2024/06/15
プラモ狂四郎前夜
1981年(昭和56年)12月上旬…いや10日過ぎだったか…日にちは曖昧だが、〆切りが三日間厳守だったのは地獄の苦しみで憶えてる。僕は、石森コミカから続く学年誌の連載も秋口で終息…この年はコロコロコミックの快進撃を受け学研の少年チャレンジ、双葉社の100点コミック等小学生向け児童誌が続々参戦した児童漫画戦国時代の幕開けだった。僕も100点コミックの依頼に飛びつくものの、苦手な野球物の原作付きであったが、その原作者も新人であったため噛み合わず苦戦…3回で終わった。僕は28歳、長女が生まれたばかりである意味岐路に立たされていた。元学年誌の担当者のいるコロコロコミックに持ち込むか?最悪、田舎に帰えり建設板金業を継ぐか…娘に母乳をやる妻の後姿を見ると自分の不甲斐なさ無さに泣けてくる。
そんな時だった。講談社・テレビマガジン副編集長の加賀さんから電話が掛かってきた。「至急、機動戦士ガンダムの絵を描いて持って来てくれないか」随分と無茶な要求であったが、加賀さんはテレビマガジンの前身、ぼくらマガジンで永井豪先生の魔王ダンテの担当者で、僕がテレビマガジン増刊号でアクマイザー3を描く時も声を掛けてくれた人物である。何とか、その期待に応えようとしたものの肝心のガンダムの資料がない。何処かにガンダムのカットでも載ってやしないかと探しているうち、僕が冒険王でキャンバス小僧をという漫画を連載していた同時期、ダイナミックの岡崎先輩が機動戦士ガンダムを連載していた事を思い出した。やっていたのは知ってても初めて読んだ…別段、興味も無かったし、逆になんでこんな作品を蒸す返すのか疑問に思ったくらいで、劇場版もガンプラも知らなかった。兎に角、それを参考に徹夜でスケッチブックに5、6枚描いて指定された時間に行くと、加賀さんが出迎えてくれてそのまま会議室に通された。田中編集長、池田デスク、田部編集者、そして、フリーライターの安井尚史氏の面々が重苦しい表情で待っていた。
傍らに僕が描いた学年誌と100点コミックが置いてある。各自から名刺を渡され自己紹介、田中編集長から講談社初の児童漫画・コミックボンボンの主旨を聞くも、講談社の面接でも受けてる様な緊張感で耳に入ってこない。そんなこんなんで安井氏から「(仮)プラモ大作戦」なるプロットを渡され、ガンダムのコミカライズではなくプラモ漫画だと気づくのだ。創刊間もないボンボンは連載漫画より巻頭ページのガンプラ特集が人気を集めていたらしい。これに併せて劇場版・ガンダムコミカを提案したものの日本サンライズ(現・サンライズ)から却下され、漫画家も一転二転した経緯があったと後から知るが、その時は、印刷所の年末進行で正月休みに入る為、カラー扉付き33ページを3日間で仕上げて欲しいとの要望…通常、〆切は前倒しで設定しているので、多少の余裕があるものと高を括っていると、安井氏はこの状況下でこれから帰って原作に取り掛かるというので、僕は眩暈がして椅子から転げ落ちそうになった。「(仮)プラモ大作戦」改め『プラモ狂四郎』は機動戦士ガンダムをガンプラに置き換えて始まった代用作品だったのだ。おまけに、前号に予告すら載っていない突発的な作品でもあった。
後日、安井氏の原稿が手元に届く。もう火の車である。ド素人の妻に手伝ってもらい不眠不休でプラモ狂四郎の原稿が〆切を1日オーバーして上がった。…もしも、劇場版をそのままコミカライズしていたら、パーフェクトガンダムもレッドウォーリアも武者ガンダムもSDブームも存在しなかっただろう。そして、僕の運命も大きく変わっていたに違いない。