いま思えば、この種の本の先駆けは、120万部のベストセラーになった日野原重明『生き方上手』(2001年)だったかもしれない。この時、著者は90歳だった。
その後、上野千鶴子『おひとりさまの老後』(2007年)が話題になり、2010年代に入ると高齢者のエッセイが一種のトレンドになって、渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』、下重暁子『家族という病』、篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと』などのベストセラーが続々誕生。17年には佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』が年間ベストセラー第一位に輝いた。
65歳以上の人口の割合が全人口の21%を超えた社会を「超高齢社会」と呼ぶ。日本は2007年に超高齢社会に突入し、24年の高齢者人口率は29%である。右のような本が続々とヒットしたのも、高齢者人口の増加と当然ながら無縁ではない。
年齢を聞く習慣から集団自殺しかない発言まで
『九十歳。何がめでたい』が読者の共感を誘ったのは、世間が求める「柔和なおばあちゃん」の像を著者が逸脱しているためかもしれない。この本の佐藤愛子は基本、不機嫌である。なんたって、最初の項の見出しは「こみ上げる憤怒の孤独」だ。
〈佐藤さん、お幾つになられました?〉と聞かれた際の彼女の慨嘆は〈これからお嫁に行くとか、子供を産む人には年は大切かもしれないが、今となっては九十一でも二でも三でも、どうだっていいよ! と妙なところでヤケクソ気味になるのである〉。
年齢にこだわるヤカラへの反撃は続く。〈「九十といえば卒寿というんですか。まあ!(感きわまった感嘆詞)おめでとうございます。白寿を目ざしてどうか頑張って下さいませ」/満面の笑みと共にそんな挨拶をされると、/「はあ……有難うございます……」/これも浮世の義理、と思ってそう答えはするけれど内心は、/「卒寿? ナニがめでてえ!」/と思っている〉。
なぜ余人は子どもと老人にだけ年を聞くのか。無礼ではないかと私は若い頃から怒っていた。無意識にやっている差別や偏見のことをアンコンシャスバイアスというが、高齢者に対する扱いは、アンコンシャスバイアスだらけである。
和田秀樹『「高齢者差別」この愚かな社会』は〈日本においていま、もっとも差別されている存在は誰かと言えば、私は「高齢者」である、と考えています〉といいきっている。
一例として言及されているのが、ドライバーの扱いである。高齢ドライバーの事故原因としてよくあげられるのが「ブレーキとアクセルの踏み間違い」だ。が、運転ができる程度に自立した高齢者がブレーキとアクセルを区別できないことはあり得ず、踏み間違えたとしたらそれは誰にでも起こり得るミスである。ところが〈メディアは、年を取ったからこのような事故を起こすのであって、高齢者を「事故を起こしやすい厄介な存在」として扱おうとし、その情報を受け取る人たちも、「高齢者だから仕方がない」と納得し、あっという間にそのような理解が広がってしまいます〉。
実際、免許保有者10万人当たりの交通事故件数は、一位が16〜19歳、二位が20〜29歳で80歳以上は三位。ブレーキとアクセルの踏み間違い事故自体、事故全体の一パーセントだ(16年警察庁交通局)。それでも70歳以上のドライバーは免許更新の際に高齢者講習を義務づけられ、周囲は免許返納を勧める。
医療現場でも高齢者は不当な差別に遭う。高齢者が病院に行くと「年のせい」にされ、「治りませんよ」といわれることが多くなる。治療で症状が改善される「うつ病」が認知症と判断されたり、「末期ですから」「寿命ですから」の一言で、抗生物質で治る肺炎に薬を出さなかったり。〈入院治療において、お年寄りにわざと医療を行わないというケースもあります〉〈日本では若い人が死ぬことは重大事なのに、お年寄りは死んでもいいと思われているふしがどこかに感じられます〉という指摘は、実感として思い当たる節がある人も多いのではないだろうか。
高齢者差別の原因は、大きく二つあるように思われる。
第一の原因は、個人差が無視され、すべてが年齢で一律に判断される傾向だ。年齢が上がるほど身体能力の個人差は大きくなるが、世間はその差を考慮しない。「お年寄りだから」がいかに不当な差別かは「女だから」という理由で権利が剥奪され、行動を制限されてきた性差別の歴史を思い出せばわかるだろう。
第二の原因は、生産性を重んじる資本主義社会では、生産活動から退いた高齢者はなべて「邪魔者」「厄介者」で、現役世代の活動を圧迫する存在として認識されていることだ。
その極致が「無価値な老人は死ね」という発想、深沢七郎『楢山節考』や映画「PLAN75」と同じ姥捨て思想だろう。
テレビのコメンテーターも務めるイェール大学の成田悠輔助教授の発言が物議を醸したことがあった。高齢化問題を取り上げた二一年のネット配信番組で、彼は「唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなのしかない」「別に物理的な切腹だけでなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて」と述べたのだ。この件は23年に海外メディアが取り上げて公になり、成田は某社のCMを降板させられた
また、24年10月の衆院選に先立つ日本記者クラブ主催の党首討論(10月12日)で、国民民主党の玉木雄一郎代表はさらに由々しき発言をした。「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、若い人の社会保険料を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を生み出すと思っています」。
公党の代表が、社会保障費削減目的で尊厳死を語るなど言語道断(この公約は同党の政策パンフレットにも明記されている)。もしこれが障害者についての発言(公約)だったら許されただろうか。それでも同党は衆院選で躍進し、玉木は政局の鍵を握ったような顔でいけしゃあしゃあとメディアに出まくっている。
「集団自決」「尊厳死」という発想の裏に透けて見えるのは「寝たきりになってまで生きているのはかわいそう」「死んだほうが楽ではないか」という決めつけだ。しかし和田秀樹はいう。〈私の臨床経験から言えば、「死にたい」「殺してくれ」というお年寄りはほとんどいません〉。「早く迎えが来てほしい」などと口にする人は〈うつ病にかかっている可能性が高いのです〉。
高齢者の能力に関する数々の神話
アシュトン・アップルホワイト『エイジズムを乗り越える』は人種差別(レイシズム)や性差別(セクシズム)と同様、年齢差別(エイジズム)も社会がつくるものだと述べている。アメリカには人種差別禁止法、性差別禁止法と並んで年齢差別禁止法があるが、これは40歳以上の労働者を保護するための法律で、社会全体を見渡せば高齢者が市民として尊重されているとはいえない。
〈社会福祉サービス、法律相談、金融支援を受けようとする高齢者に対して見下すような話し方がされる時、話し手の頭の中ではステレオタイプがフル回転している。高齢者に完璧な判断力がある時でさえ、「何が一番良いかを知っている」のは自分たちだと言い張ることもある〉。日本と同じだ。
高齢者に関する数々の「神話」の中でも、広く信じられているのが、身体のみならず脳も老化し、判断力が低下とするとの思い込みだろう。運転免許証の件もそう、65歳ないし70歳を境に賃貸住宅の契約を拒否されたりするのもそう。
一定の年齢を超えても働きたい人、働かなければ暮らせない人は多いはずだが、〈高齢の労働者は、どんなに仕事ができても、エイジズムのために、やりがいのある仕事につくことができず、これまで身につけた技術や経験がほとんど役に立たない仕事に追いやられる〉。定年退職制度も思えば年齢差別的だ。
アップルホワイトは、職業上の「神話」にことごとく反論する。
高齢者は新しい技能を習得できない。▼実際はリーダーシップ、細かい仕事、組織化、聞く能力、書く能力、問題解決などのあらゆる面で高齢者は高い成績を収めている。
高齢者は創造的でない。▼同じ仕事を30年続ければ創造力は減退するが、新しい仕事につけば、新しいアイデアが生まれる。年齢の異なる人で構成されるグループは、研究開発やマーケティングのような創造的な分野で高い生産性を発揮する。
高齢者は肉体的に仕事の要求に耐えられない。▼消防や飛行機の操縦のような高い身体能力が要求される仕事でもない限り、仕事への適性は、年齢よりも健康と経験が指標になる。
私たちに求められるのは、年齢差別をキャッチするセンサーをまず持つことだろう。この件が厄介なのは、高齢者自身が差別を内面化し自分を卑下する傾向があることだ。「もう年だから仕方がない」と思った途端に年齢差別は容認され、差別者はつけ上がる。
老害はない、問題のある人はもとからそうだったのだと和田秀樹はいい、「何歳ですか」と聞かれたら、その質問は必要かと問い直せとアップルホワイトは促す。そして佐藤愛子は、嫌な奴がいたら〈そんな奴にははっきりいった方がいいんです。「私、そんな話はしたくないの」とね〉〈ハッキリいえないのならせめて、いやアな顔、困った顔をして口ごもってみせ〉ろ、と。
抵抗することからすべては始まる。人種差別や性差別には敏感でも、みんな年齢差別には鈍感だ。先入観を捨てること。相手も自分も年寄り扱いしないこと。超高齢社会の鉄則だろう。
【この記事で紹介された本】
『増補版 九十歳。何がめでたい』
佐藤愛子、小学館文庫、2021年、660円(税込)
〈あなたの悩みも“一笑両断”〉(帯より)。16年刊、17年のベストセラーにインタビューや対談を加えた増補版。「女性セブン」の連載エッセイをまとめた本で、24年には草笛光子主演で映画化された。身辺の報告からメディア批評や社会時評まで話題は多彩。世間に文句を言いつつ笑いで落とす手腕は健在で、この本自体が年齢を重ねても知的能力は衰えないことの証明ともいえる。
『「高齢者差別」この愚かな社会 ―― 虐げられる「高齢者」にならないために』
和田秀樹、詩想社新書、2017年、1012円(税込)
〈高齢者のせいにすればすべて通ってしまうこの社会の異様さ〉(帯より)。著者は高齢者専門の精神科医。高齢ドライバーなどの身近な例から旧態依然の医療現場、相続の問題まで、日本の随所にはびこる高齢者差別の諸相を解く。アルツハイマーの九割の人は普通に生活している、長寿県では70歳以上の就業率が高いといった意外な情報や提言もあり、思い込みがくつがえされる。
『エイジズムを乗り越える ―― 自分と人を年齢で差別しないために』
アシュトン・アップルホワイト著、城川桂子訳、ころから、2023年、2420円(税込)
〈「高齢者は集団自決を」これは暴言なんかじゃない。差別そのものだ!〉(帯より)。著者はエイジズムを専門とする作家・アクティビスト。年齢と自我、脳と記憶、身体と健康、セックスと情愛、仕事と職場など、あらゆる面から老いを検証、年齢による偏見にいかにフェイクが多いかを訴える。自己啓発書的な面もあり具体的な提言も。やや前のめりだがプロパガンダ効果は抜群。