やしお

ふつうの会社員の日記です。

CoCo壱番屋と共に生きる

 カレーハウスCoCo壱番屋(以下ココイチ)は、定期的に「美味しくない割に高い」と話題になる。そのたびに哀しい。ほとんど腹を立てているくらいの気持ちになっている。ココイチに対して私は冷静な評価はできない。
 そうした気持ちがどこから来るのかを一度整理して片付けておく。


「自分のもの」という感覚

 家庭料理や自国料理をよその人に貶される感覚に近い。自分で文句を言うのはいい、だが他人に言われるのは許せない、というような感覚。


 よく「まずい料理代表」とネタ扱いされるイギリス料理も、最近はその揶揄が「ダサい」と否定されてきている気がする。
 世界に先駆けて産業革命に突入したことで食文化を不可逆的に破壊されたイギリスを、後追いで産業革命を短期に圧縮できたことで食文化を維持できた日本が、嘲笑できる立場にあるのだろうかという疑いもある。
 そんな切実な背景がココイチにはないとしても、尊重されれば嬉しい。私は美味しい、あの味が食べたいと思って食べてるのだし、という気持ちはある。


食べ始めた時期

 これは子供の頃から食べる習慣があったかどうかが大きいのだと思う。
 日本にマクドナルドを普及させた藤田田が「12歳までに食べ慣れた味を一生食べる」と、ハッピーセットやプレイランドなどで子供をターゲットにした戦略を思い出す。


 外国に行くと根本的な味の価値観が違うとつくづく感じるが、それは国単位ではなくもっと小さな範囲でも起きる。
 自分にとってのココイチが「物心ついたころから食べていた」「近所にいくつも店があった」という環境で、美味しい/美味しくないではなく、「あの味が食べたい」と思っているので、味を評価するとかはできない。自分は岐阜市の出身で、ココイチは愛知が本社だから、非常に身近な存在だった。


出身地域差

 ごく個人的な狭い観測範囲だと、西日本出身者の方が受容度が高いと感じている。
 以前、鳥取と大阪出身の会社の後輩と出張した時に、全員ココイチが好きだからと言ってココイチで食事したことがあった。熊本出身の会社の後輩もココイチが好きだという。
 一方で、北海道出身の後輩は、14年前に「ココイチってそんな美味しくないけど高いじゃないですか」と言っていた。(こんなにはっきり覚えているのだから、よほど思うところがあったのだろう。)埼玉や神奈川出身の友人知人は、軒並みココイチを微妙なもの、それほど魅力の高い外食とは感じていない様子だった。そもそも「食べたことない」という人も多い。


 という話をすると、ただちに「は? 私は東日本出身だがココイチがめちゃくちゃ好きなのだが?」と文句を言われそう。
 そういえば会社の同期で、福島県出身だけど好きな会社の同期がいたのを思い出したから、絶対にそうというわけでもない(大学で地元を離れたのかもしれない)。


西高東低

 実際どうなんだろうと思って、都道府県別の人口当たりのココイチ店舗数を計算して、地図に色を塗ってみた。ついでに日本の外食チェーンストアとして最大のマクドナルド(以下マック)も参考までに作ってみた。


 やはりココイチは西高東低の傾向があるようだ。
 創業地である愛知が突出して多い。私の出身の岐阜は2位、三重が3位で、東海3県が多いのは想像通りだった。愛知は「マックに近いレベルでココイチがある」という結果で、多いとは思っていたが想像以上だった。(愛知の2.51は平均+3σ=2.1を超えていて外れ値になっている。)
 ココイチが好きだと言っていた後輩の出身地、大阪、鳥取、熊本も比較的高い。
 関東では東京都だけが例外的に高いが、その他の各県は低い。


 「西日本出身者の方が好きな人が多い」という実感があり、それは西日本の方が店舗数が多い(経験機会が多い)からだろうと漠然と想像していたが、改めて実際にそうなんだなと知って、ちょっと面白かった。
※この地図を時間軸でアニメーションにできれば、どの年代・地域の人がココイチに出会ってそうかも分かって面白いけど、そこまでは(正確な全店舗の開店年のデータもなく)できていない。


 一方でマックは「地方による差」は見られず、日本全国におおむねムラなく展開している。


 マックの人口あたり店舗数は京都が1位、沖縄が2位だった。沖縄は米軍基地があったり27年間の米国統治時代の食文化への影響もあるのだろうかという気もするけれど(ちなみにKFCも人口あたりで沖縄が全国1位)、京都は少し意外だった。国際的な観光地だからかもしれないし、京都はパン食率が実は高い(世帯消費量が圧倒的に1位で、偏差値だと75に相当する)のとも関係するのかもしれない。
 岩手はココイチもマックも全国最少となっている。食費に占める外食費の割合で、岩手は42位と低い。物流課題等で外食産業が増えないから外食費率が低いのか(供給要因)、文化的な理由等で外食が少ないから外食産業が低調なのか(需要要因)、どちらかはわからない。ただ他にココイチもマックも双方周辺県に比べて低い島根(外食比率19位)や高知(27位)、鹿児島(32位)は必ずしも外食比率が低いわけではないので、需要要因というより供給要因なのかもしれない。


店舗数

 外食チェーンの店舗数でココイチはどの程度の位置なのだろう、と思って↓のサイトの23年1月時点の店舗数を、ジャンルを全部まとめて20位まで見てみた(手元では全順位の表があるけど長いので20位までにした)。
  【2023年版】飲食店チェーンの店舗数ランキング|日本ソフト販売株式会社


 ココイチは全体の7位だった。
 「ココイチはサイゼやKFCより多い」は、今は神奈川に住んでいる自分の実感ではかなり意外な結果だった。一方で岐阜に住んでいた頃の実感(東海3県に限って)で言えば「サイゼ・KFCよりココイチの方が多い」は確かなので、地域の密度差が大きいせいかと思った。
 ココイチはスシローの2倍、日高屋の3倍、やよい軒やバーミヤン、びっくりドンキーの4倍近い店舗が存在する。小さい店舗も多いし出店しやすいのかもしれない。


ハレとケ

 食事でも衣服でも、特別なもの(ハレ)と日常のもの(ケ)に仮に分けるとして、外食でもココイチやゴーゴーカレー、すき家・松屋のカレー、あるいはうどん屋のカレーなどは日常側に入るのかと思う。一方でインド、ネパール、タイなどエスニック料理屋のカレーや、日本人店主のスパイスをたくみに使って複雑で豊かな味を追求したカレーなどはハレのカレーになるだろうか。
 「ああそうそう、このいつもの味ね」と思って食べに行くカレーと、「うわあ美味しい」と新鮮な驚きを得るために食べに行くカレーみたいな。新しい体験をしたい欲求と、過去の記憶をなぞりたい欲求とがそれぞれある。(後者は、幼児がもう知っている物語の語り聞かせを親に何度もねだるのもそうかもしれない。)


※関係ないけれど、ちょっとこだわりが強くて面倒くさい感じの人がハマって、アマチュアから(脱サラとかして)店を開くものって、昔は蕎麦だったのが、最近はカレーにそのポジションが移ってるのかも、という漠然としたイメージがあるけどどうなんだろう。コーヒーは昔からこだわりの対象になりがちだけど、店舗が喫茶店からカフェになった違いがあるのかも。
※お米が、もちもちしたコシヒカリ系はハレ、さらっとしたササニシキはケ、という話を思い出していた。ただササニシキの方が生産が大変だったりして、ほとんどコシヒカリ系に支配されて現実の日常の場からは遠ざかってしまった。


「美味しい味」と「食べたい味」の評価軸

 「スペシャルな味が食べたい」外食(ハレ)と、「あの味が食べたい」外食(ケ)とがあるとすると、要求が異なるので評価軸もそれぞれ異なってくる。前者は「味や見た目に工夫がしっかり凝らされているか」、後者は「味や見た目が思っていた通りで安心できるか」が評価軸になってくる。


 軸の違いを無視して、「美味しい味」の評価軸のみで否定すると、「食べたい味」軸で高評価している一派からひどい文句が出るのだろう。以下はそれで思い出した事例など。
※逆に「美味しい味」軸で高評価されているものを、「食べたい味」軸で否定する、というパターンもあり得る。「味がしない」とか「こんなの○○の方が安いし美味い」と否定すると、美味派からは「味の分からないバカ」と蔑まれる。


ジョブチューンのロイホパンケーキ不合格騒動

 テレビ番組「ジョブチューン」の「外食チェーンのメニューを一流料理人がジャッジする」コーナーにロイヤルホストが登場した。パンケーキが不合格(7名中不合格6)となり、ネット上でやや炎上した。
 パンケーキの現在の潮流や価値観からは改良の余地があり得るといった指摘がされた。3枚重ねや、メープルシロップ・マーガリン後がけのスタイルの必要性があるのか、といった疑問が提示された。
 放送後に「あれがいいのに何も分かってない」「変えないでほしい」「またジョブチューンか」といった批判がTwitterなどで見られた。後追いの記事がメディアから出されるなどして、ちょっとした騒動になった。
 これも「美味しい味」の軸で否定すると、「食べたい味」で好きな人達の怒りを買う事例だったのだと思う。


 その後出演した料理人から「収録6時間」「事前誘導なし」「現場は建設的な雰囲気」「ノーギャラ」といった状況と、判定の細かな説明が公表されて、騒動は落ち着いた。(無報酬+6時間拘束の上、他のメニューをどれだけ褒めても、一つ改善点を挙げたらボロクソに叩かれるのなら、料理人側の出演リスクがあまりに大き過ぎる。)


 私自身も放送を全編見ていたが、そこが取り上げられて騒動になるとは思わなかった。(私はロイホのジャワカレーが好きで、7名中7名合格で絶賛されていて嬉しかった。)
 以前にもジョブチューンは「食べもせずに不合格を出した」ことで炎上した。その際にTwitterか匿名ダイアリーで「あれは『自分が普段食べてるあれってプロも美味しいんだ』と一般人を喜ばせる番組」と言ってる人がいて、なるほどと思った。
 「食べたい味」軸で評価していても、やっぱり「美味しい味」軸からも評価してほしい、それで安心させてほしい、という欲求がある。それなのに「美味しい味」軸で否定されて冷や水を浴びせられるとつらいし、怒り出す。


 個人的には、番組の趣旨や、他の料理の評価のされ方を見れば、そんなに叩くこともないだろうと思った一方で、「パンケーキ変えないで」の気持ちもよく分かる気がした。
 自分はロイホのポットに入ったドリップコーヒーが「アメリカのダイナー」っぽくて好きで、やめないで欲しいと思っている。ドリンクバーには豆を挽いて淹れてくれるマシーンがあって、そっちの方が美味しいのかもと思いつつ、ついポットのドリップコーヒーを飲んでしまう。映画とかで見るダイナーへの憧れがある。(アメリカに行ったら滞在中に1回はIHOPに行きたくなる。)
 ロイホに対して「この雰囲気、この見た目、この味であってほしい」気持ちはすごくよく分かるし、そこを無視して「美味しくする余地あり、変えるべき」と言われると反発心が湧く気持ちはわかると思った。


古い喫茶店の食事メニューの評価が低い

 以前に散歩の途中で見かけた古い喫茶店で食事をしたことがあった。スパゲティやピラフ、ハンバーグといった昔ながらの喫茶店メニューが食べられる。味も「喫茶店の味」で満足だった。
 でも後でGoogleマップのレビューを見たらかなり低評価だった。冷凍の味がするなど否定的な書かれ方が大半だった。見た目も味もしっかりこだわった現代カフェめしと比べると、その通りかもしれないとも思うが、レビューを見て腹が立った。


 追求された味かどうかで下した評価が、留保なく正しいとして疑わない態度はかなり疑問だった。この見た目の喫茶店で、あの「喫茶店っぽい」味でなければ、むしろ裏切りで、がっかりする。
 これも自分自身が岐阜の出身で、近所に喫茶店がたくさんあって、家族で喫茶店へ行ってご飯を食べていた子供の頃の記憶があるから、という側面は大きいのだと思う。
 「海の家の美味しくないカレーや焼きそばやラーメンが好き」に近い感覚がある。そこで凝ったラーメンが出てきても(美味しいけど、今じゃない、TPOが違う)という気持ちになる。


ゴーゴーカレーの味

 この前ゴーゴーカレーを久々に食べた時に、(あれ、そんな美味しくないな)とふいに感じた。その時に(ああ、ココイチを「美味しくない」と言う人もこれと同じ感覚かも)と思った。
 食べていてしばらくは何も思わなかったのに、途中でこのカレーは全然辛くないなと(辛さの選択がない)ふいに物足りなさを感じて、改めて味を考えたら「そんな美味しくない」と思ってしまったのだった。
 一方で「この味を食べたい」「カレーというよりゴーゴーカレーを食べたい」と思って食べに来ている人もいるはずだとも思った。それで「これは自分にとってのココイチと同じことか」と気付いた。


「あの味」側も変化する

 以前にテレビで、伝統的な和菓子を作っているメーカーが、「実は味を少しずつ変えている」話しているのを見て印象に残った。みんなの「味の価値観」が時代と共にシフトしていくので、全く同じ作り方を続けていると、味が変わっていなくても「味が落ちた」と文句を言われるという。それで「昔から変わらない味」を実現するには、時代の味覚に合わせて少しずつ変えていかないといけないという。


 ここまで「味や見た目を追求するもの」と「あの味や見た目とユーザーの記憶やイメージを慰撫するもの」と分けていたが、後者は後者で、必ずしも追求や工夫を重ねていないわけではない。(一方で本当にずっと変わらなかったり、適当にやっていながら愛されているケースもある。)


「美味しい味」と「食べたい味」の境界と共存

 食べ物にハレ/ケがある→美味しい/食べたいの異なる評価軸が生じる、という作業仮説を立てていた。しかし2つの軸の境界は自明ではない。
 「好みや食文化を超えて、これは不味い」と感じる時、「食べたい味」と「美味しい味」が互いに独立していると前提している。(アメリカのスーパーで買うインスタント食品やお惣菜の一部は、本当にそう感じることがある。)この絶対的美味しさの軸として、例えば生理的な(生物としての人間の)共通基盤を据えたとしても、文化的な価値基準との境界は確定できない(実際、極度に酸っぱい、塩っぱい、辛いなどの食文化が存在する)。


 これは生得的/後天的、主観/客観といった対立や、「個人の好みを超えて批評は可能か」といった古典的な議論と、地続きになっている。
 味に限らず、例えばお笑いも「傷つけない笑い」が話題になるたび「全ての笑いは誰かを傷つける(だから仕方がない)」と言う人が出てくる。仮にそうなら、ではどのように何が可能か、そこからどう考えるかを考えないのなら、他愛なく無用だろう。
 究極的には主観的だとしても、全力で客観性へ向かう。前提や限界を明らかにしながら、論を組み立てるほかない。


 否定せず「not for me」と言う、が現在の潮流だとしても、それで「何も言えない」「意見が抑圧される」と嘆くのは、あまりに脆弱でナイーブな態度だろう。批評を抑圧して対立するものではなく、否定/肯定するなら前提や評価軸を明らかにする、評価軸(体系)の外側も意識して語ればいいだけのことだ。
 「美味しくない」と言う側は「あの味を食べたい人もいるのだろう」とも思いつつ「この文脈だと評価が低くなる」と丁寧に言えばいいし、「食べたい味」と思う側は「美味しくない」と否定する人を、(腹は立っても)いきなり敵と見なさずどういう軸で評価した結果かを考えれば、お互い平和だ。
 ロイホのジョブチューン炎上でも、番組を全編見ていた人であまり文句を言う人がいなかったり、プロ料理人の側が丁寧に説明したら鎮火した。「ココイチは(ゴーゴーカレーは/古い喫茶店のメニューは)美味しくない」と簡単に断言するより、「あの味を食べたい人もいるだろう」とせめて留保するか、どういう意味で美味しくないかをもう少し丁寧に言えば平和になる。
 適当に放言すれば文句を言われるのは、当然のことでしかない。


「高い割に」美味しくない

 ココイチは日常系カレーとしては(ゴーゴーカレーやすき家・松屋に比べると)やや高い価格設定になっている。そして値上げのニュースがあると毎回「高い割に美味しくない」「値上げの判断は愚か」と言われてしまう。


 ちょうど最近、渡辺努『世界インフレの謎』を読んだ。日本だけが「賃上げしない代わりに値上げもしない」(デフレマインド)で社会が続いた結果(そして円高が進行したわけでもなかった結果)他の先進諸国に比較するとこの30年間で物価の差があまりに大きくなってしまったが、それが健全な状態とは思われない、と指摘されていたのを思い出す。
 企業は仕方なく値上げをするし、生活が苦しくなるので労働者は賃上げを要求し、企業は仕方なく人件費を上げ、それを仕方なく価格に転嫁して……というサイクルを程よく繰り返して(各国がインフレターゲットとして設定している年2%程度の)マイルドなインフレを繰り返す方が健全だ。
※関係ないけど同書で、アベノミクスでは「仕方なく」のサイクルとは逆回転の「物価が上がれば企業も賃上げするはず(トリクルダウン)」の自発的サイクルを前提させたので、インフレのサイクルは回らず、政府が企業に賃上げをお願いする形になった、とも指摘されていて面白かった。


 赤城乳業の社長が(ネタとして)ガリガリ君値上げの謝罪CMを出した件が、ニューヨークタイムズの1面に掲載されて、原材料費上昇の価格転嫁を「謝罪する」社会の歪みとして報じられた、というエピソードも同書では紹介されていた。
 そう考えると、一定の努力はした上で、デフレマインドの価値観から叩かれたりしながらも、値上げをしていくのは、まともな姿勢という気もする。「値上げするココイチは経営が分からないバカ」と(経営経験もない素人達が)言うより、「ココイチが食べられねえだろ給料上げろ」と言う方が健全だとは思う。
※自分の今の給与水準と家庭環境(子供もなく、両親も他界して、扶養する家族がいない)で、外食1回にかけて良いと思える金銭感覚で許容できるからそう思える面はあるのかもしれない。15年前に就職したばかりの頃だと「きつい」と感じたかもしれない。


 企業姿勢といった話だと、創業者夫妻の身の引き方がきれいなのもいいなと思う。一旦社長を退きながら「やはり任せられない」と返り咲いたり、いつまでも後継者を育てないケースは大企業でもたまに見かけるが、そういったことはしなかったし、子供や親族に継がせもしなかった。経営から退いた後、壱番屋がハウス食品の子会社となった際は、夫妻が保有する株式を全て売却して所有からも身を引いているという。(もちろん「本当の内情」は知らないが……)


個人的なあれこれ

 本当に書き残しておくべきことは、以下の個人的なことだけかもしれない。

  • トッピングはロースカツ・チーズ・ほうれん草
    • 毎回メニューを見て考えて、だいたいいつも同じになる。
    • 物心がついた時からロースカツカレーを食べていた。父親が勝手に選んでいたのだと思う。それが当たり前になってしまった。
    • チーズは中学生くらいから追加するようになった。どこまでも伸びて切れず食べづらい。
    • ほうれん草は大人になってから追加するようになった。サイゼリヤのほうれん草のソテー(が廃止されて今はほうれん草のくたくた)、インドカレー屋ではサグカレー、メキシコ料理屋ではタジャリンベルデを頼んでいて、自分はほうれん草が好きなんだと最近気付いた。ほうれん草の根っこの赤くて硬いところが好きだけど外食には出てこない。それも結局、子供の頃から母親がほうれん草のおひたしをよく食卓に出していたから好きになったのかもしれない。
    • ナスややさいも時々ある。ナスもすごく好きだから悩む。
    • 一度、ロースカツ、チーズ、ほうれん草、なす、ソーセージ、スクランブルエッグ、と好き勝手に組み合わせたら、皿の容量と齟齬をきたしたカレーが出てきて、反省してやめた。
    • 旨辛にんにくも時々頼む。別添えでついてくる。かまいたちのYouTubeで出てきて存在を知った。
  • ごはんの量は300g(標準)
    • 子供の頃はずっと200gだった。小5で初めて300gを食べきった時に、(ああ、自分は大人になったんだ)と思った。
    • 以前は小盛りは200だけだったのが、去年から250ができた。もうアラフォーだし250にしようかなとちょっと思っている。
    • そういえば昔「1300gã‚’20分以内に完食でタダ」の大盛りチャレンジがあったよね。お店に成功した人の写真が飾ってあった。1300gの食品サンプルが飾ってあって、子供の頃に(無理だろ)と思って見てた。
    • 店舗デザインも昔は違っていた。2005年から切り替わり始めたらしい。
  • 辛さは店内だと4辛、テイクアウトやデリバリーだと5è¾›
    • 辛くて汗や鼻水が出て恥ずかしいので外で食べる時は4辛にしてる。
    • 普通が一般的な辛口くらいなので、子供の頃はずっと甘口だった。中学生くらいになって普通にしていた。
  • 岐阜に住んでいた頃はココイチの店舗がたくさんあったので使い分けていた。
  • 親が共働きで、家で夕飯を待っていて、たまに持ち帰りで買ってきてくれると嬉しかった。
    • 父親の運転する車の助手席で、持ち帰りのカレーを膝の上に乗せて、なんか太ももの付近がじんわり温かくなるのを感じて、おもらしした感覚に近いなと思った記憶がある。
    • その後自分が免許を取り、その同じ車を自分が運転して、助手席に父親が乗ってココイチに行った時は、なんか不思議な感じがした。
    • 中学の時に塾に通っていて、遅い時間に母親がちょうど仕事終わりと重なって、ココイチに寄ってカレーを買って帰るのが嬉しかった。新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)の裏というか、各務原線の入口のそば、ダイエー(今はマンション)やパチンコジャンボのあった側にココイチがあってそこに寄っていた。
  • 今店舗検索で見たら名鉄岐阜駅近くの店は閉店していた。2021年に閉店したらしい。あと柳ヶ瀬近くにあった店も2017年に閉店していたし、時期は不明だけど自宅近くのココイチもなくなっていた。人口がシュリンクしているからしょうがないのかも。もう岐阜を離れて15年経つから色々変わっている。

 


 これだけ記憶にこびりついている食べ物は、もう「美味しいかどうかをジャッジする」なんて無理だよ。「あれは美味しくない」と言われたって、そりゃそうかもしれないけど、そういうんじゃないんだから。