「すぐには向かえません」涙こらえ迫られた “命の判断”
元日の当直で、対応していたのは3人。
鳴り続ける電話は、助けを求めるものばかりなのに、助けにいくことができない。
「すぐには向かわせられません」
電話先では、泣いている人もいた。
こちらも涙を必死にこらえながら、時間の感覚がなくなるまで一件一件に対応した。
「すごく悔しい思いでした」
あの時、能登半島で何が起きていたのか。
遺族や救助の最前線にいた当事者たちの証言からたどった。
(NHKスペシャル 取材班)
鳴り続ける電話は、助けを求めるものばかりなのに、助けにいくことができない。
「すぐには向かわせられません」
電話先では、泣いている人もいた。
こちらも涙を必死にこらえながら、時間の感覚がなくなるまで一件一件に対応した。
「すごく悔しい思いでした」
あの時、能登半島で何が起きていたのか。
遺族や救助の最前線にいた当事者たちの証言からたどった。
(NHKスペシャル 取材班)
ドキュメント 能登半島地震 緊迫の72時間
《地震発生》「両親が家の下敷きに…母の声が」清水宏紀さん
「え?」と思った。
元日の午後4時10分。
清水宏紀さんは、車の中から、目の前の建物が崩れていく姿を見た。
元日の午後4時10分。
清水宏紀さんは、車の中から、目の前の建物が崩れていく姿を見た。
輪島市の朝市通り近くの実家に帰省して、間もなくのことだった。
2024年1月1日の午後4時10分、能登半島を最大震度7の揺れが襲った。災害関連死含め、500人以上が亡くなる「能登半島地震」の発生だった。
急いで家へ戻ると、建物の1階部分がなくなっていた。
「お父さん、お母さん!」
思わず声をかけると、声が聞こえた。
「大丈夫だよ」
母、きくゑさんの声だった。
思わず声をかけると、声が聞こえた。
「大丈夫だよ」
母、きくゑさんの声だった。
姿は見えなかったが、言葉を交わすことはできた。
家にいるはずの父の声は、しなかった。
周りでは倒れた家屋が道路をふさぎ、アスファルトはめくれ上がり、道路には段差が出来ている。
自分1人ではどうにも出来ないことが、直感的に分かったという。
「外から助けに来てもらうしかない」と。
家にいるはずの父の声は、しなかった。
周りでは倒れた家屋が道路をふさぎ、アスファルトはめくれ上がり、道路には段差が出来ている。
自分1人ではどうにも出来ないことが、直感的に分かったという。
「外から助けに来てもらうしかない」と。
“両親が家の下敷きになっている。助けを呼んで欲しい”
すぐに思い当たる知人や友人に、メールで呼びかけた。
大地震の時は、電話よりメールが確実だと思ったのだ。
大地震の時は、電話よりメールが確実だと思ったのだ。
友人たちは、すぐに消防に助けを求めてくれた。
周りではあちこちで助けを求める人の声がして、住民たちと家の下敷きになっている人を助け出した。
呼びかけに応じない人は、後回しとなった。
「見えている人が優先だ」
その言葉が、今でも耳に残っている。
そうこうしているうちに日が落ち、あたりが暗くなってきた。
だが遠くの空は明るく、火の粉が飛んできた。
火災だった。
周りではあちこちで助けを求める人の声がして、住民たちと家の下敷きになっている人を助け出した。
呼びかけに応じない人は、後回しとなった。
「見えている人が優先だ」
その言葉が、今でも耳に残っている。
そうこうしているうちに日が落ち、あたりが暗くなってきた。
だが遠くの空は明るく、火の粉が飛んできた。
火災だった。
《発生2時間》「申し訳ないけど、いったん逃げるよ」清水さん
《発生から2時間、1月1日午後6時ごろ》
清水さんは実家周辺にいた。
その頃は火はまだ遠く、家の周りは真っ暗だった。
余震で、すぐそばに瓦が落ちてきた。
感じたのは、“これは、自分の命も危ない”ということ。
大津波警報も出続けていた。
「申し訳ないけど、いったん逃げるよ」
家の下敷きになっている母に伝えた。
「分かったよ」
そう、母の声がした。
(自分が無事でいなければ、母を助けられない)
そういう思いからだった。
その時は、消防なり自衛隊なり、外からの救助さえ来れば、助け出せると思っていた。
清水さんは実家周辺にいた。
その頃は火はまだ遠く、家の周りは真っ暗だった。
余震で、すぐそばに瓦が落ちてきた。
感じたのは、“これは、自分の命も危ない”ということ。
大津波警報も出続けていた。
「申し訳ないけど、いったん逃げるよ」
家の下敷きになっている母に伝えた。
「分かったよ」
そう、母の声がした。
(自分が無事でいなければ、母を助けられない)
そういう思いからだった。
その時は、消防なり自衛隊なり、外からの救助さえ来れば、助け出せると思っていた。
《同時刻》「救助に向かわせられません」 奥能登広域消防
同時刻、119番を受け付ける地元消防の指令室では、電話が鳴り続けていた。
助けを求める電話だった。
「消防車、救急車の数に限りがあり、全ての事案に向かわせるのは、不可能でした」
地震直後から119番を受け付けていた稲川健太郎さんは、そう振り返る。
助けを求める電話だった。
「消防車、救急車の数に限りがあり、全ての事案に向かわせるのは、不可能でした」
地震直後から119番を受け付けていた稲川健太郎さんは、そう振り返る。
元日の当直でこの日、対応していたのは3人。
一方、通報件数は普段の20倍にあたる400件近くに達していた。
すべての通報に対し、「すぐに向かわせられません」と説明するほかなかった。
一方、通報件数は普段の20倍にあたる400件近くに達していた。
すべての通報に対し、「すぐに向かわせられません」と説明するほかなかった。
指令室ではこの時、通報内容を記録し、消防署に伝えるシステムの不具合も発生。
現地に指令を出すことも難しくなっていた。
状況を伝えるために作られた手書きのメモには、緊迫した通報内容が記録されている。
現地に指令を出すことも難しくなっていた。
状況を伝えるために作られた手書きのメモには、緊迫した通報内容が記録されている。
「家 潰れ 1名閉じ込め
1時間前まで声が聞こえていた」
「家屋倒壊で足の挟まれあり」
1時間前まで声が聞こえていた」
「家屋倒壊で足の挟まれあり」
電話の先では、泣いている人もいた。
(通報者からすれば、人生に一度あるかないかの一件なのだ)
そう思い、一件一件に丁寧な説明を心がけた。
「時間はかかりますが、必ず向かわせますのでしばらくお待ちください」
喉が渇き、口の中もカラカラになった。
時間の感覚は、なくなっていたという。
400件のうち、この日、応答できたのは半分程度。
指令室につながらなかった通報も、多数あったとみられている。
(通報者からすれば、人生に一度あるかないかの一件なのだ)
そう思い、一件一件に丁寧な説明を心がけた。
「時間はかかりますが、必ず向かわせますのでしばらくお待ちください」
喉が渇き、口の中もカラカラになった。
時間の感覚は、なくなっていたという。
400件のうち、この日、応答できたのは半分程度。
指令室につながらなかった通報も、多数あったとみられている。
稲川さん
「指令室にいる私は、現場に向かうこともできない。救急車も消防車も向かわせられない。すごく悔しい思いをしている時に、『頑張ってください』と逆に声をかけてくれる方もいて…涙をこらえながら119番をとっていた記憶があります」
「指令室にいる私は、現場に向かうこともできない。救急車も消防車も向かわせられない。すごく悔しい思いをしている時に、『頑張ってください』と逆に声をかけてくれる方もいて…涙をこらえながら119番をとっていた記憶があります」
《発生3時間半》「消防力は圧倒的に劣勢」 輪島市消防
《発生から3時間半 1月1日午後7時半ごろ》
この時、大規模火災が起きた輪島市の地元消防も、対応力をはるかに超える事態に直面していた。
「消防力の圧倒的劣勢」
朝市通りの火災を目前にした時、現場指揮をとる出坂消防署長は、瞬間的にそう感じたという。
この時、大規模火災が起きた輪島市の地元消防も、対応力をはるかに超える事態に直面していた。
「消防力の圧倒的劣勢」
朝市通りの火災を目前にした時、現場指揮をとる出坂消防署長は、瞬間的にそう感じたという。
火災の対応にあたった消防隊員は25人。
その人数で太刀打ちできる火災規模ではなかった。
その人数で太刀打ちできる火災規模ではなかった。
水も不足していた。消火栓は断水で使えず、大津波警報が出る中、海岸にも近づけない。
さらに、「輪島に行ける道がない」という連絡が出坂署長のもとに届く。外からの応援も、すぐには期待できなかった。
さらに、「輪島に行ける道がない」という連絡が出坂署長のもとに届く。外からの応援も、すぐには期待できなかった。
出坂署長
「倒壊家屋も多数あり、何人が中にいるかも把握できていない中で、助ける唯一の方法があるとすれば、早く火災を消し止め、1人でも多くの命を救うことだった。なんとかしたいという気持ちで、とにかく早く消したかった。それだけでした」
「倒壊家屋も多数あり、何人が中にいるかも把握できていない中で、助ける唯一の方法があるとすれば、早く火災を消し止め、1人でも多くの命を救うことだった。なんとかしたいという気持ちで、とにかく早く消したかった。それだけでした」
火の勢いがほぼおさまったのは、半日ほどが過ぎた2日の朝方。
しかし、対応出来ていない救助事案が、多数残っていた。
生存率が大きく下がるとされる「72時間」。
出坂署長は、隊員たちに帰宅を控えてもらい、救助活動にあたるよう指示した。
生存率が大きく下がるとされる「72時間」。
出坂署長は、隊員たちに帰宅を控えてもらい、救助活動にあたるよう指示した。
《発生12時間》“両親のいる実家が燃えていく…” 清水さん
《1月2日早朝》
実家周辺から避難した後、翌朝にかけて、清水宏紀さんの記憶は定かではない。
気づいたときには、家のあたりも燃えていた。
近づくことは、出来なかった。
なぜかは、うまく言葉にできない。
心のどこかで、諦めていたのかも知れない。
明るくなってから、家の前にいった。
実家周辺から避難した後、翌朝にかけて、清水宏紀さんの記憶は定かではない。
気づいたときには、家のあたりも燃えていた。
近づくことは、出来なかった。
なぜかは、うまく言葉にできない。
心のどこかで、諦めていたのかも知れない。
明るくなってから、家の前にいった。
その時はまだ、家は燃えていた。
「危ないから下がって!」という消防隊の声を無視して近づくと、まだ熱気があった。
淡々と、実家が燃えているのを見ていた。
「危ないから下がって!」という消防隊の声を無視して近づくと、まだ熱気があった。
淡々と、実家が燃えているのを見ていた。
「離れて!」という声が絶えず後ろから聞こえていた。
この時の心情を、清水さんはこう表現した。
「自分の目で見ていたかったんだと思います」
この時の心情を、清水さんはこう表現した。
「自分の目で見ていたかったんだと思います」
火災現場ではその後、母、きくゑさんと、父の博章さんとみられる遺体が見つかった。身元の確認ができず、「除籍」という戸籍から籍を抜く手続きが行われ、2人は法的に死亡が確認された。
《発生半日》「道路寸断」が応援部隊を阻む
発生翌日の1月2日朝、能登半島の各地では氷点下の寒さとなった。
この時点では、家屋の下敷きになりながら助けを待っていた人が複数いたことが、取材で確認されている。
多くの人が救助を待ち、地元消防が懸命に対応し続けていたこの時、県外からの応援部隊が半島内部へ進もうとしていた。
しかし、道路の陥没や隆起、それに土砂崩落が至る所で発生。
半島内部に進むのを阻んでいた。
多くの人が救助を待ち、地元消防が懸命に対応し続けていたこの時、県外からの応援部隊が半島内部へ進もうとしていた。
しかし、道路の陥没や隆起、それに土砂崩落が至る所で発生。
半島内部に進むのを阻んでいた。
この間にも、救助を待つ人の体力は、失われていったとみられている。
《同時刻》「統括・連携機能が脆弱だった」石川県 災害対策本部
この頃、情報の取りまとめ役となる石川県の災害対策本部には、徐々にではあるが、情報が集まり始めていた。
現場に向かう警察、消防、自衛隊の報告から、被害が極めて広域に及ぶことが、浮かび上がりつつあった。
現場に向かう警察、消防、自衛隊の報告から、被害が極めて広域に及ぶことが、浮かび上がりつつあった。
しかし、“それらを集約し、効果的な救助につなげる役割を十分果たすことは出来なかった”と、県の災害時の事務方トップはNHKの取材に語った。
石川県 飯田重則 危機管理監
「警察も消防も自衛隊も、災害対応、現場の救助救出のプロ。これら3つの機関を束ねて調整するとは、実は思っていなかったですし、経験もなかった。連携する機能、統括する機能が脆弱だったのではないかと感じている」
「警察も消防も自衛隊も、災害対応、現場の救助救出のプロ。これら3つの機関を束ねて調整するとは、実は思っていなかったですし、経験もなかった。連携する機能、統括する機能が脆弱だったのではないかと感じている」
― 道路寸断や情報の混乱の中、たどり着かない救助。
このとき被災地では、被災した住民自身が、過酷な救助活動の最前線に立たされていた。
このとき被災地では、被災した住民自身が、過酷な救助活動の最前線に立たされていた。
《発生翌日》“住民みずからが迫られた命の選択” 珠洲市消防団
家屋倒壊と津波による深刻な被害が出た、珠洲市宝立町。
日が変わる頃、地元住民で作る消防団の団員、高重幸さんは、津波の浸水域下での救助活動を始めた。
日が変わる頃、地元住民で作る消防団の団員、高重幸さんは、津波の浸水域下での救助活動を始めた。
「救急車の音ですらせずに、シーンとした中で、潰れた家だけがある。道路は壊れて、橋をよじ登って飛び降りて…真っ暗なところを歩いていると、この街はこれからどうなっていくのかと、もう本当に怖かった」
この時まだ、津波警報は発表されている。
2011年の東日本大震災では、多くの消防団員が、活動中に津波で命を落とした。
その教訓が、頭をよぎった。
しかし、助けを求める声に、応じないわけにはいかなかったという。
2011年の東日本大震災では、多くの消防団員が、活動中に津波で命を落とした。
その教訓が、頭をよぎった。
しかし、助けを求める声に、応じないわけにはいかなかったという。
高重幸さん
「発生後、次の日の昼近くまでの20時間は、そこにいた人間しか活動できなかったんです。地元の消防団員と有志、帰省中の頑張ってくれた若い子たちだけ。腕組んで座っているわけにもいかんですし、皆が頑張っている中、『危ないからやめよう』とは絶対に言えなかった」
「発生後、次の日の昼近くまでの20時間は、そこにいた人間しか活動できなかったんです。地元の消防団員と有志、帰省中の頑張ってくれた若い子たちだけ。腕組んで座っているわけにもいかんですし、皆が頑張っている中、『危ないからやめよう』とは絶対に言えなかった」
町には津波による水も残り、通信も断絶。
団員同士の連携もとれない中、無我夢中で救助活動にあたった。
高さんが作った報告書には当時、団員たちが迫られた「命の選択」の状況が克明に記されている。
団員同士の連携もとれない中、無我夢中で救助活動にあたった。
高さんが作った報告書には当時、団員たちが迫られた「命の選択」の状況が克明に記されている。
2名の生存確認…地元有志も加わり、チェーンソーほか道具を準備して向かう…余震で家屋の倒壊が進み2階から侵入し頭部に手をあててみることまではできたが、バイタル確認できず、救出できないまま無念の一時撤退…
状況から判断して…心肺蘇生はせずに次の現場に向かってしまった。家族の前での活動でもあり、せめて胸骨圧迫でもするべきだったといまだ悔やまれる (報告書より)
珠洲市宝立町は、特に被害が集中した地区の1つだ。
家屋の倒壊と津波による深刻な被害が、救助活動を阻んだとみられている。
この状況下、高さんたちは地域住民と協力し、22人を助け出した。
この状況下、高さんたちは地域住民と協力し、22人を助け出した。
《発生3日目》「もう少し早く人が集まれば…」高重幸さん
《1月3日朝 珠洲市宝立町》
この頃になると、重機を備えた県外からの応援部隊が到着し始め、救助活動は、格段に進むようになった。
この頃になると、重機を備えた県外からの応援部隊が到着し始め、救助活動は、格段に進むようになった。
この時点でもまだ、家の下敷きになっている人がいた。
しかし、息をして助け出される人は、ほとんどいなくなっていたという。
しかし、息をして助け出される人は、ほとんどいなくなっていたという。
高重幸さん
「消防や警察行政、もう少し早く人が集まれば、救える命も救えたのかなという気持ちもあります。ただ、自分たちももう少し頑張れたのではないかと、両方の気持ちです」
「消防や警察行政、もう少し早く人が集まれば、救える命も救えたのかなという気持ちもあります。ただ、自分たちももう少し頑張れたのではないかと、両方の気持ちです」
消防団の報告書の末尾、高さんはこう書き記した。
救助活動全般では、助けることが出来たかも知れない命も多く、無我夢中で駆け回った救助の達成感よりも、倒壊家屋の前で立ち尽くすだけ…救助できなかった無念な気持ちの方が強い
宝立町の津波の浸水域では、少なくとも24人が亡くなっていたことが、取材で確認されている。
“救助待ち” 少なくとも48人 要請時点では生存者も
石川県によると、2025年1月1日時点で、能登半島地震による「直接死」は228人に上る。
この1年、NHKは遺族への取材を続けてきた。
強く感じたのが、「助けを待っていた」という声の多さと、それに対する遺族のやり場のない感情だった。
地震直後、助けを待っていた人がどれくらいいて、どういう状況に置かれていたのか。
NHKは、直接死とみられる※死者203人の被災状況について、詳しく調査した。
この1年、NHKは遺族への取材を続けてきた。
強く感じたのが、「助けを待っていた」という声の多さと、それに対する遺族のやり場のない感情だった。
地震直後、助けを待っていた人がどれくらいいて、どういう状況に置かれていたのか。
NHKは、直接死とみられる※死者203人の被災状況について、詳しく調査した。
その結果、救助を要請したものの、ただちに助けが来ず、その後、死亡が確認された、いわば“救助待ち”のケースは、確認できただけでも48人に上った。
このうち少なくとも15人は、要請時点では生きていたとみられることが、遺族などへの取材で明らかになった。(2024年12月27日時点)
このうち少なくとも15人は、要請時点では生きていたとみられることが、遺族などへの取材で明らかになった。(2024年12月27日時点)
これらのケースはNHKが確認できたものに限られ、実際にはさらに多い可能性がある。
※被災場所特定には静岡大学 牛山素行教授の協力を得た。
取材で分かったケースの一部を紹介する。
※被災場所特定には静岡大学 牛山素行教授の協力を得た。
取材で分かったケースの一部を紹介する。
楠珠蘭さん(19)楠由香利さん(48) 輪島市河井町
自宅で家族5人で過ごしていたところ地震が起き、倒壊した建物の下敷きとなった。珠蘭さんは地震直後、「水をちょうだい」などと話し、由香利さんも生きていた。救助要請が何度も行われたものの、近くでは火災もあり、ただちに救助は来なかった。発生からおよそ5時間たって救助が始まり、翌日以降に助け出されたが、いずれも死亡が確認された。
自宅で家族5人で過ごしていたところ地震が起き、倒壊した建物の下敷きとなった。珠蘭さんは地震直後、「水をちょうだい」などと話し、由香利さんも生きていた。救助要請が何度も行われたものの、近くでは火災もあり、ただちに救助は来なかった。発生からおよそ5時間たって救助が始まり、翌日以降に助け出されたが、いずれも死亡が確認された。
外節子さん(89)輪島市堀町
地震で倒壊した家屋の下敷きになった。複数の住民が救助要請を行うも、道路寸断も相次ぐ中、救助は来なかった。県外から応援に来た部隊に救出された時には発生から72時間以上がたっていた。外さんは当時意識はあったものの、長時間、家屋の下敷きになったことも影響し1月6日、亡くなった。
地震で倒壊した家屋の下敷きになった。複数の住民が救助要請を行うも、道路寸断も相次ぐ中、救助は来なかった。県外から応援に来た部隊に救出された時には発生から72時間以上がたっていた。外さんは当時意識はあったものの、長時間、家屋の下敷きになったことも影響し1月6日、亡くなった。
橋本正一さん(76) 輪島市町野町
地震で倒壊した自宅の下敷きとなった。2日午前、地域住民によって助け出され、避難所で手当てをうけるが、できる治療には限りがあった。この日、要請を受けた救助ヘリが避難所に到着。しかし運べる人数には限りがあり、搬送出来なかった。翌3日の朝、死亡が確認された。
地震で倒壊した自宅の下敷きとなった。2日午前、地域住民によって助け出され、避難所で手当てをうけるが、できる治療には限りがあった。この日、要請を受けた救助ヘリが避難所に到着。しかし運べる人数には限りがあり、搬送出来なかった。翌3日の朝、死亡が確認された。
50代男性 珠洲市宝立町
津波が押し寄せた珠洲市宝立町で被災。深夜、津波で流された建物の2階にいるのを消防団員が見つける。その時は「寒い。けがをして動けない」と話していた。1人で救助できる状況になく、団員は消防に救助要請。しかし間に合わず、男性はその後、亡くなっているのが見つかった。
津波が押し寄せた珠洲市宝立町で被災。深夜、津波で流された建物の2階にいるのを消防団員が見つける。その時は「寒い。けがをして動けない」と話していた。1人で救助できる状況になく、団員は消防に救助要請。しかし間に合わず、男性はその後、亡くなっているのが見つかった。
専門家「“地域公助の限界”浮き彫りに ひと事ではない」
“救助待ち”の個々のケースを詳しく見ていくと、
▼電話が繋がらず、要請ができなかったケース、
▼電話が繋がっても、要員の不足で現場に向かえなかったケース、
さらに、
▼道路寸断などで、現場に向かえなかったケースが多く生じていた。
これらの詳細を、消防行政に詳しい関西大学の永田尚三教授に見てもらったところ、永田教授は「“地域の公助の限界”が改めて浮き彫りになった」と指摘した。
▼電話が繋がらず、要請ができなかったケース、
▼電話が繋がっても、要員の不足で現場に向かえなかったケース、
さらに、
▼道路寸断などで、現場に向かえなかったケースが多く生じていた。
これらの詳細を、消防行政に詳しい関西大学の永田尚三教授に見てもらったところ、永田教授は「“地域の公助の限界”が改めて浮き彫りになった」と指摘した。
「地元消防など地域の公助は、人員や機材に限りがあり、救助要請や火災が同時多発する大規模災害に対応するには限界がある。本来、外部からの応援部隊が速やかに向かい、それを補うことが期待されるが、今回は『半島』という地形条件や道路寸断も重なり、スムーズにいかなかった。いわば“救助の空白地域”が生じ、『助けが来ない』状況が能登半島各地で起きた」
そのうえで、『助けが来ない』事態は、再び起きうることで、決してひと事ではないとしている。
「日本の消防本部のおよそ6割は小規模なもので、想定される南海トラフ地震などでも『助けが来ない』事態は必ず起きるだろう。一人でも多くの命を救うには、外からの応援体制の強化・見直しや、消防団など地域住民の共助力の充実と高度化を進める必要があり、大規模災害時の救助体制のあり方を国全体で検討していく必要がある」
石川県 初動検証委員会を立ち上げ 国も対応力強化へ
能登半島地震の発生から1年。
いま石川県は初動検証委員会を立ち上げ、全職員へのヒアリングを進めている。当時の判断や体制は適切だったか、助けられたはずの命はなかったか。年度内にも、報告書をまとめる予定だ。
また今回、“救助待ち”が相次いだことについて、外部からの救助部隊を運用する総務省消防庁と、警察庁に受け止めと今後の対応を聞いた。
いま石川県は初動検証委員会を立ち上げ、全職員へのヒアリングを進めている。当時の判断や体制は適切だったか、助けられたはずの命はなかったか。年度内にも、報告書をまとめる予定だ。
また今回、“救助待ち”が相次いだことについて、外部からの救助部隊を運用する総務省消防庁と、警察庁に受け止めと今後の対応を聞いた。
総務省消防庁
「応援の救助隊も道路の寸断で、車両が現地に入るのに時間がかかった。この結果、救助の開始に時間がかかったことは課題と感じている。応援の救助隊がすばやく現地で活動できるかが重要で、来年度以降、自衛隊のヘリコプターで輸送できる小型の救助車両を各地の半島部に配備する」
「応援の救助隊も道路の寸断で、車両が現地に入るのに時間がかかった。この結果、救助の開始に時間がかかったことは課題と感じている。応援の救助隊がすばやく現地で活動できるかが重要で、来年度以降、自衛隊のヘリコプターで輸送できる小型の救助車両を各地の半島部に配備する」
警察庁
「発災直後は土砂崩れなどのため、特に被害の大きかった珠洲市や輪島市への陸路での移動が困難だったため、道路の情報収集を行うとともに被災地への部隊展開を迅速に行った。初動の展開をさらに迅速化するため、救助活動のための大型資材をのせることができる四輪駆動車や、空路輸送を想定した小型で軽量の資機材を整備する」
「発災直後は土砂崩れなどのため、特に被害の大きかった珠洲市や輪島市への陸路での移動が困難だったため、道路の情報収集を行うとともに被災地への部隊展開を迅速に行った。初動の展開をさらに迅速化するため、救助活動のための大型資材をのせることができる四輪駆動車や、空路輸送を想定した小型で軽量の資機材を整備する」
いずれも能登半島地震の救助活動を踏まえ、対応力の強化を図る方針だとしている。
「大きな災害時にはこういうことが起きる。それを知って欲しい」
「救助」をめぐって、あのとき能登半島で何が起きていたのか。
取材班のこの問いかけに対し、助けを待っていた多くの遺族、そして救助側の最前線にいた関係者たちが話を聞かせてくれた。
心の痛みも伴う取材に、なぜ答えてくれたのか。
記事で紹介した清水宏紀さんは、次のように話してくれた。
心の痛みも伴う取材に、なぜ答えてくれたのか。
記事で紹介した清水宏紀さんは、次のように話してくれた。
「インタビューに答えているのは、この災害のことを知って欲しいという思いからです。被災地のこととか、能登のこととか、忘れられてしまうのではないかって思って」
そして、次のようにも話した。
「いろんな災害でもそうですけど、いざ自分がそういう立場にならないと本当の意味では実感しないというか、痛感しない。今、自分はそれを痛感している。大きな災害時には、こういうことが起きる。それを知って欲しいと思ってお答えしました」
“あの災害のことを知って欲しい”
私たちは、清水さん以外の人の多くからも、この言葉を受け取っている。
この記事や番組から、あの時、能登半島で何が起きていたのか、そして今の能登半島のことを、一人でも多くの人に知ってもらえればと思う。
(取材)
内山裕幾、山尾和宏、林勇志、臼杵良
山根拓樹、石田幸丸、矢萩脩、池田航
私たちは、清水さん以外の人の多くからも、この言葉を受け取っている。
この記事や番組から、あの時、能登半島で何が起きていたのか、そして今の能登半島のことを、一人でも多くの人に知ってもらえればと思う。
(取材)
内山裕幾、山尾和宏、林勇志、臼杵良
山根拓樹、石田幸丸、矢萩脩、池田航
この内容は以下の番組で放送予定です。
ドキュメント 能登半島地震 緊迫の72時間
【放送予定】
2025年1月1日(水) 午後7:40-午後8:40
2025年1月1日(水) 午後7:40-午後8:40