伝説の相場師ランキングです。歴代の日本の投資家・投機家トップ10。歴史に残る有名人など。1位石井久、2位遠山元一、3位是川銀蔵。
順位 | 名前 | 詳細 |
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1位 |
石井久
スターリン暴落や日本のバブル崩壊を予言した。億万長者になっても謙虚さを忘れず生涯にわたち勝ち続けた。歴史観とマクロ分析に優れた知性派。 |
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2位 |
遠山元一
相場を通じて得た資産と知恵を、実業や文化貢献に惜しみなくつぎ込んだ偉人。日興証券の創業者。 |
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3位 |
是川銀蔵
貧困や倒産から這い上がった筋金入りのレジェンド相場師。晩年は仕手戦で大勝利し、長者番付で日本一になった。ブラックマンデー(1987年)後の相場でも名を馳せた。 |
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4位 |
越後正一
伊藤忠商事のサラリーマンとして繊維相場に挑み、大勝利を収めた。その後、伊藤忠の経営者として大活躍。 |
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5位 |
野村徳七(とくしち)
野村證券の創業者。 両替商の息子として生まれた。 父親を説得して、株と債券の仲買に参入。 自らも株式相場に乗り出した。調査を重視し、データに基づいて株取引を行った。 日露戦争(1905年)後のバブルで、大儲けした。 その後、「バブル崩壊は必至」と予想し、大規模な空売りを仕掛けた。 ところが株価はなかなか下がらず資金が枯渇。 三和銀行に駆け込み、支店長に100万円の緊急融資を申し入れ、さらに売り向かった。 相場が天井を打ったのは1907年(明治40年)1月19日。 日曜日を挟んで週明け21日にバブルがはじけ、あとは暴落の一途となった。 指標の大株(大阪株式取引所株)はピークの774円が年末には92円に急落。 大逆転で圧勝した徳七は、相場の世界で不動の地歩を占めた。 その資金で、会社(野村商店)を拡大させた。 さらに、金融を中心に「野村財閥」を築いた。 「相場師のなかで財閥形成に至るまで成功したのは徳七ただ一人」といわれた。 |
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6位 |
明神茂
米国の名門投資銀行ソロモン・ブラザーズの伝説的なトレーダー。1980年代から90年代前半、会社の自己売買で巨額の利益を出した。日本国債などの裁定取引の達人。米ウォール街の最先端の金融技術を日本に持ち込んだ実績も大きい。サラリーマンながら数十億円の年収を稼ぎ、ビリオネアになった。 明神氏のソロモン時代、部下の中から一流の日本人ファンドマネージャーが次々と生まれた。 三上芳宏氏、谷家衛氏、平尾俊裕氏ら。 「明神組」が中核となって、1990年代から日本に和製ヘッジファンドが次々と生まれた。 |
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7位 |
山崎種二
コメ相場や株式相場において「売りの山種」の名で知られた。ヤマタネグループ創始者。 ソロバン勘定に長けた怜悧な商売人であり、相場の実戦家だった。 不況のあとには必ず好況が来る--その景気循環図を見据えながら、昭和五-六年ごろ、つまり金解禁による大不況の真っ只中で、それまで売りを得意にしていた山崎は一転、デフレ買いへ敢然と乗り出した。 昭和六年末の金輸出再禁止(大隈内閣)以降、同九年まで続く大勢上昇相場で、見事な果実を生んだ。 |
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8位 |
孫正義
日本が生んだ世界有数のベンチャー投資家。創業初期の米国ヤフーや中国アリババへの出資などで有名。 |
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9位 |
山下太郎
日本にとって戦後最大の難関だった原油市場に挑み、「アラビア石油」創設という大ホームランを放った。 |
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10位 |
清原達郎
ヘッジファンドのファンドマネージャー。 21世紀初頭、自ら設立に参加した投資顧問会社(タワー投資顧問)の運用責任者として大成功。 2023年に引退するまでに個人資産は800億円に膨らんだ。 |
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11位 |
山田亨(とおる)
令和時代の著名相場師。通称「トンピン」。個人投資家ながら、割安株の買いで大勝利を収めた。雑誌「FACTA」(2022年7月号)によると、約400億円の資産を築き、慈善事業に約70億円を寄付したという。 1972年大阪生まれ。中国など海外の投資会社のファンドマネージャーとして活躍したあと日本に凱旋帰国した国際派。 |
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12位 |
寺町博
自ら発明した技術で製造業を立ち上げ、上場させる。その資金で金融市場に参戦。「大相場師」として有名になった。 |
その1→ その2→ |
13位 |
岩本栄之助
「義侠(ぎきょう)の相場師」「北浜の恩人」と呼ばれた。人情が厚く、礼儀正しく、温厚で学究肌。 1877年(明治10年)4月、両替商の岩本栄蔵の二男として生まれた。 大阪市立商業学校(現・大阪市立大学)を卒業したころ、兄の栄治郎が亡くなり家業を手伝うようになる。陸軍に入隊。中尉として日露戦争にも出征した。1906年5月、軍を除隊し家督を相続した。 日露戦争後の1906年、バブルが起きる。岩本家が大株主だった大阪証券取引所(大証)株は、5月に150円だったのが、翌年1906年1月に774円に急騰した。 このとき、学生時代から友人だった野村徳七(野村證券創業者)から、大証株の「空売り」への協力を求められる。野村はバブル崩壊に賭けて大規模な株の空売りを仕掛けていたが、相場のが上昇が続いたため、破産寸前に追い込まれていた。 岩本は承諾。大量の現物売りと空売りを仕掛けた。1906年1月21日をピークとして大阪株式取引所株は大暴落した。 |
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14位 |
北尾吉孝
野村證券のエリート社員からソフトバンク孫正義氏の右腕へと転身。世界的な巨額買収を次々と実現した。 孫氏から独立した後も、金融会社「SBI」の総帥として、銀行や証券会社などへの出資攻勢を展開し、巨大な金融グループを築いた。 |
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15位 |
村上世彰(よしあき)
日本における「物言う株主」の先駆者。 株主を軽視してきた1990年代までの日本の上場企業に渇を入れた。 「PBR」が1倍を下回る企業に対して、資本効率の改善を要求。 株式市場の活性化に貢献した。 |
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16位 |
奥野一成(かずしげ)
農協傘下の投資ファンド会社に所属。長期保有のバリュー投資を実践し、稼ぎ続けた。「日本のバレット」との異名も。 |
遠山元一(とおやま・げんいち、1890-1972年)氏は、日興証券(現:SMBC日興証券)の創業者。
代々続く豪農の長男として生まれたが、父親の投機失敗で貧乏少年に転落。兜町の奉公人となり、そこからのし上がった。
慎重な投資姿勢を貫きながらも、相場で大成功を収めた。立志伝中の人物だ。
1890年、埼玉県川島町(かわじままち)に生まれた。
富豪の家の長男だった。
しかし、幼いころ、父親が米の投機で大失敗し、貧乏になってしまった。
丁稚奉公(小僧)に出ることになり、苦労の重ねた。母親の影響でキリスト教徒になった。
1918年(大正7年)、東京・兜町で「川島屋(かわじまや)商店」(後の日興証券)を創業した。
川島とは、自分の出身地の川島町からとった。
開業時のメンバー(人員)は、店員、交換手、女中含めて5人だった。電話が2本あった。
川島屋商店を創業した当時、日本では投機の嵐が吹き荒れていた。
こうしたなか、「川島屋の経営の精神」という冊子を社内に配った。冊子では、兜町の悪風に染まらずに「正しい精神をもって今日ある」ことを誇った。そして、組織のあり方と社員の秩序を訴えた。
遠山元一氏の投資は、「憶病」が特徴だった。
深追いはしなかった。「腹八分で兵を引く」というスタンスだった。
その理由は、幼少期に父親の失敗を見たからだ。
相場の怖さを実体験した。
戦時下の1944年(昭和19年)、川島屋商店は、日本興業銀行(現:みずほ銀行、略称:興銀)系の証券会社(日興証券)と合併した。
これは、戦時下の法律による措置だった。
合併後の会社名は日興証券となった。それでも、社長は日本興業銀行系の人物ではなく、遠山元一が就任した。
そもそも日本興業銀行が旧日興証券を設立したのは、第1次世界大戦後の日本の経済恐慌と深い関係あった。
恐慌のとき、興銀は救済融資のための資金を、「債券」の発行によって調達しようとした。政府からの支援だけに頼りたくないと考えたのだ。
興銀グループが見本にしたのは、アメリカのシティバンク(当時:ナショナル・シティ・バンク)だった。
シティバンクは、銀行と証券機能を分離し、好業績を挙げていた。
これが興銀の小野英二郎副総裁の目にとまった。
それをモデルに興銀の債券消化機関として1920年(大正9年)に、日興証券を独立した。
遠山元一社長は1952年、会長に就任した。
後任社長として、興銀のスターだった湊守篤(みなと・もりあつ)氏を充てた。
自分の後継者として、三顧の礼で興銀から迎えたのだ。
自分が生まれた家に建てた。
遠山家は、遠山氏の父親の投機失敗により、没落していた。
しかし、遠山氏は若くして相場師として、投資活動で大成功した。
相場で儲けたお金で、自分が生まれた家の土地を買い戻した。
1936年(昭和11年)に純日本式の遠山邸を完成させた。
遠山元一が夢にも忘れなかった生家の再建を決意してから実現するまで実に30年がかかった。
かつて旧川島郷きっての“豪家”といわれた遠山一族。
梅屋敷の名を誇った生家は人手にわたっていた。
約9000平方メートルの土地を買い戻したときは雑木林と桑畑に変容していた。
「金はいくらかかってもいい」。
元一の命を受けた弟の芳雄が指揮を執った。
設計監督は東京帝大出身の建築家、室岡惣七、大工棟梁(とうりょう)は中村清次郎がつとめた。
再興への情熱はすさまじかった。
全国各地の杉、ヒノキ、キリなど最高の銘木を足で集めた。
施工の細部にいたるまで徹底的に検討を繰り返した。
1300平方メートルの邸宅。
関東の豪農の邸を思わせる。
2年7ヵ月の工期に携わった職人は延べ3万5000人、関係者は10万人にものぼったとも伝えられている。
雨戸170枚、畳250枚、23部屋の大邸宅。
完成から4年後の1940年(昭和15年)、朝香宮殿下が宿泊した記録は残っている。
東棟 | わらぶき屋根 |
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中棟 | 2階建て入り母屋屋根。書院造りながら近代風を加味した。 |
西棟 | 京間の数寄屋造り。仏間を備えた |
廊下 | 南庭を取り込むように3棟を結ぶ |
遠山元一氏が新しい大邸宅をつくったのは、苦労した母親に住んでもらうためだった。
母親の美以(みい)は、苦労人だった。
3世代の夫婦が同じ屋根の下で暮らす大家族主義の遠山家に嫁いだ。
家運を傾けた放とう夫の行動責任を押し付けられた。
そして、離縁を余儀なくされた。まさに不遇の人生をたどっていた。
そんな母親の苦労に報いるためにも、遠山氏は必死で生家を立て直したのだ。
1948年(昭和23年)に美以が他界した。
そのあとは、遠山元一氏が客を接待する迎賓館として使われた。
遠山氏は晩年の1970年(昭和45年)、その生家を美術館に変え、「遠山記念館」としてオープンさせた。
長年収集した美術品を寄贈した。長年にわたって収集した国の重要文化財5点を含む書画・陶磁器・染織品・人形などの収蔵品を展示する美術館を敷地内に付設した。
美術館の開設主体は財団法人。1970年5月10日にオープンした。
亡くなる2年前のことだった。
1972年、82歳で死去した。死因は心不全だった。
創業者の遠山元一が死去してから26年後、日興証券は、米シティバンク(シティグループ)の子会社となる道を選んだ。
山一証券が1997年に消滅した後、日興証券は野村、大和と並ぶ3大証券の一角を占めていた。
不正な利益水増し問題で上場廃止の危機に直面していた。
コンプライアンス(法令順守)の重大さが浮き彫りになった。
市場の信頼回復と経営立て直しを図るために、外資の傘下に入った。
シティグループ(当時:トラベラーズ)が日興証券に25%を出資した(約2200億円)。シティは日興の筆頭株主になった。
シティから役員の派遣も受けた。
2009年、日興コーディアル証券は、三井住友フィナンシャルグループに買収された。 三井住友フィナンシャルグループは、三井住友銀行の親会社。 会社名は「SMBC日興証券」となった。 プレナス投資顧問によると、金融取引のデジタル化が進展する中で、SMBC日興証券はネット利用者の多い若年層の取り込みに苦戦した。