最近、小中学生を対象とするプログラミング教育の議論が盛んになってきた。政府の産業競争力会議が2013年6月に発表した「成長戦略(案)」の中に「義務教育段階からのプログラミング教育等のIT教育を推進する」という文言があることも影響しているのだろう。
小中学生へのプログラミング教育に関してはその必要性の有無を含めて様々な意見があるだろうが、議論の際に忘れてほしくないと思うのは、「1980年代には誰に強制されることもなく、自発的にプログラミングに興味を持った子供が、全国津々浦々にたくさんいた」という事実である。
“たくさん”というのはどれくらいかと問われると、残念ながら統計的なデータは持ち合わせていない。ただ、80年代に筆者が小学6年生だったとき、同じクラスでパソコンを所有し、プログラミング言語「BASIC」をかじっていた人間は筆者を含めて4人もいた。小学校はごく普通の市立小学校だ。1クラス4人という数字は決して少なくはないだろう。全国レベルで考えれば相当数の小中学生が程度の差こそあれプログラミングの経験があったと推測できる。
ではなぜ80年代にそのような小中学生、いわゆるパソコン少年がたくさんいたのだろうか?その理由の一端は、おそらく次のような文章に集約できるだろう。
「僕もプログラミングができるようになって自分でゲームを作りたい。ヒットゲームを作って、中村光一のようなスターゲームプログラマになって、お金をたくさん儲けたい」。
この動機だ。ここで重要なのは、プログラミングの目的が売れるゲームの作成であること、中村光一氏(現スパイク・チュンソフト会長)という目標にすべきスターがいたこと、そしてプログラミングができれば経済的に成功できる可能性が高まりそうだという予感である。つまり、「イチローやダルビッシュ有選手に憧れてプロ野球選手を目指す小学生」と同じ構図が、今から思うと信じられないことだが、80年代のプログラミング界隈にはあった。良く言えば夢、悪く言えば妄想が小中学生を突き動かしていたのだ。子供は純真だからこそ、自分の能力も顧みず、スターになりたいと本気で思うのである。
中村氏について補足すると、中村氏が高校生の頃にヒットゲーム「ドアドア」を開発し、スターゲームプログラマになったという伝説的な成功話は、いろいろな雑誌や書籍に掲載されていたので、パソコン少年の間でも有名だった。80年代にはプログラマがゲーム開発の主役だったこともあり、中村氏以外にも、故・森田和郎氏、木屋善夫氏、遠藤雅伸氏といった小中学生でも知っているスターゲームプログラマがたくさんいたのだ。
“ベーマガ”こと、パソコン少年のバイブルだった月刊誌「マイコンBASICマガジン」の存在も大きい。ベーマガには毎号、中学生や高校生の読者が投稿したゲームプログラムが多数掲載されていた。それらを見ることで「同世代でプログラムを作れる人が世の中にはたくさんいるんだ」とか「自分と同じ歳なのにマシン語を使いこなしている人がいる」といったことを知り、そのライバルの存在に大いに刺激を受けた。そして、「自分ももっと高度なプログラミングができるはず。ベーマガに載るようなプログラムを作るぞ」と決意するわけである。ベーマガはプログラミングを通して社会と関わり、掲載されれば原稿料がもらえ、自己表現もできる場だった。