私は歴史家です。「歴史家」という日本語の単語の響きは、「歴史学者」よりも少し重々しく響くので、自称するのはちょっと気恥ずかしいという同業者もいるのですが、とりあえず本書では、私や、私の同業者と言えそうな人たちを広く「歴史家」と呼ぶことにします。
そして、本書は「ちくま新書」という新書シリーズの1冊です。歴史家が書いた新書というのは、それぞれの新書レーベルからそれなりの点数が出版されています。大規模書店の新書コーナーにいけば、そうした本を何十冊と見つけることができるはずです。あるいは、この本を手に取っているみなさんも、そのうちの何冊かを手にしたり読んだりしたことがあるかもしれません。歴史家が書いた新書は、たいてい、過去に起きた事件や、人物の一生や、過去の社会のありさまを、専門家ではない読者にも伝わるように述べています。私自身、そうした新書を書いたことがあります。
しかし、歴史家とはいったい何者なのでしょうか。歴史について書いたり語ったり述べたりすることは、「歴史家」を名乗らない人でも、ごく普通におこなっていることです(たとえば政治家が演説で「我が国の歴史」に触れるような場面を考えてみてください)。さらに広く、過去の出来事について何かを言うということまで話を広げれば、「1年前」「先週」「このあいだ」「きのう」、あるいは「むかしは」といった単語を使いながら、多くの人が日常的に過去についての会話を交わしています。そうしたいろいろな歴史語りや日常会話と、歴史家の書く論文や歴史書は、どこが同じで、どこが違っていて、どのような関係にあるのでしょうか。
本書を手に取ったみなさんは歴史家にどのようなイメージをお持ちでしょうか。特に根拠はありませんが、たとえば、次のようなイメージを挙げることができるかもしれません。
① 図書館や文書館で史料の山に埋もれて、現代社会のことには興味のない、学問一筋の研究者のイメージ。
② 世の中で論争の的となる過去の出来事――たとえば、従軍慰安婦や南京大虐殺、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺について発言し、「左翼」「右翼」といったレッテルの張られる「イデオロギー」的論争の場に参加する人たちというイメージ。
③ テレビ番組の出演者や、この本もそうであるような「新書」の執筆者として、過去についての何か面白い話を提供してくれる人というイメージ。
どれも間違っているわけではありません。しかし私はこの3つのどれなんだ、といわれると、「どれでもなさそうですが、あえていうならどれも少しずつやってますし、たぶんそれ以外のこともやっています」ぐらいしか答えることができません。
歴史家たちのあいだでも、それぞれの自己イメージにかなりの差があります。そして、その自己イメージは、その歴史家が、歴史研究を通じて何をやろうとしているのかということと密接にかかわっています。歴史家といっても一枚岩ではないのです。
たとえば、イギリス労働者の歴史の研究で知られたE・P・トムスンという歴史家がいます(本書の第六章でも登場します)。かれは自他ともに認めるマルクス主義者で、一時期は歴史研究をやめて、ヨーロッパでの核兵器反対運動のリーダーとして活動していたこともある人物です。したがって、彼自身は自分が特定の政治的立場に立っていること、彼の歴史研究がその立場、彼の目指している政治的目的と密接不可分であることを恥ずかしいとも隠そうとも思っていなかった人物です。しかし、その彼はインタビューにこたえるなかで、自分のような歴史家とは異なり「世の中に何もコミットするものがないから真の歴史家だ」と考える人たちもいると述べています(E・P・トムスン他『歴史家たち』)。トムスンのように、政治的立場を持っているのが当然と考える人もいれば、むしろそうした立場から離れて、「中立」的に研究するのが歴史家だという人もいるというわけです。
それでは、トムスンの研究はトムスンの政治的立場に共感しない人にとってはまったく意味のないものかといえばそんなことはありません。トムスンの主著『イングランド労働者階級の形成』は、20世紀に英語圏で書かれた歴史書のなかで、もっとも影響力の大きかった本の一つと言われます。いま、どのような政治的立場に立つにせよ、18世紀・19世紀イギリスの労働者について書こうとする歴史家が、トムスンの『イングランド労働者階級の形成』を読んでいないということはまず考えられません。マルクス主義者トムスンの書いた歴史書が、マルクス主義者でない人たちにとっても意味があるということは、どうして可能なのでしょうか。
私は、その理由の一つは、歴史家と呼ばれる人たちは確かに一枚岩ではなく、お互いの知りたいこと、やりたいことがバラバラであったとしても、その仕事のなかに、何らか共通する部分、およそ歴史家であればやっている、共通する作業のプロセスがあるからではないかと考えています。さきほども述べましたが(そして本書のなかで何回か強調することになりますが)過去について何かを言うことは、別段、歴史家に限られた営みではありません。一方で、歴史家はなんだかんだいって歴史の専門家なので、専門家なりの仕事の仕方というのがあるのも確かです。
「専門家はえらい」ということを言いたいわけではありません。この社会は分業で成り立っているので、いたるところに何かの専門家がいます。そういう分業のなかで、歴史家というのは何を担当している専門家で、その仕事はどういうふうに行われているのか、みんながやっている過去の振り返りという営みのなかで、どの辺が「歴史家っぽい」作業なのかということを考えてみたいわけです。
現在の日本社会では、それなりの量の書物が、歴史学の入門書として出版されています。それらの本に書かれていることは、歴史学の学説の流れについての説明であったり、実際に歴史研究をする際のノウハウであったりします。一方、それらの本では、実際のところ、歴史家が何をやっているのか、歴史学の論文や本というのはどのように書かれているのか、具体的に説明している部分はあまり多くはありません。そこで、この本は、なるべく、歴史家たちが実際に書いた文章に即して、いったいこの人たちは何をしているのかを説明してみたいと思います。
正直に言うと、私は、歴史家が実際にやっていることは、歴史家以外の人びとにはそれほど知られていないのではないかと思っています。さらに正直に言うと、実は歴史家たち自身も自分たちのやっていることをあまりうまく説明できていないのではないかと思っています。
このあと第一章ですぐに触れることになりますが、歴史は案外怖いものです。たとえば、ひとは、ある立場を正当化するために、歴史を持ち出すことがあります。その立場に反対するひとが、「そのような歴史は間違っている」といって反論したりすることも起こります。歴史は結構、「役に立って」しまうのです。そうしたときに、歴史家が歴史を書く際に共有しているプロセスが明かされていれば、論争が際限なく繰り返される可能性は多少なりとも減るかもしれません。
本書は、そうした希望をこめて、歴史家である私が、自分の手の内をさらしつつ、歴史学の仕事を反省的に振り返ることを通じて書かれた書物です。
史料とはなにか。それをどう読んでいるのか。そこからオリジナルな議論をいかに組み立てるのか。歴史学がやっていることを明らかにした『歴史学はこう考える』の「はじめに」を公開します。