基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

遺伝子ではなく「代謝」に注目して生命をとらえ直す、化学ノンフィクションの傑作──『生命は変換の環である──生・死・再生のディープケミストリー 』

この『生命は変換の環である』は、生化学系のポピュラー・サイエンス・ノンフィクションの名手であるニック・レーンの2022年の最新作にして、クレブス回路 (Krebs cycle)と呼ばれる生化学反応回路の解説と、近年の研究の発展によって、あらゆる生命において重要な意味を持っているのかを解き明かしていく一冊だ。

これまで人間を語る上で外せない要素だった遺伝子だけでなく、日々の身体の構成要素を入れ替え、エネルギーを生み出す、流れそのものの「代謝」の重要性に目を向けていく。そして、その代謝を語る上で外せないのが、体内でのエネルギー生成システムであるところの「クレブス回路」なのだ。ニック・レーンによれば、このクレブス回路はよく知られるエネルギー生成の順路(ピルビン酸→アセチルCoA→クエン酸(以下略))だけでなく、クレブス回路で生成される中間体(コハク酸やリンゴ酸など)から逆向きに回転することで有機物を生成するといい、それが地球生命の起源やがんの発生メカニズムなど様々な変化と関係しているのではないかというのだ。

ここだけ読んでも化学が専攻でもなければ何を言っているんだこりゃ、という感じだろうし、最初僕も読んでいた時は「なにが言いたいんだこりは」としか思わなかったが、ニック・レーンのスゴいところは、「それでも、これは読むとおもしろそうだぞ」と匂い立たせる演出にある。クレブス回路の重要性だけを語って、それがなぜ重要なのかといった方を重点的に書いたら、よりわかったような気にさせることはできただろうが、ニック・レーンはそうした書き方をしないタイプの書き手である。分子の細部にまで分け入り、一つの炭素の移動までを念入りに、饒舌に描写していく。

最後まで読んでも二割ぐらいしか理解できないのだが、もう一度最初から読むと意味不明だった内容がスッと頭に入ってくるようになってくる。読んでいて理解するために必要な情報は全部きちんと書いてあり、初見でとんでもなく難しく見えても、何度も読み直せば、ちゃんと理解できるようになっているのだ。「ポピュラー」・サイエンス・ノンフィクションというには本書の歯ごたえは少し硬すぎる気もするが、それでも根気よく順を追っていけば本書は必ず、その努力に報いてくれる。

私はこれからこの生の化学的なメカニズムを平易な言葉で活写してみることにするが、重要な細部をごまかしはしない──われわれは、人間の知識のフロンティアへ旅しようとしているのだ。旅の航海が必ずしも楽でないことは認めるが、あなたがその苦労に値する褒美を見つけられるように願っている。この航海は、私自身が生化学者として、クレブス回路の根本的な意味──なぜ今日なお生と死の核心で活動しているのか──を見出そうとするものだ。どうぞお付き合いいただきたい。p.24

クレブス回路とは何か?

本書の主人公はクレブス回路だが、その前に「呼吸」について少し触れておこう。人間は呼吸をするが、それは呼吸をして酸素を取り込んで体内の食物を燃やし、エネルギーを取り出しているからだ。たとえばグルコース(C6H12O6)と酸素(6O2)が反応し、二酸化炭素(CO2)+水(6H2O)+エネルギーが生み出される。

しかしエネルギーが生み出されるとはいうがそれは実際どのような変換されどう使われているのか? というのが長らく謎だったわけだが、そこで関わってくるのがドイツの化学者ハンス・クレブスが見つけ出したクレブス回路だ。どうしても本書の説明に劣る簡略化した説明になってしまうが、その仕組の概要は下記のようになる。

グルコース(炭素が6個ある)を解糖していくと、最終的には3つの炭素を持つピルビン酸が2つできる。ピルビン酸はミトコンドリアに入った後、クエン酸(炭素6個)のように、炭素がなぜか増えていることが事前の研究によって判明していた。なぜ、炭素は増えていたのか? その謎を解明するのがクレブス回路だ。具体的には、まずピルビン酸はミトコンドリアに入った後、炭素が一つ剥ぎ取られ、炭素を2つ持つカルボン酸が残り、カルボン酸に分子のマジックハンドのような役目を果たす分子とくっつき「アセチル補酵素A(略称はアセチルCoA)」に変化することが判明した。

ピルビン酸はアセチルCoAに変化したあと、ミトコンドリア内に存在する炭素4つのオキサロ酢酸と反応しクエン酸が生み出される。クエン酸はその後イソクエン酸に変化し──と反応していくのが、クレブス回路の肝だ。最終的に、プロセスの途中で炭素が2つCO2となって抜け落ちて、ATP(エネルギーを貯蔵・供給する分子)も生成し、最終的には(炭素が2つ抜けたので)炭素4つのオキサロ酢酸が残され、これがまた次のアセチルCoAと反応してクエン酸〜と反応がはじまる。

これが繰り返されるのでcycleとついているのだ。

逆クレブス回路

おもしろいのが、これが一方向のみに進む回路ではないことだ。順路のクレブス回路では有機分子から水素とCo2を引き抜いてATPを生み出すが、逆転時は逆にCO2と水素を使ってあらたな有機分子を作る(このプロセスでは逆にATPを消費する)。回路を一周すると、起点の分子を再生すると同時に、オキサロ酢酸を作り出す。

この回路は、生命のレゴブロックであるC2からC6の炭素骨格を提供し、それによってほかのほぼすべての分子を作り出すことができるのだ。p.104

われわれの体の中でもこのクレブス回路の逆転は日常的に起こっている。電子的な回路ではないので途中の生成物がミトコンドリアの外に流れて別の用途に使われることもあるのだが、そうすると回路を反応させることができなくなりクレブス回路が止まったり、あるいは逆転したりといったことが起こり得る。最初に書いたが、本書で重要なのはこのクレブス回路の順路および逆路が、生命の誕生から老化とがんの関係まで、様々なものの説明に使えるのではないか──と主張している点にある。

たとえばクレブス回路と細胞呼吸はミトコンドリアの内部で働いているが、ミトコンドリアはかつて自由生活性の細菌だった。それが20億年前に、複雑な真核生物の細胞の祖先に持ち込んで今の形に連なっている。ではこのクレブス回路はいつからあったのか?──といえば、原初の生命にすでにあったといえるのかもしれない。

太古の地球の海底の熱噴出孔では、圧力などの諸条件が備わっていれば安定的にH2とCO2からカルボン酸を作り出すことができたとされる。逆クレブス回路の化学的メカニズムは、カルボン酸の炭素骨格から細胞の構成要素をすべて生み出すことができるから、この化学反応が実際に代謝の原始的な基礎であることを示唆しているのだ。

今日に至るまで、遺伝子は自身が棲まう細胞の祖先から受け継いだ化学的反応を再現しつづけている。遺伝子は、決して代謝を生み出したわけではなく、そうした根本的な経路を土台にして登場し、最終的に細胞を物理的なゆりかごから脱却させ、祖先から受け継いだ同じ化学反応をずっと離れた場所に再現しているのだ。p.151

原初の状態においては、クレブス回路は順路ではなく、有機分子を生み出す逆路のほうがメインだったのだろう。そして、クレブス回路はわれわれの体の中で、様々なバランスに応じて順路だったり逆路だったりを切り替えているが、老化によるがんの発生などにはその〝バランス〟の崩れが関係している可能性があって──と、本書は老化とがんをはじめとした様々な病気とこのクレブス回路、そして最終的には意識との関係性までを結びつけて、ビッグ・サイエンス・ヒストリーを描き出して見せる。

おわりに

僕が高校生の時にこの本を読んでもおもしろいと思えなかっただろうが、今はこの本を、ぞんぶんに楽しむことができる。様々な本を読んできて、基礎知識もついてきた。それでもなお難しくて、線を何度も引きながら何度も読み直して──良い歳のおじさんになってからもこういう本を、純粋にワクワクと楽しんで読めるのは、我ながら良い読書をしている。そのように思わせてくれる、素敵な一冊だ。