作品研究・評価
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『巡査の居る風景』は、中島がまだ無名であった一高時代に校内誌に発表した習作のため注目されていなかったが、中島没後から20年以上経過した後の、濱川勝彦の作品研究(1976年)、川村湊の論考(1988年)、鷺只雄の初期作品論(1989年)などで本格的に取り上げられるようになった傾向が研究論史的にみられる。 中島には左翼的志向は見出せず、その生涯において現実的な政治活動や社会批評に持続的関心を抱いていた様子や、イデオロギー的なものを作品化する気持も持ち合わせていなかった作家とみられているが、初期のこの習作『巡査の居る風景』や『プウルの傍で』(1932年)、『虎狩』(1934年)には、植民地の朝鮮人差別の実相や民族的アイデンティティーに関心が注がれているのが看取されるため、そうした点から中島文学の初期作品の意味付けや後発作品への影響などの論究がなされている。 中島が『巡査の居る風景』を執筆した昭和初期はプロレタリア文学が流行っていたが、被支配者側の朝鮮人を主人公にしたものはほとんどなく、中西伊之助の『不逞鮮人』(1922年)など、植民地朝鮮に同情する社会主義的な作品であっても、旅行者である日本人視点のものとなっている。よって、中島のように、実際にそこに長く暮らしていなければ描けない、他者の視点に入り込んだ作品は貴重なものとして論究されている傾向がみられ、悲惨な朝鮮の現実に焦点を当てているのと同時に、それが朝鮮人の視点に立ってリアルに描かれているという点も、この作品の総じて高い評価の軸となっている。 渡邊一民は、『巡査の居る風景』には中西伊之助を除くプロレタリア文学者の作品にも見られないような、「朝鮮人の運命を生身で感じたものだけが表現しうる何かが脈打っている」と高評価し、19歳という若さですでに鋭い問題意識を持っていた中島が、その問題意識を未完の長編『北方行』(1933年頃-1937年執筆)にも生かそうとしていたと考察している。 川村湊は、アジア(特に中国や朝鮮)と日本との関係に関し戦前からの文学作品を対象に実態解明を試みる論の中で、この中島の『巡査の居る風景』や『虎狩』、満州の大連を舞台にした『D市七月叙景(一)』(1930年)の3作品に言及した上で、「『昭和』の戦争と、その小説創作の時期とを、ほぼ重ね合わせられる小説家・中島敦は、こうした“植民地アジア”の心象風景を書くことを、文学者としての出発点としたのである」と定義づけている。そして、日本人による蔑視に対応する朝鮮人の無気力さが点描されている『巡査の居る風景』を、「『植民地朝鮮』の実像に迫ろうという野心的な試み」と高評価している。 鷺只雄は、『巡査の居る風景』が各場面を積み重ねることによって、単なるスケッチではなく1923年における朝鮮の冬の「屈辱・絶望」の状況を多面的にリアルに描き出しているとし、それ以上に意義のある点を、この作品が「被支配者」の朝鮮人の側から描き出され、「支配され、抑圧されている朝鮮人民衆の目と心を通して、悲惨な実情を描いている」ことだと強調しながら、川村湊と同様の高い評価をしている。 しかし鷺只雄と川村湊の見解に相違が見られる部分は、鷺が、川村の総論としての方向には賛同しながらも、川村の主張する「中島敦は、“植民地アジア”の心象風景を書くことを、文学者としての出発点とした」という規定に関しては「性急な限定」だと否定し、川村の見解の中の定義づけを「贔屓の引き倒し」、「一斑を見て全豹を卜とする類の断定」だと異を唱えている点である。 詳細にいうと、鷺は中島の習作が内包している他の多彩な要素(新感覚派的なモダニズム、自然主義的なリアリズムなど)を総括的に見た上で、川村の定義と類似する濱川勝彦の論(中島がのちに自己への回帰に「転向」したという見解)も否定し、『巡査の居る風景』を含めた初期作品に内包されている「可能性の束としてのブリリアントな才華の片鱗」を見るのが適切であるとしつつ、人間と世界に対するその中島の認識が深化したことで、時間と空間を超越した多種多様な人間の生を問う文学世界がのちに開けていったのだと反論している。 鷺は、中島が「被支配者」の朝鮮人の視点を持つことができた理由や影響力については、少年期の「感受性の形成期」を朝鮮で過ごし感得したと思われる「植民者と被植民者の間の不合理」を挙げ、そこから「不条理な人間関係」や「不条理な人間存在」に中島がめざめたとしている。また、その中島文学の中核的な想念の一つである「存在への疑惑」が、中島の思弁的・観念的な追求の結果だと理解されるより、実母との生別や継母たちとの確執などの実体験刺激と同様に、植民地体験という「日常的現実契機」が「存在の不条理性」への誘因として重視すべき点だとしている。その点で鷺は、幼少時における植民地体験の日常的な契機を持ち、不条理性を文学テーマにした安部公房や埴谷雄高と通底する部分を中島が持っているとしている。 そして、そうした生い立ちや植民地体験を持つ中島にとり、プロレタリア文学全盛当時に被植民者の視点でその実態を描くことは比較的容易ではあったものの、中島独自の視点と立場は「人間認識の根源に位置するもの」であるために、この『巡査の居る風景』はプロレタリア文学の一過性的な流行に追随するような軽薄さとは無縁であると鷺は述べて、以下のように考察している。 このような中島にとって折柄のプロレタリア文学全盛の中で、被植民者の視点からその実態をこの作品のようなかたちで告発することは容易であり、当然であった。しかし重要な事は、中島にとってこの視点・立場は人間認識の根源に位置するものであるゆえに、一時的な盛行、時好性に投ずる軽薄さとは無縁であった。そういう作品は他に書かれていないところに明らかである。と同時にそれが彼の認識・存在と深く関わるが故に、一時の盛行も一場の夢と消え、弾圧され、転向して行った中で、中島は昭和10年代の最も困難な時期に、南海の小島で大英帝国の植民地政策にたった一人反乱を起したR・L・スティーブンスンを主人公に「光と風と夢」を描いたところに執念く生き続けているのであり、彼が晩年南洋庁の役人としてパラオに就任した際に知りあった島の女を日本人も含めた島随一の知的な女性として描いた「マリアン」程、愛情と理解に満ちた現地人を描いた小説は類がないところにも明らかであろう。 — 鷺只雄「初期の習作――豊饒な可能性 一」 田中益三も、中島が多感な時期に植民地の風景の中で育った意味は大きいとし、少年中島の中には中野重治のようなプロレタリア革命に対する賞賛の高ぶりはないものの、『巡査の居る風景』や、同じく朝鮮植民地を舞台にした短編『虎狩』で、それぞれの朝鮮人巡査・趙教英、同級生・趙大煥という2人の「趙」を描いた点に、「屈辱を負った他民族を見ようとする視点」が透徹し、この名前の同一は便宜的一致ばかりでなく、「民族の煩悶を子供・大人の両局面によって表わす希求が自然に生じている」と考察している。 田中はまた、その後に朝鮮主題の作品が途絶えたのは、中島が自身の周辺体験的作品にとどまってしまう「私小説性」を拒絶したこと以上に、被植民者と自己との関係性や、彼らの個性の人物造型に発展性を付与することに難しさを感じたからではないかとしている。そして、『かめれおん日記』の主題にみられる「自苦の精神」の在り方を追求することに作品の主眼を定めていった中島だったが、「(中島の)植民地とは何か、という“質問の悪魔”(フラーゲ・デーモン)」は、朝鮮より北方の別のコース(満州・中国を舞台とした『D市七月叙景(一)』や『北方行』)にも散見されるとし、プロレタリア文学と対比される中島作品の語りの特徴については、「他」(社会など)を責めずに「『自苦』に向けて発動された」ものと解説している。 中島敦の「南」の問題は言われて久しいが「北」に引き裂かれながら、出自の確認にまつわる自分探しを続けた〈移動者〉が中島であったし、〈自苦の精神〉を引きうけて自らを律するとともに、故国と植民地の狭間において〈精神のクレオール〉として自ら生きた存在こそ、他ならぬ中島敦という作家だと言うべきだから。 — 田中益三「遍歴・異郷――朝鮮・中国体験の意味」。 木村一信は、中島の同級生だった湯浅克衛の『カンナニ』同様、少年期を外地(朝鮮)で過ごした中島の作品にも、現地の人々を優越的に見下すのではなく、朝鮮の風土や、そこで暮らす人々の視点に寄り添った「同化」に近い心情がみられるとし、川村湊が述べた「朝鮮半島の側からの視点」の作品であることに同意しながらも、植民地朝鮮の中では中島も湯浅も支配者側の人間の子息であったという「屈折をはらんだ境遇」も見逃してはならない点であるとして、中島の中での自我追求の占める大きさについて考察している。 「同化」への思いはあっても、たえず異和の感覚を意識させらざるをえない日々を経験した者にとって、自らの拠るべき場への疑念は容易に拭えない。(中略)この時期(初期)の中島の営為を眺めてみると、すでに多く言及されてきたように当時の文壇・文学状況の忠実な形での反映とみていい。新感覚派風の文体、描写、プロレタリア文学的発想、さらには新心理主義的手法の試みなどが「習作」の幾篇かに見られる。また一方で、「斗南先生」に始まる「己」を追及するテーマに対しての執着は強く、激動する国際政治の舞台「中国」に材をとり、スケール大きくかまえ、関心を寄せる問題をいくとも投げ込んだかのような作品「北方行」(昭和八年頃から着手)は、その「自我」追求ゆえに五年近くにわたる努力にもかかわらず、未完成のままペンをほうり出すといった結末を迎えざるをえなかったのである。 — 木村一信「作家案内――中島敦」 鄭舜瓏は、作中で描き出されている下層朝鮮人街の悪臭や、乞食や淫売婦の荒んだ様子を、中島が客観的に淡々と風景や物を見るかのように、冷酷とも思えるタッチでひたすら描いている点に触れ、中島のスケッチ的な描写には、例えば葉山嘉樹の『淫売婦』のようなプロレタリア文学の悲惨な場面描写に見られる作者の同情的な感情の高まりはなく社会批判意識は薄いとし、のちの三造を主人公とする『かめれおん日記』や『狼疾記』、『北方行』といった中島作品に共通する「自己を求める疎外者」という人物造型が朝鮮人巡査にも見られることからも、中島にとっては社会的な問題よりも「自己」の問題の方に重きがあったと考察している。 一方、陳佳敏は、こうした克明でリアルな、生きる屍のような乞食や貧民の荒んだ描写については、中島のヒューマニズム的な性格から、暗くて惨めな朝鮮の地で苦しく生きる朝鮮人の姿を、あえて生々しく描いたのではないかと考察している。また陳佳敏は、朝鮮人の内部にある様々な屈折し矛盾する感情や、それが分からない日本人と朝鮮人との間の和解し得ない民族的な矛盾など、植民地での両者の間の様々な関係性を感得した中島が、植民地社会にいる人間たちの内面が「支配と被支配」や「強と弱」的な単純な二項対立の構図を超えた「遥かに複雑なものであること」を発見・認識したとし、どちらの民族であれ、植民地社会に生きる人々には「強い民族的な矛盾を内在化し、精神的において屈折していること」を中島がこの作品で表現し、「人間への興味」を深めていったと論じている。 陸嬋は、主人公の趙教英が被統治者側の朝鮮人であるのと同時に、巡査という統治・管理する側の立場でもあるという「異なるアイデンティティー」を有していることに着目し、そうした「異なるアイデンティティーの混在によってもたらされた自我認識の亀裂」こそが、中島が「『巡査の居る風景』という作品を通して問いかけている主題」だと推察している。そして、同じ朝鮮物の『虎狩』に登場する朝鮮貴族の子弟・趙大煥が、被統治下の状況下で支配者的な存在でもあるという二面的アイデンティティーを有している点にも触れながら、この2作の主要人物に共通してみられる「類似したアイデンティティーの問題を抱えていること」の分析は、「中島敦における朝鮮表象の問題に辿り着くために重要」だと論じている。 池澤夏樹は、戦後の日本人が欧米諸国の植民地支配の歴史を批判することはあっても、日本自体も植民地を持っていたことを忘れている一面があり、文学作品の中にも植民地という「おもしろいテーマ」がほとんどない点に触れつつ、そんな中で中島が「植民地という支配構造が生み出す人の精神の微妙なゆがみを実に正確に書いている」ことを高評価している。そして池澤は、大正時代のある時期から作家が知識人でなくなってきたという見解の上で、中島の『巡査の居る風景』や、パラオ南洋庁赴任時のミクロネシアを舞台にした『マリアン』でみられるマリアンの心理描写は、「日本人と他者の関係を客観的に見る視点を獲得した者」(=知識人)でなければ描けない文章だと解説している。
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作品研究・評価
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※中島敦の作品内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。 『斗南先生』は中島敦が伯父の中島端(斗南)をほぼ忠実に活写した作品で、主人公の甥の「三造」も中島自身をほぼそのまま投影したものである。しかし、この作品を含む「三造」もの系の作品(『過去帳(狼疾記、かめれおん日記)』、未完作『北方行』)を、いわゆる志賀直哉や近松秋江・葛西善蔵などの旧来的・既存的な「私小説」の有り様と同一視することには異論を唱え、『山月記』『弟子』『李陵』などの代表作を生むまでの過程的作品だとする論者や作家の見解が主流である。 研究史的には、『斗南先生』は中島作品に通底する自我の問題、「己れとは」という命題を追及している作品の一つとして捉えられ、そうした面からの論究が多くなされて傾向がある。 臼井吉見は、『斗南先生』を含む「三造」ものの作品を「かなり上等な私小説」としながらも「僕は中島敦のこれらを私小説とは呼ぶまい」と述べ、『李陵』『山月記』などの「珠玉のごとき小説」を残した中島の作品傾向を考慮した上で、「三造」ものを中島の「生活記録として見るべき」として、それがいわゆる私小説に属さない理由を、「(中島が)しょっちゅう私を考えていたからこそ『李陵』や『山月記』を創造したのだ。ちっとも私を考えないのが私小説であることは明瞭であろう」と説明している。 勝又浩は、この作品の中心に「私」というモチーフがありながらも、その「私」が「我とは何か」という形而上的なもの(形而下的な私ではない)であることを見据えながら、「この小説がいわゆる私小説の範疇に入るものではないことも明らか」だろうとして、これ以降の「三造」ものに繋がっていると考察している。 (「斗南先生」は)「私」というモチーフが中心にありながらも、それはいわば形而下的な私ではなく、あくまでも形而上的な私、我とは何かという広い場所の中にある。それゆえ、この三造は、後にはフィクションとしての「北方行」の黒木三造につながり、あるいは「過去帳」の三造につながって行く。「北方行」が、より大きな社会、歴史の中においた三造、「過去帳」が女学校という職場、社会においた三造の自己検証であったとするならば、この「斗南先生」は、血筋血統の中で我とは何か、を考えていると言えるであろう。 — 勝又浩「解題――斗南先生」 濱川勝彦も、『斗南先生』の主題に「『血』――遺伝」があるとして、この作品や同時期に書かれた「三造」ものの習作『プウルの傍で』(中学時代を回想した作品)の中に、中島の「自己への回帰」「自己凝視」の姿勢を看取している。 佐々木充は、主人公が自身と伯父の類似点を分析する過程で、己れが伯父と同質の人間であることを覚っていく内面劇に着目しながら、中島がこの作品で初めて自身の「未来を想い見ることが可能になった」と解説している。 ―つには伯父斗南の生前を記録しその面影を追憶するという私的な要求を内に秘めつつ、それがとりも直さず主人公の自己発見の劇でもあり、かくあるがゆえに、はじめてみずからの未来を想い見ることが可能になった作品だった。 — 佐々木充「『斗南先生』――原型の発見」 鷺只雄は、親類の中で中島の才能を最も愛した伯父の斗南の死を契機に、その生涯を中島が辿っているこの作品中で分析・確認される伯父の性向は、「分析者自身」(中島)のものでもあるとし、「その意味ではこれは自己発見の書ともいえる」と解説している。 木村一信は、中島の「己れ」を追及するテーマが『斗南先生』から始まったと位置づけ、「『斗南先生』の起稿より定稿に至る約十年の間に書きつがれた作品のほとんどは、このテーマにそってその作品世界が展開されている」ことを指摘しつつ、最初の『斗南先生』において「己れとは」の主題を「最も早く作品に盛りこもうとした意味は大きい」として、付記の☆章において「生きる方向を見出している人間の姿」の三造の自信が看取できる『斗南先生』と、10年間の間に書かれた他の自己検証の作品との相関関係を考え合わせて、中島の作家の軌跡を考察している。 『斗南先生』において表現されえなかった三造の変貌の経過を埋めるものが、十年間の中島の作品であると言えるのではないか。その点から見て『斗南先生』は、輪郭的にではあるが中島文学の出発点と収束点とを指し示していて興味ある作品となっている。 — 木村一信「中島敦『斗南先生』の成立」 佐伯彰一は、中島の無名時代の初期作品群(習作や『虎狩』など)には「若々しい才気か思いつきばかりが、宙に浮いて」いるものが目立つ中、この『斗南先生』は対象と語り手の「私」との間に「しかとへその緒がつながって」いて、斗南の風貌や性行が読者に直によく伝わってくると高評価している。 また、中島の評伝から窺える彼の「無名」へのコンプレックスやこだわりが、漢学者として無名に終った伯父の遺稿集を図書館に寄贈するのを躊躇するくだりにも「色濃く」現われているだけでなく、斗南の「一見超然としているようで、じつは自信も自意識も強烈無比ともいいたい気質」などが鮮やかに描かれている点に佐伯は着目し、代表作『李陵』『弟子』『山月記』の素材や登場人物に顕著な「失意の影を色濃くひきずっている」点や「失意固執といった姿勢」の先駆的なものが『斗南先生』にあると考察している。 語り手の「私」は、感傷を排して、いわば迷惑をかけられ通しの甥という立場を守りぬいて、対象との客観的な距離は、十分に保たれながら、この伯父=甥をつなぐ絆には、疑問の余地がない。「エンマ・ボヴァリー、それは私だ」というフロベールの名文句を借用させてもらうなら、「斗南先生――それは敦自身」ともいいたいほどに、いわば肉付きの仮面と化しているのだ。そして、ここでも、キー・モチーフは、「失意コンプレックス」と狷介倨傲なエゴチストぶりの結合に他ならない。『李陵』、また『弟子』、『山月記』などに昇華、結晶される主題が、すでにここにいち早く先どりされ、そしてほとんど遜色のない明晰さと客観性をもって定着されているのだ。 — 佐伯彰一「解説――伝記の功徳」 池澤夏樹は、中島作品の中では珍しい「肉親」という近しい題材を扱ったこの作品の構成が、擱筆から10年後に自身の手記を改めて読み返す最終章☆を付加しているという「時間的に二重の仕掛け」になっていることに触れつつ、個性的な伯父を冷徹に見ながらも自分の中に伯父と重なる共通性を発見して動揺し、伯父の死後に読んだ『支那分割の運命』の論旨に共鳴するという「二段構え」のその「鋭い観察力」に感心している。また、その「鋭い観察力」が、古典を材にする際には李陵や司馬遷のような「生き生きとした人物像」を生み、実際に出会った人物においては『環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―』のマリアンのような「生彩あふれる肖像」を描くことになると池澤は解説している。 藤村猛は、『斗南先生』が、伯父の斗南が死亡した昭和5年、「三造」が伯父への回想を綴った昭和7年、その回想についてさらに10年後に補記した昭和17年、という「三つの時間が併存して作品を形成」していることに触れ、それにより「斗南像の深化と三造の変化」が描かれていると述べている。そして、中島が第一創作集『光と風と夢』を刊行する当時の「時代」を盛り込んだ最後の☆章を加えようとした時に「過去の自分を再確認し、自己と繋がる〈斗南〉を表現し」て、日米開戦の時代に存在している「現在の自分たちに思いを馳せた」と藤村は考察し、『狼疾記』の「三造」との近似点や『斗南先生』が書かれた意義にも触れている。 「畢竟、俺は俺の愚かさに殉じる外に途は無いぢやないか。凡てが言はれ、考へられた後に結局、人は己が性情の指さす所に従ふのだ。」(「狼疾記」)斗南と三造の性情は近い。斗南の生死の小説化は亡き斗南を身近に感じ、自己の生の確認にも通じている。大学卒業後の「斗南先生」執筆は、彼にとって忘れられない伯父との交流や死、そして伯父への思い(愛情)を描くことから始まる。それは過去・現在の自分たちを考えることであり、そのことによって、作家への道を再開しようとしたのである。 — 藤村猛「『斗南先生』論」 佐藤和也もその「三造の変化」を具体的に辿りながら、中島が斗南に対して持っていた〈ひねくれた気持〉が〈自分が最も嫌つてゐた筈の乏しさ〉であることに気づき、今まで分からなかった伯父への愛情(〈己の心の在り処〉)を自覚するまでの過程について、「自己批判を通して伯父という人間を受容していったということではないだろうか」としている。 そして佐藤は、この作品には当時の日本の戦況的な背景が重なってはいるが、中島が同年の随筆『章魚の木の下で』で〈戦争は戦争。文学は文学〉と語っているように〈時局的色彩〉を盛り込んだ作品というのではなく、容易に知り得ない〈己の心の在り処〉というものが、それまでの自分の見方を一度批判的に捉え直すことによって認識可能になるということを物語っている作品なのではないかとして、そうした作品の語り手(中島)にとっては「確実な〈己の心の在り処〉、つまり明白な自我などそもそも知り得ないものなのだと言えよう」と、再びその時点の認識が翻る可能性をも秘めた複雑なものとして論考している。 以上のこうした中島の自己追及に関する作品論のほかに、作中で触れられている『支那分割の運命』に見られる斗南の中国関係の知見が中島に与えた影響や、斗南の人物像そのものが中島の後期作品に与えた影響についての論究もある。 渡邊一民は、後藤延子による斗南著『支那分割の運命』の分析研究から斗南の中国に対する見識の深さを知り、なおかつ、その斗南が中国関連の新聞記事を読誦させるのをお気に入りの甥である敦だけに限定していたことなども鑑みて、中島の国際的な視野が盛り込まれた未完作『北方行』で見られる当時の中国の政治に対する関心は、斗南の影響によって培われたのだと考察している。 川村湊は、中島が伯父・叔父たちの中で最も大きな影響を与えたのは斗南だとし、警世の書ともいえる斗南の『支那分割の運命』の論旨が〈正鵠を得てゐること〉に驚いた中島が、未完の長編『北方行』(当時の現代中国を舞台にしたもの)を書き進める過程で、斗南の影響により「現実的に流動する社会を見る目」を養うことができたとしている。 またそのことと同時に、他者の援助を受けつつ生活していた伯父が現実の社会とコミットしようとしたことと重なる似た気持が『北方行』を書いている自分の中にもあることを中島が気づいたのではないかと川村は推察し、『北方行』が未完になった要因の一端には力量不足のほか、中国や東洋全体の天下国家の運命を心配することよりも先に、自身の〈狼疾〉(内面自我)に冒された運命の問題に作品の焦点を当てていくことの方が肝要になったのではないかと論考している。 そして川村は、斗南の非論理的で気まぐれで生活の些事に疎く〈我儘な、だが没利害的な純粋を保つて居り、又、その気魄の烈しさが遙かに常人を超えてゐた〉気質とは、中島自身も斗南から受け継いでいる「文人、詩人の素質」にほかならないとし、中島をおびやかした斗南の詩の「不免蛇身」という言葉が、中島の作品『山月記』に与えた影響を考察している。 「悪詩悪筆」によって、自分も他人も欺く者は、未来永劫に蛇の身をなることを免れはしないというこの詩は、まさに詩人のなりそこないとしての「自己」の運命を暗示していたものといえるのだ。斗南先生は、自分が詩人になろうとして、詩人になり切れない人間であることを知っていた。それは、明らかに「蛇」のような嫉妬心や執拗な執着心であり、また「虎」のような残虐な欲望、果てしもない渇望や狂気そのものにほかならなかったのである。とすると、『山月記』の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を持った、虎になった李徴とは、斗南先生のことだったと考えてもおかしくない。(中略)斗南先生に自分と同じ性向、性癖を見て、その長所・短所を論っていた甥の敦は、敦=斗南先生にほかならず、斗南先生=李徴とすれば、敦=李徴となって、『山月記』は、まさに中島敦の「私小説」という結論に到達するのである。斗南先生は、詩人にはなりそこなったが、それでも日本男児として、国と民族と黄色人種の将来を憂慮し、「我に寇(あだ)なすものを禦(ふせ)ぐべく」、その遺骨を熊野灘の海底に散骨させた。(中略)「さかまた」、すなわち「鯱(しゃち)」。「海の虎」に変身した斗南先生は、詩人にはなりそこねたのだが、あっぱれ、国を守るわたつみの英霊とはなりえた(はずな)のである。 — 川村湊「斗南先生、中国を論ず」 孫樹林は、西欧近代化する時代の中で西欧文化の浅薄さを批判し東洋精神の復興のため彷徨する人生を送った斗南と、『弟子』『李陵』などの文学作品を通じて古典や歴史の中から東洋精神の有り様を探って求道しようとした中島敦が「書きたい、書きたい」と志半ばで亡くなったことに「悲壮な相似形」が存在していると考察している。 そして孫は、〈東洋が未だ近代の侵害を受ける以前の、或る一つのすぐれた精神の型の博物館的標本である〉伯父の死から、〈己れの心の在り処〉自ら知るようになった中島が「東洋精神の後継者」として誕生してきたと考察している。 「未だ近代の侵害を受ける以前の、或る一つのすぐれた精神の型の博物館的標本」である斗南伯父は亡くなったが、入れ替わりに三造は「己れの心の在り処を自ら知」るようになり、東洋精神の後継者として誕生してきたのである。この意味で「斗南先生」は、中島の創作生涯と平行して、12年間に醗酵していった「斗南」認識による自我観照であり、「優れた精神の型の博物館的標本」の復活、再生、または東洋精神の復帰なのである。 — 孫樹林「中島敦「斗南先生」論――東洋精神の博物館的標本」 佐々木充は、中島の後期作品『弟子』の子路の人物造型には斗南の人物像があるのではないかとし、『斗南先生』において三造(中島)が伯父の行動について分析した〈没理性的な感情の強烈さは時として子供のような純粋な『没利害』の美しさを示す〉という気質はそのまま、「子路の個性をも形作るものでもあることは改めて言うまでもないであろう」と解説している。 藤村猛も佐々木の見解と同様に、「己の信念に準じた」子路と斗南の類似性を指摘し、郭玲玲も、『弟子』の子路や『わが西遊記』の悟空の性格や行動的かつ思索的な特質が斗南と共通していることを挙げている。
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