追悼 2024年に亡くなった方々

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追悼 2024年に亡くなった方々

2024年も、社会や時代に大きな影響を与えた、各界を代表する人たちが多く亡くなりました。

多様なメディアを通じて、私たちに語りかけ、それぞれの時代をつくってきた人たち。その功績を、時流や世相とともに振り返ります。

●それぞれの方の写真をタップすると記事に進みます。画像の中に再生マークがある場合は、過去のNHKの番組でお伝えした動画をご覧になれます。

(2024年に入り死去が明らかになった方も含みます。写真と小見出しは敬称略)

篠山紀信(83)時代を象徴する人物を撮り続ける

篠山紀信(83)

著名人の肖像など時代を象徴する人物を撮り続けてきた写真家の篠山紀信(しのやま・きしん)さんが1月4日、老衰のため亡くなりました。83歳でした。

篠山紀信さんは東京都出身で、日本大学芸術学部の写真学科に在学中に広告制作会社に入社して広告写真を撮影し、その後、フリーのカメラマンとして活動を始めました。

歌手の山口百恵さんや、ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんの写真、それに、1991年に発表して話題になった宮沢りえさんのヌード写真集など多くの話題作を手がけました。

「激写」ということばを生み出したほか、俳優の樋口可南子さんを撮影した作品をきっかけに生まれた「ヘアヌード」ということばは流行語にもなりました。

また、人物だけでなく建築や風景なども対象に、時代を切り取るさまざまなジャンルの写真を撮り続け、東日本大震災のあとは被災地に足を運んで作品を発表したほか、2012年から7年にわたって全国で開催された巡回写真展には100万人を超える人が訪れるなど、60年以上にわたって第一線で活躍していました。

篠山紀信さんの事務所などによりますと、篠山さんは1月4日早朝、老衰のため亡くなったということです。83歳でした。

(2024年1月5日時点)

中村メイコ(89)テレビ放送の草創期から俳優として活躍

中村メイコ(89)

日本のテレビ放送の草創期から活躍してきた俳優の中村メイコ(なかむら・めいこ)さんが、2023年12月31日に肺塞栓症のため亡くなりました。89歳でした。

中村メイコさんは、作家、中村正常さんの長女として1934年に東京で生まれ、2歳で子役として映画デビューしました。

日本のテレビ放送の草創期から活躍し、NHK紅白歌合戦では、紅組の司会を1959年から3年連続で務めたほか、「連想ゲーム」や「お笑いオンステージ」など、NHKのバラエティー番組にも出演してお茶の間の人気を集めました。

俳優としては、連続テレビ小説「さくら」で、主人公の祖母役、「風のハルカ」では語りを務め、大河ドラマ「篤姫」など、多くの作品に出演しました。

放送文化の向上に寄与したとして、昭和57年度のNHK放送文化賞を受賞しています。

所属事務所によりますと、中村さんは、12月25日には番組収録の仕事をしていましたが、その6日後の12月31日に、肺塞栓症のため亡くなったということです。

中村さんの夫で、作曲家の神津善行さんは「2歳8か月で映画デビューしてから86年という芸能生活を、生涯現役のまま幕をおろすことになりました。長い時間をこの世界に存在させていただいたこと、皆様に深く感謝申し上げます」というコメントを発表しました。

(2024年1月7日時点)

八代亜紀(73)「雨の慕情」や「舟唄」などのヒット曲

八代亜紀(73)

「雨の慕情」や「舟唄」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが2023年12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした。

八代さんは熊本県八代市の出身で、1971年にデビューすると2年後の1973年には「なみだ恋」がヒットし、その年、紅白歌合戦に初出場しました。

そして、1980年には代表曲の1つである「雨の慕情」を発表し、日本レコード大賞の大賞を受賞しました。

このほかにも「舟唄」がヒットするなどデビューから半世紀以上にわたって日本を代表する演歌歌手として活躍を続けていましたが、2023年9月に免疫の異常によって発症するとされる「こう原病」の診断を受け、治療に専念するため年内の活動をすべて休止していました。

所属事務所によりますと、八代さんは療養を続けていましたが、12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした。

石川さゆりさん「同じような時を歌ってきた ニュース見て驚き」
八代さんと同じ熊本県出身の歌手、石川さゆりさんは「同じような時を歌ってきた八代亜紀さん、早く回復なさって、またご一緒できると思っておりました。今、ニュースを見て驚いています。えっ!!ということばしか、出てきません。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」とコメントしています。

ジュディ・オングさん「早く元気にと祈った なんて悲しいこと」
八代亜紀さんが亡くなったことを受けて、歌手で女優のジュディ・オングさんは旧ツイッターの「X」に投稿し「八代亜紀さんが亡くなりました。彼女の病気を知った昨年、11月の日野皓正さんのコンサートゲストを代行した時、舞台の上で早く元気になっていただくことをみんなで祈りました。なんて悲しいことでしょう。ご冥福をお祈りします」とコメントしています。

地元 熊本では号外
熊本県八代市出身の歌手、八代亜紀さんが亡くなったことを受け、熊本市中心部の商店街では1月9日夜、地元の新聞社が号外を配りました。

八代さんと同じ年だという女性は「熊本出身の方なので応援していました。本当に残念です」と話していました。

50代の女性は「昭和のシンガーがまた1人亡くなり、さみしいです。私が学生の時に『雨の慕情』などがヒットして今でも歌っています。熊本地震の時にも応援してくれるなど、多くの県民を勇気づけてくれました」と話していました。

(2024年1月9日時点)

冠二郎(79)「炎」や「酒場」などのヒット曲

冠二郎(79)

「炎」や「酒場」などのヒット曲で知られる演歌歌手の冠二郎(かんむり・じろう)さんが、1月1日、心不全のため埼玉県内の病院で亡くなりました。79歳でした。

冠二郎さんは埼玉県秩父市の出身で、1967年に「命ひとつ」でデビューし、1991年に発表した「酒場」でその年の紅白歌合戦に初出場を果たしました。

翌年の1992年には「アイ・アイ・アイ・ライク・演歌」のフレーズで知られ、アクションを交えながら歌う「炎」が大ヒットしました。

冠さんは近年までテレビの歌番組やラジオに出演していたほか、NHKの「のど自慢」にもゲストとして長年にわたり出演していましたが、所属事務所によりますと、2022年の夏ごろから体調を崩し、入退院を繰り返していたということです。

その後も療養を続けていましたが、1月1日、心不全のため、埼玉県内の病院で亡くなりました。

79歳でした。

(2024年1月11日時点)

ベッケンバウアー(78)名サッカー選手 華麗なプレーで「皇帝」と呼ばれる

>ベッケンバウアー(78)

1974年のサッカーワールドカップで当時の西ドイツを優勝に導き「皇帝」と呼ばれた名選手、フランツ・ベッケンバウアーさんが死去しました。78歳でした。

これは、ドイツサッカー連盟が1月8日、発表しました。

ベッケンバウアーさんは、1974年、当時の西ドイツ代表のキャプテンとして地元開催のサッカーワールドカップに出場してチームを優勝に導き、試合の流れを支配する冷静かつ華麗なプレーで「皇帝」と呼ばれました。

また、1990年のワールドカップイタリア大会では監督として西ドイツ代表を率いて優勝を果たしました。

その後、ベッケンバウアーさんは、2006年のサッカーワールドカップのドイツへの招致活動に先頭に立って取り組みました。

ドイツサッカー連盟によりますと、ベッケンバウアーさんは1月7日に死去しました。78歳でした。

これを受けてベッケンバウアーさんの死を悼む声が国内外から上がっていて、ドイツのショルツ首相はSNSで「ドイツにとって最も偉大な選手であり、多くの人にとっての『皇帝』だった」と功績を称えました。

また、UEFA=ヨーロッパサッカー連盟も「ヨーロッパで最も偉大な選手の1人が亡くなった。『皇帝』は並外れた選手で、監督としても成功した」とSNSに投稿しました。

フランツ・ベッケンバウアーさんとは
フランツ・ベッケンバウアーさんは、1960年代から1980年代にかけて活躍した当時の西ドイツの名選手です。主にディフェンダーとしてプレーしながら攻撃力も兼ね備え、背筋を伸ばした優雅なプレースタイルと冷静沈着な統率力から「皇帝」と呼ばれました。

1964年に地元のクラブチーム、バイエルンミュンヘンとプロ契約を結び、1966年には20歳で西ドイツ代表としてワールドカップイングランド大会に出場してチームの準優勝に貢献しました。

1970年のメキシコ大会でも中心選手として活躍して3位となり、1974年地元開催となった西ドイツ大会はキャプテンとして卓越したリーダーシップでチームを2回目のワールドカップ優勝に導きました。

また、現役引退後の1984年には西ドイツ代表の監督に就任し、1990年のイタリア大会では接戦を次々とものにして監督としてもワールドカップ優勝を成し遂げました。

その後はバイエルンミュンヘンの会長としてクラブの経営に携わったほか、2006年ワールドカップドイツ大会の大会組織委員会のトップやFIFA=国際サッカー連盟の理事を務めるなど多方面で活動していました。

日本サッカー協会 川淵三郎 相談役「いつも紳士的で優しかった」
フランツ・ベッケンバウアーさんが亡くなったことを受けて、日本サッカー協会の川淵三郎相談役は協会を通じてコメントを出し、2006年のワールドカップでドイツに渡航した際、ゴルフを一緒に楽しんだことが思い出されるとして「ボビー・チャールトン氏に続き偉大なる名選手が亡くなったのは寂しいかぎりだ。『カイザー』のニックネームが示すとおり、いつも紳士的で優しかった。あれほどのスターとお付き合いできたことは、今思えば夢のようだ。ベッケンバウアーさん、安らかにお眠りください」などとしています。

日本サッカー協会 田嶋会長「サッカーの発展に多大なる貢献」
日本サッカー協会の田嶋幸三会長は「長年、憧れ続けていた往年の名選手がいなくなったことが残念でならない。選手として、監督として、FIFA理事として、世界のサッカーの発展に多大なる貢献をされた。ベッケンバウアーさんが安らかな眠りにつかれますよう心よりお祈りします」などとコメントしています。

(2024年1月9日時点)

正司歌江(94)音曲漫才で人気に 「かしまし娘」の長女

三味線やギターを弾きながらの音曲漫才で人気を集め、「うちら陽気なかしまし娘」のテーマソングで知られる3姉妹の漫才トリオ「かしまし娘」の長女、正司歌江(しょうじ・うたえ)さんが1月19日、亡くなりました。94歳でした。

正司歌江さんは北海道生まれで、旅役者だった両親のもと3歳から舞台での経験を積んだあと、妹の照枝さん、花江さんと3姉妹の漫才トリオ「かしまし娘」を結成し、1956年から本格的に活動を始めました。

三味線やギターを弾きながら「うちら陽気なかしまし娘」のテーマソングを歌う明るくにぎやかな音曲漫才が人気を集め、1966年には第1回の「上方漫才大賞」を受賞しました。

歌江さんは、1981年にトリオとしての活動を休止したあとも生涯現役を掲げてドラマやバラエティ番組などで活躍し、6年前には3姉妹そろって舞台に立ち話題を集めました。

所属事務所によりますと、歌江さんは、この2年ほどは体調を崩していたということで、1月19日、94歳で亡くなりました。

正司照枝さんと正司花江さんのコメント
「かしまし娘」の長女の正司歌江さんが亡くなったことについて、次女の正司照枝さんは「♪ これでおしまいかしまし娘~です♪ 穏やかな最期だったようですがいまはただ悲しい」とコメントを発表しました。

また、三女の正司花江さんは「面倒見のよい芸達者な姉でした 歌江姉ちゃん ありがとう」とコメントを発表しました。

(2024年1月24日時点)

カール・ウェザース(76)米俳優 映画「ロッキー」でライバル役演じる

>カール・ウェザース(76)

人気映画「ロッキー」で主人公のライバル、アポロ・クリード役を演じたことで知られるアメリカの俳優、カール・ウェザースさんが2月1日、亡くなりました。76歳でした。

カール・ウェザースさんはアメリカ南部ルイジアナ州のニューオーリンズ生まれで、アメリカンフットボールのプロ選手として活躍したあと、俳優に転身しました。そして、世界的に人気の映画「ロッキー」シリーズで第1作から第4作まで主人公のライバルで親友のボクサー、アポロ・クリード役を演じて人気を集めました。

複数のアメリカメディアによりますと、ウェザースさんは2月1日に自宅で安らかに息を引き取ったということです。76歳でした。

スタローンさん「人生をともにできて幸せだった」
訃報を受けて、映画でウェザースさんと共演し、主人公ロッキーを演じた俳優のシルベスター・スタローンさんは2月2日、SNSに動画を公開し「ことばにできないほど、胸が張り裂けそうだ。彼がいなければロッキーという作品は成し遂げられなかった。彼は本当にすばらしく、人生をともにできて幸せだった」と述べました。

そして、映画のセリフにちなんで「アポロ、キープパンチング!」と述べて、ウェザースさんを悼みました。

(2024年2月3日時点)

桜井正光(82)リコー元社長 経済同友会の代表幹事務める

>桜井正光(82)

精密機器大手の「リコー」の元社長で、経済同友会の代表幹事を務めた桜井正光(さくらい・まさみつ)氏が急性気管支肺炎のため1月下旬に亡くなりました。82歳でした。

桜井氏は、1966年にリコーに入社し、イギリスにある現地法人のトップなどを歴任した後、1996年から2007年まで社長を務め、海外事業の強化などに力を入れました。

2007年から2011年までの4年間は、経済同友会の代表幹事を務め、民主党への政権交代によって政治を取り巻く環境が大きく変わる中、中長期的な財政健全化の道筋を示すべきだなどと主張しました。

桜井氏は急性気管支肺炎のため1月24日に亡くなりました。

82歳でした。

(2024年2月8日時点)

小澤征爾(88)「世界のオザワ」名だたるオーケストラで活躍

海外の名だたるオーケストラで活躍し、「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが2月6日、都内の自宅で心不全のため亡くなりました。88歳でした。

小澤さんは1935年に旧満州、今の中国東北部で生まれました。

5歳の時に日本に帰国、小学生で初めてピアノに触れ、レッスンを始めます。その後、桐朋学園の音楽科に入学、数多くの指揮者を育てた齋藤秀雄さんから本格的に指揮を学びました。

23歳で単身、フランスに渡ると、現地で行われた指揮者のコンクールで優勝して飛躍の足がかりをつかみ、世界的な指揮者、カラヤンに師事しました。

またアメリカの指揮者、バーンスタインにも認められ、25歳でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、その後もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など世界的に有名な数々のオーケストラで指揮者として長年活躍しました。

このうち、アメリカのボストン交響楽団では1973年から29年間にわたって音楽監督を務めたほか、世界屈指の歌劇場として知られるオーストリアのウィーン国立歌劇場でも音楽監督を務めるなどその活躍によって「世界のオザワ」と評されました。

国内でも1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創立に携わったほか、恩師の齋藤秀雄さんをしのんでサイトウ・キネン・オーケストラを結成して音楽祭を開くなど精力的に活動し、戦後日本のクラシック界をけん引してきました。2008年には文化勲章を受章しています。

小澤さんは2010年に食道がんで手術を受けて以降、活動の再開と休止を繰り返していましたが、2023年9月には長野県松本市で開かれたコンサートに姿を見せていました。

小澤さんは、2月6日都内の自宅で心不全のため亡くなったということです。88歳でした。

闘病で活動休止も そのたびに音楽の舞台に復帰
小澤征爾さんは2010年、74歳の時に食道がんの治療に専念するため、音楽監督を務めていたウィーン国立歌劇場での公演をはじめ、国内外の公演をキャンセルして活動を休止しました。

小澤さんは食道を摘出する手術を受けたということですが、同じ年の8月には復帰の会見を開き、若手の演奏家たちを前に力強く指揮をする姿を見せました。

その後も持病の腰痛や体力の低下などで活動を休止することがありましたが、そのたびに音楽の舞台に復帰してきました。

2018年、82歳の時には心臓の弁がうまく機能しない「大動脈弁狭さく症」で入院しましたが、同じ年に復帰すると再びオーケストラを指揮する姿を見せ、小学生に音楽の魅力を伝える催しなども開きました。

そして2022年、自身が総監督を務める「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の30周年特別記念公演を前に長野県松本市で、3年ぶりにオーケストラを指揮する姿を見せ、動画を公開しました。

この時が、公の場での小澤さんの最後の指揮となりました。

国内での大きな功績の一つ「サイトウ・キネン・オーケストラ」
小澤征爾さんの国内のクラシック界における大きな功績の一つが今も続く「サイトウ・キネン・オーケストラ」です。

これは1984年、小澤さんが師事した音楽家の故・齋藤秀雄さんをしのんだメモリアルコンサートを開いたのが始まりです。

このとき、特別に編成されたオーケストラには小澤さんらの呼びかけに応えた世界中で活躍する齋藤さんの門下生が集まり、今の「サイトウ・キネン・オーケストラ」の母体となりました。

このオーケストラはヨーロッパでのツアーも行って海外でも絶賛され、1992年には長野県松本市でも小澤さんみずからが総監督を務める「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を初めて開催しました。

その後「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は世界水準のオーケストラとオペラに親しむことができる国際的な音楽祭となりました。

松本市で小澤さんが指揮した「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏を収録したアルバム「ラヴェル:歌劇《こどもと魔法》」は、2016年、アメリカの音楽界で最も権威があるとされる「グラミー賞」の最優秀オペラ・レコーディング賞に選ばれました。

2022年に、松本市で行われた「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏が小澤さんの公の場での最後の指揮となりました。

約30年間 音楽監督務めた米ボストン交響楽団 公演で追悼
小澤征爾さんが1973年から2002年まで、およそ30年間にわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団では、2月9日午後の公演の冒頭に演奏と黙とうで小澤さんをしのびました。

オーケストラのバックには小澤さんが指揮をしている横顔の大きな写真が掲げられ、はじめに楽団のチャド・スミスCEOが「きょうはこのオーケストラを愛する人にとって、そして音楽を愛するすべての人にとってとてもつらい日だ。わたしたちは巨匠を失った」と述べて小澤さんに哀悼の意を示しました。

また「彼は教師でもあった。その教えは演奏者たちの中に生き続け、この神聖な空間の中で鳴り響き続ける」と述べ、後進の育成にも力を注いだ小澤さんの功績もたたえました。

このあと、小澤さんが生前、友人が亡くなったときに別れの曲として贈っていたというバッハの「G線上のアリア」が楽団員によって演奏され、そのまま静かに演奏の手をとめて黙とうをささげました。

また、ボストン交響楽団は、ホームページに追悼文を掲載し「伝説的な指揮者だっただけではなく、次世代の音楽家たちにとって情熱的な指導者でもあった」と功績をたたえました。

また、その人柄について「心優しく、思慮深く、指揮台ではバレエのような優美さと並外れた記憶力を持ち合わせた音楽の天才だった。ボストンの町と、スポーツチームを深く愛していた」と紹介し、「彼の遺産は私たちの記憶や、レコーディングを通して生き続ける」として、ボストンを愛し、市民にも愛された小澤さんに哀悼の意を表しました。

ボストン交響楽団スミスCEO「彼は先駆者だった」
2月9日、ボストン交響楽団のチャド・スミスCEOがNHKのインタビューに応じ、「けさ、亡くなったことを知りました。病気だったことは知っていましたが、思っていたより衝撃は大きく、世界が少し暗くなった気がします」と心境を語りました。

その上でボストン交響楽団がいまのような現代的な姿になったのは小澤さんのおかげだとして「彼が採用した音楽家、オーケストラの音やレパートリー、そして観客がこの空間で音楽を体験する方法に大きな影響を与えました」と功績をたたえました。

そして小澤さんのキャリアについても触れ「彼は先駆者だったと思います。彼はアジア出身の音楽家がプロとしてのキャリアを歩む道を開きました。初めてであることは大きな重荷だったと思いますが、彼がこの音楽の世界で頂点に立ったことは多くの人にインスピレーションを与えたと思います」と話していました。

ボストン交響楽団が拠点としている音楽ホールでは、建物についた楽団の頭文字の「BSO」という看板の「B」の字の電気を消して、「セイジ・オザワ」を意味する「SO」とすることで小澤さんへの哀悼の気持ちを示しています。

音楽ホールでは小澤さんの写真がロビーに掲げられ、コンサートのあと、花を手向ける人の姿も見られました。

コンサートを聞きに来た女性は「彼は黒いネクタイをせず、別の素敵な服を着て指揮をした初めての人でした。若くて、情熱的でした。彼が亡くなってとてもとても悲しい」と話していました。

また別の男性は「彼は本当に際立っていて、みんなに影響を与えた人物として記憶されるでしょう。彼が指揮する姿、表現や動きを見るだけで本当に面白かった。信じられないほど素晴らしかったよ」と話していました。

また、この音楽ホールのすぐ近くの駐車場にはオーケストラでの小澤さんの姿を大きく描いた壁画があり、写真を撮る人の姿も見られました。

写真を撮りに来ていた女性は「けさ小澤さんが亡くなったことを聞いて、地元の新聞に記事を書こうと思い写真を撮りに来ました。残念ながら、わたしはクラシック音楽にあまり詳しくありませんが、彼が音楽の世界でとても有名だったことは知っています」と話していました。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団「偉大な指揮者のひとり」
小澤征爾さんが死去したことを受けて、小澤さんが指揮者をつとめたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、2月9日、追悼の声明を発表しました。

声明では、小澤征爾さんを「最も偉大な現代の指揮者のひとり」とたたえたうえで、「私たちは感謝と愛情を抱きながら、数々のコンサートやオペラなどでの公演、特に日本へのツアーを振り返っています」としています。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 日本語で追悼コメント
小澤征爾さんが指揮者をつとめたドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、2月9日、SNSに投稿し、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿しました。

NYフィルハーモニック かつての写真投稿し功績たたえる
小澤さんがかつて副指揮者を務めたニューヨーク・フィルハーモニックは、2月9日、公式のインスタグラムで声明を発表しました。

この中で小澤さんについて、25歳の時、1961年にニューヨーク・フィルハーモニックでデビューして以降、何度も再演を果たしたとした上で、当時、音楽監督だったレナード・バーンスタイン氏などと一緒に写った写真を投稿しました。

そして「武満徹やキルヒナーによる世界初演となる作品やレナード・バーンスタインの作品などあわせて124回、コンサートで指揮した」として小澤さんの功績をたたえました。

その上で「ニューヨーク・フィルハーモニックは、この音楽界の巨匠と豊かな関係を築けたことを光栄に思う」として、哀悼の意を示しました。

指揮者 佐渡裕さん「ずっと背中追いかけてきた 感謝しかない」
小澤征爾さんに師事し、現在は小澤さんたちが設立した新日本フィルハーモニー交響楽団で、音楽監督を務めている指揮者の佐渡裕さんはNHKの電話取材に応じ、「小澤先生は子どものころから憧れていた1番の指揮者でした。いつかこんな日が来るとは思っていましたが、突然のことで大きなショックを受けています」と話しました。

ヨーロッパの指揮者が席けんしていたオーケストラの世界で、日本人の小澤さんが活躍できたことについて佐渡さんは「小澤先生の指揮はすごく正確で誰から見てもはっきりと見えます。精密機械のようなテクニックに加え、ものすごいパッションを持っていることが大きかったと思います」と小澤さんの技術と情熱を高く評価しました。

また、「日本人としてのバックグラウンドを持ちながら、音楽を共通語として世界で通用することを示したことが、僕ら日本人の後輩にとってものすごく励みになりました。日本だけでなく韓国や中国からも優秀な人が出てきている、そういう時代につながったと思います」と小澤さんの功績の大きさをたたえました。

そのうえで、「小澤先生の背中をずっと追いかけてきましたが、追いつかない存在でした。26歳のときにタングルウッド音楽祭のオーディションで選んでくれなかったら、僕は海外に出ていなかったかもしれません。ヨーロッパではうまくいく時もいかない時もありましたが、よく食事に誘ってもらいました。そんなとき音楽の話はほとんどしませんでしたが、『頑張れよ』と言われているように感じました。本当に感謝しかありません。ありがとうございました」と話していました。

詩人 谷川俊太郎さん「とても寂しい」
小澤征爾さんと交流があった詩人の谷川俊太郎さんは「小澤さんは、仕事をし始めた時期が重なり、同年代として親しみを持っていました。共通の知人を通じて何度か食事をともにし明るい人柄にひかれ、オーケストラは何度も聴きに行きました。同じ世代の芸術家が、次々といなくなりとても寂しいです」と話していました。

バイオリニスト 豊嶋泰嗣さん「魔法を持っていた」
デビュー当初から小澤征爾さんと何度も共演してきたバイオリニストの豊嶋泰嗣さんは、「ずっと闘病されていたのである程度覚悟していましたが、かなりショックはありますし、世界の宝でもあるので世界的に悲しい残念なことだと思います」と話していました。

2023年の夏に会ったときのことについて、「小澤さんは手もほとんど動かない状態だったので、最初はゆっくりとした楽章だけやろうと思っていたけれど、演奏しているうちに小澤さんの手がだんだん上がってきたのに乗せられて3楽章も弾いてしまったのを今でも覚えています。純粋に音楽のことだけに打ち込む姿勢は昔からずっとそうだったと思いますし、われわれ演奏家も触発されて、一緒に音楽を作っていく喜びがすごくありました。一緒に演奏する時間は特別で、演奏者の能力を超えた部分まで引き出す魔法を持っていました」と振り返っていました。

そのうえで、「今では当たり前にみんな海外のオーケストラで演奏したり指揮したりしていますが、小澤さんは前例がないところをずっと歩んできていたパイオニアで、指揮者として小澤さんほど認められている人は世界を見渡しても一握りです。僕自身も、若い人を育てていく年齢になったので、小澤さんの遺志をついでいきたい」と話していました。

バイオリニスト 矢部達哉さん「努力欠かさない人」
およそ35年前から小澤征爾さんと共演を重ねてきたバイオリニストの矢部達哉さんはNHKの電話取材に対して「小澤さんとともに共演できた時間は幸せな時間で、今は喪失感でいっぱいです。日本の音楽家にとって誰もが憧れる存在で、道なき道を切り開き、歩き続けていた存在でした」と話していました。

また、小澤さんとツアーでまわった際、前日が夜遅くても小澤さんが次の朝4時ごろから楽譜を開いて練習する姿を何度も見たということで、「何百回も指揮をしている曲であっても、努力を惜しまず、最後の最後までいい指揮者になるための努力を欠かさない人でした。指揮台で動き始める瞬間に生まれる吸引力や磁場は、どの指揮者と比べても次元がちがい、魔法のような指揮でした」と話していました。

ジェイムス・テイラーさん「歴史に残る偉大な音楽家」
シンガーソングライターのジェイムス・テイラーさんは小澤征爾さんのコンサートに参加するなど、音楽のジャンルは違うものの親しい交流があった音楽家の1人で2月9日、ボストン交響楽団の公演が開かれた音楽ホールでNHKのインタビューに応じました。

家族ぐるみの付き合いをしていたというテイラーさんは、小澤さんがテニスやスキーなど、スポーツにも才能を発揮したというエピソードを紹介し「身体能力が高かったこともすばらしい指揮者であったことの1つの要素だったと思う。彼は全身を使ってオーケストラや観客に音楽を伝えていた」と話していました。

そして小澤さんとテイラーさんがジャンルを超えて交流してきたことに触れ「彼はクラシック音楽をよりグローバルなものに、つまり、世界中のすべての人々に、私のようなジャンルの違う人間に対してもずっとより開かれたものにした」と評価していました。

その上で「彼は歴史に残る偉大な音楽家、指揮者、音楽監督の一人として認められるでしょう。そしてクラシック音楽の境界を広げたという点でも評価されると思う」と話し、小澤さんをしのんでいました。

仏メディアも相次いで速報「クラシック音楽の魔術師」
このうち、フランスの有力紙「フィガロ」は「クラシック音楽の魔術師、小澤征爾が死去」と見出しをつけ、小澤さんの功績を詳しく伝える記事を電子版で掲載しました。

また、有力紙の「ルモンド」も、小澤さんが20代前半でフランス・ブザンソンの指揮者コンクールに出場し、優勝したエピソードなどを紹介し、「西洋で指揮者として初めて成功したアジア人だ」と伝えました。

このほか、「ラジオ・フランス」も電子版の記事を掲載し、「最も偉大な指揮者の1人であり、おそらくクラシック音楽の最後の生きた伝説だった」としています。

小澤さんは、フランスでも数多くの公演を行っていて、フランスで最も権威ある国家勲章である、レジオン・ドヌール勲章を、受章しています。

中国メディア「悲しいニュースが届いた」
小澤征爾さんが死去したことについて、中国メディアも相次いで速報で伝えました。

国営の中国中央テレビなどは、小澤さんが現在の中国東北部、瀋陽で生まれその後太平洋戦争が始まって日本に戻るまでの間、北京で暮らしていたことや、公演のために何度も中国を訪れたことを伝えています。

中国のSNS上では「私が最も愛する指揮者だった」とか「偉大な芸術家だった」という投稿が相次いでいます。また、2月10日に旧正月の春節を迎える中国では2月9日は大みそかにあたるため「大みそかの夜に最も悲しいニュースが届いた」という投稿も見られました。

(2024年2月10日時点)

山本陽子(81)清純な女性から悪女まで 幅広い役柄演じる

1960年代から話題の映画やドラマ、舞台などで活躍し、清純な女性から悪女まで幅広い役柄を演じ分け、人気を集めてきた、俳優の山本陽子(やまもと・ようこ)さんが、2月20日、急性心不全のため亡くなりました。81歳でした。

山本陽子さんは東京出身で、1963年に日活のニューフェイスとして芸能活動を始めました。

そのあと、話題の映画やドラマ、舞台などに次々と出演し、清純な女性から悪女まで幅広く演じ分ける高い演技力と清そな顔だちで人気を集めました。

このうち、1982年に放送された民放のドラマ「黒革の手帖」では平凡なOLから銀座のクラブのママにのし上がる悪女を演じて話題を呼んだほか、老舗の漬物店を舞台に親子の絆などを描いた1990年のNHKの連続テレビ小説「京、ふたり」では母親役を演じるなど、数多くのドラマに出演しました。

また、舞台でも長く活躍し、森光子さんの「放浪記」に出演したほか、舞台「おはん」で主役を演じ、1993年度の菊田一夫演劇賞を受賞しています。

さらに、長年出演した「のり」のコマーシャルでもお茶の間に親しまれました。

最近も2月2日に放送されたテレビ番組に出演して元気な様子を見せていたほか、4月には舞台への出演も予定されていましたが、所属事務所によりますと、2月20日、急性心不全のため亡くなったということです。81歳でした。

所属事務所の代表がコメント「最期の瞬間まで自由に」
山本陽子さんの訃報を受けて、山本さんの親族でもある所属事務所の代表がコメントを発表しました。

この中では、「亡くなる数時間前まで一緒におり、いつもと変わらぬ様子で帰宅の途へついたので、所属事務所代表であり、家族でもある私自身いまだに信じられません。今回このようなかたちで皆様へ突然の訃報をお知らせすることになったのは残念でなりません」とつづっています。

また、2024年4月にアガサ・クリスティーが原作の舞台に出演する予定だった山本さんの近況について、「稽古を間近に控え、台本と向き合う日々でした。やり遂げられなかったこと、共演者、公演関係者、観劇予定のお客様へご迷惑をお掛けすることになったのは大変申し訳なく思います」としています。

そのうえで、「今頃本人は向こうで『こっちの話し方のほうがいいかしら?』などと役作りに励んでいることと思います。常に傍らにいた私から見ても最期の瞬間まで自由に生きた幸せな人生でした。家族として、所属事務所代表として、これまでの皆様からのご支援、ご声援に心より感謝を申し上げます」と結んでいます。

CM出演の海苔店がコメント
山本陽子さんが長年イメージモデルを務め、テレビコマーシャルに出演するなどしてきた、山本海苔店はホームページにコメントを発表しました。

この中では「ご逝去の報に接し、突然のことで大変驚いております。陽子さんには、1967年のイメージモデル起用以降57年にわたり、コマーシャルフィルムやポスターなどでご活躍いただきました。大スターであるにも関わらず、大変親しみやすい優しいお人柄でもありました。ご生前のお力添えに深く感謝申し上げるとともに、謹んでお悔やみを申し上げます」などとしています。

会社によりますと、山本さんは、2010年に「専属モデル契約年数最長」として、ギネス世界記録に認定されたということです。

俳優の高橋英樹さん「突然なことで息もつまる」
山本陽子さんと同じ日活のニューフェイスとして活躍し、2月放送された民放のテレビ番組でも共演していた俳優の高橋英樹さんはブログを更新し、山本さんを追悼するコメントを寄せています。

この中では「つい先日ご一緒したばかりでした。日活映画時代の話で盛り上がり、熱海にお住まいなので私もよく熱海に行きますので今度一緒に食事をしましょう!とラインも交換しました。あまりにも突然なことで息もつまりました。ご冥福をお祈りいたします」などとコメントしています。

俳優の辰巳琢郎さん「とりわけショック」
1990年のNHKの連続テレビ小説『京、ふたり』で山本陽子さんと共演した俳優の辰巳琢郎さんが自身のSNSを更新しました。

この中では「『京、ふたり』以来、親しくおつき合いさせていただいていた憧れの大先輩。麻雀もお酒も強かった。最近あまりに訃報が多いけれど、とりわけショックです。合掌」とコメントしています。

(2024年2月22日時点)

角田義一(86)参議院副議長などを歴任

>角田義一(86)

参議院副議長などを歴任した角田義一(つのだ・ぎいち)氏が亡くなりました。86歳でした。

角田義一氏は、群馬県出身で、弁護士など経て平成元年の参議院選挙の群馬選挙区に当時の社会党から立候補して初当選し、その後、旧民主党に移りました。

参議院議員を3期、18年務め、この間、旧民主党の参議院議員会長などを務め、2004年に参議院副議長に就任しました。

2007年に、過去の選挙の際に、みずからの選挙対策本部が受け取った政治献金を政治資金収支報告書に記載していなかったと指摘されて、副議長を辞任し、その年に行われた参議院選挙に立候補しませんでした。

参議院議員を退いたあとは、弁護士として活動し、立憲民主党群馬県連で最高顧問を務めていました。

関係者によりますと、角田氏は、2月23日、前橋市内の病院で亡くなったということです。

86歳でした。

(2024年2月25日時点)

五百旗頭真(80)政治学者 災害からの復興にも尽力

>五百旗頭真(80)

防衛大学校の学校長などを務め、東日本大震災や熊本地震からの復興に有識者の立場で力を尽くした、政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)さんが3月6日、急性大動脈解離のため亡くなりました。80歳でした。

五百旗頭さんは、兵庫県西宮市出身で、京都大学大学院を修了したあと、神戸大学の教授や東京大学の客員教授などを歴任し、日米関係を中心に日本の政治外交史の研究を続けました。

2006年8月から2012年3月にかけては、防衛大学校の学校長を務め、将来の自衛隊幹部の育成にあたりました。

また、阪神・淡路大震災で被災した体験から防災や復興にも積極的に関わり、東日本大震災の復興構想会議の議長や、熊本地震からの復旧・復興に向けた有識者会議の座長を務め、有識者の立場で災害からの復興に力を尽くしました。

五百旗頭さんが理事長を務めている「ひょうご震災記念21世紀研究機構」によりますと、3月6日午後、執務中に息苦しさなどを訴えて神戸市内の病院に搬送され、急性大動脈解離のため亡くなったということです。80歳でした。

将来の自衛隊幹部の育成 重視したのは防衛大の建学精神
日本の政治外交史が専門の五百旗頭真さんが防衛大学校長を務めたのは、自衛隊が発足してから半世紀余りがすぎた2006年8月からのおよそ5年半です。

アメリカで同時多発テロ事件が起きるなど国際情勢が不安定化し、自衛隊の活動範囲がイラクやインド洋など海外に広がる中で、将来の自衛隊幹部の育成にあたりました。

その中で重視したのが、初代の学校長を務めた槇智雄の教育理念でした。

槇は、個性がなければ理性をもって規律に服従することはできないとして、個性を育むよう学生に求めるとともに、国防の任務には国民からの信頼が不可欠だとしていかなる努力もいとわないことを求めました。

五百旗頭さんは、この建学の精神が自衛隊の幹部には必要だとして、2008年、防衛大学校の中に槇に関する資料を集めた記念室を開設しました。

開設にあたって五百旗頭さんは「自衛隊は多機能で実効的な活動などを求められる時代になった。難しい時代だからこそ、原点に立ち返り、再出発しなければならない」と述べています。

それと同時に国際的な視野を育むため、各国の士官学校などとの交流の拡大にも尽力しました。

天皇皇后両陛下 侍従長を通じて遺族に弔意伝えられる
五百旗頭真さんは、令和2年6月から、天皇の意向を受けて皇室の重要事項について助言を行う相談役の宮内庁参与を務めていて、側近によりますと、天皇皇后両陛下は侍従長を通じて遺族に弔意を伝えられたということです。

五百旗頭さんは、2月23日の天皇誕生日に、お祝いの行事に出席するため皇居を訪れて両陛下と面会していて、両陛下は突然の訃報に大変驚かれていたということです。

東京大学 御厨名誉教授「よき師を失った」
日本の政治外交史が専門で、東日本大震災の復興構想会議で議長代理を務めた東京大学の御厨貴名誉教授は「五百旗頭さんは自衛隊幹部を育てることを前提にしながらも、社会の中で孤立することがないよう、一般教養を重視した育成を行っていた。自身が持つ幅広い知識を防衛大学校の学生全体に植え付けた」と話しています。

そのうえで、「間違いなく日本の政治外交史や日米関係の研究の第一人者であり、大所高所で分析できる研究者だった。研究をするだけでなく外に向けて発信も行ったその功績は大きく、私たちも学ばせてもらい導いてもらった。よき師を失ったという感じだ」と述べ、その死を悼んでいました。

神戸大学 室崎名誉教授「民主的でリベラルな人でした」
五百旗頭真さんとともに阪神・淡路大震災からの復興や防災・減災の対策について取り組んできた神戸大学名誉教授の室崎益輝さんは「阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた神戸大学の復興について検討する会議で一緒になったのが最初の出会いで、活発に意見を述べられていたことを覚えています。その後も、震災での対応を検証するため、当時の政財官のトップや遺族などから証言を集める取り組みを一緒に始めるなど防災・減災の進め方について教えられることがありました」と振り返りました。

そのうえで、「大きな災害が起きるといつも電話で意見を求められましたが、ことし元日に発生した能登半島地震の際には電話がかかってこなかったので心配していました。五百旗頭さんは立場や考え方が違う人を含めていろいろな人の意見や話を聞いて、全体を捉えたうえで総合的に判断できる民主的でリベラルな人でした」と話していました。

(2024年3月7日時点)

鳥山明(68)「DRAGON BALL」など世界的人気漫画生み出す

>鳥山明(68)

「DRAGON BALL」や「Dr.スランプ」など、魅力的なキャラクターが登場する世界的な人気作品を次々に生み出した漫画家の鳥山明(とりやま・あきら)さんが3月1日、急性硬膜下血腫のため亡くなりました。68歳でした。

鳥山明さんは愛知県出身で、1978年に「週刊少年ジャンプ」の読切作品「ワンダー・アイランド」で漫画家としてデビューしました。

その後、1980年に連載を始めた「Dr.スランプ」がアニメ化され、少女型アンドロイド、アラレちゃんの「んちゃ」や「バイちゃ」などのセリフが流行語になるなど、大きな人気を集めました。

鳥山さんは、1982年に放送された漫画を特集したNHKの番組でインタビューに答えていました。この中で、連載開始から2年で大ヒットを続けていた「Dr.スランプ」について、当時27歳の鳥山さんはこう話していました。

「あまりブームにはならなかった方がよかったと思っています。騒がれるのはいやですから。地道に漫画だけ描いていたかったです。それなりにうれしいですけど。たまたま発明ものを描いて、これがいけるんじゃないかということで決まっただけで、特にこれを描きたいとかはなかったです。10週続けばいいほうだと思っていました。『Drスランプ』の人気はもう終わってもいい頃だと思っています。僕もまた違ったものも描きたいですし、それだけに決めつけられてしまうのもいやですから。一生懸命描いていますけど、違ったものも描きたいという感じです」

1984年に連載を始めた「DRAGON BALL」は、主人公の孫悟空が「かめはめ波」などの必殺技を駆使してさまざまな敵と戦い成長していく物語を描き、累計発行部数は2億6000万部を超える大ヒット作となりました。

連載開始の2年後にはテレビアニメ化され、これまでに世界80以上の国と地域で放送されてきたということです。アニメやゲームのほか、ハリウッドで実写版が映画化されるなど世界的に多くのファンを獲得しました。

「ドラゴンクエスト」シリーズで
鳥山明さんは人気ゲーム「ドラゴンクエスト」のシリーズ1作目からキャラクターやモンスターのデザインを担当しました。

「ドラゴンクエスト」シリーズを提供するゲーム会社「スクウェア・エニックス」によりますと、シリーズの累計出荷本数は2023年3月末の時点でダウンロード販売を含めて世界で8800万本にのぼり、鳥山さんが描く魅力的なキャラクターは世界中のゲームプレーヤーから愛され続けています。

「スクウェア・エニックス」は公式ホームページでコメントを発表し「鳥山明先生が生み出すキャラクターはゲームの作り手と遊び手の想像力をかき立て、心のなかに広大な冒険の世界を描き出してくださいました。スライムをはじめとする魔物でありながらもどこか愛らしいモンスターたちは、『ドラゴンクエスト』の世界に温かみを与えてくださいました。鳥山明先生が生み出したキャラクターや世界観は、今後の『ドラゴンクエスト』でも息づいてまいります」と追悼しています。

マンガ批評家「時代の中心的な存在」
マンガ批評家の夏目房之介さんは、「90年代の半ばにかけてが戦後の紙出版の漫画の最盛期でしたが、80年代にそれを作り上げたのが『週刊少年ジャンプ』で、中心で支え、駆動させたのが鳥山さんだったと言えると思います。中でも『DRAGON BALL』はアニメなどさまざまな商品にも展開され、日本の漫画の特徴であるメディアミックスで大きな収益をあげていく形の典型的な作品でした。海外にも広がり、世界的に日本の漫画が一定の支持を得るようになった大きな力にもなったと思います」と功績を振り返りました。

その上で夏目さんは「鳥山さんは描き方も独特で、『DRAGON BALL』の終わりのころは鋭角的なフォルムになってきますが、最初のころは丸っこくてとても優しい絵でした。結果的に王道にはなりましたが、本来の『ジャンプ』の荒々しい男っぽい世界とは違う特異な存在だったと思います」と振り返りました。

鳥山さんに影響を受けたという人気漫画家が多く誕生したことについては「『週刊ジャンプ』の発行部数は一時期600万部を超え、大きな浸透力がありました。読者の中から“あのような漫画を描きたい”という気持ちを引き出し、結果的に後進が出てきたのだと思います」と功績の大きさを語りました。

孫悟空役 声優 野沢雅子さん
アニメの「ドラゴンボール」で主人公の孫悟空役などを演じてきた声優の野沢雅子さんは所属事務所を通じてコメントを発表しました。

野沢さんのコメントは次のとおりです。

「信じたくない。考えたくないという気持ちで頭の中が空っぽです。それでも、お会いするたびに鳥山先生がおっしゃってくださった『悟空をお願いしますね』というおことばを思い出すと、『私の命が尽きるまで悟空のそばにいよう』と気持ちを保つことができます。先生、空から私たちを見守っていてください。どうか安らかな旅立ちでありますように」

則巻アラレ役 声優 小山茉美さん
鳥山明さん原作のアニメ「Dr.スランプアラレちゃん」で則巻アラレ役を演じるなど、親交のあった声優の小山茉美さんは、所属事務所を通じて、追悼のコメントを出しました。

「Dr.スランプアラレちゃんからのお付き合いでした。決してマスコミにお顔を出さない鳥山先生が、私のラジオ番組やライブコンサートには必ずゲストとして出演し、いつも応援して下さいました。私にとってはもう一人の“則巻せんべい博士”でした」

「世の中に『愛』と『夢』と『力』を与え続けて下さった先生の偉大な功績は、例えようのないほど大きなものだったと思います。心から感謝し、心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りしております」

タレント 中川翔子さん
アニメ「ドラゴンボール」の映画や「ドラゴンクエスト」シリーズのゲームでキャラクターの声を担当したこともあるタレントの中川翔子さんは8日午後、自身の公式Xを更新し、思いをつづりました。

「突然すぎて信じられない ドラゴンボールとドラゴンクエストと成長してきた人生でした 鳥山明先生の描く線から生まれる世界の、キャラクターたちの、ワクワクドキドキは唯一無二、世界的な宝が失われてしまうなんて信じたくないです 漫画やアニメの歴史に偉大な革命を築きあげた功績は人類の宝です 鳥山明先生の作品は地球がある限り人類史に未来永劫語り継がれていくと思います」

集英社が発刊する「週刊少年ジャンプ」の公式サイトには、鳥山明さんと親交が深かった漫画家や関係者が追悼のコメントを寄せています。

ドラゴンクエストゲームデザイナー 堀井雄二さん
このうち、鳥山明さんがキャラクターデザインを手がけたゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズのゲームデザイナー、堀井雄二さんは次のようにコメントしました。

「本当に、あまりに突然な鳥山さんの訃報で、まだ信じられない気持ちでいっぱいです。鳥山さんとは、ボクが少年ジャンプのライターをやっていた頃からの知り合いで、担当編集者の鳥嶋さんの勧めもあり、ドラゴンクエストを立ち上げる時に、彼にゲームの絵を頼むことにしました。

あれから37年余り、登場人物のキャラクターデザイン、モンスターデザイン、とても数えきれないほどの魅力的なキャラを描いていただきました。ドラゴンクエストの歴史は、鳥山さんのキャラデザインとともにありました。

鳥山さん、故すぎやま先生は、ドラゴンクエストを長きに渡って作ってきた仲間でした。亡くなってしまうなんて‥‥。これ以上、なんて言えばいいのか言葉になりません。本当に、本当に、残念です。」

「ウイングマン」作者 桂正和さん
鳥山明さんと同じ時期に「週刊少年ジャンプ」で「ウイングマン」などの作品を連載し、親交が深かった漫画家の桂正和さんのコメントです。

「力がぬけて気力が出ません。こんな事のコメントはしたくないですね。けど、何か書きます。書き出したら、言いたい事だらけなんで、めちゃくちゃ長文になりそうだけど、できるだけ、コンパクトにまとめます。ただ、気持ちがまとまらないので、乱文お許しを。

思い返しても。大袈裟でなく、お宅に遊びに行った時、うちに泊まりに来てもらった時、遊びに出掛けた時、全部が楽しい思い出しかなくて、電話をする度に、疲れるほど笑ってました。面白い人だった。すけべで、可愛くて、毒舌で、謙虚で。本職の漫画では、合作とかもしたけど、あれも楽しかった。

でも、99%漫画の話をした事はない付き合いでしたね。漫画家として、見てる風景、作家のレベルも違いすぎて、偉大さを意識した事が無かったです。わかってはいます。けど、本人と接する時は微塵もそれは感じなかった。人柄ですね。だから偉大な漫画家というより、今も友人としてとしか考えられない。

去年の夏、私が手術をする前に、どこかで聞いたらしく、メールくれました。本当ーーに、メールなんて珍しく、心配そうに私の体を気遣う内容。40年来の付き合いだけど、鳥山さんから、あんなに優しくされたのは初めてだったかも。雪が降るかと思いましたよ。いつもは冗談か、くだらない話しかしないっすからね。なんすか、人の心配してる場合じゃないじゃん、全く。

そのちょっと前だったか電話した時、その頃、色々具合が悪かった私は『多分先に逝くんで、お別れ会とかやってくださいね、鳥山さん仕切りで!あと、箔がつくからスピーチして下さいね!』と約束したのに、守ってもらえなかった。メールをくれた後、なんで電話しなかったのか、それが、すごく後悔です。

もうくだらない話で長電話ができない事が、残念でしかたないです。話したい事が沢山溜まってます。いろんな話があるんです。興味のない話は、いつものように、うわの空に聞いてもらってもいいんで、もう一度話したいです。私の、また連絡くださいとのメールの返事に、軽くOKって書いてあったのが最後なんて、ダメです。心底辛いです」

「ONE PIECE」作者 尾田栄一郎さん
世界的な人気漫画「ONE PIECE」の作者、尾田栄一郎さんのコメントです。

「あまりに早すぎます。空いた穴があまりに大きすぎます。もう二度と会えないと思うと、悲しみが押し寄せてきます。

子供の頃から憧れすぎていて初めて名前呼んで貰えた日の事も覚えています。我々に「友達」という言葉を使ってくれた日の帰り道岸本さんと盛大にはしゃいだ日も懐かしいです。最後に交わした会話も覚えています。

漫画なんて読むとバカになるという時代からバトンを受け取り大人も子供も漫画を読んで楽しむという時代を作った一人でもあり漫画ってこんな事もできるんだ世界に行けるんだ、という夢を見せてくれました。突き進むヒーローを見ているようでした。

漫画家に限らずあらゆる業界で活躍するクリエイター達の少年時代にドラゴンボール連載当時の興奮と感動が根付いているでしょう。その存在は、大樹です。同じ舞台に立った僕ら世代の漫画家にとって鳥山作品は近づく程により大きな存在と気づかされました。怖いくらいに。でもまた、飄々としたご本人に会えるとただ嬉しい。僕らは血液レベルで鳥山先生が大好きだから。

鳥山先生の残された創造性豊かな世界に敬意と感謝を込めて、心よりご冥福をお祈りいたします。天国が先生の想い描いた通りの愉快な世界でありますように」

「NARUTO-ナルト-」作者 岸本斉史さん
世界的な人気漫画「NARUTO-ナルト-」の作者の岸本斉史さんは、次のようにコメントしています。」

「突然のことで何をどう書けばよいのか正直わかりません。ただ今は鳥山先生にいつか聞いて欲しかった事、想いをお伝えさせて頂きたく思います。」

小学生低学年でDr.スランプ、高学年でドラゴンボールとずっと先生の漫画と一緒に育ち、生活の一部で先生の漫画が隣にあるのが当たり前でした。嫌なことがあっても毎週のドラゴンボールがそれを忘れさせてくれました。何もなかった田舎少年の僕にとってそれは救いでした。本当にドラゴンボールが楽しすぎたからです!

大学生のときです。突然、僕の生活に長年当たり前にあったそのドラゴンボールが終わりました。とてつもない喪失感に襲われ何を楽しみにすればいいのか分からなくなりました。でもそれは同時にドラゴンボールを生み出してくれた先生の偉大さを心から知る事ができるきっかけでもありました。

僕も先生のような作品を作りたい!先生のようになりたい!と、先生の後を追いかけるように漫画家を目指すうちにその喪失感もなくなっていきました。漫画作りが楽しかったからです。先生を追いかける事で新しい楽しみを見つける事が出来ました。

先生はいつも僕の指針でした。憧れでした。先生にはご迷惑かもしれませんが勝手に感謝しています。僕にとってはまさに救いの神であり、漫画の神様でした。初めてお会いした時、緊張し過ぎて一言も喋れませんでした。ですが手塚賞の審査会で何度もお会いするうち話せるようになりました。

ドラゴンボールチルドレンとして尾田さんと2人して子供に戻りまるで競争するかのようにいかにドラゴンボールが面白かったのかをはしゃいで話した時、まんざらでもない様子で少し恥ずかしそうな笑顔をされていたのが忘れられません。

今、先生のご訃報を受けたばかりです。ドラゴンボールが終わった時以上のとてつもない喪失感に襲われ...まだこの心の穴にどう対処すればよいのか分かりません。今は大好きなドラゴンボールも読めません。

先生へお伝えしたいこの文章もまともに書けている気がしません。世界中の皆んながまだまだ先生の作品を楽しみにしていました。もし本当にドラゴンボールの願いが1つ叶うなら...すみません...それはわがままな事なのかもしれませんが、悲しいです先生。

鳥山明先生、45年もの間たくさんの楽しい作品をありがとうございました。そして本当にお疲れ様でした。残された家族のみなさまにおかれましては今はまだ深くご傷心のことと思われます。ご自愛くださいませ。鳥山明先生の安らかな眠りをお祈り申し上げます」

少年ジャンプ編集部「一同大きな悲しみ」
週刊少年ジャンプなどの編集部がコメントを出しました。

「ジャンプ誌上でたくさんの作品を発表された鳥山明先生が逝去されました。

突然の訃報に、集英社・編集部一同大きな悲しみに包まれております。

『Dr.スランプ』『DRAGON BALL』『SAND LAND』...先生が描かれた漫画は、国境を越え世界中で読まれ、愛されてきました。

また、先生が生み出された魅力あふれるキャラクターたちと、その圧倒的なデザインセンスは、数多くの漫画家・クリエイターに大きな影響を与えてきました。

先生の偉大なご功績を讃え、感謝の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます」

鳥山さんが所属する「バード・スタジオ」は
また、鳥山さんが所属する「バード・スタジオ」などは以下のコメントを掲載しました。

「ファン、関係者の皆さまへ突然のご報告になりますが、漫画家・鳥山明は2024年3月1日、急性硬膜下血腫により永眠しました。68歳でした。熱心に取り掛かっていた仕事もたくさんあり、まだまだ成し遂げたいこともあったはずで、残念でなりません。ただ、故人は漫画家としていくつもの作品を世に残して参りました。多くの世界中の方々に支持していただき、45年以上にわたる創作活動を続けることができました。これからも鳥山明唯一無二の作品世界が、末長く皆様に愛され続けることを切に願います。生前のご厚誼に深く感謝し、ここに謹んでお知らせいたします」

2代目アシスタント まつやまたかしさん「お手伝いできて光栄」
鳥山明さんの2代目のアシスタントを務めたイラストレーターのまつやまたかしさんは、コメントを発表しました。

「二代目アシスタントをさせていただいたのは40年も前の話なのですが、偉大な漫画家さんのお手伝いをさせていただき光栄でした。クルマ、バイク、映画、模型制作が共通の趣味で気に入っていただき楽しい時間を過ごした事を思いだします。とにかく絵が上手くてリスペクトしていましたし、側で描かれるのを見れた事も貴重な体験です。先生は、あれほどの大ブレイクのせいで人生を楽しめてるのかなと思う事もありました。もっといろんな事を一緒に楽しみたいとこの3月に約束もしていましたが、まさかの急なお別れとなりました。どうか、安らかにおやすみください」

※コメントは原文ママ

東映アニメーション「誠に残念」
『ドラゴンボール』などのアニメを手がけている東映アニメーションは、公式ホームページに「鳥山先生のご逝去に際して」とするコメントを掲載しました。

「誠に残念でなりません。謹んでお悔やみ申し上げます。弊社には『Dr.スランプ アラレちゃん』や『ドラゴンボール』シリーズなどの名作に携わった、鳥山先生を尊敬するスタッフがたくさんおり、製作に関してもご指導いただき、誠に感謝しております。

世界中に愛される先生の作品をアニメ化することができ、大変光栄でございました。ご冥福をお祈り申し上げます」

地元・愛知県清須市では
地元の愛知県清須市では、関係者から悲しみの声が聞かれました。鳥山明さんは出身地・清須市の依頼を受けて、来年迎える市制20周年記念のロゴマークを書き下ろし、2024年1月にそのデザインがお披露目されたばかりでした。

ロゴマークは、清洲城ゆかりの織田信長を思わせる武将が鳥山さんらしいポップな画風で描かれていて、市では今後の周年事業のポスターなどで活用することにしています。

清須市の永田純夫市長は「なんとかデザインをお願いできないかと打診したところ、快く引き受けていただきました。先生の思いこもったロゴを大切に使いたいです。世代を超えて、全世界で愛された先生で、地元で活動を続けていたことにも敬意を表します。ご冥福をお祈りします」と話していました。

また、鳥山さんはメディアに登場することが少ないことで知られていましたが、6年前には清須市立図書館が発行する「図書館だより」のインタビューに応じ、話題となりました。

インタビューの中ではおなじみのマスク姿のイラストで登場し「清須市は『Dr.スランプ』に登場するペンギン村のモデルなのでは?」という質問に、「残念ながらモデルなんて存在しません。あんな変な村、あるわけないですもんね」と答え、「今でも楽しんでくれる子供達がいるというのは本当に幸せです。ありがとう!」とメッセージを語っていました。

清須市立図書館の竹内麻衣さんは「発行したあとの反響によって、先生の偉大さを痛感しました。清須市ゆかりの作家さんとしてこれからも作品を管理して、みなさんに長く愛していただけるようにしたいです」と話していました。

韓国紙「漫画界の大スターが逝去した」
韓国メディアは、漫画家の鳥山明さんが亡くなったことを、功績とともに速報で伝えています。

このうち、有力紙の「中央日報」は「漫画界の大スターが逝去した」という見出しで、訃報を伝えているほか、通信社の「連合ニュース」は、代表作の「DRAGON BALL」がアニメ化・ゲーム化されるなど世界中で注目を浴びたと報じています。

さらに、大手紙の「朝鮮日報」も「DRAGON BALL」が誕生した経緯などに触れながら、「世界で最も商業的に成功したアーティストの1人だ」と功績をたたえています。

中国メディアも速報 「ウェイボー」のトレンドにも
漫画家の鳥山明さんが死去したことについて、中国メディアも速報で伝えました。

このうち、国営の中国中央テレビはニュースサイト上で日本のメディアを引用する形で「『DRAGON BALL』や『Dr.スランプ』などの名作を生み出した鳥山明氏が病気で亡くなった」と伝えました。

また、ネットメディアの「澎湃」は「鳥山明氏は世界中で絶大な人気を誇る名作漫画の作者だ。幅広い年齢層の読者に愛され、その後の多くの漫画家などに影響を与えた」などと伝えています。

中国のSNS「ウェイボー」上では、速報が伝えられたあとの現地時間の午前11時半ごろ、鳥山氏の死去がトレンドのランキングのトップとなり、その死を悼む投稿が相次いでいます。

この中には「『DRAGON BALL』は私が日本や日本語に興味を持つきっかけとなりました。小学生の時、42巻すべてをそろえて背表紙を並べた感動の瞬間は一生忘れられません。さようなら。安らかに」といった投稿や「『DRAGON BALL』や『Dr.スランプ』は不朽の名作で決して人に貸すことができない私の本棚の宝物です」といった投稿もみられました。

中国外務省 報道官「中国でも大人気」
中国外務省の毛寧報道官は8日の記者会見で、哀悼の意を表したうえで「鳥山さんの作品は中国でもとても人気があり、多くのネットユーザーが死を悼んでいる」と述べました。

また毛報道官は「中日両国の文化交流と友好事業に積極的に貢献する有識者が、日本でさらに増えることを期待し、信じている」とも述べました。

台湾 驚きや悲しみの声
日本のアニメのファンが多い台湾では驚きや悲しみの声が聞かれました。

日本のキャラクターグッズを扱う店が並ぶ台北の地下街を訪れていた20代の女性は「すばらしい漫画家が亡くなってとても驚いたと友だちと話していたところです。天国でも漫画を書き続けてほしいです」と話していました。

「DRAGON BALL」のキャラクターグッズなどを扱っている店の30代の男性店長は「台湾にはドラゴンボールのファンがとても多くいます。亡くなったことを知ってショックでした。あまりにも突然で、とてもつらいです」と話していました。

タイでも「ドラゴンボールは生きる力」
東南アジアのタイでも悼む声が相次いでいます。

このうち、タイの首都バンコクで日本食レストランを経営するナムプング・ベックさん(47)は、子どものころから鳥山さんの代表作ドラゴンボールが好きだったということで、店内にはキャラクターの人形やポスターが飾られています。

ナムプング・ベックさんは、主人公のキャラクターのタトゥーを腕に入れるほどのファンで「鳥山さんが亡くなりとても残念です。ドラゴンボールは私に生きる力を与えてくれた。これからもずっと愛し続けていきたい」と話していました。

また、日本の漫画をタイ語に翻訳しているポンサコーン・シリカムナードさん(33)は5歳のころからドラゴンボールに親しんでいるということで、直接日本語で楽しみたいと、日本語を独学で学んだということです。

また9年前にはSNSにドラゴンボールのファンクラブのページを立ち上げいまでは16万人のフォロワーがいるといいます。

ポンサコーン・シリカムナードさんは「ドラゴンボールはタイでも国民的な漫画で、ストーリーとキャラクターはオンリーワンです。私は人生をドラゴンボールとともに歩んできたので悲しいですが、鳥山さんの作品は心の中にずっと残り、これからも続いていくと信じたい」と話していました。

欧米メディア「日本を代表する漫画家の1人だった」
アメリカやイギリスなど欧米メディアも相次いで伝えています。

このうちアメリカの有力紙ニューヨーク・タイムズは鳥山さんについて「日本を代表する漫画家の1人だった」としたうえで、「鳥山氏の作品は日本の国境を大きく越え、何世代もの漫画家に影響を与えた」と伝え、漫画やゲームなどを通じて世界中のファンを魅了してきた鳥山さんの功績をたたえました。

また、イギリスの公共放送BBCはインターネット上に配信した記事で「孫悟空が訓練を重ねてヒーローへと成長していく旅路に、多くのファンは、もがきながら成長する自分自身の姿を重ね合わせることができた」として、鳥山さんが描いたキャラクターは多くのファンにとって青春の一部になっていたと伝えています。

ニューヨークでも悲しみの声
世界中から多くの観光客が集まるアメリカ・ニューヨークのタイムズスクエアでも悲しむ声が聞かれました。

フィリピンから訪れていた40歳の男性は「鳥山さんが亡くなったと聞いて本当に驚き、悲しいです。小学生の時からいまも『DRAGON BALL』を見ています。主人公の悟空は、90年代に子どもだった私たちの世代にとって、伝説であり、ヒーローです」と懐かしんでいました。

コロラド州から訪れていた29歳の男性は「ベジータも好きでしたが悟空が一番好きですね。悟空のいつも陽気で、おっちょこちょいで面白いところが好きで、『DRAGON BALL』シリーズのすべてが好きでした。鳥山さんには安らかにお眠りくださいと言いたいです」と話していました。

また子ども時代をフランスで過ごしたという男性は「小さいとき『DRAGON BALL』の漫画をたくさん読んで、悟空みたいになりたいと思っていました。鳥山さんが亡くなったことをニュースで知りましたが、まだ気持ちに整理がつきません。もう一度、彼の漫画を読み返すと思います」と話していました。

仏マクロン大統領 鳥山さんサイン入り色紙を投稿
世界中から多くの観光客が集まるアメリカ・ニューヨークのタイムズスクエアでも悲 フランスのマクロン大統領は3月8日、「マクロン大統領へ」と書かれた鳥山さんから贈られたサイン入り色紙の写真をSNSに投稿しました。

また、日本語とフランス語で「鳥山明と何百万もの彼の愛好家へ」というメッセージも添えられています。

フランスのアタル首相も、世界中に散らばる玉を7つ集めると、願いを叶える竜が登場するという『ドラゴンボール』の物語に合わせ、「玉や竜の力でも彼を連れ戻すことはできないだろう。彼は間違いなく、フランスにマンガと日本文化をもたらした」とSNSに書き込み、鳥山さんの功績をたたえました。

在日フランス大使館「漫画の最高峰に到達した人物」
在日フランス大使館がSNSに追悼のコメントを掲載しました。

このなかで鳥山さんについて「漫画の最高峰に到達した人物であり、鳥山氏の創造性にあふれた作風、物語の展開の妙、そして比類なきデザインの芸術により、フランスにおける『漫画』芸術の普及に大きく貢献した」と強調しました。

鳥山さんは、2013年にフランスで開かれるヨーロッパ最大規模の国際漫画祭「アングレーム国際コミックフェスティバル」で特別賞を受賞したほか、2019年にはフランス政府から芸術文化勲章の「シュバリエ」を授与されるなど高く評価されてきました。

フランス大使館は鳥山さんのこれまでの受賞歴に触れたうえで「ご家族、近親者のかたがた、フランス、そして鳥山先生の作品を愛する世界のすべてのファンの皆さんと、悲しみを分かち合います」と述べ、哀悼の意を表しました。

ブラジル副大統領「本当にありがとう」
南米・ブラジルでは、アルキミン副大統領がみずからのSNS上に「仲間との友情や誠実さの価値を多くの世代に示しました。鳥山明さん、本当にありがとうございました」と投稿し、追悼していました。

アルキミン副大統領は、これまでにもみずからのSNS上に、ドラゴンボールのキャラクターを登場させて、ブラジル政府の政策をアピールしたり、日本企業によるブラジルへの巨額投資に感謝の意を表明したりして、ブラジル国内で話題を集めていました。

「アニメ功労部門」受賞 本人のコメントの最後は
東京・池袋で3月8日から始まった「東京アニメアワードフェスティバル2024」ではアニメ業界に大きく貢献した「アニメ功労部門」の2024年の受賞者の1人に鳥山明さんが選ばれました。

会場には鳥山さんのコミックやイラストの展示スペースが設けられ、功績を記したパネルには「唯一無二の魅力を誇るキャラクタードラマに世界が熱狂」「歴史的作品を生み出してきた原作漫画家」などと紹介されています。

受賞にあたって鳥山さんが寄せたコメントも公開されていて、2024年世界展開が予定されているドラゴンボールの新作アニメについて「全体のストーリーだけでなく、世界観、キャラデザインやメカなどもいろいろ描いています。激しいアクションだけじゃなく盛りだくさんな内容になっていると思いますので、楽しんで観ていただければ幸いです」としています。

鳥山さんのコメントの最後はこう結ばれていました。

「若い頃の生活のせいか健康にいまいち自信のない僕があとどれだけできるかはわかりませんが、より面白い作品作りを頑張って目指してみますので、これからもどうぞよろしくお願いします!」

(2024年3月9日時点)

TARAKO(63)アニメ「ちびまる子ちゃん」で主人公の声演じる

>TARAKO(63)

人気アニメ「ちびまる子ちゃん」で主人公、まる子の声を34年にわたって演じ、幅広い世代に親しまれてきた声優のTARAKO(たらこ)さんが3月4日、病気のため亡くなりました。63歳でした。

TARAKOさんは群馬県出身で、1980年代のはじめから声優として活動をはじめ、数々のテレビアニメや映画に出演しました。

このうち、アニメ「ちびまる子ちゃん」では、1990年の放送開始から、主人公の小学生、「まる子」の声を34年にわたって演じました。

TARAKOさんの個性的な声とユニークなせりふ回しは明るく、家族や友達思いの「まる子」のキャラクターを印象づけ、幅広い世代から人気を集めました。

テレビ番組のナレーターとしても活躍し、NHKの「ニッポンぶらり鉄道旅」では愛らしいナレーションで旅の魅力を伝えるなど、数多くの番組で親しまれました。

また、30年ほど前に声優の仲間らとともに劇団を立ち上げ、2023年12月にはみずから脚本と演出を手がける公演を行うなど、最近まで精力的に活動していました。

関係者によりますと、TARAKOさんは2024年に入ってから体調を崩し、療養しながら仕事を続けていましたが、容体が急変し、3月4日の未明に亡くなったということです。

「まる子」家族や友人役の声優たちのコメント
「ちびまる子ちゃん」の公式サイトなどには、TARAKOさんが演じた「まる子」の家族や友人役の声優たちと番組のスタッフが追悼のコメントを寄せています。

お父さん役の屋良有作さん
「タラちゃん、突然のお別れに言葉が見つからず、ただ茫然とするばかりです。つい最近まで、毎週収録の度、スタジオでお会いしていたのに。長い間、どんな状況の時にも番組の座長として、気丈で優しく、そしてしなやかに、私達を牽引して下さいましたね。もう、あなたの明るくお茶目なあの笑顔に出会うことは出来なくなりましたが、いつまでも私達の心の内に、いくつもの思い出と共に残り続けます。タラちゃん、今まで本当にたくさんありがとう!どうか安らかにおやすみ下さい」

お母さん役の一龍斎貞友さん
「唯一無二の存在が旅立ってしまいました。いつも誰にも気を配る心遣いの達人だったタラちゃん。この喪失感を埋めるすべを見つけられません」

おじいちゃん役の島田敏さん
おじいちゃん役の島田敏さんは、まる子の祖父、友蔵が劇中でよく詠んでいる俳句の形でコメントを寄せました。

「胸つまる『何だい?まる子』言えなくて 友蔵 タラちゃんに捧ぐ心の俳句」

おばあちゃん役の佐々木優子さん
おばあちゃん役の佐々木優子さんは、劇中の設定である祖母の立場での思いも明かしています。

「明るくて、楽しくて、人にも動物にも、命あるすべてに愛をふりそそぐ人でした。でも、こんなに急に、突然、婆さんより先に逝ってしまうなんて...そこだけは親不孝者だよ、まる子や...」

お姉ちゃん役の豊嶋真千子さん
「大好きなTARAKOさん、突然のお別れとなりまだ信じられない気持ちでいっぱいです。アフレコの時、あったかい笑顔で「楽しいね~」と言っていたあの優しい声に励まされてやってきました。話したいことや、一緒にやりたいことが沢山ありました。「お姉ちゃん」として「まる子」と過ごした時間はまだ思い出には出来そうにありません。『さよなら』の代わりにTARAKOさんの好きだった言葉を。『ありがとう、またね~!』」

まる子の友人 たまちゃん役の渡辺菜生子さん
「TARAKOさんとは、番組のまるちゃんとたまえのように、より近く心を通わせて、公私共に過ごさせて頂きました。共有した大切な時間は、私の中で、今でもきらきら輝いています。心より感謝しています。ご冥福をお祈りいたします」

番組スタッフ「ちびまる子ちゃん そのものでした」
「放送開始から34年間、まる子を演じていただいたTARAKOさんは、『ちびまる子ちゃん』そのものでした。TARAKOさんは、収録現場でも常に周りを思いやり、温かく、明るく元気に場を和ませてくださる方で、”ちびまる子ちゃん”の天真爛漫で、家族や友達から愛される姿、そのものでした」

「最後まで病棟でも収録をしたいと意欲的で、大きな愛情をもって『ちびまる子ちゃん』に向き合ってくださいました」

「急な訃報に驚きを隠せませんが、TARAKOさんが演じてくださった”ちびまる子ちゃん”をこれからも温かく、大切に描き続けていきたいと思います。TARAKOさん、長い間、本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします」

さくらプロダクション「動くまる子 作り上げて下さった」
「アニメ「ちびまる子ちゃん」で、「まる子」を演じ続けて下さったTARAKOさまご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。さくらももこと声が似ていることがご縁でした。放送開始から34年間に渡りTARAKOさまは、ぐうたらでおっちょこちょい、粋を好み、家族やお友達が大好きな「動くまる子」を、その豊かな表現で作り上げて下さいました。TARAKOさん、長い間、本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします」

声優 柳沢三千代さん「友達なのに母のような存在だった」
TARAKOさんは声優業のかたわら、1996年に声優仲間らとともに「WAKUプロデュース」という劇団を立ち上げ、脚本と演出を担当してきました。

この劇団に4年前まで所属し、20年以上にわたって活動を共にしてきた声優の柳沢三千代さんは、「先月、闘病していると聞いてからあっという間にこの日が来てしまいました。まだ夢の中にいるようです。皆の幸せや、飼っている動物のことばかり考えている人でした。自分のことは後回しで、たくさんのものを生み育てて周りの人の良さを引き出してくれる、友達なのに母のような存在でした」とTARAKOさんの人柄をしのびました。

そして、劇団での活動について「声優として注目されがちですが脚本と演出を務めた舞台が40作品以上はあると思います。ふだんから『ちびまる子ちゃん』の声と雰囲気のままでおっとりとした人ですが、演出家としては頭の回転が速く、音楽センスもよくて尊敬していました。命がけで心のこもった作品を作り続けていました」と話していました。

(2024年3月9日時点)

寺田農(81)テレビや舞台で活躍、声優としても

>寺田農(81)

長年、テレビや舞台などで活躍し、高い演技力で知られた俳優の寺田農(てらだ・みのり)さんが3月14日、肺がんのため亡くなりました。81歳でした。

寺田さんは東京都の出身で、文学座付属の演劇研究所に第一期生として入所し、1961年に舞台でデビューしました。

そして、1968年には、岡本喜八監督の映画「肉弾」で主演し、毎日映画コンクールなどで高い評価を集めました。

高い演技力で活動の場はテレビにも広がり、時代劇をはじめとする数多くのドラマでは悪役としても存在感のある役柄を演じました。

NHKでは、「風と雲と虹と」や「独眼竜政宗」など、数多くの大河ドラマにも出演しています。

また、1986年の宮崎駿監督のアニメ映画「天空の城ラピュタ」では、ムスカ役を演じ、声優としても活躍しました。

所属事務所のホームページによりますと、寺田さんは、3月14日、肺がんのため亡くなったということです。

ホームページでは「最後まで仕事を続けながら、諦めることなく希望を持って、治療に励んでまいりましたが、桜の開花を待たずして帰らぬ人となりました。これまで応援して下さったファンの皆様、多くの作品でお世話になりました関係者の皆様の生前のご厚誼に深謝いたしますとともに謹んでお知らせ申し上げます」と報告しています。

(2024年3月23日時点)

鈴木健二(95)「クイズ面白ゼミナール」などの司会で親しまれる

>鈴木健二(95)

NHKの元アナウンサーで、「歴史への招待」や「クイズ面白ゼミナール」など数々の番組の司会で知られた鈴木健二(すずき・けんじ)さんが、3月29日に老衰のため亡くなりました。95歳でした。

鈴木健二さんは、1929年に東京で生まれ、東北大学の文学部を卒業したあと、1952年にアナウンサーとしてNHKに入局しました。

数々の番組で司会を務め、「歴史への招待」では“鈴木講談”とも言われた、よどみない解説が人気を集めたほか、「クイズ面白ゼミナール」では、幅広い知識を生かしながら、柔らかい笑顔とユーモアたっぷりの語り口で番組を進行し、国民的なアナウンサーとしてお茶の間に親しまれました。

また、年末の紅白歌合戦では、白組の司会を3回務め、このうち1984年の紅白では、歌手を引退するとして大トリを務めた都はるみさんに、鈴木さんが「私に1分間時間をください」と語りかけ、アンコールを求めた場面が長く語り継がれました。

アナウンサーとしての経験を生かして、こまやかな心遣いの大切さを記した著作「気くばりのすすめ」は、ベストセラーになったほか、NHKを退職後は、熊本県立劇場や青森県立図書館の館長も務めました。

遺族によりますと、近年はNHK時代の初任地でもある熊本市で過ごしていましたが、3月29日に福岡市の病院で、老衰のため95歳で亡くなりました。

(2024年4月3日時点)

ピーター・ヒッグス(94)ノーベル物理学賞受賞 「ヒッグス粒子」の存在を予言

>ピーター・ヒッグス(94)

すべての物質に質量を与える「ヒッグス粒子」の存在を予言し、ノーベル物理学賞を受賞した、イギリスのエディンバラ大学のピーター・ヒッグス名誉教授が亡くなりました。94歳でした。

ヒッグス氏は1929年にイングランド北東部で生まれ、ロンドン大学キングスカレッジに進学して物理学を専攻し、1954年に博士号を取得したあと、エディンバラ大学などさまざまな大学で研究を続けました。

ヒッグス氏は、1964年にすべての物質に質量を与える「ヒッグス粒子」の存在を予言しました。

半世紀近くたった2012年、日本を含めた国際的な研究グループが巨大な加速器を使った実験でヒッグス粒子を発見し、2013年、ヒッグス氏はフランソワ・アングレール氏とともにノーベル物理学賞を受賞しました。

ヒッグス氏が名誉教授を務めていたエディンバラ大学によりますと、4月8日、自宅で94歳で亡くなったということで、声明では「彼の先駆的な研究は、何千人もの科学者の意欲をかき立て、その功績は今後、何世代にもわたって多くの科学者を鼓舞し続けるだろう」としています。

(2024年4月10日時点)

曙太郎(54)外国出身力士で史上初の横綱

>曙太郎(54)

大相撲で、外国出身力士として史上初めて横綱となった、元曙の曙太郎(あけぼの・たろう)さんが亡くなりました。54歳でした。

元横綱・曙の曙太郎さんは、ハワイ・オアフ島出身。若乃花、貴乃花と同じ昭和63年の春場所で初土俵を踏みました。

身長2メートル3センチ、体重200キロを超える体格と長い腕を生かした突き押し相撲で活躍しました。

そして、大関として臨んだ平成4年の九州場所と続く平成5年の初場所で連続優勝して、外国出身力士としては初めての横綱に昇進し、平成13年の初場所後に引退するまで11回の優勝を果たしました。

引退後は、東関部屋の部屋付きの親方として後進の指導にあたっていましたが平成15年に日本相撲協会を退職し、その後、プロレスなどほかの格闘技に舞台を移して活動しました。

日本相撲協会によりますと、4月上旬、都内の病院で心不全のため、亡くなったということです。54歳でした。

(※しこ名は者の上に点)

外国出身横綱の先駆けとして活躍
元横綱 曙の曙太郎さんは、ハワイ・オアフ島出身の54歳。昭和63年春場所で初土俵を踏み、兄弟で横綱になった若乃花や貴乃花など同期入門のライバルたちとともに「花のロクサン組」として土俵を沸かせました。

身長2メートル余り、体重200キロを超える体格と長い腕を生かした突き押し相撲で番付をあげ、平成4年の夏場所後に大関に昇進しました。

そして、その年の九州場所から2場所続けて優勝して第64代横綱に昇進しました。

外国出身力士の横綱昇進は史上初めてで、その後の武蔵丸や朝青龍、白鵬などの外国出身横綱の先駆けとして活躍し史上10位となる11回の優勝を果たしました。

また、平成10年の長野オリンピックでは開会式で力強い横綱土俵入りを披露し話題となりました。

平成13年の初場所後に引退したあとは東関部屋の部屋付きの親方として後進の指導にあたっていましたが、平成15年に日本相撲協会を退職しました。

そして、この年の大みそかに格闘技の「K―1」に参戦し、当時、人気の絶頂にあったボブ・サップ選手と対戦し、大きな話題を集めました。その後も格闘技やプロレスなどの大会に出場し、みずからプロレス団体を立ち上げるなど精力的に活動してきました。

若貴兄弟と何度も名勝負
元横綱 曙の曙太郎さんは大相撲の現役時代、兄弟で横綱に昇進した若乃花と貴乃花の「若貴兄弟」としのぎを削ってきました。

曙さんと若貴兄弟は昭和63年の春場所で初土俵を踏んだ同期生で、曙さんは平成5年の初場所後に横綱に昇進したあと、横綱を目指す兄弟の大きな壁となってきました。

横綱3場所目となった平成5年の名古屋場所千秋楽で、曙さんは、当時の大関 貴ノ花、関脇 若ノ花と13勝2敗で並び、ともえ戦で優勝を争いました。

最初に2連勝した力士が優勝となる方式で、曙さんは最初の一番で若ノ花を押し倒すと、貴ノ花も寄り倒して2連勝し、兄弟の直接対決に持ち込ませず横綱として初めての優勝を果たしました。

その後も兄弟と何度も名勝負を繰り広げ、平成6年の九州場所千秋楽では、29連勝中だった貴乃花に50秒近い熱戦の末に敗れ、貴乃花は2場所連続優勝を飾り場所後に横綱に昇進しました。

優勝決定戦を除いた若貴兄弟との対戦成績は、若乃花とは18勝17敗、貴乃花とは21勝21敗ときっ抗していて、この時代の大相撲を3人で盛り上げてきました。

【参考】
▽わかのはな

・若ノ花:平成5年5月~平成6年9月(=平成6年の秋場所まで)
・若乃花:平成6年11月~(=平成6年の九州場所から)

▽たかのはな
・貴ノ花:平成5年3月~平成6年9月(=平成6年の秋場所まで)
・貴乃花:平成6年11月~(=平成6年の九州場所から)

元横綱 貴乃花の貴乃花光司さん「安らかに」
元横綱・貴乃花の貴乃花光司さんは同じ時期に角界入りした曙太郎さんが亡くなったことについて所属事務所を通じてコメントを出し「数々の闘いの思い出がありますが、相撲教習所に半年間通った頃の稽古の思い出が出てきます。ハワイから来日し、日本の文化を感じて幾多の苦労があったかと思います」と振り返りました。

そして「ハワイ巡業の際には地元ご家族も来ており、穏和な挨拶を交わしたことは新しい記憶のように思い出しています。百折不撓の人生観だったと思いますが、これからは身を楽にして安らかに」としています。

元横綱 若乃花の花田虎上さん「ただただ寂しい」
曙太郎さんが亡くなったことについて、同じ時期に角界入りした元横綱 若乃花の花田虎上さんは「曙の訃報に際し」というタイトルでみずからのブログを更新し「ライバルであり友であり、苦楽をともにした仲間が旅立ちました。現在、曙の訃報に際し、コメントを求められていますが、あまりのショックにお話できるような状態ではありませんので申し訳ありませんが文章にします。突然のことに送り出す言葉が全く見つかりません」と心境をつづっています。

そして「お互い協会から離れて頑張ってきたけれど、離れていてもいつも心にいました。切磋琢磨してライバルとして戦ってきた分、愛情が深く、言葉では言い表せないものがあります。また会いたい気持ちが強く、年を取ったらハワイの木の下で同期生みんなで会おうと曙と話していた、その約束も果たせず、ただただ寂しいです」とコメントしました。

そして、最後に「ゆっくり待ってて。ハワイの木の下でまた会おうね。会いに行くね」と締めくくっています。

元小結 高見盛の東関親方「ことばにできない」
元小結 高見盛の東関親方は現役時代に付け人を務めたこともある曙さんの訃報について「体調が悪いとは聞いていたが、なんと言っていいか、ことばにできない」と静かに話しました。
そして「自分が入門した時には横綱としていて、大きな存在だった。伝えたいのは感謝のことばだ。強さも厳しさもあった人だった」と振り返りました。

出羽海親方「優しい力士だった」
元幕内 小城乃花の出羽海親方は「同年代で相撲を取っていて稽古もしたことがあります。横綱でしたが、私に対しても気遣いをしてくれる優しい力士でした。こんなに早く亡くなるとは思わず、びっくりしていますが、心よりご冥福をお祈りします」と述べました。
また曙さんとの取組の思い出について「足が長くて腰の位置が高く、ボンと突かれたら体が届かなかった。本当にポン、ポンと突っ張られて、いっぺんに持って行かれ、相撲にならなかったのを覚えています」と振り返っていました。

元プロレスラー 武藤敬司さん「ゆっくりと休んで」
元プロレスラーの武藤敬司さんはみずからのSNSを更新し「大相撲からプロレス界へ、真摯に向き合う姿勢にプロレスLOVEを感じた人でした。俺の引退前に今一度闘いたかった思いもありましたが叶いませんでした。横綱、ゆっくりと休んでください。心よりご冥福をお祈り致します」と曙さんへの思いをつづりました。

ハワイのメディアも功績たたえる
出身地ハワイのメディアも相次いで速報しました。

このうち「スター・アドバタイザー」は「ハワイ生まれの相撲チャンピオン曙さん死去」という見出しで、「外国出身者として初めて横綱になり、相撲の歴史を塗り替えた」と功績をたたえました。

また「ハワイ・ニュース・ナウ」は「スターの地位にありながら、謙虚で、自分のルーツに忠実であり続けた」と振り返っています。

ハワイ州のグリーン知事は旧ツイッターのXに「決意と懸命さがあれば夢は実現できるという希望をハワイの数え切れないほどの若者に与えた。ハワイと日本のチャンピオンとして大使の役割を果たし、そのレガシーは残るだろう」と投稿しました。

(2024年4月11日時点)

O・J・シンプソン(76)アメフトの元スター選手 事件でも関心集める

>O・J・シンプソン(76)

アメリカンフットボールの往年のスター、O・J・シンプソンさんが4月10日、がんのため亡くなりました。76歳でした。

O・J・シンプソンさんは1947年、アメリカ・サンフランシスコで生まれ、大学在学中から全米で注目されるアメリカンフットボールの選手として活躍しました。

1970年代を中心に、NFL=アメリカプロフットボールリーグでも数々の記録を残し、引退後は知名度を生かして、映画に出演するなど、俳優としても活動していました。

こうした活躍の一方で、1990年代、シンプソンさんは前の妻とその知人のあわせて2人を殺害したとして起訴されましたが、その後、無罪となり、人種問題も背景にアメリカ国内外で大きな関心が寄せられました。

シンプソンさん本人のSNSには家族からの投稿として、シンプソンさんががんとの闘病の末、子どもや孫に囲まれて4月10日、亡くなったと明らかにされています。76歳でした。

(2024年4月12日時点)

宗田理(95)子どもの目線で社会のゆがみを見つめる

>宗田理(95)

小説「ぼくらの七日間戦争」のシリーズで知られる作家の宗田理(そうだ・おさむ)さんが、4月8日、名古屋市の病院で肺炎のため亡くなりました。95歳でした。

宗田さんは東京で生まれ、大学を卒業後、映画の脚本や雑誌の編集を経て、1979年に発表した「未知海域」が直木賞の候補となり、作家としてデビューしました。

1985年には子どもたちが力を合わせて大人たちと戦う小説「ぼくらの七日間戦争」がベストセラーとなり、宮沢りえさんの主演で映画化されたことでも話題となりました。

子どもの目線で社会のゆがみを見つめる作風が人気を集め、「ぼくらの七日間戦争」に始まる“ぼくら”シリーズはおよそ40年で50作余りが書かれ、累計で2000万部を超えるベストセラーとなりました。

5年前の2019年には「ぼくらの七日間戦争」がアニメーション映画にもなったほか、3月には“ぼくら”シリーズの新作が発表されたばかりで、宗田さんは90代になっても精力的に執筆活動を続けていました。

遺族によりますと、宗田さんは、4月4日、かぜで入院したあと体調が急変し、8日、名古屋市の病院で肺炎のため95歳で亡くなりました。

“ぼくら”シリーズ刊行のKADOKAWAがコメント
宗田理さんが亡くなったことを受けて、“ぼくら”シリーズを刊行してきたKADOKAWAは、「突然のことに、編集部一同深い悲しみに暮れています。1979年のデビューからずっと、90歳を過ぎてからもなお新作を精力的に執筆されました。45年間の作家生活のなかで常に子どもたちを応援する姿勢を変えず、またご自身の体験から、戦争への反対を表明してこられました。穏やかで明るいお人柄と、優しい笑顔が偲ばれます。宗田理さんの長きにわたる作家活動に最大の敬意と感謝を表しますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします」などとするコメントを発表しました。

(2024年4月16日時点)

笠谷幸生(80)1972年札幌五輪 スキージャンプ金 「日の丸飛行隊」のひとり

>笠谷幸生(80)

1972年の札幌オリンピックのスキージャンプで日本選手が表彰台を独占した「日の丸飛行隊」のひとりで、金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが4月23日に札幌市内の病院で亡くなりました。80歳でした。

笠谷さんはスキージャンプの選手として1972年の札幌オリンピックでは自国開催の重圧をはねのけて海外の強豪を相手に金メダルを獲得しました。

冬のオリンピックで日本勢初めての金メダル獲得という偉業で、銀メダルの金野昭次さん、銅メダルの青地清二さんとともに日本選手が表彰台を独占したその姿は「日の丸飛行隊」として語り継がれ、海外でも称賛されました。

現役引退後は指導者として活躍し、1978年から全日本スキー連盟のジャンプコーチに就任するなど後進の育成に力を尽くしました。

さらに、国際スキー連盟の国際審判員として冬のオリンピックで審判も務めるなど指導者、競技団体の役員としても長年にわたって日本のスポーツ界の発展に貢献し2018年には文化功労者に選ばれました。

全日本スキー連盟は4月26日、笠谷さんが亡くなったと発表し、連盟の勝木紀昭会長は「札幌オリンピックでの金メダル獲得は日本のスキー界に大きな影響を与え現在の日本のジャンプ選手の快進撃の幕開けだったと思う。選手時代の活躍と指導者として多くの優秀な選手を育成した功績は日本スキー界の宝だ」とコメントしています。

関係者によりますと、笠谷さんは4月23日に札幌市内の病院で亡くなったということです。

80歳でした。

原田雅彦さん「力強く励ましてくれたこと 今でも忘れません」
笠谷さんが亡くなったことを受けて、長野オリンピックのスキージャンプ団体で金メダルを獲得した原田雅彦さんはコメントを発表しました。

原田さんは「突然の訃報で悲しい思いでいっぱいです。笠谷さんは、札幌オリンピックの金メダリストとして憧れの選手でしたが、指導者となられてから大変お世話になりました。常に寄り添い、たくさんの事を教えていただき、私が途方に暮れた時も、力強く励ましてくれたことを今でも忘れません。そのおかげで自信を持ち、ジャンプ選手として成長できたと思っています」と感謝の思いをつづりました。

そのうえで「全日本スキー連盟やJOC理事などの時も、オリンピックのたびにジャンプを助けていただき、長野では世界一へと導いてくれました。本当にありがとうございました。心から感謝し、尊敬しています」とコメントしています。

葛西紀明選手「子どものころから憧れの存在」
札幌オリンピックが行われた1972年に生まれた、スキージャンプの※葛西紀明選手は、「私が生まれた年の札幌オリンピックで金メダルに輝かれた笠谷さんは、子どものころから憧れの存在だった。日本のスキージャンプ界を代表する偉大な方の訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします」というコメントを発表しました。

※正しい漢字は、「葛」の「日」の下が「匂」

JOC 三屋副会長「多くの選手の活躍の礎を築いてくれた」
笠谷さんの訃報を受けて、JOC=日本オリンピック委員会は、会長の職務を代行している三屋裕子副会長のコメントを発表しました。

三屋副会長は、笠谷さんの功績に触れたうえで、「笠谷さんの姿は、札幌冬季オリンピックの象徴として今でも語り継がれるだけでなく、引退後は指導者、競技団体役員として後進の育成に取り組み、今につながる多くの選手の活躍の礎を築いてくれました。心からお悔やみを申し上げますとともに、安らかな眠りにつかれますよう、お祈り申し上げます」などとしています。

(2024年4月26日時点)

桂由美(94)日本のブライダルファッションの先駆け

>桂由美(94)

日本のブライダルファッションの先駆けで、世界的に知られたデザイナーの桂由美(かつら・ゆみ)さんが4月26日に亡くなりました。94歳でした。

桂由美さんは東京生まれで、大学卒業後にフランスに留学し、デザインや縫製の技術を学びました。

公式ホームページによりますと、1965年に東京 赤坂に日本で初めてのブライダル専門店をオープンし日本初のブライダルショーも開催しました。

当時は、一般的ではなかったウエディングドレスを浸透させ、女性のシルエットを美しく引き出すドレスで日本の結婚式のスタイルにも強い影響を与えてきました。

また、1980年代からはニューヨークやパリなど世界の30以上の都市でショーを開いて活動の場を広げ、日本を代表するファッションデザイナーとしての地位を築きました。

1993年には当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ二世が復活祭のミサで着ていた祭服をデザインしたことでも知られています。

桂さんは、3月に東京で最新作およそ70点を発表するファッションショーを開催するなど精力的に活動していましたが、4月26日に94歳で亡くなりました。

約60年 第一線で活躍
桂由美さんは、およそ60年にわたり、ブライダルファッション界の第一線で活躍しました。

事務所によりますと、東京で生まれた桂さんは大学卒業後にフランス・パリに留学したあと母親が経営する洋裁学校の教師を務めるかたわら、およそ20か国を訪問し、海外のブライダルの現状を視察しました。

日本人女性に似合うウエディングドレスを作りたいとの思いで、1965年には、日本では和装での結婚式が主流だった時代に東京 赤坂に日本で初めての西洋風のブライダル専門店をオープンさせました。

同じ年には日本で初めてのブライダルショーも開き、1968年にはブライダルの専門書を刊行、当時の日本人になじみのなかった「ブライダル」ということばを広く浸透させました。

その後、世界にも活動の幅を広げ、特に1981年にアメリカ・ニューヨークでのブライダルショーで発表した「ユミライン」と呼ばれる、着物の「お引きずり」からヒントを得て誕生した長いすそのドレスは、アメリカで評判となり、日本でも大ヒットしました。

その一方で、日本人の和装離れを心配した桂さんは着付け時間の短縮となるツーピース式の着物を開発したり、「打掛」(うちかけ)を大幅に軽量化したりするなど新たなスタイルを提案して和装の改革にも力を入れました。

2010年には全米ブライダルコンサルタント協会から、世界で4人のみに与えられた称号の「名誉協会員」をアジア人として初めて受賞したほか、2019年には文化活動で優れた功績のあった人に贈られる「文化庁長官表彰」を受賞しました。

2022年4月には、自身のブランドのウエディングドレスを長年製造している縫製工場がある福井県若狭町に、桂さんがデザインしたドレスを展示するミュージアムがオープンし、桂さんは「結婚への憧れを持ってもらえるような場所になってほしいです」と話していました。

假屋崎省吾さん「アイデアが枯渇せずあふれて出てくる天才」
亡くなった桂由美さんと親交があった華道家の假屋崎省吾さんは「桂先生とは30年弱、ご一緒させてもらっている美の開拓者としての同志でした。桂先生は、アイデアが枯渇せずあふれて出てくる天才で、思いついたら人をどんどん巻き込んでいく行動力もあって実業家としても大きな才能を持っていたと思います。桂先生から刺激を受けてきたので、本当にショックです。いないと思うと涙が出て心にぽっかり穴が空いたような気持ちです。なにしろ仕事仕事という方だったので、少しゆっくり休んでくださいと声をかけたいです」と話していました。

キャシー中島さん「デザインに絶対に妥協しない」
桂由美さんと家族ぐるみで親交があった、キルト作家でタレントのキャシー中島さんは「桂先生のドレスは体型に関係なく美しいラインを出してくれるすばらしいもので、私の結婚式のドレスだけでなくことし2月には結婚45周年のドレスも作ってもらいました。その際、デザインに絶対に妥協しない姿を見てウエディングの仕事をまだまだ続けると確信していましたし、すごく元気だったので、さびしいです。たくさんの愛情をいただき感謝しかありません」と悼んでいました。

また、キャシー中島さんの夫で俳優の勝野洋さんは「先生のドレスを着ると妻は一段と美しく見えました。パワフルでチャーミングな方でした」と振り返っていました。

桂さんデザインのドレスメーカー「大切な存在」
桂由美さんが亡くなったことについて、桂さんがデザインしたドレスをつくっている福井県若狭町では、関係者から悼む声があがっています。

若狭町には、桂さんがデザインしたドレスをつくる国内で唯一のメーカーの工場や、ドレスを展示する施設があり、桂さんは2023年7月にも工場を訪れていたということです。

このドレスメーカーによりますと、4月30日は、東京で新作のデザインをチェックしてもらう予定があったというです。

ドレスメーカーの中村みゆきシニアマネージャーは、「突然の知らせに驚いています。なくてはならない大切な存在でした。桂先生の嫌いだった悲しむということはせずに、これからも多くの人に憧れを持ってもらうようなドレスをつくっていこうと思います」と話していました。

共立女子大 堀学長コメント「謹んで哀悼の意」
桂由美さんの母校、共立女子大学の堀啓二学長は「客員教授を務め、『桂由美給付奨学金』を通して本学の教育活動を支えていただきました。ご生前に賜りました本学への多大なご貢献に深く感謝いたしますとともに、謹んで哀悼の意を表し、安らかな眠りにつかれますよう心からお祈り申し上げます」とコメントしています。

(2024年4月30日時点)

星野富弘(78)手足の自由を失い、口に筆をくわえて創作活動

事故で手足の自由を失い、口に筆をくわえて絵画や詩の創作活動を続けていた群馬県出身の星野富弘(ほしの・とみひろ)さんが、4月28日、呼吸不全のため亡くなりました。78歳でした。

星野富弘さんは1946年(昭和21年)、現在の群馬県みどり市、旧東村で生まれました。

群馬大学を卒業後、中学校の教員だった20代の時、部活動の指導中の事故で手足の自由を失いました。

入院中に口に筆をくわえて文字や絵を書き始めたのをきっかけに創作活動をスタートさせ、一つの作品の中に絵と詩が盛り込まれた「詩画」と呼ばれる作品を生み出してきました。

作品をまとめた「花の詩画展」は全国各地で開かれて話題となり、その後、ニューヨークやサンフランシスコなどでも作品展が開かれました。

また、みどり市にある「富弘美術館」は開館からことしで33年目を迎え、これまでの入館者は700万人を超えています。

「富弘美術館」によりますと、星野さんは1年ほど前まで創作活動を続けていたということですが、4月28日、呼吸不全のため、みどり市内の病院で亡くなりました。

78歳でした。

富弘美術館 聖生館長「優しさや強さが自然と作品に反映」
星野富弘さんが亡くなったことについて、「富弘美術館」の館長で星野さんと幼なじみだという聖生清重さんはNHKの取材に対し、「長いつきあいで、自分が館長になってからは富弘さんと美術館のことが頭のほとんどを占めていた。落ち着いたら頭が空っぽになってしまいそうだ」と話していました。

また、星野さんのこれまでの歩みや作品については「事故で手足が不自由になって絶望に突き落とされても、創作活動で生きる希望をつかんでいた。彼が持つ優しさや強さが自然と作品に反映されて、見た人が共感したり励まされたりして生きる力をもらったと思う」と評価していました。

そのうえで聖生さんは「『よく頑張ったな』と声をかけてあげたい」と話していました。

(2024年4月30日時点)

フジコ・ヘミング(92)「奇蹟のカンパネラ」クラシック界で異例の大ヒット

さまざまな困難に遭いながらも挑戦を続ける姿が反響を呼び、ファーストアルバム、『奇蹟のカンパネラ』がクラシック界では異例の大ヒットとなった、ピアニストのフジコ・ヘミングさんが4月21日亡くなりました。92歳でした。

フジコ・ヘミングさんはスウェーデン人の父と日本人の母との間に生まれ、ピアノ教師の母の手ほどきで5歳からピアノを始めました。

早くから才能を見せ、17歳でピアニストとしてデビュー、東京芸術大学を卒業後は28歳でドイツに留学し、ヨーロッパを拠点に活動しました。

しかし、自身のキャリアをかけた重要な演奏会の直前にかぜをこじらせ、一時、耳が全く聞こえなくなるなど、ピアニストとして不遇の時代を過ごしました。

フジコさんの波乱に富んだ人生と再起にかける日々を追った25年前(1999年)のNHKのドキュメンタリーが大きな反響を呼び、同じ年に出したファーストアルバム『奇蹟のカンパネラ』は200万枚以上を売り上げ、クラシック界では異例の大ヒット。60代の遅咲きのピアニストとして「フジコブーム」が起きました。

フジコさんは、リストとショパンの演奏で高く評価され、世界の著名なオーケストラと共演するなど各地でコンサートを開き、90歳を過ぎても精力的に演奏活動を続けていました。

逆境に負けず強く生き抜いてきた姿と、温かい人柄がにじみ出る豊かな演奏は長年、多くの人々を魅了してきました。

フジコ・ヘミング財団によりますと、フジコさんは2023年11月に自宅で転倒してけがをしたあと、2024年3月にはすい臓がんと診断され療養していましたが、4月21日に92歳で亡くなりました。

『奇蹟のカンパネラ』200万枚を超える
クラシック界にフジコブームを巻き起こしたフジコ・ヘミングさん。

広く世に知られたのは1999年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」がきっかけでした。

当時、無名だったフジコさんの波乱に富んだ人生とピアニストとして再起にかける日々を追ったこの番組は大きな反響を呼び、放送後、NHKには「もう一度フジコさんのピアノを聴きたい」といった手紙や電話が1000件以上寄せられました。

この番組は何度も再放送され、続編も作られました。

フジコ・ヘミングさんの歩み
自身の演奏について「少し間違ってもかまわない。機械じゃあるまいし」とおおらかに語ったフジコさん。その生き方は多くの人の心を捉えました。

スウェーデン人の父と日本人の母のもとにドイツで生まれたフジコさん。家族で日本に帰国し、ピアノ教師の母の指導の下、5歳からピアノを学び始めました。

しかし、父は戦争が始まる直前にスウェーデンに帰国し、母親とともに苦しい生活を送ります。

それでも早くから才能を開花させ、東京芸術大学を卒業後にドイツへの留学を目指しますが、スウェーデンにも日本にも国籍はないとされてパスポートが取得できず、「避難民」としてドイツに渡ったときには、すでに28歳とピアニストとしては出遅れていました。

それでも、現地のベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業し、世界的指揮者のバーンスタインにも注目されるなど頭角を現しました。

しかし、自身のキャリアをかけた大事な演奏会の直前にかぜをこじらせて聴力を失い、栄光をつかみ損ねたフジコさんは次第に音楽界から忘れ去られました。

失意の中、ストックホルムに移住し耳の治療をするかたわら、ヨーロッパ各地で演奏活動を続けていました。

その後、母の死をきっかけに30年ほど続けた海外生活に終止符を打ち、日本に帰国したフジコさんはNHKの番組で大きな注目を浴び、60代の遅咲きのピアニストとして改めて評価されました。

中でもリストとショパンの演奏は高い評価を受けていて、特にリストの「ラ・カンパネラ」は複雑かつ超絶的な技巧で知られる難曲ですが、「自分のカンパネラが一番気に入っている」と語るフジコさんの演奏は迫力に満ちていました。

さらにショパンの「ノクターン」は、郷愁を帯びたゆったりとした演奏で評判を呼びました。

ピアニストとしての活動の一方で、保護猫を多数引き取るなど動物愛護の活動を実践したり、東日本大震災の際にはチャリティーコンサートを開いたりして社会活動にも積極的で、優しく温かい人柄で知られました。

2023年11月にけが 治療とリハビリに励む
財団によりますとフジコさんは2023年11月にけがをして以降、一日も早く復帰してピアノを弾きたいという強い意志を持って治療とリハビリに励んでいて、病室でピアノを弾いたこともあったということです。

そして、2024年3月に予定していたニューヨーク・カーネギーホールでの公演や日本での公演を楽しみにしていたということです。

フジコさんの財団は「奇蹟の『カンパネラ』を再び弾ける日が来ることをフジコ・ヘミング本人ともども切に祈っておりましたが、もう叶えることはできません。しかし、これから先も、フジコ・ヘミングの魂の演奏の思い出が皆さまの心の中で奏で続けられることを願っております」とするコメントを発表しました。

ドキュメンタリー映画制作 小松監督「約束通り作品創る」
フジコ・ヘミングさんを2020年から4年にわたって撮影し、2024年10月に公開予定のドキュメンタリー映画を制作している映画監督の小松※荘一良さんは、自身のSNSでフジコさんと共に写った写真とともに、追悼のコメントを寄せました。

この作品では、フジコさんが少女のころに経験した戦争の時代から、コロナ禍に見舞われた現代まで、いつも音楽に向き合い続けてきた姿を記録したとしています。

小松さんは「“人生とは時間をかけて自分を愛する旅”。フジコ・ヘミングさんが新たな旅に出かけてしまいました。きっと今頃は、犬や猫たち、ご家族とともに天国で安らかな時間を過ごしていることでしょう」とコメントしています。

そして「どんな苦しい時代にも、明日を夢見ていたフジコさん。あなたが心配していたように、未来は決して楽しいことだけではなさそうですが、次の時代の希望となるように、僕は約束通り作品を創っていきますね。たくさんの時間をありがとうございました」と結んでいます。

※荘は「壮」の左が「爿」。

美輪明宏さん「子どもみたいな純粋な魂を持った人」
フジコ・ヘミングさんが亡くなったことについて、テレビ番組で対談したことがある歌手で俳優の美輪明宏さんは「フジコさんのピアノはほかの方とは音が違っていて、20世紀初頭の『アール・ヌーボー』の様式を感じました。招待していただいた自宅にも部屋のカーテンなどにアールヌーボーの美的感覚がちりばめられていて、徹底して自分の好きな世界で生きていることがピアノの音にも出ていたのだと思います。子どもみたいな純粋な魂を持った人で、世間的な駆け引きとか世渡りは蹴っ飛ばして、それとは関係なく生きている感じでした。あの世に聴衆やファンもたくさんいると思うので、思う存分ご活躍下さい」と話し、フジコさんを悼んでいました。

(2024年5月2日時点)

唐十郎(84)「紅テント」で公演 アングラ演劇の旗手

>唐十郎(84)

「紅(あか)テント」の公演でアンダーグラウンド演劇の旗手として絶大な人気を誇り、数多くの独創的な舞台を作り上げた、劇作家で演出家、俳優の唐十郎(から・じゅうろう)さんが、5月4日夜、都内の病院で急性硬膜下血腫のため亡くなりました。84歳でした。

唐十郎さんは東京都の出身で、明治大学文学部演劇学科に入学、在学中から俳優として活動し、卒業後「状況劇場」を旗揚げ、1967年には東京 新宿の花園神社で「紅テント」を張って公演を行うなど、アンダーグラウンド演劇の旗手として絶大な人気を誇りました。

状況劇場の解散後、1989年には劇団「唐組」を結成、唐さんは劇作家、演出家、俳優としてテント公演を精力的に行い、数々の独創的な作品の上演を続けてきました。

2003年には、長崎の諌早湾の干拓問題から着想した「泥人魚」で、多数の戯曲賞や演劇賞を受賞しました。

小説家としては、1983年に「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞しています。

唐さんは2021年、現代演劇をはじめとする文化芸術に多大な影響を与えたとして文化功労者に選ばれています。

遺族などによりますと、唐さんは、5月1日に自宅で転倒して、都内の病院に緊急搬送され、5月4日夜、急性硬膜下血腫のため亡くなったということです。

84歳でした。

長男の大鶴義丹さん「最後まで演劇人だった」
唐十郎さんの長男で俳優の大鶴義丹さんが取材に応じ、父への思いを語りました。

大鶴さんは「きのうは舞台の初日だったので父を看取ることはできませんでした。何があっても舞台を貫徹しないといけないということを死をもって教えてくれた父は、最後まで演劇人だったと思います」と語りました。

そして「子どもだった私にも『三度の飯を食べるように芝居を作り続けたい』とよく言っていて、いつも楽しそうに舞台に飛び込んでいくのが印象的な、とにかく芝居が好きな人でした。演じきれないくらいの数の戯曲を残してくれたので、皆で演じていかないといけないと思っています」と話していました。

妻の美和子さん「テントで行う公演でお別れを」
唐十郎さんの妻の美和子さんは「亡くなってから一日もたっていないので、葬儀の予定は未定ですが、近親者のみで行えたらと思っています。きょうはテントで行う劇団公演の初日です。戯曲のことばを聞いて、お別れしていただけるとありがたいです。それが唐十郎の本望だと思います」と話していました。

(2024年5月5日時点)

小山内美江子(94)脚本家「翔ぶが如く」「3年B組金八先生」

>小山内美江子(94)

NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」や民放の人気ドラマ「3年B組金八先生」などの脚本を手がけた小山内美江子(おさない・みえこ)さんが亡くなりました。94歳でした。

小山内美江子さんは1930年に横浜市で生まれ、20代で映画業界に入ったのち、1962年のNHKのドラマで脚本家としてデビューし、テレビドラマの脚本を数多く手がけました。

なかでも、原作・脚本を手がけた民放のドラマ「3年B組金八先生」は、1979年の放送開始から30年以上にわたって続く人気シリーズとなりました。

中学校を舞台にしたドラマでは、いじめや中学生の妊娠、性同一性障害など、時代を反映したテーマを取り入れ、武田鉄矢さんが演じる「金八先生」が生徒へ語りかける熱くやさしいせりふとともに幅広い世代で支持されました。

またNHKでは、連続テレビ小説で漫画「サザエさん」の作者、長谷川町子さんの姉を主人公にした「マー姉ちゃん」、大河ドラマで「徳川家康」と「翔ぶが如く」で脚本を手がけました。

脚本家として活動する一方、60歳の時にヨルダンで湾岸戦争の難民救援活動を行ったことをきっかけに海外でのボランティア活動を本格的に始めました。

1993年には自身が代表を務めるNPO法人を立ち上げ、カンボジアなどの国々で学校を建設する活動を長年続け、国際協力活動を続けました。

NPO法人の発表によりますと、小山内さんは5月2日に老衰のため亡くなったということです。94歳でした。

(2024年5月10日時点)

キダ・タロー(93)「浪花のモーツァルト」CMソングなど親しみやすい音楽手がける

「浪花のモーツァルト」の愛称で親しまれた作曲家のキダ・タローさんが5月14日亡くなりました。93歳でした。

キダ・タローさんは兵庫県宝塚市出身で、高校時代に音楽バンドを結成したあと大学を中退し、その後、ピアニストや作曲家として活動しました。

NHKの番組「バラエティー生活笑百科」のテーマソングや北原謙二さんの「ふるさとのはなしをしよう」といった歌謡曲のほか、かに料理店やインスタントラーメンのCMソングなど親しみやすい音楽も数多く手がけました。

テレビやラジオの番組にも多く出演し、民放のバラエティー番組、「探偵!ナイトスクープ」では「浪花のモーツァルト」という愛称で親しまれ、関西を中心に幅広く活動していました。

所属事務所のホームページによりますと、5月14日亡くなったということです。93歳でした。

所属事務所は「お世話になった関係者の皆様、応援してくださったファンの皆様に心より感謝お礼申し上げます。これからもキダ・タロー先生の作品が皆様に愛され続けることを切に願います」とコメントしています。

音楽の授業で校歌の作曲者 キダさんを紹介
大阪 吹田市の山田東中学校では38年前(1986年)に開校した際、キダ・タローさんに校歌を作曲してもらいました。

毎年、1年生の音楽の授業で、校歌の作曲者がキダさんであることが紹介され、キダさんが手がけた有名なCMの曲のメドレーを聞くのが恒例となっています。

音楽教諭の秋山律子さんは「生徒たちは校歌を作ったのがキダさんだと聞くと、有名な人が作ったんだととても喜びます。卒業しても校歌の作曲家がキダさんだということをずっと忘れないと思います」と話していました。

開校30年を記念して2015年に開かれた式典はキダさんも出席して行われたということで、当時の冊子にはキダさんのメッセージも寄せられています。

キダさんは山田東中学校の卒業生から声をかけられたことがあったとしたうえで「『あの曲は大事にして貰てんねんなあ、ありがたいこっちゃ』と感激してます」とつづっていました。

山口廣治校長は「子どもたちにとっても親しみやすい校歌で、キダさんには感謝の気持ちでいっぱいです。キダさんの訃報はとても残念ですが、これからも子どもたちと校歌を大事にして歌い継いでいきます」と話していました。

大阪 四條畷市 防災無線などで毎日正午に
大阪 四條畷市では、34年前(1990)に市制が施行してから20年となるのを記念して作られた市の歌「いま ここに」の作曲を担当しました。

市によりますと、市民からの公募で選ばれた歌詞にキダさんが曲をつけたということで、このときのいきさつについて4年前(2020)に市がインタビューした動画には四條畷市のことが大好きだと語るキダさんの姿が残されています。

市内ではこの歌が防災無線などで毎日、正午に流れていて、市役所では5月16日も昼になると親しみやすいキダさんのメロディーが響いていました。

市の職員は「昼の時間を知らせるおなじみのメロディーです」とか、「訃報を知り、いつもより少しだけ悲しく聞こえましたがこれからも聞き続けたいです」と話していました。

四條畷市企画広報課の鈴木信一課長は「思わず口ずさんでしまうメロディーで、浪花のモーツァルトであるキダさんに作ってもらったことを誇りに思っています。これからも市の歌として大切にしていきたいです」と話していました。

「たくさんの曲をありがとう」フレーズ口ずさむ
大阪 枚方市の60代の男性は、思い出すキダさんの曲として「と~れとれ、ぴ~ちぴち」と『かに道楽』のCMソングを歌った上で、「受験生の頃にラジオを聴いて眠たいところでファイトが出ました。もっと長生きしてほしかったけれど、たくさんの曲を後世に残してくれてありがとうと言いたいです」と話していました。

兵庫県姫路市の60代の夫婦は「『プロポーズ大作戦』をよく見ていました。『探偵!ナイトスクープ』もおもしろかったです。気さくなお話に親近感を持っていました」と話していました。

兵庫県宝塚市で教員として勤務したことがある60代の男性は「キダさんは宝塚出身なので子ども時代の話を聞いてみたかったです。偉大な人が亡くなったと思います。ご冥福をお祈りします」と話していました。

また愛媛県から道頓堀を訪れていた60代の女性は「あ~らよっ、出前一丁~」とキダさんが手がけたCMのフレーズを口ずさんだ上で、「偉大な人が亡くなり日本の損失です。とても優しそうな方で、またおもしろい曲を聴けるかなと思っていました」と話していました。

(2024年5月16日時点)

中尾彬(81)渋い声と貫禄ある演技で映画やドラマで活躍

貫禄ある演技で映画やテレビドラマで活躍し、バラエティー番組でも人気を集めた俳優の中尾彬(なかお・あきら)さんが、5月16日に心不全のため亡くなりました。81歳でした。

中尾さんは千葉県木更津市の出身で、武蔵野美術大学在学中に日活ニューフェイスに合格し、俳優の道を歩み始めました。

渋い声と貫禄のある演技で、個性派俳優として活躍し、映画では、1993年以降、平成の「ゴジラ」シリーズに出演したほか、「極道の妻たち」や「アウトレイジビヨンド」など話題作に出演しました。

NHKでは大河ドラマの「秀吉」や「龍馬伝」をはじめ、「ハゲタカ」など数々のドラマに出演しました。

こわもてで悪役のイメージがある一方、マフラーをねじって首に巻く個性的なファッションでバラエティー番組に出演しユニークな発言でご意見番として人気を集めました。

また、妻は俳優の池波志乃さんで、おしどり夫婦としてさまざまな番組に2人で出演し親しまれました。

所属事務所などによりますと中尾さんは、2024年に入り足腰が悪く体力も落ちていたということです。

それでも、時々、仕事をしたり、旅行に向けたリハビリに取り組んだりしていたということですが、5月15日に容体が急変し、翌5月16日に心不全のため自宅で亡くなったということです。81歳でした。

妻の池波志乃さん「中尾彬らしいね~と笑って送ってあげて」
中尾さんの妻の池波志乃さんは「今年に入って足腰が悪く体力も落ちて、医師の訪問を受けながら、本人の意思により、自宅でゆっくり休んでおりました。時には取材や、足腰をかばっての仕事もやらせていただき、本人は元気で12月の旅行に向けて、頑張ってリハビリをしていたくらいでしたが、15日に容態が急変し、16日の夜中に自宅で私と二人の時に、とても穏やかに本当に眠るように息を引き取りました。あまりに急で、変わらない顔で逝ってしまったので、まだ志乃~と呼ばれそうな気がします。叶いますならば、中尾彬らしいね~と笑って送ってあげてくだされば幸いです」などとコメントを発表しました。

高橋英樹さん「まだ!早いぜ!!寂しくて涙もでないよ。」
中尾さんと親交のあった俳優の高橋英樹さんは、自身のブログを更新し、「日活の入社も同期 奥さん同士とも共演しあって心は近い存在でした。この頃テレビで観ないなあと思っていましたらこの突然の訃報です。長く長く付き合いたかったなあ!逝ってしまうのはまだ!早いぜ!!寂しくて涙もでないよ。心よりご冥福をお祈りいたします。」などとつづっています。

GACKTさん「お茶目な人だった」
映画で中尾さんと共演した、ミュージシャンで俳優のGACKTさんは旧ツイッターのXに「最後に共演したのが翔んで埼玉だった。あれから会えずじまい。現場で会うとギロっと睨み、そしてニコッと微笑むお茶目な人だった。本当に素敵な人が亡くなったことに心が痛む。ご冥福をお祈りします。ゆっくり休んでください、中尾さん。」とコメントしています。

出身地 千葉 木更津市のPRに協力も
中尾彬さんは千葉県木更津市で高校時代までを過ごし、最近まで地域のPRに協力するなどの貢献を続けてきました。

中尾さんは7年前に市の依頼を受けて「木更津PR大使」に就任し、メディアに出演するなどして地域の魅力を発信を続けました。

2023年には、市が導入している市内限定の電子地域通貨「アクアコイン」のPRにも協力しました。

決済を行った際の効果音に中尾さんが「いいねぇ、木更津」などと話す声が2024年初めまで期間限定で使われたほか、「YouTube」で市が公開したPR動画に出演し、「アクアコインを使って木更津を盛り上げましょう!」と呼びかけました。

また、2023年11月には、40年ほど前から中尾さん自身が描いたり集めたりしてきた版画の一種「リトグラフ」や水彩画など合わせて38点を市に寄贈しました。

寄贈にあたって中尾さんは、「終活をしているため、木更津市の人に見てもらったほうがいいと思った」などと話していたということで、その後市内で、「中尾彬コレクション」と題して寄贈を受けた作品の展示会が開かれました。

JR木更津駅前では悼む声
亡くなった中尾彬さんの出身地である千葉県のJR木更津駅前では、地元の人たちから悼む声が聞かれました。

木更津市内に住む80代の女性は「びっくりしました。まさかという気持ちです。地元の日本料理店の看板の字を書くなど、絵も字も上手で優しい方でした」と話していました。

中尾さんと地域の会合で会ったことがあるという60代の女性は、「ドラマでは怖い役が多かったですが、とても優しい方でした。惜しい人が亡くなったと感じます」と振り返りました。

市内に住む60代の女性は「日本中に木更津の名前を広めてくれていたので、テレビで見るときはいつも注目していました。ずっとお元気だと思っていたのに、寂しくて残念です」と話していました。

また、隣の君津市に住む60代の男性は、「このあたりでは知らない人はいない、スーパースターです。本当に残念です」と話していました。

沖縄に深い愛着「美ら島沖縄大使」にも
中尾彬さんは沖縄県内でラジオ番組に出演するなど、沖縄に深い愛着を持っていたことで知られています。

2008年には沖縄県から沖縄の魅力を県内外に発信する「美ら島沖縄大使」に任命され、活動していました。

(2024年5月22日時点)

今くるよ(76)「どやさ」 女性漫才師のパイオニア

>今くるよ(76)

漫才コンビ「今いくよ・くるよ」で一世をふうびし「どやさ」と叫ぶギャグで知られる今くるよ(いま・くるよ)さんがすい臓がんのため、5月27日、大阪市内の病院で亡くなりました。76歳でした。

今くるよさんは京都市出身で、昭和45年に漫才師の今喜多代さんに弟子入りし、その後、高校の同級生で同じソフトボール部だった今いくよさんと漫才コンビ「今いくよ・くるよ」を結成しました。

いくよさんとの軽妙なかけあいが人気を集めたほか、くるよさんがおなかをたたきながら「どやさ」と叫ぶ体をはったギャグで一世をふうびしました。

2人は昭和59年の上方漫才大賞の大賞をはじめ数々の賞を受賞したほか、女性の漫才師のパイオニアとしてテレビやラジオ、舞台などで長年にわたり活躍しました。

近年は相方のいくよさんが9年前に亡くなったあとは1人で活動していた時期もありましたが、2022年4月に大阪での公演に出演したのが最後の舞台となり、すい臓がんのため、5月27日、大阪市内の病院で亡くなりました。

76歳でした。

親交のあった人たちは
今くるよさんが亡くなったことについて、親交のあった人たちがコメントを出しています。

漫才師の西川きよしさんは、「女性漫才師として『漫才ブーム』を牽引されていたことが強く印象に残っております。舞台では、クリスマスツリーをほうふつとするくらい常に華やかな衣装を身にまとい舞台に出るだけでも周りの雰囲気が明るくなり子どもからお年寄りまで多くの方々に愛されていました。番組で忙しい時でも、収録終わりによく食事にご一緒しましたが、食べっぷり、飲みっぷり、払いっぷりの良い最高のお二人でした。とても楽しかったことを懐かしく思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます」としています。

漫才コンビ「ザ・ぼんち」のぼんちおさむさんは、「今くるよさん、逝ってしもたか。どんどんさみしくなるな。相方のいくよさんが亡くなってひとりになっても気丈に頑張ってはりましたね。まわりの人にも気配りする人で、本当に残念です。また、相方のいくよさんとあったら『どやさ』と言いながら漫才してくださいね。漫才ブームを一緒に走り抜けた戦友です。ありがとうございました。お疲れ様でした」としています。

相方の里見まさとさんは、「1980年代の漫才ブーム、共に闘った仲間がまた1人逝かれました。お二人には、大変お世話になっており、多くのことを学ばせて頂きました。短くまとめた言葉が見つかりません。本当に短くでは感謝や思いは語り尽くせません。今はただ、ご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

めおと漫才のコンビ、「宮川大助・花子」の宮川大助さんは、「漫才のことで、頭いっぱいになっていた僕に『あんたの相方は、お母さんでもあって、奥さんでもあるんやから、子どもを学校にいかして、家事もして、そこから漫才に切り替えてる事はめっちゃくちゃ大変なこと!あんたのこの世で1番の宝物なんやで!!』と何度も教えて頂きました。ありがとうございました」と感謝の気持ちをつづり、宮川花子さんは、「なんでも、いくよねーさん!くるよねーさん!と頼ってましたし、わたしたち夫婦にとって本当のお姉さんでした。1番お礼をお伝えしないといけない師匠です。ゆっくりおやすみください」とコメントを出しています。

大阪の街の人は
今くるよさんが亡くなったことについて、大阪 梅田で街の人に話を聞きました。

大阪 吹田市の73歳の女性は「最近、姿を見かけなかったので心配していました。まだ、それほど有名になる前に梅田の地下街でばったりお会いした思い出があります。同世代ですし、くるよさんと同じように私もソフトボールをやっていたので、亡くなったのはショックです」と話していました。

大阪 淀川区の58歳の男性は「派手な衣装が印象に残っています。一つの時代が終わった感じがして残念です」と話していました。

仕事帰りだという神戸市の58歳の男性は「ニュースで見て驚きました。『どやさ』とおなかをたたく姿が印象に残っています。最近は、よく知っている人で亡くなる方が多くて残念です」と話していました。

大阪 淀川区の61歳の女性は「小さい頃に家に帰ってテレビをつけるといつも出演していた姿を覚えていますし、明るくて、元気をくれるイメージがあります。また1人、昭和のすてきな芸人さんが亡くなってしまい残念です。また次の世代の方も頑張ってほしいです」と話していました。

(2024年5月28日時点)

増山江威子(89)ルパン三世 「峰不二子」の声などで人気博す

>増山江威子(89)

人気アニメ「ルパン三世」の「峰不二子」役や、「キューティーハニー」の「如月ハニー」役をつとめた声優の増山江威子(ますやま・えいこ)さんが5月20日、肺炎のため亡くなりました。

増山さんは東京出身で、1960年代から声優として活動を始め、1973年から放送されたテレビアニメ「キューティーハニー」では主人公の「如月ハニー」の声を演じ、人気を博しました。

また、アニメ「ルパン三世」では主人公を翻弄する謎の美女「峰不二子」役を1977年から30年余りにわたって演じたほか、「天才バカボン」のママや「パーマン」のパー子など、数々のアニメに出演し人気声優として長年にわたり活躍しました。

事務所によりますと、増山さんは最近、病気で療養していたということですが、5月20日肺炎のため89歳で亡くなったということです。

栗田貫一さん「憧れの不二子ちゃんでした」
増山江威子さんが亡くなったことを受けて、アニメでルパン三世の役を長年演じている栗田貫一さんは「まさに紅一点、私にとっていつもエレガントで憧れの不二子ちゃんでした。増山さんや皆さんの思いを、これからもルパンに引き継ぎ精進してまいります。ありがとうございました。ご冥福をお祈りしています」と追悼のコメントを発表しました。

(2024年6月3日時点)

遠藤章(90)血中コレステロール下げる「スタチン」発見

>増遠藤章(90)

血液中のコレステロールを下げる物質「スタチン」を発見し、一時は「世界で最も売れた薬」ともいわれた動脈硬化の薬の開発につなげた東京農工大学 特別栄誉教授の遠藤章(えんどう・あきら)さんが6月5日に亡くなりました。90歳でした。

遠藤さんは1933年に秋田県に生まれ、東北大学農学部を卒業した後、製薬会社勤務を経て、東京農工大学農学部の教授などを務めました。

製薬会社に在籍していた1970年代初めごろから動脈硬化の原因となる血液中のコレステロールを下げる薬の開発に取り組み、1973年に青カビが作り出す「スタチン」という物質が体内でコレステロールが合成されるのを抑え、血液中の値を大きく下げることを発見しました。

発見から14年後の1987年にはアメリカで動脈硬化の薬として発売。さらに1989年には日本でも発売され、一時は「世界で最も売れた薬」と言われるまでになりました。

遠藤さんはスタチンの発見などに関する業績が評価され、2008年にアメリカの権威ある医学賞「ラスカー賞」を、2017年にはカナダの国際的な賞「ガードナー国際賞」を受賞するなど、国際的にも高く評価されたほか2011年には文化功労者に選ばれています。

関係者によりますと、遠藤さんは6月5日に都内の介護施設で90歳で亡くなったということです。

(2024年6月11日時点)

桂ざこば(76)上方落語を代表 テレビなどで幅広く活躍

上方落語を代表する落語家で、関西を中心にテレビなどで幅広く活躍した、桂ざこば(かつら・ざこば)さんが、ぜんそくのため、6月12日、大阪 吹田市の自宅で亡くなりました。76歳でした。

桂ざこばさん、本名、関口弘(ひろむ)さんは、昭和22年、大阪市に生まれ、昭和38年に15歳で、のちの人間国宝、三代目桂米朝さんに入門しました。

昭和63年に二代目「桂ざこば」を襲名し、その後も関西を中心にテレビやラジオにも出演し幅広く活動しました。

上方落語協会に所属し、理事や相談役を務めたほか、平成20年には大阪 西成区に寄席の「動楽亭」をみずから設立し、上方落語の振興に尽力しました。

平成29年には文化庁の「芸術選奨文部科学大臣賞」を受賞しています。

平成29年に脳梗塞で入院しましたが、その後復帰して、寄席や落語会を中心に活動し、ことし2月にも高座に上がっていました。

所属する米朝事務所によりますと、ぜんそくのため、6月12日、吹田市の自宅で亡くなったということです。

76歳でした。

米朝事務所は「我々スタッフにもお気遣いくださる、とても素敵な師匠でした。お世話になった関係者の皆様、応援してくださった皆様に深く感謝します」とコメントしています。

桂米團治さん「何事にも一所懸命」
ざこばさんが師事した桂米朝さんの長男で、弟弟子の桂米團治さんは「私が幼稚園に通い出した時に入門されたのが、ざこば兄さんでした。4歳の私を15歳の少年が面倒みるのですから、さぞかし大変だったことでしょう。ボール投げ、缶けり、ザリガニ捕りなど、思い出はいっぱいあります。私が噺家になってからも、私の考え方がおかしいと思われたときは容赦なく叱ってくださいました。何事にも一所懸命に振る舞われたお兄さん!お兄さんの落語に登場する人物は、どの人も『情』に溢れています。まだまだ追いつけませんが、お兄さんの教えを受け継いでまいります。本当にありがとうございました」とコメントしています。

娘の関口まいさん「急なことで心の整理できていません」
ざこばさんの娘でタレントの関口まいさんは「あまりに急なことで、心の整理はできていません。ファンの皆様と同じように、私も桂ざこばの落語の大ファンで、もうあの落語が聴けなくなるのかと思うと寂しくて仕方ありませんが、お父さんの落語はきっとお弟子さんたちが継いでいってくれることと思います。永年、桂ざこばを応援していただきまして、本当にありがとうございました」とコメントしています。

桂文枝さん「大好きな米朝師匠 枝雀師匠の元に」
落語家の桂文枝さんは「あまりにも突然でした。言葉を失いました。ざこば師匠の大好きな米朝師匠、枝雀師匠の元にいかれるんですね。いろいろとありがとうございました。そんな言葉しか思い浮かびません」とコメントしています。

西川きよしさん「“元気の象徴”というべき存在」
漫才師の西川きよしさんは、「突然の訃報、誠に残念でなりません。泣き虫で頑張り屋さんで、桂米朝師匠の弟子で本当に良かったとよくお話しされておりました。背中にデキモノができたとき、師匠が自ら軟こうを塗ってくださったと、涙を流しながら話してくださり、私ももらい泣きをし、お互いにこれからも頑張ろうな、と約束をしたことを昨日のことのように思い出します。私にとってまさに“元気の象徴”というべき存在でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

地元の人たちからは死を悼む声が
桂ざこばさんの出身地である大阪市内では、地元の人たちから死を悼む声が聞かれました。

ざこばさんが訪れたことがあるという大阪・北区の飲食店を経営する71歳の男性は、「テレビでは、怒ったり興奮したりすることが多かったと思いますが、店では静かでとても優しい人でした。落語をする中で涙を流すなど感情移入していたのが印象に残っています。残念でことばになりませんが、たくさんのお弟子さんを育てられていい仕事をされたと思います。本当にショックです」と話していました。

大阪・北区で果物店を経営する74歳の男性は「年齢が近かったのでとても驚きました。落語を見たことがありますが、最初から最後まで笑わせてくれました。話術が違います。『なにわ』の落語家として一流で、一生忘れられません」と話していました。

摂津市から訪れていた50代の女性は「テレビでよく見ていたので信じられません。寂しいです。『お笑いをありがとうございます』と声をかけたいです」と話していました。

(2024年6月12日時点)

久我美子(93)映画「また逢う日まで」で名演

>久我美子(93)

気品のある演技で、日本を代表する映画監督の作品に数多く出演した俳優の久我美子(くが・よしこ)さんが6月9日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。93歳でした。

久我さんは東京都出身で、女学校に通っていた1946年に第1期東宝ニューフェイスに合格し、その翌年、映画「四つの恋の物語」でデビューしました。

気品のある演技で木下惠介監督の「女の園」や小津安二郎監督の「彼岸花」など日本を代表する映画監督の作品に数多く出演しました。

中でも戦争に引き裂かれる男女を描いた1950年公開の「また逢う日まで」では、ガラス越しのキスシーンが日本の映画史に残る名場面として知られています。

また、自由な立場で映画を作ろうと岸惠子さんらとともに映画プロダクションの「にんじんくらぶ」を立ち上げました。

1970年代からはテレビドラマや舞台を中心に活躍し、NHKでは1986年から放送された連続テレビ小説「都の風」や1999年のドラマ「天涯の花」など多くの作品に出演しています。

所属事務所によりますと、久我さんは6月9日、誤えん性肺炎により亡くなったということです。

93歳でした。

(2024年6月14日時点)

正司照枝(91)「かしまし娘」の次女 音曲漫才で人気

三味線やギターと漫才を組み合わせた音曲漫才で人気を集めた、3姉妹の漫才トリオ「かしまし娘」の次女、正司照枝(しょうじ・てるえ)さんが7月8日、急性心臓死のため亡くなりました。91歳でした。

正司照枝さんは北海道生まれで、旅役者だった両親のもと3歳のころから舞台で経験を積んだあと、姉の歌江さん、妹の花江さんと3姉妹の漫才トリオ「かしまし娘」を結成して、1956年から本格的に活動を始めました。

三味線やギターを弾きながら「うちら陽気なかしまし娘」のテーマソングを歌う明るく賑やかな音曲漫才が人気を集め、1966年には第1回の「上方漫才大賞」を受賞しました。

照枝さんは、1981年に「かしまし娘」の活動を休止してからも、NHKの連続テレビ小説「カーネーション」で主人公の祖母役を演じるなど、俳優やタレントとして活動を続け、2018年には3人そろって舞台に立ち話題を集めました。

2024年1月に姉の歌江さんが亡くなった際には照枝さんが「※これでおしまいかしまし娘~です※穏やかな最期だったようですがいまはただ悲しい」とコメントを寄せていました。

所属事務所によりますと、照枝さんは7月8日の午後6時ごろ、急性心臓死のため自宅で亡くなったということです。

91歳でした。

2023年11月に放送されたNHKの「よみがえる新日本紀行」への出演が最後になったということです。

妹の正司花江さんは「亡くなった当日もいつもと変わらぬ様子で誰の手も煩わせることなく静かに逝きました。子どもの頃からずっと一緒に過ごした姉の死をまだ受け止めることができません。今もまだ隣にいるような気がします」とコメントを発表しています。

※は記号の八分音符です。

(2024年7月10日時点)

徳田虎雄(86)元衆議院議員 「徳洲会」グループ創設者

>徳田虎雄(86)

元衆議院議員で、全国各地で病院などを運営する医療法人「徳洲会」グループを創設した徳田虎雄(とくだ・とらお)氏が7月10日夜、入院先の神奈川県内の病院で亡くなりました。86歳でした。

徳田氏は、鹿児島県の徳之島町出身で、大阪大学医学部を卒業後、1973年から病院経営を始め、その後、医療法人「徳洲会」を創設しました。

徳田氏は医療改革を掲げて衆議院選挙に「鹿児島県旧奄美群島区」から立候補し、2度の落選を経て1990年の衆議院選挙で初当選しました。

徳田氏と当時戦った自民党の保岡興治元法務大臣との選挙戦は、選挙区を二分する激しいもので、2人の名前になぞらえて「保徳戦争」とも呼ばれました。

合わせて4回当選した徳田氏はみずからが設立に携わった「自由連合」で代表を務め、村山内閣では北海道・沖縄開発庁の政務次官を務めました。

徳田氏は2005年に政界から引退し、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病、ALS=筋萎縮性側索硬化症の療養を続けていました。

2010年には、沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設問題をめぐり、当時の鳩山総理大臣から出身地の徳之島に部隊や訓練の一部を移転したい考えを伝えられ、極めて難しいという認識を示していました。

また、2012年の衆議院選挙をめぐる「徳洲会」グループの選挙違反事件では、東京地検特捜部は、徳田氏が選挙運動全体をとりまとめる「総括主宰者」とみて捜査を進めていましたが、難病で回復の見通しも立っていないなどとして、起訴猶予になりました。

家族や関係者によりますと、徳田氏は7月10日夜、入院先の神奈川県内の病院で亡くなりました。

86歳でした。

(2024年7月11日時点)

小原乃梨子(88)ドラえもん 「のび太」の声

>小原乃梨子(88)

アニメ「ドラえもん」の「のび太」の声を長年務め、外国映画ではブリジット・バルドーなど名優の吹き替えでも知られた声優の小原乃梨子(おはら・のりこ)さんが7月12日、亡くなりました。88歳でした。

小原さんは東京都出身で、テレビの草創期から俳優としての活動を始めました。

その後、アニメの声優として活躍し、人気アニメ「ドラえもん」の「野比のび太」の声を1979年から26年にわたり務めました。

困ったことがあるとすぐにドラえもんに甘えてしまう「のび太」を高いトーンの愛らしい声で演じ、長年、親しまれました。

また、1978年にNHKで放送されたアニメ「未来少年コナン」では、素直で楽天的な少年「コナン」の役をはつらつとした声で演じました。

さらに「ヤッターマン」の悪役のドロンジョや、「アルプスの少女ハイジ」の心優しい少年、ペーターなど、幅広い役柄を持ち役としました。

さらに外国映画の吹き替えで、シャーリー・マクレーンやブリジット・バルドーなどハリウッドやフランスを代表する数々の名優の声を自在に演じ分けました。

2007年には長年の功績が評価されて第1回の「声優アワード」の功労賞を受賞しています。

所属事務所によりますと、小原さんは病気で療養していましたが、7月12日、亡くなりました。

88歳でした。

テレビ朝日「多くの子どもたちに夢と希望を届けた」
アニメ「ドラえもん」を放送しているテレビ朝日は「突然の訃報に接し、驚きと悲しみでいっぱいです。小原乃梨子さんには、1979年から2005年まで、26年もの長い間、テレビアニメ『ドラえもん』のキャラクター“野比のび太”の声優を務めていただきました。多くの子どもたちに夢と希望を届けて下さった小原さんのご冥福を心からお祈りいたします」とコメントしています。

(2024年7月23日時点)

園まり(80)「逢いたくて逢いたくて」がヒット 「三人娘」としても人気

>園まり(80)

「逢いたくて逢いたくて」などのヒット曲で知られ、「三人娘」のメンバーとしても人気を集めた歌手の園まり(その・まり)さんが7月26日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。80歳でした。

園さんは横浜市で生まれ、幼少期からモデルとして活動し、11歳のときに童謡歌手としてデビューしました。

その後、芸能事務所に入り本格的に歌手活動を始め、1962年に同じ事務所の中尾ミエさん、伊東ゆかりさんと結成した「三人娘」が人気を集めて、1963年、「NHK紅白歌合戦」に初めて出場しました。

甘くささやくような歌声が特徴で、ソロ歌手としても「逢いたくて逢いたくて」や「夢は夜ひらく」などのヒット曲を多数発表し、紅白歌合戦には「三人娘」も含めて6回出場しました。

このほか、映画やテレビドラマ、バラエティー番組にも出演するなど、幅広く活躍しました。

日本歌手協会によりますと、園さんは2008年に乳がんを発症して手術を受けましたが、5年前に再発し、治療を続けていたということです。

2023年10月に体調を崩して入院し、7月26日、急性心不全のため東京都内の病院で亡くなったということです。

80歳でした。

「三人娘」中尾ミエさんと伊東ゆかりさんが追悼
歌手の園まりさんが亡くなったことを受けて、園さんとともに「三人娘」として活躍した中尾ミエさんと伊東ゆかりさんが追悼のコメントを発表しました。

このうち中尾さんは「ついにこの時が来ました。嫌々組んだ3人娘だったけど結局これが運命だったのね。人生“終わり良ければ全て良し”というけれど、まさにあなたの最期は見事でした。身の回りを全て整理し、最後にゆかりと私で残ったアクセサリーや小物を整理し、その足で病院に行って報告をして、まりちゃんも喜んでくれました。今となっては楽しい思い出をありがとう。落ち着いたらもう少しの間、ゆかりと私を見守ってください」とコメントしています。

また、伊東さんは、「凄く寂しい。淋しい。お見舞いに行った時、コメント考えてねって…。考えられる訳ないじゃない。60年以上のお付き合いで、沢山の思い出がありすぎです。歌手仲間と言うより、心の友、親友です…。もう逢えないのね…。お疲れ様でした」とコメントしています。

(2024年8月1日時点)

渡辺秀央(90)中曽根元総理の元秘書 郵政相などを歴任

>渡辺秀央(90)

郵政大臣などを歴任した渡辺秀央(わたなべ・ひでお)氏が亡くなりました。90歳でした。

渡辺秀央氏は、新潟県に生まれ、大学卒業後、中曽根元総理大臣の秘書となり、昭和51年の衆議院選挙で旧新潟3区に自民党から立候補して初当選し、6回当選しました。

この間、中曽根内閣で官房副長官を務めたほか、平成3年に宮沢内閣で郵政大臣として初入閣しました。

その後、落選して自民党を離党し、平成10年の参議院選挙に自由党から立候補して、参議院議員に転身し、改革クラブの代表を務めたほか、新党改革の結成に参加しました。

政界を引退したあとは、ミャンマーとの関係強化に取り組むため「日本ミャンマー協会」を設立して、経済支援を後押ししました。

関係者によりますと、渡辺氏は7月末、千葉県内の病院で亡くなりました。

90歳でした。

(2024年8月7日時点)

アラン・ドロン(88)「太陽がいっぱい」などに主演 二枚目俳優として多くの人を魅了

>アラン・ドロン(88)

映画「太陽がいっぱい」などに主演し、世界的な二枚目俳優として日本でも多くの人々を魅了した、フランスの俳優、アラン・ドロンさんが死去しました。88歳でした。

1935年にパリ郊外で生まれたドロンさんは、17歳でフランス軍に従軍し、さまざまな仕事を転々としたあと世界三大映画祭の1つ、カンヌ映画祭で知られるフランス南部のカンヌを訪れた際にスカウトされ俳優になりました。

1960年に公開されたルネ・クレマン監督の映画「太陽がいっぱい」では、自分が殺害した男性になりすまして完全犯罪をたくらむ主人公を演じ、世界的なスターとなりました。

その後も60年代から70年代にかけて多くの映画で主演を務めたほか、テレビドラマや舞台でも活躍し、端正な顔だちや演技でのしぐさなどから、二枚目俳優として日本でも多くの人々を魅了しました。

ドロンさんは2017年に引退を表明し、2019年には、長年の功績が評価され、カンヌ映画祭の名誉賞を受賞しましたがその後、脳卒中で倒れ、療養生活を続けていました。

フランスのAFP通信は、8月18日、家族の話としてドロンさんは、フランス国内の自宅で家族に見守られながら息を引き取ったと伝えました。

ドロンさんの死去を受け、多くのフランスメディアが「フランス映画界のスターが死去した」などとして、これまでの長年の功績とともに、大きく伝えています。

(2024年8月18日時点)

佐々涼子(56)ノンフィクション作家「エンジェルフライト」や「エンド・オブ・ライフ」

>佐々涼子(56)

「エンジェルフライト」や「エンド・オブ・ライフ」など生と死をテーマにした作品で知られるノンフィクション作家の佐々涼子(ささ・りょうこ)さんが悪性脳腫瘍のため9月1日、亡くなりました。56歳でした。

佐々さんは神奈川県出身で早稲田大学法学部を卒業後、日本語教師を経てフリーライターとなり、生と死をテーマにした作品を発表してきました。

海外で亡くなった人を母国に送り届ける仕事を描いた「エンジェルフライト国際霊柩送還士」は2012年の開高健ノンフィクション賞を受賞したほか、米倉涼子さんの主演でドラマ化され話題となりました。

このほかにも終末期の患者の在宅医療に密着した「エンド・オブ・ライフ」や、難民の問題を描いた「ボーダー 移民と難民」などでも知られています。

佐々さんはおととし、悪性脳腫瘍と診断され、闘病生活を送りながら執筆活動を行っていましたが、9月1日夕方、神奈川県内の自宅で亡くなったということです。

56歳でした。

(2024年9月2日時点)

セルジオ・メンデス(83)ボサノバの名曲「マシュ・ケ・ナダ」が世界的にヒット

>セルジオ・メンデス(83)

ボサノバの名曲「マシュ・ケ・ナダ」の世界的なヒットで知られるブラジル出身のミュージシャン、セルジオ・メンデスさんが9月5日、アメリカのロサンゼルスで亡くなりました。83歳でした。

ブラジルのリオデジャネイロ近郊出身のセルジオ・メンデスさんは地元で音楽活動を始め、ジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンらとともにボサノバの代表的なミュージシャンとなりました。

その後アメリカに活動の場を移し1966年に発表した「マシュ・ケ・ナダ」は世界的にヒットして日本でもコマーシャルソングに起用されたほか、各国のアーティストもカバーするなど今も広く聴かれています。

また、1984年のロサンゼルスオリンピックのためにつくられた「オリンピア」は日本ではプロレスのテーマ曲として使われファンに親しまれています。

メンデスさんはグラミー賞を受賞するなど、長年にわたって精力的に活動し、家族の声明によりますと、最後の公演は2023年11月でした。

この数か月は新型コロナウイルスのいわゆる「後遺症」の影響に苦しんだとしていて、9月5日、ロサンゼルスで83歳で亡くなったということです。

(2024年9月7日時点)

高木剛(80)連合元会長

>高木剛(80)

労働組合の中央組織、連合で会長を務めた高木剛(たかぎ・つよし)氏が9月2日に亡くなりました。80歳でした。

高木氏は三重県出身で、東京大学を卒業後、当時の旭化成工業に入社し、1973年にグループ企業の労働組合の書記長に就任しました。

外務省に出向して、タイの日本大使館で一等書記官を務めたこともあります。

その後、繊維や化学、流通などの労働組合が加盟する今の「UAゼンセン」の前身「ゼンセン同盟」の会長や、連合の副会長を歴任しました。

そして2005年に連合の5代目の会長に就任し、正社員だけでなく非正規雇用の人の労働条件の向上に取り組む方針を打ち出すとともに、政治的には非自民政権の樹立の必要性を訴え、民主党への政権交代を後押ししました。

高木氏は会長を2期4年務め、2009年に退任しました。

その後は、連合の顧問や国家公安委員を務めました。

連合の事務局によりますと、高木氏は9月2日に亡くなりました。

80歳でした。

(2024年9月9日時点)

ジェームズ・アール・ジョーンズ(93)スターウォーズシリーズで「ダース・ベイダー」役の声演じる

>ジェームズ・アール・ジョーンズ(93)

世界的な人気映画「スター・ウォーズ」のシリーズで、主人公の宿敵、ダース・ベイダー役の声を演じたことなどで知られるアメリカの俳優、ジェームズ・アール・ジョーンズさんが亡くなりました。93歳でした。

ジェームズ・アール・ジョーンズさんは、アメリカ南部ミシシッピ州の生まれで、長年にわたって映画やテレビドラマ、ブロードウェイの舞台など幅広い分野で活躍してきました。

中でも、世界中に熱狂的なファンを持つ「スター・ウォーズ」のシリーズで主人公の宿敵、ダース・ベイダー役の声や「ライオン・キング」で主人公の父親「ムファサ」役の声を演じ、その特徴的な重厚感のある声で多くのファンに親しまれました。

また、「レッド・オクトーバーを追え!」や「フィールド・オブ・ドリームス」など数多くの話題作に出演し、アメリカで、優れたテレビ番組などに贈られるエミー賞や、演劇界で最高の栄誉とされるトニー賞、それに映画のアカデミー名誉賞を受賞しています。

複数のアメリカメディアによりますと、ジョーンズさんは9月9日、東部ニューヨーク州の自宅で、家族にみとられながら息を引き取ったということです。

93歳でした。

「スター・ウォーズ」シリーズでダース・ベイダーの息子であるルーク・スカイウォーカー役を演じた、俳優のマーク・ハミルさんは旧ツイッターの「X」に、「安らかに、お父さん」と投稿し、死を悼みました。

(2024年9月10日時点)

アルベルト・フジモリ(86)日系人として初のペルー大統領に 日本大使公邸人質事件で救出作戦指揮

>アルベルト・フジモリ(86)

南米のペルーで日系人として初めて大統領に就任し、1996年に日本大使公邸人質事件で救出作戦を指揮したアルベルト・フジモリ元大統領が9月11日、亡くなりました。娘のケイコ氏がSNSで明らかにしました。86歳でした。

アルベルト・フジモリ元大統領は両親が熊本県出身の日系2世で、1938年、ペルーの首都リマで生まれ、1990年に日系人として初めてペルーの大統領に就任しました。

在任中、インフレを緊縮財政で克服して経済を立て直すとともに、反政府武装グループを徹底的に取締り、治安を劇的に改善させるなど手腕を発揮し、1996年に発生した日本大使公邸人質事件では救出作戦を指揮し、大半の人質を救出しました。

その一方で、強権的な政治姿勢が国内外からの批判を浴び、2000年日本に事実上、亡命し、大統領の職を失いました。

2005年に日本を出国し、チリに入国したところで身柄を拘束され、その2年後にペルーに引き渡され、在任中に治安部隊を指揮して市民を殺害した殺人などの罪で禁錮25年の判決が確定しました。

フジモリ元大統領は2023年、ペルーの憲法裁判所の命令によって刑務所から釈放されていました。

娘のケイコ氏はSNSで9月11日に「がんとの長い闘病の末、父、アルベルト・フジモリは神のもとに旅立った」としてフジモリ元大統領が亡くなったことを明らかにしました。

86歳でした。

娘のケイコ氏 SNSにて “国立博物館で父に直接お別れを”
フジモリ元大統領の娘のケイコ氏はSNSに「父は国立博物館にあす木曜日の午前11時から土曜日の朝まで安置されます。それから墓地に移されます。父に直接お別れを告げたいと思っている皆さんをお待ちしています」と投稿しました。

ペルー大統領府がSNSに投稿「心より哀悼の意を表します」
フジモリ元大統領が亡くなったことについて、ペルーの大統領府はSNSで「フジモリ元大統領の死を遺憾に思い、遺族の深い痛みに寄り添い、心より哀悼の意を表します」と投稿しました。

林官房長官「2国間関係強化に尽力 哀悼の意を表したい」
林官房長官は記者会見で「故人とご遺族に哀悼の意を表したい。フジモリ元大統領は在任中に日本を何度も訪問されるなど、2国間関係の強化に尽力された。1996年に発生した日本大使公邸の占拠事件でテロに屈することなく人質解放に至ったことは忘れることはない。一方、在任中の人権侵害の罪で有罪判決を受け服役した事実など、評価には、さまざまなものがあると承知している」と述べました。

そのうえで「いずれにしても日本国政府としては、今後とも中南米で最も長い歴史を持つペルーとの良好な関係を発展させていきたい」と述べました。

熊本のいとこ「公邸事件で指揮 一族としても誇り」
フジモリ元大統領の両親の出身地である、熊本市西区河内町に住む元大統領のいとこの藤森不二夫さん(87)は「次期大統領として河内町に来た際、私の家にも来たことを覚えています。態度や話し方で、大統領になる資質を持っているなと感じました」と振り返りました。

また、「大使公邸の事件で指揮をとり、多くの人質を助けたことは一族としても誇りです。あれだけの人助けもしましたが、晩年は刑務所での生活もあり、きつく、残念だっただろうなという思いです」と話していました。

(2024年9月12日時点)

サルヴァトーレ・スキラッチ(59)1990年サッカーW杯で得点王 ジュビロ磐田でも活躍

>サルヴァトーレ・スキラッチ(59)

サッカーの元イタリア代表で1990年のワールドカップで得点王に輝き、Jリーグのジュビロ磐田でもプレーしたサルヴァトーレ・スキラッチさんが亡くなりました。59歳でした。

これはスキラッチさんが現役時代に所属したイタリア1部のユベントスなどが発表しました。

スキラッチさんは59歳。得点感覚に秀でた元イタリア代表のフォワードで母国開催となった1990年のワールドカップでは6得点をあげて得点王に輝きました。

1994年からは4シーズンにわたってJリーグのジュビロ磐田でプレーし、元日本代表の中山雅史さんらと強力な攻撃陣の一角を担い、リーグ戦、通算78試合の出場で56得点をマークしました。

「トト」の愛称で親しまれ、その後、黄金期を迎えるチームに大きな影響を与えただけでなく、ジュビロのレジェンドとして今も多くのサポーターに愛されています。

ユベントスはホームページで「彼の熱意はプレーするすべてのゲームに表れていた。チャオ、トト。ありがとう」とコメントしています。

中山雅史さん「相棒の早すぎる旅立ちに悔しさしかありません」
スキラッチさんとジュビロ磐田でともにプレーし、現在はJ3、アスルクラロ沼津の監督を務める中山雅史さんは「相棒の早すぎる旅立ちに悔しさしかありません。思い出は語り尽くせぬほどいろいろあります。こわもてのトトの表情に恐怖を感じていた方も多いかもしれません。ただ私にはメチャクチャ優しすぎる瞳の印象しかありません。ストライカーとしての気持ちの持ち方、ゴールに向かう姿勢はしっかりと今でも心に刻まれています。偉大なストライカーとプレーできたことは僕の財産として輝いています」とクラブを通じてコメントしています。

藤田俊哉さん「彼のプレーから多くのものを学びました」
スキラッチさんとジュビロ磐田でともにプレーし、現在はジュビロの強化担当責任者を務める藤田俊哉さんは「あまりにも早い突然の別れに驚くばかりです。ワールドカップの得点王とジュビロで一緒にプレーできたことはサッカー選手としての宝物です。彼のプレーから多くのものを学びました」とクラブを通じてコメントを発表しました。

ジュビロ磐田「今でもクラブの歴史に深く刻まれています」
サッカー、元イタリア代表のスキラッチさんが亡くなったことを受けて、1994年から4シーズン所属していたJリーグのジュビロ磐田は「クラブ一同深い悲しみに耐えません。高い技術と本能的なプレーでゴールを量産し、日本のストライカーに大きな影響を与えました。今でもジュビロのレジェンドとしてクラブの歴史に深く刻まれています。スキラッチ氏がジュビロに残してくださったものは、これからもずっと私たちの心に生き続けるでしょう」とコメントを発表しました。

(2024年9月18日時点)

荒木田裕子(70)1976年モントリオール五輪 バレーボール女子で金メダル

>荒木田裕子(70)

モントリオールオリンピックのバレーボール女子で金メダルを獲得したメンバーで、東京オリンピック・パラリンピックの招致に貢献した荒木田裕子(あらきだ・ゆうこ)さんが亡くなったことが関係者への取材でわかりました。70歳でした。

荒木田さんは、秋田県出身でバレーボール女子の日本代表として活躍し、1976年のモントリオールオリンピックでは金メダルを獲得しました。

引退後は、日本バレーボール協会で選手強化などに携わり、JOC=日本オリンピック委員会の理事も務めました。

3年前に開かれた東京オリンピック・パラリンピックの大会招致では国際競技団体との交渉役を担い、その後、大会組織委員会で理事や副会長を務めました。

関係者によりますと、荒木田さんは闘病していたということですが亡くなったということです。

70歳でした。

(2024年9月18日時点)

細江英公(91)写真集「薔薇刑」など

>細江英公(91)

世界的に活躍した写真家で、三島由紀夫をモデルとした写真集「薔薇刑」などで知られる、文化功労者の細江英公(ほそえ・えいこう)さんが、9月16日に亡くなりました。91歳でした。

山形県米沢市生まれの細江さんは、17歳の時に撮影した写真が「富士フォトコンテスト」の学生の部で最高賞を受賞したのをきっかけに写真家を志し、東京写真短期大学で専門的に写真を学びました。

1963年に発表した三島由紀夫をモデルとした写真集「薔薇刑」では、肉体をモノクロで捉えた、たん美的な世界を表現し、それまで写真表現の主流だった現実をそのまま捉えようとする「リアリズム」の流れに一石を投じ、写真家としての評価を確立しました。

また、舞踏家の土方巽をモデルに東北地方の農村の風景を幻想的な視点で切り取った、写真集「鎌鼬」で芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。

作品は海外でも高く評価され、国際的な賞も数多く受賞するなど、世界的な写真家として長年活躍を続けました。

こうした功績が評価され、2010年には文化功労者に選ばれています。

関係者によりますと、細江さんは9月16日、病気のため亡くなったということです。91歳でした。

(2024年9月25日時点)

マギー・スミス(89)イギリス代表する俳優 “ハリポタ”のマクゴナガル先生役

>マギー・スミス(89)

イギリスを代表する俳優として知られ、映画「ハリー・ポッター」シリーズで主人公ハリーの先生役として人気を集めたマギー・スミスさんが亡くなりました。89歳でした。

スミスさんは1934年にイギリス南東部エセックス州で生まれ、演劇学校で学んだあと、活躍の場を映画やテレビへと広げました。

そして1969年の映画「ミス・ブロディの青春」で型破りな教師を演じアカデミー賞の主演女優賞を受賞したほか、1978年のコメディー映画「カリフォルニア・スイート」ではアカデミー賞にノミネートされながらも落選してしまう俳優の役で、助演女優賞を受賞しました。

その後も、映画「天使にラブ・ソングを…」の修道院長役やテレビドラマ「ダウントン・アビー」の伯爵夫人役などで人気を博し、さらに、世界的にヒットした映画「ハリー・ポッター」シリーズでは、主人公のハリーたちを厳しくも愛情を持って指導するマクゴナガル先生の役を演じ、若いファンも多く獲得しました。

家族の声明によりますと、スミスさんは9月27日、ロンドン市内の病院で家族と友人に見守られながら安らかに亡くなったということです。

89歳でした。

イギリスのスターマー首相は「スミスさんは、その長いキャリアの中で演じた数え切れないほどの物語を通じ、私たちに新しい世界を紹介してくれた。すばらしい才能によって多くの人に愛された国の宝で、その作品は後世まで大切にされるだろう」とSNSに投稿し、その死を悼みました。

(2024年9月28日時点)

山藤章二(87)ユーモアと風刺をきかせた独特の似顔絵で人気

>山藤章二(87)

ユーモアと風刺をきかせた政治家や芸能人の似顔絵で知られるイラストレーターの山藤章二(やまふじ・しょうじ)さんが、9月30日、都内で老衰のため、亡くなりました。
87歳でした。

山藤さんは東京生まれで、武蔵野美術学校を卒業後、広告業界に入り、イラストを手がけるなどして高い評価を受けました。

その後、独立し、イラストレーターとして雑誌の挿し絵や風刺漫画などを手がけて注目を集め、1971年に文藝春秋漫画賞を受賞しました。

1976年から「週刊朝日」で連載した「ブラック・アングル」は、政治家や芸能人の特徴をうまくとらえた独特の似顔絵に、風刺のきいたことばを添えた作品で、人気を集めました。

また、1981年に同じ週刊誌で読者が投稿してきた似顔絵を掲載する「似顔絵塾」を始め、長らく読者に愛される企画となりました。

こうした功績が評価され、1983年には菊池寛賞を受賞したほか、2004年には紫綬褒章を受章しました。

その後も、精力的に活動を続けていた山藤さんですが、2021年に「ブラック・アングル」は通算2260回、「似顔絵塾」は1990回で連載を終了していました。

家族によりますと、山藤さんは9月30日午前、都内で老衰のため亡くなりました。

87歳でした。

(2024年9月30日時点)

ピート・ローズ(83)大リーグ レッズなどで活躍 通算4256安打で「ヒットキング」の異名も

>ピート・ローズ(83)

大リーグで1960年代から80年代にかけてレッズなどで活躍し、史上最多の4256本のヒットを打って「ヒットキング」とも呼ばれたピート・ローズさんが亡くなりました。83歳でした。

これは、9月30日にレッズが発表しました。

1963年にレッズでデビューしたローズさんは、1973年にシーズン230安打でMVP=最優秀選手に輝くなど、スイッチヒッターとして、左右の打席からヒットを量産するプレースタイルから「ヒットキング」とも呼ばれました。

ヘッドスライディングなど気迫あふれるプレーでも知られ、24シーズンで7回の最多安打を獲得し、通算4256安打は、現在も大リーグの史上最多記録です。

キャリアの終盤は選手兼監督を務め、現役引退後は監督に専念していましたが、レッズの監督を務めていた1989年に野球賭博に関わったとして、大リーグ機構から永久追放の処分を受けました。

その後、永久追放の処分解除の要請を繰り返し行いましたが、認められることはなく、大リーグの歴史に残る実績を残しながら、野球殿堂入りは果たしていません。

レッズの発表によりますと、ローズさんは9月30日に亡くなったということです。

(2024年10月1日時点)

服部幸應(78)テレビの料理番組に数多く出演 「食育」の普及にも尽力

テレビの料理番組に数多く出演するとともに「食育」の必要性を訴えてきた料理評論家の服部幸應(はっとり・ゆきお)さんが、10月4日、理事長を務める料理学校で倒れ、その後、亡くなりました。78歳でした。

服部さんは東京出身で、大学を卒業したあと、父親が創立した料理学校「服部栄養専門学校」の講師を務め、31歳の時に校長に就任しました。

栄養士や調理師の育成にあたるかたわらテレビの料理番組の監修に携わったほか、解説者や審査員としてみずから出演して、豊富な知識を生かした語り口で広く知られる存在となりました。

また、「食育」の必要性を訴えて2005年の「食育基本法」の成立に尽力し、その後は農林水産省の「食育推進評価専門委員会」の座長を務めるなど、長年にわたって国内での普及に取り組みました。

4年前には旭日小綬章を受章し、このときの会見で「日本の教育は知育・徳育・体育という3つの柱でできていますが、それに食育が加わるとバランスが取れるということを分かってもらえると大変うれしい」などと話していました。

このほか、日本でのフランス料理の普及にも熱心に取り組み、フランスで最も権威ある国家勲章「レジオン・ドヌール勲章」の「シュバリエ」を受章しています。

捜査関係者によりますと、服部さんは10月4日東京 渋谷区の「服部栄養専門学校」で倒れ、病院に運ばれましたが、その後、亡くなりました。

(2024年10月5日時点)

大山のぶ代(90)「ドラえもん」の声を担当 国民的な人気キャラクターに

人気アニメ「ドラえもん」の声で知られる声優で俳優の大山のぶ代(おおやま・のぶよ)さんが、老衰のため9月亡くなりました。90歳でした。

大山さんは東京で生まれ、劇団の養成所に入り、1956年にNHKのドラマで俳優としてデビューしました。

また、声優としてもNHKの人形劇「ブーフーウー」のブー役などで活躍し、1979年に民放で放送が始まったテレビアニメ「ドラえもん」では、ドラえもんの声を26年間にわたり担当しました。

頼りないのび太を時にしかりながらも優しく支えるドラえもんを特徴的な声で演じ、ドラえもんは国民的な人気キャラクターとして親しまれるようになりました。

一方で、NHKの「ためしてガッテン」などの情報番組やトーク番組にも出演し、おちゃめで明るいキャラクターで知られました。

ドラえもんの役を退いたあとの2008年に脳梗塞を患い、認知症の症状が出ていたということで、介護を受けながら生活していたことを9年前に大山さんの夫が公表していました。

所属事務所によりますと、大山さんは2024年に入って入退院を繰り返していましたが、9月29日、東京都内の病院で老衰のため亡くなったということです。

90歳でした。

ドラえもんへの強い思い ほかの仕事を断る
大山さんは、ドラえもんへの強い思いを著書の「ぼく、ドラえもんでした。」で明かしていました。

この中では、番組の放送が始まる前の年に役の依頼を受け初めてドラえもんを知り、その日のうちに夢中で漫画を読んだとしています。

そして、自身なりの演じ方を考えた結果、未来のネコ型ロボットとして、おっとりしたのんびり屋であるものの、相手をののしるような悪いことばは使わないようにしようと決め、役に臨んだということです。

その大山さんの声について、作者の藤子・F・不二雄さんには「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ」と感心されたということです。

大山さんは「あの子と一緒に仕事をしている間は、他の声の出演はしたくない」とドラえもんの声を務めている間、ほかの声の出演はすべて断っていたということです。

野沢雅子さん「まだ実感が湧きません」
大山さんと親交があったという声優の野沢雅子さんは、「ペコ(大山さんの愛称)とは初期からの声優仲間で長いお付き合いだったので、まだ実感が湧きません。スタジオで会えば『マコ?!』と元気に声をかけてくれた笑顔を、昨日のことのように思い出します。寂しいけれど、あちらのみんなと集まってまた一緒にお芝居してね」というコメントを出し、別れを惜しみました。

しずかちゃん担当 野村道子さん「楽しかった思い出が沢山」
大山さんと同じ時期に「しずかちゃん」の声を担当していた声優の野村道子さんはコメントを発表し、「26年間、ドラえもんで一緒だった大山さん。本当に仲良くさせていただいて、大山さんと小原さんと私の3人で旅行に行ったり、楽しかった思い出が沢山あります」と当時を振り返りました。

そして、「ここ18年くらいは、大山さんの体調もあってお会いすることが出来ませんでしたが、いつも心に大山さんへの思いはありました。お亡くなりになる前に、写真でもいいから最近の大山さんに会いたかったです。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と別れを惜しんでいました。

声優の水田わさびさん「大きなバトンを受け取った」
ドラえもんの声を引き継いだ声優の水田わさびさんは、「突然のご逝去の報に、何をどう伝えればいいかわからないくらい心が動いております。それくらい偉大な役者さんであり、とてつもなく大きなバトンを受け取りました。今も演じる中で、大山さんがマイクの前に立つ背中を思い出します。その背中に届くように、のび太君たちとこれからも冒険します。長い間、本当にありがとうございました」とコメントしました。

かかずゆみさん「次の世代にもしっかりと愛される作品に」
また、現在のアニメ「ドラえもん」で「しずかちゃん」の声を担当するかかずゆみさんは、「イキイキとしゃべり動き回る『ドラえもん』を見るのが楽しみな幼少期でした。そのお声を聞くと、こどもの頃のワクワクした気持ちを思い出します。長年愛されるキャラクターに育ててくださりありがとうございました。作品を引き継いだ1人として、次の世代にもしっかりと愛される作品作りにこれからもまい進して参ります」とコメントしています。

黒柳徹子さん「とても面倒見のよい人」
NHKの人形劇「ブーフーウー」などで大山さんと共演した俳優でタレントの黒柳徹子さんは、大山さんとの写真を自身のSNSに投稿し、「とても面倒見のよい人で、美味しいお菓子とか珍しい食べ物をスタジオに持ってきてくれたり、私がお芝居をやってる時は、毎回大勢のお友達にチケットを販売してくれて、大山さん団体様御一行という感じで劇場に観に来てくれました。芝居が終わった後に、みんなで一緒にワイワイ食事をするのが恒例でした」などと思い出をつづっています。

そのうえで「大山さんは旦那様を第一に考えて全面的に尽くすタイプで、とても仲の良いご夫婦でした。その旦那様も亡くなってしまい、大山さんはどうしてるのかなぁ?と思っていました。いつも、私に優しくしてくれて、ありがとう。今頃、天国でみんなで一緒にたくさんのお話をしていることと思います」などと感謝の気持ちをつづっています。

大山さんの事務所代表「まじめな人 よく頑張りましたね」
大山さんの所属事務所の守田洋三代表は、「身の回りの世話などをしていた事務所の担当者が、毎日のように顔を合わせていて食欲もあると話していたのでびっくりしました。9月29日の夕方、体調が急変したと連絡があって担当者が病院に駆けつけましたが、残念ながら間に合いませんでした。病院では大山さんは眠るように亡くなったと話していたそうです」と話していました。

そのうえで「大山さんが『ドラえもん』を担当していたときは、汚いことばを使わないように台本をチェックするなど、まじめな人でした。よく頑張りましたね、としか言いようがないです」と話していました。

藤子・F・不二雄ミュージアム「笑顔を届けて下さった」
「ドラえもん」の原作者、藤子・F・不二雄さんの作品の原画などを展示している「川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム」は、「“ドラえもん”として子どもたちの心に寄り添い、ともに冒険をし、笑顔を届けて下さった大山さんのご冥福を心からお祈りいたします」とホームページにコメントを掲載しました。

テレビ朝日「優しく包み込むような声 夢と希望届けた」
「ドラえもん」を放送しているテレビ朝日は、「訃報に接し、驚きと悲しみでいっぱいです。大山さんの優しく包み込むような声は、世界中の子どもたちの心を動かし、夢と希望を届けて下さいました。その多大なるご功績に感謝致しますとともに、ご冥福をお祈り申し上げます」とコメントを発表しました。

(2024年10月11日時点)

中川李枝子(89)絵本「ぐりとぐら」シリーズ 子どもたちに親しまれる

>中川李枝子(89)

長年にわたり子どもたちに親しまれている絵本「ぐりとぐら」シリーズなどで知られる児童文学作家の中川李枝子(なかがわ・りえこ)さんが10月14日、亡くなりました。89歳でした。

中川李枝子さんは1935年に札幌市で生まれ、東京都の高等保母学院を卒業後、保育士として働きながら童話の創作を始めました。

妹の山脇百合子さんが絵を担当して1962年に出版したデビュー作「いやいやえん」は人気作となり、厚生大臣賞なども受賞しました。

そして1963年には、料理と食べることが大好きな野ねずみの双子「ぐり」と「ぐら」が主人公の絵本を山脇さんとともに月刊誌で発表しました。

「ぐりとぐら」のシリーズはあわせて22作が出版され、国内での発行部数はシリーズ累計で2200万部余りとなるベストセラーとなりました。

アジアやヨーロッパなどの14の国と地域でも翻訳され、海外でも累計で250万部余りが発行されています。

2015年には、保育士としての自らの経験などをもとに子育てをする母親に向けたメッセージを記した本を出版するなど、最近まで執筆活動を続けていました。

中川さんの作品の出版を多く手がけた福音館書店によりますと、中川さんは都内の病院で老衰のため89歳で亡くなったということです。

(2024年10月17日時点)

西田敏行(76)「釣りバカ日誌」シリーズなど 映画、テレビで幅広い役柄演じる

映画「釣りバカ日誌」シリーズやNHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」など、数々の映画やドラマで幅広い役柄を演じてきた俳優の西田敏行(にしだ・としゆき)さんが10月17日、東京・世田谷区の自宅で亡くなりました。76歳でした。

西田さんは福島県郡山市出身で、1970年に劇団青年座に入団、その後、映画やテレビで人間味あふれる役から暴力的な悪役まで幅広く演じる俳優として活躍しました。

1993年に公開された山田洋次監督の映画「学校」では、夜間中学の生徒をまとめる教師を演じ、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞に選ばれました。

1988年から合わせて22作が公開された映画「釣りバカ日誌」シリーズでは、釣りをこよなく愛するサラリーマン、ハマちゃんを演じ、三國連太郎さんが演じたスーさんとのとぼけた掛け合いが人気を集めました。

また、NHKの大河ドラマでは1990年に放送された「翔ぶが如く」で西郷隆盛を、1995年の「八代将軍 吉宗」でも徳川吉宗を演じ、このほかにも「葵 徳川三代」や「八重の桜」など多くの作品に出演しました。

歌手としても温かみのある歌声で知られ、「もしもピアノが弾けたなら」がヒットし紅白歌合戦に出場したほか、舞台ではミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」で通算260回以上にわたり主役を務めました。

民放の人気バラエティー番組「探偵!ナイトスクープ」では、涙もろい「局長」として活躍するなど、庶民的なキャラクターと親しみやすい人柄が人気を集めました。

2018年には旭日小綬章を受章しています。

所属事務所などによりますと、西田さんは10月17日、東京・世田谷区の自宅で虚血性心疾患のため亡くなったということです。76歳でした。

故郷・福島の復興に関わる
西田さんは俳優として活動するかたわら、東日本大震災と原発事故で被災した故郷・福島の復興に、さまざまな形で関わってきました。

原発事故のあとまもなく、県内外で福島の食べ物や観光をPRする催しなどに積極的に参加し、風評被害に苦しむ生産者らの支援に力を尽くしました。

また、福島ゆかりのミュージシャンなどとともに復興支援の音楽イベントに参加したり、福島県が制作したミュージカル風のPR動画に出演したりするなど、自身の知名度を生かして故郷の現状を多くの人に伝えてきました。

東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」にも、被災地ゆかりの著名人の一人として参加しています。

福島県は、西田さんのこうした活動をたたえ、2018年に4人目となる県民栄誉賞を贈っています。

授与式で西田さんは「出身地の郡山で数多くの映画をみたことや、おおらかに育ててくれた福島の土地柄や人柄が役者としての私を支えてくれていて、福島がふるさとでよかった。これからも福島をアピールするため、元気に仕事をしていきたい」と述べていました。

ミュージカル大作で森繁久弥さんの後を継ぐ
西田さんは舞台では歌のうまさも生かし、ミュージカルの大作「屋根の上のヴァイオリン弾き」で森繁久弥さんの後を継ぎ、通算260回以上にわたり主人公のテヴィエ役を演じました。

20世紀初頭の帝政ロシアを舞台としたこの作品で、西田さん演じるテヴィエは、貧しくも働き者で妻と娘を愛するお人好しの酪農家という役どころで好評を博しました。

山田洋次監督「喜劇のヒーロー失った」
西田さんが主演した映画「学校」の監督のほか、「釣りバカ日誌」シリーズの脚本も務めた山田洋次監督は「訃報を聞いて、喜劇のヒーローを演じる役者をぼくたちは失った、という喪失感の中にいます。『学校』シリーズは、企画の最初の段階から西田さんをイメージにおいていたし、彼なしには作れなかった。『釣りバカ日誌』シリーズもこの人がいなかったら、成り立たなかったはず。いくつになっても福島弁の抜けない、懐かしい人柄。小太りの肉体・響きの豊かなバリトンの声、愛嬌のある目元、ヨーロッパではこういう役者をクラウンというそうだが、あの姿がもう見られない。偉大な日本のクラウンが去ってしまったことを私は心から悲しく思っています」というコメントを発表しました。

北野武さん「本当にいい役者だった」
西田さんが出演した映画「アウトレイジ ビヨンド」の監督の北野武さんは自身の公式サイトで、「西田さんの体調がよくないことは知っていたので、ずっと心配していたけど、悲しいことになってしまった。がっくりしています。本当にいい役者だった」とコメントしています。

堺正章さん「大きな存在を失いました」
西田さんが猪八戒の役を演じた民放のドラマ「西遊記」で孫悟空の役だった俳優の堺正章さんは、「西田さん!あの滲み出るような演技を超えた存在感、もう終演なんですね。大きな存在を失いました。猪八戒、沙悟浄、三蔵法師もみんな天竺へ旅立ちました。私もいずれその旅に参加します。心よりご冥福をお祈りします」とコメントしています。

綾瀬はるかさん「やさしく軽やか 頼もしい大先輩」
NHKの大河ドラマ「八重の桜」などで共演した俳優の綾瀬はるかさんは、「また共演したかったです。大河ドラマや映画でご一緒させていただきましたが、どっしりとしているけれど、やさしく軽やかで、頼もしい大先輩でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントを発表しました。

泉ピン子さん「唯一無二の役者」
西田さんと50年ほどの親交があり、NHKの大河ドラマ「おんな太閤記」などで共演した俳優の泉ピン子さんはNHKの取材に対し「お互い売れずにお金がないころからの、下手な夫婦よりも長いつきあいで、きょうだいのようでも友だちのようでもあります。褒めるとすぐその気になる人でしたが、明るいだけじゃなくて、捨て犬のように悲しげで寂しげな空気もある、唯一無二の役者でした。一緒に頑張って駆け上がってきたわかり合える同世代が、またいなくなってしまいました」と話していました。

その上で「『もうすぐそっちに行くから待っててね』って思ったけれど、あの人は寂しがり屋ですぐ呼んできそうだから、やっぱり『あと3年は呼ばないでね』って言いたいです。再放送でも何でも西田さんのことを見かけたら、皆さん褒めてあげて下さい。褒めてもらうのが好きな人だったので、きっと喜ぶと思います」と話していました。

間寛平さん「人間としての器が大きい」
「探偵!ナイトスクープ」などで共演していたタレントの間寛平さんは「プライベートでは食事にも連れていってもらい、歳は2歳しか変わりませんが人間としての器が大き過ぎて僕にとっては大先輩に感じていました。西田さん、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

石田えりさん「心安まる楽しい時間」
映画「釣りバカ日誌」シリーズで西田さん演じるハマちゃんを優しく見守る妻の役を演じた俳優の石田えりさんは、所属事務所を通じて「西田さんとは誕生日が5日しか違わないせいか、黙っていてもツーカーな感じで、そのまま自然に役になれた気がします。あんなに心安まる楽しい時間はありませんでした。ありがとうございました」というコメントを発表しました。

浅田美代子さん「天国で大好きなお酒を思う存分飲んで」
映画「釣りバカ日誌」シリーズで石田さんのあとを継いでハマちゃんの妻役を演じた俳優の浅田美代子さんは、「突然の訃報にただただビックリしています。あの元気ないつも笑顔のハマちゃんが亡くなってしまうなんて、どう信じたらいいのでしょう。三國さんが亡くなった日に、2人で献杯したね。今日は私1人献杯します。ハマちゃん、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。天国で大好きなお酒を思う存分飲んで、そちらにいる仲間と宴会を楽しんでください」というコメントを発表しました。

米倉涼子さん「まだ信じられません」
民放のテレビドラマで共演した米倉涼子さんのインスタグラムのアカウントには「西田さん突然の訃報に接し、言葉もありません...おととい写真をのせるからね!と話したばかりなのに。悲しすぎて悲しすぎてまだ信じられません」とするコメントが投稿されました。

米倉さんのアカウントには西田さんの訃報が発表される前の17日正午ごろ、西田さんとのツーショット写真が投稿されたばかりでした。

中江有里さん「あたたかく接してくださった」
映画「学校」で西田さんと共演した中江有里さんの「X」のアカウントには、「映画『学校』の先生。。。本当の先生のようにあたたかく接してくださった西田敏行さん。まだ、信じられないです」とするコメントが投稿されました。

出身地の郡山市で驚きの声
西田さんの出身地、福島県郡山市のJR郡山駅前では驚きの声が聞かれました。

郡山市の高校3年生の女子生徒は「西田さんが出演していたドラマをよく見ていたので、亡くなったと聞いてとても驚いています。地元出身で、有名な方だったのでとても残念です」と話していました。

会津若松市出身の80代の男性は「えっ」と一瞬、声を詰まらせたあと「本当に残念です。ずいぶん昔ですが、『西遊記』の猪八戒役が印象的で、最近も移住をテーマにした番組でナレーションを担当するなどよく拝見していたので驚いています。本当に残念でなりません」と話していました。

棚倉町に住む70代の男性は「西田さんといえば『釣りバカ日誌』が好きでよく見ていました。多才でざっくばらんなところが、多くの人に愛されたのだと思います。ご冥福をお祈りします」と話していました。

小中学校の同級生「心に穴がぽっかり空いた感じ」
小学校と中学校の同級生は「もう少し長生きしてほしかったです」と話し、西田さんとの思い出を振り返っていました。

郡山市に住む齊藤光宏さん(76)は、友人からのメッセージで訃報を知りました。

齊藤さんは先月、市内の飲食店で西田さんを交えて友人たちと一緒に食事をし、4日前にはLINEでメッセージのやりとりをしたばかりだったということです。

齊藤さんは「亡くなるとは想像もつきませんでした。ふるさとを忘れずに郡山に帰ってきて、友人と一緒に遊んだり話をしたりすることが、彼の人生のなかの楽しい一面だったのかなと思います」と思い出を振り返りました。

その上で「もう少し長生きしてほしかったですし、心に穴がぽっかり空いた感じです。西田さんのおかげでみんなとの絆が深まり、同級生で集まる機会もあったので残念です」と話していました。

中学校時代の担任「残念で悲しくてことばがでない」
西田さんが中学2年生と3年生のときに担任を務めた郡山市の菊地幹郎さん(91)は、西田さんの同級生からの連絡で訃報を知りました。

菊地さんは、西田さんが所属していたバレーボール部の顧問も務めていて「学校でも目立つ存在で、テレビで見る姿のまま明るくて面倒見のよい生徒だった」と振り返りました。

卒業後も交流は続き、西田さんが20代のときには深夜に家を訪ねてきて「芸能活動がうまくいっていない」などと悩みを打ち明けながら、飲み明かしたということです。

西田さんは菊地さんの長女が生まれたあとにも家を訪ね、長女を抱きながら「結婚式には必ず出席する」と約束したということで、実際の結婚式にも多忙なスケジュールのなか予定を調整して出席し、祝ってくれたということです。

菊地さんは「本当にショックで気持ちが動転している。残念で悲しくて本当にことばがでない」と話していました。

地元の焼き肉店「福島の顔のような方 寂しい」
西田さんが同級生と訪れていたという郡山市の飲食店では、「福島の顔のような方なので寂しいです」と悼む声が聞かれました。

郡山市の焼き肉店によりますと、西田さんは30年ほど前から訪れていて、年に2回ほど同級生約10人と宴会を開いていたということです。

キムチをよく注文していたということで、調理場には西田さんが「おいしい」と言ってくれたことを励みにしようと、西田さんのサインが飾られています。

焼き肉店の二瓶学さんは「西田さんはテレビのままのおしゃれでかわいいイメージで、スタッフと気さくに話をしていました。郡山と福島の顔のような方なので寂しいです」と話していました。

いわき市でも感謝の声
東日本大震災で大きな被害を受けた福島県いわき市では、福島に寄り添った西田さんに感謝する声が聞かれました。

いわき市の60代の男性は「包容力や親しみのある人で西田さんのような人になりたいと思いました。突然で驚きましたが、ゆっくり休んでくださいと言葉をかけたいです」と話していました。

いわき市の70代の男性は「震災以降、寄り添ってもらい、エールをおくっていただきました。いつもパワー全開で心が優しい方で、力をもらいました」と話していました。

相馬市から訪れていた20代の女性は「大河ドラマ『八重の桜』に出演していた印象が強いです。もっとドラマに出演してくれるものと思っていました。福島県にもよく来ていて『福島のために活動してくれてありがとうございます』と伝えたいです」と話していました。

「釣りバカ日誌」のロケ地の釣り船店では
「釣りバカ日誌」のロケ地で、20年以上西田さんと交流があった横浜市の釣り船店でも、西田さんを悼む声が聞かれました。

金沢区の「太田屋」は、1988年に公開された「釣りバカ日誌」の1作目から20年以上にわたって釣り船を提供するなど、撮影に協力してきました。

おかみの太田香織さん(51)は先代だった夫の両親とともに、撮影のたびに西田さんと交流を深めていたといいます。

自宅を兼ねた店舗では西田さんがこたつで休憩を取ったり、食事や会話を楽しんだりしたということで、店内には西田さんをはじめ、共演者の三國連太郎さんと一家で一緒に撮影した写真が大切に飾られています。

太田さんは「西田さんは親戚のおじさんみたいな存在だったので悲しいです。映画の撮影は待ち時間が長かったので、うちで釣れた魚を出すととても喜んで食べてくれました。ひと言ひと言に思いやりのあるとても優しい人でした。忙しくされていたと思うので、どうかゆっくりしていただきたいです」と話していました。

(2024年10月17日時点)

ピーコ(79)ファッション評論家 「おすぎとピーコ」のコンビ

>ピーコ(79)

「おすぎとピーコ」のコンビで知られ、多くのテレビ番組に出演したファッション評論家でタレントのピーコさんが、9月3日、敗血症による多臓器不全のため、神奈川県内の病院で亡くなりました。79歳でした。

ピーコさん、本名、杉浦克昭さんは横浜市出身で、専門学校を卒業後、服飾デザイナーとしての活動を始めました。

その後、双子の弟で映画評論家のおすぎさんとともに「おすぎとピーコ」のコンビで多くのバラエティー番組やラジオに出演し、丁々発止の2人のやり取りが人気を博しました。

また、ファッション評論家としてもテレビ番組に出演し、明るいキャラクターと歯にきぬ着せぬ発言でお茶の間に親しまれました。

ピーコさんはがんのため左目を摘出し義眼を入れて活動していました。

関係者によりますとピーコさんは、数年前から認知症の症状が出始めたため、2023年6月、施設に入所し、入所者と折り紙を折るなど穏やかな生活を送っていたということです。

そして9月3日、敗血症による多臓器不全のため神奈川県内の病院で亡くなったということです。79歳でした。

(2024年10月20日時点)

勝俣恒久(84)東京電力元会長 福島第一原発事故への対応にあたる

>勝俣恒久(84)

東京電力の社長や会長を務め、福島第一原発事故の対応にあたった勝俣恒久(かつまた・つねひさ)氏が10月21日に亡くなりました。84歳でした。

勝俣氏は2002年に発覚した原発のトラブル隠しで当時の首脳陣が辞任したことを受けて社長に就任しました。

2008年に代表権のある会長に就任し、2011年3月に東日本大震災と福島第一原発事故が起きた際は経営トップとして事故の対応などの指揮をとりました。

そして東京電力の実質国有化が決まった2012年の6月に会長を退きました。

勝俣氏は原発事故をめぐって検察審査会に「起訴すべき」と議決されたことで、2016年に元副社長2人とともに業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴されました。

この裁判では2023年、東京高等裁判所が1審に続いて3人全員に無罪を言い渡しましたが、検察官役の指定弁護士は最高裁判所に上告しました。

また原発事故で多額の損害を被ったとして東京電力の株主が旧経営陣に会社への賠償を求めている裁判では1審の東京地方裁判所が2022年、勝俣氏ら4人に国内の裁判で最高額とみられる合わせて13兆円余りの賠償を命じました。

判決を不服として勝俣氏ら旧経営陣側と株主側の双方が控訴し、東京高等裁判所で2審が行われています。

東京電力ホールディングスによりますと、勝俣氏は10月21日に亡くなったということです。

84歳でした。

原発事故をめぐる勝俣会長の起訴 取り消しへ
原発事故をめぐって東京電力の勝俣恒久元会長が業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴された裁判は、1審と2審で無罪が言い渡され、検察官役の指定弁護士が上告中でしたが、刑事訴訟法の規定により起訴が取り消されました。

被害者・遺族の代理人弁護士は
勝俣元会長が亡くなったことについて株主代表訴訟のほか、被害者・遺族の代理人を務める海渡雄一弁護士は「刑事裁判と株主代表訴訟の裁判手続きの途中で亡くなられたことは残念だ」としたうえで、「勝俣元会長は原発と地震の関係について問題意識を持っていた。原発事故の前に東電内の会議で津波対策を急ぐよう指示していれば原発事故は避けられたと思うので、勝俣元会長の責任は重い」と話していました。

政財界に大きな影響力
勝俣恒久元会長は、1963年に東京電力に入社後、企画部長や常務、副社長を経て、2002年に社長に就任し、在任期間中に経団連の副会長や電気事業連合会の会長を務め、政財界に大きな影響力を持ちました。

その後、2007年に起きた新潟県中越沖地震の影響で柏崎刈羽原発が7基全て停止し、燃料費コストが大きく膨らむなどして28年ぶりの赤字を計上する中、2008年に社長を退きました。

原発事故で指揮 事故後 政府との交渉にあたる
会長となった後、2011年3月に発生した福島第一原発事故の際には、体調不良で入院した当時の清水社長に代わって事故対応の指揮を執ったほか事故後の損害賠償をめぐる政府との交渉にあたるなどしました。

しかし、原発事故で巨額の赤字を抱えた東京電力への公的資金投入などの経営再建策に理解を得たい政府の意向で、2012年に会長を退任しました。

事故への対応をめぐっては、同じ2012年に、国会の事故調査委員会に出席し、震災発生直後に当時の菅総理大臣らが福島第一原発を訪れて所長に説明を求めるなどしたことについて、「混乱の極みの中、発電所で最高司令官の所長が時間をとられるのは芳しいことではない」と述べ批判しました。

その一方、「政府との間で、情報伝達がうまくいかなかったという問題もあるので、反省材料は私どもも含めてあると思う」とも話していました。

「巨大津波想定せず」裁判で繰り返し証言
その後、2016年からは、検察審査会の議決によって、福島県の入院患者など44人を原発事故からの避難の過程で死亡させたなどとして、原発事故前の経営陣の1人として業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴され、事故の原因となった巨大津波の可能性を事前に認識していたかが問われました。

裁判の中では、2009年に“御前会議”と呼ばれる経営層を交えた社内会議の場で社員たちから津波対策の状況を報告された際のいきさつなどを繰り返し問われましたが、勝俣元会長は、「社内の原子力・立地本部でしっかりやっていると考えていて、安全対策に疑義をはさむ状況ではなかった」として津波の到達は予測できなかったと改めて主張しました。

この刑事裁判では、巨大津波の襲来を予測することはできなかったなどとして、1審と2審ともに無罪となりましたが、検察官役の指定弁護士が上告し最高裁での審理が続いていました。

一方、民事裁判では、福島第一原発の事故で多額の損害を被ったとして、東京電力の株主が旧経営陣に対して賠償を求め、勝俣元会長は国の地震調査研究推進本部が2002年に公表した「長期評価」や、それを元に巨大な津波が押し寄せる可能性があるとした想定などについて、「知らなかった」と繰り返し主張していましたが、2022年、東京地方裁判所が勝俣元会長を含む4人に国内の裁判で過去最高とみられる合わせて13兆3000億円余りの賠償を命じる判決を言い渡しました。

東京地方裁判所は、判決で「対策をとっていれば重大な事態を避けられた可能性が十分ある」などと指摘しましたが、勝俣元会長を含む旧経営陣は判決を不服として控訴し2審が継続していて、「事故を回避することは不可能だった」と主張していました。

林官房長官「政府の立場からのコメントは差し控える」
林官房長官は午後の記者会見で「勝俣氏が逝去されたという報道は承知しており、哀悼の意を表したい。東京電力は福島第一原発事故という起きてはならない事故を防げなかった事業者として廃炉の完遂と被害者への賠償の貫徹、福島の復興への貢献に今後もしっかりと向き合う必要がある。勝俣氏の責任については民間企業の経営陣にまつわる話で、個別の訴訟に関する事項であることから、政府の立場からコメントするのは差し控える」と述べました。

識者に聞く 勝俣氏とは
東京電力の社長や会長を務め、福島第一原発事故の事故対応も指揮した、勝俣恒久氏は、日本の電力業界、経済界においてどのような存在だったのか。経営史が専門でエネルギー産業に詳しい国際大学の橘川武郎教授に聞きました。

Q 経営者としてどのような人物だった
A 非常に鋭い経営感覚を持ち、頭の回転が速く、「カミソリ勝俣」とも呼ばれていた。

福島第一原発事故の前までは、霞が関の官僚よりも勝俣氏がいる東京電力の方が国のエネルギー政策に対して影響力があるとも言われていて、経済産業省の幹部からも一目置かれていた。

合理的な考え方と危機対応の印象が強く、2002年に原発の検査データの隠蔽問題が発覚した後に社長に就任した際も、社内で風通しの悪かった原子力部門の改革に取り組み、東京電力の信頼回復に尽力していた。

ただ、原子力部門の改革については詰めの甘さが残り、道半ばに終わってしまった。

Q 電力業界や経済界でどのような存在だったのか
A 電力自由化に向けて激動の時代となった2000年代に、多くの電力会社が自由化に抵抗するなか、勝俣さんは小売りの自由化については積極的な姿勢を打ち出しリーダーシップを発揮していた。

会長退任後も電力業界の新年会に参加している姿を何度か見かけたが、関係者が一斉にあいさつに押しかける様子が印象的だった。

Q 福島第一原発事故をめぐる対応について
A 事故を起こした責任や東京電力の存続、会社の国有化などをめぐって勝俣さんは政府とさまざまな議論をしていたと思う。

当時のやりとりについて検証することが歴史的にも重要なので、本当は裁判などの場できちんと話してほしかった。

Q 裁判では“津波は予測できなかった”と
ーー原発事故をめぐる裁判では、勝俣氏含む経営陣が事故の原因となった巨大津波を事前に認識していたが焦点となるなか、勝俣氏は巨大津波が押し寄せる可能性があるとした社内の想定について「知らなかった」などとし、津波は予測できなかったと繰り返したーー

A 同じく被災した宮城県にある女川原発が津波対策として高い場所に建設し事故を起こさなかったことなどと比べると、勝俣さんを含めた東京電力の経営陣に甘さがあったのは確かだ。

経営トップが社内の原子力部門を抑える形を目指していたものの、結果的に現場の情報が上層部に適切に伝わりにくい構造になってしまい成功しなかった。

楳図かずお(88)“ホラー漫画の神様” 代表作に「漂流教室」「まことちゃん」

「漂流教室」や「まことちゃん」などホラーからSF、ギャグ漫画まで幅広く手がけた漫画家の楳図かずお(うめず・かずお)さんが10月28日、亡くなりました。88歳でした。

楳図かずおさんは和歌山県に生まれ、小学生のころから漫画を描き始め、高校3年生のときに童話「ヘンゼルとグレーテル」を題材にした「森の兄妹」などでデビューしました。

その後、「へび少女」や「おろち」など人間の奥底にある闇を不気味なタッチで描いた作品がヒットし、“ホラー漫画の神様”と呼ばれるようになりました。

1972年から連載が始まった「漂流教室」では、荒廃した未来に小学校ごとワープしてしまった子どもたちが生き抜く様子をリアルに描き、映画化もされました。

また、ギャグ漫画「まことちゃん」は、幼稚園児の主人公が手の中指と小指を折り曲げる“グワシ”のポーズが大ブレイクし、社会現象にもなりました。

トレードマークの赤と白のボーダー柄のシャツや明るいキャラクターが人気を集め、テレビ番組への出演や音楽活動など、幅広く活躍しました。

SF漫画の「14歳」の連載が終了した1995年以降、漫画の作品はほとんど発表していませんでしたが、2018年にヨーロッパ最大規模の国際漫画祭で、「わたしは真悟」が「永久に残すべき作品」として「遺産賞」を受賞したほか、2022年には27年ぶりとなる新作として101点の連作絵画を発表して話題を集めました。

小学館によりますと、楳図さんは10月28日に亡くなったということです。

88歳でした。

中川翔子さん「救われた人が世界中に」
楳図かずおさんの作品のファンとして知られるタレントの中川翔子さんは自身のXで追悼のコメントを発表しました。

このなかで、「大好きな大尊敬する本当の神様、楳図かずお先生。もうお会いできないなんて信じられないです。2年前のこの時がお会いできた最後になってしまいました。とても純粋で優しくてあたたかくてあまりにも大きな存在です。楳図かずお先生の美しくて怖い漫画があったから絵を描く事が大好きになりました。翔子という名前の文字も大好きな漂流教室の翔ちゃんからいただきました。わたしの人生は楳図かずお先生のおかげで今があります。純粋な少年のような心と緻密で唯一無二の絵とイマジネーション。楳図かずお先生の紡ぎ出す世界に救われた人が世界中に居ます。素晴らしい作品たちは永遠にこれからもたくさんの人たちに届き続けます。楳図かずお先生、永遠に大好きです」とコメントしています。

漫画家 村田雄介さん「『恐怖』の原体験」
漫画家の楳図かずおさんが亡くなったことについて、「アイシールド21」などの作品で知られる漫画家の村田雄介さんは、「漫画における『恐怖』の原体験でした。幼稚園の頃、表紙ですでに怖くて仕方なかったんだけど怖いが故に思わず読んでしまう。そして夜トイレに行けなくなる。楳図先生エキサイティングなドキドキとゾクゾクをありがとうございました。謹んでご冥福を御祈り致します」と自身の「X」のアカウントで投稿しました。

日本漫画家協会理事長 里中満智子さん「唯一無二の存在」
漫画家の楳図かずおさんが亡くなったことについて、日本漫画家協会の理事長を務める里中満智子さんは「とても残念です。デビュー作の『森の兄妹』からほぼ全ての作品を読んでいて、恐ろしいけれど物悲しい独自の世界に惹かれていました。『へび少女』『ママがこわい』などはそれまでの少女漫画にあった『母親=絶対的善』という決まり事を根底から崩す名作でした。その後、少年誌、青年誌での『漂流教室』や『おろち』『イアラ』など哲学的な作品を生み続け唯一無二の存在となられました。多才で、エネルギーを出し惜しみしない見事な芸術家人生だったと思います。願わくば100歳までご活躍なさって新しい表現を見せていただきたかったです」などと自身のブログでコメントしています。

漫画家 伊藤潤二さん「人生最大の思い出」
漫画家の楳図かずおさんが亡くなったことについて、「富江」などのホラー漫画を手がける漫画家の伊藤潤二さんは、「以前、まことちゃんハウスで対談させていただいた後に、吉祥寺のイタリアンレストランでご馳走になったことが人生最大の思い出です。心からご冥福をお祈りいたします」と自身の「X」のアカウントで投稿しました。

小学館「漫画を超越した挑戦を続けていた」
漫画家の楳図かずおさんが亡くなったことを受けて、代表作の「漂流教室」などを出版した小学館などは「恐怖、ギャグ、SFと漫画の様々なジャンルで革命的な作品を残されたのみならず、映画製作や『楳図かずお大美術展』の101枚の連作に見られるように、漫画という表現手法さえも超越した挑戦を続けておられました。先生の生前のご功績に対して、心からの敬意と感謝とともに、謹んで哀悼の意を表します」というコメントを発表しました。

活動の拠点置いてきた東京 吉祥寺の書店に追悼コーナー
楳図かずおさんの死去を受けて、楳図さんが長年、生活や活動の拠点を置いてきた、東京 吉祥寺にある書店では、追悼のコーナーが設けられました。

吉祥寺の書店では、2024年8月から楳図さんの作品などを紹介する特設コーナーを設けていましたが、今回の訃報を受けて急きょ、追悼のためのコーナーを設けました。

コーナーには、「追悼 楳図かずお先生」と書かれたポップが設けられ、代表作の「漂流教室」や「こわい本」などおよそ20点が並べられ、訪れた人が立ち寄っていました。

ジュンク堂書店 吉祥寺店の三浦明紀店長は「吉祥寺の地元ゆかりの先生ということで知名度はとても高く、中には楳図さんの姿を見たこともあるという声もよく聞かれるほど、地元に密着した漫画家でした。最初にニュースを聞いた時は残念な思いもありましたが、改めて楳図さんや作品を再認識する機会になってほしいです」と話していました。

(2024年11月5日時点)

谷川俊太郎(92)「二十億光年の孤独」「生きる」 現代を代表する詩人

「二十億光年の孤独」や「生きる」など鋭い感性で生み出した親しみやすい詩で知られる、現代を代表する詩人の谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが、11月13日に老衰のため都内の病院で亡くなりました。92歳でした。

1931年に東京で生まれた谷川さんは、高校時代に詩を作り始め、1952年、詩集「二十億光年の孤独」を発表しデビュー。

広い宇宙に生きる孤独な人間の姿を見事に表現し、一躍脚光を浴びました。

鋭い感性から生まれる表現やテンポのよいことばあそびなどが特徴で、半世紀以上にわたり数多くの作品を発表し続けてきました。

生きるすばらしさをつづった「生きる」や、世界中で朝を迎える様子を描いた「朝のリレー」など国語の教科書に掲載された詩も多く、親しみやすいことばで表現された谷川さんの詩は時代をこえて読み継がれてきました。

また、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を手がけたほか、絵本「スイミー」や「マザー・グースのうた」、それにスヌーピーの漫画「ピーナッツ」など海外の名作の翻訳を多く手がけたことでも知られています。

NHK全国学校音楽コンクールでは過去5回にわたり課題曲の作詞を手がけ、ことばの持つ力で日本の文化を支えてきたとして、2024年放送文化賞を受賞しました。

谷川さんの事務所によりますと、11月13日の午後10時すぎ、老衰のため都内の病院で亡くなったということです。

92歳でした。

息子の賢作さん「詩はずっと皆さんと共に」
谷川俊太郎さんの息子でピアニストの谷川賢作さんは、SNSのXで「私は中国からの公演の帰途についているところで間に合いませんでしたが、妹が駆けつけてくれて、最後をみとってくれました。穏やかな最後だったということです。皆様と同様私も、俊太郎の詩に驚き、感心し、クスッと笑わされ、ほろっと泣かされ、楽しかったですね。紋切り型ですが、彼の詩はずっと皆さんと共にあります。ありがとうございました」などと投稿しました。

谷川さんは2024年の1月から体調を崩していたということで、NHKの取材に対して賢作さんは「10か月にわたって大変だったな、お疲れさまと声をかけてあげたいです」と話していました。

放送文化賞を受賞 3月にメッセージも
3月に開かれた放送文化賞の式典では、息子の賢作さんが出席してメッセージを代読しました。

この中で谷川さんは「私は詩を原稿用紙に書くことから始めましたが、まもなくその詩を声に出して朗読することが求められるようになり、自作の詩を自分の声で読むようになりました。初めは恥ずかしかったけれど、そのうち慣れて、活字とは違う詩の広げ方というものが自然に自分でもできるようになりました。そして放送で自作を読んだりすることが自分の仕事としても成り立つようになったと思います。放送のジャンルで仕事をすることは私にとって自然なことで、誰かの声で自分の詩が広まることは新鮮な経験でした。まもなく私は文字だけではなく声で自分の書いたものを広めることにエネルギーを注ぐようになりました。私は自分では演奏はしませんが、音楽が大好きで、自分の詩が歌になることはいつでも歓迎していました」と思いをつづっていました。

「二十億光年の孤独」とは
谷川さんのデビュー作の詩集「二十億光年の孤独」では、宇宙を題材にした詩が詠まれています。

同名の詩では「宇宙はひずんでいるそれ故みんなはもとめ合う宇宙はどんどん膨んでゆくそれ故みんなは不安である」などと、宇宙に生きる孤独な人間の姿などが表現されています。

俵万智さん「やさしいことばで深いこと伝える お手本の方」
谷川俊太郎さんと30年以上前から交流があるという歌人の俵万智さんは、谷川さんの印象について「私と谷川さんはタイプが違う人間なので、かえって話が弾むという感じでした。谷川さんは東京の同じ場所にずっと住まれている一方で、私が引っ越していろんな土地に住んでいることに驚かれたり、谷川さんが音楽を日常的に必要とされている一方で、私は音楽がなくても全然平気で『音楽で泣いたことのない女に初めて会った』と言われたこともあったりしました。谷川さんは自由な詩を書いて、私は定型詩を書いていて、そういう違いがあるからこそ、何かひかれ合うというとおこがましいですが、すごく魅力を感じることばの使い手でした」と振り返りました。

その上で、「『いつ詩が完成したと思うんですか』と聞いたら『それは締め切りだよ』と身もふたもないことをおっしゃいますが、逆に締め切りがなかったらいつまでも完成しないということの裏返しで、ことばの使い手としてすごく誠実だと思います。本当にことばで詩が書けるのか誠実に疑い続けた使い手というところは、心から尊敬しますし、自分もそうありたいです」と話していました。

また、谷川さんの作品について「ある詩のフレーズに『泣き顔を見せずに泣きたい』というものがあります。今の時代のことばの使い方は泣いて見せないと泣いたことにならない感じがありますが、泣き顔を見せずに泣けるのが詩人だと思い、印象に残っています。難しいことばで難しいことを言うのは簡単だと思いますが、やさしいことばで難しいこと、深いことを伝えることができるというのがことばの使い手だと思うし谷川さんはお手本のような方だと思います。海外でもたくさん翻訳されて愛されているのは、人間の普遍的なものにまで届くことばだからでこれからも作品は残るので読んでいきたいです。谷川さんが同じ時代にいてくれたことは宝物のようなことなので、その日本語のすばらしさを少しでも受け継いでいけたらと思います」と話していました。

元宇宙飛行士の山崎直子さん「心にしみる詩」
元宇宙飛行士の山崎直子さんは、旧ツイッターのXに、「谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』に高校時代に出会い、心にしみる詩で宇宙を表現されていることに衝撃を受けました。たくさんの優しい言葉で想像力を広げていただきました」などと投稿しています。

【福島】復興の思い込めた校歌の作詞手がける
谷川さんは、数多くの学校の校歌の作詞も手がけています。

このうち、福島県広野町で震災と原発事故からの復興を支える人材の育成を目指して開校した中高一貫校では、校歌を作詞した谷川さんの訃報を受け悼む声が聞かれました。

福島県広野町にある「県立ふたば未来学園」の校歌は、震災の発生から4年後の2015年春の開校に合わせて谷川さんが作詞したもので「学ぶ覚える身につける腑に落ちるまで考える」「自分を生かすそれぞれになごやかにたくましく」「この故郷に根を張って目指す世界は限りない」などまっすぐな探究心や、個性豊かにふるさとを大切にする若者の心を普遍的なことばで表現しています。

谷川さんが亡くなったことについて郡司完校長は「驚きとともに残念です。すばらしい校歌を残してくださったことをありがたいと感じています。『腑に落ちるまで考える』は震災と原発事故という誰も経験したことのない災害を受けた地域の学校に対する建学のメッセージだと受け止めています」と話していました。

高校2年生の霜村康仁さん(17)は小学生の時に国語の教科書で谷川さんの詩に触れたといい、「『この故郷に根を張って目指す世界は限りない』という歌詞を読み、さまざまな世界でトップを目指す仲間と切磋琢磨したいと思いました」と、自慢の校歌への思いを語りました。

【東京】谷川さんが生まれ育った杉並区の図書館では
谷川さんが生まれ育ち、生涯のほとんどを過ごした杉並区の区立高円寺図書館では、館内にある谷川さんの本を集めて特設コーナーが作られました。

館長の落合里実さんは7年前、区の広報係長をしていた時に広報誌で地元ゆかりの人を特集するため、谷川さんの自宅でインタビューを行ったことがあります。その際の谷川さんの優しげな語り口調が印象に残っているということです。

落合さんは「何を聞いてよいのだろうかとドキドキしながら向かった記憶があります。最初は怖そうな印象でしたが、話し始めるととても優しい語り口調で心がほっとしました」と話していました。

そして、谷川さんが語った「どんなじいさんの中にも赤ん坊がいる」という言葉が特に印象深かったということです。落合さんは「人間の核には赤ん坊があって大人になるにしたがって年輪のようなものが刻まれていくというお話をされていていて、谷川さん自身も少年っぽく茶目っ気のある印象が強く感じられました」と話していました。

また、谷川さんはインタビューに「最初の詩集は『二十億光年の孤独』。そのころのぼくは、ローカルなものに興味や執着がなくて。宇宙が自分のふるさとだと思っていたから。中年を過ぎたころから杉並がふるさとっぽくなってきて。家に帰るのがだんだん、だんだんと楽しみになってきますね」などと語っていて、落合さんは「杉並区が好きなのだなと感じました」と話していました。

(2024年11月19日時点)

火野正平(75)映画やドラマで活躍 自転車の旅番組でも親しまれる

数多くの映画やテレビドラマで活躍し、全国各地を自転車で回る旅番組でも親しまれた俳優の火野正平(ひの・しょうへい)さんが11月14日に亡くなりました。75歳でした。

火野さんは東京出身、12歳のころから劇団「こまどり」に所属し、子役として活躍しました。

1973年に放送されたNHKの大河ドラマ「国盗り物語」で下克上の乱世を生き抜く秀吉の役を演じて、一躍、注目され、翌年には映画での主演デビューも果たしました。

その後は、数多くの映画やドラマに出演し、NHKでは2014年に放送されたドラマ「55歳からのハローライフ」で主人公の中学時代の親友でホームレスになっていた男性を好演しました。

また、NHKのBSで放送中の旅番組「にっぽん縦断 こころ旅」で14年間にわたり“旅人”として全国各地を回りました。

番組は、視聴者からの手紙に書かれた思い出の場所を自転車に乗って訪ねるもので、手紙に込められた思いに寄り添う火野さんの味わい深い語り口と飾らない人柄が親しまれました。

所属事務所などによりますと、火野さんは2024年4月に持病の腰痛が悪化したため番組を休んで治療に専念してきましたが、その後、体調を崩し、11月14日に亡くなったということです。

75歳でした。

所属事務所は火野さんについて「最期まで仕事復帰を願っておりましたが叶いませんでした。自宅で家族に見守られ穏やかな最期でした。長らくこのお仕事に携わり関係の皆様には大変お世話になりました。応援してくださった皆様にも心から感謝申し上げます」などとコメントしています。

(2024年11月20日時点)

北の富士勝昭(82)元横綱 大相撲中継の解説でも人気

大相撲の元横綱で、幕内で10回の優勝を果たし、NHKの大相撲中継の解説者としても長年、活躍した北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき)さんが、11月12日、病気の療養中だった都内の病院で亡くなりました。82歳でした。

北の富士さんは北海道旭川市出身。昭和32年の1月場所で初土俵を踏むと速攻相撲を持ち味に番付を上げ、昭和45年の初場所後に横綱に昇進して幕内で10回の優勝を果たしました。

引退後は九重親方として千代の富士と北勝海の2人の横綱を育て、定年を前に日本相撲協会を退職して以降はNHKの大相撲中継で、現役力士の取組について時に厳しく、時に温かいことばで解説し人気を博しました。

2023年の3月から病気の療養のため、大相撲中継の出演を見送ってきましたが、2024年7月の名古屋場所の初日ではVTRで出演し、元気な姿を見せていました。

関係者によりますと、11月に入って体調を崩し都内の病院で治療を受けていましたが、11月12日、亡くなりました。82歳でした。

葬儀は近親者だけで11月20日までに済ませており、後日、お別れの会が開かれる予定だということです。

ライバル玉の海との優勝争い 千代の富士と北勝海の2横綱育てる
元横綱の北の富士勝昭さんは北海道旭川市出身。出羽海部屋に入門し昭和32年の1月場所で初土俵を踏みました。スピードのある攻めが最大の持ち味で、昭和41年の名古屋場所のあと大関に昇進し、その翌年には出羽海部屋から当時の九重親方とともに部屋を出て新たに九重部屋に移りました。

昭和45年の初場所で2場所連続の優勝を果たしたあと横綱に昇進し、同時に昇進したライバルの玉の海と何度も優勝争いを繰り広げて大相撲を盛り上げました。

その翌年、現役中に玉の海が急死したあとも横綱として角界を支え、合わせて10回の優勝を果たしました。

昭和49年の名古屋場所を最後に引退したあとは、九重親方として千代の富士と北勝海の2人の横綱を育て、定年前の平成10年に日本相撲協会を退職しました。

その後は、NHK大相撲中継の解説者を務め率直でユーモアをまじえた語り口で時に厳しく、時に温かく取組を解説し、人気を博しました。

2023年年3月からは病気の療養のため、大相撲中継への出演を見送っていましたが、2024年7月の名古屋場所ではおよそ1年半ぶりにVTRで出演し、場所の展望を語って、ファンに元気な姿を見せていました。

厳しくも温かい解説で親しまれる
北の富士さんはNHKの大相撲中継でのユーモアを交えた語り口や、時に厳しく、時に温かい解説でファンから親しまれました。特に人気を集めたのが解説でコンビを組むことが多かった元小結・舞の海の舞の海秀平さんとの軽妙な掛け合いです。

「3場所連続で三役を務め、あわせて33勝以上」という大関昇進の目安の話題について北の富士さんは、みずからが「28勝」で昇進したこともあって言及を避けることもありました。

しかし、解説で大関昇進の話題になると、舞の海さんからみずからの成績をたびたび引き合いに出され「そういうことを言ったら絶交だよ」と切り返した場面もありました。

また、令和2年秋場所の千秋楽の取組前には、当時関脇で優勝争いをしていた正代の大関昇進について北の富士さんが「負ければないと思う」という認識を示していました。

しかし、舞の海さんから「勝ち方に説得力がある。私は優勝を逃しても大関昇進でいいと思う」と反論されて「逆らうね」とつぶやくなど、本音をぶつけ合う姿がファンから親しまれました。

取組の解説では元横綱として厳しい視線を土俵に注ぎ、元横綱・稀勢の里に対しては大関時代に「大関らしい相撲を取ろうと思って、本来の攻めが出ていない。でもこれはきのう乗ったタクシーの運転手さんが批評していた」と話すなど、歯にきぬを着せない「辛口の解説」で知られました。

一方、宇良や炎鵬などいわゆる「小兵力士」好きとしても知られ、このうち、宇良に対しては「彼がここにいるだけでおもしろい。相撲が楽しくなる。得がたい存在だ」などとエールを送っていました。

また、元横綱 日馬富士が大関時代に一度待ったをかけて仕切り直し、その後、一方的に突き出された一番では「日馬富士は待ったじゃなくて『しまった』だな」とユーモアを交えるなど、相撲愛にあふれる解説で大相撲人気を支えてきました。

弟子の八角理事長「あの師匠だから2人の横綱が生まれた」
北の富士さんの弟子で元横綱・北勝海の八角理事長は「体が悪くなってから合併症で病気ごとに病院に通ったり、入退院を10回ぐらい繰り返していたが、リハビリも頑張っていた。最後の会話はよくお酒を飲みに行っていた店の話だった」と話しました。

そして、親方としての北の富士さんについて「よその師匠は知らないが、楽しく盛り上げてくれる師匠だった。怒られることもなく、褒めていい方向に導いてくれた。私は言われたらやらないタイプだったので師匠は言わない努力をしてくれていたのだと思う」と振り返りました。

その上で「自分が部屋を持ったときには『褒めることだ』と言ってもらったが、なかなかできない。褒めて育てるのはなかなか難しい。あの師匠だから2人の横綱が生まれたと思う」と北の富士さんのすごさを口にしていました。

元大関・千代大海の九重親方「僕らの憧れというか目標」
北の富士さんの2代あとに年寄・九重を襲名した元大関・千代大海の九重親方は「まずびっくりした。2年前に国技館でお会いしてあいさつすることがあって、『解説がうまいな。独特な解説がすごく聞きやすい。声もいい』と話していただいたのが最後だった。北の富士さんから解説がうまいと言われてうれしかった」と思い出を振り返っていました。同じ部屋の出身としては「現役のとき、私の相撲を厳しく辛口で解説してくれたのは、身内としての愛情だと分かっていたし、親方になったら『次はしっかり頑張れよ。俺から見ればお前は孫だから』とよくフランクに声をかけてくれていた」と悼んでいました。

そして「横綱の2人、千代の富士さん、北勝海さんなど数々の関取を育てて、功績を挙げた先々代でもある。僕らの憧れというか目標でもあり、九重部屋の重圧を感じている。自分もこうなりたいし、ならないといけない。理想像に少しでも近づけるように九重部屋から三役を出して弔いたい」と話していました。

元横綱・稀勢の里の二所ノ関親方「非常に悲しい」
元横綱・稀勢の里の二所ノ関親方は「愛のある解説をしていただいた。厳しさもあったけど、すごく期待してもらっているのが励みだった。ことしの5月くらいに電話した時にちょっと声に元気がなくて心配だったけど、名古屋場所の時に映像で見て元気になったと思っていた。非常に悲しい」と話していました。。

舞の海秀平さん「本当に残念」大相撲中継でコンビ
NHKの大相撲中継で長年、北の富士さんとコンビを組んできた元小結・舞の海の舞の海秀平さんは「いつかまた一緒に掛け合いができる日が来ると信じて、それを心の支えにやってきたので、本当に残念でならない。とにかく一緒に解説できないのが寂しいです。ユーモアがあって、懐も広くて、そういう北の富士さんに向正面からぶつかっていくのがすごく楽しみだった。それができないと思うと残念」と今の思いを語りました。

そして「力士や相撲界を批評するときでもそこには必ず愛情があった。いろいろな経験をしてきたからこそ、温かい目でそして厳しく、話せるのかなと思う。常に、相撲界を憂いていた」と振り返っていました。

また、印象に残っていることについては「2人で酒を飲んだときに言われた『俺とお前はあまり仲よくしてはいけないんだよ』ということばがうれしかった。私もいろんな人に『北の富士さんと仲が悪いんでしょう』と聞かれるが、だからこそあまり仲よくしてはいけないということばがすごく温かくて、そのことばがすごくうれしかった」と話していました。

北勝富士「相撲界見守ってもらいたい」
日本相撲協会の八角理事長の現役時代のしこ名「北勝海」と、その師匠だった「北の富士」の元横綱2人にちなんでしこ名が付けられた八角部屋の北勝富士は「私生活も相撲もいろいろ教えてもらった。北の富士さんからもらった「富士」だと思っているので、そういう部分では気持ちが落ち込んだし、心にぽっかりと穴が空いた」と心境を話しました。

そのうえで「場所中に悲しんでいると『何を考えているんだ』と怒られそうなので、大けがをしないようにひとつでも星を重ねていきたい」と前を向きました。また、北の富士さんには「どろんこになった分だけ成果は出るから稽古をしないと強くならない。稽古のことを考えて生活しろ」と教わってきたと話したうえで「これからの相撲界も見守ってもらいたい」と話していました。

十両 北の若 “憧れの北の富士さんに頑張る姿を見せたい”
入門前からの北の富士さんとの交流がきっかけで八角部屋に入門した十両の北の若は「孫のようにかわいがってもらった。プロに入る前から地元の山形に何度も足を運んでくれた」と思い出を振り返りました。

そのうえで「着物の着方とか私生活も含めて『横綱だな、かっこいいな』と心の底から思っていました」と憧れの北の富士さんへの思いを口にしました。

また、北の富士さんが亡くなった11月12日は自身の誕生日と同じであることに触れ「何かメッセージをくれたと思う。恥ずかしくない相撲を取らないと見せる顔がないので、頑張っている姿を見せたい」と話しました。

出身地 北海道旭川市からも悼む声
また、出身地の北海道旭川市でも悼む声が聞かれました。

ふだんから大相撲を見ているという82歳の女性は「寂しいですね。辛口の解説が大好きでした。本当に寂しいです」と話していました。

82歳の男性は北の富士さんについて「爽やかで解説も上手な人で、豪快さも魅力だった。残念ですね」と話していました。

大相撲ファンからも悼む声相次ぐ
九州場所が行われている福岡国際センターでは大相撲ファンから亡くなったことを悼む声が相次ぎました。

北の富士さんの現役時代をテレビで観戦していたという女性は「現役時代は横綱として体力、気力が本当にすごかった。さみしい思いだ」と悼んでいました。

一方、50代の男性は、解説者としての印象が強いとして「辛口の解説だったが、北の富士さんが言えばみなさん納得していたと思う。解説姿を見ていたらまだまだいけるんじゃないかと思っていたが本当に残念。天国から取組を見て『何やっているんだ』と言っているんじゃないか」と話していました。

また、70代の男性は「惜しい人を亡くして時代が変わってきていると感じる。また相撲界にいい人が現れることを期待していきたい」と話していました。

このほか、北の富士さんを目の前で何度も見たことがあるという男性は「ダンディーでかっこいいし、和服姿もここで何度もみた。破門を乗り越えて横綱になって、ああいう存在はいないと思う。すべてにおいてめちゃくちゃかっこよかった」と話していました。

(2024年11月21日時点)

中山美穂(54)アイドル・歌手として一世をふうび “ミポリン”の愛称も

1980年代から90年代にかけてアイドルとして一世をふうびした俳優で歌手の中山美穂(なかやま・みほ)さんが12月6日、東京 渋谷区の自宅で亡くなりました。54歳でした。

中山さんは東京都出身で1985年に、テレビドラマ「毎度おさわがせします」で俳優としてデビューし、ドラマや映画に次々と出演しました。

また、歌手としても「ツイてるねノッてるね」や「WAKU WAKUさせて」など、数々のヒット曲を発表して一躍、トップアイドルの地位を確立し、「ミポリン」の愛称で親しまれました。

その後も「ただ泣きたくなるの」やWANDSと一緒に歌った「世界中の誰よりきっと」が大ヒットしNHK紅白歌合戦にも7年連続で出場しました。

2002年に結婚したのを機にフランス・パリに移住して表舞台からは遠ざかっていましたが、2010年には映画に主演するなど、その後、日本での芸能活動を再開させていました。

岩井俊二さん「悔しい想い、無念な想い、様々渦巻く」
中山さんが主演した映画『Love Letter』の監督を務めた岩井俊二さんは「デビュー40周年、『Love Letter』30周年、そんなメモリアルな来たる2025年、雪のあるうちに一緒に小樽に聖地巡礼しようと約束していた矢先の訃報。悔しい想い、無念な想い、様々渦巻くけれど。まだご冥福をとか、きまり文句は口にしたくない思いもあり。。。今夜は気持ちだけですが、あなたの側に居ようと思います」と自身のXでコメントしています。

(2024年12月6日時点)

太田誠一(79)自民党元衆院議員 農相など務める

>太田誠一(79)

自民党の元衆議院議員で農林水産大臣などを務めた太田誠一(おおた・せいいち)氏が12月4日、東京都内の病院で亡くなりました。79歳でした。

太田氏は福岡市出身で大学の助教授などを経て、1980年の衆議院選挙で初当選し、合わせて8回当選しました。

1994年には自民党を離党し、新進党の結成に加わりましたが、翌年に自民党に復党しました。

また総務庁長官や党の行政改革推進本部長を歴任し、行政改革や政治改革に精力的に取り組んだほか、農林水産大臣も務めました。

関係者によりますと太田氏は12月4日、東京都内の病院で亡くなったということです。

79歳でした。

(2024年12月6日時点)

渡辺恒雄(98)読売新聞グループ本社 代表取締役主筆

>渡辺恒雄(98)

読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、政界やプロスポーツ界にも影響を与えた渡辺恒雄(わたなべ・つねお)さんが12月19日未明、都内の病院で亡くなりました。98歳でした。

渡辺さんは大正15年に東京で生まれ、昭和25年に読売新聞社に入社し、政治部の記者として自民党の大野伴睦初代副総裁や中曽根康弘元総理大臣などの取材を長く担当し、政治部長や論説委員長も務めました。

平成3年に社長に就任し、その後、読売新聞社が持ち株会社制に移行したのに伴いグループ本社の社長となり、平成16年からは12年余りにわたって会長を務めました。

平成11年から4年間は日本新聞協会の会長にも就いています。

スポーツの分野でも影響力を持ち、平成8年にはプロ野球・巨人のオーナーに就任し、新しいドラフト制度の導入などプロ野球界全体の指導的な役割を果たしたほか、平成13年から2年間、大相撲の横綱審議委員会の委員長を務めました。

平成20年には旭日大綬章を受章しています。

読売新聞によりますと渡辺さんは11月末まで定期的に出社し、役員会などに出席していましたが、12月に入って体調を崩し、12月19日未明に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。98歳でした。

渡辺恒雄さんとプロ野球
渡辺恒雄さんは平成8年にプロ野球・巨人の球団オーナーに就任しました。

12球団のオーナー会議でも中心人物として球界に大きな発言力を持ち、ドラフト制度の改革やフリーエージェントの導入など、球界の制度改革に主導的な役割を果たしました。

20年前の平成16年に近鉄とオリックスが合併し、その後、楽天が誕生した一連の球界再編では、1リーグ制移行に向けた構想の中心となり、2リーグ制の維持を求めた選手会の反発に対して、「たかが選手」などと発言して物議をかもしたこともありました。

そのさなか、巨人がドラフト会議で獲得を目指していた大学生に現金を渡していたことが明らかになり、道義的な責任をとって、巨人のオーナーを辞任しましたが、その後1年で巨人の球団会長として球界に復帰しました。

平成23年には、当時の球団代表が、球団会長には権限がないのにもかかわらず内定していたコーチ人事を覆されたと厳しく批判すると、その後、巨人のすべての役職を解任されるなど球団内での絶大な権力を見せました。

平成26年には巨人の最高顧問に就任し、翌年に発覚した野球賭博問題を受けて、当時のオーナーなどとともに引責辞任しましたが、その後も、球界での存在感は際立ち、巨人の球団運営にも強い影響力を持ち続けました。

一方で、普段はユーモアがあり、報道陣とのやりとりでは冗談を話して記者を笑わせる一面もありました。

2024年3月にはシーズン開幕前に行われる恒例の激励会で車いすに乗って登壇し、阿部慎之助監督をはじめ選手たちを激励していました。

東京大学名誉教授 御厨貴さん「功罪はとても大きい」
日本の政治外交史が専門で、東京大学名誉教授の御厨貴さんは「私が渡辺さんの本を書いてから20年ほどたつがその間もずっと健在だったことはすごい人だと思う。新聞界の権力者として長年にわたってもたらした功罪はとても大きかった」と話しました。

作家 魚住昭さん「メディアの姿勢を変えた」
「渡邉恒雄 メディアと権力」の作者でノンフィクション作家の魚住昭さんは「著書を書く前に3、4回にわけて10時間以上インタビューをしました。取材に対してまともに応じてくれ、私の取材人生で印象深い人です。会った際の印象は人の気をそらさない、茶目っ気もあって、時には笑わせてもくれる、勉強をされている方で話も知的で、魅力的でした」と話しました。

そのうえで「日本の新聞社は自民党に対して批判的で、読売新聞も含めて反自民・反権力の姿勢でしたが、渡辺さんが読売の実権を握ってからは、自民党とタイアップしながら反自民から親自民になりました。そういうメディアのあり方をある意味成功させました。戦後のメディアにとってかなり大きな出来事でメディアの姿勢を変えた、そういう意味を持ったと思います」と話しました。

(2024年12月19日時点)