映画はあくまで「アニメの続き」
『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』のヒットがすごいとおもうのは、これが完結した作品ではないという点である。
テレビアニメの続編である。しかも完結編ではない。
アニメシリーズが放送されたのは2019年の4月からで、東京では「TOKYO MXテレビ」で放送された。
アニメ『鬼滅の刃』の放送は土曜の23時30分からだった。
土曜23時30分というのはそこそこ人気の枠ではあるが、あくまでMXだし、遅い時間である。全国民に見てもらおうと企画されたものではない。
2019年4月から9月まで26話放送された。
映画は、その続きである。
アニメ26話の最後で“無限列車”が走り出して、炭治郎たち三人は飛び乗る。列車が突き進んでいくシーンで26話が終わる(煉獄さんと鬼の魘夢(えんむ)が少しだけ映る)。
そして映画も、無限列車が走り出して炭治郎たちが飛び乗るシーンから始められる。ふつうの連続ドラマと同じように、「前話の最後の部分を少しだけリピートする」という描写である。
映画はあくまで「第26話のつづき」なのだ。
しかも映画でひとつのエピソードのけりはつくが、全体の物語でみれば、まったくの途中で終わる。
原作漫画は全部で205話まである。
だいたい「原作漫画2話ぶん」を「アニメ1話ぶん」にして放送していた。
アニメ26話で「原作漫画1話から53話」が描かれ、今回の「劇場版 鬼滅の刃」で「原作漫画の54話から66話」までが映像化された。
まだのこり139話ある。三分の一しか終わっていない。炭治郎と鬼殺隊には、この先かなり長い道のりが待っている。
話題の映画だからと見に行ったところで、『となりのトトロ』や『アナと雪の女王』や『君の名は。』とは違い、ひとつの話として消化できるわけではない。
長いアニメの途中を見るだけだ。
映画だけを見た人には、もともとのわからない部分があり、見終わってもこの先がどうなるのかはわからない世界が残る。映画の終わりに出るべき本来の文字は「つづく」である。
そんな「途中だけを見せてくれる作品」が空前のヒットを巻き起こしている。かなり不思議な現象である。
2017年の「鬼滅の刃」
おそらく私たちはいま、尋常な状態ではないのだろう。
もともと、ジャンプ連載中からかなり熱心に読んでいた私として、いまの状況は「悪い冗談」のようにしかおもえない。
『鬼滅の刃』は2016年からジャンプでの連載が開始され、私が真剣に読み出したのは2017年のなかごろからである。そのころ私のまわりの(大学の漫画研究会の部員とその若いOBたち、だいたい二十代)ジャンプを毎号読んでいる連中のなかで、『鬼滅の刃』が話題にのぼることはあまりなかった。
2017年から2018年にかけて、たまに“キメツ”の話をすると、反応があるのは女子大生だけで、おもいだせば、アニメが始まる前から“キメツ”は女子のものだった。
私は2017年途中からとても引き込まれて、熱心なファンだったのだが、でもあまり『鬼滅の刃』が好きとはおおっぴらに言う雰囲気でもなかった。言ってもいいし、べつにバカにはされないが、ふーん、あれが好きなんですねえ、と熱くも冷たくもない反応をされるだけで、つまり広げられる話題ではなかったのだ。わざわざ話題にするほどのものではない。秘かに勝手に好きになっていればいい漫画であり、必ず反応してくれる二、三人とときどき話題にするタイプの漫画だった。
それがアニメ化されるまえ2017年、2018年の、私の周辺のジャンプ読者の風景である。
「何でもいいから消費したい」気分
今回のブームは、正直、ちょっと不気味である。
ブームに先んじてこの漫画の良さを知っていた、という自慢をしたい気持ちにはまったくならない。ブームが異様すぎるからだ。
みんなで何でもいいから消費したいときに、たまたまこの作品が選ばれただけ、という感じがする。なにも鬼滅でなくてもよかったのに、とおもう。
物語の最後までアニメ化されるのはこのままのペースだと数年先になるとおもうが(作品周辺のすべての大人は急ごうと考えてるはずだからどうなるかわからないけど)、そのころには、「え、鬼滅の刃ってまだやってるの? なつかしー!」と言われそうで、それぐらいに落ち着いていてくれればいいな、と願っている。
いま、わたしたちは妙なところに迷い込んでいるのではないだろうか。なぜか世の娯楽の映画部門には、『劇場版 鬼滅の刃』しかないようにおもいこんで、必死でみんなで消費して、その消費を共有しようとしている。何かを間違えて、あせっているようにしか見えない。
やはり「アニメ好き」向けの作品ではないか
『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は公開直後の混雑を避け、しばらくたってから見た。
平日の昼でもそこそこ入ってる劇場で見ながら、ちょっと不思議な感覚にとらわれていった。
話題の大ヒット作品だが、見てるときは、その感覚からは遠かった。
なんというか、ひとりで深夜アニメを見てるときのような感覚で見られた。
深い時間のアニメをひとり見てるときは、そんなに多くの人が同時に見ているとは感じれれず(SNSは見ないから)、ときにひとり自分の中に沈降していくような気分になっていく。
映画館で、そういう感覚に落ちていったのだ。
ときどき映画館でアニメ作品を見ると、そういう気分になる。『メイドインアビス』とか『ソードアート・オンライン』とか『甲鉄城のカバネリ』とか『傷物語』とか『まどマギ』とか、現実とはちょっと違う世界に入っているとき、浮遊する感覚と沈降する感覚に同時に襲われ、不安定ながら、でもそれはそんなに嫌な感じではなく、ただただいろんな感情を静かに受け入れるばかりで、まるで水の上に浮かんでぼんやりしているような、そんなゆるい感覚にはいっていく。それをおもいだした。
鬼滅もまた、アニメ好きに向けたマニアックな映像だな、とあらためておもったのだ。
もちろん終盤にかけて物語は力強く展開する。その強さが多くの人を巻き込んでいるのだろう。
たしかにかなり説明が丁寧であり、物語展開そのものも親切な作りになっている。
でも芯にあるのは、「世からすこしはぐれたアニメファンが喜ぶものを作りたい」ではないかと、そういうふうに(一瞬だけだけど)感じてしまったのだ。
前提世界は説明されないし、登場人物の詳しい説明がない。
世界を把握したいというタイプの人は、(たぶんおじさん系に多いとおもう)、そのあたりの不親切さにちょっと困ってるのではないかとおもうのだが、それもまた想像にすぎない。
「よくわからないけど感動した」というのと「感動したけど、でもなんかよくわかんない」というのに分かれているのではないだろうか。前者はそれなりに幸せだが、後者はたぶん不満が残る。
大人と「異能者の物語」
コロナで何かの様相が変わってしまったのかもしれない。
ジャンプの連載漫画は少年向けなので、異世界・異能力の漫画が多い(ふつうの人間同士の戦いであるスポーツ漫画が少なく、いまのジャンプ連載ではゼロである)。
少年少女は、異世界の物語に入りこみやすい。まあ、彼ら彼女らにとって、現実の大人世界も異世界のようなものだからだ。
「異世界での異能者の物語」の世界に触れることは、内向きの少年少女にとってもとても大事なことである。そこで何か自分のものを見つけるかもしれない。
でも、現実社会で暮らす大人は、現実の処理でどんどん手一杯になっていって、異世界の異能力の物語を、ふだん、あまり必要としていない。もちろん一部の人たちはいくつになってもそういう世界を好きであるが、それはまあ趣味の問題である。
異能者の物語は、あまり大人に向けて作られていない。
今年は、コロナによって、世界が一変してしまった。
かなり不条理で理不尽な世界にわれわれは生きることになった。
『鬼滅の刃』は、主人公側(鬼殺隊)は人間であり、敵の「鬼」は異世界の存在である。
理不尽な敵を、人間によって倒す物語である。
少年少女にとって大きな癒やしになる物語に、大人も巻き込まれていった。
現実世界での理不尽さが顕現し、その世界を生きるために大人も「異世界を必死で生き抜く物語」を必要としているのかもしれない。
それには異能者同士の対決ではなく、生身の人間が、異形の存在と戦う『鬼滅の刃』あたりがちょうどよかったのだろう。同じジャンプ作品でも『呪術廻戦』や『チェンソーマン』や『アンデッドアンラック』ではちょっと異能が強すぎる。
ひごろアニメを見ない大人までもが大挙して映画『鬼滅の刃』を見るというのは「理不尽な世界を生きる物語」を大人たちも欲しているからではないか。
いまの日本はそういうふうに見える。