大和徒然草子

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戦国期大和の古豪にして磯城の王者・十市氏~大和武士の一族(2)

中世の大和国、とりわけ南北朝時代から戦国時代にかけて、在地領主として活動したのが、興福寺の衆徒・国民であった大和武士たちです。

当ブログ内のシリーズ記事「大和武士の一族」では、中世大和で活躍した大和武士の各一族歴代をたどり、大和の中世においてどのような活躍を見せたのかを紹介しています。

初回となった前回は、安土桃山時代に大和国の覇者となり、近世大名へと飛躍した筒井氏の事績について紹介しました。

今回ご紹介するのは、奈良盆地南東部、古来から磯城と呼ばれた地域の有力国人であった十市氏です。

 

十市氏の出自

さて、まずは「十市」の訓み方ですが、現在奈良県橿原市の地名として残る十市町は「とおいちちょう」と訓みます。

平安時代の延喜式では「とをち」の訓みが見えますが、南北朝時代の1353(文和2)年に発行された東大寺文書の中に「といち」の訓注があることから、中世は「といち」と呼ばれていたと考えられています。

十市氏は興福寺大乗院方の国民(俗体の武士)で、春日若宮祭礼で流鏑馬神事を務める党(武士団)のうち、奈良盆地南東部の初瀬川、寺川流域の衆徒・国民たちから成る長谷川党の刀禰(リーダー)となった有力国民でした。

その勢力圏は現在の地図で示すと下図の赤線で囲んだ地域で、橿原市北部から田原本町全域、天理市南部と桜井市北部を含む古代から「磯城」と呼ばれた地域にあたります。

十市氏勢力圏略図(国土地理院HPより作成)

十市氏の正確な出自については、信憑性の高い史料に乏しく現在のところ不明です。

藤原氏や物部氏を出自とする説もありますが、戦国期の当主・遠忠が自身の歌集の中で「兵部少輔中原遠忠」を称していることから、十市氏自身は中原氏を自称していたと考えられます。

中原氏は10世紀の明経博士・中原有象を祖とする一族になります。

中原氏初代の有象は8代天皇・孝元天皇外戚・磯城(十市)県主大目を祖とする十市氏出身で、974(天延2)年に「中原」に改姓するまで十市有象を名乗っていました。

元々古代十市氏は奈良盆地南西部の磯城地域一帯の部民を掌握する一族でしたが、平安遷都後は京都へ移って朝廷に実務官人として仕え、有象の子孫は明経道、明法道を家学とする下級貴族となります。

後年、有象の後裔である中原氏から、鎌倉幕府の草創期に源頼朝を文官として支えた中原親能、大江広元兄弟が現れ、二人を祖とする大友氏、毛利氏といった武家も出現しますが、大和国人の十市氏と中原有象の系譜上の繋がりは、確かな史料からは認められていません。

古代十市氏のうち、京都に移らず本貫地・磯城に残った一派の子孫が大和国人・十市氏である可能性もありますが、中世に入って十市郷を中心に磯城地域一帯を支配した十市氏が、その支配の正当性を主張するため磯城県主の子孫である中原姓を仮冒した可能性も低くはないでしょう。

いずれにしても、十市氏は大和の有力国人の中では突出して古くからの歴史ある氏族であると、内外に示した一族になります。

 

現在残る確かな史料で最初に大和国人・十市氏が現れるのは、南北朝争乱真っ只中の1347(貞和3)年、『興福寺造営料大和国八郡段米田数幷済否注進状』(春日大社文書第四巻)という1327(嘉暦2)年に火災で焼亡した興福寺再建の造営料徴収に関する文書の中で、十市郡の興福寺荘園において十市新次郎入道が段米を抑留し、宮(南朝)方へ段米を上納したという記事が初見になります。

以来、16世紀末に筒井氏の伊賀転封と豊臣秀長の大和入国によって十市郷を追われるまでの約300年間、11代にわたって歴代当主は筒井氏、箸尾氏、越智氏、古市氏らとともに大和中世史におけるキープレイヤーとして活躍しました。

下図は『奈良県史11大和武士』の記述を参考に作成した新次郎以降の十市氏歴代当主の略系図です。

十市氏は筒井氏とともに『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』などの良質な史料により南北朝から戦国・近世にかけての系譜とその事績が追える数少ない大和国人の一つです。

十市氏略系図(『奈良県史11大和武士』を参考に作成)

大和政権発祥の中心地域であり大和で最も古い歴史を有する磯城地域一帯を支配した十市氏は、中世には戦乱の渦中にあって幾度も故地を追われては復帰を繰り返しながら、戦国時代末期まで磯城の王として同地を支配しました。

当記事では、その波乱に満ちた歴代の事績と一族の興亡を紹介していきます。

十市氏歴代

新次郎、遠康(南北朝動乱の十市氏勃興期)

先述のとおり、信憑性の高い史料で初めて名が現れる十市氏の当主は、1347(貞和3)年の『興福寺造営料大和国八郡段米田数幷済否注進状』に名が見える十市新次郎です。

上記史料の中で、新次郎は十市郡にある興福寺荘園に賦課された興福寺再建用の「段米」を抑留したうえ、宮方(南朝)へ上納したと記録されています。

当時は南北朝の争乱が最も激しかった時代で、将軍・足利尊氏が京都北朝の光明天皇を擁して吉野南朝の後村上天皇と激しく争っており、十市新次郎は多くの大和国人同様南朝方に与していたことが、この史料から分かります。

史料の年号には北朝年号である「貞和」が用いられていることから、当時の興福寺は北朝・幕府方に与していたことが分かり、南朝方の十市新次郎は北朝方の興福寺に対する敵対行動として、段米を抑留して南朝方にその米を送ったのでしょう。

さらに興味深いのは、興福寺「大乗院方」国民であった十市氏が、南朝方として行動していることです。

興福寺では鎌倉時代以前から別当職を輩出する二大門跡寺院・大乗院と一乗院が、門跡の実家である二条家(大乗院)、近衛家(一乗院)の権力争いとも関連して、興福寺内で熾烈な権力闘争を繰り広げていました。

南北朝時代には門跡の実家との関係から大乗院は北朝と、一乗院は南朝との結びつきが強かったのですが、十市氏は自身が属する大乗院の意向は無視し、南北朝時代を通じて南朝方として活動しました。

これは、大和の国人たちが荘園の本家(名目上の地主)である興福寺の大乗院、一乗院の意向から独立して活動していたことの証左で、南朝方が優勢な奈良盆地中部以南に本拠を置く十市氏ら国人たちは、そのほとんどが南朝方に与したのです。

逆に北朝勢力の強い奈良盆地北西部では、南朝寄りである一乗院の衆徒であった筒井氏が北朝方主力になるなど、南北朝時代は興福寺による在地武士の支配が大きく揺らいだ時代で、各国人たちは自身が属する朝廷の威光を背景に、敵対する寺院の荘園を堂々と横領して勢力を増大させていったのです。

新次郎の次代・十市遠康のときには、十市氏による北朝方・興福寺荘園への侵略はますます激しくなり、これに怒った興福寺は、1378(永和4)年に神木動座の上、朝廷・幕府に対して強訴に及びました。

平安末期から鎌倉時代にかけて猛威を振るった興福寺の強訴に対し、時の将軍足利義満は斯波義将を形ばかり大和へ派兵したものの積極的に解決を図ろうとしなかったため、興福寺の強訴は失敗に終わってしまいます。

※中世の興福寺の強訴や永和4年の強訴がうまくいかなかった理由等については下記の記事で詳しくご紹介しています。

この強訴の失敗は興福寺の歴史上初めてのことで、大和内外における興福寺の権威を大きく失墜させることになりました。

十市遠康の事績でもう一つ特筆すべきは、大和国で最初の禅宗寺院となる補厳寺(ふがんじ)の創建です。

補厳寺(奈良県田原本町味間

補厳寺は十市遠康が、結崎(現奈良県川西町)出身の名僧・了堂真覚を薩摩・鹿児島から呼び戻し、本拠である十市城(現奈良県橿原市十市町)の北隣に位置する味間(現奈良県田原本町味間)に十市氏菩提寺として1384(至徳元)年に建立した曹洞宗英山派の寺院です。

以後、十市氏歴代は曹洞宗の法名を持ったことから、遠康は精神世界でも興福寺からの自立を図ったと考えてよいでしょう。

興福寺が支配する大和国において禅宗寺院の建立は大きなハレーションを招きかねない行為ですが、同時代に十市氏と同盟関係にあった大和の南朝方国人・越智邦澄も禅宗に帰依し、補厳寺初代の了堂真覚が大和へ帰国前に活動していた薩摩・鹿児島の島津氏も当時南朝方で曹洞宗に帰依していたことから、禅宗を通じた南朝勢力の大きな枠組みが存在していたのかもしれません。

なお、能楽の大成者・世阿弥は幼少期に補厳寺で二代住持・竹窓智厳の下で学んでおり、後に足利義満から寵愛を受けた世阿弥が、義満死後に義持、義教から疎んじられたのは、晩年まで補厳寺との深い関係を続け、十市氏ら旧南朝勢力との関係を疑われたからとも見られています。

遠重、遠栄(後南朝方から幕府方へ)

1392(明徳3)年に明徳の和約が結ばれ、南北両朝の合一がひとまず実現されました。

しかし、北朝側は和約の条件をことごとく反故にしたため、不満を抱いた旧南朝勢力は引き続き後南朝勢力として北朝・幕府方と争い、大和国では南北朝以来の争乱が止むことはありませんでした。

この時期に遠康の跡を継いで当主となっていたのが十市遠重です。

遠重は1403(応永10)年に越智家高とともに高田氏と合戦するなど、後南朝勢力の中核勢力として活動し、翌1404(応永11)年には箸尾為妙とともに大和における幕府方主将である筒井氏を撃破して筒井郷を焼き払うなど、その戦果は幕府も無視できないものとなります。

十市氏・箸尾氏と筒井氏の戦いは、同年中に幕府の調停でいったん止んだものの、足利義満は大和における後南朝勢力の蠢動を抑えるため、1406(応永13)年に畠山満家、赤松義則を大和へ派兵し、十市氏と箸尾氏を討伐しました。

幕府軍の前に十市遠重は十市城を追われ、領地も幕府に没収されてしまい、足利義満は闕所となった旧十市領を興福寺へ寄進してしまいます。

ただ、その後も十市氏は軍事も含めて活動しているため、この時全ての所領を失ったわけではなかったのでしょう。

遠重の次代、十市遠栄のときにもその軍事活動は活発で、1414(応永21)年には宇陀郡を巡る沢氏と多武峰衆徒の抗争に越智氏と共に介入しました。

宇陀郡の沢氏は伊勢国司・北畠氏被官となっていた有力国人で、後南朝方であったことから越智氏、十市氏は沢氏を支援するため軍事介入したと見られます。

この戦いは、他の国人たちも巻き込んで奈良盆地にも戦火が拡大した為、興福寺は幕府に合戦を止めさせるよう依頼します。

これを受けた幕府は大和の衆徒・国民を京都に呼びつけ、私合戦の停止を命じました。

それからしばらく大和国内は表向き平穏を保ちましたが、1429(正長2)年に井戸氏と豊田氏の争いから大和全土を巻き込んで10年間も続く大乱、大和永享の乱が始まります。

この時、十市遠栄は南北朝時代以来続けていた越智、後南朝方の立場を改め、初めて筒井氏、幕府方について参戦しました。

大和永享の乱は1439(永享11)年に幕府によって越智維通が討たれ、幕府側の勝利のうちに終わり、遠栄が下した幕府方への鞍替えは功を奏したかに見えました。

しかし翌1440(永享12)年8月、遠栄は現在の御所市周辺を勢力下とした国民・楢原氏の館で突然自害してしまうのです。

十市遠栄自害の理由については、遺された史料もなく全くの不明ですが、嫡男・加賀寿丸(後の遠清)への家督継承が将軍・足利義教の死後まで認められなかったことや、当時は越智氏討伐のために大和へ派遣されていた一色義貫、土岐持頼らが将軍・義教により謀殺されるなど、万人恐怖と呼ばれた将軍・義教による有力武士たちの粛清が相次いでいた時期でもあり、元々後南朝方の有力国人であった十市氏を狙った足利義教による粛清との説もあります。

この遠栄の突然の死によって、十市氏は数年の間、当主不在で一時断絶となりました。

遠清、遠相、某(応仁の乱と東部への領土拡大)

1441(嘉吉元)年6月、将軍・足利義教が暗殺(嘉吉の変)され、義教によって失脚させられた河内守護・畠山持国が管領として復権すると、持国は自身の権力基盤を強化する意図もあって、前将軍・義教によって討伐された越智維通の遺児・越智家栄を後援して遺領に復帰させたのに続き、1442(嘉吉2)年には十市遠清遺児・加賀寿丸の家督継承を認めた上に、祖父・遠重の時代に足利義満によって没収された領地も含め、十市氏に所領を還付・安堵しました。

こうして家督を継ぐことになったのが、加賀寿丸こと十市遠清です。

嘉吉の変後の大和では、河上五ヶ関を巡る大乗院経覚と成身院光宣の争いや、1450年代からは畠山氏の後継者争いが激化して、筒井氏と越智氏が激しく抗争しましたが、十市遠清は、中立の姿勢を見せて積極的に筒井と越智の抗争に介入することはありませんでした。

この間、遠清は近隣の八田氏や味間氏といった国人に親族・縁者を養子として送り込み、着実に本拠地である十市郡、磯城郡の支配権強化を進めています。

1466(文正元)年には、遠清は抗争が激化していた筒井氏、越智氏の和睦仲介に成功させており、十市氏を筒井、越智両氏が無視できない勢力に成長させていたことがうかがえます。

翌1467(応仁元)年に応仁の乱が始まりますが、ここでも遠清は当初中立姿勢を守ります。

遠清は畠山持国の後押しで家督継承と所領安堵を得ていることから、恩義という点では越智家栄同様、持国が後継指名した畠山義就属する西軍方に付くべき立場にあったと言えますが、遠清は本領の東に隣接して西軍・越智党の楊本氏、戒重氏らが支配する式上郡(現天理市南部から桜井市付近)へ領土的野心を持っていたこともあって、開戦当初は旗幟を明らかにしませんでした。

しかし、1471(文明3)年正月、ついに遠清は東軍に付いて参戦。阿波守護・細川成之とともに京都へ出陣し、近江守護で京都へ進撃してきた西軍・六角高頼の軍を迎撃して撃破した他、6月には筒井順永、箸尾為国らとともに河内へ出兵するなど、東軍主力として畿内を転戦します。

さらに同年閏8月には楊本範満父子を攻め滅ぼした他、宇陀郡における戦闘にも弟の八田遠勝を派兵して介入し、十市氏の勢力圏を大きく東へ拡大させる切っ掛けを作りました。

この遠清による十市氏の勢力圏拡大は、後の十市氏隆盛の礎となった反面、宇陀郡の秋山氏という新たな敵を生み出すことにもなり、その後の十市氏の運命に大きな影響を与えることになります。

応仁の乱への本格参戦から3年後の1474(文明6)年には、遠清はその領域を現在の天理市南部である備前、長柄にまで広げるなど、大乱を利用して十市氏の支配域を大きく東へ広げることに成功しました。

そして、同年8月に遠清は十市氏家督を、嫡男・遠相に継がせます。

しかしながら家督継承後も実権はなお遠清にあったようで、遠清は大和における東軍方主力の一人として遠相と共に前線で戦い続け、翌1475(文明7)年の春日大社大鳥居前での大規模合戦では、越智家栄、古市胤栄の率いる西軍に大打撃を与えて大勝しました。

しかし、大和における戦況は次第に西軍が優勢となり、1477(文明9)年に応仁の乱は東軍勝利でいったん終結したものの、大和では東軍の筒井氏、箸尾氏が本拠を追われ国外に逃亡し、主要な東軍の国人は十市氏のみが孤塁を守る形になってしまいます。

しかし越智家栄による十市氏への圧迫と内部の切り崩しは強まり、1479(文明11)年には、遠相の弟・兵庫戌亥が越智氏の与する畠山義就方へ内通。これを察知した遠清・遠相父子は兵庫戌亥を殺害しますが、越智家栄の攻勢の前に十市城をついに放棄して、東山中へと逃亡しました。

以後、遠清・遠相父子は東山中や京都での牢人生活を余儀なくされます。

十市遠清・遠相父子は、同じく奈良盆地から駆逐された筒井順尊、箸尾為国らととともに、足軽を使ったゲリラ戦を展開し、本拠の奪還を図って数度に渡り大和国内各地で越智、古市勢に大規模な合戦を仕掛けますが、ことごとく失敗しました。

本拠への期間が叶わぬまま、1491(延徳3)年に十市遠相は父・遠清に先立って病没してしまい、十市氏家督は、遠相遺児の十市某(名は伝わっていない)が継ぎます。

1493(明応2)年4月に将軍・足利義材と畠山政長が、畠山義就の跡を継いだ畠山義豊を討伐するため河内へ出兵すると、これに呼応して遠清は孫の某とともに再び大和へ進出し、一時的に十市郷を奪回します。

しかし、細川政元によるクーデター・明応の政変が勃発すると、十市氏の後ろ盾となっていた畠山政長が敗死。

遠清は十市郷を維持できず越智家栄に敗れて、宇陀郡へと逃亡しました。

その後、遠清と孫の某は浪々の身となって各地を転々とし、遠清は1495(明応4)年に逃亡先の吉野郡二十河(現奈良県川上村)で本領への復帰が果たせぬまま失意のうちに病没します。

そして2年後の1497(明応6)年には孫の某までが、逃亡先の山城賀茂で病死しました。

本領を追われた状態で、一族の支柱である遠清と当主の某が相次いで世を去り、十市氏は存亡の危機に立たされることになります。

 

遠治(大和への帰還と大和国人一揆結成)

遠相嫡男の某には子がなく、十市氏当主には某の弟とみられる遠治が就きました。

十市遠治が家督を継いだ1497(明応6)年は、それまで劣勢だった畠山尾州家(旧東軍・政長の家系)と筒井党が、畠山総州家(旧西軍・義就の家系)の内紛に乗じて反攻を開始し、河内・大和の勢力図が大きく書き換わった年でもありました。

同年10月に大和へ帰還して挙兵した筒井氏は越智郷に侵攻し、筒井氏の攻撃に敗れた越智家栄、家令父子は越智城を放棄して壷阪寺へと逃亡します。

翌月には筒井氏らとともに帰国していた十市遠治が壷阪寺を攻撃し、越智家栄・家令父子を追撃しました。

壷阪寺の戦いでは越智氏も激しく抵抗して十市勢の攻撃を防いだため、十市遠治は畠山尚順(政長嫡男で尾州家当主)や筒井氏の援軍を受けて壷阪寺を陥落させ、越智家栄らは本領を失って吉野へと没落しました。

この時、十市氏の救援に駆け付けた畠山尚順は、占領した越智方・万歳氏の所領を自分の家臣に恩賞として与えたのですが、これは他国衆が大和国内の興福寺衆徒・国民の領地(建前は興福寺の領地)を奪って領地化した最初の例となり、興福寺に大きな衝撃を与えることになります。

以後、赤沢朝経、木沢長政、松永久秀と戦国時代の末まで大和国は他国衆の侵略を受けることになりますが、十市遠治が招いた畠山尚順による万歳氏領侵攻はその嚆矢となりました。

大和で筒井党の優勢が進む中、十市遠治は翌1498(明応7)年に箸尾為国とともに旧領である楊本庄(現奈良県天理市柳本町)に侵攻して越智氏から奪回し、応仁の乱後に失った旧領の回復に努めます。

大和と河内で畠山尚順とそれに与して勢力を強める十市氏、筒井氏に脅威を感じた細川政元は、翌1499(明応8)年9月に旗下の猛将・赤沢朝経を南山城へ派遣して大和と河内を牽制しました。

赤沢朝経は同年7月、主君・政元の命で比叡山に攻め入り、根本中堂をはじめとした山上の主要伽藍を焼き払った初めての武士で、その神仏を畏れない姿勢に戦慄した大和国人たちの間では、和睦と同盟の機運が高まります。

しかし、この時は同盟結成には至らず、赤沢朝経は大和へ侵攻。西大寺、喜光寺を焼き払って興福寺、春日社でも略奪と乱暴狼藉の限りを尽くします。

赤沢朝経の圧倒的な武力の前に、十市遠治も筒井順賢らと同じく本領を捨て、逃亡を余儀なくされました。

大きく情勢が変わったのは1504(永正元)年で、同年閏3月に細川京兆家の跡目争いから赤沢朝経が失脚。赤沢氏による大和支配が大きく揺らぎ、国外逃亡を余儀なくされていた十市遠治は、筒井順賢らとともに5年ぶりに本領へ復帰を果たします。

そして同年12月には、細川政元の傀儡として不満を募らせた総州家の畠山義英に、尾州家の畠山尚順が接近して両畠山氏の和睦が成立し、応仁の乱以前から約50年続いた畠山氏の内訌がいったん収束しました。

畠山氏の内訌が収束したことで、大和国人同士の同盟に関する障害は消え、翌1505(永正2)年2月、十市遠治は、筒井順賢、越智家令、箸尾為国らとともに春日社頭に起請文を捧げて同盟を結び、大和国人一揆体制が樹立されます。

大和国人一揆は他国に対しては局外中立の立場を取り、外敵の侵入には共同して対抗する同盟で、同年11月に復権した赤沢朝経が、河内畠山氏討伐の為に大和国内の討伐軍通行を要求した際は、大和国人たちはこの要求を拒否しました。

そのため、翌1506(永正3)年8月になると再び赤沢朝経は大和へ侵攻し、大和国人一揆に参加した十市氏、筒井氏、箸尾氏、越智氏はその与党ともども協力して激しく抵抗します。

しかし、赤沢朝経の猛攻の前に国人たちはまたもや本拠を捨て、筒井順賢は東山中へ籠り、十市遠治、箸尾為国も多武峰に籠って抵抗を続けました。

自然の要害が少ない奈良盆地では大軍を迎撃する術がなく、山間部の要害に籠る他なかったのでしょう。

結局、赤沢朝経の軍は奈良盆地一帯を蹂躙し、筒井氏、箸尾氏と同様、十市遠治も国外への逃亡を余儀なくされました。

この赤沢朝経の大和乱入を契機として、平野部に本拠を置く主要な大和国人たちは奈良盆地辺縁部にある山城の拡張と拠点化を進めていくことになります。

後に十市氏の本拠となる龍王山城の史料上の初見も、赤沢氏との抗争の最中である1507(永正4)年(『多聞院日記』永正四年十一月十三日条の「釜口ノ上」)のことで、十市遠治の時代に本格的に城郭として整備されたと見られます。

1508(永正5)年に赤沢朝経の養子であった赤沢長経が河内で戦死し、赤沢朝経・長経父子による大和侵攻はいったん収束しましたが、同年中に両畠山氏の和睦が破綻すると、連動して大和国人一揆も解体され、再び大和は筒井党と越智党に分かれて抗争するようになり、本領を失い牢人となった十市遠治は筒井氏と行動を共にします。

当時畿内では、10代将軍・足利義稙を奉じる細川高国、畠山尚順のグループと11代将軍・足利義澄を奉じる細川澄元、畠山義英のグループに分かれて激しく抗争していましたが、筒井党は義稙派に与し、越智党は義澄派に与して、その後10年以上も大和で戦乱が続きました。

十市遠治も、筒井氏、箸尾氏らとともに畠山尚順(尾州家)の旗下で、畠山義英(総州家)と戦うため河内に出兵(1511(永正8)年・結果は尚順の敗北)したり、1516’(永正13)年には筒井(成身院)順盛とともに唐院(現川西町)で越智家教と大規模合戦(結果は越智氏の勝利)に及ぶなど、本拠を失い浪々の身ながら積極的な軍事行動を見せます。

1520(永正17)年頃になると、畿内の情勢は義稙派の優勢に傾き、京都では細川高国が政権を主宰して、河内では尾州家・畠山植長の優位がほぼ固まります。

しかし、大和国内では筒井党と越智党の抗争が続いていたため、同年に畠山植長の仲裁で再び和睦と国人一揆体制が成立しました。

この和睦によって十市遠治は、長らく越智勢に占拠されていた本貫地・十市郡に復帰することができました。

その後、大和国人一揆体制は9年間守られますが、京都の細川高国政権が崩壊すると、1529(享禄元)年に筒井順興が領土的野心を露わにして越智領へと侵攻していったん崩壊します。

しかし1532(天文元)年、畿内で大規模な一向一揆が発生。大坂から一揆軍が大和へ侵攻する中、大和国内でも一揆が蜂起して、合流した一揆軍は、興福寺と春日社に襲い掛かり、奈良の町を壊滅状態に陥れます。

※この時の一揆の詳細は下記記事でご紹介しています。

南都を壊滅させた一揆勢は、南下して高取城の越智家頼を包囲しました。

一向一揆による南都壊滅に危機感を募らせた大和国人たちは再び一揆を結成し、十市遠治は筒井順興と共に高取城を救援して一揆勢の撃退に成功します。

この大和一向一揆の再結成により、再び数年の間、大和国は平穏を取り戻します。

そして1534(天文3)年に十市遠治は死去しました。

 

遠忠(文武に秀で十市氏最盛期を築く)

遠治死後、嫡男の十市遠忠が38歳で家督を継ぎますが、その家督継承から2年後の1536(天文5)年、大和では赤沢氏以来となる大きな外冦が始まります。

きっかけは同年、興福寺が荘園の年貢を滞納し続ける越智党・戒重氏の討伐を時の管領・細川晴元に訴えたことでした。

晴元は興福寺の訴えに対し、自身の被官で河内一国を掌握していた木沢長政に解決を命じます。

河内国に続いて大和の支配を目論んだ木沢長政は、大和河内国境の信貴山に信貴山城を築城して飯盛山城(大阪府大東市)から本拠を移すと、翌1537(天文6)年に戒重氏の親分ともいえる越智氏領へ侵攻を開始します。

信貴山城

この時、遠忠と同じ1534年に筒井氏家督を継いだ筒井順昭は元服前の少年でしたが、一族・重臣層の主導で動いていた筒井氏は木沢長政と同盟し、ともに越智党への攻撃を開始した為、ここに大和国人一揆体制は崩壊しました。

当初、遠忠は筒井氏に同調して木沢長政に協力する姿勢を見せ、翌1538(天文7)年にはその軍功から大仏供上庄(現奈良県桜井市大福)の外護公文職(年貢の徴収などを司る荘官)に任じられます。

しかし、その後遠忠は木沢長政に反旗を翻し、大和永享の乱以来100年以上続いた筒井氏との同盟関係も解消して木沢氏、筒井氏と激しい抗争を開始しました。

そして遠忠は、本拠を平野部で防衛上問題のある十市城から、奈良盆地を西に見下ろす龍王山城の井鴎外である龍王山城へと移します。

龍王山城跡

遠忠はそれまでの戦時の小規模な城砦に過ぎなかった龍王山城に大改修を施し、領主居館、政庁機能をも併せ持つ戦国期拠点城郭へと拡張・発展させ、木沢長政の居城・信貴山城に匹敵する大規模城郭に変貌させたのです。

龍王山城は大和国人が築いた戦国期拠点城郭の嚆矢となり、信貴山城と並んで大和における本格的な戦国時代の到来を象徴する城郭となりました。

遠忠は龍王山城を拠点として木沢氏、筒井氏と2年にわたり抗争しましたが、大和での兵乱激化を恐れた興福寺の依頼を受けた幕府の仲裁により、十市氏と筒井氏は1540(天文9)年に和睦を結ぶことになります。

その後1542(天文11)年に木沢長政は畠山家中の内訌と、それに介入した三好長慶と軍事衝突し、太平寺の戦いで戦死すると、遠忠はただちに木沢方の城であった二上山城、信貴山城に攻め入って陥落させ、大和の木沢方勢力を駆逐していきました。

遠忠は木沢氏との抗争を通して領土を拡張し、その版図は伊賀から宇陀、十市郷(磯城郡、十市郡)一帯に広がり、十市氏の最盛期を築きます。

さて、遠忠は領土を拡大させ戦国武将として優れた実績を上げただけでなく、文化人として戦国時代では全国的に見ても傑出した業績を残しています。

鳥飼流の書道を究めた能書家であり、歌人として多くの作品を残したほか、歌道の研鑽の為に多くの歌書を伝写しており、南北朝時代の代表的歌人である宗良親王の歌集『李花集』の祖本は、1530年頃に遠忠が伝写したもので、南朝方の主要歌人の歌の多くが、遠忠の伝写によって現在に伝えられました。

歌人としての才能も豊かで、歌枕を詠み込んだ叙景歌も形式ばったものではなく、以下の歌のように地元の情景を写生的に詠んだ多くの歌を残しています。

 

初春
いとはやも 布留の神杉雪消えて 霞木だかき 春の色かな

 

当代一流の歌人であった三条西実隆らに師事して歌道を究めんとした十市遠忠は、二千首を越える歌を残し、歌を通して生き生きとした心の内を覗くことができる点で、極めて稀な戦国武将と言えるでしょう。

大和の戦国史でも稀代の傑物であった十市遠忠でしたが、1545(天文14)年に40代後半で急死してしまいます。

木沢長政の死後、筒井氏と並んで大きく勢力を広げた十市氏にとって、遠忠の急逝は大きな痛手となりました。

 

遠勝(悲運に見舞われた十市氏最後の嫡流当主)

遠忠の死後、十市氏家督は嫡男の十市遠勝が継ぎました。

遠勝が当主となったのは、筒井順昭が大和北部の反筒井勢力を次々に打ち破り、勢力を急拡大させていた時期と重なります。

十市氏は先代の遠忠の時代に、一時筒井氏と敵対していたものの再び同盟関係となっていました。

しかし1546(天文15)年8月、遠勝は突如として筒井氏と断交し、筒井方の竹内城(現天理市竹之内町)に攻撃を仕掛けるのです。

竹内城跡(竹之内環濠・現天理市竹之内町)

同年2月、筒井氏の同盟者で有力な国民であった箸尾為政が筒井氏によって謀殺されており、筒井氏のなりふり構わぬ勢力拡張に、遠勝は大きな危機感を抱いたのかもしれません。

当時、畿内は細川晴元と細川氏綱が細川京兆家の家督を巡って抗争しており、大和では筒井氏が畠山尾州家との伝統的関係から氏綱派に与したのに対し、筒井氏と潜在的な敵対関係にある越智氏は細川晴元の猶子を養子に迎え、晴元との関係を強化して筒井氏に対抗していました。

遠勝の竹内城攻撃は、河内で細川氏綱と畠山氏家宰の遊佐長教が細川晴元の重臣・三好長慶の軍と衝突していた時と重なることから、氏綱派である筒井氏を大和へ釘付けにするための晴元派による軍事行動の一環とも考えられるでしょう。

しかし十市遠勝は竹内城攻めに失敗。

遠勝は筒井氏の侵攻を恐れたのか本拠である十市城、龍王山城を放棄して逃亡し、越智氏を頼って多武峰(現桜井市の談山神社)に入りました。

十市城、龍王山城はまもなく筒井氏に接収され、翌9月になると筒井順昭は遠勝を追うように越智領への侵攻を始めて多武峰を陥落させ、遠勝はさらに吉野へと逃亡することになります。

翌10月には越智氏の本拠である貝吹山城が陥落して越智氏も没落。

筒井順昭による大和の武力平定が達成される中、十市遠勝は本領を失って牢人生活を余儀なくされました。

その後数年間、遠勝の足取りは定かではありませんが、筒井順昭死後の1550(天文19)年7月の『多聞院日記』の記事から、遠勝を指すと見られる「十市殿」が再び現れ、十市衆が順昭の「見廻」(「お見舞い」か)のために興福寺の子院である五大院を訪問していることから、順昭の最晩年までには筒井氏と和睦して大和へ帰国していたようです。

その後、再び遠勝に危機が訪れるのは1559(永禄2)年、三好氏重臣・松永久秀による大和侵攻でした。

この久秀の大和侵攻に対し、遠勝は幼主・順慶を擁する筒井氏と当初行動を共にして松永氏に対抗しましたが、1562(永禄5)年に河内・教興寺の戦いで三好氏が畠山氏を撃破して畿内での圧倒的優位を確立すると、ついに十市氏は松永久秀の軍門に降ります。

松永氏に降った遠勝をさらに悩ませることになったのが、東に領土を接する宇陀の秋山氏で、興福寺荘園の領有をめぐる秋山直国との抗争に、遠勝は晩年まで忙殺されることになりました。

秋山直国との抗争を有利に運ぶため、遠勝は松永氏との関係を強化すべく、1565(永禄8)年には娘のおなへを人質として多聞山城へ送るとともに松永氏の軍事支援を求めます。

同年10月、遠勝の求めに応じた松永久秀は、重臣の竹内秀勝を龍王山麓の釜口に布陣させ、龍王山城に軍事的圧力をかける秋山勢を牽制しました。

大和で筒井党と松永勢の抗争が激化する中、同年11月になると三好家中で内戦が勃発し、三好三人衆によるクーデターで松永久秀は三好家中から追放され、三好氏の後ろ盾を失った久秀は大和でも窮地に陥ります。

1566(永禄9)年に入り筒井順慶が三好三人衆と同盟を結んで反転攻勢に移ると、十市郷も筒井勢の攻勢にさらされ、遠勝は龍王山城を退去して、十市一族で重臣だった河合清長を頼り、当時寺内町として成立しつつあった今井町の河合氏(後の今西家)の屋敷へ一時落ち延びるなど、苦戦を強いられました。

松永方が大和で苦戦を強いられる中、秋山氏との抗争も思うように進まない状況を打破しようとしたのか、遠勝は1568(永禄11)年2月に秋山氏にとって大和平野進出の拠点となっていた森屋城(現田原本町藏堂・現村屋神社周辺が城域と推定)を陥落させた後、娘・おなへを人質に出しているにもかかわらず松永氏を裏切り、筒井氏、三好三人衆側へ寝返ってしまいます。

しかし、同年9月に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信長と同盟していた松永久秀は息を吹き返します。

松永方の反攻に遭った遠勝は、松永方の箸尾為綱に十市城周辺を荒らされたうえ、十市氏に対抗して松永方へ鞍替えしていた秋山直国によって本拠・龍王山城を攻略されて、大西城(現桜井市大西)へと落ち延びざるを得ませんでした。

そして同年11月大西城は、秋山氏を先鋒とした久秀嫡男・松永久通が率いる軍勢に包囲され、激戦の中で落城。

遠勝は再び松永方の軍門に降り、翌1569(永禄12)年10月、失意のうちに病没しました。

遠勝には男子がなく、十市氏の男子嫡流は遠勝の代で絶えることになります。

 

遠勝の生きた戦国後期の大和は、それまでの国人同士の争いに加え、三好・松永といった強大な他国衆の外冦に晒され先の見通しのきかない困難な時代でした。

遠勝は筒井氏と松永氏との間でどちらに味方するか、最後まで去就を明確にすることができず、結果十市家中では筒井派と松永派による分裂を発生させてしまうことになります。

そのため、名将と称えられた父・遠忠と比べ、遠勝は「十市氏を衰亡させた武将」として総じて低く評価されがちですが、打つ手打つ手が悉く裏目に出てしまった点は、不運としか言いようがなく、悲運の武将であったとも言えるでしょう。

 

おなへ・十市常陸介遠長(十市氏の分裂)

先述のとおり、十市遠勝は生前に松永氏と筒井氏との間で頻繁に味方する勢力を変えたため、家中では松永氏、筒井氏のどちらに与するかを巡り、松永派、筒井派の分裂が起こっていました。

松永派の中心人物は、遠勝の妻である十市後室(本名は不明)と、長らく松永氏の人質となっていたおなへで、河合清長(権兵衛)ら重臣が二人を支えていました。

対する筒井派の中心人物は、十市氏庶流で遠勝の弟との説もある十市遠長(常陸介)です。

両派の争いは遠勝の死後まもなく顕在化し、遠勝の死から間もない1569(永禄12)年12月には筒井派の手引きで十市城へ筒井氏が入り、十市後室と松永派は本拠からの退去を余儀なくされ、今井町にある河合清長の居館へと落ち延びました。

1571(元亀2)年8月に筒井順慶が辰市城で松永久秀に大勝(辰市城の戦い)すると、大和国内で筒井氏の優位が高まり、松永方から筒井方へと寝返っていた箸尾為綱が越智氏とともに十市郷に攻め入って味間など十市郷の大部分を占拠するなど、十市氏の松永派は大きくその勢力を削がれていきます。

翌1572(元亀3)年になると、十市後室とおなへは松永氏の柳本城(現天理市柳本町)へ移り、松永氏の庇護下に入りました。

一方、筒井派の十市遠長は筒井順慶に与して活動し、1574(天正2)年に順慶が正式に織田信長の傘下に入ると、順慶に従わない九条城(現天理市)、内膳城(現橿原市)の反筒井派勢力の諸城を攻略した他、信長上洛に際しては柴田勝家に同道して信長に拝謁するなど、十市氏主流派としての地位を確立していきます。

翌1575(天正3)年3月に原田直政が信長から大和守護に任じられると、旧十市氏領は信長の朱印によって原田氏、松永氏、十市氏の三氏に三分割され、さらに十市氏領は十市後室・おなへを中心とした松永派と十市遠長で二分割されてしまいました。

元々の領土を6分の1にされ、大和国内で優勢の筒井派である庶流の遠長に押され気味の松永派は、ここで起死回生の一手を打ちます。

それは、おなへと松永久通の婚姻でした。

辰市城の戦い以降、筒井順慶に大和国内での勢力争いで後れを取っていた松永氏としても、勢力の挽回を図る上で十市氏の嫡流を取り込むことに大きなメリットがあったと考えられ、久通とおなへの婚姻は松永氏と十市氏松永派の思惑が一致した結果と言えるでしょう。

大和守護の原田直政は、大和国内でのパワーバランスを崩しかねないこの婚姻に反対しましたが、同年7月におなへは松永久通の正室に迎えられ、久通は十市遠忠以来、十市氏の本城であった龍王山城を新たな居城としました。

松永氏が十市氏との婚姻によって龍王山城を得たことは、奈良盆地の大半を抑える松永氏のライバル筒井氏にとって、大和随一の規模を誇る信貴山城と龍王山城という巨大城郭に東西から軍事的圧力を受けることになり、大きな脅威となったことでしょう。

また、おなへと松永久通の婚姻によって旧十市郷内における松永派と筒井派のパワーバランスは、大きく松永派へ傾き、同年11月に松永久通は十市遠長を攻撃して、居城の十市城と柳本城を攻略し、遠長を河内へ逃亡させました。

松永久通による十市遠長領への侵攻は、信長の朱印による領地割に反する行為でしたが、ようやく安定を見せつつあった大和国内の安定を信長は優先させたのか、十市城を大和守護・原田直政の配下に入れることで松永久通の軍事行動は不問とし、十市郷内における混乱を、十市遠長の追放という形で落着させます。

こうして十市郷から筒井派は一掃されましたが、1577(天正5)年8月、松永久通は父・久秀と共に織田信長に反旗を翻して挙兵したものの敗れ、同年10月に黒塚城(現天理市柳本町の黒塚古墳)で自刃しました。(父と共に信貴山城に籠って自害したとの説もあり。)

黒塚城跡(黒塚古墳)

十市後室とおなへは松永氏という後ろ盾を失い、十市氏の命運は風前の灯火となってしまったのです。

新二郎(最後の十市氏当主)

松永久通が織田信長に反旗を翻して滅亡した後、十市後室とおなへを保護したのは、それまで敵対していた筒井順慶でした。

十市後室は松永久通挙兵後の1577(天正5)年9月には筒井城に入っており、以後1582(天正10)年の12月まで、順慶の居城(筒井城、1580年以降は郡山城)でその保護を受けます。

おなへも松永久通滅亡の翌年1578(天正6)年には筒井城に入って、順慶の保護下に入りました。

1579(天正7)年になると、古来から筒井党の有力国人であった布施氏出身の布施次郎が、十市後室の養子に迎えられ、おなへと婚姻したうえで十市氏当主となり、十市新二郎を名乗りました。

順慶にすれば、久通に十市郷を追われて、当時筒井氏被官として復帰していた十市遠長を、新たな十市氏当主に立てるという道もあったでしょうが、古くからの筒井氏与党で縁戚関係にあった布施氏の男子を十市本家に養子として送ることで、順慶は十市後室、おなへら旧松永派との融和を図り、磯城の名門・十市氏の被官化を狙ったのでしょう。

十市新二郎の十市氏家督継承によって、南北朝時代以来古代以来の名門を称した有力国人・十市氏は、完全に筒井氏の被官となりました。

その後、新二郎は筒井氏家臣として活動し、順慶の没後は筒井定次に引き続き仕え、1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封に伴って伊賀で1千石を領します。

筒井氏の伊賀転封時におなへは夫・新二郎とともに伊賀へ移ったと考えられますが、十市後室は奈良高畠(現奈良市高畑町)に留まったことが『多聞院日記』天正十三年閏八月二十三日条の記事で分かっています。

その後の十市本宗家の記録としては、1594(文禄3)年に新二郎の子・十市次郎藤満が、10歳で興福寺子院の蓮成院に入寺したことが『多聞院日記』の記録から分かっていますが、その後の事績は信憑性の高い史料に見られず、1608(慶長13)年の筒井氏改易後の消息も不明です。

筒井氏改易後に新二郎は大和・備後庄(現桜井市巻野内)に戻って帰農し、上田姓を名乗ったとする家譜も残されていますが、十市氏が大和に残った一族を頼って故地に帰還した可能性は十分にあるでしょう。

一方、庶流であった十市遠長は、順慶存命中はその部将として活動し、1581(天正9)年の天正伊賀の乱で軍功のあったことが『多聞院日記』天正九年九月八日条の記事からもうかがえます。

遠長は1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封には従わず、十市郷に留まったと見られますが、翌年、豊臣氏により十市郷から追われ(『多聞院日記』天正十四年十月二十一日条に「十市郷侍衆払」とある)て伊予国に移り、同地で1593(文禄2)年に死去しました(『多聞院日記』文禄二年十二月二十一日条)。

こうして南北朝時代以来約250年間、磯城の地に君臨した十市氏は、戦国時代の終焉と共に歴史の表舞台から姿を消したのです。

 

十市氏ゆかりの旧跡

十市城

■所在地:奈良県橿原市十市町

十市城は南北朝時代から戦国時代にかけて十市氏歴代の本城となった城郭です。

所在地は近鉄橿原線新ノ口駅から東へ1kmほどの場所にある現十市町集落周辺で、集落北側の現在畑地となっている微高地を主郭として、東西550m、南北430mのエリアを城域とする中世城郭としては比較的大規模な城でした。

1530年代に十市遠忠によって十市氏の本城が龍王山城に移された後も、引き続き奈良盆地南部の中心拠点として、十市氏、筒井氏、松永氏の間で激しい争奪戦の舞台ともなりました。

現在は主郭跡地の畑に石碑が建つのみですが、十市町の旧集落は遠見遮断の狭隘で屈曲した路地など中世環濠集落の特徴をよく残し、往時の十市城の名残りを現在に伝えます。

※十市城については下記記事で詳しく御紹介しています。

 

じゃんじゃん火

旧跡ではありませんが、奈良県内に伝わる代表的な怪異譚である「じゃんじゃん火」も、十市氏ゆかりの伝承と言えるでしょう。

「じゃんじゃん火」は日暮れ時などに「ほいほい」と呼ぶと「じゃんじゃん」という音ともに現れる怪火で、見た者は死の病を患うとか焼き殺されると伝わる恐るべき怪異です。

県内各所に伝承が残る怪火ですが、十市城や龍王山城周辺も出現地に含まれ、その正体は十市氏の怨念と伝えられています。

栄華を誇った十市遠忠の時代から、50年もたたないうちに没落した十市氏の無念の記憶が、後世の人々に怪異譚として伝えられたのかもしれません。

 

龍王山城

■所在地:奈良県天理市田町

龍王山城は名将・十市遠忠により1530年代頃に大規模な拡張・修復が施され、十市氏の本拠となった奈良県下最大級の山城の一つです。

南北1.2kmという広大な城域に北城、南城と二つの大規模な曲輪群をもつのが特徴的な城郭で、大和国内においては領主居館と政庁そして戦時の要塞という3つの機能を兼ね備えた戦国期拠点城郭の例として、信貴山城と並ぶ最初期の城郭になります。

特に北城は多くの曲輪と巨大な土塁や堀切を巧みに組み合わせた複雑な構造を有し、石垣遺構も残るなど見応えのある城跡になっています。

また奈良盆地を一望できる南城主郭跡は、県内でも指折りの眺望スポットとして知られます。

※龍王山城については下記記事で詳しくご紹介しています。

 

今井町

■所在地:奈良県橿原市今井町

約500棟もの伝統建築が残り、全国でも最大規模の重要伝統的建造物群保存地区である今井町は、江戸時代の町並みや風情を残す場所として人気の散策スポットになっています。

今西家住宅

今井町は戦国時代末期に本願寺教団(浄土真宗)の寺院である称念寺の寺内町として形成されますが、寺内町成立の中心人物の一人が十市氏一族の河合清長(権兵衛)です。

河合氏は、南北朝期の十市新二郎入道の弟・十市治良太夫直武が、廣瀬大社神主の養子となって広瀬郡河合に城を築き、河合遠正を名乗ったことに始まり、十市氏一族として宗家と行動をともにした一族でした。

5代目当主となる河合清長は今井に移住し、度々本拠を追われた十市遠勝、十市後室、おなへを今井町の自邸に迎えて保護するなど、没落する十市宗家を支えました。

また、石山合戦で本願寺に呼応して今井町が挙兵した際は、今井町西口の自邸を城郭化して奮戦し、大坂夏の陣でも大和へ襲来した大野治房を今井町西辺で撃退するなど、今井町在郷武士の中心人物として活躍しました。

清長は後に郡山城主となった松平忠明から大坂夏の陣の武功を賞され、今西姓を与えられて改姓し今西正冬を名乗ります。

その後、今西家は江戸時代を通じて今井町の惣年寄筆頭として続き、かつて城塞化されていた居館は、安土桃山時代の遺風を伝える伝統建築・今西家住宅(国の重要文化財)として同地に現存します。

※今井町については下記の記事で詳しくご紹介しています。

 

長岳寺

■所在地:奈良県天理市柳本町508

長岳寺は龍王山城の麓にある平安時代創建の古刹です。

建築物の殆どは江戸時代の再建ですが、重要文化財の鐘楼門は上層が創建当初の平安時代、下層が安土桃山時代の再建で、日本最古の鐘楼門として知られます。

十市氏との所縁としては本堂廻縁の「血天井」があり、十市氏と松永氏の戦いで血まみれになった十市方の武士の足形、手形と伝わる黒いシミが残されています。

※長岳寺については下記記事で詳しくご紹介しています。

 

補厳寺

■所在地:奈良県磯城郡田原本町味間847

補厳寺は十市遠康が1384(至徳元)年に創建した十市氏の菩提寺で、奈良県最古の禅宗寺院です。

十市氏の本拠であった十市城の北側に隣接する味間集落内にあり、最盛期には末寺230をもつ大寺として栄えました。

江戸時代には味間の領主であった伊勢・藤堂氏の祈願所となっていました。

能楽の大成者・世阿弥は、この補厳寺で2代住職・竹窓智厳の教えを受けて得度したと伝わります。

世阿弥は禅林字句を自身の芸論に多く引用するなど、禅の教えに大きな影響を受けており、1984(昭和59)年に「世阿弥参学之地」の記念碑が当寺に建立されました。


十市氏関連年表

南北朝~戦国時代初期(1347~1493年)

■主な出来事

1392(明徳3)年南北朝合一

1429(正長2)年大和永享の乱

1441(嘉吉元)年嘉吉の変

1467(応仁元)年応仁の乱

 

戦国時代前期(1493~1521年)

■主な出来事
1493(明応2)年明応の政変:管領細川政元が将軍足利義材を追放

1507(永正4)年永正の錯乱:管領細川政元が暗殺され細川京兆家分裂

1509(永正6)~1532(天文元)年両細川の乱:細川京兆家家督を巡る抗争

戦国時代中期(1522~1542年)

■主な出来事

1528(享禄元)年薬師寺焼失

1532(天文元)年天文の錯乱、大和一向一揆

1542(天文11)年太平寺の戦い

戦国時代後期(1544~1559年)

■主な出来事

1546(天文15)年筒井順昭による大和統一

1549(天文18)年三好長慶政権の樹立

1559(永禄2)年松永久秀の大和侵攻開始

 

戦国時代末期(1560~1568年)

■主な出来事

1562(永禄5)年久米田の戦い、教興寺の戦い

1564(永禄7)年三好長慶死去

1565(永禄8)年永禄の変

1567(永禄10)年東大寺大仏殿の戦い

1568(永禄11)年織田信長上洛、足利義昭が将軍就任


戦国時代末期~近世(1569~1608年)

■主な出来事

1571(元亀2)年辰市城の戦い

1573(元亀4)年室町幕府滅亡

1582(天正10)年本能寺の変

1585(天正13)年筒井氏伊賀転封

1600(慶長5)年関ヶ原の戦い

1608(慶長13)年筒井氏改易

 

参考文献

『奈良県史11大和武士』

『田原本町史 史料編 第1巻』田原本町史編纂委員会編