それでも村人はイチゴを食べさせた~追跡 祈りの山に墜ちたB29

それでも村人はイチゴを食べさせた~追跡 祈りの山に墜ちたB29
1300年以上の歴史を刻む修験道の聖地、
奈良県の大峰山で見つかったアメリカ軍の爆撃機“B-29”の残骸。

70年以上の時を経て、墜落の真相に迫った1人のアメリカ人青年がいます。
調査で浮かび上がってきたのは墜落から生き延びた搭乗員と村人が過ごした“敵味方を超えたひととき”でした。
(国際放送局 榎原美樹 / 大阪放送局 泉谷圭保)

きっかけは元山岳救助隊員との会話

大峰山系にある奈良県川上村に住むアメリカ人、デイビッド・カパララさん(33)。
3年前から村の地域おこし協力隊として働きながら吉野地方の林業と伝統文化をテーマにドキュメンタリーを撮り続けてきました。
カパララさんが大峰山に墜落したB-29のことを初めて知ったのは3年前。かつて山岳救助隊にいた村人の小林清孝さんから「20年ほど前、山中でB-29の残骸を見た」と聞いたのです。
デイビッド・カパララさん
「初めて聞いたときはびっくりしました。戦争と吉野の結び付きはそれまで考えたこともありませんでした。アメリカ人の自分が日米間の戦争についてお年寄りに話を聞くのはデリケートな問題だと思いましたが、B-29の存在を知った以上、何があったのか知りたいと思ったのです」

4人のアメリカ兵が生き残っていた

カパララさんは、戦時資料が保管されているアメリカ国立公文書館に問い合わせ、墜落機に関する報告書があることを突き止めました。

大峰山で見つかったB-29は1945年6月1日、400機以上の編隊で大阪を空襲。
日本軍の対空砲火を受け、4つのうち1つのエンジンが火を吹いたあと消息を絶ち、大峰山系にある山上ヶ岳に墜落していたのです。
戦後まもなくアメリカ軍が墜落現場で行った調査の記録には「当時の村人たちは、亡くなった搭乗員を墜落直後に埋葬し、墓標を立てて弔った」と記されていました。
さらに驚くべき事実も。

墜落機の搭乗員11人のうち4人がパラシュートで脱出し生存していたのです。アメリカ軍兵士のデータベースで調べると、彼らはいずれも20代の若者たちでした。

ハート軍曹と村人の“つかの間の交流”

カパララさんが特に注目したのがアルビン・ハート軍曹。パラシュートで脱出後、1人で森をさまよっていたところ川上村の住民に発見された生存者です。

カパララさんは、その村人の親戚で、当時の話を聞いたという山本逸朗さんを探し当てます。山本さんは子どものとき、村にいたハート軍曹を実際に見たと明かしたうえで、村人の間に“敵味方を超えたひととき”があったことを教えてくれました。
山本逸朗さん
「(ハート軍曹は)大木の裏に隠れていて手を挙げて出てきたらしい。私の記憶でも背の高い人で体格のええ人やった。縁側に座って大おじがお皿にイチゴを入れて出すと、おいしそうに食べていたそうです」
大おじの重光さんには、ハート軍曹と同じ年頃の一人息子がいましたが沖縄戦で戦死。
重光さんは、身体を震わせていたハート軍曹を見て自宅に連れ帰り、庭で大切に育てていたイチゴを食べさせていました。
程なく警察に連行されることになったハート軍曹は、別れ際、重光さんにお礼のことばと共に持っていたコンパスを渡します。重光さんは亡くなるまでそのコンパスを大切に磨き続けていたといいます。
村の人への聞き取りから、ハート軍曹は顔と手にやけどを負っていて、村の医師が治療したというエピソードも判明しました。
手当てをしたのは地元の診療所の女性医師、故・辻千恵子さんでした。
辻千恵子さんの親戚 芙美子さん
「医学を勉強して“どんな人にも分け隔てなく治療しなければ”と言う信念がおそらく彼女(千恵子さん)の中にあったのではないでしょうか」
デイビッド・カパララさん
「戦争中はアメリカ人を敵だと見なす人が多かっただろうに、空襲したばかりの敵兵を手当てした若い医師の存在に驚きました。思いやりにあふれた行いに心を動かされました」

ハート軍曹はその後 捕虜となり死亡

生存していた搭乗員たちは、その後どうなったのか。

カパララさんは、第2次世界大戦中に日本軍が捕らえた連合軍捕虜について調査研究を行う民間団体「POW研究会」を訪ね、消息を調べました。
保管されていた資料によると、ハート軍曹ら生き残った4人は、後に全員捕らえられ、大阪に司令部があった中部憲兵隊に連行され捕虜となっていました。

2人は銃殺。もう一人は青酸カリによる毒殺。ハート軍曹の死因は不明。
ハート軍曹は戦後アメリカ軍が行った遺体の発掘調査で妻と交わした結婚指輪のイニシャルから身元が特定されていました。

戦争末期、敗戦色が濃くなった日本では、空襲に関わった連合軍搭乗員が捕虜となった場合、多くが当時定められていた軍の裁判を経ることなく、処刑や虐待によって亡くなっていたのです。
POW研究会でもらったアメリカ軍の手書きの地図と写真を手にカパララさんはハート軍曹の遺体が埋められていた大阪・天王寺区にある旧真田山陸軍墓地を訪ねます。

たどりついたのは墓地の片隅にある薮。遺体は他の捕虜と共に敷地内に掘られた穴の中に埋められたとみられています。
カパララさんは、アメリカ軍が墓地の現地調査で写した1枚の写真を見つめていました。

手前には連合軍捕虜の墓穴を掘り返した複数の穴。
塀を隔てた向こうには空襲で焼け野原になった大阪の光景。
そこには、戦争がもたらす“現実”が映し出されていました。
「ハート軍曹たちがゴミのように捨てられていたことに胸が痛みます。しかし塀の向こう側では大阪が完全に焼き尽くされ、どちらの側でも命が大事にされていませんでした。戦争がいかにむなしいものか思い知らされます」

“戦争は二度としてはならない”

およそ1万5000人もの命が奪われたとされる大阪空襲。空襲で家族を奪われた日本の人たちは、どんな思いを抱えて生きてきたのか。

カパララさんは大阪の平和資料館で長年、戦争の語り部を務めてきた伊賀孝子さん(90)に面会を申し入れます。
13歳の時に空襲に遭い、母と7歳だった弟を亡くした伊賀さんは、資料館の敷地内のある場所にカパララさんを案内してくれました。
そこには9000人余りの空襲犠牲者一人一人の名前を浮き彫りにした銘板がありました。たび重なる大阪の空襲で誰が亡くなったのか。実は、かつてその全貌をまとめた資料はありませんでした。

伊賀さんは亡くなった一人一人の存在が忘れられてはならないと、40年前から大阪中の寺を訪ね歩き、空襲犠牲者の名簿を作ってきたのです。銘板は伊賀さんの活動がきっかけとなってできたものでした。
伊賀孝子さん
「生きていた証しとして犠牲者の名前を残すべきです。名前には亡くなった一人一人の歴史、生きてきた跡があるんですよ。戦争はしてはならないと亡くなった人が訴えているのです」
デイビッド・カパララさん
「空襲を経験した人がどれほどの傷を今も抱えているのか、直接話を聞いて初めて知りました。二度と戦争が起きないように自分もできることをしなければならない」
カパララさんは去年、亡くなったアメリカの兵士の遺族と連絡を取り、墜落現場で慰霊を行いました。人がほとんど足を踏み入れることのない山中まで片道2日がかりの道のりです。険しい谷を下った先で土から顔を出していたのは、あのB-29のエンジンの残骸でした。
カパララさんは、亡くなった搭乗員の写真と花をささげ、アメリカ兵、そして空襲で命を絶たれた人たちを思って祈りをささげました。

戦争の悲劇を決して忘れてはならない。

カパララさんは取材してきたことを本にまとめ日米両国に伝えていきたいと考えています。
デイビッド・カパララさん
「私には戦争の経験はありませんが、戦争体験者との出会いを通じて、その思いを伝えることならできるのではないかと気がつきました。彼らが負った心の傷、そして平和への切実な願いを、少しでも伝えられれば私も自分の使命を果たすことになると思います」
国際放送局エグゼクティブ・ディレクター
榎原美樹
1987年入局 タイやNYでの特派員やキャスターを経て、戦争と平和に関するドキュメンタリー制作を行う
大阪放送局報道番組ディレクター
泉谷圭保
2000年入局
不登校、発達障害のある子どもの学び方や子育てを中心に取材。