歴史探訪 継体天皇出生の地 ~近江高島~ 前編
今日は以前から行きたかった滋賀県の歴史スポットへ。
滋賀県には緊急事態宣言が発令中だったが、9月末をもって解除。
宣言が解除されたからといって、感染の危険性はゼロではないので、感染予防対策をしっかりと行ない、密を避けた行動を心掛けるつもりだ。
もっとも今回訪れるスポットは、正直超マイナー(失礼)なので、密の可能性は極めて少ないと思われるが(笑)
R161で滋賀県高島市へ。

宣言解除後初めての休日のせいか、反対車線には観光客の車やバイクが多かった。
アレがほとんど北陸に行くのか(-_-;)
湖西エリアの大河、安曇川(あどがわ)を渡って高島市安曇川町に入る。

丹波高地を水源とし、琵琶湖に流れ込む下流域に肥沃なデルタ(三角州)を形成する。
3世紀以前にこの地に定着した大綿津見神(おおわたつみのかみ)を祖神とする海人(あま)族の阿曇(安曇)氏(あずみ)に因むとされ、アヅミがアドに音韻変化したとされる。
最初の目的地、田中古墳群がある泰山寺野(たいさんじの)台地が見えてきた。

田中王塚古墳を主墳とする古墳群で、周囲に約70基の古墳が点在。

付近に駐車場はないので、少し下った先の田中神社に停めさせていただく。
王塚古墳に続く檜並木と苔生した参道は、神聖な雰囲気が漂う。

案の定、先客の訪問者は誰もいませんでした(笑)
田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)

被葬者は応神天皇4世孫(玄孫)で第26代継体天皇の父、彦主人王(ひこうしのおう)とされ、通称"王塚"や"ウシ塚"とも呼ばれる。
宮内庁により安曇陵墓参考地に治定されている。

このため陵墓内は立入禁止で、詳しい調査は行われていない。
日本書紀によると、かつてこの一帯は三尾別業(みおのなりどころ≒別荘、荘園)と呼ばれ、日本海沿岸の制海権や琵琶湖の水運を基盤に北陸から北近江にかけて勢力を誇った三尾氏の勢力下で、三尾氏と親密な関係にあった彦主人王もこの高島の地を拠点にしていたとされる。

第15代応神天皇から続く皇統(応神朝)は、第21代雄略天皇に代表される骨肉の争いで、次々と他の皇位継承者を粛清。
それらが時限爆弾のように皇統を蝕み、第25代武烈天皇崩御時(506年)には皇子はおろか、めぼしい男性皇族が皆無となる緊急事態が発生する。
皇統断絶の危機に際し、有力豪族の大連大伴金村(おおむらじおおとものかなむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかい)らが協議し、高志(越)国(現在の福井県)を治めていた応神天皇五世孫の男大迹王(をほどのおおきみ)を説得し、第26代継体天皇として擁立する。
直径約58m・高さ約10mの2段築成の円墳とされるが、

方形の造り出しとみられる部分もあるので、帆立貝型古墳とする説もある。
しかしこの造り出し部分、1905(明治38)年に旧宮内省が陵墓を買収した際に、新たに付け足されたとする説も。
現在の皇統に繋がる人物の陵墓が円墳では、他の天皇陵と比べて見劣りするという理由で忖度したからなのだろうか?
墳墓の周囲には幅・深さ共に約1mの不自然な溝のような部分があり、

もしかするとここで生じた土砂を造り出しとして盛った可能性も。もし後年の造成であるならば由々しきことであるが…
築造年代は墳形・埴輪片などにより、古墳時代中期(5世紀後半)と推定される。

しかしここで1つの疑問が。

ヤマト王権と繋がりが深い首長クラスの墳墓でありながら前方後円墳でない点。
その理由に関して、5世紀後半における雄略天皇による中央集権化により、吉備や伊勢など地方勢力が締め付けられており、前方後円墳の築造が容認されなかったからだともされる。

朝鮮半島から輸入される鉄を支配することで各豪族への求心力を保っていたヤマト王権だったが、5世紀前半になると高句麗や斯蘆(のちの新羅)の勢力拡大に伴い、半島からの鉄供給が不安定になったのに加え、筑紫や吉備、近江など各地で大規模な製鉄(国産化)が行われるようになったことで、鉄の覇権による地方首長への優位性を失い、パワーバランスが崩れ始めていた時期が、まさに王塚古墳が築造された頃であり、武力による統合へと政策転換を図っていたヤマト王権の有力豪族への引き締め策だったのかもしれない。
南側には4基の陪塚(ばいちょう)があり、こちらも安曇陵墓参考地に指定されている。

田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)
田中三十六号墳

直径24m、高さ4mの円墳で、6世紀後半頃の築造とされる。2007(平成19)年の発掘調査では、九州の古墳の影響を受けた横穴式石室が確認されている。
また金銅装飾馬具が多数出土したことから、被葬者は三尾氏の首長クラスとされる。

田中三十六号墳
田中神社

田中古墳群の一画にあり、創始年代は不明。社格は旧郷社で田中郷の総産土神(うぶすながみ)とされる。
手力雄神社(御番前社)

8社ある境内社の1つで、唯一参道の石段脇にあるため、御番前社とも呼ばれる。
祭神は天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)

天照大御神が天の岩戸に隠れ世の中が闇に覆われた、所謂岩戸隠れの際に、天照大御神が顔を覗かせた機を逃さず、岩戸をこじ開けて引きずり出した剛力無双の神。
ちなみにその時放り投げた岩戸が飛んでいった先が、長野県の戸隠山になったとされる。
本殿

祭神は建速素盞鳴尊(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ:素戔嗚尊の8人の御子神)
中門と一体化した三間社流造で、間口が一間四尺、奥行が一間二尺。

祭神や江戸期には牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称していたことなどから、京都の八坂神社と関係が深いと思われる。
本殿を挟んで左に3社、右に4社の境内社があり、計8柱が祀られている。

天満神社(左)・若宮八幡宮(右)

祭神は学問の神、菅原道真公。

祭神は応神天皇(八幡神)の皇子(若宮)、第16代仁徳天皇。

蛭子神社(えびすじんじゃ)

祭神はイザナギ・イザナミ夫婦の最初に生まれた蛭子(児)神(ひるこのかみ)

不具の子として生まれたため葦船で海に流され、摂津国西宮付近に流れ着き、のちに恵比寿信仰と習合し、えびす神と称されるようになった。
国常立神社(左)・日吉神社(右)

祭神は神世七代最初の神の国常立尊(くにのとこたちのみこと)

祭神は大年神(素盞鳴尊御子神)御子神の大山咋神(おおやまくいのかみ)

日枝(比叡)山に鎮座する神で、のちに山王神道と習合。
武八幡神社・天邇伎志神社(左)

2柱が合祀されており、武八幡神社の祭神は彦主人王の高祖父第15代応神天皇。
天邇伎志神社の祭神は、天孫降臨で有名な邇邇芸命(ににぎのみこと)

社名の天邇伎志(あめにぎし)は、これでもか!と美辞麗句を重ねた古事記における名、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)に由来する。なんか某独裁国家の指導者のようだな(笑)
三尾神社(右)

かつては麓に鎮座していたが、1915(大正4)年にこの地に遷座。一時安田社とも呼ばれていたが、現在の社名に戻された。
祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)

邇邇芸命の天孫降臨の際、一行の前に現れた異形の国津神猿田彦命と、胸乳を露わにその前に躍り出たのが天鈿女命で、のちに夫婦となったとされる。
猿田彦命を祀る神社は、同じ高島市にある白髭神社や伊勢の猿田彦神社などが有名だが、三尾氏にゆかりが深い三尾神社に祀られている訳はおいおいと。
石段から望む南側の山並みの左端の峰(無名峰)は、三尾山(375m)とも呼ばれる。

山頂部には磐座があり、尾根が琵琶湖に落ち込む地にあるのが、猿田彦命(比良明神)が祀られている白髭神社。
別の継体天皇ゆかりのスポットへ。

田中神社でも誰とも会わなかった。
田中神社
田中神社から300mほど移動した先にある陵(みささぎ)バス停。

おそらく背後に田中王塚古墳があるので、こう名付けられたと思われる。
狭義では陵は天皇・皇后・太皇太后・皇太后を葬る場所で、その他の皇族を葬る場所は墓と呼ばれる。厳密にいうと彦主人王は上記に該当しないので墓になるのだが、継体天皇の父君なので尊敬の念を込めてこう表記したのかも。
もっともバス停名が「墓」だと縁起が悪いと不評を買うだろうが(笑)
かつては定期便が運行していたが、現在は予約制乗合タクシーとなっている。
安産もたれ石(三尾神社旧跡)

かつてこの地には三尾神社(山崎社)があったとされる。

1915(大正4)年に先ほどの田中神社の境内に遷座された。
振媛がこの石にもたれて、継体天皇たちを無事出産されたことからこう呼ばれる。

今でこそ仰臥位出産が一般的だが、江戸時代までは座位出産が主流だった。
この一帯に伝わる継体天皇生誕の伝承は、日本書紀とは異なる点がいくつかある。
日本書記では彦主人王と振媛との間には、男大迹王(継体天皇)が生まれたとしか記されていないが、伝承では三つ子(彦人(天迹部王)、彦杵(男迹部王)、彦太(太迹部王=継体天皇))をお生みになられ、継体天皇は末子とされる。
そりゃ三つ子だったらさぞかし難産だったことでしょう。
また書記では彦主人王は応神天皇4世孫とされているが、伝承では5世孫とされており、必然的に男大迹王(継体天皇)は応神6世孫となっている。
妊婦がこの石を撫でながら自分のお腹をさすると安産になるそうだ。

妊婦のお腹じゃありません(笑)
そして説明板に驚愕の記述を発見!

三尾神社には、なんと!以前紹介したあのホツマツタヱ(秀真伝)が伝わっているとのこと!
一般的には後世に創作された偽書とされるが、記紀にも載っていない創造神たちの詳細で、人間味溢れる描写や論理的思考に基づく宇宙の摂理などは、一言で偽書と片付けるべきではないだろうか。
安曇川付近には神世七代の6代目のオモタル・カシコネが治めた中央政府(タカマ)とされるヲウミ国の都オキツ(奥都)があったとされる。
旧高島郡は律令初期から使われている名称で、古くは太加之萬と記されていたとされるので、もしかするとタカマからタカシマに音韻変化した可能性も。
またウビチニ・スビチニが生まれた鄙るの岳(ひなるのたけ)は、一般的には福井県の日野山(795m)とされるが、以前検証したように比良山地の最高峰の武奈ヶ岳(1214m)だという可能性も否定しきれない。
しかも両地域に関連するのが、三尾氏であり、継体天皇という不思議な事実。
説明板に記された三尾神社の創始者は山崎命という聞きなれない神だが、彦主人王に天成(あまなり)神道を教授したとあり、おそらく山崎命とは猿田彦命に関連する人物であり、ホツマツタヱでいうところの天の道のことではないだろうか。
安産もたれ石
続いて向かったのはもたれ石から300mほど北にあるこの神社。

三重生神社(みおうじんじゃ)

祭神は男大迹王(継体天皇)の両親の彦主人王と振媛。
延喜式内社で、神紋は十六八重菊花紋。

神社名は振媛が産んだ三御子(彦人、彦杵、彦太)に因み、三重生となったとされる。
元々は”みえなり”だったようだが、”みえう”⇒”みおう”と変化したと考えられる。
先ほどの三尾神社旧跡より詳細に記されており、彦主人王薨去に伴い、振媛は長子彦人王(天迹部王)をこの地に残し、彦杵王、彦太王(=継体天皇)の二子を連れて故郷の高向郷に戻ったとされる。
この地に残った天迹部(あまとべ)王は成人し、紃史(刺史:しし=国造の唐名)となって北越五ヶ國(越前・加賀・能登・越中・越後)を治めたとある。
拝殿

先ほどの田中神社もそうだったが、拝殿は本殿から少し離れた手前に配置されおり、一見すると能舞台のような感じ。ここにも他の参拝者の姿はなかった。
本殿

三間社流造。
コロナ終息を祈願したタイムリーな五色鈴緒。

境内社は3社あり、本殿左手前が気比神社。

越前國一宮で式内社(明神大社)の氣比神宮の末社。
祭神は応神天皇の父第14代仲哀天皇と同母神功皇后。

仲哀天皇は神託を疑ったせいで早逝し、身重の神功皇后は出産を遅らせるべくお腹に石を巻きつつも、忠臣武内宿禰らと共に三韓征伐を果たし、九州で無事誉田別尊を出産。その後仲哀天皇の遺児香坂皇子、忍熊皇子と戦い、末子だった誉田別尊を応神天皇として即位させた。
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、なんか彦主人王、振媛、彦太王(=継体天皇)と関係・伝承が似ていると思ったのは私だけだろうか?
角鹿(現在の敦賀)から穴門豊浦宮(現在の山口県下関市)を経て熊襲征伐、三韓征伐に赴いた神功皇后と、三国の坂中井(現在の坂井市三国町)を本拠とし日本海の交易ネットワークを握っていた三尾氏の振媛。
共に日本海を基盤としていた点が一致するだけでなく、神功皇后の母は新羅王子である天之日矛(アメノヒボコ)の子孫とされ、三尾氏が治めた高島一帯の遺跡からも半島由来とされる土器や遺構(オンドル)が発見されるなどの類似点も。
奇しくも応神天皇、継体天皇は、水野祐氏が提唱した三王朝交替説の応神王朝(河内王朝・中王朝)、継体王朝(越前王朝・新王朝)の祖であり、それぞれ九州、越前(近江)という地方の出自から中央の大王になったとされる。
王朝交替説には異論も多いが、少なくとも勢力が替わったのは事実であり、その祖である両天皇の父母が、三重生神社の本社、摂社で祀られているのはただの偶然にしてはでき過ぎだと思えるのだが…
左手奥が垂井神社。

祭神は不明だが、厩戸皇子とする説も。

本殿右にあるのが足羽神社(あすわ)

足羽山、足羽川など福井県民には馴染のある社名。
祭神は大年神(素盞鳴尊御子神)御子神の阿須波神(あすはのかみ)

足盤、足場の神とされ、足葉神とも称される。生井神、福井神、綱長井神、波比祇神と共に座摩神(いかすりのかみ)とされる。
余談だが福井市の足羽山中腹にある足羽神社は、継体天皇皇女の馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)が創始したとされ、代々宮司を務める馬来田(まくた)家は1500年の歴史があるとされる。
三重生神社
お腹が空いてきたので、下調べしてきたお店へ。

王塚古墳から続く市道を登っていく。

標高約200mの泰山寺野台地には、田園風景が広がる。

本当にこんな先にあるのか?
ソラノネ食堂

毎朝かまどで炊いたご飯と、地元泰山寺で育てられた野菜や卵などを使った料理がいただける。うん?なんかおかしいぞ?
この日は団体のイベント開催のため臨時休業だそうだ。

そんな…(涙)

ソラノネ食堂
☆今回のレポに登場する古代の天皇☆

歴史探訪 継体天皇出生の地 ~近江高島~ 後編 につづく…
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滋賀県には緊急事態宣言が発令中だったが、9月末をもって解除。
宣言が解除されたからといって、感染の危険性はゼロではないので、感染予防対策をしっかりと行ない、密を避けた行動を心掛けるつもりだ。
もっとも今回訪れるスポットは、正直超マイナー(失礼)なので、密の可能性は極めて少ないと思われるが(笑)
R161で滋賀県高島市へ。

宣言解除後初めての休日のせいか、反対車線には観光客の車やバイクが多かった。
アレがほとんど北陸に行くのか(-_-;)
湖西エリアの大河、安曇川(あどがわ)を渡って高島市安曇川町に入る。

丹波高地を水源とし、琵琶湖に流れ込む下流域に肥沃なデルタ(三角州)を形成する。
3世紀以前にこの地に定着した大綿津見神(おおわたつみのかみ)を祖神とする海人(あま)族の阿曇(安曇)氏(あずみ)に因むとされ、アヅミがアドに音韻変化したとされる。
最初の目的地、田中古墳群がある泰山寺野(たいさんじの)台地が見えてきた。

田中王塚古墳を主墳とする古墳群で、周囲に約70基の古墳が点在。

付近に駐車場はないので、少し下った先の田中神社に停めさせていただく。
王塚古墳に続く檜並木と苔生した参道は、神聖な雰囲気が漂う。

案の定、先客の訪問者は誰もいませんでした(笑)
田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)

被葬者は応神天皇4世孫(玄孫)で第26代継体天皇の父、彦主人王(ひこうしのおう)とされ、通称"王塚"や"ウシ塚"とも呼ばれる。
宮内庁により安曇陵墓参考地に治定されている。

このため陵墓内は立入禁止で、詳しい調査は行われていない。
日本書紀によると、かつてこの一帯は三尾別業(みおのなりどころ≒別荘、荘園)と呼ばれ、日本海沿岸の制海権や琵琶湖の水運を基盤に北陸から北近江にかけて勢力を誇った三尾氏の勢力下で、三尾氏と親密な関係にあった彦主人王もこの高島の地を拠点にしていたとされる。

日本書紀 巻第十七 男大迹天皇 繼體(継体)天皇 即位前紀条 |
(原文) 男大迹天皇(更名彦太尊)、誉田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井(中、此云那)納以爲妃、遂産天皇。 天皇幼年、父王薨。振媛廼歎曰「妾、今遠離桑梓、安能得膝養。余歸寧高向(高向者、越前國邑名)奉養天皇。」 |
(現代語訳) 継体天皇(別名は彦太尊(ひこふとのみこと))は応神天皇五世の御孫で、彦主人王の御子である。母は振媛(ふるひめ)という。振媛は垂仁天皇七世の御孫である。天皇の父(彦主人王)は、振媛が容姿端麗で大層美しいという噂を聞いて、近江国高嶋郡の三尾の別業(なりどころ)から使者を遣して、三国の坂中井(さかない=現在の福井県坂井市三国町) から(振媛を)迎え妃とされた。そして継体天皇がお生まれになられた。 継体天皇が幼年のうちに父彦主人王が薨去された。振媛は嘆いて、「私は今、遠く故郷を離れてしまいました。これではうまく(継体天皇を)養い申し上げることができません。私は故郷の高向郷(たかむこ=現在の福井県坂井市丸岡町高椋(たかぼこ)付近)に帰り、親の面倒を見ながら(継体)天皇をお育てしたい」と言われた。 |
第15代応神天皇から続く皇統(応神朝)は、第21代雄略天皇に代表される骨肉の争いで、次々と他の皇位継承者を粛清。
それらが時限爆弾のように皇統を蝕み、第25代武烈天皇崩御時(506年)には皇子はおろか、めぼしい男性皇族が皆無となる緊急事態が発生する。
皇統断絶の危機に際し、有力豪族の大連大伴金村(おおむらじおおとものかなむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかい)らが協議し、高志(越)国(現在の福井県)を治めていた応神天皇五世孫の男大迹王(をほどのおおきみ)を説得し、第26代継体天皇として擁立する。
直径約58m・高さ約10mの2段築成の円墳とされるが、

方形の造り出しとみられる部分もあるので、帆立貝型古墳とする説もある。
しかしこの造り出し部分、1905(明治38)年に旧宮内省が陵墓を買収した際に、新たに付け足されたとする説も。
現在の皇統に繋がる人物の陵墓が円墳では、他の天皇陵と比べて見劣りするという理由で忖度したからなのだろうか?
墳墓の周囲には幅・深さ共に約1mの不自然な溝のような部分があり、

もしかするとここで生じた土砂を造り出しとして盛った可能性も。もし後年の造成であるならば由々しきことであるが…
築造年代は墳形・埴輪片などにより、古墳時代中期(5世紀後半)と推定される。

しかしここで1つの疑問が。

ヤマト王権と繋がりが深い首長クラスの墳墓でありながら前方後円墳でない点。
その理由に関して、5世紀後半における雄略天皇による中央集権化により、吉備や伊勢など地方勢力が締め付けられており、前方後円墳の築造が容認されなかったからだともされる。

朝鮮半島から輸入される鉄を支配することで各豪族への求心力を保っていたヤマト王権だったが、5世紀前半になると高句麗や斯蘆(のちの新羅)の勢力拡大に伴い、半島からの鉄供給が不安定になったのに加え、筑紫や吉備、近江など各地で大規模な製鉄(国産化)が行われるようになったことで、鉄の覇権による地方首長への優位性を失い、パワーバランスが崩れ始めていた時期が、まさに王塚古墳が築造された頃であり、武力による統合へと政策転換を図っていたヤマト王権の有力豪族への引き締め策だったのかもしれない。
南側には4基の陪塚(ばいちょう)があり、こちらも安曇陵墓参考地に指定されている。

田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)
田中三十六号墳

直径24m、高さ4mの円墳で、6世紀後半頃の築造とされる。2007(平成19)年の発掘調査では、九州の古墳の影響を受けた横穴式石室が確認されている。
また金銅装飾馬具が多数出土したことから、被葬者は三尾氏の首長クラスとされる。

田中三十六号墳
田中神社

田中古墳群の一画にあり、創始年代は不明。社格は旧郷社で田中郷の総産土神(うぶすながみ)とされる。
手力雄神社(御番前社)

8社ある境内社の1つで、唯一参道の石段脇にあるため、御番前社とも呼ばれる。
祭神は天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)

天照大御神が天の岩戸に隠れ世の中が闇に覆われた、所謂岩戸隠れの際に、天照大御神が顔を覗かせた機を逃さず、岩戸をこじ開けて引きずり出した剛力無双の神。
ちなみにその時放り投げた岩戸が飛んでいった先が、長野県の戸隠山になったとされる。
本殿

祭神は建速素盞鳴尊(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ:素戔嗚尊の8人の御子神)
中門と一体化した三間社流造で、間口が一間四尺、奥行が一間二尺。

祭神や江戸期には牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称していたことなどから、京都の八坂神社と関係が深いと思われる。
本殿を挟んで左に3社、右に4社の境内社があり、計8柱が祀られている。

天満神社(左)・若宮八幡宮(右)

祭神は学問の神、菅原道真公。

祭神は応神天皇(八幡神)の皇子(若宮)、第16代仁徳天皇。

蛭子神社(えびすじんじゃ)

祭神はイザナギ・イザナミ夫婦の最初に生まれた蛭子(児)神(ひるこのかみ)

不具の子として生まれたため葦船で海に流され、摂津国西宮付近に流れ着き、のちに恵比寿信仰と習合し、えびす神と称されるようになった。
国常立神社(左)・日吉神社(右)

祭神は神世七代最初の神の国常立尊(くにのとこたちのみこと)

祭神は大年神(素盞鳴尊御子神)御子神の大山咋神(おおやまくいのかみ)

日枝(比叡)山に鎮座する神で、のちに山王神道と習合。
武八幡神社・天邇伎志神社(左)

2柱が合祀されており、武八幡神社の祭神は彦主人王の高祖父第15代応神天皇。
天邇伎志神社の祭神は、天孫降臨で有名な邇邇芸命(ににぎのみこと)

社名の天邇伎志(あめにぎし)は、これでもか!と美辞麗句を重ねた古事記における名、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)に由来する。なんか某独裁国家の指導者のようだな(笑)
三尾神社(右)

かつては麓に鎮座していたが、1915(大正4)年にこの地に遷座。一時安田社とも呼ばれていたが、現在の社名に戻された。
祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)

邇邇芸命の天孫降臨の際、一行の前に現れた異形の国津神猿田彦命と、胸乳を露わにその前に躍り出たのが天鈿女命で、のちに夫婦となったとされる。
猿田彦命を祀る神社は、同じ高島市にある白髭神社や伊勢の猿田彦神社などが有名だが、三尾氏にゆかりが深い三尾神社に祀られている訳はおいおいと。
石段から望む南側の山並みの左端の峰(無名峰)は、三尾山(375m)とも呼ばれる。

山頂部には磐座があり、尾根が琵琶湖に落ち込む地にあるのが、猿田彦命(比良明神)が祀られている白髭神社。
別の継体天皇ゆかりのスポットへ。

田中神社でも誰とも会わなかった。
田中神社
田中神社から300mほど移動した先にある陵(みささぎ)バス停。

おそらく背後に田中王塚古墳があるので、こう名付けられたと思われる。
狭義では陵は天皇・皇后・太皇太后・皇太后を葬る場所で、その他の皇族を葬る場所は墓と呼ばれる。厳密にいうと彦主人王は上記に該当しないので墓になるのだが、継体天皇の父君なので尊敬の念を込めてこう表記したのかも。
もっともバス停名が「墓」だと縁起が悪いと不評を買うだろうが(笑)
かつては定期便が運行していたが、現在は予約制乗合タクシーとなっている。
安産もたれ石(三尾神社旧跡)

かつてこの地には三尾神社(山崎社)があったとされる。

1915(大正4)年に先ほどの田中神社の境内に遷座された。
振媛がこの石にもたれて、継体天皇たちを無事出産されたことからこう呼ばれる。

今でこそ仰臥位出産が一般的だが、江戸時代までは座位出産が主流だった。
この一帯に伝わる継体天皇生誕の伝承は、日本書紀とは異なる点がいくつかある。
日本書記では彦主人王と振媛との間には、男大迹王(継体天皇)が生まれたとしか記されていないが、伝承では三つ子(彦人(天迹部王)、彦杵(男迹部王)、彦太(太迹部王=継体天皇))をお生みになられ、継体天皇は末子とされる。
そりゃ三つ子だったらさぞかし難産だったことでしょう。
また書記では彦主人王は応神天皇4世孫とされているが、伝承では5世孫とされており、必然的に男大迹王(継体天皇)は応神6世孫となっている。
妊婦がこの石を撫でながら自分のお腹をさすると安産になるそうだ。

妊婦のお腹じゃありません(笑)
そして説明板に驚愕の記述を発見!

三尾神社には、なんと!以前紹介したあのホツマツタヱ(秀真伝)が伝わっているとのこと!
一般的には後世に創作された偽書とされるが、記紀にも載っていない創造神たちの詳細で、人間味溢れる描写や論理的思考に基づく宇宙の摂理などは、一言で偽書と片付けるべきではないだろうか。
安曇川付近には神世七代の6代目のオモタル・カシコネが治めた中央政府(タカマ)とされるヲウミ国の都オキツ(奥都)があったとされる。
旧高島郡は律令初期から使われている名称で、古くは太加之萬と記されていたとされるので、もしかするとタカマからタカシマに音韻変化した可能性も。
またウビチニ・スビチニが生まれた鄙るの岳(ひなるのたけ)は、一般的には福井県の日野山(795m)とされるが、以前検証したように比良山地の最高峰の武奈ヶ岳(1214m)だという可能性も否定しきれない。
しかも両地域に関連するのが、三尾氏であり、継体天皇という不思議な事実。
説明板に記された三尾神社の創始者は山崎命という聞きなれない神だが、彦主人王に天成(あまなり)神道を教授したとあり、おそらく山崎命とは猿田彦命に関連する人物であり、ホツマツタヱでいうところの天の道のことではないだろうか。
安産もたれ石
続いて向かったのはもたれ石から300mほど北にあるこの神社。

三重生神社(みおうじんじゃ)

祭神は男大迹王(継体天皇)の両親の彦主人王と振媛。
延喜式内社で、神紋は十六八重菊花紋。

神社名は振媛が産んだ三御子(彦人、彦杵、彦太)に因み、三重生となったとされる。
元々は”みえなり”だったようだが、”みえう”⇒”みおう”と変化したと考えられる。
先ほどの三尾神社旧跡より詳細に記されており、彦主人王薨去に伴い、振媛は長子彦人王(天迹部王)をこの地に残し、彦杵王、彦太王(=継体天皇)の二子を連れて故郷の高向郷に戻ったとされる。
この地に残った天迹部(あまとべ)王は成人し、紃史(刺史:しし=国造の唐名)となって北越五ヶ國(越前・加賀・能登・越中・越後)を治めたとある。
拝殿

先ほどの田中神社もそうだったが、拝殿は本殿から少し離れた手前に配置されおり、一見すると能舞台のような感じ。ここにも他の参拝者の姿はなかった。
本殿

三間社流造。
コロナ終息を祈願したタイムリーな五色鈴緒。

境内社は3社あり、本殿左手前が気比神社。

越前國一宮で式内社(明神大社)の氣比神宮の末社。
祭神は応神天皇の父第14代仲哀天皇と同母神功皇后。

仲哀天皇は神託を疑ったせいで早逝し、身重の神功皇后は出産を遅らせるべくお腹に石を巻きつつも、忠臣武内宿禰らと共に三韓征伐を果たし、九州で無事誉田別尊を出産。その後仲哀天皇の遺児香坂皇子、忍熊皇子と戦い、末子だった誉田別尊を応神天皇として即位させた。
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、なんか彦主人王、振媛、彦太王(=継体天皇)と関係・伝承が似ていると思ったのは私だけだろうか?
角鹿(現在の敦賀)から穴門豊浦宮(現在の山口県下関市)を経て熊襲征伐、三韓征伐に赴いた神功皇后と、三国の坂中井(現在の坂井市三国町)を本拠とし日本海の交易ネットワークを握っていた三尾氏の振媛。
共に日本海を基盤としていた点が一致するだけでなく、神功皇后の母は新羅王子である天之日矛(アメノヒボコ)の子孫とされ、三尾氏が治めた高島一帯の遺跡からも半島由来とされる土器や遺構(オンドル)が発見されるなどの類似点も。
奇しくも応神天皇、継体天皇は、水野祐氏が提唱した三王朝交替説の応神王朝(河内王朝・中王朝)、継体王朝(越前王朝・新王朝)の祖であり、それぞれ九州、越前(近江)という地方の出自から中央の大王になったとされる。
王朝交替説には異論も多いが、少なくとも勢力が替わったのは事実であり、その祖である両天皇の父母が、三重生神社の本社、摂社で祀られているのはただの偶然にしてはでき過ぎだと思えるのだが…
左手奥が垂井神社。

祭神は不明だが、厩戸皇子とする説も。

本殿右にあるのが足羽神社(あすわ)

足羽山、足羽川など福井県民には馴染のある社名。
祭神は大年神(素盞鳴尊御子神)御子神の阿須波神(あすはのかみ)

足盤、足場の神とされ、足葉神とも称される。生井神、福井神、綱長井神、波比祇神と共に座摩神(いかすりのかみ)とされる。
余談だが福井市の足羽山中腹にある足羽神社は、継体天皇皇女の馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)が創始したとされ、代々宮司を務める馬来田(まくた)家は1500年の歴史があるとされる。
三重生神社
お腹が空いてきたので、下調べしてきたお店へ。

王塚古墳から続く市道を登っていく。

標高約200mの泰山寺野台地には、田園風景が広がる。

本当にこんな先にあるのか?
ソラノネ食堂

毎朝かまどで炊いたご飯と、地元泰山寺で育てられた野菜や卵などを使った料理がいただける。うん?なんかおかしいぞ?
この日は団体のイベント開催のため臨時休業だそうだ。

そんな…(涙)

ソラノネ食堂
☆今回のレポに登場する古代の天皇☆

歴史探訪 継体天皇出生の地 ~近江高島~ 後編 につづく…
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