平本歩(あゆみ)ちゃん。
私(記者)と同じ保育園に通っていたお友だちです。
最後に会ってからおよそ25年。
「障害者は不幸をつくることしかできない」
あの事件を起こした被告の裁判を傍聴していたとき、思い起こしたのが重い障害のあった歩ちゃんの姿でした。
障害者とともに生きること、“共生社会”ってなんだろう。
お母さんに連絡を取ると、歩ちゃんは去年亡くなっていたことがわかりました。
私は彼女の35年の人生をたどることにしました。
(社会部記者 寺島光海)
2022年7月25日社会 事件
平本歩(あゆみ)ちゃん。
私(記者)と同じ保育園に通っていたお友だちです。
最後に会ってからおよそ25年。
「障害者は不幸をつくることしかできない」
あの事件を起こした被告の裁判を傍聴していたとき、思い起こしたのが重い障害のあった歩ちゃんの姿でした。
障害者とともに生きること、“共生社会”ってなんだろう。
お母さんに連絡を取ると、歩ちゃんは去年亡くなっていたことがわかりました。
私は彼女の35年の人生をたどることにしました。
(社会部記者 寺島光海)
私は小学校に入学するまで、兵庫県尼崎市で暮らしていました。
歩ちゃんは私より4つ年上で、彼女が卒園するまでの2年間同じ保育園に通っていました。
アルバムを開いて当時の写真を見返すと、最初の方のページに歩ちゃんの写真があります。
歩ちゃんが唾液の吸引を受けている様子を珍しく感じて、そばにいることが多かったのを覚えています。
私の2歳の誕生日に保育園の先生からもらったメッセージには、唾液が垂れていることを心配して先生に伝えていたエピソードも記されていました。
私は小学校入学とともに別の自治体に引っ越したので、その後、連絡は取っていませんが、両親からは「歩ちゃんが新聞に取り上げられていたよ」と聞いたことはありました。
ただ私にとって歩ちゃんは、いつの間にか連絡を取らなくなったほかのお友だちと同じように、保育園で同じ時間を過ごした1人の女の子という印象でした。
卒園してからおよそ25年。
私は記者になり、当時勤務していた横浜放送局で相模原事件の裁判を担当することになります。
2016年に知的障害者施設で元職員が入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた事件です。
「障害者は不幸をつくることしかできない」「意思疎通できない障害者は生きている意味がない」
裁判でも元職員は差別的な主張を繰り返し、傍聴していた私は強い拒否感を持ちました。
そうした被告の主張を打ち消すように、「共生社会」という言葉に触れる機会も多くなります。
-誰もが分け隔てなく生きていける社会-
この言葉を頭では“当たり前のこと”とわかっていても、「じゃあ共生社会ってどういう社会なんだろう」と考えてしまう自分もいました。
そんなときに浮かんだのが歩ちゃんでした。
「歩ちゃんは今、どうしているんだろう」
私は歩ちゃんと関わりのある団体を通じて連絡をとり、去年10月に尼崎市を訪れました。
母親の美代子さん(71)に会うためです。
自宅に上がらせてもらうと、リビングの一角に歩ちゃんの写真や好きだったキャラクター、書き残した文章など思い出の品が並んでいました。
私の知らない歩ちゃんのこと。
美代子さんは彼女の生い立ちから語ってくれました。
1985年12月28日。
歩ちゃんは両親と兄2人の家庭に生まれました。
両親がともに山好きだったため、「山を歩く」という意味で名付けたそうです。
ただ生後まもないころからミルクを飲む力が弱く、徐々に呼吸の状態が悪くなり、生後2か月半で入院、半年で人工呼吸器を付けることになりました。
「ミトコンドリア病」という先天性の難病でした。
母親の美代子さん
「私はマイナス思考なので、この子は死んでしまうのではないかと悪いほうに悪いほうに考えて、病院でも泣いてばかりでした」
自発呼吸は弱かったものの、人工呼吸器を付け始めてから少しずつ状態はよくなったといいます。
顔の表情も出てきて、少しだけ動く足でベッドを蹴って意思表示をするようになります。
それでも当時は携行型の人工呼吸器がほとんどなかったため、退院することはできず入院生活が続きました。
歩さんが2歳になったころ、両親は気管切開をする決断をします。
声を出して話すことができなくなりますが、医師の付き添いがなくても自宅に泊まったり、外出したりできるようになります。
美代子さんたちは歩ちゃんになるべく多くの経験をさせたかったといいます。
一方で、自宅での介助の負担は小さくありませんでした。
人工呼吸器が外れてしまったり酸素濃度が低くなってしまったりすることがあるため、交代で24時間見守る必要がありました。
「病院での入院生活を基本にして、たまに自宅で過ごすほうが安全のためにはいいのでは」
美代子さんたちがそう考えていたところ、ある出来事が起きます。
当時、歩ちゃんは3歳。
自宅での外泊を終えて病院に戻り、美代子さんたちが自宅に帰ろうとしたときでした。
突然、歩ちゃんの心拍数の異常を知らせるアラームが鳴ったのです。
振り返ると、言葉を発することができない歩ちゃんが涙を流して何かを訴えていました。
久しぶりに長期で自宅に戻り、兄たちと遊んで過ごした1週間。
「歩は自宅で過ごしたがっている」
両親は、自宅で介助しながら育てることを決めました。
母親の美代子さん
「当時は24時間介助が必要な子どもを在宅で育てることはまだ珍しかった時代でしたし、本当に大変でした。でも歩の涙を見て、考えるきっかけになったんです」
のちに歩ちゃんが入院中の日々について記した日記です。
びょういん でれないの いやだった
おうち かえれないの いやだった
おとうさんとおかあさんと あえないの いやだった
おそと そら たいようみたかった
おともだちがいなかった
おはなしができなかった
父親の弘冨美さんは仕事をやめて、介助に専念することになりました。
当時住んでいたマンションも売って資金を捻出し、640万円ほどで人工呼吸器2台と必要な医療機器を購入。
何もかも手探りの中で始めた在宅生活でしたが、両親は地域の保育園で同じ世代の子どもたちと一緒に過ごさせてあげたいと願うようになります。
4歳になった歩ちゃんを受け入れたのは、私も通っていた保育園でした。
当時のことを知っている人を紹介してもらえないかとお願いしたところ、2か月ほどして当時の保育士2人が応じてくれることになったと返事をもらいました。
歩ちゃんの担任をしていた市栄香代子さんと稲垣めぐみさんです。
保育園で受け入れた経緯をよく覚えているといいます。
保育園の担任 市栄香代子さん
「当時の園長から入園について話がありました。人工呼吸器を付けた子は初めてだったので不安はありましたが、それまでにも障害のあるお子さんは受け入れていたので、地域にいるなら地域で受け入れていこうという話になりました。お父さん、お母さんも介助しているんだから私たちもがんばろうって」
人工呼吸器などの医療器具をたくさん付けて、ストレッチャーで通園する歩ちゃんは、入園当初から園児たちの注目の的でした。
当時はわずかに指を動かすことができたため、歩ちゃんは手を支えてもらいながら五十音が記された「文字盤」の文字を示してやりとりをしていました。
市栄さんは、同世代の子どもたちと過ごす中で歩ちゃん自身の変化を感じたといいます。
保育園の担任 市栄香代子さん
「歩さんにじゃんけんを教えたり、年長さんは『靴下をはかせてあげる』とか言ってお世話をしたりしていました」
「そして歩さん自身にも同じことをしないといけないという気持ちが芽生えたように思います。掃除の時間になると『歩が掃除をしていない』と言い出す子がいて、すると歩さんは『自分もやる』という意思表示をして、手首にほうきを持って仲間に入っていました」
歩ちゃんと過ごしていた園児たちにも確かな変化がありました。
保育園の担任 稲垣めぐみさん
「木琴を園で演奏する機会があり、歩さんがどうやったらバチを持てるかと考えていたときに、子どもたちから『スナップをきかせることはできるから手首にテープで巻いたら』とか色々アイデアを出してくれました」
保育園の担任 市栄香代子さん
「歩さんが何ごとにも積極的だったからこそ、私たち保育士も最初からできないではなく、どうしたら一緒にできるか考えることを学ばせてもらいました」
「障害のない子でもできないことはあります。みんなと一緒にできるためにはどんな工夫をしたらいいのか考えることが大切で、園では子どもたちから『ここは私が手助けする』とか『こうしたらいいと思う』とヒントをくれるようになったんです」
歩ちゃんの成長には両親も驚いたといいます。
母親の美代子さん
「保育園に入る前から少しでも意思表示をしてほしいと思って絵を描いて単語を覚えさせようとしましたが、病院では全然ダメでした。でも入園したとたん字を書く友だちを見て興味を持ったのか、あっという間に覚えました。友だちの影響ってすごく大きくて、歩の基礎を作った場所だと感じていて、今も感謝しています」
保育園を卒園した歩ちゃんはそのまま地域の小学校に進みます。
医療的ケアが必要な子どもが地域の学校などに通いやすくなるよう国や自治体などの責務を定めた「医療的ケア児支援法」が去年施行されましたが、当時は重い障害のある子どもが地域の小学校に進学することはほとんどなかったといいます。
小学校の担当教諭だった北田賢行さん(70)に話を聞くことができました。
歩ちゃんは特別支援学級と交流学級を行き来する形でしたが、北田さんはほかの子どもたちとの接点を多く作ろうとしていました。
小学校の担任 北田賢行さん
「交流学級と特別支援学級を行き来するといっても、歩さんがほかの児童と別々に授業を受けたのは1時間だけ。残りの時間はみんなと一緒に授業を受けていました」
ただ歩ちゃんが普通学級に通ううえで、周囲の理解は不可欠でした。
そこで北田さんはほかの児童の保護者に「学級担任と特別支援学級の担任が2人で授業を見るのでよりきめ細かい指導ができます」とアピールしたということです。
実際に歩ちゃんが学校に通い始めると、みんなが取り囲んで質問攻めに。
歩ちゃんは文字盤を使ってゆっくりとしか返事ができませんでしたが、子どもたちはそれをじっと待っていたといいます。
こんなエピソードも話してくれました。
授業でも積極的だったため、北田さんはついつい歩ちゃんばかりあてることが多くなったそうです。
すると子どもたちから「歩さんばかりあててずるい」と率直な意見が出るようになったのです。
小学校の担当教諭 北田賢行さん
「子どもたちが歩さんを受け入れ始めたと思い、うれしかったのを覚えています。教師の力は無力ですが、子どもの力ってすごいなと。さまざまな困難はあるかもしれませんが、それぞれが発する言葉や意思を受け取る十分な感性さえ持っていれば、理解し合える関係は作れるのではないでしょうか」
歩ちゃんはその後、周囲のサポートも得ながら地域の中学そして高校へと進学し、卒業しました。
私が保育園や小学校時代の話を皆さんから聞いて感じたのは、「何かをしてあげた」という気持ちを持っていないということです。
地域で一緒に生活をする中では、周りの人たちの理解や手助けが必要な場面がたくさんあったことは容易に想像できます。
でも取材中に聞かれたのは“してあげた”ではなく、歩ちゃんと接する中で“どういった気づきがあったのか”がほとんどだったように思います。
きっと歩ちゃんも地域の中での生活だからこそ得られた学びがあり、周囲の人も歩ちゃんと一緒にいたからこそ知ることのできた新たな考え方もあったのではないかと感じました。
歩ちゃんが20歳のとき、父親の弘冨美さんは亡くなりました。
肝臓がんが見つかってわずか3か月後のことでした。
登下校に付き添うなど、いつも歩さんのそばで介助を続けてきた弘冨美さんはこんな言葉を残しました。
「歩へ 自立に向かって 邁進せよ」
父親はこの言葉にどんな思いを込めたのでしょうか。
母親の美代子さんは夫が亡くなったあと休職していましたが、生活のためには仕事を再開せざるをえませんでした。
そのため家族以外の支援がより必要となり、利用できるヘルパーの時間を増やしてほしいと自治体に交渉し、家族からヘルパー中心の介助へと大きく変わっていきました。
立花真里さんは、歩ちゃんが18歳のころから35歳で亡くなるまで担当したヘルパーです。
障害のある人とヘルパーは、世話をする側・される側と一方通行の関係になってしまうこともあります。
立花さんが担当になったころの歩ちゃんも、当初は自分の希望ばかり伝えることが多かったといいます。
そんな歩ちゃんに対し、立花さんは本音で向き合ったといいます。
ヘルパー 立花真理さん
「接する機会が増える中で、あーちゃん(歩さん)の態度や言葉について、相手によってはあなたが意図していないように受けとめてしまうよと伝えたことがあり、それをきっかけにお互いに気持ちを伝えるようになりました」
「『嫌なことを言っていい?』と聞いたときにも『私も変わりたいから言ってほしい』と返してくれ、徐々に相手への言葉遣いが丁寧になるなど、変化が見えるようになったんです」
そして歩ちゃんは父親が残した言葉を実践するように、立花さんにある相談を持ちかけました。
「1人暮らしをしたい」と。
これまで親がしてくれていた体調管理や生活必需品の管理もすべて自分の責任になります。
それでもストレッチャーでも生活できる物件を立花さんたちの力を借りながら探し、25歳でついに1人暮らしを始めます。
美代子さんは、娘の思いをこう想像しています。
母親の美代子さん
「歩は真面目なところがあるので父親との約束を守りたいということもあったと思います。そして小さいころから、『お母さんみたいな学校の先生になる』という希望もありました。誰もが当たり前のように持っている将来の夢を持ち、当たり前の自立をしたいんだと思いました」
1人暮らしを始めてから1年後、日記には次のように書き記していました。
「今日は父の命日だ。早いな。去年は実家にいたけど、今年は一人暮らしをしている。父もきっと喜んでいるだろうな」
歩ちゃんは経済的にも自立を模索していました。
助成の対象にならない機器や生活用品を買うには、限られた生活費の中でやりくりしないといけません。
立花さんによると、ホワイトボードで生活用品の残数を管理したり、電気をこまめに消したりするなど無駄遣いしないようにしていたといいます。
生活費にあてられるのは障害基礎年金や特別障害者手当など10万円あまり。
少しでも自分の力で生活したいと、講演の依頼も受けていました。
さらに子どものころに通っていた保育園でも講師として週に1回働き始めます。
できることは限られましたが、文字盤を使ってみずから積極的にイベントなどを提案。
同僚だった国宝恵さんはこう話します。
同僚の国宝恵さん
「どんな雨のときでも必ず来てくれ、すごく責任感がありました。歩さんが教える音楽の時間も設けて、ピアニカの鍵盤を押して子どもたちと遊んだりしていました。子どもたちは保育園の外で会ったときもうれしいのか、歩さんによく声をかけていたそうです」
歩さんの日記にも園児たちと懸命にコミュニケーションを取ろうとしていた様子が記されています。
歩さんの日記
「保育園へ行った。園児に『歩けるようになるの?』『お風呂に入れないの?』など、興味津々に聞かれた。いっぱい興味持ってほしいな」
「お昼寝前に読む絵本や紙芝居を私が選ぶという仕事を今年度からすることにした。これならできるかなと考え、保育園に提案した」
「私が選んだ紙芝居が園児は気に入らなかったらしい。シリーズ物だから次回もそれにしようと思ったが、気に入らないと言われたため、違うのにしよう」
歩ちゃんは自身の障害をどう感じていたのか。
長年担当していたヘルパーの立花さんは、次のように話しました。
ヘルパー 立花真理さん
「乗車拒否にあったり、心ないことを言われたり、しんどいこともあったと思います。それでも『大変ね』といわれると『大変なのは私ではなくヘルパー』と文字盤で示したり、『なんで外出していたらいつも病院って言われるんや』と突っ込んだりしていました」
「障害者として見られる自分と彼女が思う自分にギャップはあったと思います。そんな中でも相手にきちんと伝えて、できるだけ楽しく生きようとしていたと思います」
1人暮らしを始めてから毎日のように書いていた日記。
月日を重ねるごとに自身の体調に関することが増えます。
できていたことができなくなっていく。
それでもありのままの自分を受け入れ、ありのままに生きていこうとする様子がうかがえます。
歩さんの日記
「舌(を動かすこと)が無理になった場合をあまり考えたくなかったが、実際、最近の私はできていたことができなくなったということが増えてきた」
「体の状態を、現状を維持したい。『今を精一杯生きる』という今後の大きな目標を私は最近立てた。普通の人は当たり前かもしれないが、今年になりできないことが増えてしまいショックだったし落ち込んだが、それでも私は今を精一杯生き、後悔のない人生を送りたい」
「32歳になった。元気に迎えられて嬉しい。31歳は体の変化がありかなり落ち込んだが、32歳は、元気に楽しく明るく健康でいきたいと思う。一生導尿になったことは悔しいしショックだったが、そんなことを思っていても仕方ない。生きていれば楽しいことや辛いことがあって当たり前だ」
2020年12月25日。
意識を失って病院に搬送され、翌年の1月16日、歩ちゃんは亡くなりました。
35歳でした。
搬送される4日前、最後の日記にはこう書かれています。
「12月28日で35歳になります。34歳は大変な歳でしたが、35歳はパーティーを開くこと、どこかに泊まりがけの旅行ができたらいいなと思います。そして元気な一年にしたいと思います。今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします」
歩ちゃんは病院に搬送されるその日まで、地域の中で生き続けようとしていました。
自宅での生活を始めてから、10周年、20周年と記念パーティーを開いていましたが、30周年はコロナ禍で開けませんでした。
パソコンの中からその30周年のパーティーの進行について書かれたものが見つかったため、母親の美代子さんはその内容に沿って、「通夜をパーティー形式に変更したい」と斎場に申し出たそうです。
葬儀では、なじみのヘルパーがエイサーを踊ったり、好きだったアニメの歌をみんなで歌ったり。
多くの友人や知人が訪れ、その数は2日間でおよそ170人に上りました。
美代子さんは「笑いあり、涙ありの楽しい会でした。1人暮らしを始めてから、歩は私の知らない人ともつながりを作っていたんだなと改めて思いました」と振り返りました。
“笑いあり、涙あり”
取材を通して、これこそ歩ちゃんの人生を表す言葉だと思いました。
歩ちゃんとの思い出を話すとき、みんな自然と笑顔になっていたからです。
「歩さんとの日々は『共生社会だった』と思いますか?」
「共生社会って何だと思いますか?」
今回の取材に応じてくれた人たちに、私はこう問いかけました。
皆さんそれぞれの思いを答えてくれました。
小学校の担任 北田賢行さん
「そういうビジョンが自分にあったのかわかりません。だけど現実を当たり前に見ていく。障害のある人とない人が出会うことで、お互いを理解していく。そういう空間や時間を作り上げることが大事だと思っています」
ヘルパー 立花真理さん
「共生社会ってどういうことなんだろうと取材の依頼を受けてからずっと考えたんですが、結局、言葉として『共生社会』かどうかを分けてしまうこと自体が違いを強調しているのではないかと思いました。私はたまたま歩さんと出会ったから、障害のある人の生活を知るきっかけになった。でも大半の人はそれを知らない。特別に見ないことの結果として、『共生社会』があるのではないでしょうか」
もちろん周りの方のサポートは欠かせませんが、障害があっても、難病でできないことがあっても、当たり前にそこにいるという現実の中で生きていく。
裁判で感じた違和感が少しずつ消えていく感覚がありました。
美代子さんは、最後にこう話してくれました。
母親の美代子さん
「共生社会というとすごく遠いところにある理想郷みたいに聞こえてしまうけど、こういう社会であってほしいということは私たちにはなかったんです。ただ自分の生きている生活の中で、お友だちや先生たちとわいわいガヤガヤ、けんかもして泣いて笑って、普通に生活していく。それがもしかすると共生社会だったのかもしれない」
「差別的な対応も受けてきて、それでもそういう意識を変えていくために存在を知ってもらうために地域で生きていく。本当に基本的なことだけど1人の人間として生きていく、それがまだできないのが今の社会なのかもしれません」
美代子さんは「歩の場合は周囲の理解や協力が得られたからこそ、あのような生き方ができたと思う」とも話していました。
「共生社会は目指すものではなく、結果として生まれるものではないでしょうか」
歩ちゃんから、そう言葉をかけてもらった気がしました。
社会部記者
寺島光海 2013年入局
長崎局、福岡局、横浜局で
警察・司法取材を担当
現在、社会部で労働分野を取材
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