「伝説の漫画雑誌」を生んだ書店 惜しまれつつ閉店
「少年ジャンプ読めます!! 1冊だけあります」
東日本大震災の直後、仙台市の書店に張られた手書きのメッセージを見て、たくさんの子どもが集まりました。
物流が止まる中、店主が入手した最新号の1冊は、ボロボロになるまで店頭で読まれ、後に“伝説のジャンプ”と呼ばれるようになりました。
被災地の子どもたちに笑顔と安らぎを与えたまちの書店が、惜しまれながら店を閉じたのです。
(仙台放送局記者 吉原実)
東日本大震災の直後、仙台市の書店に張られた手書きのメッセージを見て、たくさんの子どもが集まりました。
物流が止まる中、店主が入手した最新号の1冊は、ボロボロになるまで店頭で読まれ、後に“伝説のジャンプ”と呼ばれるようになりました。
被災地の子どもたちに笑顔と安らぎを与えたまちの書店が、惜しまれながら店を閉じたのです。
(仙台放送局記者 吉原実)
“怖がる子どもたちに楽しみを”
「電子書籍などの流れには勝てなかった」
こう話すのは、仙台市青葉区の「塩川書店五橋店」の店主だった塩川祐一さんです。
親の代から62年間、営業を続けてきましたが、経営が難しくなり、8月末で店を閉じました。
こう話すのは、仙台市青葉区の「塩川書店五橋店」の店主だった塩川祐一さんです。
親の代から62年間、営業を続けてきましたが、経営が難しくなり、8月末で店を閉じました。
閉店を前にした8月14日、取材に訪れてみると……店には名残惜しそうな常連客の姿がありました。
「だいぶお世話になりました。ありがとうございました。きょうが来店するのは最後だなと思ってお伺いしたんです」
この書店が全国的に話題となったのは、2011年3月11日の東日本大震災の直後でした。
“怖がる子どもたちに楽しみを与えたい”という地域の人の声に応え、塩川さんは地震発生からわずか3日後に店を再開させたのです。
“怖がる子どもたちに楽しみを与えたい”という地域の人の声に応え、塩川さんは地震発生からわずか3日後に店を再開させたのです。
塩川祐一さん
「『もし本屋さんが開けば、子どもに漫画とか絵本を買ってあげたいから開けられないかな』っていうのがことの発端だったんです。この話を2、3人くらいのお母さんから聞きました。なんとかできないかと、娘ととりあえず本を(棚に)いれちゃって、店内を通れるようにして店を開けてみました」
「『もし本屋さんが開けば、子どもに漫画とか絵本を買ってあげたいから開けられないかな』っていうのがことの発端だったんです。この話を2、3人くらいのお母さんから聞きました。なんとかできないかと、娘ととりあえず本を(棚に)いれちゃって、店内を通れるようにして店を開けてみました」
営業再開後、店には多くの人が集まりました。
塩川祐一さん
「本屋にはコンセントがあるので、高齢者に限って炊飯ジャーにお米と水をいれて持ってきてくれれば、炊飯に使ってもらっていました。みんなが不安なので、近隣の人が店に集まって話をしていました」
「本屋にはコンセントがあるので、高齢者に限って炊飯ジャーにお米と水をいれて持ってきてくれれば、炊飯に使ってもらっていました。みんなが不安なので、近隣の人が店に集まって話をしていました」
しかし当時、物流は止まり、店に並べられるのは在庫だけ。そんなとき、訪れた客のひとりが手にしていたのが、山形県で購入したという最新号の漫画雑誌でした。
「僕はもう読み終わったので、塩川さんも読んでください」と託されたのです。
「僕はもう読み終わったので、塩川さんも読んでください」と託されたのです。
そして、店頭の「少年ジャンプ読めます!!」の張り紙。
手に入れた貴重な1冊を店頭に置くと、口コミでも広がり、子どもたちが次々と訪れました。
手に入れた貴重な1冊を店頭に置くと、口コミでも広がり、子どもたちが次々と訪れました。
塩川祐一さん
「ジャンプ、その他の雑誌を読みながら笑っている子どもたちをみて、それはそれで安心するし、よかったなと。その子どもの姿を見ている親もいるんですよ。お母さんたちもニコッとしたり泣いたりしているのをみると、それだけ親も苦しんだんだなって」
「ジャンプ、その他の雑誌を読みながら笑っている子どもたちをみて、それはそれで安心するし、よかったなと。その子どもの姿を見ている親もいるんですよ。お母さんたちもニコッとしたり泣いたりしているのをみると、それだけ親も苦しんだんだなって」
100人以上の子どもたちが手に取った漫画雑誌は、ボロボロになってもテープで補強され続けました。
こうした様子が全国紙などで紹介されると、それを見た全国の人たちからさまざまな雑誌が送られてくるようになったということです。
こうした様子が全国紙などで紹介されると、それを見た全国の人たちからさまざまな雑誌が送られてくるようになったということです。
13年前、雑誌を読んだ子が店に
店で取材を続けていると、13年前、店頭で漫画雑誌を読んだ子どものひとりで、当時9歳だった千葉恒太郎さんがやってきました。
被災後は家にこもり、ぼう然と過ごすしかなかったときに、店で手にした雑誌のことを鮮明に覚えていると千葉さんは話します。
千葉恒太郎さん
「本当にすごい力をもらいました。いろんな人の命が危険にさらされているような状況で、ジャンプの続きが気になるなんて幼かったので思っていたんですけど。ただそれを読めるなんて思っていなかったので、母から聞いてここに来たときはすごいうれしかったですね」
「本当にすごい力をもらいました。いろんな人の命が危険にさらされているような状況で、ジャンプの続きが気になるなんて幼かったので思っていたんですけど。ただそれを読めるなんて思っていなかったので、母から聞いてここに来たときはすごいうれしかったですね」
こうした客とのつながりは、思わぬ反響も生みました。
出版業界の団体からも注目されることになり、被災後の子どもたちに“希望と勇気を与えた”として感謝状が贈られました。
出版業界の団体からも注目されることになり、被災後の子どもたちに“希望と勇気を与えた”として感謝状が贈られました。
さらに、これらのエピソードが中学3年生の道徳の教科書にも掲載されています。
題名は「1冊の漫画雑誌」。そこには、子どもたちが立ち読みをする代わりに募金しようという提案があったことが紹介されています。
題名は「1冊の漫画雑誌」。そこには、子どもたちが立ち読みをする代わりに募金しようという提案があったことが紹介されています。
“1回読むと20円というルールが定められ、合計4万円あまりが集まりました”
“塩川さんはそのお金を、津波を受けた地域に本を届けるプロジェクトに寄付しました”
“1冊の漫画雑誌がもたらした、ささやかな奇跡でした”
(「新編 新しい道徳3」東京書籍)
“塩川さんはそのお金を、津波を受けた地域に本を届けるプロジェクトに寄付しました”
“1冊の漫画雑誌がもたらした、ささやかな奇跡でした”
(「新編 新しい道徳3」東京書籍)
塩川祐一さん
「中学校の教科書に載った、子どもたちの勉強に少しでもお手伝いできたっていうのが、自分とすれば一番いいことでしたね」
「中学校の教科書に載った、子どもたちの勉強に少しでもお手伝いできたっていうのが、自分とすれば一番いいことでしたね」
苦渋の選択
ところが、この書店にも出版不況の波が押し寄せます。
塩川さんは年々、経営が難しくなる中でなんとか書店を残そうと、病院の管理事務も掛け持つダブルワークを続けました。
塩川さんは年々、経営が難しくなる中でなんとか書店を残そうと、病院の管理事務も掛け持つダブルワークを続けました。
塩川祐一さん
「なんとか残りたいっていう気持ちはあったんですけども、世の中には勝てなかった。寝ないでやっても、この本屋は残したかった」
「なんとか残りたいっていう気持ちはあったんですけども、世の中には勝てなかった。寝ないでやっても、この本屋は残したかった」
帰省中に店を訪れた千葉さんは、これまでの感謝を伝えていました。
千葉恒太郎さん
「身近に来られる本屋さんを何十年も続けてくれたということに、本当にありがとうございました」
「身近に来られる本屋さんを何十年も続けてくれたということに、本当にありがとうございました」
被災しながらも店を再開し、子どもたちに希望を与えたまちの書店。
電子書籍の普及などが続く中で、経営難には勝てなかったと無念な気持ちを吐露していました。
同時に、最後まで気にかけていたのは被災地の子どもたちのことです。
電子書籍の普及などが続く中で、経営難には勝てなかったと無念な気持ちを吐露していました。
同時に、最後まで気にかけていたのは被災地の子どもたちのことです。
塩川祐一さん
「地震があるたびに思い出すわけです。日本各地で地震が起きるということは、どこも同じ状況なんですよ。子どもたちが怖がって震えて、誰かがそれを助けたり、みんなで協力しているわけですよね。いつも思うのは、被災地の子どものケア。誰かがやっていてくれればいいな」
「地震があるたびに思い出すわけです。日本各地で地震が起きるということは、どこも同じ状況なんですよ。子どもたちが怖がって震えて、誰かがそれを助けたり、みんなで協力しているわけですよね。いつも思うのは、被災地の子どものケア。誰かがやっていてくれればいいな」
(8月30日「おはよう日本」で放送)
仙台放送局記者
吉原実
新聞記者をへて2023年から仙台局
現在は主に事件担当
吉原実
新聞記者をへて2023年から仙台局
現在は主に事件担当