40年ほど前は海底炭鉱の町として栄えていた長崎・軍艦島。島にそびえる建物群などの遺産は、現在の建設業界にとって示唆に富んだ内容を含んでいる。

 例えば、1916年に完成した国内初の鉄筋コンクリート造の集合住宅である30号棟。100年近くたっても、形をそこにとどめている。

 しかし、「居住者がいたときと比べて、鉄筋はさび、建物の劣化が進んでいる」とNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」の中村陽一理事は話す。

 中村理事によると、閉山前は人が絶えず監視して、こまめな補修を繰り返していた。コンクリート造の構造物は、いかにメンテナンスが重要であるかということを考えさせられる話だ。「50年、100年先を見据えて、我々はどのように構造物を維持管理していくべきなのか、良い教材になる」(中村理事)。

 一方で、軍艦島は高密度の町並みを形成していたことで有名だ。最盛期には、当時の東京都の9倍もの人口密度を記録した。狭い軍艦島に多くの人が住むために、元々あった岩盤を有効に使うことで、高層化、高密度化を実現した。

 阿久井喜孝東京電機大学名誉教授は、軍艦島の町の形成過程を踏まえて、「今の行政の縦割りの弊害を実感する」と語る。

 大ざっぱに言えば、行政の予算管理は、坪単価で整地費用はいくら、建築費用はいくらというように、土木と建築の分野で分かれている。別々に発注されるので、一体的に整備するという考えがあまりない。軍艦島の場合は一企業が所有していたので、いわゆる縦割りによる弊害はなく、一体的に整備することで、土地は狭くても機能的な町が形成できたというわけだ。

 高層の建物を上り下りするのは大変だということで、建物同士をつなぐ渡り廊下や建物と岩盤を行き来する階段をいたるところに設置したことも、土木と建築の垣根を越えた取り組みができたからこその産物だろう。

 NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」の坂本道徳理事長は、「遺産が発信する内容を後世に引き渡すことが我々の役目だ」と語った。私は、現地へ行って上記の内容を感じたが、ほかの人はまた感じることも違うだろう。自分なりの解釈で遺産から何かを感じ取り、それを伝えていくことは遺産をめぐる楽しみの一つといえる。