三笠宮妃 百合子さま ご逝去 101歳 “激動の時代”を歩まれて
三笠宮妃の百合子さまが、15日朝、亡くなられました。皇室で最高齢の101歳でした。
16日から、一般の人たちの弔問を受け付ける記帳所が、東京・港区の三笠宮邸に設けられます。当分の間、毎日午前9時から午後7時まで記帳が受け付けられます。
ニュースウオッチ9 三笠宮妃百合子さまご逝去
三笠宮妃百合子さま ご逝去受け 上皇ご夫妻の様子など側近が発表
三笠宮妃の百合子さまの斂葬の儀 今月26日に豊島岡墓地で
百合子さまは、脳梗塞や誤えん性肺炎のため、ことし3月3日に東京 中央区の聖路加国際病院に入院されました。
右の手足の動かしづらさがかなり回復し、肺炎の症状も落ち着いたことなどから、10日余りで集中治療室から一般の病室に移り、療養を続けられました。
さらに、軽い肺炎の症状がみられたことから、8月中旬から9月上旬にかけて3週間余りにわたって再び集中治療室で治療を受けたあと、一般の病室に移って療養を続けられていましたが、今月8日に宮内庁が全身の機能が低下していると発表していました。
その後容体が悪化し、宮内庁によりますと、15日午前6時32分に亡くなられたということです。
入院先の病院には、15日朝、孫の三笠宮彬子さまと妹の瑶子さま、それに高円宮妃の久子さまと高円宮家の長女の承子さまが、相次いで駆けつけられました。

百合子さまは、昭和天皇の弟で平成28年に亡くなった三笠宮さまと75年にわたって連れ添い、6月4日には明治以降の皇室で最高齢となる101歳の誕生日を迎えられていました。
皇族が亡くなったのは、8年前に三笠宮さまが亡くなって以来です。
百合子さまが亡くなられたことで、皇室は、天皇陛下と上皇さま、それに皇族方のあわせて16人となりました。

百合子さま 激動の時代を歩まれて【動画 2分55秒】
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百合子さまは、大正・昭和・平成・令和と激動の時代を歩まれてきました。
長年、母子愛育会の総裁を務め、母子保健の向上に力を尽くされてきました。

大正12年、貴族院議員の高木正得子爵夫妻の次女として生まれ、昭和16年に、18歳で、昭和天皇の弟の三笠宮さまと結婚されました。
結婚後まもなく太平洋戦争が始まります。
空襲でお住まいを焼け出され、防空ごうで生活されたこともありました。

戦後は日本赤十字社の名誉副総裁を務め、福祉などの向上に力を尽くされました。

軍人だった夫の三笠宮さまは、歴史研究の道に進みました。
百合子さまが、ノートを書き写したり資料の整理をしたりと、研究活動を手伝われていたというエピソードも伝わっています。

また、百合子さまは、5人のお子さまを育てられました。

のちに、「ひげの殿下」の愛称で親しまれた寛仁さまなど、お子さまを相次いで先に亡くす悲しみも経験されました。

昭和から平成へ、激動の時代を三笠宮さまとともに歩まれて75年。
三笠宮さまは平成28年に100歳で亡くなりました。

百合子さまは去年100歳を迎えられました。
明治以降の皇族で三笠宮さまに続いて2人目です。
このとき文書で、「現在は、孫や曾孫の成長をとても楽しみとしております。これからも人々の幸せを祈念しつつ、日々を過ごしてまいりたいと存じます」とお気持ちを述べられていました。
そして、入院が続く中、ことし6月に101歳を迎えられていました。
両陛下 弔問のため赤坂御用地に

天皇皇后両陛下は、15日午後、弔問のため、東京・港区の赤坂御用地にある百合子さまのお住まいを訪ねられました。
その後、上皇ご夫妻や、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さま、それに両陛下の長女の愛子さまや常陸宮ご夫妻が弔問のため宮邸を訪ねられたということです。
秋篠宮ご夫妻と佳子さま、それに長男の悠仁さまは、午後2時半ごろに皇居を訪れて両陛下に弔意を表されたということです。
宮内庁会見”死因は老衰”
三笠宮妃の百合子さまが亡くなられたことを受けて、宮内庁は15日午前11時ごろから記者会見しました。
この中で、諸橋省明宮務主管は、百合子さまが午前6時32分に東京・中央区の聖路加国際病院で亡くなられたと説明したうえで、「謹んで哀悼の意を表する次第であります」と述べました。
続いて、皇室の医療を統括する永井良三皇室医務主管が、ことし3月に、脳梗塞などのため入院後の経過について、9月に集中治療室から一般病棟の個室に移ってからは、毎日30分から1時間ほど車いすに移ってマッサージを受けるなどのリハビリを続けられていたと説明しました。
そのうえで、亡くなられた経緯について、「お声がけすると目を開きうなずかれていたが、今週はそうした時間が減り、徐々に心臓や腎臓の機能が低下していると考えられた。病院にはできるだけの手を尽くしていただいたが、きょう早朝から血圧が低下した」などと述べました。
死因は老衰だということです。
石破首相謹話“心から哀悼の意”

石破総理大臣は三笠宮妃の百合子さまが亡くなられたことを受けて内閣総理大臣謹話を発表しました。
内閣総理大臣謹話は林官房長官が閣議のあとの記者会見で読み上げました。
この中では「三笠宮妃百合子殿下のご訃報に接し悲しみの念を禁じ得ません。妃殿下は皇族として医療、福祉、文化、スポーツ、国際親善など幅広い分野にわたり貢献され、とりわけ母子愛育事業には長年にわたり関わり、献身的なご尽力をなされました」としています。
その上で「国民は妃殿下のいっそうのご長寿を願っていたところ、思いもむなしく薨去 (こうきょ)されましたことは誠に哀惜に堪えません。皇室をはじめ、ご近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、国民とともに謹んで心から哀悼の意を表します」としています。
百合子さまと交流あった方々

湊晶子さんは研究者として東京女子大学で教べんをとった三笠宮さまの助手を務め、百合子さまとも交流がありました。
「三笠宮さまはいつも私に『百合子がいないと僕はないんだ』とおっしゃっていました。どの時代も、百合子さまは前に出ることをなさらず、いつも謙遜し、皇室を支えられた方だと思います」
「ありがとうございましたという感謝の気持ちです。悲しみも苦しみもお顔に出されずに、本当に平静を保ちつつ、最後までその姿勢をお示しになられた百合子さまはあっぱれといいますか、すばらしい女性でいらしたと思います。日本の国民を思い、そして、たくさんの愛、温かさをみなさんに届けてくださいました」
母子愛育会“多くのご指導を賜り、深く感謝”
三笠宮妃の百合子さまが昭和23年から平成22年まで60年余りにわたって総裁を務められた「母子愛育会」は、「訃報に接し、衷心より哀悼の意を表します。妃殿下には、前総裁として63年間にわたり、会の運営に深く心を遣われ、会の施設のご視察、職員への励まし、各種行事へのご臨席を賜りました。特に愛育班員全国大会には、昭和44年の第1回から毎回ご臨席をいただき、愛育班活動やその育成について、大変ご熱心に激励とねぎらいのお言葉をいただきました。会の役職員、そして全国の愛育班活動関係者一同、生前、大変多くのご指導を賜りましたことに、深く感謝申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします」とするコメントを発表しました。

着物文化の普及に長年取り組まれてきた百合子さまと親交があった「民族衣裳文化普及協会」の水島博子さんは、去年開かれた百合子さまの100歳の誕生日を祝う会での様子について、「その時はお元気で、妃殿下はご自分で車いすで、会場を回られて、おひとりおひとりにお声がけされていらっしゃいました。女性としても、お立場を抜きにしても、本当に尊敬申し上げていたので、自分でも驚くほど、声を上げて泣いてしまいました。今まで本当にお疲れ様というそんな思いでした」と話していました。
そのうえで、「ご尊敬申し上げているけれど、堅苦しくなく、本当にお声も美しいし、お姿もしゅっとされていて、みんなに優しく、文化を支えてくださると感じておりました。百合子さまのおふるまいとか、お考えを思いながら、あとに続きたいとお仲間はそう思っていらっしゃると思いますので、それを若い方にもお伝えしたいと思います」と話していました。
日本赤十字社がコメント「悲しみの念を禁じ得ない」
三笠宮妃の百合子さまが長年名誉副総裁を務められた「日本赤十字社」は、「御訃報に接し、悲しみの念を禁じ得ません。妃殿下は、1953年3月に開かれた日本赤十字社の第1回代議員会で、秩父宮妃殿下、高松宮同妃両殿下、三笠宮殿下とともに日本赤十字社名誉副総裁に推戴されました。その翌年から災害救護演習にご臨席され、その後も募金活動を含むさまざまなチャリティー活動、赤十字病院へのご訪問など、70年余りにわたり名誉副総裁として日本赤十字社の活動をお支えくださいました。全国のボランティアをはじめ、赤十字関係者一同、妃殿下の御回復を心よりお祈りしておりましたが、思いもむなしく薨去されましたことは、深い哀惜の念に堪えません。ここに、衷心より謹んで哀悼の誠をささげます」というコメントを発表しました。