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作品研究・評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 15:13 UTC 版)

巡査の居る風景」の記事における「作品研究・評価」の解説

巡査の居る風景』は、中島がまだ無名であった一高時代校内誌に発表した習作のため注目されていなかったが、中島没後から20年以上経過した後の、濱川勝彦作品研究1976年)、川村湊論考1988年)、鷺只雄初期作品論(1989年)などで本格的に取り上げられるようになった傾向研究史的にみられる中島には左翼的志向見出せず、その生涯において現実的な政治活動社会批評持続的関心抱いていた様子や、イデオロギー的なものを作品化する気持持ち合わせていなかった作家とみられているが、初期のこの習作巡査の居る風景』や『プウルの傍で』(1932年)、『虎狩』(1934年)には、植民地朝鮮人差別実相民族的アイデンティティー関心注がれているのが看取されるため、そうした点から中島文学初期作品の意味付け後発作品への影響などの論究なされている。 中島が『巡査の居る風景』を執筆した昭和初期プロレタリア文学流行っていたが、被支配者側の朝鮮人主人公したものはほとんどなく、中西伊之助の『不逞鮮人』(1922年)など、植民地朝鮮同情する社会主義的作品であっても旅行者ある日本人視点のものとなっている。よって、中島のように、実際にそこに長く暮らしてなければ描けない、他者視点入り込んだ作品貴重なものとして論究されている傾向がみられ、悲惨な朝鮮現実焦点当てているのと同時に、それが朝鮮人視点立ってリアルに描かれているという点も、この作品総じて高い評価の軸となっている。 渡邊一民は、『巡査の居る風景』には中西伊之助を除くプロレタリア文学者の作品にも見られないような、「朝鮮人運命生身感じたものだけが表現しうる何かが脈打っている」と高評価し、19歳という若さですでに鋭い問題意識持っていた中島が、その問題意識未完長編北方行』(1933年頃-1937年執筆)にも生かそうとしていたと考察している。 川村湊は、アジア(特に中国朝鮮)と日本との関係に関し戦前からの文学作品対象実態解明試みる論の中で、この中島の『巡査の居る風景』や『虎狩』、満州大連舞台にした『D市七月叙景(一)』(1930年)の3作品言及した上で、「『昭和』の戦争と、その小説創作時期とを、ほぼ重ね合わせられる小説家中島敦は、こうした植民地アジア”の心象風景を書くことを、文学者としての出発点としたのである」と定義づけている。そして、日本人による蔑視対応する朝鮮人無気力さが点描されている『巡査の居る風景』を、「『植民地朝鮮』の実像迫ろうという野心的な試み」と高評価している。 鷺只雄は、『巡査の居る風景』が各場面積み重ねることによって、単なるスケッチではなく1923年における朝鮮の冬の「屈辱絶望」の状況多面的にリアルに描き出しているとし、それ以上意義のある点を、この作品が「被支配者」の朝鮮人側から描き出され、「支配され抑圧されている朝鮮人民衆の目と心を通して悲惨な実情描いている」ことだと強調しながら、川村湊同様の高い評価をしている。 しかし鷺只雄川村湊見解相違見られる部分は、が、川村総論としての方向には賛同しながらも、川村主張する中島敦は、“植民地アジア”の心象風景を書くことを、文学者としての出発点とした」という規定に関しては「性急な限定」だと否定し川村見解の中の定義づけを「贔屓の引き倒し」、「一斑見て全豹を卜とする類の断定」だと異を唱えている点である。 詳細にいうと、中島習作内包している他の多彩な要素新感覚派的なモダニズム自然主義的なリアリズムなど)を総括的に見た上で川村の定義と類似する濱川勝彦の論(中島がのちに自己への回帰に「転向」したという見解)も否定し、『巡査の居る風景』を含めた初期作品内包されている「可能性の束としてのブリリアント才華片鱗」を見るのが適切であるとしつつ、人間世界対するその中島認識深化したことで、時間空間超越した多種多様な人間の生を問う文学世界がのちに開けていったのだと反論している。 は、中島が「被支配者」の朝鮮人視点を持つことができた理由影響力については、少年期の「感受性形成期」を朝鮮過ごし感得したと思われる植民者と被植民者の間の不合理」を挙げ、そこから「不条理な人間関係」や「不条理な人間存在」に中島がめざめたとしている。また、その中島文学中核的な想念一つである「存在への疑惑」が、中島思弁的・観念的な追求結果だと理解されるより、実母との生別継母たちとの確執などの実体験刺激同様に植民地体験という「日常的現実契機」が「存在不条理性」への誘因として重視すべき点だとしている。その点では、幼少時における植民地体験日常的な契機持ち不条理性を文学テーマにした安部公房埴谷雄高通底する部分中島持っているとしている。 そして、そうした生い立ち植民地体験を持つ中島にとり、プロレタリア文学全盛当時に被植民者視点その実態を描くことは比較的容易ではあったものの、中島独自の視点立場は「人間認識根源位置するもの」であるために、この『巡査の居る風景』はプロレタリア文学一過性的な流行追随するような軽薄さとは無縁であると述べて、以下のように考察している。 このような中島にとって折柄プロレタリア文学全盛の中で、被植民者視点からその実態をこの作品のようなかたちで告発することは容易であり、当然であった。しかし重要な事は、中島にとってこの視点立場人間認識根源位置するのであるゆえに、一時的な盛行時好性に投ずる軽薄さとは無縁であったそういう作品は他に書かれていないところに明らかである。と同時にそれが彼の認識存在深く関わる故に一時盛行一場の夢と消え弾圧され転向して行った中で、中島昭和10年代の最も困難な時期に、南海小島大英帝国植民地政策にたった一人反乱起しR・L・スティーブンスンを主人公に「光と風と夢」を描いたところに執念生き続けているのであり、彼が晩年南洋庁役人としてパラオ就任した際に知りあった島の女日本人含めた随一知的な女性として描いたマリアン」程、愛情理解満ちた現地人描いた小説類がないところにも明らかであろう。 — 鷺只雄初期習作――豊饒な可能性 一」 田中益三も、中島多感な時期植民地風景の中で育った意味は大きいとし、少年中島中には中野重治のようなプロレタリア革命対す賞賛高ぶりはないものの、『巡査の居る風景』や、同じく朝鮮植民地舞台にした短編虎狩』で、それぞれの朝鮮人巡査・趙教英、同級生・趙大煥という2人の「趙」を描いた点に、「屈辱負った民族見ようとする視点」が透徹し、この名前の同一便宜的一致ばかりでなく、「民族煩悶子供大人の両局面によって表わす希求自然に生じている」と考察している。 田中また、その後朝鮮主題作品途絶えたのは、中島自身周辺体験的作品とどまってしまう「私小説性」を拒絶したこと以上に、被植民者自己との関係性や、彼らの個性人物造型発展性付与することに難しさ感じたからではないかとしている。そして、『かめれおん日記』の主題みられる「自苦の精神」の在り方追求することに作品主眼定めていった中島だったが、「(中島の)植民地とは何か、という“質問悪魔”(フラーゲ・デーモン)」は、朝鮮より北方別のコース満州中国舞台とした『D市七月叙景(一)』や『北方行』)にも散見されるとし、プロレタリア文学対比される中島作品語り特徴については、「他」(社会など)を責めずに「『自苦』に向けて発動された」ものと解説している。 中島敦の「南」の問題言われ久しいが「北」に引き裂かれながら、出自確認まつわる自分探し続けた移動者〉が中島であったし、〈自苦の精神〉を引きうけて自らを律するとともに故国植民地狭間において〈精神クレオール〉として自ら生きた存在こそ、他ならぬ中島敦という作家と言うべきだから。 — 田中益三「遍歴異郷――朝鮮中国体験の意味」。 木村一信は、中島同級生だった湯浅克衛の『カンナニ』同様、少年期外地朝鮮)で過ごした中島作品にも、現地人々優越的見下すではなく朝鮮風土や、そこで暮らす人々視点寄り添った同化」に近い心情みられるとし、川村湊述べた朝鮮半島側から視点」の作品であることに同意しながらも、植民地朝鮮の中では中島湯浅支配者側の人間の子であったという「屈折はらんだ境遇」も見逃してならない点であるとして、中島の中での自我追求占め大きさについて考察している。 「同化」への思いはあっても、たえず異和の感覚意識させらざるをえない日々経験した者にとって、自らの拠るべき場への疑念容易に拭えない。(中略)この時期初期)の中島営為眺めてみると、すでに多く言及されてきたように当時文壇文学状況忠実な形での反映とみていい。新感覚派風の文体描写プロレタリア文学発想さらには新心理主義手法試みなどが「習作」の幾篇かに見られる。また一方で、「斗南先生」に始まる「己」を追及するテーマに対して執着強く激動する国際政治舞台中国」に材をとり、スケール大きくかまえ、関心を寄せる問題をいくとも投げ込んだのような作品北方行」(昭和八年頃から着手)は、その「自我追求ゆえに五年近くにわたる努力にもかかわらず未完成のままペンほうり出すといった結末迎えざるをえなかったのである。 — 木村一信作家案内――中島敦」 鄭舜瓏は、作中描き出されている下層朝鮮人街の悪臭や、乞食淫売婦荒んだ様子を、中島客観的に淡々と風景物を見るかのように冷酷とも思えるタッチひたすら描いている点に触れ中島スケッチ的な描写には、例え葉山嘉樹の『淫売婦のようなプロレタリア文学悲惨な場面描写見られる作者同情的な感情高まりはなく社会批判意識は薄いとし、のちの三造を主人公とする『かめれおん日記』や『狼疾記』、『北方行』といった中島作品共通する自己求め疎外者」という人物造型朝鮮人巡査にも見られることからも、中島にとっては社会的な問題よりも「自己」の問題方に重きがあったと考察している。 一方、陳佳敏は、こうした克明リアルな生きるのような乞食貧民荒んだ描写については、中島ヒューマニズム的な性格から、暗くて惨めな朝鮮の地で苦しく生きる朝鮮人の姿を、あえて生々しく描いたではないか考察している。また陳佳敏は、朝鮮人内部ある様々な屈折し矛盾する感情や、それが分からない日本人朝鮮人との間の和解し得ない民族的な矛盾など、植民地での両者の間の様々な関係性感得した中島が、植民地社会にいる人間たち内面が「支配と被支配」や「強と弱」的な単純な二項対立構図超えた遥かに複雑なのであること」を発見認識したとし、どちらの民族であれ、植民地社会生きる人々には「強い民族的な矛盾内在化し、精神的において屈折していること」を中島がこの作品表現し、「人間への興味」を深めていったと論じている。 陸嬋は、主人公の趙教英が被統治者側の朝鮮人であるのと同時に巡査という統治管理する側の立場でもあるという「異なアイデンティティー」を有していることに着目しそうした異なアイデンティティー混在によってもたらされ自我認識亀裂」こそが、中島が「『巡査の居る風景』という作品通して問いかけている主題」だと推察している。そして、同じ朝鮮物の虎狩』に登場する朝鮮貴族の子弟・趙大煥が、被統治下の状況下で支配者的な存在でもあるという二面アイデンティティー有している点にも触れながら、この2作の主要人物共通してみられる類似したアイデンティティー問題抱えていること」の分析は、「中島敦における朝鮮表象問題辿り着くために重要」だと論じている。 池澤夏樹は、戦後の日本人が欧米諸国植民地支配歴史批判することはあっても、日本自体植民地持っていたことを忘れている一面があり、文学作品中にも植民地という「おもしろテーマ」がほとんどない点に触れつつ、そんな中中島が「植民地という支配構造生み出す人の精神微妙なゆがみを実に正確に書いている」ことを高評価している。そして池澤は、大正時代のある時期から作家知識人なくなってきたという見解の上で、中島の『巡査の居る風景』や、パラオ南洋庁赴任時のミクロネシア舞台にした『マリアン』でみられるマリアン心理描写は、「日本人他者の関係を客観的に見る視点獲得した者」(=知識人)でなければ描けない文章だと解説している。

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作品研究・評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:44 UTC 版)

斗南先生」の記事における「作品研究・評価」の解説

中島敦作品内からの文章引用は〈 〉にしています(論者評者論文からの引用部との区別のため)。 『斗南先生』は中島敦伯父中島端(斗南)をほぼ忠実に活写した作品で、主人公の甥の「三造」も中島自身をほぼそのまま投影したのである。しかし、この作品を含む「三造」もの系の作品(『過去帳狼疾記かめれおん日記)』、未完作北方行』)を、いわゆる志賀直哉近松秋江葛西善蔵などの旧来的・既存的な「私小説」の有り様同一視することには異論唱え、『山月記』『弟子』『李陵』などの代表作生むまでの過程作品だとする論者作家見解主流である。 研究史的には、『斗南先生』は中島作品通底する自我問題、「己れとは」という命題追及している作品一つとして捉えられそうした面からの論究多くなされて傾向がある。 臼井吉見は、『斗南先生』を含む「三造」もの作品を「かなり上等な私小説」としながらも「僕は中島敦のこれらを私小説とは呼ぶまい」と述べ、『李陵』『山月記』などの「珠玉のごとき小説」を残した中島作品傾向考慮した上で「三造」もの中島の「生活記録として見るべき」として、それがいわゆる私小説属さない理由を、「(中島が)しょっちゅう私を考えていたからこそ李陵』や『山月記』を創造したのだ。ちっとも私を考えないのが私小説であることは明瞭であろう」と説明している。 勝又浩は、この作品中心に「私」というモチーフありながらも、その「私」が「我とは何か」という形而上的なもの(形而下的な私ではない)であることを見据えながら、「この小説いわゆる私小説範疇に入るものではないことも明らか」だろうとして、これ以降「三造」もの繋がっていると考察している。 (「斗南先生」は)「私」というモチーフ中心にありながらも、それはいわば形而下的な私ではなくあくまでも形而上的な私、我と何かという広い場所の中にある。それゆえ、この三造は、後にはフィクションとしての「北方行」の黒木三造につながり、あるいは「過去帳」の三造につながって行く。「北方行」が、より大きな社会歴史中においた三造、「過去帳」が女学校という職場社会においた三造の自己検証であったとするならば、この「斗南先生」は、血筋血統の中で我とは何か、を考えていると言えるであろう。 — 勝又浩解題――斗南先生濱川勝彦も、『斗南先生』の主題に「『血』――遺伝」があるとして、この作品同時期に書かれ「三造」もの習作『プウルの傍で』(中学時代回想した作品)の中に中島の「自己への回帰」「自己凝視」の姿勢看取している。 佐々木充は、主人公自身伯父類似点分析する過程で、己れが伯父同質人間であることを覚っていく内面劇に着目しながら、中島がこの作品初め自身の「未来を想い見ることが可能になった」と解説している。 ―つには伯父斗南生前記録しその面影追憶するという私的な要求を内に秘めつつ、それがとりも直さず主人公自己発見の劇でもあり、かくあるがゆえに、はじめてみずからの未来を想い見ることが可能になった作品だった。 — 佐々木充「『斗南先生』――原型発見鷺只雄は、親類の中で中島才能を最も愛した伯父斗南の死を契機に、その生涯中島辿っているこの作品中分析確認される伯父性向は、「分析自身」(中島)のものでもあるとし、「その意味ではこれは自己発見の書ともいえる」と解説している。 木村一信は、中島の「己れ」を追及するテーマが『斗南先生』から始まった位置づけ、「『斗南先生』の起稿より定稿に至る約十年の間に書きつがれた作品のほとんどは、このテーマにそってその作品世界展開されている」ことを指摘しつつ、最初の『斗南先生』において「己れとは」の主題を「最も早く作品盛りこもうとした意味は大きい」として、付記の☆章において「生きる方向見出している人間の姿」の三造の自信看取できる『斗南先生』と、10年間の間書かれた他の自己検証作品との相関関係考え合わせて中島作家軌跡考察している。 『斗南先生』において表現されえなかった三造の変貌経過埋めるものが、十年間の中島作品であると言えるではないか。その点から見て斗南先生』は、輪郭的にではあるが中島文学出発点収束点とを指し示していて興味ある作品となっている。 — 木村一信中島敦斗南先生』の成立佐伯彰一は、中島無名時代初期作品群習作や『虎狩』など)には「若々しい才気思いつきばかりが、宙に浮いて」いるものが目立つ中、この『斗南先生』は対象語り手「私」との間に「しかとへその緒つながって」いて、斗南風貌性行読者直によく伝わってくると高評価している。 また、中島評伝から窺える彼の無名」へのコンプレックスこだわりが、漢学者として無名終った伯父遺稿集図書館寄贈するのを躊躇するくだりにも「色濃く現われているだけでなく、斗南の「一見超然としているようで、じつは自信自意識強烈無比ともいいたい気質」などが鮮やかに描かれている点に佐伯着目し代表作李陵』『弟子』『山月記』の素材登場人物顕著な失意の影を色濃くひきずっている」点や「失意固執といった姿勢」の先駆的なものが『斗南先生』にあると考察している。 語り手「私」は、感傷排して、いわば迷惑をかけられ通しの甥という立場守りぬいて、対象との客観的な距離は、十分に保たれながら、この伯父=甥をつなぐ絆には、疑問余地がない。「エンマ・ボヴァリー、それは私だ」というフロベール名文句借用させてもらうなら、「斗南先生――それは敦自身」ともいいたいほどに、いわば肉付き仮面化しているのだ。そして、ここでも、キー・モチーフは、「失意コンプレックス」と狷介倨傲エゴチストぶりの結合他ならない。『李陵』、また『弟子』、『山月記』などに昇華結晶される主題が、すでにここにいち早く先どりされ、そしてほとんど遜色のない明晰さ客観性をもって定着されているのだ。 — 佐伯彰一解説――伝記功徳池澤夏樹は、中島作品の中では珍しい「肉親」という近しい題材扱ったこの作品の構成が、擱筆から10年後に自身の手記を改め読み返す最終章☆を付加しているという「時間的に二重の仕掛けになっていることに触れつつ、個性的な伯父冷徹に見ながらも自分中に伯父重な共通性発見して動揺し伯父死後読んだ『支那分割の運命』論旨共鳴するという「二段構え」のその「鋭い観察力」に感心している。また、その「鋭い観察力」が、古典を材にする際には李陵司馬遷のような生き生きとした人物像」を生み、実際に出会った人物においては環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―』のマリアンのような生彩あふれる肖像」を描くことになると池澤解説している。 藤村猛は、『斗南先生』が、伯父斗南死亡した昭和5年、「三造」が伯父への回想綴った昭和7年、その回想についてさらに10年後に補記した昭和17年、という「三つ時間併存し作品形成」していることに触れ、それにより「斗南像の深化と三造の変化」が描かれていると述べている。そして、中島第一創作集『光と風と夢』を刊行する当時「時代」盛り込んだ最後の☆章を加えようとした時に過去自分再確認し、自己と繋がる〈斗南〉を表現し」て、日米開戦時代存在している「現在の自分たちに思いを馳せた」と藤村考察し、『狼疾記』の「三造」との近似点や『斗南先生』が書かれ意義にも触れている。 「畢竟、俺は俺の愚かさ殉じる外に途は無いぢやないか。凡てが言はれ、考へられた後に結局、人は己が性情の指さす所に従ふのだ。」(「狼疾記」)斗南と三造の性情は近い。斗南生死小説化亡き斗南身近に感じ自己の生の確認にも通じている。大学卒業後の「斗南先生執筆は、彼にとって忘れられない伯父との交流や死、そして伯父への思い愛情)を描くことから始まる。それは過去現在の自分たちを考えることであり、そのことによって、作家への道再開しようとしたのである。 — 藤村猛「『斗南先生』論」 佐藤和也もその「三造の変化」を具体的に辿りながら、中島斗南に対して持っていた〈ひねくれた気持〉が〈自分が最も嫌つてゐた筈の乏しさ〉であることに気づき今まで分からなかった伯父への愛情(〈己の心の在り処〉)を自覚するまでの過程について、「自己批判通して伯父という人間受容ていったということではないだろうか」としている。 そして佐藤は、この作品には当時日本戦況的な背景重なってはいるが、中島同年随筆章魚木の下で』で〈戦争戦争文学文学〉と語っているように〈時局色彩〉を盛り込んだ作品というのではなく容易に知り得ない〈己の心の在り処〉というものが、それまで自分見方一度批判的に捉え直すことによって認識可能になるということ物語っている作品なのではないかとして、そうした作品語り手中島)にとっては「確実な〈己の心の在り処〉、つまり明白な自我などそもそも知り得ないものなのだと言えよう」と、再びその時点の認識翻る可能性をも秘めた複雑なものとして論考している。 以上のこうした中島自己追及に関する作品論のほかに、作中触れられている『支那分割の運命』見られる斗南中国関係知見中島与えた影響や、斗南人物像そのもの中島後期作品に与えた影響について論究もある。 渡邊一民は、後藤延子による斗南『支那分割の運命』分析研究から斗南中国対す見識深さ知りなおかつ、その斗南中国関連新聞記事読誦させるのをお気に入りの甥である敦だけに限定していたことなども鑑みて中島国際的な視野盛り込まれ未完作北方行』で見られる当時中国の政治対す関心は、斗南影響によって培われたのだと考察している。 川村湊は、中島伯父叔父たちの中で最も大きな影響与えたのは斗南だとし、警世の書ともいえる斗南『支那分割の運命』論旨が〈正鵠得てゐること〉に驚いた中島が、未完長編北方行』(当時現代中国舞台したもの)を書き進め過程で、斗南影響により「現実的に流動する社会見る目」を養うことができたとしている。 またそのこと同時に他者援助を受けつつ生活していた伯父現実社会コミットようとしたことと重な似た気持が『北方行』を書いている自分中にもあることを中島が気づいたのではないか川村推察し、『北方行』が未完になった要因一端には力量不足のほか、中国東洋全体天下国家運命を心配することより先に自身の〈疾〉(内面自我)に冒され運命問題作品焦点当てていくことの方が肝要になったではないか論考している。 そして川村は、斗南非論理的気まぐれで生活の些事疎く我儘な、だが没利害的な純粋を保つて居り、又、その気魄烈しさ遙かに常人超えてゐた〉気質とは、中島自身斗南から受け継いでいる「文人詩人素質」にほかならないとし、中島をおびやかした斗南の詩の「不免蛇身」という言葉が、中島作品山月記』に与えた影響考察している。 「悪詩悪筆」によって、自分他人欺く者は、未来永劫の身をなることを免れはしないというこの詩は、まさに詩人なりそこないとしての自己」の運命暗示していたものといえるのだ。斗南先生は、自分詩人になろうとして詩人になり切れない人間であることを知っていた。それは、明らかに「蛇」のような嫉妬心執拗な執着心であり、また「虎」のような残虐な欲望果てしもない渇望狂気そのものにほかならなかったのである。とすると、『山月記』の「臆病な自尊心尊大な羞恥心」を持った、虎になった李徴とは、斗南先生のことだったと考えてもおかしくない。(中略斗南先生自分と同じ性向性癖見て、その長所・短所を論っていた甥の敦は、敦=斗南先生にほかならず、斗南先生李徴とすれば、敦=李徴となって、『山月記』は、まさに中島敦の「私小説」という結論到達するのである斗南先生は、詩人にはなりそこなったが、それでも日本男児として、国と民族黄色人種将来憂慮し、「我に寇(あだ)なすものを禦(ふせ)ぐべく」、その遺骨熊野灘海底散骨させた。(中略)「さかまた」、すなわち「(しゃち)」。「海の虎」に変身した斗南先生は、詩人にはなりそこねたのだが、あっぱれ、国を守るわたつみの英霊とはなりえた(はずな)のである。 — 川村湊斗南先生中国論ず」 孫樹林は、西欧近代化する時代の中で西欧文化浅薄さを批判し東洋精神復興のため彷徨する人生送った斗南と、『弟子』『李陵』などの文学作品通じて古典歴史の中から東洋精神有り様探って求道ようとした中島敦が「書きたい書きたい」と志半ば亡くなったことに「悲壮な相似形」が存在していると考察している。 そして孫は、〈東洋未だ近代侵害を受ける以前の、或る一つすぐれた精神の型の博物館標本である〉伯父の死から、〈己れの心の在り処〉自ら知るようになった中島が「東洋精神後継者」として誕生してきたと考察している。 「未だ近代侵害を受ける以前の、或る一つすぐれた精神の型の博物館標本」である斗南伯父亡くなったが、入れ替わりに三造は「己れの心の在り処を自ら知」るようになり、東洋精神後継者として誕生してきたのである。この意味で「斗南先生」は、中島創作生涯平行して12年間に醗酵ていった斗南認識による自我観照であり、「優れた精神の型の博物館標本」の復活再生、または東洋精神復帰のである。 — 孫樹林中島敦斗南先生」論――東洋精神博物館標本佐々木充は、中島後期作品『弟子の子路の人物造型には斗南人物像があるのではないかとし、『斗南先生』において三造(中島)が伯父行動について分析した〈没理性的な感情強烈さ時として子供のような純粋な『没利害』の美しさを示す〉という気質そのまま、「子路個性をも形作るものでもあることは改め言うまでもないであろう」と解説している。 藤村猛も佐々木見解同様に、「己の信念準じた子路斗南類似性指摘し、郭玲玲も、『弟子の子路や『わが西遊記』の悟空性格や行動的かつ思索的な特質斗南共通していることを挙げている。

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