのが現実界である。器官と脳での象徴化処理が未熟な赤ん坊は大人と比べ現実界に近い位置にいると言えよう。つまり、対象aとは想像界と現実界を強く暗喩するものなのだ。逆に言うと、想像界と現実界的なものが感じられないと、対象aたりえない。
しかし、想像界と現実界を暗喩すれば対象aであるというわけではない。例えば、身の回りで起こった思いもよらない悲劇的な、外傷的な出来事は、想像界の出来事であり現実界を暗喩する。現実界とは器官のない身体でしか認知できない世界で、何が起こるか全く予知できない世界だからだ。
人は何故対象aを求めるのか。それは母親の身体の一部であった時代から生れ落ちた赤ん坊が求めるもの、そう、「求めるだけ与えられる」という全能感だ。赤ん坊はへその緒から栄養を受け取るように母親の母乳を欲する。この全能感、即ちファルスを求めることが対象aを求めることになる。しかし幼児は言葉を覚えることで、去勢されることで、そのファルスが絶対に得られないことを知らされる。これは象徴界から抹消された主体=/Sであり、象徴界においては、去勢痕となった象徴的ファルス=Φであり、象徴界の主軸となりかつ存在しないシニフィアンであるS1=知の中心である。人は大人になっても、この赤ん坊時代の欲望の構図を、あたかもトラウマのように暗喩や換喩で様々な形に変化させ、反復しているのだ。
このことから、対象aはその発生要因から言って、想像界、現実界、象徴界三界全てに関係していなければならないということがわかる。このことをラカンは、三界をボロメオの輪で表現し、その中心にある三つの輪が重なる領域を対象aと示した図で表現した。
ここでアニメキャラの話に戻ろう。
アニメという表現は映像であり、イメージ=想像的な表現である。しかし、斎藤環氏によれば、ジャパニメーションは漫画の強い影響を受けており、漫画はさまざまな記号(漫符など)を組み合わせた「ハイ・コンテクスト」な表現であるため、アニメも「ハイ・コンテクスト」な表現となっている、とする。コンテクストとは広義の文脈性であり、文脈とは構成する要素である記号、即ち象徴的なものが干渉しあうことで生じるものだ。だから斎藤氏や東浩紀氏は、「オタクはアニメを『読んでいる』」といった表現をする。アニメや漫画は、もちろん絵ではあるので想像的表現ではあるが、象徴界にも強く比重を置いた表現であるのだ。
ハイ・コンテクストであるということは、現実界から距離があるということだ。このことがアニメキャラを対象aたらしめない一つの理由だ。
とはいえ、現代は社会が複雑化している。これは象徴界が複雑化しているということでもある。社会の法や暗黙の了解が巷に溢れている。なのでアニメではない現実的な世界もハイ・コンテクスト化している、という表現を私はしている。石器時代の人間の身の回りには、予知できない世界、海中や森や山の中などといった世界が広がっていた。現実的な日常が現実界と強く共鳴していたと考えられる。それと比較すると、現代の私たちの現実的日常は、科学や論理という記号の集合体によりハイ・コンテクスト化され、現実界から遠く離れてしまっていると言える。無意識的な超自我が記号的に複雑化してしまっているのだ。シュルレアリスムのような無意識主義は、超自我コンプレックス、象徴界コンプレックス、コンテクストコンプレックスの表出とでも表現できようか。そもそも精神分析的な「コンプレックス」という用語そのものが、複雑化した超自我に対応した結果を表しているのかもしれない。人類が、本来持っていた象徴化能力を介助する道具として言葉を発明し、その象徴的世界が複雑化されていったとするなら、人類は言葉の発生から未だ同じ複雑化という方向を進んでいるのである。これは「無意識は言語のように構造化されている」というラカンの言葉にも呼応する。
この場合の記号的な複雑化とは、S2の複雑化である。先に書いた/S◇aの幻想◇は、構造的にはS1→S2に当てはまる。幻想は言葉とともに複雑化されていったのだ。
複雑化していく超自我の抑圧や幻想の対応として、フェティシスムは誕生したと考えられる。複雑化した超自我と幻想。それはS2で構成される迷路だ。生の欲動に従って小文字の他者aを求めても、その他者の内面の象徴的世界も複雑化している。その関係は、愛の語らいがすれ違うように、S2というシニフィアンの迷路の中ですれ違う。なので主体は死の欲動的なベクトルでの対処を試みる。即ち、彼は他者aの場所に想像的に移動し、対象aに近接した立場からS2という幻想の迷路に飛び込むのだ。これはまさに「女性」に与えられたシニフィアン/Laと同じ構造をしている。そして、/La的な大文字の他者をさすらうシニフィアンとなった自己は、例えば「所有」というシニフィアンの待ち合わせ場所で、象徴的同一化を暗喩する場所で彼らは出会う。生の欲動的なベクトルと死の欲動的なベクトルがぶつかり合う場所で、彼は対象aを求める「歴史の記憶」を携えながら、ラカン曰く「突然停止した映画」のようにそこに留まる。この発想の転換とも言える死の欲動的なベクトルの導入は、シニフィアンの連鎖を止めるという意味で去勢の否認であるとも表現できる。人類は言葉を手に入れた瞬間から多かれ少なかれ皆言葉のフェティシストであるとも言えるが、去勢を承認したという意味でフェティシストではない主体は、生の欲動に従い対象aを求めS2を掴み続けることとなる。彼が掴むS2は次のS2へと暗喩的に連鎖していく。だから彼は対象aという想像的他者に永遠に辿り着くことができない。こういった行為を反復することでS2が豊かになり、以前のS2は無意識下へと収納され超自我が形成されて、社会的な「大人」となっていくのだろうが、このことは脇に置いておいて、先を急ごう。
斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』における表現によれば、オタクという(文化的)部族はマニアと呼ばれる部族から派生したものであり、マニアとはフェティシストのことである、としている。オタクとマニアの違いはこのフェティシストの度合いである、ということだ。このことについては以前の記事でも触れたことがあるが、そちらも読んでいただきたい。
オタクとマニアの違い、即ちフェティシスムについて簡単に述べておこう。マニアはフェティシスムの構造に沿って、その欲望の対象=フェティッシュに対し、その覆いに想像的ファルスを投影させるやり方で、想像的同一化を図る。その目的はフェティッシュを対象aの側からS2に移動させるためである。投影の仕方はS2→対象aという象徴界から行うものなので、言語的な置き換え、例えば換喩的なやり方となる。だから対象物が人間の姿をしていなくてもよい。即ち、例えばそれが人間の身体の一部や戦車や鉄道車両や自動車であっても、その姿をイメージとして独立させ(想像界の他者化させ)、そのイメージを覆い=ヴェール化させ、そのスクリーンに想像的ファルス=ペニスを持つ母親であり父親=主体が想像的同一化したい対象を、「換喩的に」投影するわけだ。こうすることで自らを対象aに近接する場所に移動させる。そして対象をS2という象徴界の他者の世界に放り込むのだ。そうして彼らはS2のどこかにある待ち合わせ場所に留まり、それと戯れる。例えば戦車のスペックという記号的なものを眺めているだけで楽しくなってしまうマニアの姿を想像してもらうとわかりやすいだろうか(決してマニアを批判している文章ではありません。念の為)。こういった欲望の様式は「象徴的同一化と想像的同一化の狭間で生きている」と表現できるだろう。
対象がアニメキャラだった場合と比較してみよう。それは人間の形即ち自己と類似したイメージを持つものなので、戦車などと比べ想像的同一化のための換喩は容易いだろう。むしろ換喩という表現すら怪しいほどだ。しかしそれは逆に対象を想像界からS2という象徴界へ放り込むのが難しくなることでもある。想像的同一化という引力に縛られやすいという表現になるだろうか。この対象aを暗喩する同一化の引力が、オタク文化内にいるオタクの方々がその「萌え」などの文化を理論的に説明しようとしても、オタク文化外の人間に共感を得られる論とならない原因の一つである。オタク文化の外にいる人間たちにとって、アニメキャラや漫画の登場人物は、(体感的な)想像的同一化の対象となりえない「紙に描かれた絵」に過ぎないのだ。
対象a的な、想像的同一化の終着点に近接すればするほど、実際の自己との差異を発見することになる。アニメキャラならば、それは「絵」であり「二次元」であるという象徴的かつ現実的な差異だ。この差異によって逆説的に同一化は阻害されてしまう。想像的同一化に満足できないまま、対象aを抹消された主体/S即ち象徴的ファルスΦと象徴的同一化させようとしてしまうと、それはパラノイアの兆候となる。自己愛的な妄想が形成されてしまうのだ。想像的にしろ象徴的にしろ同一化していくことは差異が眼前に現れることでもある。この差異により同一化は否定されてしまう。ここにおいてパラノイアの構成要件である「同一化」「差異化」「否定」の三つが揃ってしまう。フェティシスムは、パラノイアを防衛する一つの欲望の様式とも言えるだろう。
一つの具体例を紹介しよう。これも斎藤環氏の前掲書に述べられているもので、オタク文化においてはアニメキャラで自慰することを否定する人も(かつては)ごく少数だがいた。それを文中では「抜き否定派」と呼んでいる。
ある美少女漫画の熱狂的なファンであり、「抜き否定派」の彼は、その作品を性的にパロディ化する(エロパロ)ことは登場人物を汚すことであり、その作家の気持ちを傷つけるとんでもない行為だと考えていた。彼はコミックマーケットに赴いてもエロパロ系の作品には一切目を向けない。彼はネットでその主張の論陣を張っていたが、大方のオタクの反応は、「あなたは虚構を虚構として楽しめないのか?」と批判的だったそうだ。
彼はしかし、その「エロ同人誌との戦い」に終止符を打つことになる。
その原因は、彼が熱狂的に愛する作品のあるエロパロ同人誌だった。それはその作品の作家本人が書いている同人誌だったのだ。心無いオタクたちに登場人物を汚され心を痛めているはずの作家本人が、エロパロ同人誌を書いていた。この象徴的「否定」により、彼は再び去勢されてしまった。ファルスの欠如=去勢を承認せざるを得なかったのだ。
この具体例が示すところは、オタクという文化的部族の母体であったマニアという部族の作法は、オタク文化では否定されてしまう、ということだ。彼はオタクではなく、マニアだったのだ。マニアの作法に沿って、対象物即ち漫画作品と想像的同一化を試みた結果としての事例であると言えよう。
この事例を斎藤氏に報告しているのは、当時(1990年代)のオタクの一人である。彼はその報告の中でこう述べている。
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つまり、すごく熱中して作品を楽しんだり語ったりする側面も当然あるわけですけど、同時にある別の側面では完全に醒めているような状態といいますか。自分の好きな作品をあれこれいじれてこそおたくなわけで、作品を神聖化して奉ってしまったら、それはたんなるマニアとかファンに堕落してしまうでしょうね。
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では、オタクはアニメキャラや登場人物たちに対しどのような作法=構造でそれに接しているのだろう?
彼らは対象に対し、フェティシストのような想像的同一化を試みない。先程のオタクの方が、「抜き否定派」の彼について述べている文章を、もう少し引用する。
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彼の衝撃は、自分の感動がすべて幻想であり、錯覚であったことを、まさに作家本人によって思い知らされたことによるものでした。自分が孤軍奮闘、守り抜こうとしていた純潔が、実は存在すらしていなかったことを知り、彼はパニックに陥りました。漫画はしょせん紙とインクで作られた幻想であったことに、彼は「初めて」気がついたのです。ここホントは笑うところなんですけどね、でもちょっと、シャレになってないっす。
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オタクであるこの文の筆者は、漫画やアニメが「幻想」であることを知っている。幻想は欠如した主体/Sと対象aの間に生じるものだ。なのでこのことは、彼は幻想を「幻想」という象徴的代理物だと知っている、即ち漫画やアニメの登場人物が対象aではないことを知っている、または対象aとして考えていない、と言い換えることもできるだろう。
オタクは確かにハイ・コンテクストな虚構世界の中、即ちS2というシニフィアンたちと戯れている。その姿は/S→対象aというベクトルに沿ってシニフィアンを掴み続ける「生の欲動」そのものである。しかし彼らはS2の裏に対象aがあることを信じていない。それもそうだ、現実的な日常=想像界からの逃避行の行き先がオタク文化だからだ。ただ純粋にシンボル記号たちと戯れることを楽しんでいる。だから彼らは時には逆方向の「死の欲動」的な、シニフィアンを殺害してくいく方向にも身軽に転進できる。対象aの放つ引力を恣意的に弱めた結果、斎藤氏が前掲書の中で「斜に構えた熱狂」と表現するこの身軽さを得られたのだ。また斎藤氏はこの「斜に構えた熱狂」こそ「おたくの本質」だとしている。
こういったことから、オタクの方々が自らの所属するオタク文化を論理的に説明しようとしても、それはオタク文化の外の人間から見れば「戯れ」としか写らなくなるわけだ。フェティシスム的に、マニア的にその文化を愛しているならば、その行間に「非論理的な」説得力が生まれるのかもしれないが、それは先に述べたようにオタク文化の作法では否定される作法となる。この作法は超自我的なものなので、アニメキャラに対するフェティシスム的な愛情は(存在したとするなら)無意識下に抑圧されてしまう。なのでどうしてもそれらの論は、無意識の影響を受けながら、オタク文化作法という超自我的な検閲により、暗喩的換喩的に置き換えられた言葉として表出したものとなる。そういった文章の論理は、オタク文化の外の人間にとって、的を得ない、上滑りしている行間が透けて見えてしまう。これを私の印象で述べるなら、そういったオタク文化の作法という特殊な超自我に従っている不気味な「素直さ」「純粋さ」という表現になる。それはともかく、このような一つのパラドクスが、まず最初にオタク文化論が(精神的に)乗り越えるべき壁ではないだろうか。その突破口は何かと問われれば、オタク文化の外にいる私は「客観性」的なもの、という曖昧な表現しかできない。客観性というものは、論理的な文章をもって説明すれば自動的についてくるものではないのだ。
また、少し話はそれるが、こういった身軽さを言外に強制されているような感覚は、オタク文化の外にも存在しているのかもしれない。宮台真司氏はそういった感覚を、「強迫的アイロニズム」やギャルが感じている「<システム>を生きる痛み」などと表現しているのではないだろうか。強迫しているのは恥の文化的な超自我という<システム>であろう。斎藤氏も前掲書内で述べているように、日本文化はもともと虚構との相性がよい文化である。しかしそれだけでは社会が立ち行かない。なのでそれを抑圧するものとして、超自我的な作法という形の、恥の文化的なものがあるのではないだろうか。この抑圧が、「強迫的」という表現に繋がるのだろう。ちょうどラカン派の精神分析医である藤田博史氏も、『性倒錯の構造』という著作の中で日本人の行動パターンを「きわめて強迫的」と表現している。オタク文化は日本文化の特徴をデフォルメしている文化だとも言えよう。
以前私はオタク二分論として、「パラノ/スキゾ」という対比項を導入した(記事1、記事2)。パラノはその内的動力が「想像界>象徴界」であり、スキゾは逆であるという単純化した仮定義でこの二分論は構成されている。
このオタク二分論は、先にも述べたようにマニアという文化的部族から派生したスキゾ的人格グループがオタクという部族であるが、最近のオタク文化(1990年代中頃を境とした2000年以降)は、一般化することで本来マニアとなるべき、人口的にはスキゾを圧倒するパラノ的人格がオタク文化に流入しているのではないか、という風に要約される。
スキゾ的オタクは象徴界の内的動力、具体的には抽象化能力や象徴化能力、類化能力が優れている。よって、想像的な他者である対象aの引力などとは関係なく、S2という他者のシニフィアンの群れと戯れることが可能となるのだ。
しかし、スキゾ的人格によるこの戯れは非常に浮遊的なものと言えるだろう。
マニア=フェティシストのS2での留まり方は、生の欲動と死の欲動の逆方向のベクトルがぶつかり合うS2で構成された幻想の迷路の中の「待ち合わせ場所」において、「突然停止した映画」のようにそこに留まる。逆方向の欲動のベクトルがありそれらが平衡しているからこそ、そこでの留まり方は強固なものとなる。「マニアは(マニアとなった以降)一生マニアであり続ける」といったような言葉にその強固さが表現されている。
それに比べて対象aを原因とした引力を恣意的に弱めたスキゾ的オタクは、引力から解き放たれている代わりにS2の中を浮遊してしまう。これはオタクはマニアに比べ愛着を持つ対象物が限定されない、身軽に愛着する対象を取り替えることができるという表出にあてまはるだろう。また、S2=象徴界が浮遊している故、その対象物はマニアの対象物と比べ「実体性」が低く、「虚構性」が高いものとなるのだ。その欲望の構造からいって、オタクは虚構度の高い対象の方が親和性が高いのである。即ちスキゾ的オタクの対象物への愛情は「斜に構えた熱狂」的であり、「戯れ」的である、ということだ。これは、先に述べたように対象aの引力を恣意的に弱めた結果可能となった様式である。
「恣意的に弱めた」と書いたが、対象aに向かうベクトル即ち「生の欲動」は欲望の根源的なものであるので、人によって(それこそパラノ的かスキゾ的かによって)差はあるだろうが、対象aが放つ引力は打ち消すことができないものである。その引力から逃れられない人間が、後から既にそこにあるオタク文化に参入すると、その作法が「ハイ・コンテクスト」化された文化と出会うこととなる。オタク文化の「ハイ・コンテクスト」な超自我を受け入れることは、彼の象徴界がボロメオの輪から外れてしまう力を受けることになる。象徴界、想像界、現実界という三界がばらばらになってしまいそうになるだろう。そこで彼らはそれらを繋ぎとめるために第四の輪を導入する。ラカン論ではこの第四の輪を「人間という症候」「サントーム」と呼ぶ。サントームについて述べたブログ記事があるのでそこから再引用させてもらおう。
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症候ジョイスに基づいて強調されていることは、主体の構造の構成における(技術の研鑽、工夫を凝らした方法といった月並みな意味での)人工物の重要性である。ラカンは、あらゆる発明は結局、サントームであるとまで言う。
『精神分析事典』より
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ここで「技術」という言葉があるが、かつて「art」という言葉は技術と芸術双方の意味を持っていた。そういった意味ではここでの人工物の重要性には、芸術も含まれるだろう。このサントームというものは、「生成物であり起源である」という両義性を持つもので、象徴界にあるものだが何物をも「象徴しない」。また、精神病を分析する上での核であるが、幻想でも症状でもないため、分析の対象となりえない。
先にも少し触れた「他者の享楽」「ファルス的享楽」と対比させてこれを説明する。「他者の享楽」は想像界と現実界の重なりにあり、重なりからそれを引いた「残り」が対象aである。「ファルス的享楽」は象徴界と現実界の重なりにあり、重なりからそれを引いた「残り」が対象aである。
想像界と象徴界の重なりにあるのは「sens=意味」である。ジジェクはこう述べる。これに享楽を見出すならば「意味の享楽」となり、重なりからそれを引いた「残り」は対象aとなる。その享楽は(まさにオタク文化のハイ・コンテクスト的な)浮遊的な享楽である。この享楽の領域にある、「クッションの刺し縫い点」、即ち「一の線」であり、刺し縫い点である「一」であるのに浮遊している(=生成物であり起源である)シニフィアン=「一者」が、「サントーム」である、と。
象徴界におけるシニフィアンは全て「そこに存在しない」象徴的ファルスΦの暗喩作用を受けている。そんなS2の中、「意味の享楽」の領域で暗喩を(それこそハイ・コンテクスト的に)積み重ねた上で、主体は浮遊する「一」なるシニフィアンを発見する。このシニフィアンは何物をも象徴しない。それがサントームだ。これは、S2の暗喩を遡る、死の欲動のベクトルを進み到達する(抹消されている故到達不可能だが)のがΦなら、サントームは生の欲動のベクトルを進み到達するΦの裏の顔とも言えるだろう。Φが赤ん坊の頃の全能感を象徴しているなら、サントームは自分に対し去勢を行った恐怖の対象である「父の名」である、と言えるかもしれない。
暗喩を積み重ねることは、サントームという「父の名」に向かっているとも「事後的に」言えるだろう。先に、対象aに向かう時主体は際限なくS2というシニフィアンを掴み続けると書いたが、掴み続けること自体が享楽となり、対象aの引力から解き放たれ無限に暗喩を積み重ねていくある瞬間に、このサントームは表れるのだろう。対象aを愛というならば、愛を求めていくうちにその愛の「駆け引き」に目的が移ってしまうことを考えればわかりやすいだろうか。
また、「他者の享楽」が「死の欲動」というベクトルによるもので、「ファルス的享楽」が「生の欲動」というベクトルによるものだとしたら、「意味の享楽」とは、S2という迷路の中で周囲を巡回しているような欲動の形によるものである、と言えるだろう。そこにはもはや、発生過程からして想像界と現実界とに強く関係してしまう対象aの引力は存在しない。対象aはあらゆる欲望の原因なので、「サントーム」は、欲望を生み出すものでも欲望から生まれるものでも欲望そのものでも、ない。
オタク文化は、暗喩の積み重ねとも言えるハイ・コンテクストな表現である。ではオタク文化の表現作品はサントーム的なものを醸し出しているのだろうか。
それの代表例としては、多少不適格かもしれないが、私は『エヴァンゲリオン』を挙げておきたい。この作品のある一つの側面が、ハイ・コンテクストであるからこそ成り立った、サントーム的な行間を醸し出していると言える。その一つの側面とは、タイトルや作中の用語に哲学や心理学の用語を引用させたことなどである。これらの学問の用語は、科学的な用語などと比較し多義性に富んでおり、他のシニフィアンが大量に(学問のシステムにより)ぶら下がっているもので、非常に暗喩的効果が強いと言える。この側面を違った言葉で述べている文章を、東浩紀氏の著作『郵便的不安たち#』から引用する。
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この作品は、その細部に至るまで(エヴァ操縦席のデザイン・コンセプトからビールの銘柄まで)、過去の小説、マンガ、アニメ、映画、音楽への徹底した引用・参照の束で作られている。コードウェイナー・スミス、フィリップ・K・ディック、市川崑、ジェイムズ・キャメロンらから、村上龍、神林長平、成田美名子、大槻ケンヂなどの80年代作家たちへと続くその参照のリストは、膨大な固有名を含んでいる。20代以上のファンの多くがこの仕掛けを喜んだのは、言うまでもない。
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つまり、『エヴァンゲリオン』に用いられた引用句はそこから他の言葉、シニフィアンそのものを多く暗喩するシニフィアンであると言える。作品内に散りばめられたシニフィアンそのものを暗喩する引用句が、暗喩の積み重ねの土台となり、受取手はその土台に勝手に暗喩を積み重ね、その上に立つことで、サントーム的な「一者」のシニフィアンの面影が見れたのだろう。しかしテレビ版最終回において、そのサントーム的なシニフィアンの面影に、メタフィクションというシニフィエを与えてしまった。物議を醸した最終回だったが、作品の収まり、完成度としてはこの終わり方が適切だったと私は思う。サントーム的な何を象徴しているのかわからない何かのシニフィアン的なものに収まるような、わかりやすい結末を与えてくれた。それを避けた劇場版のラストは、物語的に終わりを導いただけになってしまっているが、テレビで放映された箇所はかなり圧縮されているため、映画作品単体で考えると、引用句の詰め込みによるサントーム的な面影が無くなってしまった。
話がそれてしまいそうなのでこの作品についての文章はここで止めておこう。
『エヴァンゲリオン』以降の作品について、確かにエヴァ的な大量の引用という手法が用いられた作品もあるが、そこにはサントームを感じられない。それは何故か。
オタク文化の表現は、非常に性的なものが多い。斎藤氏の言う「虚構としてのセクシュアリティ」がその文化の重要な位置を占めている。BLについての記事でも書いたことだが、ここで再度簡単に述べておく。オタク文化の表現作品は、浮遊する虚構世界と現実界を繋ぎとめる命綱としてセクシュアリティが利用されている。これは対象aを暗喩するものである。つまりセクシュアリティを主題にした作品は、対象aの引力から逃れられないということだ。だが、『エヴァンゲリオン』もセクシュアリティを扱っていないわけでもない。事実その女性キャラは男性オタクにとって性欲の対象として捉えられていた。しかしその引用句の傾向を考えてみよう。その参照元はアニメやマンガに限らず、様々なジャンルから拘りなしに引用している。唯一共通するのは背後にたくさんのシニフィアンを背負っている引用句である、ということだ。この参照の仕方により、セクシュアリティを主題としている本来のオタク向けテレビアニメの文脈と違う場所を得ていると言えるだろう。つまりオタクたちは性的な視点でその女性キャラを見る視聴方法と、大量の引用句を発見して楽しむ視聴方法とを混在せずに『エヴァンゲリオン』という作品を視聴できたのではないだろうか。それらはパソコンのHDDのパーテーションのように区切られているのだ。などと言いながら、少し苦しい言い分であることは自分でもわかっている。なので先の文章ではこの作品のことを「多少不適格」であり、サントーム的なものを生み出しているという解釈は「一つの側面」である、という表現をしておいた。
また、引用句自体の性格もあるだろう。暗喩するシニフィアンが大量でないと、『エヴァンゲリオン』のようなサントーム的効果は出ないと考えられる。引用の仕方も重要だろう。これらの引用が暗喩の連鎖をして目指すのは、「何物をも象徴しないシニフィアン」=サントームである。暗喩の連鎖に製作者が(意識的にしろ無意識的にしろ)何かの意味を求めると、その連鎖は生の欲動的な、対象aの引力によりS2を掴み続けるベクトルとなる。
マニアから、対象aの引力から逃れることができる素質を持ったスキゾ的人格のグループが派生し、オタクという新しい文化的部族を形成した。このスキゾ的資質を帯びた部族の到達点の一つが、『エヴァンゲリオン』という作品であろう。その作品はこれまでのアニメにないサントーム的な側面を持っていた。対象aに囚われにくいという彼ら自身の素質と、オタク文化として培ったパロディ的な引用というコンテクストが共鳴しあって、恐らく偶発的に、かつ無意識的には必然的に、そういう側面を生んだと言える。これは一つの側面でしかないが、この側面が『エヴァンゲリオン』という作品を、他にはない突出した作品たらしめたのではないか。この言葉で表現しにくい、強いて言うならサントーム的な側面を、『エヴァンゲリオン』という作品は「発明」したのだ。
「必然的」と書いた理由を説明しておこう。ラカンはこの「サントーム」という概念を、作家ジェイムズ・ジョイスについての論文において説明した。ジョイスは、その性格に精神病(パラノイア)的な兆候が見られるが、ついに病としての精神病を発病することはなかった。ボロメオの輪が解体することはなかったわけだ。これは彼が小説作品を書く行為において、サントームという第四の輪を形成していたからだ、とラカンは述べる。サントームに導かれたシニフィアンの群れが作用することで、ボロメオの輪からばらばらになりかけていた象徴界を、サントームにより形成された「偽穴」の中に収めることができた、ということだ。
私の「パラノ/スキゾ」二項論でいうなら、ジョイスはその内的動力が想像界、象徴界ともに強かったのだろう。小説は文字の芸術であるため、想像的動力は働きにくい。結果彼の小説は、小文字の他者である対象aの引力から離れ、ジジェクの言うところの「意味の享楽」を存分に表現する作品となったのだろう。対象aの引力から離れた、シニフィアンを積み重ねる享楽の中で、「一の線」的なシニフィアンの面影を感じ、それに向かうことが第四の輪を形成していったと、事後的に説明されるわけだ。「一者」「父の名」というシニフィアン=サントームに向かうことで、第四の輪=サントームが形成される。「生成物であり起源である」という両義性がここに立ち現れている。
『エヴァンゲリオン』という作品は監督の庵野秀明氏の個人色が強いので、こういう仮説も立てられるかもしれない。即ち、ポストモダンにおけるアニメ文化というハイ・コンテクストな世界の中で、象徴界が浮遊し三界がばらばらになりかけていた庵野氏の無意識が、この側面を生み出す要素を作品に埋め込ませたのではないだろうか。そういった事後的な解釈として、「必然的」という言葉を用いたわけだ。
また、ハイ・コンテクスト化という、象徴界を分離させる力とも言うべき何かを感じているオタクたちは、ボロメオの輪の解体を食い止めるために、同人誌やプチクリという形で「必然的に」表現者の側にまわってしまうのだ。しかし、対象aの引力に囚われている彼らは、その表現行為によってサントームを見つけることも形成することもできないだろう。
『エヴァンゲリオン』が発表されたまさにその90年代後半ぐらいから、オタク文化は一般化していった。結果、スキゾ的人格を人口的に圧倒するパラノ的人格がオタク文化に流入した。想像界の内的動力が強いパラノ的オタクは、小文字の他者である対象aに鋭敏であり、対象aが発する引力に囚われやすい。アニメやマンガという表現は、いくらハイ・コンテクストを土台にしているとはいえ、小説と比較すれば想像的表現であると言える。こういった仮説を設定するならば、今のオタク文化の表現作品は、スキゾ的オタクが主流だった以前と比べ、対象aの引力に囚われやすい傾向が強い、と言える。即ち、『エヴァンゲリオン』のような、精神病の防衛ともなりうるサントーム的な側面を持つ表現作品は、今後現れにくい、ということである。
今のオタク文化において、対象aの引力に囚われている表出の例は、いくらでも挙げられる。
例えば先に述べたようなセクシュアリティという命綱を必要としていることは、対象aの引力に囚われていることを示している。これはあくまで命綱であるので、セクシュアリティの本質に迫る、エロスとは何かを問うような作品は、オタク文化では避けられる。エロスを問うことは命綱を解体することになるからだ。オタク文化のセクシュアリティとは、「虚構としてのセクシュアリティ」という商品を、オナニーのために消費しているエコノミーしかそこには存在しない。
メイドカフェや、アニメのコスプレでサービスする風俗店なども、体感的で現実的な日常、即ち想像界と現実界の引力=対象a的な引力に囚われていることの表出になるだろう。
「泣きゲー」と呼ばれる、性的な目的でアニメ的美少女と戯れるゲーム=エロゲの一ジャンルの流行にもこのことが表出している。泣くのは、ゲーム内のキャラに対し想像的同一化を試みているから、ゲーム内での悲しい出来事に反応して泣いてしまうのだ。作家の佐藤亜紀氏は、ゲームに限らずアニメ的なキャラに感情移入して泣くオタクたちのことを「エモエモ泣いている」と表現し、批判した。それが書かれていたのはいささか感情的な文章だったが、こういった表現はさすが作家と思わせる。
また、ハーレム系と呼ばれる作品群も、受取手にハーレムの中心にいる男性キャラに想像的同一化させることで、作中の性的な享楽を楽しませる表現だと言えよう。
ツンデレやクーデレ(クールでデレデレ、という意味らしい)といったアニメキャラの性格分類を、現実の女性にあてはめて会話することも対象aの引力に囚われた結果の出来事だろう。
最近、斎藤氏の影響か、作品自体の精神分析的視点による分析ではなく、あたかもアニメキャラを実際の人物のように見立てそのキャラを精神分析しているブログ記事などを見かける。これなどはアニメキャラを対象aとして見ている直接的な表出と言える。作品の表現者の無意識や言外のメッセージを分析するのではなく、あたかもアニメキャラに無意識がある如くそれを捉えているのである。アニメキャラに無意識などない。その作品から立ち上がる無意識的なものは、表現者のものである。
こう書くと、対象a的な引力に縛られた表現作品全般をけなしているように思われるかもしれないが、そうではない。登場人物に対し読者を感情移入させるような、想像的同一化のベクトルを促進させるような表現も、一つの表現手段である。対象aを暗喩させる作品とでも言えようか。ラブロマンスを扱う作品はこの表現技術が重要になるだろう。ともかくここで言いたかったのは、最近のオタク文化の特徴として、想像的同一化を促進させる目的の表現作品が多い、対象a的なものを暗喩させる作品が多い、パラノ的人格と相性がいい作品が多い、という点を言いたかった。簡単に言えば、最近のオタク文化は非常にパラノ的である、ということだ。
ここで、冒頭に書いた私が感じた不気味さについて思考を巡らせてみよう。
確かに表現作品には、登場人物に受取手を感情移入させるような、対象aへのベクトルに受取手を導く技術はあるし、対象a的な行間を立ち上がらせる、対象aを暗喩させる要素は存在するし、それは否定しない。映画や小説の登場人物に想像的同一化的なアプローチとしての感情移入をするなと言っているわけでも、愛の本質をテーマにした作品を否定するわけでもない。こういった感情移入を逆に阻害する技術として、「異化効果」なる概念だってあるくらいだ。もちろん、アニメやマンガの作品分析の一助として、対象aという概念を用いることだって否定しない。実際この記事で私はそれをやっているわけだし。では、アニメキャラを対象aとすることに、私は何故不気味さを感じたのだろうか。
これは、オタク文化固有の問題であると思う。
斎藤氏は前掲書において、こういうオタク擁護論を展開している。即ち、ラカン論では本当の現実である現実界は到達不可能であり、私たちの日常にある現実的世界は厳密には妄想と明確な区分ができない。つまり「虚構」と「現実」は明確に区別されないものである。オタク文化はその「虚構のリアリティ」を維持するためにセクシュアリティを利用している。そのセクシュアリティが倒錯的なのも、マニア=フェティシスムのような死の欲動のベクトルを導入した結果であり、このベクトルが性倒錯的なものの本質にあるため、自然な成り行きと言える。フェティシスムなどは人類の歴史の古くから存在する欲望の様式なので、オタク文化が特別問題視される謂れはない。むしろ物語などの虚構世界に倒錯を求めることで、現実的日常を健全に生きることが可能となる。加えて、日本文化はその特徴をしてフェティシスム的、倒錯的である。即ち想像的同一化傾向が強く、死の欲動というベクトルに沿って象徴界での戯れを得意とする文化である。そして、最も重要なのが、オタクたちの熱狂は「斜に構えた熱狂」であり、そのスキゾ的軽やかさで倒錯的な虚構としてのセクシュアリティを楽しんでいる。なので社会的な間違いを犯すことはない。これが斎藤氏の論旨だろうか。
生の欲動のベクトルとは、主体がΦにせきたてられ、対象aの引力に導かれ、象徴的思考の中で大文字の他者A=S2を構造化していく。フェティシスム的な死の欲動のベクトルとは、具象的対象に想像的同一化を試み、理想自我的に対象aに近似したシニフィアンに自己を置いて、Φに向かって大文字の他者A=S2を殺害し、構造を破壊していく。
古代におけるフェティシスムの具体例としては、偶像崇拝が挙げられる。斎藤環氏が「戦闘美少女」というキャラ類型を「イコン」と表現したのはこういった意味を含めてのことだろう。宗教はその発生過程からして人の象徴的思考を豊かにさせることを命題としているため、構造を無化する偶像崇拝は避けられる傾向にあった。仏教なども本来は偶像崇拝を否定していたのだ。この象徴的思考の複雑さが、人間とその他の動物の違いであるならば、/Sを目指しS2の構造を無化させる死の欲動のベクトルは動物化のベクトルとも言えよう。これは東浩紀氏がオタク文化を代表とするポストモダン文化を「動物化」と表現したことにも繋がるだろう。
死の欲動も生の欲動も、目指す最終地点は/Sと対象aの同一化、即ち「/S=a」の領域である。宗教(三大宗教以前のものも含む)は、主体がΦのせきたてと対象aの引力に導かれる前提で、人類の象徴的思考を豊かにさせる役割を担っていた。しかしそんな中、ベクトルとしては死の欲動的なS2の構造を無化させる方向を進むのだが、対象aの引力から逃れることを前提として成り立つ思考様式が出現した。それがギリシャ哲学などを祖先とする「学問」である。「学問」は「何故?」という問いかけとその答えを言葉(や数字などの記号)にして、身体の外に「排泄」する思考様式を採っている。これは死の欲動ベクトル的にS2の構造を無化させることと等しい。しかしそれがフェティシスムとならなかったのは、対象aの引力から逃れることを前提としたからである。即ち、感情論や主観やパトス的なものを排除する「限定的」な思考様式を採用したから、同じ死の欲動のベクトルであってもフェティシスムとならなかったのだ。
「生の欲動」は際限なくシニフィアンS2を掴み続ける。S2の構造は無限に拡大していく。だがそれを処理する人間の思考能力(象徴化能力)にも限界があるだろう。よって人はフェティシスム的な欲望の様式をもって構造の拡大を「停止」させる。人によってそれがうまく機能することもあるだろうが、「フェティシスムはパラノイアの防衛である」といったように精神病的な「狂気」を生む可能性も秘めている様式である。フェティシストとなれればよいが、S2で構成された幻想の迷路の中、その「待ち合わせ場所」で逆方向のベクトルが出会えない場合だってあるだろう。すれ違った生の欲動と死の欲動は、対象aの領域において想像的同一化=想像的去勢の否認を形成し、Φの領域において象徴的同一化=象徴的去勢の否認を形成する。これらが他者に否定されることでパラノイアの症状が発生する。
際限のないS2の構造の拡大に対抗する、フェティシスム以外のもう一つの手段として生み出されたのが「学問」だったのではないだろうか。「サントーム」化も「学問」も、/Sと対象aの同一化への力を遠ざける前提を導入して、S1に向かっているのだ。違いは、学問はS2を排泄する死の欲動的な方向で、S1にある「真理」などといったΦを目指しているのに対し、サントーム化はS2を暗喩的に積み重ねる芸術的行為などにより、生の欲動的な方向で、S1にあるΦの裏の顔である「父の名」というサントームを目指している、と言える。
比喩的にまとめよう。生の欲動とはシニフィアンを「食べ」続けることである。しかし食べ続けるだけでは生きていけない。フェティシスムのように食べるのを「停止」させたり、学問のように「知」(=S2)を「排泄」する必要がある。これが死の欲動だ。
この比喩を採用するなら、近代の科学信仰的な、ロゴス中心主義的な状態は、「食べる」ことをやめ「排泄」だけに拘ってしまった拒食症のような状態だと言える。一方オタク文化は、「食べる」ことをやめずに過食症となり、嘔吐や下痢を起こしているような状態であると言えよう。言葉は悪いが、この嘔吐や下痢が、サントームへの力を受けているにも関わらず対象aの引力から逃れられていない表現行為、即ち同人誌やプチクリのような現象にあたる。
斎藤氏は、1990年代のオタク文化を、「斜に構えた熱狂」的な軽やかさを本質とし、それを根拠にしてオタク擁護論を展開した。しかし私は現在のオタク文化について、斎藤氏の言う軽やかさをスキゾ的人格によるものとし、そうではない一般人的なパラノ的人格が流入してきて、パラノ化とも言うべき傾向がある、と考える。つまり斎藤氏がオタクの本質とした「軽やかさ」を失っていると私は思う。もちろん現在のオタクたちも「斜に構えた熱狂」という文化作法を表面上守ってはいるように思えるが、その作法の奥には、対象aの引力に囚われたマニア的熱狂が潜在していると分析できる。限定された文化が一般化してしまったことで、日本人としての特徴である超自我に対する「強迫的」な印象を、オタク文化も漂わせるようになってしまったのだ。
マニアという文化的部族から派生したスキゾ的人間たちによるオタクという部族は、サントーム化を進めることで、第四の輪=サントームを手に入れ浮遊する象徴界を繋ぎとめておこうとした。それが「斜に構えた熱狂」という作法を生み出した。しかし皮肉にもその結節点とも言うべき『エヴァンゲリオン』という作品以降、オタク文化は一般化し、パラノ的人格が流入してきて、パラノ化が進んだ。よってこの「斜に構えた熱狂」という超自我的な作法が、対象aを求めることから生じる欲望を抑圧した結果、日本文化の特徴でもある強迫神経症的な「強迫的」という表出を生み出すことになった。
オタクたちはこの「斜に構えなければならない」アイロニカルな作法を守りながら、対象aの引力になされるがままとなっている。むしろこの抑圧が、対象aを求める引力を強めている印象すらある。それは何故か。超自我そのものがS2による構造であり、本質的に生の欲動に従って形成されるものだからだ。元々は死の欲動的なベクトルから生じた行為でも、作法となってしまった時点でそれは生の欲動を加速する「構造=システム」となってしまう。「斜に構えなければならない」作法が、逆に対象aへの引力を強めているのだ。これは学問だってそうだ。死の欲動的なベクトルで成り立った「学問」という行為は、科学信仰的、ロゴス中心主義的な作法になってしまい、世界を能動的に構造化している。学問という作法に染まった私たちは、生の欲動に従って、ファルス的享楽的に、自然を都合のいいものに作り変えよう(構造化しよう)としているではないか。
本来、生の欲動=エロスへのベクトルを短絡させないために、S2で構成された迷路で迂回させるというのが、宗教や倫理の目的であった。だから迷路は複雑であればあるほどよかったのだが、この迷路の存在が、エロスの幻想を複雑化させ、豊かにしてしまった。禁を犯すことがエロティックなのはそのためだ。抑圧されればされるほど、愛=エロスの幻想は燃え上がってしまうのだ。
これが冒頭に書いた、「アニメキャラ」と「対象a」という言葉を並立させた時に、私が感じる不気味さの正体だ。
フェティシスムの欲望様式もとらず、サントーム化に進むこともできず、本来の学問的行為に倣うこともせず、今のオタクたちは/S→対象aという基本的な「愛を求める」やり方で、アニメキャラを「素直に」欲望しているとするならば。
他人の愛の形に口を出せば馬に蹴られるだろう。しかしあえて書いておきたい。対象aの領域は同一化の領域であり、その引力は同一化への引力だ。フェティシストのようにアニメキャラに対し感情移入などを通して想像的同一化を試み、それを反復しているとしよう。アニメキャラは作品世界の中の登場人物だ。アニメキャラというフェティッシュは、登場人物としてのそのものと、その外套のようなアニメ的世界が二重化しているフェティッシュと言える。アニメキャラを対象aとみなしてしまうと、その外套に捕まってしまう。一般的なマニアが持つフェティッシュは、そのもの自体の外部には私たち自身の外部にあるのと同じ現実的な世界が広がっているのと対照的だ。簡潔に言おう。アニメキャラを対象aと見做す、つまり想像的同一化が進むと、彼の自我はアニメの世界に捉えられてしまうのだ。そんな馬鹿な、と思われるかもしれない。しかし先に述べたようにラカン論では、「虚構と現実の区別はつけられない」のだ。
少し婉曲的だが例を挙げよう。随分前になるがテレビで、ある解離性同一性障害(多重人格障害)を持つ若い患者について放映されていた。その患者に表れる他の人格は、アニメ的な名前を持ち、その設定も「前世」などといったアニメ的な要素を備える人格だった。この患者は、アニメ的な世界に囚われていると言えないだろうか。その人はそういう疾患を持っているからであり、私たちは違う、と言うのは簡単だ。しかしそれで終わらせていいことだろうか。
その人の世界の認知の仕方が、無意識的にアニメ的世界を根拠にしている、という表現になるだろうか。他人がどういう世界の認知をしていても、私には関係ない、とも言える。例えば言語が違う外国人は、私たちと違った象徴化をもって世界を認知しているだろう。しかし、それがアニメの世界となると話は違う。彼が根拠にしている世界は人が作った世界だからだ。彼が私を見るとき、私は彼の中でアニメキャラになっているだろう。私は人が作った世界になどは住みたくない。自分のことをアニメキャラ的に認知されたくない。ブロイラーのように一列に並んで、エロ作品を食い散らかし、オナニーをしているようなオタクたちが作った世界の住人にはなりたくないのだ。
それでもオタクたちはアニメと現実的世界の区別はついている、と反論するだろう。現実的な日常からの逃避先としてアニメという世界を選んだのだから、納得できる言い分ではある。しかし、アニメキャラに対して想像的同一化を求めていない、と言い切れるだろうか。フェティシストがするように、アニメキャラのヴェールに想像的ファルスを写し出してはいないだろうか。斎藤環氏は前掲の『戦闘美少女の精神分析』において、「彼女(戦闘美少女)はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し」ていると書いてある。この分析は、まさにアニメキャラに対し想像的同一化しようとするオタクたち自身の分析になる。
斎藤氏が分析した1990年代のオタクはともかくとして、今のオタクたちは、本当に「現実と虚構の区別はついている」のだろうか?
対象aとは自我と小文字の他者が同一化する領域である。「アニメキャラは対象aである」と言う人間がいたら、彼はアニメの二次元の世界を生きていることになるのだ。
そもそも「虚構と現実の区別はない」から、そもそも「日本人は虚構と倒錯に親和性が高い」から、オタク文化が特別問題というわけではない、という斎藤氏のオタク擁護論に対し、私はこう反論する。「虚構と現実の区別はない」から、「日本人は虚構と倒錯に親和性が高い」から「こそ」、私たちは虚構と倒錯に対して真摯に接しなければならないのではないか、と。