会津探訪2023 ① さざえ堂と白虎隊終焉の地
2泊3日で計画した秘湯の宿を目指す那須岳ハイク。
初日は生憎の登山指数Cの予報なので、移動日と会津観光にすることに変更。
道中、リサーチ不足の夜間通行止区間もあったので、結果的に良い判断だった。
ここまでの経緯はコチラ。
秘湯の宿へ~那須岳(1915m) プロローグ
まずは会津若松市中心部から東にある飯盛山(いいもりやま)へ。

ここは白虎隊終焉の地として知られており、飯を盛ったような山容から名付けられたとされる。
8:30 市営飯盛山観光客専用駐車場(無料)

最大80台駐車可能(8:30~17:15)で、トイレと観光案内所が併設。なお土産屋が運営する有料駐車場も隣接しているのでご注意を。
仲見世入口と駐車場の間にある飯盛山ポケットパーク。

街路樹を囲んだ石製のベンチがあり、玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)の四神名が刻まれている。
戊辰戦争で有名な白虎隊の元になった白虎。

会津藩では年齢別に四神名を冠した部隊が編成され、白虎隊は16・17歳中心の予備兵力で、当初は城下町警護が主な任務だった。
戦況悪化に伴い前線に投入され、炎上する鶴ヶ城を望みながら飯盛山で自決。

信号を渡って飯盛山仲見世入口へ。

The 昭和の観光地といった雰囲気で、早朝ということもあってか、シャッターの閉まった店も多く、閑散としていた。
白虎隊関連グッズなどの土産が売られており、学割表示の木刀も。

釣られてつい買っちゃい、すぐに飽きて捨ててしまう子供アルアル。
そもそも価格が書かれておらず、本当に学割なのか不明なのが胡散臭い(笑)
前方に急な階段が見えてきた。

185段あるらしく、かなりの威圧感を放つ(-_-;)
その脇にあるのが、飯盛山動く坂道(スロープコンベア)

エスカレーターではなく、坂道用の電動ベルトコンベア。
会津観光㈱が運営しており、料金は250円。

案内放送で「階段はかなり大変なので、この動く坂道を是非ご利用下さい」と連呼していた(笑)
どうしよう? 利用するのはハイカーの名折れだが、朝イチからキツそう。

うん? らくな参拝順路(6分)?

吝嗇家の私はもちろんコチラから参ります(笑)
なお夜間(日没から日出)は入山禁止だそうだ。

白虎隊記念館

白虎隊を中心とする会津藩の史料が収蔵展示されており、

新撰組の近藤勇や土方歳三などの史料もあるそうだ。
フランス風洋装の白虎隊隊士のブロンズ像。

彼らの持っているのはゲーベル銃などの前装填無施条式の旧型銃で、新政府軍の新型銃(ミニエー銃・スナイドル銃)には歯が立たなかった。
入場(400円)しようかとも思ったが、長居しそうなのでパス。

太夫桜(市指定天然記念物)

樹高約13m、幹廻り約5.5mのエドヒガンの老桜で、城下にいたいつき太夫という名妓が、花見の際に兇徒に殺害され、弟の南秀という僧が姉の霊を弔うために植えられたとされ、現在の木は2代目。
にゃんこが出迎えてくれた。

霊牛神堂

飯盛山霊牛神堂由来

飯盛山の厳島神社御祭神は会津平を守護し給う弁財天で、風土記にいう「永徳年間この社造作の始め、童女赤飯を牛に駄して来り役夫に振舞い食えども盡(つ)きず。のち南へ行くこと数十歩にして見えず。その地を牛ヶ墓といい山を飯盛山とよぶ。」(以下省略)
現代語訳すると、こんな感じだろうか? (違っていたらスミマセン)
厳島神社を造営し始めた永徳(1381~1384)年間の頃、幼い娘が赤飯を牛の背に載せてやってきて、造営に携わる人夫たちへの労いとして振舞ったが、いくら食べても無くなることはなかった。娘と牛は南の方へ歩き出すと、数十歩ほど先で忽然と姿を消してしまった。いつしかその地を牛ヶ墓と呼び、その後方の山を飯盛山と呼ばれるようになった。
おそらく童女は弁財天の化身で、人夫たちの労苦に報いるために、娘の姿に変身して赤飯を届けたのだろう。また赤飯に牛ということから、もしかすると会津の民芸品、赤べこにも関係深いのかもしれない。
案内板に従い本参道へ。

厳島神社の扁額のある一の鳥居。

二の鳥居の前には子育地蔵尊

厳島神社

祭神は宗像三女神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
永徳年間に地元の豪族、石塚、石部、堂家の三家によって建立されたとされる。当初は宗像(むなかた)神社と呼ばれ、神仏習合の神宮寺(別当は正宗寺)だったが、明治期の神仏分離令に伴い現社名に改称された。
戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰は猪苗代湖から会津盆地に灌がい用水を引くために作られた堰で、全長は約31㎞に及ぶ。
江戸初期から着手され、何度か大改修が行われ、天保6(1835)年に完成。

白虎隊士中二番隊20名が、この洞穴(弁天洞穴)を通って飯盛山に辿り着いた。

いよいよお目当てが見えてきた。

さざえ堂 国指定重要文化財

寛政8(1796)年に会津若松の実相寺の僧郁堂(いくどう)が建立したとされる。
正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)

重要文化財指定名称は旧正宗寺三匝堂で、2016年4月に日本遺産(会津の三十三観音めぐり〜巡礼を通して観た往時の会津の文化〜)にも指定された。
神仏分離令以前は別当寺の旧正宗寺所有だったが、現在は個人所有(飯盛家)になっている。
高さ16.5mの六稜(角)三層の仏堂で、二重螺旋構造という特異な内部が特徴。

6本の心柱(円柱)と隅柱(六角柱)を駆使して、世界でも稀有な二重螺旋構造を実現。
登りは右回り、下りは左回りの螺旋状スロープになっており、

昇降を通じて三度堂内を回ることから、三匝堂(さんそうどう)と命名された。
※匝(そう)の訓読みはめぐ(る)
唐破風造の向拝(こうはい)には、3匹の龍が睨みを利かし邪気を追い払っている。

天高し ピサの斜塔と さざえ堂 櫻桃子

櫻桃子とは、春燈(しゅんとう)を主宰した俳人、成瀬櫻桃子(なるせおうとうし)
なぜピサの斜塔?と思ったが、もしかするとフランスの世界遺産シャンボール城内部にある二重螺旋階段が、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計とも伝えられることから、ダ・ヴィンチの故郷(フィレンツェ)と同じトスカーナ地方にあるピサの斜塔が思い浮かんだのかも。
参拝料(400円)を払って堂内へ。

入口に鎮座するのは、三匝堂を建立した郁堂禅師の木像。
右回りのスロープを登っていく。

これは仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づくとされる。
通路の高さは1.8m弱で、私の場合やや前傾気味に歩かないと頭をぶつけそう。

壁や柱には数多くの千社札が貼られている。
スロープには滑り止めの桟木が付けられている。

土足OKなので、靴底の泥などは入場前によく落としておくこと。今日はスパイク長靴ではありません(笑)
最上部の太鼓橋に到着。

ここからは左回りに下っていく。

堂内には皇朝二十四孝の額が掲示されている。
出口に到着。

当然のことながら、堂内では誰ともすれ違わなかった。
大正天皇、昭和天皇、上皇上皇后両陛下なども御登臨されている。

今回はお近く(那須)で御静養中の今上天皇・皇后両陛下からの御依頼で、代わって私が登臨させていただきました(ウソ)
世界唯一の二重螺旋構造スロープを持つ木造建築。

欧米の建築技術が蘭書で会津まで伝わったとされる説もあるが、このような稀有な建物を作った郁堂禅師と、そのオーダーに応えた職人たちに敬意を表したい。
さざえ堂(円通三匝堂)
宇賀神堂

宇賀神(うがじん)は、穀物を司る女神で伏見稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神(うかのみたま)と、仏教の弁財天が習合した合一神で、財をもたらす福神として信仰された。
飯盛山山中で自決した白虎隊十九士の霊も祀られており、

フランス風洋装の十九士をかたどった木像が奉納されている。

士中二番隊20名のうち、唯一生き残った飯沼貞雄翁。

自決の際に喉を突いたが、死にきれず蘇生術が施され延命。維新後は工部省(のちの逓信省)に入省して電信技師となり、昭和6(1931)年に79歳で永眠された。
案内板に従い、白虎隊士の墓へ。

右側の建物は飯盛本店という土産屋で、飯盛山の山主で、さざえ堂所有者でもあるそうだ。
途中、木陰から鶴ヶ城(若松城)が望めた。

山中から火の手が上がっている鶴ヶ城下を目の当たりにした隊士たちは、どんな気持ちだったことだろう…
大階段とここで合流。

確かにこちらの方がらくな参拝順路でした(笑)
白虎隊墓所に到着。

白虎隊は本来16・17歳の予備兵力だったが、会津藩の危機を救うべく、飯沼翁(当時15歳)のように年齢を偽って入隊する者も多かったとされる。
自刃白虎隊十九士の墓

戸ノ口原の戦いで敗れて潰走し、辛くも飯盛山に辿り着いた士中二番隊士。
敵に捕まり生き恥を晒すよりは武士の本分を…という精神は、良くも悪くも太平洋戦争へと繋がっているのだろう。合掌。
この先の左側の小高い場所が、白虎隊十九士が自決した場所とされる。

その途中にある飯沼貞雄翁の墓所。

十九士と列葬されてはいないが、志を同じくした仲間たちの傍で眠っておられた。
白虎隊士十九士の墓
下りは大階段へ。

K・H・K(下りは速い子)をなめんなよ(笑)
1号機と2号機の途中からも乗られるようだ(150円)

途中まで登ってみたけど、やっぱり…という人がいるのかも。
一応飯盛山山頂(372m)まで登山ルート(累積標高差約170m・標準CT約40分)があるようだが、地元の方もほとんど登られず、藪漕ぎやクマの出没もあるそうなのでパス。
会津探訪2023 ② 名将たちが築いた名城 鶴ヶ城 につづく…
☆☆☆ランキング参加中です。☆☆☆


にほんブログ村
応援のポチッ、お願いします。
↓こちらもポチっとよろしくお願いします。
初日は生憎の登山指数Cの予報なので、移動日と会津観光にすることに変更。
道中、リサーチ不足の夜間通行止区間もあったので、結果的に良い判断だった。
ここまでの経緯はコチラ。
秘湯の宿へ~那須岳(1915m) プロローグ
まずは会津若松市中心部から東にある飯盛山(いいもりやま)へ。

ここは白虎隊終焉の地として知られており、飯を盛ったような山容から名付けられたとされる。
8:30 市営飯盛山観光客専用駐車場(無料)

最大80台駐車可能(8:30~17:15)で、トイレと観光案内所が併設。なお土産屋が運営する有料駐車場も隣接しているのでご注意を。
仲見世入口と駐車場の間にある飯盛山ポケットパーク。

街路樹を囲んだ石製のベンチがあり、玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)の四神名が刻まれている。
戊辰戦争で有名な白虎隊の元になった白虎。

会津藩では年齢別に四神名を冠した部隊が編成され、白虎隊は16・17歳中心の予備兵力で、当初は城下町警護が主な任務だった。
戦況悪化に伴い前線に投入され、炎上する鶴ヶ城を望みながら飯盛山で自決。

信号を渡って飯盛山仲見世入口へ。

The 昭和の観光地といった雰囲気で、早朝ということもあってか、シャッターの閉まった店も多く、閑散としていた。
白虎隊関連グッズなどの土産が売られており、学割表示の木刀も。

釣られてつい買っちゃい、すぐに飽きて捨ててしまう子供アルアル。
そもそも価格が書かれておらず、本当に学割なのか不明なのが胡散臭い(笑)
前方に急な階段が見えてきた。

185段あるらしく、かなりの威圧感を放つ(-_-;)
その脇にあるのが、飯盛山動く坂道(スロープコンベア)

エスカレーターではなく、坂道用の電動ベルトコンベア。
会津観光㈱が運営しており、料金は250円。

案内放送で「階段はかなり大変なので、この動く坂道を是非ご利用下さい」と連呼していた(笑)
どうしよう? 利用するのはハイカーの名折れだが、朝イチからキツそう。

うん? らくな参拝順路(6分)?

吝嗇家の私はもちろんコチラから参ります(笑)
なお夜間(日没から日出)は入山禁止だそうだ。

白虎隊記念館

白虎隊を中心とする会津藩の史料が収蔵展示されており、

新撰組の近藤勇や土方歳三などの史料もあるそうだ。
フランス風洋装の白虎隊隊士のブロンズ像。

彼らの持っているのはゲーベル銃などの前装填無施条式の旧型銃で、新政府軍の新型銃(ミニエー銃・スナイドル銃)には歯が立たなかった。
入場(400円)しようかとも思ったが、長居しそうなのでパス。

太夫桜(市指定天然記念物)

樹高約13m、幹廻り約5.5mのエドヒガンの老桜で、城下にいたいつき太夫という名妓が、花見の際に兇徒に殺害され、弟の南秀という僧が姉の霊を弔うために植えられたとされ、現在の木は2代目。
にゃんこが出迎えてくれた。

霊牛神堂

飯盛山霊牛神堂由来

飯盛山の厳島神社御祭神は会津平を守護し給う弁財天で、風土記にいう「永徳年間この社造作の始め、童女赤飯を牛に駄して来り役夫に振舞い食えども盡(つ)きず。のち南へ行くこと数十歩にして見えず。その地を牛ヶ墓といい山を飯盛山とよぶ。」(以下省略)
現代語訳すると、こんな感じだろうか? (違っていたらスミマセン)
厳島神社を造営し始めた永徳(1381~1384)年間の頃、幼い娘が赤飯を牛の背に載せてやってきて、造営に携わる人夫たちへの労いとして振舞ったが、いくら食べても無くなることはなかった。娘と牛は南の方へ歩き出すと、数十歩ほど先で忽然と姿を消してしまった。いつしかその地を牛ヶ墓と呼び、その後方の山を飯盛山と呼ばれるようになった。
おそらく童女は弁財天の化身で、人夫たちの労苦に報いるために、娘の姿に変身して赤飯を届けたのだろう。また赤飯に牛ということから、もしかすると会津の民芸品、赤べこにも関係深いのかもしれない。
案内板に従い本参道へ。

厳島神社の扁額のある一の鳥居。

二の鳥居の前には子育地蔵尊

厳島神社

祭神は宗像三女神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
永徳年間に地元の豪族、石塚、石部、堂家の三家によって建立されたとされる。当初は宗像(むなかた)神社と呼ばれ、神仏習合の神宮寺(別当は正宗寺)だったが、明治期の神仏分離令に伴い現社名に改称された。
戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰は猪苗代湖から会津盆地に灌がい用水を引くために作られた堰で、全長は約31㎞に及ぶ。
江戸初期から着手され、何度か大改修が行われ、天保6(1835)年に完成。

白虎隊士中二番隊20名が、この洞穴(弁天洞穴)を通って飯盛山に辿り着いた。

いよいよお目当てが見えてきた。

さざえ堂 国指定重要文化財

寛政8(1796)年に会津若松の実相寺の僧郁堂(いくどう)が建立したとされる。
正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)

重要文化財指定名称は旧正宗寺三匝堂で、2016年4月に日本遺産(会津の三十三観音めぐり〜巡礼を通して観た往時の会津の文化〜)にも指定された。
神仏分離令以前は別当寺の旧正宗寺所有だったが、現在は個人所有(飯盛家)になっている。
高さ16.5mの六稜(角)三層の仏堂で、二重螺旋構造という特異な内部が特徴。

6本の心柱(円柱)と隅柱(六角柱)を駆使して、世界でも稀有な二重螺旋構造を実現。
登りは右回り、下りは左回りの螺旋状スロープになっており、

昇降を通じて三度堂内を回ることから、三匝堂(さんそうどう)と命名された。
※匝(そう)の訓読みはめぐ(る)
唐破風造の向拝(こうはい)には、3匹の龍が睨みを利かし邪気を追い払っている。

天高し ピサの斜塔と さざえ堂 櫻桃子

櫻桃子とは、春燈(しゅんとう)を主宰した俳人、成瀬櫻桃子(なるせおうとうし)
なぜピサの斜塔?と思ったが、もしかするとフランスの世界遺産シャンボール城内部にある二重螺旋階段が、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計とも伝えられることから、ダ・ヴィンチの故郷(フィレンツェ)と同じトスカーナ地方にあるピサの斜塔が思い浮かんだのかも。
参拝料(400円)を払って堂内へ。

入口に鎮座するのは、三匝堂を建立した郁堂禅師の木像。
右回りのスロープを登っていく。

これは仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づくとされる。
通路の高さは1.8m弱で、私の場合やや前傾気味に歩かないと頭をぶつけそう。

壁や柱には数多くの千社札が貼られている。
スロープには滑り止めの桟木が付けられている。

土足OKなので、靴底の泥などは入場前によく落としておくこと。今日はスパイク長靴ではありません(笑)
最上部の太鼓橋に到着。

ここからは左回りに下っていく。

堂内には皇朝二十四孝の額が掲示されている。
出口に到着。

当然のことながら、堂内では誰ともすれ違わなかった。
大正天皇、昭和天皇、上皇上皇后両陛下なども御登臨されている。

今回はお近く(那須)で御静養中の今上天皇・皇后両陛下からの御依頼で、代わって私が登臨させていただきました(ウソ)
世界唯一の二重螺旋構造スロープを持つ木造建築。

欧米の建築技術が蘭書で会津まで伝わったとされる説もあるが、このような稀有な建物を作った郁堂禅師と、そのオーダーに応えた職人たちに敬意を表したい。
さざえ堂(円通三匝堂)
宇賀神堂

宇賀神(うがじん)は、穀物を司る女神で伏見稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神(うかのみたま)と、仏教の弁財天が習合した合一神で、財をもたらす福神として信仰された。
飯盛山山中で自決した白虎隊十九士の霊も祀られており、

フランス風洋装の十九士をかたどった木像が奉納されている。

士中二番隊20名のうち、唯一生き残った飯沼貞雄翁。

自決の際に喉を突いたが、死にきれず蘇生術が施され延命。維新後は工部省(のちの逓信省)に入省して電信技師となり、昭和6(1931)年に79歳で永眠された。
案内板に従い、白虎隊士の墓へ。

右側の建物は飯盛本店という土産屋で、飯盛山の山主で、さざえ堂所有者でもあるそうだ。
途中、木陰から鶴ヶ城(若松城)が望めた。

山中から火の手が上がっている鶴ヶ城下を目の当たりにした隊士たちは、どんな気持ちだったことだろう…
大階段とここで合流。

確かにこちらの方がらくな参拝順路でした(笑)
白虎隊墓所に到着。

白虎隊は本来16・17歳の予備兵力だったが、会津藩の危機を救うべく、飯沼翁(当時15歳)のように年齢を偽って入隊する者も多かったとされる。
自刃白虎隊十九士の墓

戸ノ口原の戦いで敗れて潰走し、辛くも飯盛山に辿り着いた士中二番隊士。
敵に捕まり生き恥を晒すよりは武士の本分を…という精神は、良くも悪くも太平洋戦争へと繋がっているのだろう。合掌。
この先の左側の小高い場所が、白虎隊十九士が自決した場所とされる。

その途中にある飯沼貞雄翁の墓所。

十九士と列葬されてはいないが、志を同じくした仲間たちの傍で眠っておられた。
白虎隊士十九士の墓
下りは大階段へ。

K・H・K(下りは速い子)をなめんなよ(笑)
1号機と2号機の途中からも乗られるようだ(150円)

途中まで登ってみたけど、やっぱり…という人がいるのかも。
一応飯盛山山頂(372m)まで登山ルート(累積標高差約170m・標準CT約40分)があるようだが、地元の方もほとんど登られず、藪漕ぎやクマの出没もあるそうなのでパス。
会津探訪2023 ② 名将たちが築いた名城 鶴ヶ城 につづく…
☆☆☆ランキング参加中です。☆☆☆


にほんブログ村
応援のポチッ、お願いします。
↓こちらもポチっとよろしくお願いします。
- 関連記事
-
-
会津探訪2023 ⑥ 塔のへつり 2023/09/08
-
会津探訪2023 ④ Yの祈り 大内宿 2023/09/06
-
会津探訪2023 ② 名将たちが築いた名城 鶴ヶ城 2023/09/04
-
会津探訪2023 ① さざえ堂と白虎隊終焉の地 2023/09/03
-