青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

近藤喜文『耳をすませば』


スタジオジブリが残した傑作『耳をすませば』という映画は、むずがゆい思春期の恋や進路といった悩みや喜びを描いた“だけ”の物語なのだろうか。もちろん、雫と誠司による恋模様のエバーグリーンな尊さは、歳を重ねるごとに染み入るし、自分の才能を信じてみることの過酷さも、より実感を持って響いてくる。しかし、この映画のなにより素晴らしいところは、特別な恋をしている若き2人を群衆に紛れませていくような感覚にあるように思う。そのなによりの証左は、この映画のオープニングとエンディングにあるだろう。エンディングではわかりやすく、1本の道にカメラを固定し、そこ通り過ぎる人々の中に主人公たちが紛れ込み、同等に扱われることで映画の幕を閉じていく。


オープニングはどうだろう。はるか上空からカメラが東京の夜景を俯瞰で捉えたところから映画が始まる。煌めく街の灯りの中で、電車が画面上をスーッと走っていき、その運動性が視聴者の目を引く。電車が視線を誘導するかのように、続いて繋がれていくショットの中で電車は走り続け、百貨店などで賑わう大型のターミナル駅を抜け、最終的に小さなローカル駅に停車するところまでをカメラが収めていく。ここまで視線を誘ってきたのだから、電車から降りてきた人物こそがこの物語の主人公であるべきだろう。しかし、電車から降りてくるのはたくさんの市井の人。すると、カメラは駅前のファミリーマートに移り、牛乳パックを携えた月島雫が登場し、群衆の中に紛れていく。主人公はもちろん月島雫だ。それでも、オープニングの演出からすると、電車から降りてきた物語においては名前すらない無数の人々こそがこの映画の主人公なのだ、と言いたいように感じる。その後、雫が自宅の団地に辿り着くまでをカメラは追っていくのだが、その道中においてすれ違った、たくさん人や車、アニメーターはそれらを細かく動かしていく。その演技の細かさ。モブキャラクターの中にボーっと立っている者はほぼいない。ここまでモブキャラクターが活き活きと動いている映画がこの世にあるだろうか。実写映画ではまず起こりえないだろう。この名もなき者たちの小さな躍動の応酬に、『耳をすませば』という映画は、世界そのものを描いているのではないか、というような感慨に浸ってしまう。

ある時ある場所で、一瞬すれ違い、別れた人々のしぐさのなかに、
確かに存在していた個性のきらめき、その生命のあたたかさ

これは監督である近藤喜文による画集『ふとふり返ると』に収録されている言葉だが、『耳をすませば』はまさにその実践だ。『耳をすませば』の英題は、“Whisper of the Heart”であり、“心のささやき”という意味が込められているらしい。中学生の雫が、「本当に自分のやりたいこと」や「恋をする気持ち」に気づいていく物語としては、たしかにそうなのだろう。しかし、監督が耳をすませているのは、市井で暮らす人々の“鼓動”であるように思う。街ですれ違う人々の中にも人知れず、雫と誠司のような“特別な時間”を抱えながら生きているということ。すると、Olivia Newton-Johnによる「カントリーロード」のゴスペル調のアレンジが、讃美歌のように響いてくる。神への賛歌ではない。市井に生きる人々のその匿名性の輝き、そこに向けての賛歌だ。上空から見つめる街の灯りの一つ一つに、あたたかい命の煌めきがあるのだ、ということ。もしくは、そう信じる強さを得るために、この『耳をすませば』という映画は観続けられていくのだ。