それでもファッションを研究する──イントロダクション
ファッションは浅い!?
みなさん、こんにちは。今日からこの一番大教室で授業を行う平芳裕子です。普段は神戸大学の専任教員として国際人間科学部、大学院は人間発達環境学研究科で教えていますが、今回はこちら東京大学文学部の「美学芸術学特殊講義Ⅵ」、大学院の科目名「ファッションを考える/ファッションで考える」を集中講義で担当することになりました。美学芸術学の専任でいらっしゃる吉田寛先生にお声がけをいただきましたが、吉田先生とは学生時代からの友人であり、吉田先生がかつて立命館大学にいらっしゃった時に、ファッションをテーマとした映画上映会を企画され、対談に呼んでいただいたこともあります。
神戸大学ではファッションに関する授業を受け持って二〇年がたちますが、私自身が東京大学、それも駒場キャンパスではなく本郷キャンパスでファッションの講義を受け持つことになるとは想像もしていませんでした。お話しする機会を得られて嬉しく思うと同時に、時代の変化を感じずにはいられません。というのも、私自身が学生だった頃、駒場キャンパスにある大学院総合文化研究科の表象文化論コースに入学してしばらくのち、「ファッション」について研究していることを知ったある教員に、こう言われたからです。
「ファッションはやめた方がいい。絵画や写真はいいが、ファッションは浅い」
その先生は現代哲学をご専門とされていて、ファッションについても論じていた著名な研究者であったために、私は研究を具体的に進めるための指導を受けることを期待していたのですが、まさか「ファッション」自体を否定されるなどとはこれっぽっちも思っていなかったため、心底驚きました。
私自身が教員となった今では、その先生は「研究対象」としてのファッション分野の未成熟と困難を知っていらして、研究者や教育者として、学生の私が苦労しないようにそのようなアドバイスをくださったのだ、と好意的に捉えることができます。ところが、当時の私は恐れを知らない無知な学生ですから、思わぬ反対を受けて、俄然戦う気になりました。
「その浅さ、徹底的な薄さの広がりに、ファッションが宿る」
心の中でこう叫んだ私は、ファッションこそが文化事象の解明において取り組むべき問題なのだと確信し、ファッションを研究しようと決意したのです。
『東大ファッション論集中講義』より
なぜファッションは学問として認められなかったのか?
今日ここで話を聞いてくださっているみなさんは、当時の駒場キャンパスの状況を想像することは難しいと思いますので、私の昔話を少し我慢して聞いていただければと思います。私個人の経験談ではありますが、「ファッション」が人文系学問の研究対象として登場した頃のこととも重なるからです。
私が東京藝術大学美術学部の芸術学科から、駒場の大学院に進学したのは一九九五年のことでした。藝大では現代美術に関する卒業論文を執筆しましたが、藝大の大学院進学時に専門の教員が不在であったため、美術だけなく現代の芸術文化全般に対する新たな学びの場を求めて、駒場の表象文化論に入学しました。
藝大で美学と美術史の専門的な教育を受けた私にとっては、絵画や彫刻などの伝統的な芸術ジャンルだけでなく、映画やアニメやポップミュージックなど、現代的かつ大衆的な文化事象を扱う多くの授業が非常に新鮮に思えました。ある授業では現代芸術に関して英語の論集を講読することになり、学生はみな論集のなかから現代音楽、現代美術、演劇、映画、写真など自分の専門や興味に近い論文を選んでいきました。
私はさまざまなジャンルの論文を前にして「美術にすべきか、せっかくだから少し視野を広げるべきか」などと悩んでいたのですが、その間に目当てのテキストが取られてしまい、最後に残ったのが「ファッション」に関する論考でした。正直ファッションにはあまり関心がなかったものの、「ファッションなら造形芸術とも視覚芸術とも言えるし、美術とも関わりがあるからまあいいか」などと軽い気持ちで残り物を手にしたことを覚えています。そして別の授業に出てみると、講読する文献が『衣裳のフォークロア』だと知り、「また服なのか……」と思ったことも覚えています。また別の授業ではジェンダー論を扱っていましたが、今度は「まあ二度もファッションで発表したから」と、ファッションの問題で発表することにしました。
このように、私とファッションの出会いは偶然から始まったように見えますが、学問の歴史から当時を眺めてみますと、欧米で二〇世紀後半に登場した新しい研究動向である「構造主義哲学」や「カルチュラル・スタディーズ」が、日本でさかんに紹介された時代であったのです。
社会的・文化的記号としての民族衣装の諸機能を分析したP・G・ボガトゥイリョフの『衣裳のフォークロア』の邦訳(松枝到・中沢新一訳、せりか書房)が刊行されたのが一九八一年、そして領域横断的に文化状況を分析するカルチュラル・スタディーズにおいてファッションが注目され始め、論集のなかにファッション論が含まれるようになったのが一九九〇年代はじめでした。一九九〇年代半ばに駒場で私が授業を受けたときに、先生方はそのようなテキストをさかんに紹介されていたわけです。しかし、もちろん教員の側で「ファッション」を専門とする研究者はいませんでしたし、そのため学生も「ファッション」を積極的に学ぼうとはしませんでした。
私はといえば、現代美術の研究をしようと思って表象文化論へと進んだはずでしたが、あちこちの授業で取り残されたファッション論を拾って読み進めていくうちに、ある疑問が膨らんでいきました。それは「ファッション史はなぜ「女性」のことばかり書いているのか」という疑問でした。どの文献にも納得のできる説明はなく、結局、自分自身で解きあかすべくファッションについて研究することにしたのです。
そして先に説明した状況に陥ります。ある先生は「ファッションは浅い」と言い、また別の先生は「ファッションのことはわからないから」と言いつつも、テーマの変更をおおらかに認めてくださったことには感謝していますが、おそらくまだ当時は「ファッション」について大学で研究することの抵抗が比較的大きかった時代でもありました。私が体験したように、文化事象全般を扱う表象文化論においてすら「ファッションは別」であったのです。それはなぜなのでしょうか。
『東大ファッション論集中講義』より
ある時代に限られた気まぐれな流行
一つの理由としては、「ファッション」そのものの性質に由来していると考えられます。「ファッション」という言葉を検索してみると「(特に衣服の)流行、はやり」と出てきます。一般的には「衣服の流行」や「流行の衣服」を意味する言葉として用いられており、Fashion という英語を英英辞典で調べてみても同じような意味が出てきます。
ファッションとはただの「服」ではなく、人々の関心を捉え「流行る」こともあれば、人々に飽きられ「廃れる」こともある服だということです。ちなみに一九九〇年代の日本では「モード」という言葉がよく使われましたが、それは巷の流行(ファッション)に対してファッションデザイナーによる創作を主に指していました。しかしフランス語のモードは、男性名詞が「形式」を意味するのに対して、女性名詞は「ファッション」と同様の意味をもっています。
いずれにしても、ファッションとは儚くうつろいやすいものであり、その在り方は一定せず際限がありません。目新しいということだけでもてはやされたり、社会的な常識を外れるものもあったりします。意図的に商品が企画・宣伝されてヒットすることもありますが、何が流行るのかは偶発的な出来事に左右されることも少なくありません。
ファッションは流行遅れになることを運命づけられていますが、何が流行るのかを論理的に説明することには困難が伴います。このようなファッションは、西洋哲学が追究してきた思考の論理性、時代を超越した永続的な美とは相容れません。ファッションはある時代に固有の気まぐれな流行だからです。「象牙の塔」(俗世間を離れた閉鎖的な場)と呼ばれた大学では、その非論理的、非理性的な側面によってファッションは研究する対象には値しないものと見なされがちです。
「芸術作品としては不十分」と考えられていた
もう一つの理由としては、ファッションに見出される日常性も関係していると考えられます。芸術ジャンルのなかでも伝統的な絵画や彫刻は鑑賞を主たる目的とする「純粋芸術」(ファインアート)に位置づけられますが、ファッションは実用性を有する「応用芸術」の中に分類されます。
それでも「ファッション」という独立した分野が最初から存在したのではありません。応用芸術のなかの「装飾美術」に「織物=テキスタイル」の領域があり、ファッションはしばしばそこに含まれました。ファッションに価値が認められたとするならば、それは服ではなく織物としての布地の価値によるものだったのです。卓越した感性と技術の結集である織物に対して、流行と共に形を変えるファッションは、従属的な価値しか認められていなかったのです。
また絵画や彫刻はそれ自体で完結した作品として捉えることができますが、応用芸術と見なされるファッションは身体を保護する実用的な衣服であり、身体を飾る装飾品でもあります。このようにファッションは常に身体とともに在り、それを着る身体があってこそ成立します。それゆえ、私たちの身体のために機能と装飾を併せ持つファッションは、芸術作品としては不十分で、正統的な芸術研究において重視されることもほとんどありませんでした。
「女性」と結びつけられてきたファッション
さらに、さきほど「ファッションの価値とは織物の価値であった」と述べましたが、この布を作り出してきたのが歴史的に「女性」であったことも、理由の一つとして関係しているでしょう。古来、男性が狩猟に出かけている間に、女性は家事育児の合間に糸を紡ぎ、布を織っていました。もちろん、織布を専門とする男性職人も存在しましたし、産業革命による機械化によって、布にまつわる仕事は女性の手を離れたことも事実です。しかし、ファッションが軽視されてきたのは、布を取り巻く仕事が伝統的に女性に結びつけられてきたこと、そしてファッションが近代に女性と強く結びつけられてきたことと無関係ではありません。
またの理由としては、今しがた触れたことに関連していますが、西洋ファッションを受容した日本では「ファッション」が特に女子教育と結びつけられてきたことも挙げられるでしょう。「ファッション」という言葉が日本語にうまく訳されることなく流通しているのは、西洋において成熟していた文化の概念を日本へ移入した結果でもあります。日本においては明治政府の欧化政策のもとで男性服から洋装化が始まり、女性の洋装化が完遂するのは第二次世界大戦後のことでした。男性服に対して女性服の洋装化が遅れたのは、女性が家庭を中心に生活をしていたこと、また女性服の既製服化が難しかったことなどの理由が挙げられます。当時、女性が西洋的な流行を取り入れるには洋服を自分で作るしかなく、そのための技術を教える洋裁の専門学校が多数設立されました。
つまり、ファッションとは大学で教育されるものではなく、女性を対象とした洋裁学校のものと見なされてきたということです。もちろん、教師を育成した師範学校に由来する国立大学の教育学部、デザイン教育のなかで染織や服飾を扱った美術大学の一部では、洋裁やファッションデザインに関する授業を設けたところもありました。しかし、それらは家庭科の教師やデザインの専門家を養成するための教育課程であり、よもや総合大学の人文学や芸術学の分野でファッションが注目されることなど、歴史的にはほとんどなかったといってよいでしょう。
『東大ファッション論集中講義』より
盛り上がるファッション研究
このように、ファッションの刹那性、日常性、女性性によって、ファッションは大学制度のなかでは軽視されてきました。その状況に変化が起こりはじめたのが、一九九〇年代だったのです。カルチュラル・スタディーズの影響下に、欧米のファッション論が日本で紹介されはじめます。また高度資本主義の発達とともにファッション産業が成熟し、次々と生み出される流行を記号消費として分析するポストモダン思想が興隆しました。
日本出身のファッションデザイナーが世界的に活躍し、国内では哲学者の鷲田清一が現象学的ファッション論を発表し、日本のファッションデザインを切り口として「わたし」をめぐる哲学的考察を展開していきます。学術的な考察対象としての「ファッション」への関心が高まるにつれて、一般読者を対象とした入門書や解説書が立て続けに出版されました。これらの本に登場したのは、従来のようにデザイナーやジャーナリストではなく、哲学、文学、社会学、文化人類学などで学術的功績をもつ著名な研究者であり、ファッションについて文化批評的に論じる学者のスタイルがもてはやされました。ところが、その後の日本の景気後退と世界的なファッション業界の再編により、ファッションの勢いが失速したこともあり、日本でのファッション学ブームも一時の流行として消費されてしまったかのようでした。
しかし欧米では二〇世紀末にファッションを専門的な研究対象とする学術誌が創刊されて以来、ファッションに関する研究書や論文が継続的に刊行されるようになりました。近年ではファッションを扱う学際的な研究を「ファッションスタディーズ」と呼ぶようになり、おびただしい数の論文や書籍が出版されています。
そして日本で二〇一〇年代からふたたび、ファッションに関する書籍が刊行されるようになってきました。それは一九九〇年代にファッションの研究と出会って研究者となった世代が教鞭をとるようになったことが大きく影響しています。現在の日本では文化研究や文化批評の対象として「ファッション」は一定の評価を得つつあり、そして日本語で読むことのできるすぐれたファッション研究書も増えています。
ですが、この授業では近年の研究の蓄積を詳しく説明するのではなく、私がファッションについて考えてきたことをお話ししようと思います。というのも、ファッションの著作で有名な鷲田清一が哲学者であることからもわかるように、さまざまな学問分野の研究者たちが多角的に考察することによって、ファッションの研究は成立しているからです。そこで、私自身の立場と研究に基づき、ファッションを考える/ファッションで考えるための視点をお示ししたいと思います。この授業では一回の講義で一つのテーマを取り上げ完結します。事例の紹介に関しては繰り返しの内容も出てくるかもしれませんが、それは各テーマが相互に関連していることを意味しています。一二のテーマを全て受講すると、ファッション文化の総合的な理解へとつながります。
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