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序   事業創造をどう学んでいくか


◆大学は将来を自分で拓く時期
 君は何のために勉強しているか。あなたはどんな人生を歩みたいと思っているのか。何がしたいの
か。あるいは、なぜ仕事をしなければならないのか。
 大学生は、多かれ少なかれこうした真正面からの疑問に悩むものである。今の大人達も若い頃には
皆それを考えていた。自分で進む道を決めた者、決められずにやりすごした者はさまざまであるが、
ともかくもそれぞれの力で今を生きている。
 過去に歴史に名を残した人間も、若き時代には同じように進むべき道を考えていた。土佐に生まれ
た坂本龍馬は倒幕運動の志士として身を立てようし、埼玉の深谷で育った渋沢栄一は尊王攘夷に本気
になって横浜を焼き打ちにする企てを考えた。ソフトバンクの孫正義社長は福岡県久留米の高校を中
退してアメリカに渡り自分の人生を切り拓こうとした。
 それとは逆に、自分で人生を考えて選択することができずに、定められた道を生きるために歩まざ
るを得なかった者も多い。パナソニックを創業した松下幸之助は、家が貧しいために小学4年生で商店
に奉公に出された。トヨタの祖である豊田佐吉は父親の大工の仕事を継ぐしかなく、ホンダを創った
本田宗一郎は家が鍛冶屋だったから自動車修理店に入って子守の仕事をさせられた。皆がそういう人
生を歩まざるを得なかった時代であった。
 現代は昔のそれとは異なっている。幸いなことに、若い頃に考える時間と環境が不足しているわけ
ではない。日本の若者の半分以上は大学に進学し、本人にやる気かあるかどうかは別として、少なく
とも4年間(就職活動を除けば実質的には3年弱)は社会に出る前のトレーニングを大学の内外で受け
る時間はある。

◆重要なのは、社会における「取り決め」
 人は、憲法の基本的人権にあるように、社会で自由に活動することを許されている。学校を卒業す
れば、学校の中の指導や強制からも「自由」になる。しかし、社会では他人が学校のように手取り足
取りでは人生を導いてくれないし、多くの場合は叱ってもくれない。
 人間の実社会とは、自分と他の組織や個人との間で何かを決めて、自分が働き、その分の価値を金
銭で得ることを基本とする世界である。これは当たり前の話だが、わかりやすく言えば、自分が働い
てお金を稼ぐことだ。サラリーマンはもちろん、お笑いタレントでもプロ野球選手でも大学の教員で
も、日々の労働で収入を得ていることには変わりがない。人間でなくとも、生きるためのものを稼ぐ
ことはすべての生物が行っている行為である。ライオンは獲物を追わなければすぐに飢えてしまう。
 人間が賢いのは、生きるための稼ぎ方を「組織的」に行うことができることである。人間は頭を使
えるから、会社という集団の組織を作って、ものを個人が分担して生産し販売し、金を稼いでいる。
しかし、人間がその組織(会社)をうまく運営するには、さまざまな「取り決め」を学び理解した上
で円滑に処理をしなければ、ものがうまく作れない、製品を売っても損が出てしまう、あるいは代金
が回収できないことになる。
 本質的にいえば、経営学部で学ぶ「経営」という学問は、生きるため
に稼ぐことを目的に作った組織を、どのように運営して、満足できる稼
ぎを獲得することができるかを使命としている。稼ぐという言葉にはあ
まり良いイメージがないかもしれないが、この本質から目をそらしては
いけない。稼ぐという言葉が気にさわるならば、価値を創ることと言い
かえても良い。植物は光合成によって水と二酸化炭素という原料から炭
水化物を生産し、生きるエネルギーという価値を生み出している。
 人間は組織を作っているから、他の生物より圧倒的に優れた価値を創
っているけれども、それには多種多様な取り決めが定められて、参加す
る人間がそれに従っているために、円滑な運営が可能になるのである。
このように、円滑に組織を運営する「取り決め」とそれを行う理由を学ぶのが経営学と考えてほしい。
経営学部で学ぶ企業マネジメントも、簿記も会計も、情報技術も、組織を運営する上で(あるいは組
織で働く上で)必要な知識を得ることが目的であるはずだ。




                      ~1~
◆事業創造を学ぶと、組織の本質がわかる
 このテキストでは、ゼロから始まる事業をどのように立ち上げていくか、あるいはそうした事業の
創造(起業)にはどのような特徴があるか、どのような人々が行っているのか、ということを解説し
ている。
 まったくの始まりから事業をスタートさせると、先に述べたような人間の価値の作り方(稼ぎ方)
が現場で見えてくる。会社とはどのように作るのか、社長や部長や従業員はどのような役割の分担が
あるのか、あるいは会社の資金はどのように調達しているのか。大きな会社や役所にいると、その事
業の本質がみえにくくなるものだ。1万人も従業員がいる大企業で働いていると、日々の自分の仕事で
会社の経営が見えるものではない。自動車メーカーで品質管理を担当している係長にとっては会社の
決算書は経理部の仕事でしかないだろうが、新宿でネットワークゲームを作っている従業員5名のベン
チャーでは株主総会で何が議論されたか皆が知っている。

◆自分の頭で批判的に考えることが重要
 会社を作る、運営する、儲ける事とは何かというように、人間の経済活動の本当の意味を探ろうと
して経営を学ぶならば、おそらく自分達が授業を受けている理由や目的も納得できるものになるだろ
う。学生というものは若くて自由だからこそ、社会が決めた取り決めや慣習に対して無条件無批判に
従うだけではなく、まずはその意味を批判的に考えてもらいたい。
 会計や情報技術の授業では、こういうルールだからこのように処理せよと決め事に従うことを強制
させられることが多い。しかし、このテキストで取り上げるアントレプレナーシップは、          「なぜ?」が
重要な学問である。その理由を一言でいえば、考えることなく無批判に生きていては新しい事業は生
まれないからだ。現存するビジネスや社会に疑問を感じて悩んだからこそ、多くのベンチャーが生ま
れてきた。マクドナルドや吉野家は、それまでの飲食店のサービスが遅くて問題だと考えたからこそ、
「早い、安い、うまい」メニューを考え出してきた。ダイエーを作った中内功は小売店の価格が高す
ぎると思ったから、         「安売り」を商売にして日本一になった。
 このテキストはさまざまな情報を解説しているけれども、出てきた内容を覚えなければという義務
感を持つ必要はない。もちろん、太字ゴシックで記した重要項目は覚えてほしいが、大事なことは各
項目のストーリーを読んだ後に批判的に考えることである。このようなクリティカル・シンキング
(critical thinking、批判的思考)を促すために、テキストの各節の終わりに150以上の「設問」を用
意している。講義においては、担当教員がこれらの設問から逐次セレクトして課題を出すことになる
が、受講者は各章を読む前に末尾の設問を一読すると各節のねらいがわかるだろう。

 経営は、社会で生活する限り誰もがさまざまな局面で直面することである。同時に、生きている以
上は誰もが経営に関わらざるをえない。サラリーマンでも、自営業者、公務員、あるいは家庭の主婦
でも、組織や家計に責任を負う者は、それぞれの視点で経営の仕組みを実践的に学ぶことにより、自
分の可能性を高めることができるはずだ。

           学んで思わざれば 則ち罔(くら)し。
           思うて学ばざれば 則ち殆(あや)うし。      (孔子「論語-為政」)




                          ~2~
第1部 アントレプレナーシップ総論


Ⅰ.アントレプレナーシップを学ぶということ
  アントレプレナーシップを学
1.はじめに:6つのポイント
(1)アントレプレナーシップは『新しい経済価値を創出すること』が目標である。
 アントレプレナーシップ(9ページにその意味を掲載)は、新しい物や技術やサービスを現実に創り出すこ
 とであり、経済価値を増やすことを善とし、目標にしている。良い経済社会機能を作ることとか、
 個人や企業が価値を分け合う分配する行動ではなく、あくまでも価値を創ること(商売で売上利益
 を増やすこと)がアントレプレナーシップの目指すものである。

(2) アントレプレナーシップは『実践的』である。
 アントレプレナーシップは、現実の人間の経済活動がほとんど唯一の関心であるから、その学問も
 実践的で現実的なものである。現実のビジネスで商売がうまくいくために学ぶのである。

(3) アントレプレナーシップは、知だけでなく、『経験と行動』が重要である。
 アントレプレナーシップは、教室の講義やゼミナールで学ぶ「知識」だけではなく、現実社会での
 ノウハウ・テクニック等の「経験」が重要であり、また新事業やベンチャーで「行動すること」(も
 しくは行動する起業家を理解すること、観察すること)が最終目標である。
 アントレプレナーシップは大学の中だけで学べるものではない。英語や数学のように教室で学んで
 いくよりも、体育や音楽のように実技が重要な科目と考えたほうがよい。ルールや技術の知識があ
 っても野球ができないように、アントレプレナーシップは頭だけではなく経験と行動が欠かせない。

(4) アントレプレナーシップは『多面的』である。
 アントレプレナーシップは孤立した学問分野ではなく、経営学や経済、金融、法律、政治、社会、
 文化などの多くの要素が影響し作用している。したがって、アントレプレナーシップは経営学だけ
 で考えるのは充分ではなく、他の学問の知識や考え方を借用し活用していかなければならない。

(5) ベンチャーを起業するため、ベンチャーに入社するためだけの学問ではない。
 過去20年の世界では、アントレプレナーシップが人間の幸福を向上させるうえで重要な役割を果た
 してきた。大学生は、ベンチャーに入る以前の段階において、現代の経済社会を理解するためにア
 ントレプレナーシップを学ぶべきである。ベンチャーの経営者を目指すためだけの講義ではない。
 大企業や中堅企業の新規事業や、 社会福祉や社会改善のための新しい取り組み、地方振興の運動も、
 その基盤はアントレプレナーシップである。

(6) 起業家は生まれるのではなく、作られる。 ”Entrepreneurs are made, not born.”
 起業家は、生まれつきの素質を持った人間が起業しているのではなく、成
 功したベンチャー経営者は才能だけで成功したわけではない。マイクロソ
 フトのビル・ゲイツ氏もソフトバンクの孫正義氏も、(すばらしい才能を持
 っているが)生まれつきの天才ではなく、どこかで学習している。その場
 所は大学ではなく、家庭や友人、あるいは職場の仕事からかもしれないし、
 あるいは先輩の経験や失敗談から学んでいるだろう。アントレプナーは学
 習が不可欠である。
 また、起業家は自分の力だけで成功したのではない。ベンチャーで働く仲
 間や部下、活用する技術やアイデア、そして足りない資金を提供する投資
 家があってこそ経営を成り立たせることが可能である。したがって、自分
 自身の知識能力だけではなく、世の中の資源について学んでいくことが重
 要であり、そうした資源の有効活用技術を学んで実践できる能力を持った
 人間が成功していると考えてほしい。




                             ~3~
2.アントレプレナーシップはなぜ重要か?
①教育の根底は、現実を理解すること
 大学は、学術研究を行う場であると同時に、高等教育の場である。高等教育について大学が期待さ
れているのは、学生に対して、充実した人生を送れる良き社会人となるための準備、幅広い知識、労
働意欲、科学的合理性、批判的思考、道徳性や文化教養の養成などを習得させることである。
 これらはどれも重要な目標だが、もっと根本的な学習の目標がある。それは『理解すること』であ
る。私達は、理解もしていない世界を改善することはできず、自分自身を、その強さ、限界、動機を
把握していなければ前に進むこともできない。世の中と自分をより理解可能なものにしていくことに
より、大学教育は人間的成長、創造性、達成、進歩の基礎がためをすることができる。
 「理解すること」が学習の基本的な目標であるとするならば、大学は、現代の生活における経験・
条件を反映するものでなければならない。大学が世界から切り離され、そこに働きかけないのであれ
ば、世界を理解可能なものにすることは難しい。
 大学での学習は、学生に対してこれから生きていく現実をどのように理解しどのように影響を及ぼ
していくかを教えなければならない。孤立し固定されてしまった教育が成功するはずもない。過去の
優れた業績を研究し、人間の本性について問い続けることは、教養ある人間になるための基本である
が、大学の長所はそのダイナミズムと適応力であり、古典的な問題だけでなく、自然・社会・人間の
経験における切迫した目の前の問題に取り組む能力である。

②アントレプレナーシップは、世界の重要なファクター
 新しい事業に取り組んで新しい価値を創出しているアントレプレナーシップという概念と活動は、
世界の経済社会において重要なファクターである。アントレプレナーシップは、世界中の製品やサー
ビスにイノベーションと改善をもたらし、より効率的で入手しやすく効果的なものにしている。アン
トレプレナーシップは、私たちの個人としてのあるいはコミュニティとしての生活レベルを高めてお
り、また人々の働き方やコミュニケーションを変化させている。また、世界的に天然資源が減少し、
人類が持続可能な将来を保っていくためには、イノベーションだけでは十分ではない。我々に必要な
のは、新たなアイデアを実現し多くの人々が利用できるようにする活動であり、これこそアントレプ
レナーシップなのである。
 こうしたアントレプレナーシップをうまく利用できるかどうかは、結局は我々が「理解すること」
にかかっている。理解できないものを考案し改善することはできないのである。訳のわからない物を
修理して直すことはできない。理解することは大学教育の根本的な目的であり、アントレプレナーシ
ップと大学教育は切っても切れない関係である。こうしたことから、アントレプレナーシップが大学
の学部教育のテーマとして取り上げられるのは自然な動きなのである。


        アントレプレナーシップが対象とするのは「ベンチャーだけではない」




                      ~4~
3.日本でアントレプレナーシップが意味を持つ理由
①新しい経済価値創出が求められている
 たとえば、世の中について次の4つを考えてみよう。
  (1)現代の日本は、欧米に追いつけ追い越せという高度成長期までの時代ではない。中国等のアジア
    や新興国に負けないような製品・サービスを新しく生み出していかなければならない。
    - 菅総理大臣の施政方針演説、2011年1月24日、衆議院本会議 -
    ・世界中が、新しい時代を生き抜くにはどうすればよいか模索しています。日本だけが、経済の閉塞、社
     会の不安にもがいている訳にはいかないのです。現実を冷静に見詰め、内向きの姿勢や従来の固定観念
     から脱却する。そして、勢いを増すアジアの成長を我が国に取り込み、国際社会と繁栄をともにする新
     しい公式を見つけ出す。また、社会構造の変化の中で、この国に暮らす幸せの形を描く。今年こそ、こ
     うした国づくりに向け舵を切る。私のこの決意の中身をこれから説明いたします。
 (2)大学生の就職が深刻な状況にある。企業が新卒採用を抑制している理由は、規模の拡大に積極姿
   勢が取れないからである。新しい市場を創りだし、商売によって経済価値を増やしていかなけれ
   ば、社会で活躍すべき若者が損をする。「成長」は若い世代に恩恵をもたらすものなのだ。
 (3)地方をみると、少子化・高齢化や過疎によって沈滞している。たとえば地方都市の商店街はシャ
   ッター通りと化し、働き手の若者がいない。雇用の受け皿であるべき大企業は、地方に工場に建
   設するよりもアジアに工場を作って現地生産をしている。地方はアジアと見えない競争をしてい
   るのである。沈滞を打開しようと、県や市町村は、新しい地場産品、B級グルメの新商品作り、
   海外観光客やプロスポーツの誘致など、さまざまな「地域振興策」を推進している。
 (4)東日本大震災ですさまじい被害を受けた日本は、これから復興の時代になる。戦災の後のような
   東北地方で、何万人もの人々が文字通りゼロから仕事を再開していく。水産業を再開する、小売
   の商店を復活させる。それぞれが加工場を作り直し、店を新築し、新たな生きる糧を創り上げて
   いくことだろう。
 以上は日頃のニュースで聞かされる話であるが、いずれにも「新しい取り組み」というフレーズが
入っている。民間企業だけでなく、国や自治体も地方の人々も学生も、新しいことを考えて企てて再
建していかねばならない。

②それぞれの場におけるアントレプレナーシップ
 だからこそ、新しい取り組みを学ぶことが必要であり、重要である。 新しい経済価値を創出するこ
                                『 しい経済価値 創出するこ
                                    経済価値を
と』を目標とするアントレプレナーシップを学び研究し、21世紀日本の課題に対処していくことが重
要になっているのである。
 もちろん、既存の経済学、経営学、社会学、あるいは理工学の分野から、こういった問題に取り組
むこともできる。しかし、アントレプレナーシップは、これらの学問領域に欠けている新しい知識を
世の中に提供できる概念である。
 実社会の職場において、新しい事業を行う知識技術を活用する場面はどこにあるだろうか。たとえ
ば、下の表で示した職場でアントレプレナーシップをどのように活用できるかを自分で想像してみよ
う。そこで考える中で、アントレプレナーシップの重要性がおのずと明らかになっていくだろう。

                  それぞれの職場における「アントレプレナーシップ」
  職場                   課題と事業構想                    アントレプレナーシップ
NPO法人「カ   人とうまくコミュニケーションできない高校生と社会となじませるプロジェクトを立 民間非営利組織による社会改革運動の新
タリバ」      ち上げNPO法人を設立したが、活動資金もボランティアの数も足りない。     しい取り組み。
       商店街で営業していた古本屋は店を閉めたが、4年前に始めたアマゾンに出
前橋市の古本
       店しているアフィリエートプログラム(古書ECビジネス)が急成長。拡大するた 新しい流通形態(EC)への取り組み。
屋
       めに古書買取の店を作ることを検討中。
       過疎化が進む町において、町独自の新しい地場産品の企画、製品化を模索
福島県の町役
       しているが、大半がうまくいかずに失敗しており、いかに低リスクでそこそこ売れ 新しい地場産品の開発と販売企画。
場
       る製品を作っていくかが課題になっている。
千葉市の社会 千葉市の老人向け介護ケア施設が慢性的に不足で、福祉協議会のメンバー
                                         社会福祉団体の新規事業進出。
福祉協議会  でデイケアセンター開設を考えている。

       生徒のいじめの問題や学校近辺の治安の問題を、保護者や地域関係者を小
上尾市の小学                                     学校での新しい教育支援体制の企画と構
       学校に参画してもらって一緒に学校経営を考えてアクションする取り組みを模
校                                          築。
       索している。




                                  ~5~
4.なぜ大学で「アントレプレナーシップ」なのか?
 アントレプレナーシップは、長らく経済学のテーマの一つにすぎないと考えられてきた。しかし、
最近の研究では、アントレプレナーシップが現代経済における富の創出の主役として先導的な役割を
担っていることが認められている。少なくとも過去20年の世界では、たえず新しい事業が誕生し、そ
れらの事業の原動力であるアントレプレナーシップは人間の幸福を向上させるうえで重要な役割を果
たしている。
 こうした認識がある中で、アメリカの大学ではアントレプレナーシップに関する講義は急激に増加
している。以前からビジネススクールでは一般的なカリキュラムとして扱われていたが、近年は関心
が高まる中で学部教育の中で最も急速に拡大しているテーマである。 ある調査によれば、1985年当時、
アメリカの大学で設置されているアントレプレナーシップ関連科目は約250だったものが、 2008年現在
では5000を超え、アントレプレナーシップを専攻科目にできる大学のプログラムは、1975年の104校
から2006年には500校超へと増加している。
 下の表は、アメリカのアントレプレナーシップ教育で最先端にあるバブソン大学(米マサチューセ
ッツ州)経営学部で開講しているアントレプレナーシップ関連科目のリストである。一見してわかる
ように、大学ではベンチャービジネスの経営だけを教えているのではない。ファミリービジネス(家
業)や大企業のコーポレート・ベンチャー、世界各国のアントレプレナーシップ、あるいは社会問題を
アントレプレナーシップの視点で分析して解決に向け取り組もうとする社会学関係の授業もいくつか
設けられている。これは4年制学部の大学生(ビジネススクール等の院生ではない)に対する授業であ
り、専攻科目としてだけではなく「教養科目」としてアントレプレナーシップが教えられていること
がわかるであろう。

               バブソン大学・経営学部(学部)のアントレプレナーシップ関連科目
    分野        主テーマ                                          講義の名称(英語原文)
   経営管理   事業機会           Entrepreneurship and Opportunity
          成長事業の経営管理      Managing Growing Businesses
          テクノロジー         New Technology Ventures
          起業家論           Great Entrepreneurial Wealth: Creation, Preservation and Destruction
          ファミリービジネス戦略    Key to Success Family Business Enterprises
          起業家としての家業経営    Family as Entrepreneur
          コーポレート・ベンチャー   Corporate Entrepreneurship
          マーケティング        Marketing for Entrepreneurs
          成長戦略           Venture Growth Strategies
          事業の実践演習        The Ultimate Entrepreneurial Challenge
   ファイナンス 資金調達           Raising Money-VC, Angels & Incubators
          ベンチャーファイナンス    Entrepreneurial Finance
     国際   中国の起業          Entrepreneurship and New Ventures in China
          中南米の起業         Entrepreneurship in Latin America
          アジアの起業         Entrepreneurship in Asia
     社会   社会的起業家論        The Enlightened Entrepreneur: Changemakers, Inspired Protagonists, and Unreasonable People
          社会的起業の計画       Social Entrepreneurship by Design
          社会的起業の経営管理     Social Enterprise Management
          社会問題の観察        The Enlightened Observer
          環境と起業          Environmental and Sustainable Entrepreneurship
          トルコの環境関連起業     Social Responsibility through Eco-Enterprise in Turkey
          アフリカの起業と社会     South Africa: Entrepreneurship, Culture, & Society in Developing Economy
     文化   起業的文化          The Creation of Entrepreneurial Culture within your Organization
  ワークショップ 起業体験(一般)       Living the Entrepreneurial Experience (General Focus)
          起業体験(企業)       Living the Entrepreneurial Experience (Corporate Focus)
          起業体験(技術開発)     Living the Entrepreneurial Experience (Technology Focus)
          起業体験(家業)       Living the Entrepreneurial Experience (Family Focus)
          起業体験(社会起業)     Living the Social Entrepreneurial Experience
 (出所)バブソン大学ホームページ。



  さらには、最近の大学自体が、起業活動を行っている。各大学は「技術移転オフィス」               (TLO、
Technology Transfer Office。)を通じて、大学内の教員や研究者がベンチャービジネスを設立して自ら
の研究を市場向けに商品化することを支援している。研究機関としての大学は、イノベーションや、
新たな企業の基礎となるような新たな製品・プロセスの創造という点で、唯一ではないにせよ重要な
源泉となっているのである。大学が教員による重要な活動としてアントレプレナーシップを掲げつつ、
そうした活動を学生たちに教えていないとすれば、学校の使命と実践が乖離してしまう。




                                       ~6~
5.アントレプレナーシップの学び方
(1)アントレプレナーシップ教育の特徴
   アントレプレナーシップ教育の
              教育
①対象が具体的な「現実の活動」
 では、大学生はどのようにアントレプレナーシップを学んでいけばいいのだろう?。
 アントレプレナーシップは、音楽と同様に、テーマを自ら作り出すような学問であって、目標とな
ることを発見するような学問ではない。たとえば、歴史学、社会学、人類学とは違って、アントレプ
レナーシップは、その研究対象を学ぶ者が自分で作り出すものだ。また、アントレプレナーシップの
関心は具体的な現実、すなわち新事業や企業、製品、サービスを作っている活動である。哲学者はも
っぱら他の哲学者を相手に話したり書いたりするだろうが、アントレプレナーや音楽家にとっては、
「観客」や「市場」が必要である。
②音楽との類似
 大学のカリキュラムの中で、アントレプレナーシップがどのように位置づけられるか理解するには、
アントレプレナーシップと音楽を比較するとわかりやすい。アントレプレナーシップ教育とは、音楽
教育と同じように、プロフェッショナルからアマチュアまで広がる連続体に沿って行われる。音楽の
場合、活動の一方の端には作曲家や演奏家がいる。他方の端には、作曲家や演奏家のパフォーマンス
を鑑賞する観客がいる。その中間には、指揮、特定の楽器の習得、理論、歴史など、音楽における多
くのファクターが存在し、音楽という芸術テーマを理解し楽しむことに貢献し、また音楽をより発展
させている。音楽の教育とは、こうした連続体を大切にし、どのファクターも軽視しないものである。
音楽教育では、名演奏家にはどうすればもっと良い演奏ができるかを教え、鑑賞する人達にはどのよ
うに音楽を味わうかを教える。音楽がどのように作用するかを示し、どのように変化しているかを図
示し、その要素を分析する。
 さらに音楽は、アントレプレナーシップと同様に競争が行われる「実力主義」である。しかしその
実力というものは、単純なものでも絶対的でもない。音楽を聴く観客に影響され、観客が音楽のテー
マの形成を手伝い、どのような音楽が大切なのかを聴き手が決める。聴き手の趣味が良くなり、期待
の水準が高まるほど、音楽は良いものになっていく。アントレプレナーシップも音楽と同様に実力主
義の世界だが、アントレプレナーシップの実力は市場(お客、需要家)により決められる。このよう
に、音楽のシステムは、アントレプレナーシップに相当程度あてはまるのである。
③大学それぞれに教育は異なる
 それぞれの大学で、アントレプレナーシップ教育の枠組みを画一的に適用できるとは考えにくい。
学校が違えば、対象とする学生も教員も、歴史も、文化も、目的も別々である。大学はさまざまな教
育的な機能を果たしており、学生の世代も多様化している。たとえば、ビジネススクールを併設する
大学におけるアントレプレナーシップは、ビジネススクールを持たない大学のアントレプレナーシッ
プ教育とは別物かもしれない。アントレプレナーシップは、「この教育でどこの大学にもOK」という
学問ではない。それぞれの教育課程には特有の成果があり、教育対象の学生があり、大学の地元のコ
ミュニティの中で活動している。したがって、アントレプレナーシップ教育は、一つの処方箋がある
わけではないのである。
 アントレプレナーが活動する社会は、偶然によって出現し、続いていくものではない。我々が、そ
れを構築し維持していかなければならないのだ。そのためには、アントレプレナーシップがなぜ大切
なのか、それがどのように作用するのか、そうすればそれを維持できるのかを理解する必要がある。
そうした学習ができる場を提供するのが大学教育なのである。
④アントレプレナーシップは、多面的な要素からなる実践的学問
 先にみたように、アントレプレナーシップは実社会の現実活動がテーマであるが、それは一つ一つ
の孤立した活動ではなく、多種多様な要素に影響される。経営学の実践としてアントレプレナーシッ
プを考えてみても、経済や金融、法律、政治、社会、文化などの要素が活動に影響し作用している。
アントレプレナーシップはこれらの要素(学問の分野)が結びつき、おたがいに強化しあい、そして
理論と実践を橋渡しするシステムになっている。
 アントレプレナーシップは現実のビジネスを重視しているから、理論や思索ではなく具体的なビジ
ネスの成否が重要である。具体的なビジネスは、「学習」ではなく、「行動」である。アントレプレナ
ーシップは、新しい事業を目指す意思や構想から「きっかけ」をつかみ、そして起業活動やそのプロ
セスを理解する「知識」と「経験」を学び、そのような学習が終わった上で新しい事業のチャンスを
とらえて起業していく(行動)というプロセスが望ましい。アントレプレナーシップの教育も、この
プロセスにしたがって行われていくことが最適である。


                      ~7~
「アントレプレナーシップ教育のイメージ」




            Heinonen. J., et al.(2006) ”An entrepreneurial-directed approach to entrepreneurship education:
            mission impossible?”, Journal of Management Development, vol.25, pp.80-94.




(2)どのような科目を学んでいくか
   どのような科目を
         科目
 アントレプレナーシップは、日本では新しい学問領域である。日本で初めてアントレプレナーシッ
プの専門コースが開設されたのは1992年の法政大学大学院の起業家コースであり、それからまだ20年
も経っていない。2008年時点では日本全国の247の大学・大学院でアントレプレナーシップ関連の科目
が教えられているが、まだ教育体系が充分に整備された大学は少ない。
①大学学部で学ぶことが望ましいアントレプレナーシップ領域
 では、学生はどのような科目を取りながらアントレプレナーシップを学んでいくか。大学が設置す
る科目が少ないから、当然、学生が自由に選択する余地は少ない。そのような制約があるものの、現
在の日本におけるアントレプレナーシップからみて必要な学習領域は以下のようなものが考えられる。
しかし、下記のような講義科目が完備している大学は日本には少なく、多くの大学ではキャンパスで
1、2科目の講義を開いて運営しているため、内実は下表のようなテーマをまとめて講義するような
「あれもこれも」の総花的な講義になっているようにも思われる。


     1.経営管理                     ・アントレプレナーシップの意思、機会、事業構想。
                                ・ベンチャーの事業計画(ビジネス・プラニング)
                                                ・      。
                                ・ベンチャーの経営戦略、組織論。
                                ・ベンチャーのマーケティング。
                                ・技術経営。ハイテクノロジーと経営管理。
     2.起業家論                     ・起業家の必要条件、素質、背景。
                                ・起業家の歴史。
     3.制度                       ・ベンチャーの会計、財務管理。
                                ・会社制度、法制度。
     4.ファイナンス                   ・ベンチャーファイナンス。
                                ・株式市場。
     5.ワークショップ                  ・ベンチャーの実践プログラム。
     6.講演、イベント                  ・ベンチャー経営者の講演。
                                ・ビジネスプラン発表会。



                                                    ~8~
②実際に何から学んでいくか
 とはいえ、このような運営の話は大学側の問題であり、当の大学生は与えられた条件の下で学んで
いくしかない。まずは、通う学部のシラバスを読み、講義を聞いてアントレプレナーシップを考え、
講義や書籍で知識をつけ、社会を知り、方向を考えることが望ましい。
 大学の限られた講義を「受け身」で聞き学びながら、自分自身でアントレプレナーシップを主体的
に考えていくのである。アントレプレナーシップは独立した学問体系ではなく、経営・経済・社会・
工学等の学識が組み合わさっている。何から学ぶかといえば、自分が興味あるか役立つかを考えて、
今ある講義を選び学んでいくことである。アントレプレナーシップ教育に、理想的なモデルとするよ
うな履修体系を学生が考える必要はない。しいて言えば、アントレプレナーシップを入門的に教える
講義から選択していけばよく、そこで教員が重点とする内容(分野)を掘り下げて履修していくこと
が最善の選択であろう。
 また、アントレプレナーシップを学ぶ場は必ずしも大学の中だけではない。学内で学ぶことが最も
効率的で体系的と思われるが、真に実践的で最近の知識情報は学外の社会にあるからである。大学の
中でアントレプレナーシップを学ぶと同時に、社会いろいろな経験をし、実社会の先輩に話を聞くこ
とも、アントレプレナーシップ教育の重要な一部分と考えるべきだ。

            (引用:Kauffman Foundation (2008), “Entrepreneurship in Higher Education”)




■設問1
 設問1

 1. アントレプレナーシップは「実践的」であるが、それはなぜか。
 2. アントレプレナーシップで「経験と行動」が重要である理由について、自分の考えを述べなさい。
 3. 大企業はアントレプレナーシップの対象か。また、役所や社会福祉団体はアントレプレナーシッ
   プの対象か。
 4. 東日本大震災から復興に向けて行う仕事は、どこにアントレプレナーシップがあるのか。
 5. アントレプレナーシップは学べるのか。学べない部分があるとすれば何か。
 6. アントレプレナーシップを大学で学べば、実社会でどのように役立つであろうか。自分自身の考
   えをまとめてみよう。




                                 ~9~
Ⅱ.起業家とベンチャービジネス
  起業家とベンチャービジネス
(1)起業家の意味
     (きぎょうか、英語:entrepreneur アントレプレナー 「企業家」とも言う。
 『起業家』         entrepreneur アントレプレナー。
               entrepreneur、アントレプレナー                )とは、自
ら事業を起こす者をいう。日本では、通常はベンチャー企業を経営する人々を指すことが多いが、欧
米では自営業者や家業、あるいは新しい社会的組織の立ち上げ(社会起業家)などを含めて、日本よ
りも幅広い意味に使われている。英語のentrepreneurは、フランス語である"entrepreneur"(アント
ルプルヌール、請負業者・起業家)の英語読みから始まった。
 何かに取りかかる、     事業を興すという意味の言葉としては、英語には「undertake」が一般的である。
しかし、「undertaker」には「葬儀屋」という意味もあることが嫌われて、現在では「entrepreneur」
というフランス語起源の言葉が「起業家」に相当する英語になっている。


       ntrepreneurの定義)
   (Entrepreneurの定義)
   An entrepreneur is a person who has possession of a new enterprise, venture or idea and is
 accountable for the inherent risks and the outcome. The term was originally a loanword from
 French and was first defined by the Irish-economist Richard Cantillon. Entrepreneur in
 English is a term applied to a person who is willing to launch a new venture or enterprise and
 accept full responsibility for the outcome. Jean-Baptiste, a French economist, is believed to
 have coined the word "entrepreneur" in the 19th century - he defined an entrepreneur as "one
 who undertakes an enterprise, especially a contractor, acting as intermediately between
 capital and labor.
  起業家は、新しい事業や挑戦を行おうとする熱意を持った人間であり、リスクや結果への責任を持つ人々で
 ある。この言葉はもともとフランス語から借用され、アイルランドの経済学者リチャード・カンティヨンが初
 めて定義したものである。英語では、起業家という用語は、新しいビジネスや企業を設立し、結果に対する全
 責任を負うことをいとわない人間に対して適用される。フランスの経済学者ジャン=バティストは、19世紀に
 起業家という言葉が生まれたと考えており、彼は、起業家について、資本と労働の中間的存在として活動し、
 その二つの要素の活用を請け負って、企業経営を引き受ける人間と定義した。 (Wikipediaより引用)



(2)アントレプレナーシップの解釈

   Entrepreneurship is the act of being an entrepreneur, which can be defined as "one who
 undertakes innovations, finance and business acumen in an effort to transform innovations
 into economic goods".
  アントレプレナーシップは、起業家、すなわちイノベーションを経済的価値に転換しようとして技術革新や
 金融活動やビジネス技術に取り組もうとする人々の諸活動のことを言う。 (Wikipediaより引用)

 『アントレプレナーシップ』(英語:entrepreneurship)は、日本では通常「起業家精神」   (あるい
は企業家精神)と訳されることが多い。すなわち、心の動き、魂、気力、理念、自尊心といった心理
的気質をあらわすかように認識されることが少なくない。日本では、おそらく「スポーツマンシップ」
(スポーツマン精神)の解釈にまねて、entrepreneurshipの接尾辞である"-ship"を「精神」と解釈し
たかもしれない。
  しかし、上表のように、entrepreneurshipの英語を日本語に訳すと、起業家の活動、新しい事業を
生み出す活動、という意味となっている。つまり、英語のentrepreneurshipは、日本語で「起業家精
神」 と表現される精神的な意味よりも、    新しい事業を起こすという活動の全体的な意味を持っている。
日本の研究者においても、たとえば清成教授は『企業家とは何か』         (清成忠男編訳、東洋経済新報社、
1998年)の序文で「アントレプレナーシップは、正確には精神をも含めた全体的な企業家活動を意味
する」と述べている。




                                             ~ 10 ~
(3)ベンチャービジネスという和製英語
①「ベンチャービジネス」か、「スタートアップ」か?
  日本では、起業家が立ち上げた会社のことを『ベンチャービジネス』                             (venture business)、あるい
は「ベンチャー企業」「ベンチャー」という言葉で表現しており、この3つとも同じ意味で用いられて
                  、
いる。しかし、ベンチャービジネスは英語では使わない。つまり和製英語である。また、英語圏では
「ベンチャー」     という言葉もほとんど用いられておらず、                    一般には  「startup」 という言葉が使われる。
startupは開業全体を指す広い意味があり、日本語で言う「自営業」も含まれる。英語では、新しく組
織を設立して行う事業はすべてstartupと言うのである。
  Wikipediaに"A venture is a major undertaking, synonymous with adventure."と書いてあるよう
に、ベンチャーとは冒険や挑戦に相当するものであって、企業活動を指す言葉ではない。日本でベン
チャー企業を表す「高い成長を目指してリスクに挑戦する企業」という意味に対しては、英語圏で
は”emerging enterprises”、”emerging companies”がよく使われる。また、米国の政策において
は、”Emerging Business Enterprises” (EBE)、日本語でいえば「新興企業」が使われている。これら
の英語はstartupよりも範囲が狭まったもので、                「新規性のある事業を行っている社歴の新しい企業」                  を
指している。

②「ベンチャービジネス」使用の経緯
    「ベンチャー・ビジネス」という言葉をわが国で最初に用いたのは、中小企業庁指導部調査2課長(当時)の佃
   近雄である。1970年5月にOECD工業委員会とボストン大学共催の第2回ボストン・カレッジ・マネジメントセミナー
   に参加した佃は、帰朝報告のなかで米国では「ベンチャー・ビジネス」という新しい中小企業が台頭しているとの
   報告をおこなった。ところが、このセミナーは「ベンチャー・キャピタルと経営」をテーマとしており、佃はベン
   チャー・キャピタルの投資対象としている企業のことを、米国では「ベンチャー・ビジネス」と呼んでいると誤解
   していたのだった。
    そのころ、国民金融公庫調査課長の清成忠男(当時)と専修大学教授中村秀一郎(当時)は国民金融公庫の「小
   零細企業新規開業実態調査」を通して、知識集約型ともいえる新しいタイプの中小企業を発見していた。清成と中
   村は、この新型中小企業と「ベンチャー・ビジネス」とが、酷似していることから佃の報告に強い関心を持った。
   そこで清成は、日本長期信用銀行調査役(当時)の平尾光司の紹介で、長銀主催の報告会で佃と会い、セミナーの
   資料を借りた。そこにはベンチャー・ビジネスという用語は用いられていなかった。疑問に思った清成は文献にあ
   たって調査したところ、米国ではそのような用語法は存在しない事実を確認した。米国ではベンチャー・ビジネス
   は、単に新規事業一般を指しているに過ぎなかった。しかし、清成と中村は発見した新型中小企業を「小さいけれ
   ど、研究開発とか、知識集約的で、イノベーター的な企業は、やはり中小企業と呼ばない方がいい」と考え、あえ
   てそれらの呼称に「ベンチャー・ビジネス」を採用した。
    このように、和製英語としてうまれた「ベンチャー・ビジネス」は、1970年に清成忠男「アメリカにおける新型
   中小企業の展開」 (国民金融公庫『調査月報』114号)によってはじめて紹介された。さらに、1970年末から71年年
   初にかけて、清成と中村が経済雑誌へ相次いで寄稿したことから、     「ベンチャー・ビジネス」が産業界に広く知ら
   れるようになっていった。しかしベンチャー・ビジネスの概念は抽象的であったため、多様な解釈を許すといった
   欠点があった。大企業からのスピン・オフといった一面のみを捉え、当時流行した「脱サラリーマン」と同義に扱
   い、概念が矮小化されるといった事態も生じた。    そこで、このような誤解を改めるため、清成と中村は、清成忠男、
   中村秀一郎、平尾光司(1971)  『ベンチャー・ビジネス』(日本経済新聞社)を執筆した。
                     (山崎泰央「日本における1970 年代「ベンチャー・ビジネス」の展開」より一部抜粋。
                                                              )



(4)ベンチャービジネスと中小企業、大企業の違い
①明確な定義はない
 『ベンチャービジネス』という言葉には、明確な定義は存在しない。概括的に表現すれば「新技術
や高度な知識を軸に、創造的・革新的な経営を展開する中小企業」であり、中小企業の一つのグルー
プである。先に述べたように、アメリカではベンチャービジネスの概念を”Emerging Companies”と言
うことが多いが、これも明確な定義はない。中小企業は、中小企業基本法によって定義が定まってお
り、製造業の場合は「資本金3億円以下の会社ならびに従業員の数が300人以下の会社」である。
 では、ベンチャービジネス以外の中小企業は何と表現すればよいかとなると、アメリカでは通称「ス
モールビジネス」(Small Business)である。上記のようなベンチャーの特徴を持っていない中小企業
はこのようにスモールビジネスと表現すればよい。


                                       ~ 11 ~
②一般的にみてベンチャーはどう違うか
 ここで、基本的なベンチャービジネスの特徴をみてみよう。我々はベンチャーをどのように認識し
ているだろうか。ベンチャービジネス、中小企業(スモールビジネス)、大企業の三者の違いは何か。
下表は、それをあえて明確に特徴づけてまとめたものである。これらは「一般的な傾向」であり、ベ
ンチャービジネスがすべて実力主義で挑戦的であるわけではないし、大企業がすべて安定指向でもな
く、あくまでも全体的な傾向ととらえてほしい。なお、ベンチャービジネスの組織運営や経営の特徴
とモデルについては、第2部で述べているので参考とされたい。
 ベンチャービジネスを学ぶ上で重要なのは、これらの一般的な特徴、あるいは多少の先入観に基づ
いた世間の常識を理解した上で、掘り下げて考察していくことである。なぜベンチャーがそのような
特徴を持つのか。具体的にどのように会社が運営されているのか。信用力のないベンチャーはどのよ
うに資金を調達するのか。問題意識はそう簡単に尽きるようなものではない。ベンチャーがなぜ成功
するのか、なぜ失敗するのか。これらに対する完全な答えはないのである。


                         三者間の特徴の比較
                ベンチャービジネス        中小企業(スモールビジネス)            大企業
 企業規模        小~中規模。              小~中規模。             大規模
 従業員数        概ね300人以下。           300人以下(製造業の場合)。    300人以上(製造業)。数千人も。
 株式          未公開企業。株式公開を目指す。     多くは未公開企業。          大半が公開企業。
 成長性(潜在力を含む) 高い。                 高くない場合が多い。         -
 技術、開発       高い場合が多い。            高くない場合が多い。         -
 信用力         低い。                 低位~中位。             高い。
 資金調達力       低い。                 低位~中位。             高い。
 採用力         低い(人気がなく採用ができない)。   低位~中位。             高い(就職で人気がある)。
 会社の運営       社長のトップダウン、独断。       社長や同族のトップダウンが多い。   組織による集団経営。
             柔軟で自由な運営。           同族会社が多い。           厳格なルール、柔軟性は低い。
             経営の意思決定が速い。                            経営の意思決定が遅い(組織決定)。
             あぶなっかしい運営。                             安定した運営。組織でチェック。
 社風          実力主義、挑戦、急成長指向。                         安定、リスク回避、保守指向。
 従業員         従業員がすぐ辞める。                             長期安定雇用指向。
             アルバイト等の短期雇用が多い。
 給与、福利厚生     低い。                 低い。                良い。福利厚生が良い。
 従業員に求められるもの チャレンジ、リスクを取る姿勢。                        組織に忠実、コミュニケーション。
 従業員にとっての可能性 会社が急成長すると報われる。                         安定していることが魅力。
 従業員の職責      若いうちから高い役職に。                           年功序列。若いうちは平社員。
 会社オフィス      目抜き通りから外れた中小ビル。                        ビジネス街の大規模ビル。
 (注)上表の記述は、それぞれの相対的な特徴を強調して表現したもの。




■設問2
 設問2

 1.「起業家」の意味を一言で説明しなさい。

 2.「アントレプレナー」「アントレプレナーシップ」の語源は何か。
            、

 3.「ベンチャービジネス」「ベンチャー企業」「ベンチャー」について意味の違いはあるか。
             、         、

 4.「ベンチャービジネス」という言葉は、どうして和製英語になったのか。

 5. 英語では、
        「ベンチャービジネス」の意味としてはどのような言葉が使われているか。

 6.「ベンチャービジネス」という和製英語が使われたのは、どのような時代背景があったか。

 7. ベンチャービジネスと大企業の違いについて、主な特徴と考えるものを5つあげなさい。




                              ~ 12 ~
Ⅲ.起業の歴史
  起業の

  起業家の活動は、現代のベンチャービジネスだけを対象に考えるのではなく、人類がどのよう
 に事業を発展させてきたかという世界の歴史の流れから俯瞰して考えることが重要である。
  人類は、古代中世以降の冒険的な交易や、産業革命、工業化の発展、エレクトロニクス・コン
 ピュータ時代、そしてインターネット革命、新興国の発展、という時代の流れの中で、多種多様
 な人々が新しい事業を起こし、その活動によって経済価値を創出してきたからである。
  こうした世界の歴史を追いながら現代にたどり着けば、今日の我々がなぜイノベーションとア
 ントレプレナーシップを重要視しなければならないかが見えてくる。




1.歴史からみた「起業」
(1)古代から中世の冒険的貿易事業
               (引用:「海上交易の世界と歴史」http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/index.html)
①ギリシアの「冒険貸借」
 多くの都市国家が勃興した古代ギリシアは、海を使って文明を発展させた。ギリシアは農業に適さ
ない土地であるために絶えず食糧の不足に悩まされており、農作物を輸入するために船が必要だった
が、その資材である木材も輸入せざるをえない状況にあった。こうした中にあって、食糧の3分の2を
輸入しなければならない最大の都市国家アテネは、紀元前6世紀頃からフェニキアと争いながら、エジ
プト、キプロスや、小アジア(現在のトルコ)から穀物を運んでいたが、やがてイタリアのシシリー
島や南イタリアに植民を送り、穀物を生産・輸入する植民地を建設するようになった。
 ギリシアでは、はじめは、自分で船を持ち、船を動かして商品を売買する単純な仕組みであった。
船の所有者も船長も商人も一つの船を持つ集団で行われた。やがて、金のある資産家が船主や商人に
資金を貸すようになった。船主は船舶や運賃を抵当にして航海費用を、また商人は貨物仕入代金や前
払い運賃を資産家から借りた。
 その中で、貿易(海商活動)についての取り決めが発展してきた。その取り決めとは、船舶や貨物
が喪失した場合は貸主(資産家)が丸損とし、金を借りた船主あるいは商人は返済の必要がないが、
それらが安全に到着すると、貸付金にその3分の1といった高率の利子をつけて、貸主に返済されるル
ールを作った。また、船長が人命、船舶、貨物を救うために荷物を海上へ投棄(投げ荷)したり、敵
国や海賊に金品の支払いを強制された場合、その損害に応じて返済すべき貸付金は減額された。こう
した普通の金銭貸借とは異なるルールのファイナンスを「冒険貸借」(Bottomry、海上保険の起源の一
つ)と呼んでいる。このような活発なギリシアの海商活動の中で、その後のヨーロッパ海上交易にお
ける船舶の共有、船主と商人の分離、海事金融や海運取引といった取引の慣行が形成されていった。

  古代ギリシアでは、資金の借り手の航海が失敗した場合には、借り手は貸主に金を全額返済する必要
 のないファイナンスが生まれている。これは現代のベンチャー・ファイナンスの起源ともいえる。


②中世地中海における「組合」の形成
 中世の地中海貿易で活躍したのは、ヴェネツィア、ジェノバなどのイタリア半島の都市勢力であり、
東方貿易(レヴァント貿易)と呼ばれる東部地中海沿岸地域やオリエント地域との貿易で富を築いた。
ヴェネツィアやフィレンツェの都市がルネサンス芸術や都市建築で豊かな遺産を残しているのは、こ
の東方貿易による富の産物である。
 中世イタリアの海商経営は2つの方法で行われていた。その1つは共同冒険組合である。11世紀頃
にまとめられたアマルフィ海法(当時の海上交易の慣習法)では、船主、商人、船員が集まって1つの
組合を結成する。これら持分所有者は自分たちの中から管理船主を選んで、冒険組合の全般的な指揮
をゆだね、他の持分所有者は船員としてあるいは自分の商品を持った商人として乗組む。船主は船価
に応じて冒険組合の一定の持分があり、商人は自ら投じた資金または商品の額に応じて持分が割当て
られ、また船員は自分の提供した労役に対して持分が与えられた。船員が船主また商人である場合、
その持分が追加された。貨物の取引から得た利益はすべて組合の勘定に入れられた。航海が完了する

                             ~ 13 ~
と裁判所で計算書の検査を受け、それぞれの持分数に応じて純益が船主、商人、船員に分配されるこ
とになっていた。
 また、1272年のラグーザ海法では、一定数の商人がそれぞれ船長および乗組員に対して、商品取引
に使用する貨幣や商品を委託する。船主や船員も、自分の計算で投資を行うことができる。共同冒険
組合の対象となった商品の運賃はそれぞれ計算され、また商品の取引から得られた利潤とともに、共
同の基金に入れられる。そして、航海が終了した時、船主と船員がこの共同基金の半分を受け取り、
残り半分は冒険商人がそれぞれの投資額に応じて配分を受けることになっていた。
 もう1つは、船舶の共同所有である。古代のように、自らの所有船を自ら単独で経営する船主や、
代理人を乗せて監督する船主は中世になるとごく稀になり、経営は主として組合方式で営まれ、大多
数の船舶は共有で所有されるようになった。組合員のある者が管理船主になり、他の組合員の全部ま
たは一部が船員となって、 しばしば乗船した。15世紀までは船舶はおおむね24の持分に分かれていた。
1人の組合員が2つ以上の持分を持つことも可能であった。そうした船主は、自らの商品を満船する場
合もあれば、そうでない場合もあった。船主が商人でない場合、商人の組合と用船契約を結んだ。そ
れ以外に単なる融資もあったようで、ヴェネチアでは利子率が20%であったとされる。
 このように、共同冒険組合であれ、船舶共同所有であれ、イタリアの場合、乗組員の全部または一
部がその船舶や海商の持分所有者であって、自分たちの労働の対価は、賃金の形式でではなく利潤分
配の形式でもって報酬を受けていた。それでも、乗組員のなかには持分所有者ではなく、単なる賃金
労働者として雇用された船員を補充しなければならない場合もあった。
 中世イタリアでは古代ギリシアよりも海商活動の取り決めが発展し、資産家でなくても、一定の資
金や労力を出し合えば船舶を所有し、商品を売買することが可能となってきたのである。

  中世イタリアの貿易事業は、船主、荷主の商人、労働者の船員が集まって1つの組合を結成したが、こ
 れは現代の企業の起源と考えられる。
  労働者として本来は賃金を受け取るだけの船員は、一つの航海というプロジェクトで作られた組合の
 持ち分を与えられ、無事航海を終えられるか交易で儲けられるかの事業成果によって、航海で得た利潤
 の一部を「組合の分け前」として与えられた。



 ● ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」
  中世イタリアのヴェネツィア共和国を舞台に繰り広げられる、貿易と借金と恋に
 かかわる喜劇。
  ユダヤ人の金貸しシャイロックが貿易商人アントーニオに金を貸す際に取った
 担保(アントーニオの人肉1ポンド)の証文が現実になったことによって起こる裁
 判と、美しく富裕な貴婦人ポーシャを射止めんとする若者の争いが展開される。
  ・アントーニオ: 貿易商人。正義感が強く情に厚い。
  ・バサーニオ: アントーニオの親友。ポーシャに求愛結婚を申し込む。
  ・ポーシャ: 莫大な財産を相続した美貌の貴婦人。多くの若者達から求愛され
   ている。
  ・シャイロック: 強欲なユダヤ人金貸し。恨みのあるアントーニオに、外洋貿
   易の資金を貸しつけるが、担保として借り手アントーニオの人肉1ポンドを証
   文に得る。
  この劇で描かれたアントーニオはヴェネツィアの冒険商人である。アントーニオの出した船が洋上で難破したと
 いう情報(実は虚偽の情報であった)が入ったことから、シャイロックが訴えて裁判になり、金が返せないアン
 トーニオから担保である肉をシャイロックが切り取る権利はあるや否やという争いになる物語である。
  しかし、実際のヴェネツィアでは先のような共同冒険組合が拡がっており、アントーニオのように貿易船が難破
 しても借金の担保を取られる例は少なかったと思われる。


(2)近世ヨーロッパにおける貿易の株式会社制
  イギリス(イングランド)は、中世には交易面でヴェネツィアやハンザの商人に圧倒されていたが、
15 世紀以降は海上交易で力をつけはじめ、イギリス船は外国船に海賊行為を働いていた。イギリス国
王も貿易による財政収入を増そうと軍艦を建造するようになり、外国人に与えていた特権を徐々に取
戻しつつあった。特に、国王ヘンリー8 世(在位 1509-47 年)はイギリス海軍の創設、王立造船所の開
設、造船補助金の支給などで、海運の発展に大きく貢献した。
  この時代のイギリスの遠隔地貿易や大洋貿易では、国王の許可をえて貿易特許会社が作られていた。
それらは、冒険商人組合(Merchant adventurer's company)やレパント会社と呼ばれたものである。


                            ~ 14 ~
                                              16世紀のガレオン船交易
彼らは、   国王から特定の航路の海商について独占権が与えら          16世紀の交易船
れ、一航海ごとに自ら規約を作り護衛船などの費用を出し合っ
て運営していた。しかし、交易そのものは加入している商人た
ちが自らの勘定で船を所有あるいは用船して、         自らの危険負担
の下で行われていた。    特許を与えた王室も商人達が作った組合
に金を出して組合員になったり、    王室の船を護衛船として貸し
出していた。
 この短期的な組合組織から、会社組織が発展した。組合とい
う一時的に金を出しあう結社ではなく、     会社という自前の従業
員を持った組織集団が生まれた。    アジア貿易で台頭してきたオ
ランダに危機感を持ったイギリスのレヴァント会社          (地中海東
部貿易に従事)の商人は、国王エリザベス 1 世に請願し、1600
年にイギリス東インド会社(The East India Company)を発足
させ、自前の従業員と組織を持った会社(ただし一回の航海に
限定した会社組織)を設立した。東インド会社は、株式を発行して資本金が調達され、一回の航海が
終わると持株に応じて利益が配分された。東インド会社は創業当時には 215 人の貴族や商人の出資者
から 68,373 ポンドの資金を集めた。1612 年までは当座企業制という一航海ごとの会社組織であった
が、その後は数回の航海ごとの投資に変わり、さらに護国卿クロムウェルの特許状によって株式配当
になり、期間を限定した企業形態から、法人と資本の永続性がはかられるようになった。
 現在の会社組織である「株式会社」は、イギリスの直後にオランダで設立されたオランダ東インド
会社(1602 年)が起源である。オランダ東インド会社の取り決めでは、出資者の出資金は(イギリス
東インド会社のように一航海毎ではなく)10 年間固定され、また出資者は出資金のリスク以外の責任
を負わないという有限責任が規定されており、この点で近代株式会社の祖とされている。

 ある事業に対して株式を発行し、資金の出し手(投資家)から出資を募る「エクィティ・ファイナンス」
は、近世ヨーロッパの海上交易の商制度として成立した。
 これは、当時リスクの高かった海上貿易において、資金の出し手が共同で企業を設立して、その事業の
リスクを共同分担することによって一人当たりの危険度を低め、その代わりに、事業から得られた利潤を
出資者の持ち分に応じて皆に分配するという、現代の株式会社と同じ仕組みである。



(3)近代における起業
①産業革命による近代的イノベーション
 数十万年の人類の歴史を1年のカレンダーにすると、  産業革命以降の歴史は12月31日の23時半以降に
あたるほどの極めて短い時間にすぎない。 18世紀半ばから現在までの300年に満たない短い時間の中で
大きな変化が起きた。人類の歴史においては、長い間その平均寿命は30歳以下であり、生まれた子供
は半分以上は成人までに半数以上が死ぬのが当たり前だった。人々は他の動物と同様に常に飢えと直
面して生きており、数十万年の間その状態が続いていた。しかし、西暦1800年前後から急に人々が豊
かになり、今のように世界の主要国では一人当たりで年間数万ドルという所得を得るようになった。
 人類は1万年前までは、狩猟生活で数人の集団で移動しながら生活していた。  農耕による定住生活  (新
石器時代)が人類の第一のイノベーションであり、  農耕によって定住生活に入ることが可能となった。
第二のイノベーションは正確な文字の発明であり、情報を記録し的確に伝えることで大きな組織(国
家)の運営ができるようになった。
 第三のイノベーションは、17世紀後半から18世紀前半にイギリスから起こった産業革命という新し
い生産システムと資本主義といわれる近代システムである。資本主義以前の封建制の下では、人々は
農業を営んでいた。何かモノを作るにしても、1人の職人が1つのものをコツコツと作り上げていき、
その技能は自分の弟子に伝えていった。靴屋ならば1軒の靴屋の中で仕事が完結するという家内工業
で人類は数百年やってきた。それに対し、産業革命では製造技術の機械化が実現した。当時のイギリ
スで盛んであった綿織物・毛織物の繊維産業における織物製造機械の自動化・動力化と、蒸気機関に
                                            、
よる動力の発明というイノベーションである。産業革命におけるもう一つのイノベーションは、     「分業
システム」の導入である。アダム・スミスが「国富論」で述べているが、産業革命以前はピンを1つ
作るにも一軒の作業場で一人の職人が色々な工程をすべて作業し製作していたものが、その工程が1
つの工場の中でそれぞれの作業工程を専門とする工員によって行われるという「工場のシステム」を


                        ~ 15 ~
生み出し、結果としてピンを製造する時間とコストが飛躍的に低減し、安いピンが大量に世の中に出
回るようになった。
 ・1712年、ニューコメン(英)によって、蒸気機関を用いた排水ポンプが実用化された。
 ・1733年、ケイ(英)が、織機の一部分である杼を改良した飛び杼を発明して織機が高速化。これ
  により綿布生産の速度が向上した。
 ・1769年、アークライト(英)が水力紡績機を開発。工場を設け、機械を据え付けて多量の綿糸を
  製造することが可能になり、本格的な工場制機械工業のはじまりとなった。
 ・1785年、ワット(英)が蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成
  功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。
 ・18世紀に、コークス製鉄法がダービー(英)によって開発され、高熱が容易に利用できるように
  なったことから、良質の鋼鉄の大量製造が可能となった。
 ・1807年、フルトン(米)によって蒸気船が実用化された。また1804年、トレビシック(英)によ
  り蒸気機関車が発明され、その後蒸気機関車はスチーブンソン(英)によって改良された。
 この産業革命による工業化で、イギリスをはじめとする欧米では、工場経営に乗り出す資本家
                                        資本家が多
                                        資本家
数誕生し、彼ら中産階級(ブルジョアジー)が発展した。こうした当時の資本家達は、従来のやり方
をそのまま継続する経営者も存在したけれども、その多くは産業革命の技術を使って新しい事業や市
場進出で利得を得ようとする「起業家」でもあったのである。

●リチャード・アークライト
 リチャード・アークライト(英)
 リチャード・アークライト  :水力紡績機で富を築いた起業家
 リチャード・アークライト(1732-1792年)は、1771年に水車を動力とする水紡機(水
力紡績機)を発明した。イギリス・ランカシャー地方のプレストンで生まれ、28歳まで
床屋で働いた。  その後かつらの商売を始め、 かつら向け防水染料を改良して資金を得た。
 1768年、ジョン・ケイとともにジェニー紡績機を改良して、綿糸の強度、長さなど品
質を向上させた。翌年、馬を使った大規模な紡績機を作ったがすぐに水力によって運転
する方法に変更した(1771年) 。ジェニー紡績機のように小形のものではなく、人間の力
では動かないので、   水力利用を考えたが、個人の住宅ではできないので別に工場を設け、
機械を据え付けて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。大
量生産が可能になり、立地に制約がなくなったうえに紡糸作業に熟練した労働者が必要
としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けたが、次々に工
場を作り、品質の優れた綿糸を大量に生産して富豪の1人になった。1786年、国王ジョー
ジ3世より Sir (ナイト)の称号を受けた。


②19世紀後半におけるアメリカの工業化と起業活動
 南北戦争(1861-1865年)が終わったアメリカは、工業化が進展した時代だった。1865年から20
世紀初頭までの間に、アメリカ合衆国は世界でも先進的な工業国に成長した。1880年代前半にアメリ
カは“世界の工場”イギリスを抜いて世界一の工業国へと躍進し、1890年代にはいると当時の花形産
業だった鉄鋼生産でもイギリスを上回った。土地と労働力が豊富にあり、気候が多様で、運河、川お
よび海岸水域など航行可能な水域があることで勃興する工業経済の交通需要を満たした。
 ヨーロッパを中心とする他の大陸からは1840年から1920年までに3,700万人という世界史上で最大
の移民がアメリカに流入して安い労働力を提供し、また未開発の地域に多様な地域社会が形成された。
 さらには、 技術の進歩や輸送機関の発展が拍車を掛けた。  19世紀後半は西部開拓運動の時期であり、
鉄道が西部を開き、誰もいなかった所に農場や町ができた。ただし、インディアンを駆逐し虐待する
負の歴史も並行して起こっている。1869年に最初のアメリカ大陸横断鉄道が開通し、巨大な北アメリ
カ大陸間の移動と輸送が近代化し、さらに鉄道の建設によって広大な市場(西部や太平洋)が登場し、
事業を行おうとする者に大きなチャンスが生まれた。産業の経営手法においても、ヘンリー・フォー
ドが始めた移動組立ラインやテイラーの科学的管理法などの経営面のイノベーションが起こった。
 この時代のアメリカの資本家は、未開拓の市場、第二次産業革命といわれる技術革新、輸送手段の
発展、移民による人口の急増という事業を拡大する上で絶好の条件がそろっており、製造業のみなら
ず、鉄道、運河、輸送などの多様な産業で新しい企業が設立され、富を得た資本家が急増した。アン
ドリュー・カーネギー(鉄鋼)   、ジョン・ロックフェラー(石油)のように、富も人脈も持たない人間
が事業を起こして経営を拡大し、大富豪にのし上がった起業家が多数生まれることとなった。
 また、彼ら資本家は、経営効率を高めるために、持株会社によるトラスト(企業合同)という経営
手法を採用し、大企業はトラストを結んで事業を拡大し、あるいは競合企業を合併して市場を独占す
る行動が支配的となった。19世紀後半のアメリカは労働者運動と政府の競争政策が未成熟で、企業の
自由奔放な行動を規制することは稀であったが、その後、大資本家の市場独占や容赦のない経営に社

                            ~ 16 ~
会から強い反発が起こり、労働者運動や反トラスト運動につながった。

●アンドリュー・カーネギー
 アンドリュー・カーネギー(米) 「鋼鉄王」
 アンドリュー・カーネギー   :
 アンドリュー・カーネギー(1835-1919年)は、スコットランド移民の実業家。
 1835年、スコットランドで手織り 職人の長男として 生まれた。 父親が産業革命
で仕事がなくなってしまった ために、1848年に一家でア メリカ へ移住した。移住
の後、12歳のカーネギーは学校 へ行かずに紡績工場で 働く。そ の後、何度か転職
し、ピッツバーグ電信局の電報配達の仕事につき、電信技士に昇格した。その後、
トーマス・スコットに秘書兼電 信士として引き抜かれ てペンシ ルバニア鉄道へ入
社する。18歳の頃、スコットが ペンシルバニア鉄道の 副社長に 昇進すると、カー
ネギーがピッツバーグ支店の責任者になった。
 カーネギーは、持ちかけられ た寝台車のアイデア を取り上げ、 ペンシルバニア
鉄道は試験的な採用を決めた。 カーネギーは、借金を して寝台 車のための会社に
出資して富を得る。南北戦争後 にペンシルバニア鉄道 を退職し 、事業家となる。
当時の鉄道で多かった木製の橋から鉄製への需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成功した。さ
らに、技術革新により鋳鉄よりも強靭な鋼鉄の大量製造が可能になり、鉄道のレールや建築へ使用されるこ
とを予見し、製鉄事業の規模拡大に力を注ぎ、    「鋼鉄王」と呼ばれた。カーネギーは1901年に鉄鋼会社をモ
ルガンへ売却し、  後の世界一のUSスティールとなった。 以後は慈善活動を行い、ニューヨークのカーネギー・
ホールやカーネギーメロン大学は彼の寄附により設立されたものである。

●ジョン・ロックフェラー
 ジョン・ロックフェラー(米)
 ジョン・ロックフェラー   :ロックフェラー財閥の祖
  ジョン・ロックフェラー・シニア(1839-1937年)は、実業家。スタン ダ ー ド ・
オイルを創設した。
  ニューヨーク州北部のリッチフォードで、移動販売を営む親のもとに生まれた。
1855年の16歳の頃に転居したオハ イオ州クリーブラン ドで記帳 係として働き始め
た。1858年に、彼は友人と共にク ラーク・アンド・ロ ックフェ ラー社を設立し、
同社は1862年に当時のアパラチア 山脈近郊で発見され ていた油 田事業に目をつけ
て石油会社に投資を行った 。1865年に友人との事業を 解散し、 精油事業を買収し
ロックフェラー・アンド・ア ンドリュース社を設立 した。さら に同年、第二の精
油所を設立した。1867年にロック フェラー・アンド・ アンドリ ュース社はこの精
油所を吸収し、さらに規模 を拡大するために、1870年 にロック フェラー兄弟と他
のメンバーにより ス タンダ ード・オイ ル社 を創設し、ロックフェラーが社長に就
任した。
  スタンダード・オイルは、徐々にアメリカ国内で石油生産の支配権を獲得した。巨大な利益を消費者に還
元せず高価格で販売し続けたそのビジネス手法は、広く厳しく批評され、スタンダード・オイルは反トラス
ト運動の格好の目標として攻撃された。スタンダード・オイル社はアメリカ石油市場の90%を支配するに至
ったため、世論は次第に「反独占」   「反トラスト」へと向かい、1890年にシャーマン反トラスト法が成立し
た。1911年、アメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイルが市場を独占していることで解体命令を
下し、同社は37の新会社に分割された(現在のエクソンモービルとシェブロンなど)        。1901年までに彼には
約9億ドルの資産があり、当時の世界で最も富を保有していた人物と考えられており、ロックフェラーの財
産を現代の価値に換算した場合、2,000億ドルを上回ると推定されている。

●トーマス・エジソン
 トーマス・エジソン(米) 「発明王」
 トーマス・エジソン   :
 トーマス・エジソン(1847年-1931年)は、生涯におよそ1,300もの発明を行っ
た発明家、起業家。
 エジソンは1847年にオハイオ州ミランで生まれた。小学校に入学するも、教師と馬が
合わず中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜
呑みにすることができず、国語の授業中にも、   「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ば
ないの?」と質問するといった具合で、授業中に事あるごとになぜを連発していたとい
う。最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入
学からわずか3ヶ月で退学を勧められたという。見放されたエジソンは、基本的な勉強
は小学校の教師であった母親に教わった。母親は教育熱心だったらしく、元々好奇心が
旺盛だったエジソンに対して、家の地下室に様々な化学薬品を揃え、エジソン自身もその地下室で科学実験に没頭
していたという。
 このような少年時代を送ったが、その後は母親の手伝いを得ながら発明研究を続け、1877年、エジソン30歳の時
に蓄音機の実用化
 蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得した。その後、ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、研
 蓄音機の実用化
究所では、電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。なかで
も注力したのは白熱電球
        白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。彼は白熱電球の名称を、ゾロアスタ
        白熱電球
ー教の光と英知の神、アフラ・マズダから引用し、   「マズダ」と名付けている。一方で、白熱電球の売り込みのため
の合弁会社を設立し、エジソンは起業家
                 起業家でもあった。鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営か
                 起業家
らは身を引くが、オカルトに関心を移し、研究所にこもって死者との交信の実験を続ける。1914年に研究所が火事
で全焼し損害を蒙ったが、臆せずその後も死者との交信についての研究を続けた。




                            ~ 17 ~
(4)20世紀以降の現代社会における起業
①軍事・産業・学術の複合
 20世紀の世界は、産業革命後に発展を続ける実業界、列強の対立・世界大戦・東西対立で軍事力増
強を必要とした政府、および高度な科学技術が培われた大学の組織が複合的に結束し、技術の進歩の
速度が上がった。この関係は一般に「軍・産複合」として知られており、軍需による技術や製品の需
                  「   産複合」
要、資本と金融の集中による効率活用、および大規模な適用と高度集中管理による技術革新を生む潮
流となった。こうした革新は、医学、物理学、化学、電子計算、航空学、物質科学、造船学、金属学
で生まれたが、ベースとなる技術の進展は軍事目的の研究に負うところが大きかった。
 例えば、航空機と宇宙ロケットの発展は20世紀前半の大きなイノベーションだが、この飛躍は軍事
利用なくしてありえなかったといえる。無線通信や衛星も軍事利用が技術を飛躍させたし、現代のイ
ンターネットの原型であるARPANET(アーパネット)は、1969年にアメリカ国防総省・国防高等研究
計画局による指揮の下に構築されたコンピュータネットワークである。
②幅広い業種での起業                                 ウォルト・ディズニー
                                            (1901~1966年)
 19世紀後半以降、先進国を中心に国民生活が向上し、質の高い製品や多
様で魅力的なサービスへのニーズが高まっていった。 この中で、食料品や娯
楽のような重工業以外の業種でも新しい起業家が急成長する事例も出てき
た。たとえば、 「ミッキーマウス」の生みの親であるウォルト・ディズニー
が1924年に兄のロイと設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは、現
在の売上高が3兆円を越える国際的な大企業に発展した。また、1919年には
コカ・コーラ社が創業し、1939年にはカーネル・サンダース(米)がケン
タッキー・フライドチキンの新調理法を考案、 マクドナルドの祖であるマク
ドナルド兄弟(米)は、1940年に開店している。
③現代のベンチャー投資
 起業家と新設立のベンチャーに対する資金提供も、新しいファイナンス技術が登場した。ベンチャ
ーキャピタル(venture capital)という、外部の投資家が起業家の設立した会社の株式を取得(株式
投資)し、会社を監視し経営指導して会社の価値を向上させ、その後に株式売却により利益を得よう
とするスキームの金融業である。
 このようなベンチャーキャピタルが生まれたのは、第二次世界大戦後のアメリカ・ボストンで、ハ
ーバード大学教授のジョージ・ドリオ教授や実業界の経営者によって1946年に設立された。これがア
メリカン・リサーチ・アンド・ディベロップメント(ARD)という投資会社である。ベンチャーキャ
ピタルは戦後のアメリカで始まった投資業であるが、       1970年代に日本にも導入され現在に至っている。
④情報通信技術の急速な発展と起業家
 パソコンやインターネットの発展は、ここで述べるまでもない。しかしコンピューターもトランジ
スターも、初めて世で発明されたのは第二次大戦以降のことであり、また、世界発のパーソナルコン
ピューターを作ったアップルの創業は現在から35年前の1975年である。さらには、インターネットの
商用化は1995年と今から15年前の最近の発明なのである。
 この短い期間において、現代社会は製品・サービスの水準が飛躍的に向上した。半導体産業はトラ
ンジスターが発明された1947年、IC(集積回路)が発明された1958年以降に急速に発展し、コンピュ
ーター産業はその半導体のイノベーションを利用して1980年代に大きく伸長した。アメリカの起業家
やベンチャービジネスが集まっている「シリコンバレー」  (サンフランシスコ市を北端に南に100キロほどの
湾岸地帯、25ページの参考-1)は、シリコンを主体原料とするIC(集積回路)を取り扱うエレクトロニ
クス関連産業が集まったために、1970年代からこのように呼ばれはじめた。
 こうしたイノベーションの過程において、多くの起業家がベンチャービジネスを起こし業績を拡大
させ、 さらに資金調達をはかるために証券取引所に株式を上場 新規株式公開、
                              (        IPO、35ページの参考―2)
させた。これによって、起業家が保有する会社の株式の価値が何百億円(あるいはそれをはるかに上
回る金額)となり、億万長者となる起業家が出てきた。その典型例がマイクロソフトのビル・ゲイツ、
アップルのステーブ・ジョブズであり、現在のアマゾン・ドット・コム、ヤフー、グーグル、フェイ
スブックのようなベンチャーにつながっていく。
 19世紀以前の起業家は、自分の立ち上げた会社からの給与報酬や配当で富を形成したが、20世紀後
半の起業家は、立ち上げたベンチャービジネスを株式市場に公開すること(株式市場で売買取引でき
るようにすること)によって、持株の経済価値を増大させて富を得ているのである。



                         ~ 18 ~
2.起業を歴史と地理から広く俯瞰してみよう
                     欧 米                                      日 本                         起業家
  15c ヴェネツィア共和国、地中海貿易で全盛期。
  15c 英でマーチャント・アドベンチャラーズ(冒険商人)が活躍。
⼤ 1492 コロンブス、新大陸発見。大航海時代。
航
   1600 イギリス、東インド会社設立。
海
時   1602 オランダ、東インド会社設立(世界初の株式会社)。              1603 徳川家康、江戸幕府を開く。
代   1620 メイフラワー号の移民、米に上陸。                      1657 紀伊国屋文左衛門、明暦の⼤火で⽊材を買い占め財を築く。
                                               1673 三井高利、越後屋呉服店(三越)を創業。
     1700-1763 英仏の北米植民地戦争。                      1701 赤穂浪士の討ち入り事件。
    1733 ケイ(英)、飛び杼を発明。
英
の
    1769 ワット(英)、新型蒸気機関を発明。
産    1776 アメリカ独立宣言。
業    1789 フランス革命勃発。                            1787 老中松平定信、寛政の改革を始める。
⾰
命
    1814 スチーブンソン(英)、蒸気機関⾞の実⽤化に成功。


米   19c後半 米の西部開拓時代。フロンティア消滅(1890)。             1853 米のペリー艦隊が浦賀に来航。
                                                                                                岩
の    1861 アメリカ南北戦争勃発。                                                     ア
                                                                                                崎
⻄    1869 アメリカ、最初の大陸横断鉄道が開通。                   1867 大政奉還。明治維新。            ン
                                                                                                弥
部   1870 ジョン・ロックフェラー(米)、スタンダード石油を創設。                                      ド
                                                                                                太
開   19c後半 アンドリュー・カーネギー(米)、製鉄事業を拡⼤。             1873 岩崎弥太郎、三菱商会を設⽴。        リ
拓                                                                           ト                   郎
    1877 エジソン(米)、蓄音機を実⽤化。電球を実⽤化(1879)。         1875 益⽥孝等、三井物産を設⽴。         ュ
時                                                                           |
  1885 ジョン・ペンバートン(米)、コカ・コーラの原型を発売。                                        |
代                                                                           マ                       渋
  1886 カール・ベンツ(独)、ガソリン⾃動⾞を開発。                                             ・
                                                                            ス                       沢
  1891 リーランド・スタンフォード(米)、スタンフォード⼤学を設⽴。          1896 豊⽥佐吉、「豊⽥式⽊鉄混製動⼒織機」発明。 カ                           豊
                                                                            ・ ヘ                     栄
  1908 ヘンリー・フォード(米)、T型フォードを製造開始。                1904 日露戦争勃発。              |                           ⽥
                                                                            エ ン                     一
  1908 ゼネラル・モータース(GM)が創業。                                                 ネ                           佐
                                                                            ジ リ
  1911 米IBMが創業。                                 1910 韓国併合。                ギ                           吉
                                                                            ソ|
   1912 シュンペーター(墺)、「経済発展の理論」執筆。                                           |
                                                                            ン ・
   1914 第一次世界大戦勃発。
                                                                              フ
  1919 コカ・コーラ社が創業。                             1918 松下幸之助、松下電気器具製作所を創業。
二                                                                             ォ
  1924 ウォルト・ディズニー(米)、ディズニー・ブラザーズ社を創業。
度                                                                             |ウ
  1925 ベル研究所が設⽴。                               1925 豊⽥佐吉、豊⽥⾃動織機製作所を設⽴。
の                                                                             ド ォ
   1929 世界恐慌が起こる。                              1929 本⽥宗一郎、⾃動⾞修理業を始める。
世                                                                               ル
  1939 カーネル・サンダース(米)、フライドチキン新調理法を考案。            1937 日中戦争勃発。
界                                                                               ト
  1939 ヒューレット・パッカード社創業。⼤学発ベンチャーの嚆矢。
⼤                                                                               ・
   1939 第二次世界大戦勃発。
戦                                                                               デ
    1940 マクドナルド兄弟(米)、マクドナルドを開店。正式創業(1955)。      1941 太平洋戦争勃発。
                                                                                ィ
    1942 シュンペーター(墺)、「創造的破壊」を打ち出す。               1945 ポツダム宣言受諾。終戦。
                                                                                ズ                         松
    1946 ジョージ・ドリオ教授(米)等、ARD社を創業。初のVC。          1946 盛⽥昭夫等、東京通信⼯業(ソニー)を創業。                                   本
                                                                                ニ                         下
    1955 ウィリアム・ショックレー(米) 、ショックレー半導体研究所を設⽴。                                                                  ⽥
                                                                                |                         幸
  1955 米アナハイム市でディズニーランドが営業開始。                                                       サ                       宗
                                                                                                          之
  1956 ウォーレン・バフェット(米)、投資会社を創業。                                                      ム                       一
                                                                                                          助
  1957 ケン・オルセン(米)、DECを創業。                      1957 中内功、主婦の店ダイエー薬局を開店。              ・                       郎
  1957 フェアチャイルド・セミコンダクター創業。                    1957 稲盛和夫、京都セラミックを創業。                ウ
  1960 ベトナム戦争勃発(-1975)。                         1960 日米安保条約締結。所得倍増計画。               ォ
半
  1962 サム・ウォルトン(米)、ウォルマートを創業。                  1963 江副浩正、リクルートを創業。                  ル ウ
導                                                                                                               盛
                                                1964 東京オリンピック開催。                    ト ォ
体                                                                                                               ⽥
  1968 インテル創業。フィル・ナイト(米)等、ナイキを創業。              1967 藤沢昭和、ヨドバシカメラを創業。                ン|
・                                                                                                               昭
  1970 リチャード・ブランソン(英)、ヴァージン・レコード創業。                                                   レ
コ                                                                                           ス                   夫
  1971 スターバックス、シアトル市で創業。                       1971 ニクソンショック。円切り上げ。                   ン
ン                                                                                           テ
  1972 KPCB、セコイアキャピタル創業。                       1973 第一次石油危機。永守重信、日本電産を創業。             ・
ピ                                                                                         ビ ィ
  1975 ビル・ゲイツ(米)等、マイクロソフトを創業。                                                         バ
ュ                                                                                         ル|
  1976 スティーブ・ジョブズ(米)等、アップルを創業。                  1979 第二次石油危機。                         フ
|                                                                                         ・ ブ
  1977 ラリー・エリソン(米)、オラクルを創業。                    1980 澤⽥秀雄、エイチアイエスを創業。                  ェ
タ                                                                                         ゲ ・                       孫
  1982 スコット・マクネリ(米)等、サン・マイクロシステムズを創業。          1981 孫正義、ソフトバンクを創業。                    ッ
|                                                                                         イ ジ                       正
  1984 マイケル・デル(米)、デルを創業。                                                              ト
                                                                                          ツ ョ                       義
   1985 ドラッカー(米)、「イノベーションとアントレプレナーシップ」執筆。   1986 バブル経済始まる(~1989)                   ・
                                                                                          ・ ブ                       ・
                                               1988 リクルート事件。江副浩正逮捕(1989)。             現
                                                                                          現ズ                        現
    1994 アンドリーセン(米)等、ネットスケープコミュニケーションズ創業。
                                                                                            ・
    1994 ジェフ・ペゾス(米)、Amazon.comを創業。
イ                                                                                           現
    1995 米でインターネット接続が完全商業化。
ン
    1995 ジェリー・ヤン(米)等、ヤフーを創業。                   1996   堀江貴文、ライブドアを創業。
タ
                                               1997   三⽊⾕浩史、楽天を創業。
|
    1998 ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン(米)、グーグルを創業。          1998   藤⽥晋、サイバーエージェント創業。
ネ
     1999-2000 インターネットバブル時代                    1999   笠原健治、ミクシィを創業。
ッ
                                               1999   南場智子等、DeNAを創業。
ト
    2002 ルクセンブルグでSkype社創業。
時
    2004 マーク・ザッカーバーグ(米)、フェイスブックを創業。            2004 ⽥中良和、GREEを創業。
代
    2006 エヴァン・ウィリアムズ(米)等、Twitter社を創業。           2006 ライブドア事件、堀江貴文逮捕。




                                                        ~ 19 ~
■設問3
 設問3

 1. 新しい事業に挑戦する人々は、現代だけではなく、古代中世にも存在したが、それはどのような
   人々であったか。

 2. 共同で事業に出資して経営に参加するという株式会社の形態は、いつ頃に生まれたものか。

 3. 18世紀のイギリス産業革命においては、どのようなイノベーションが生まれたか。

 4. 欧米が産業革命の時代、日本はどのような時代であったか。起業家は存在しただろうか。

 5. トーマス・エジソンが生み出したイノベーションを一つ述べなさい。

 6. ウォルト・ディズニーが生み出したイノベーションを説明しなさい。

 7. フォード、GM、ディズニー、コカ・コーラ、マクドナルドなど、現代アメリカのビッグビジネ
   スは20世紀初めに生まれている。その背景は何であろうか。

 8. 20世紀世界のビッグビジネスは大半がアメリカから登場している。その背景は何であろうか。

 9.「半導体・コンピューターの時代」はいつ頃を指すのかを説明しなさい。

 10. 最近30年間において、起業家はどうして億万長者になるほどの資産ができたのか。




                       ~ 20 ~
Ⅳ.イノベーション
1.イノベ-ションの意味
 イノベーション(innovation)とは、物事の「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい
                               、       、       、
活用法」(を創造する行為)のことである。新しい技術の発明だけではなく、新しいアイデアから社会
的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い
変革である。つまり、それまでのモノ、仕組みなどに対して、全く新しい技術や考え方を取り入れて
新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすことを指す。
 日本においては、イノベーションを「技術革新」と訳すのが一般的だが、イノベーションは技術面
だけではなく、サービスやビジネス手法の革新も含んでおり、     「新しい技術と手法」と広くとらえたほ
うがよい。

2.イノベ-ションの歴史
 人類の歴史では、「火の使用」に始まり、石器などの器具の製作、農耕の開始、村などの組織の形成、
宗教の創始など、先史時代より数々のイノベーションがなされてきた。
 下表は、人類が生み出した主な発明とその発明者を年代順にリストアップしたものである。 一般に、
人類の三大発明は、火薬・羅針盤・活版印刷術と呼ばれている。人類史上最大の発明は「文字」とい


  時期(西暦)          発明品   発明者(地域)       時期          発明品             発明者
  500000 B.C. 火の利用                    1866    ダイナマイト         ノーベル(スウェーデン)
  20000 B.C. 弓矢                       1867    タイプライター        ショールズ(米)
  8000 B.C.   農耕                      1869    二輪車            ロッパー(米)
  7000 B.C.   土器                      1873    ジーンズ           デイビス(米)、ストラウス(米)
  3500 B.C.   青銅器                     1876    冷蔵庫          リンデ(独)
  3500 B.C.   車輪        メソポタミア        1876    電話機          ベル(米)
  3500 B.C.   文字        シュメール         1879    電球           エジソン(米)
  3000 B.C.   算盤        中国            1884    写真フイルム       イーストマン(米)
  2800 B.C.   暦(こよみ)    エジプト          1885    コカ・コーラ       ペンバートン(米)
  2737 B.C.   茶         中国            1888    カメラ          イーストマン(米)
  1500 B.C.   ガラス       メソポタミア        1889    自動車          ベンツ(独)
  1100 B.C.   鉄器        ヒッタイト         1894    科学的工場管理システム テイラー(米)
   650 B.C.   貨幣        ギリシア          1895    無線通信機        マルコーニ(伊)
   210 B.C.   梃子(てこ)    ギリシア          1897    アスピリン        ホフマン(独)
   150 B.C.   紙         中国            1900    飛行船          ツェッペリン(独)
      4c      鐙(あぶみ、馬具) 中国            1902    エアーコンデショナー キャリア(米)
    8-9c      火薬        中国            1905    相対性理論        アインシュタイン(独)
     11c      羅針盤       中国            1906    真空管          フォレスト(米)
    1180      風車        ヨーロッパ         1913    大量生産方式       フォード(米)
    1286      眼鏡        ヨーロッパ         1913    ジッパー         サンドバック(スウェーデン)
    1300      糸車        ヨーロッパ         1927    テレビ受信機       ファームワース(米)
    1335      機械時計      ヨーロッパ         1929    ペニシリン(抗生物質) フレミング(英)
    1440      活版印刷術     グーテンベルグ(独)    1942    原子核反応        フェルミ(伊)
    1642      計算機       パスカル(仏)       1944    マークⅠ・コンピューター アイケン(米)ら
    1668      望遠鏡       ニュートン(英)      1947    トランジスター      バーディン(米)ら
    1752      避雷針       フランクリン(米)     1958    IC(集積回路)     キルビー(米)ら
    1775      水力紡績機     アークライト(英)     1958    レーザー         シャウロー(米)ら
    1798      種痘(牛痘法)   ジェンナー(英)      1966    携帯自動計算機      キルビー(米)ら
    1800      バッテリー     ボルタ(伊)        1968    コンピューター・マウス エンゲルハート(米)
    1804      蒸気機関車     トレビシック(英)     1968    マイクロプロセッサー ホフ(米)
    1831      電磁誘導      ファラデー(英)      1973    インターネット      サーフ(米)
    1843      人工ゴム      グッドイヤー(米)     1976    パーソナル・コンピューター ジョブズ(米)、ウォズニアク(米)
    1845      チューイングガム アダムス(米)        1983    携帯電話           フレンケル(米)ら
    1846      ミシン       ホウ(米)         1991    ワールドワイドウェブ     バーナーズ=リー(英)
    1852      エレベーター    オーチス(米)       1998    グーグル           ブリン(米)、ペイジ(米)
    1855      転炉製鋼法     ベッセマー(英)      2001    iPod           ファデル(米)
    1859      エスカレーター エイムス(米)         2004    フェイスブック        ザッカーバーグ(米)
    1860      掃除機       ヘス(米)         2006    ツイッター          ウィリアムス(米)ら
う情報の記録術かもしれないし、あるいは人によっては「お金」だと言うかもしれない。貨幣の取引

                                     ~ 21 ~
と蓄積があって初めて人類は本当の商売を始めたのであろう。
 この表をみてわかるように、イノベーションの具体的な成果である発明は、19世紀半ば以降から現
在までに集中していることが改めて認識できるだろう。鉄器、貨幣、紙、印刷機といった基礎的な技
術は中世以前の発明品であるが、今の世の中で使われている品物のほとんどは最近200年間で発明され
たものであり、さらにエレクトロニクスに限ればこの50年の間に生まれた技術なのである。


  ここで、少し考えてみよう・・・。
   1. 人類が鉄を利用するようになったのは、いつ頃にどこで発明されたか。
   2. 人類の三大発明と呼ばれているものは何で、それはいつごろ発明されたものか。
   3. 自動車はいつ頃だれが発明したか。
   4. テレビはどの頃の発明品か。
   5. コンピューターはどこ頃の発明品か。
   6. インタ-ネットが発明されたのはいつ頃か。

 これらの知識は、覚えておいても役立たないと思えるものもあるだろう。重要なのは、どの時代に
イノベーションが加速化し多数の発明が生まれたかという歴史的な流れと、現代社会の技術を支えて
いる機械工学とエレクトロニクス工学のそれぞれが発展した時期を把握しておくことである。


3.イノベ-ションの現在
 現代の我々は、イノベーションの成果により、人類史のうえで最も豊かな生活を享受している。先
進国の平均寿命は70数歳であり、中でも日本は平均で82.5歳(2005年、男女平均)と世界一である。
人が死ななくなったのは医学や化学のイノベーションであることは間違いない。
 今の世界を見てみよう。
 ○アメリカに留学している高校時代の友人と、スカイプ(Skype、2002年創業)で無料インターネッ
  ト電話やチャットができる。
 ○テレビを見ると、民族衣装を着たエチオピアの農民が畑の脇に立ってシカゴのコーヒー豆の相場を
  聞こうと携帯電話
        携帯電話(1983年発明)をかけている。
        携帯電話
 ○AKB48の話は、台湾やインドネシア人の女の子の方がよく知って
  いる。インターネットテレビ(1999年頃発明)やユーチュ-ブ
  (2005年創業)で日本の番組を毎日のように見ているからだ。ま
  だ公演を行っていないNMB48まで知っているという。
 ○今年2011年に起こったチュニジアやエジプトの革命は、  民衆がア
  ラビア語のツイッター(2006年創業)で情報を交換してデモの情
  報をやりとりしていたことから『ツイッター革命』と呼ばれている。
 ○イノベーションは、過去のイノベーションを駆逐する。現代の若者で実際の真空管(1906年発明)
  を見たことのある人は少ない。わずか100年前に発明された現代エレクトロニクスの基幹製品であ
  ったものが、  電子回路の素子としての役目は半導体 (トランジスターは1946年発明)に置き換わり、
  今の世の中で使われている製品は放送局や高級アンプに限定されている。



4.イノベ-ションの理論
 社会科学において、人類を発展させてきたイノベーションは、どのように論じられてきたのか。こ
れについて、3名の経済学者・経営学者の論点を以下にまとめている。

(1)アダム・スミスの論じた利己心と分業
 世界で経済学を最初に作ったのは、産業革命期に生きたイギリスの経済学者アダム・スミス(1723
-1790年)であるが、彼は「利己心」という資本主義の根底にある精神要素と、
                                     「分業」という資本主
義のイノベーションを評価し、経済社会を動かす基本的メカニズムだと論じている。




                        ~ 22 ~
①利己心の肯定
 彼は、人間の利己心について、有名な著書『国富論』「諸国民の富」
                        (       、1776
年刊行)の第1篇第2章で、
 「我々が自分の食事を取るのは,肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく、
  彼等自身の利害に対する彼等の関心によるのである。」
                            (「分業を引き起こす原理について」
                                            )
と述べており、人間の利己主義を資本主義社会の倫理として肯定している。
簡単にいえば、人間の行動は自分にとっての利益がどうなるかを考えた上の
ものであり、他人や社会に利益を与えるための行動ではないと論じている。
 この言は今の世の中ではごく自然に受け入れられるものであるが、中世キ
リスト教の倫理に束縛された当時のヨーロッパ社会においては、表立って功利主義を主張することは
はばかられる世の中だったのである。たとえば、
 「人はパンのみによって生くるものにあらず。 、
                      」「汝の隣人を愛せよ。」
という有名なキリストの言葉や、
 「誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(マタイ福音書23章12節)
                                       」
 「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、だまし取った物は四
  倍にして返します。(ルカ福音書19章8節)
           」
という聖書の言葉のように、キリスト教では自分を利する行動を積極的に肯定せず、利益を図ること
よりも他人のために動くことを奨励している。したがって、キリスト教社会においては、人間が金や
財産を増やそうとする事業意欲は、「良い行い」とはされなかったのである。
 起業家や資本家が事業を行う動機はそれによって経済的利益を得るという利己心であり、隣人に施
すことを目的に起業する人間はほとんど存在しない。アダム・スミスは人間の利己心を重視すること
で、当時の産業革命期における資本家の行動を、人間の行動原理に従っていると論じたのである。
②分業システムの評価
 また、近代以降の基本的生産システムである「分業」のメリットを論じたのもスミスである。彼は
著書『国富論』においてこう述べている。
 「我々が、自分たちの必要としている他人の世話を互いに受け合うのは、互いの合意による交換や購買によっ
  てであるが、もともと分業を発生させるのも、取引しようとする同じ人間の性向である。
                                         」
 「人間に取引し交易し交換しようという性向がなかったなら、誰もが自分の必要とする生活の必需品と便益品
  をことごとく自分だけで調達しなければならなかったに違いない。」
 「ピンを製造する作業から、工程全部を一人の人間がやるのと十人で分担するのとでは、効率が全く異なる。」
 ピンを1つ作るにも色々な工程に分かれていて、その工程が一つの工場の中で、それぞれを専門と
する工員によって行われるという「工場の分業システム」というものが産業革命のイノベーションと
アダム・スミスは考えたのである。
●アダム・スミス
 アダム・スミス(1723-1790年)
 アダム・スミス
 スコットランド生まれのイギリスの経済学者、哲学者 。グ ラス ゴー 大学で 道徳 哲学 を学び 、 1748
年からエ ディン バラで修 辞学や 純文学 を教え る。1751年 にグラ スゴー大 学で論 理学教授 に就任 する。1763
年、教授職を辞してフランスに渡る。1766年にスコットランドに戻り、1776年に『国富論』を刊行し名声を
博した。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任、1790年にエディンバラで67歳で死去した。


(2)シュンペーターのイノベーション論
  イノベーションという概念を初めて明確に打ち出して論じたのは、20世紀
前半のオーストリアの経済学者ヨ-ゼフ・シュンペーター(1883-1950年)
である。彼は、主著『資本主義・社会主義・民主主義』        (1942年)において
「創造的破壊」という概念を打ち出し、アントレプレナー(当初の訳は「企
業者」とされている)の行う不断のイノベーションが経済を変動させるとい
う理論を構築した。
  シュンペーターは、イノベーションとして以下の5つの類型を提示した。
   ①新しい財貨の生産、      ②新しい生産方法の導入、③新しい販売先の開拓、
   ④新しい仕入先の獲得、⑤新しい組織の実現
  彼は、イノベーションの実行者をアントレプレナーと呼び、アントレプレナーは一定の慣例的な過
程をこなすだけの経営管理者ではなく、生産要素を全く新たな組み合わせで結合し(これを新結合、
                    、新たなビジネスを創造する者として重視されるべきとした。
new combinationsと呼んだ)


                             ~ 23 ~
シュンペーターは、資本主義経済の動態的性格を強調した。資本主義企業は、既存の需要・供給構
造や技術体系,労働・生産体系のもとで合理的・効率的に対応するだけではなく、むしろそうした既
存の条件に積極的・能動的に働きかけて変化を促し、新しい条件を作りだしていくことに資本主義の
活動の本領があるとした。
 彼は、利潤獲得のために、古いものを破壊し新しいものを創造していく資本主義の不断の活動を、
物と力の「新結合」による「創造的破壊」と呼び、この過程こそ資本主義の本質的事実であり、資本
主義はそれゆえ本来的に発展的・動態的性格を持つとした。
 しかしながら、20世紀前半の経済学は、ジョン・メイナード・ケインズ(英の経済学者、1883-1946
年)による有効需要創出に重きを置くケインズ経済学が主流を占めていた。ケインズ理論を理論的支
柱にして大恐慌後のアメリカで実施されたルーズヴェルト大統領のニューディール政策に対して、シ
ュンペーターは政府の産業への介入が害を及ぼすとして強く批判している。
 現在は「創造的破壊の理論」と呼ばれるシュンペーターの理論は、20世紀の経済学としてはケイン
ズ経済学に対抗できず、主流からは遠い経済学説であったが、1990年代以降にイノベーションや産業
競争力の強化を重視する世界の流れの中で、シュンペーターの理論が再評価されるようになっている。
 まとめれば、シュンペーターの経済学の特徴は以下の3点である。

  ①時間経過の中における供給構造の質的変化を重視する。(=商品やサービスを作りだす側の
   変化)
  ②資本主義の本質を、アントレプレナーによるイノベーション(彼は新結合と呼んだ)による
   ダイナミックな発展過程ととらえる。
  ③資源、人口、技術、社会組織といった条件に、経済主体が受動的に適応するのではなく、ア
   ントレプレナーの積極的活動による創造的破壊が経済価値を生み出していく。


●ヨ-ゼフ・シュンペーター
  ヨ-ゼフ・シュンペーター(1883-1950年)
  ヨ-ゼフ・シュンペーター
 1883年 、オーストリア・ハンガリー帝国モラヴィア(現チェコ)のトリーシュに生まれる。1901年、ウ
ィーン大学法学部に進学。1906年、 ウィーン大学から博士号(法学)を取得。1909年、ツェルノヴィッツ
大学准教授に就任。1911年、グラーツ大学教授に就任。1912年、『経済発展の理論』発表。1913、米コロン
ビア大学から客員教授として招聘。1919年、オーストリア共和国の大蔵大臣に就任、同年辞職。1921年、オ
ーストリアのビーダーマン銀行の頭取に就任。1924年、ビーダーマン銀行が経営危機に陥ったため、頭取を
解任され、巨額の借金を負う。1925年、独ボン大学の教授に就任。1927年、米ハーバード大学の客員教授。
1931年、初めて来日し各地で講演。1932年、ハーバード大学の教授に就任。1939年、『景気循環の理論』発
表。1940年、計量経済学会会長に就任。1942年、『資本主義・社会主義・民主主義』発表。1947年、アメリ
カ経済学会会長に選出。1949年、国際経済学会会長に選出。1950年、アメリカ・コネチカット州にて急 死 。




(3)ドラッカーによるアントレプレナーシップの評価
 ピーター・ドラッカー(1909年-2005年)は、オーストリア生まれの
経営学者・社会学者である。ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興
に直面し、英国を経てアメリカに逃れた。   そこで彼が目にしたのは20世紀
の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。彼はその社会的
使命を解明すべく、GMを題材にした著作に取り掛かる。それが名著『企
業とは何か』に結実した。
 ドラッカーの思想は、日本でも経営者やサラリーマンを中心に人気が高
く、著書の日本での売上は累計400万部を超えている。近年は、 「もし高校
野球の女子マネージャーがドラッカーの  『マネジメント』 を読んだら」(岩
崎夏海著)によって、再び日本では注目されている。
①ドラッカーのイノベーション
 1985年、ドラッカーは『イノベーションとアントレプレナーシップ』を著した。この著作は純粋な
             『イノベーションとアントレプレナーシップ
                 ーションとアントレプレナーシップ』
経済理論を論じたものではないが、ドラッカーはアントレプレナーシップを下記のように述べている。
 「アントレプレナーシップとは、すでに行っていることをより上手に行うことよりも、まったく新しいことに
  価値、とくに経済的な価値を見出すことである。これこそまさに、およそ二百年前、J・B・セイが起業家なる
  言葉を作ったことの本質だった。それは、権威に対する否定の宣言だった。すなわち、起業家とは秩序を破壊
  し解体する者である。シュンペーターが明らかにしたように、起業家の責務は創造的破壊である。(」「イノベー
  ションとアントレプレナーシップ」
                 )



                         ~ 24 ~
②経済社会での必要性
 さらに、彼は、このイノベーションとアントレプレナーシップが経済社会の安定的な発展には不可
欠で、この二つの要素がなければ経済社会は陳腐化して衰退に陥るとしている。
 「われわれは、人の手によるあらゆるものが、歳をとり、硬直化し、陳腐化し、苦しみに変わることを知って
  いる。かくして経済と同様に社会においても、あるいは事業と同様に社会的サービスにおいても、イノベーシ
  ョンとアントレプレナーシップが必要となる。 」
 「われわれが必要としているものは、イノベーションとアントレプレナーシップが当たり前のものとして存在
  し、継続していく起業家社会である。(
                   」「イノベーションとアントレプレナーシップ」)

③アントレプレナーシップは、勘やひらめきではなく、学ぶことが可能な仕事
                         学ぶことが可能な
                              可能
 ドラッカーが例を挙げつつ、繰り返し強調しているのは、イノベーションやアントレプレナーに対
する世間一般の「ひらめきや神秘的なもの」というイメージは正しくなく、これらの大部分は体系化
が可能で、それゆえに「アントレプレナーシップを学んで実践することも可能だ」ということである。
 「アントレプレナーシップは生まれつきのものではない。創造でもない。それは仕事である。」
 「意思決定を行うことのできる人ならば、学ぶことによって、起業家的に行動することも起業家となることも
  できる。アントレプレナーシップとは気質ではなく行動である。しかもその基礎となるのは、勘ではなく、原
  理であり、方法である。(
             」「イノベーションとアントレプレナーシップ」)



●ピーター・ドラッカー
 ピーター・ドラッカー(1909-2005年)
 ピーター・ドラッカー
  1909年、オーストリア・ウィーンでドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。1929年、ドイツ・フランクフル
トの新聞記者になる。1931年、フランクフルト大学にて法学博士取得。1933年、自分の論文がナチスの怒り
を買うことを確信し、ロンドンに移住。1937年、アメリカに移住。1939年、処女作『経済人の終わり』を著
す。1946年、ゼネラル・モータースでの調査活動をもとに『企業とは何か』を著す。1950年、ニューヨーク
大学教授。1954年『現代の経営』で目標管理を提唱し、マネジメントブームに火をつける。1959年、初来日。
1969年、『断絶の時代』で知識社会の到来、起業家の時代、経済のグローバル化などを予言。1980年代にイ
ギリスのサッチャー政権が推し進めた民営化政策に大きな動機を与えたといわれる。1971年、クレアモント
大学大学院教授。1979年、自伝『傍観者の時代』を著す。2002年、アメリカ政府から民間人への最高位の勲
章である大統領自由勲章を授与される。2005年、カリフォルニア州の自宅で老衰のため死去。95歳没。



■設問4
 設問4

 1. 「イノベーション」とは何か、一言で説明しなさい。

 2. ディズニーランドは「イノベーション」だろうか。その是非を説明しなさい。

 3. 人類の歴史において、最も影響力のあったイノベーションと自分が考えるものを3つあげて、そ
    の理由を説明せよ。

 4. 身の回りにあるイノベーションを3つ取り上げて、その起源を調べて説明しなさい。

 5. 日本でも多数のイノベーションが生まれてきた。身近な例では回転寿司やユニットバスがある。
   日本で生まれたイノベーションを1つ取り上げてその影響を説明しなさい。

 6. 経済学において、イノベーションを初めて明確に論じたのは誰か。

 7.「創造的破壊」とはどのようなものか、簡単に説明しなさい。

 8. 新しい技術や事業を思いつくための「アントレプレナーシップ」は、勘やひらめきに依存してい
    るのだろうか。「アントレプレナーシップ」は学べるものだろうか。自分の意見を述べなさい。




                          ~ 25 ~
(参考-1)シリコンバレー
                      シリコンバレー



 シリコンバレー(Silicon Valley)はアメリカ合衆国カリフォルニア州北部のサンフランシス
コ湾の南部一帯にあるサンタクララバレーと周辺地域のことを指している。       北はサンフランシス
コ市から南はサンノゼ市までの約70~100kmの距離の一帯がシリコンバレーにあたるが、    実際に
シリコンバレーという都市は存在せず、京浜工業地帯というような意味の言葉である。
 このシリコンバレーの地域には、コンピューターやインターネット関連のハイテク産業が数多
く集まっており、アップル、オラクル、ヤフー、グーグル、ツイッター、フェイスブックなど世
界に名だたる企業の本社がある。
 トランジスターの発明者の一人であるウィリアム・ショックレーがこの地に「ショックレー半
導体研究所」を1955年に設立し、そこから分化したフェアチャイルド・セミコンダクター(1957
年設立)や、更にそこからインテル(1968年設立)をはじめとする多くの半導体企業が生まれ
たことから、半導体材料のシリコンにちなんで「シリコンバレー」と1970年代から呼ばれるよ
うになった。
 また、シリコンバレーのほぼ中心には、私立スタンフォード大学(1891年創立)があり、こ
の大学から数々の起業家とベンチャービジネスが生まれてきた。




                       ~ 26 ~
第2部   ベンチャービジネス


Ⅰ.ベンチャービジネスの世界
  ベンチャービジネスの世界
 ベンチャービジネスとは、大企業ではなく、従来の中小企業でもない、「第三のセクター」である。
また、これはスタートアップしたばかりの若い中小企業だけを対象とするものではなく、大企業や伝
統的な中小企業における新事業展開や企業再生の活動を含んだものである。
 日本に突出してそびえたつ規模と成長力を持った産業がなくなりつつある現在、少数の巨大産業と
大企業が幅をきかし、他の産業企業がつき従っていく構造が今後も続くとはだれも考えていない。大
多数の人々は新しい産業と企業を望んでおり、新たなビジネスを生み出す仕組みや人間に期待が集ま
っている。
    「日本経済を牽引する新しいフロンティア」にベンチャービジネスがなるのではないかと期
待しているのである。

(1)ベンチャービジネスの特徴
①ベンチャービジネスの目的は「経済価値を創ること」
 第1部で述べたように、ベンチャービジネスとは「高い成長を目指してリスクに挑戦する企業」の
総称である。高い成長を目指して危険かもしれないことに挑戦するかといえば、それによって経済価
値を得ることができるからだ。企業や個人が富を獲得することが出来るからである。これは考えるま
でもなく当然の人間の行為であり、資本主義が発展する以前、さかのぼれば古代からこの理屈でビジ
ネスは行われてきた。
 アントレプレナーシップには、利益追求をする商売の世界だけではなく、社会貢献や地域振興の取
り組みも含まれている。しかし、アントレプレナーシップの活動のなかで、ベンチャービジネスとは、
会社という組織を立ち上げてビジネスを行って利益を出すことを第一目的とする組織のことである。
利益を得られるチャンスがありそうだから、起業家も従業員も投資家も銀行も、プロジェクトに参加
してみよう、資金を出してみようと思うのだ。
 逆にいえば、ベンチャービジネスや起業家、従業員等の利益を得ようとする「功利心」(利己主義)
を否定するなら、ベンチャービジネスは成り立たない。むしろ、リスクが高いだけに、お金をもうけ
ようとする強い気持ちが起業家や従業員に強くなければ、事業に挑戦していくことはできない、と考
えるべきである。ベンチャービジネスを考える際には、あくまでも自分の「利益追求」が第一で最大
の目的であり、社会貢献、他者との協調といった「社会的公正」の概念はひとまず外して考えないと
いけない。もちろん、ベンチャービジネスでは社会的公正を重視する場面もあるけれども、一般的に
いえば、彼らは他の組織よりも利益追求を重視した方針で行動すると考えるべきである。
②異質性、独自性、希少性の追求
 ベンチャービジネスは、人と似たようなことをする事業ではない。世の中で沢山ある製品やサービ
スをすることがベンチャービジネスではなく、他で行われていない、マーケットで少ない事業に挑む
ことがベンチャーの本質である。
③スピードの重視
 スピードの重視
 現代におけるイノベーションのスピードは速い。大企業であっても、技術や市場の発達に追いつい
ていくために、あるいは他社を追い越すために懸命である。ベンチャービジネスは、ことにハイテク
ベンチャーは、そうした大企業を更に上回るスピードで事業を推進しなければ、売上も利益もあげら
れずに淘汰されてしまうリスクが高い。
④自社の強みに特化
 自社の みに特化
 イノベーションに追いつけるベンチャーでなければ、その世界に身を置く意味がないとまで言い切
れるのがベンチャーの世界である。ベンチャービジネスでは、スピードをことのほか重視した経営ス
タイルを取っており、迅速に経営の決断をし、自分達で不足するものは外部の人間や企業を活用する。
このため、ベンチャーでは、中途採用、ヘッドハンティングによる人材活用や、企業提携、M&Aによ
る技術や顧客の獲得が盛んにおこなわれる。外部を活用しながら、自社の独自の強み(英語ではコア・
コンピタンスと呼ばれる)を更に進めるスタイルが現代のベンチャービジネスの経営手法である。



                     ~ 27 ~
⑤企業は倒れても、個人と技術は残る
 企業は れても、個人と技術は
 成功をとげたビジネスの陰に、失敗起業が累々と横たわっているのがベンチャービジネスでもある。
残念ながら、ベンチャーではすべての企業や参加者が平等に成果を享受することはなく、 「非民主的」
な世界ともいえよう。しかし、事業が頓挫して企業が閉鎖されても、挑んだ個人やその過程で生まれ
た技術やノウハウは残り、次の新しいプロジェクトでうまく成功することもある。ハイテクベンチャ
ーが多数生まれるシリコンバレーにおいても、最初の第一ラウンドでうまくいかなくても、そのベン
チャービジネスを辞めた後の2回目、3回目以降の挑戦で成功した人間を輩出しているのである。
⑤ベンチャービジネスというシステムと生態系が重要
 ベンチャービジネスというシステムと生態系が
                  生態系
 このベンチャービジネスが活発に発展するには、第4部で述べるように、ベンチャーを支える制度、
産業、金融、大学、研究所、あるいはコンサルタントのような集団が欠かせない。ベンチャー単独で
は成り立たない世界である。ベンチャービジネスは、このような「支援システム」に支えられている。
 また、この支援システムにいる人々が常に働き、学び、交流しあっている。そのやり取りの中で、
新しい企てのプランが生まれ、人々が集まり、プロジェクトに誘い、共に働いている。ここでは企業、
役所、団体、大学のような組織の中で、人のやり取りや交流が閉ざされた世界ではなく、オープンな
世界で活動している。このような活動領域は物理的制約からシリコナレーや東京圏のようなある地域
の中であるが、こうした地域内の人間の活動システムを「生態系」と呼ばれることが増えているが、
この生態系の活動のよしあしがベンチャービジネスの発展に強く影響すると最近では考えられている。
⑥期待で成り立つビジネス
 期待で
 ベンチャービジネスは、失敗することもあるという前提からスタートする。新しい企ての成果で大
きな経済的な価値(利益)を得られそうと考えるから、世の中はベンチャービジネスに参加し、資金
を投入するわけであるが、その行動は、利益が得られそうという「期待」に基づいたものである。期
待の実現度、可能性はどのくらいかを考えて、人やお金が動いていく。しかし、期待どおりに行かな
いことが多い。バイオテクノロジー産業で開発している新薬候補のうち当局から承認されて新薬とし
て製品発売されるのは1万件のうち3件もないといわれるほどである。日本のベンチャービジネスと呼
ばれる企業群でも、成功して会社が株式公開まで行きつくのはせいぜい年間150社程度である。
 逆に、人々の期待が高すぎて、ベンチャービジネスの価値が過剰に評価される場合もある。たとえ
ば、インターネットバブルといわれた1999年から2000年にかけては、日本で株式を公開したネットベ
ンチャーの中には売上高が年間数億円にもかかわらず、会社の価値が1000億円以上で株価がつく現象
も起こった。ところが、そのベンチャーへの期待が低下すれば、そうした価値は一挙に崩れ、株価の
暴落で投資家が損をするだけでなく、企業の信用度低下や倒産など、   問題が生じてくる可能性が高い。

(2)ネットバブルの崩壊
  世の中というものは均質的で、ある考えが通用し始めると、多くの人々が追随する。注目されると、
それが良いものだという考えで皆が一斉にそこに動いていく。
  1997年から2005年にかけて、日本には第三次ベンチャーブームが起こったが、それは上記のように
皆が追随するお祭りのようなブームになっていた。その後、2001年にインターネットバブルがはじけ
るとIT投資やインターネットの価値が見直され、ベンチャー企業はそれほど価値が高いものだろうか
という疑念が生じてきた。ベンチャービジネスに大きな見直しが起こったのは、2006年1月に起こった
『ライブドア事件』である。ライブドアがファンド等を利用して巨大な粉飾(虚偽の財務諸表の作成)
を行い証券取引法等に違反していた事実が報道されると、社会は「やはりベンチャービジネスはイン
チキをやっていた」        、
                 「ベンチャービジ
ネスというものは危ない!」           という印
                                       ジャスダック株価指数(右目盛)
象を強めた。     典型的な現象が新興株式
                                         マザーズ株価指数(左目盛)
市場 (東京証券取引所のマザーズ市場
やジャスダック証券取引所等の新興
企業向けの株式市場)         で取引される株
式の暴落である。        図のように、東京証
券取引所のマザーズ指数          (新興企業を
対象とした株価指数)は、2006年1
月16日終値の2799.06を直近のピー
クに下落し、1年9ケ月後の2007年9
月 18 日 の 620.42 ま で の 間 に 株 価 は
78%も下落している。
  この東証マザーズ指数がピークを

                         ~ 28 ~
つけた2006年1月16日は、ライブドアが証券取引法違反容疑で東京地検特捜部から家宅捜索を受けた日
であった。その後も、村上ファンドの村上世彰代表が証券取引法違反容疑で逮捕(2006年6月)    、堀江
貴文(ライブドア前社長)の東京地裁初公判(2006年9月)という出来事が続いた。
 さらに、株式公開を果たした新興企業で粉飾決算などの不祥事が相次いだ。投資家は新興企業が疑
念を持ちはじめ、ベンチャー企業が晴れて株式公開によって公募増資を行っても、投資家は買おうと
しなくなった。  こうした結果、 日本国内での新規株式公開件数は2006年の年間188件から急減し、2009
年はわずか19件と史上最低のIPO件数となり、2010年も22件にとどまっている。


(3)栄枯盛衰
 上の(1)-③で述べたように、現代における技術の最先端はスピードが速いから、行きわたった
技術やサービスを新しいイノベーションが短期間で置き換わることが起こっている。
①破壊的イノベーション                                            世界発のHDD「IBM 350」
 こうした新しい技術やビジネスモデルによって、既に形成された市
場の秩序を変え、市場と業界構造を劇的に変化させてしまうイノベー
ションのことを「破壊的イノベーション」と呼んでいる。
 ハーバード大学ビジネススクールのクリステンセン教授は、 『イ          著書
ノベーションのジレンマ』(The Innovator's Dilemma、1997年)にお
いて、イノベーションには「持続的イノベーション」と「破壊的イノ
ベーション」の2つがあるとしている。クリステンセンは、特に繰り返
し業界リーダーが入れ替わったハードディスクドライブ(HDD)業界
を取り上げ、この現象を説明している。
 1980年代の8インチドライブから5.25インチドライブへの移行についていえ
 ば、1981年の時点で8インチドライブの容量は60MBであるのに対して、5.25             現在の8GBのUSBメモリー
 インチドライブの容量は10MBしかなかった。  8インチドライブの主要顧客であ
 るミニコンメーカーにとって、5.25インチドライブの記憶容量は不足してい
 た。しかし、ミニコンとは別のパソコン市場では5.25インチドライブが評価
 されて販売が増え、結果として5.25インチドライブでは継続的な技術改良が
 進み、数年のうちに5.25インチが8インチドライブの性能を上回って、8イン
 チドライブ製品が市場から駆逐された。  1976年に業界を構成していた17社は、
 IBMのディスク・ドライブ事業部を除く全社が、1995年までに倒産したか買収
 された。この間、129社が業界に参入し、そのうち109社が失敗した。 (クリス
 テンセン『イノベーションのジレンマ』より引用)
  世界初のハードディスクドライブは、IBMが1955年に発表した「IBM-350 RAMAC」
                                               (上の写真)だ
が、直径が24インチのディスクを50枚内蔵し、高さは2mもある大きなものだったが、容量は5MBで
あった。現在使われる親指サイズのUSBメモリーは容量はその千倍のギガバイトであることからも、
50年間の技術革新で極めて大きな変化が社会に起こっていることがわかるだろう。
  破壊的技術は単に新事業や新市場を生み出すだけではなく、その後の持続的技術によって製品・サ
ービスが改良・改善され、既存市場を侵食し、既存市場に販売している企業の地位を危うくする。こ
のような業界変動の事例として、クリステンセンらは下表のような破壊的技術を挙げている。

                       確立された技術(現技術)              破壊的技術(新技術)
      コンピュータ       メインフレーム技術                 ミニ・コンピュータ技術
      コンピュータ       ミニ・コンピュータ技術               パーソナルコンピュータ技術
      掘削機          ケーブル式掘削機                  油圧式掘削機
      ラジオ受信機       真空管式ラジオ技術                 トランジスタ・ラジオ技術
      HDDアーキテクチャ   14インチ・ウィンチェスター・ドライブ       8インチ・ハードディスクドライブ
      HDDアーキテクチャ   8インチ・ハードディスクドライブ          5.25インチ・ハードディスクドライブ
      HDDアーキテクチャ   5..25インチ・ハードディスクドライブ      3.5インチ・ハードディスクドライブ
      コピー装置        業務用乾式コピー機技術               小型卓上コピー機技術



②業界の主役交代
 インターネットの世界においても似た現象が起こっている。2000年当時は飛ぶ鳥を落とす勢いであ


                                    ~ 29 ~
ったヤフーが、2008年以降は一転して低迷し身売り話まで出ている。また現在は企業価値が3000億ド
ル(2011年初時点)と世界2位の時価総額企業に近づくほどの大復活を遂げたアップルであるが、1996
年頃の同社はサン・マイクロシステムズと合併交渉をしており、当時の交渉段階での時価総額は4~50
億ドルと2010年12月現在の2900億ドル超に比べれば50分の1にすぎなかった。しかも、交渉相手だっ
たサンは今年2010年1月にオラクルに買収され現在は残っていない。このように、すさまじい盛者盛衰
を地で行っているのが21世紀におけるアメリカのベンチャー・エコノミーなのである。
 下図はインターネット業界をリードしていきた企業の株価である。     ヤフーは1996年4月に会社設立か
らわずか1年1ケ月でNASDAQにIPOを実現したが、その3年後の2000年初めには時価総額が1500億ド
ルにも達した。一方、グーグルは1998年に設立され、ロボット型検索エンジンに特化して事業を行っ
ていたが、グーグルは2000年6月にヤフーのサーチ・エンジンに採用されてその傘下で事業を展開して
いたように、当時はヤフーの下請け的な存在にすぎなかった。
 しかし、その後のヤフーは、グーグルやマイクロソフト等との競合によりネット内でのポ-タルと
しての閲覧シェアは次第に低下し、2008年には大幅な人員削減が断行され、マイクロソフトから買収
が提案された。提案は破断になったが、最近でも2010年10月に20%の人員削減が報道されるなど、業
績の停滞は続いている。当然、同社の時価総額は往時から大きく減少した200億ドル前後で一進一退で
ある。さらには、最近の2年で台頭してきたフェ-スブックがグーグルを脅かす存在となっている。
 このように、1990年代後半のサーチ・エンジン、2000年代前半のポータル、そして現在のソーシャ
ル・メディアへとインターネットの主流が移行する中で、巨大企業といえども旧来の構造から迅速に
脱皮を遂げないと買収の憂き目に遭うビジネスに進化している。



                                    Apple 時価総額
                           Google 時価総額
             Yahoo! 時価総額
                           (単位:億ドル)




■設問5
 設問5

   1. ベンチャービジネスにおいて、「功利心」とはどのような存在だろうか。
   2. ベンチャービジネスにおける「期待」について説明しなさい。
   3. ネットバブル崩壊によってどのような現象が起こっただろうか。
   4. 「破壊的イノベーション」とはどのようなものか。
   5. 破壊的イノベーションによって劇的に変化した製品(業界)を1つあげて、その変化を説
      明しなさい。




                           ~ 30 ~
Ⅱ.日本のベンチャービジネス
  日本のベンチャービジネス
(1)明治・大正時代
 独立経営者に率いられた新興企業は、   明治時代から数多く登場している。 良く知られているように、
三菱財閥の創始者岩崎弥太郎(1869年に三菱商会の前身である九十九商会創業)   、渋沢栄一による第一
国立銀行(1873年設立)の設立、ミキモト(ミキモト真珠)の御木本幸吉(1899年創業)  、阪急電鉄の
小林一三(1907年創業)、日立製作所の小林浪平(1908年創業)が代表的なケースである。近代産業が
勃興した明治時代にスタートした企業の多くは独立した起業家によるものであった。
 大正時代や昭和初期にも、現在の名だたる大企業を輩出している。パナソニック(1918年創業)    、マ
ツダ(1919年)
        、クボタ(1930年)、ブリヂストン(1931年)
                                、トヨタ自動車(1937年)などである。
たとえば、東証上場企業1,751社のうち、明治時代の設立会社は88社、大正時代は208社、昭和~第二
次大戦終戦前の設立が583社と、終戦前までに設立された会社が879社、全体の50%を占めている。


(2)昭和時代
 日本において急速に新しい企業が勃興したのは、第二次世界大戦直後である。当時は、①文字どお
り日本経済の焼跡からの再出発であり、   国民全体に新規巻き直しの気運が高まっていたこと。   ②財閥、
非財閥を問わず、戦前の大企業が戦災や財産没収によってほとんどゼロから出発し、新興企業が参入
するチャンスが大きい状況だったこと。   ③莫大な余剰労働力が生じた経済環境であり、   復員兵や学生、
荒廃した企業からのスピンアウト組など、むしろ独立して企業を起こしていく必要性が社会的に存在
したこと。という要因が時代背景にあった。実際、戦後から1950年末までの5年余りで、先の東証上場
企業のうちの27%にあたる481社が設立された。ソニー(1946年創業) 、積水化学工業(1947年)、パ
イオニア(1947年)、本田技研工業(1948年)
                        、オムロン(1948年)
                                   、ワコール(1949年)
                                              、村田製作所
(1950年)のような独立系の企業が続々と誕生している。


(3)三つの「ベンチャーブーム」
(1)第一次ベンチャーブーム(1970~73年)
  一般に「ベンチャーブーム」と呼ばれている戦後3回の時代をふりかえってみよう。
  第一次ブームは1970年から73年にかけて起こっている。当時設立され、現在公開企業まで成長して
いるような成功例をあげると、   アデランス (1969年創業、以下同じ) 大塚家具
                                     、    (69年) ぴあ
                                               、  (70年)
                                                      、
モスフードサービス(72年) 、コナミ(73年) 、コナカ(73年)がある。第一次ベンチャーブーム当時
の開業率をみると、7%と現在の4%台と比べ高く、創業は活発であった。
  ベンチャー・ファイナンスにおいても、1972年以降大手中堅の銀行や証券が関連会社としてベンチ
ャーキャピタルを設立した。日本初の民間ベンチャーキャピタルは、1972年設立の「京都エンタープ
ライズ・デベロップメント」  (KED)であり、京都の財界が中心になって72年11月に発足した。また同
年11月に、日本長期信用銀行、富士銀行、大和銀行、第一勧業銀行、大和証券、伊藤忠商事などによ
る大企業連合型で「日本エンタープライズ・ディベロップメント」      (現在は安田企業投資)が設立され
た。そのほか、住友グループが「日本ベンチャーキャピタル」を72年12月に設立し、また73年4月に
は野村証券、三和銀行、日本生命、東洋信託銀行などにより「日本合同ファイナンス」        (現在のジャフ
コ)が発足するなど、70年代前半に現在の大手ベンチャーキャピタルの過半数が設立されている。
  当時は高度経済成長期の頂点であり、列島改造ブーム下で各企業とも投資意欲が高かったことや、
好景気下で脱サラによるサラリーマンの独立開業が増加したことも一因である。ベンチャービジネス
という和製英語が生まれたのも当時であり、外食、流通、サービスの分野で新興企業が続々登場した。
  しかし、1973年の第一次石油ショックにより開業ブームは急速に消え去り、日本沈没の文句に代表
されるような悲観的な経済観とリセッションのもとで、日本企業は守りの時代が数年にわたり続いた。

(2)第二次ベンチャーブーム(1982~86年)
  第二次ブームは1982年から86年にかけて起こっている。二度の石油ショックを経て、省エネルギー
や軽薄短小を合い言葉に日本産業にイノベーションを求める気運が高まったことが背景にある。当時、
アメリカでも70年代末から80年代前半にかけてベンチャーブームが起こっており、  『シリコンバレー』
という言葉が日本に伝わり広がったのもこの頃である。また、ファイナンスの面でも、証券市場の店
頭登録市場において1983年に公開基準が緩和されるなどの規制緩和が実施された。



                         ~ 31 ~
こうした動きの中で、エレクトロニクス、新素材、バイオ等の分野でベンチャーが輩出されていっ
た。当時設立され、現在公開企業まで成長している例は、ソフトバンク(1981年創業)       、カプコン(83
年)、アイフルホームテクノロジー(84年)  、スクウェア(86年、現在のスクウェア・エニックス)    、イ
マジニア(86年)がある。
  ベンチャーキャピタルの設立は、1982年以降再び活発化した。米国におけるNASDAQ株式市場やベ
ンチャーキャピタル投資の活況、   および日本における店頭公開市場の改革論議を背景に、      大手の銀行、
証券、事業会社が系列会社としてベンチャーキャピタルを設立した。1982年には5社、83年は10社、
84年には現在までの最高件数である22社が設立されている。
  しかし、1985年のプラザ合意後に円高不況が到来し、86年にはベンチャー企業の雄と呼ばれた急成
長企業においても大型の倒産が起こった。三和機材(86年3月倒産、負債総額100億円)      、大日産業(86
年4月、300億円) 勧業電気機器(86年7月、120億円)
          、                   、ミロク経理(86年8月、500億円)などである。
このベンチャー倒産を機に、82年以降の第二次ベンチャーブームは鎮静化した。

(3)第三次ベンチャーブーム(1996年~2001年)
                                        「第三次ベンチャ
  1994年以降のベンチャー企業への関心の盛り上がりは、戦後3度目の波にあたり、
ーブーム」と呼ばれている。日本経済の停滞が長期化する中で各界の問題意識は大きく、ベンチャー
支援に積極的な意見が大企業や、政府・自治体、大学など幅広い層に広がり、変革の原動力としてベ
ンチャーに強い期待感が寄せられている。
  このような第三次ベンチャーブームが過去2回のブームに比べ裾野が広く持続性が感じられた。そ
れは、以下のようなファクターがあった。
①長期化する構造問題
 経済成長停滞の長期化、エレクトロニクスや情報通信等の技術革新の拡大の中で、ベンチャー的な
新しいビジネスシステムで経済社会を変革すべきという認識が、社会全般に定着していること。低成
長と産業空洞化が現実に長期化する中で、日本の安定的な雇用制度は機能が低下している。現在の大
企業では、雇用を牽引する企業群が少なく、ベンチャーの輩出源となるべき中小企業も、不況や高齢
化にともなう後継者難なども加わって廃業率が上昇している。
②世界的な潮流の変化
 最近のベンチャーブームは世界的な現象である。興の中小企業が米国経済をかってない勢いで牽引
しているほか、台湾やシンガポール、インドでは米国で教育を受けたインテリ層や富裕家族が中心と
なって起こした新興企業が株式公開ブームを生み出しており、またミニ・シリコンバレーと呼ばれる
ハイテク集積地域がイスラエルやアイルランドにも誕生している。こうした新興企業の組織運営や彼
らの生み出す技術や発想に、各層から期待が強まっている。
③大企業の構造打開運動、金融機関の積極化
 構造問題の打開に苦しむ大企業では、ベンチャーやベンチャー的な経営システムへの注目度が高ま
っている。金融機関も、成長企業との金融取引拡大に一段と注力するようになっている。
④地域、大学等の打開策
 地方の自治体・経済団体や、大学、研究機関でも、ベンチャー育成を地域経済や産学協同停滞の打
開策とみて関心が高まっている。
 このような関心の盛り上がりが、中小企業経営者や起業家候補者の起業意欲も高め、過去2回のベン
チャーブームよりも全国的に広がりがみられた。府・自治体のベンチャー振興策や、新規事業法・中
小創造法の認定ベンチャーの増加、民間ベンチャーキャピタルの設立、地方ベンチャー財団の発足、
金融機関のベンチャー融資制度の新設拡充などが実施された。

                      日本の新規株式公開(IPO)社数の推移  
            90年   91年 92年 93年 94年 95年 96年 97年 98年 99年
            134   128 27   90 150 187 167 144 86 107
            00年   01年 02年 03年 04年 05年 06年 07年 08年 09年 10年
            203   169 124 121 175 158 188 121 49   19  22


(4)増加する株式公開企業
  以上のようなベンチャー支援運動の成果もあってか、 株式の新規公開  (IPO、Initial Public Offering、
35ページ・参考-2)を行う企業の数も次第に増加していった。1996年の新規株式公開会社数は167社と


                               ~ 32 ~
3年連続で100社を超え、1995年7月に新設された店頭特則市場にも初めて2社が新規登録した。しかし
ながら、ベンチャーが成長して株式を公開するようになったとはまだ言えず、既に1990年代初頭に売
上が数十億円に到達していたような中堅企業が、第三次ベンチャーブームの中で自社の株式公開の可
能性に目覚めたケースがかなり多かった。


(4)ベンチャービジネスの分布
(1)日本の企業分布
  次に、そもそも日本の企業がどのような分布になっているのか。以下は日本の企業構造を簡単に整
理したものである。
①法人企業の形態
 法人企業には、株式会社・合名会社・合資会社・合同会社・相互会社・外国会社という「会社」と、
協業組合、企業組合・医療法人・公益法人・公共法人等のそれ以外の法人がある。法人企業の他に、
個人企業がある。なお、過去には有限会社の設立が認められていたが、2005年(平成17年)制定の新
会社法で有限会社は株式会社に統合されている。
②法人企業の数
 国内の法人企業数を把握している公式統計は、国税庁の「税務統計から見た法人企業の実態」調査
が代表的なものである。これによると、日本の法人企業数は、2008年度時点で株式会社が250万7,661
社、合名会社が4,614社、合資会社が25,173社、合同会社が11,831社、その他54,086社と、合計で約260
万社が存在しており、そのうちの96%は株式会社である。

(2)ベンチャービジネスはどれくらいの数があるのか?
  では、この中でどれだけベンチャービジネスがあるのか。あるいは、米国ではどのくらいベンチャ
ーの数が増えているのだろうか。この問いには誰も明確な答えを出すことはできない。前章で述べた
                                            。
ように、ベンチャービジネスとは明確な定義を持った言葉ではない。極端な話、経営陣が我々はベン
チャーだと公言すれば、それがベンチャー企業だともいえる。
  とはいっても、正確に把握できないなら、別の手段をみつけられないか。実際、日本においてベン
チャーのような新興企業に関する情報や研究の蓄積は少なく、ベンチャーの活動を理解することは難
しい。経済学、経営学の分野では、起業家セクターの研究は始まったばかりであり、論理的な検証を
踏まえた研究蓄積はきわめて少ないのが実態である。
  部分的だが、新規事業法と中小創造法の認定企業は、認定条件からしてベンチャー企業と考えて良
いだろう。新規事業法の認定件数は、現在1997年7月末時点で101件の認定実績があり、中小創造法は
同年6月末現在で2,368件の実績がある。新規事業法の認定企業は、認定基準が通産省所管業種が認定
基準であることもあって、大部分が製造業、エレクトロニクス、情報処理の業種で、所管外の通信や
医療・バイオのような企業は含まれていない。中小創造法は各都道府県によって認定され、認定基準
も新規事業法より緩やかであるため、認定企業は新規事業法よりもはるかに多い。95年末には全国で
448件であったものが、 96年には約1200件と一挙に認定件数が3倍近くまで増加し、現在に至っている。

                            (引用)小野正人「ベンチャー   起業と投資の実際知識」
                                                       )
■設問6
 設問6

    1. 第二次大戦直後に起業家を多く輩出した背景は何か。
    2. 日本においてベンチャーブームは何度起こったか。
    3. 第一次ベンチャーブームは、どのような時期と時代背景で起こったか。
    4. 第二次ベンチャーブームは、どのような時期と時代背景で起こったか。
    5. 日本において、法人企業の数はおよそどれだけあるか。そのうち株式会社はどの位の割
       合を占めるか。




                           ~ 33 ~
Ⅲ.ベンチャービジネスの事例(日本)
  ベンチャービジネスの事例 日本)
            事例(
(1)どのようなベンチャーがあるか
①創業年代別にみたベンチャービジネス
 ベンチャービジネスと呼ばれる企業は、日本に数えきれないほど存在する。それらのほとんどは売
上が10億円以下で株式を公開しておらず、一般の人々はあまり名前を知らない企業のグループである。
業績が伸びて株式公開を果たすような企業になると、名前が世の中に拡がってきて有名な企業となっ
てくる。だから有名なベンチャービジネスというのは元ベンチャービジネスと呼ぶのが適当だろう。


                      年代別にみたベンチャービジネスの創業
        1945 - 49 年   創業   IPO       195 0 - 54 年        創業 IPO        1955 - 59 年       創業 IPO
 ソニー                  46   58    村田製作所                   50   63   理想科学工業                55   89
 パイオニア                47   61    ミサワホーム                  51   71   ダイエー                  57   71
 オムロン                 48   62    しまむら                    53   89   カシオ計算機                57   70
 すかいらーく               48   82    浜松ホトニクス                 53   96   吉野家                   58   90
 ホンダ                  48   57    堀場製作所                   53   71   京セラ                   59   71
 ワコール                 49   64    マツモトキヨシ                 54   99

      1960 - 64 年                    196 5 - 69 年                      1970 - 74 年
 セガ・エンタープライゼズ         60   88    リクルート                   64   92   やまや                   70   94
 シダックス                60   96    ユニデン                    66   86   THK                   71   89
 ユニ・チャーム              61   76    伊藤園                     66   92   モスフードサービス             72   85
 セコム                  62   74    はせがわ                    66   88   ぴあ                    72
 ファーストリテイリング(ユニクロ)    63   94    ヨドバシカメラ                 67        スターツ                  72   89
 青山商事                 64   87    武富士                     68   96   コナミ                   73   95
                                 CSK                     68   80   第一興商                  73   95
                                 日本デジタル研究所               68   89   コナカ                   73   96
                                 大塚家具                    69   80   ハドソン                  73
                                 ユニヘアー(アデランス)            69   85 ケーズホールディングス(ケーズデンキ)     73   88
                                                                   キーエンス                 74   87
                                                                   日本電産                  77   88

      1975 - 79 年                      198 0 - 84 年                     1985 - 89 年
 スターツコーポレーション         72   89    エニックス(現スクウェア・エニックス)     80   91   スクウェア(現スクウェア・エニックス)   86   94
 サイゼリヤ                73   98    フォーバル                   80   88   イマジニア                 86   96
 エイベックス               73   99    エイチ・アイ・エス               80   95   ベンチャーリンク              86   95
 ヤオコー                 74   88    ビッグカメラ                  80   06   アプリックス                86   03
 マツモトキヨシ              75   90    ファンケル                   81   98   プラザクリエイト              88   94
 メルコ                  75   91    ジャストシステム                81   97   光通信                   88   96
 シャルレ                 75   90    ソフトバンク                  81   94   サンマルク                 89   95
 松屋フーズ                75   90    ソフマップ                   82   01
 パソナ                  76   07    ベルシステムズ24               82   94
 ラオックス                76   85    ケミプロ化成                  82   95
 イタリヤード               76   95    ゼンショー(すき家)              82   97
 アオキインターナショナル         76   87    カプコン                    83   90
 ドトールコーヒー             76   93    ハイディ日高 (日高屋)            83   96
 アスキー                 77   89    アイフルホームテクノロジー           84   91
 ヤマダ電機                78   00    オークネット                  84   91
 ソリトンシステムズ            79   07
      1990 - 94 年                    199 5 - 99 年                      2000 - 04 年
 NOVA                 90   96    ACCESS                  96   01   ミクシィ                  00   06
 アーバン・コーポレーション        90   96    ライブドア                   96   00   カカクコム                 00   03
 グロービス                92         インターネット総合研究所            96   99   テラ                    04   09
 ザインエレクトロニクス          92   01    スカイマーク (スカイマークエアラインズ)   96   00   グリー                   04   08
 サワコー・コーポレーション        90   95    サイボウズ                   97   00
 デジタルガレージ             95   00    楽天                      97   00
 ヒマラヤ                 91   96    一休                      98   05
                                 サイバーエージェント              98   00
                                 ディー・エヌ・エー               99   05
                                 ガイアックス                  99   05
                                 アンジェス                   99   02
 (注)各社の社名の右横の数字は創業年(西暦)、その右は株式公開年(西暦)。




                                            ~ 34 ~
有名な元ベンチャービジネスをあげてみこう。そうした企業を知っておくのも学習の一つである。
創業者(起業家)が独力で会社を立ち上げ、株式市場に上場し、売上が5000億円、1兆円を超える堂々
とした大企業がある。ソニー、ホンダ、ワコール、堀場製作所、カシオ計算機といった大企業は、か
つてのベンチャービジネスである。一方で、創業してまだ20年経っていない楽天、ディー・エヌ・エ
ー、ミクシーといった株式上場企業は、現在も会社全体でリスクに挑戦し新機軸を打ち出す取り組み
にチャレンジしており、まだベンチャービジネスの特徴を残している。
 こうした元ベンチャービジネスの多くは、事業を立ち上げ、課題に挑戦して、業績を拡大し、現在
は大企業となり名が知られる存在になっている。忘れてはならないのは、同じ時代に立ち上げた企業
は多数あり、上記のような企業は成功して現存しているけれども、事業がうまくいかずに会社が破綻
したり他社に吸収された多数のベンチャービジネスがあったことである。今は会社が残っていないだ
けにその記録もほとんどが残されていないのである。

②高い成長率
                                           各社の売上高の推移  (単位:億円。連結決算企業は連結ベース)
 ベンチャービジネスから始まって大                                     ベンチャービジネス                                        大企業
企業まで成長した企業は、業績の成長性          年度
                                    ソフト      ユニ      ヤマダ しま
                                                             楽天               DeNA
                                                                                      ミク
                                                                                              ソニー      新日鉄 ダイエー
                                    バンク      クロ      電機  むら                           シィ
が他の大企業よりもはるかに高い。売上          90        386       52     279     644                            36,908   32,091   22,837
を拡大し、 店舗、 資産、従業員を増やし、       91        438       72     331     777                            39,287   32,296   25,010
                            92        516      143     363     894                            39,929   29,514   25,151
現在の地位まで伸びてきたのである。ど          93        641      250     467     998                            37,337   27,494   26,537
れだけの成長があったのかをみてみよ           94        968      333     621    1,140                           39,834   28,811   32,239

う(右表) 。                     95
                            96
                                     1,711
                                     3,597
                                               487
                                               600
                                                       879
                                                      1,265
                                                              1,286
                                                              1,450
                                                                                              45,926
                                                                                              56,631
                                                                                                       29,549
                                                                                                       30,613
                                                                                                                31,570
                                                                                                                31,461
 2009年度までの最近5年間の売上成長        97       5,133     750    1,620   1,551     0.3                   67,555   30,765   31,633

率をみると、ベンチャービジネスのグル          98       5,281     831    2,428   1,757     1.5                   67,946   27,594   30,320
                            99       4,232   1,111    3,322   2,047      6                    66,867   26,806   28,471
ープでは、  ソフトバンクが3.3倍、 ユニク     00       3,971   2,290    4,712   2,270     32      1.8           73,148   27,504   29,141

ロが2倍、楽天が6.5倍、ディー・エヌ・        01       4,053   4,186    5,609   2,545     68       6      0.7   75,783   25,814   24,989
                            02       4,068   3,442    7,938   2,770     99      10      1.4   74,736   27,493   21,975
エーは16.8倍、ミクシィは18.4倍である。     03       5,173   3,098    9,391   3,006    181      16       3    74,964   29,259   19,936
成長度の高さが実感できるだろう。一方          04       8,370   3,400   11,024   3,263    456      29       7    71,596   33,894   18,338
                            05      11,086   3,840   12,840   3,629   1,298     64      19    74,754   39,063   16,751
では、大企業であるソニーや新日鉄では          06      25,442   4,488   14,437   3,922   2,033    142      52    82,957   43,021   12,839
成長率が1倍とほとんど伸びていない。          07      27,761   5,252   17,678   4,120   2,139    297     101    88,714   48,270   11,960

経営再建中のダイエーでは0.5倍と半分         08
                            09
                                    26,730
                                    27,634
                                             5,865
                                             6,850
                                                     18,718
                                                     20,161
                                                              4,118
                                                              4,306
                                                                      2,499
                                                                      2,983
                                                                               376
                                                                               481
                                                                                       121
                                                                                       136
                                                                                              77,300
                                                                                              72,140
                                                                                                       47,698
                                                                                                       34,877
                                                                                                                10,409
                                                                                                                 9,768
に減っている。ソニーやダイエーは、か        (売上高成長率、倍)

つて第二次大戦後にスタートした元ベ         04~09年度    3.3      2.0     1.8      1.3     6.5    16.8    18.4      1.0      1.0      0.5
                          90~09年度   71.6     132.8   72.2      6.7     -       -       -        2.0      1.1      0.4
ンチャ-ビジネスである。

②スモールビジネスから成長した新興企業グループ
 第1部で説明したように、ベンチャービジネスとは「高い成長を目指してリスクに挑戦する企業」
であるが、そうでない企業群、すなわち、当初の会社は「スモールビジネス」と言われる従来型の中
小企業の形態で立ち上げられて、着実に業容を大きくする中で、ある段階から急成長をとげている企
業も多数存在する。これらをベンチャービジネスと呼ぶかは判断が分かれるところだが、「新興企業」
(emerging company)と呼ぶのが最適である。
 こうした新興企業は、自分達はベンチャービジネスとは呼ばないかもしれないが、もともとは創業
者が独力で会社を起こした会社か、同族会社の後継ぎ経営者が新機軸により会社を成長させた企業で
ある。その意味では、彼ら経営者は「起業家」である。
 このような起業家は全国津々浦々に存在し、その多くでは創業者が零細な中小企業として事業を立
ち上げ、拡大し、難しい状況で会社を存続させ、そしてある段階で事業が成長し、高い成長を続ける
ようになっている。こうした新興企業にはどのような会社があるかは、次節(2)のケースの中の企
業では、以下の会社がそのような例としてあげられる。
   ・マツモトキヨシ       ・ユニチャーム                                   ・ヤマダ電機
   ・しまむら          ・松屋フーズ                                    ・ハイデイ日高
 また、こうした新興企業は大きな雇用を生み出している。国内で積極的に新卒者の雇用を創出して
いるのは新興企業であることに注目すべきである。新卒採用予定数をみると、ヤマダ電機は約1600名
       、マツモトキヨシが約200名、しまむらが約50名(以上2011年度)の採用数であり、大企
(2009年度)
業と同規模以上の人材採用を行っており、大学生が卒業後にこうした新興企業に入社することも一般
的になっている。



                                 ~ 35 ~
③大学発ベンチャーのグループ
 近年は、大学の研究の成果を中心とした「大学発ベンチャー」という起業も段々と活発になってき
た。特に、国立大学の国立大学法人化と大学と企業の間の産学連携を強化する流れの中で、文部科学
省や経済産業省の振興政策もあって、大学内の優れた研究をベンチャービジネスに移転して、技術を
製品やサービスのかたちにするプロジェクトが増えている。
 2001年には経済産業省が「大学発ベンチャー1000社計画」(平沼プラン)を発表、大学発ベンチャー
の数を3年間で1000社設立する計画を打ち出した。2009年3月の経済産業省調査では活動している大学
発ベンチャーは1,809社存在するとしているが、そのうち創出母体となった大学は252校で、トップは
東京大学の125社、ついで筑波大学の76社である。設立された大学発ベンチャーは、理系研究とモノづ
くりを得意とする東大・阪大・京大などの旧帝国大学や、筑波研究学園都市にある筑波大学、早慶、
あるいは工業系大学から多くのベンチャー企業が生まれている。
 ただし、21世紀になって活発化した大学発ベンチャーは、順調に成長している企業は少ない。2010
年までに株式公開を実現した大学発ベンチャーは20社に留まっており、依然多くの大学発ベンチャー
では赤字が続いており、設立企業数も最近2年は減少している(下表)    。

                    大学発ベンチャーの年度別設立企業数    (経済産業省、H21年3月調査)
  年度 ~      H2   H3   H4   H5   H6   H7   H8   H9   H10 H11 H12 H13 H14 H15 H16 H17 H18 H19 H20

 設立
       54    1    7    8   14   13   15   18   35   50   79 126 146 181 213 247 223 197 128   54
 企業数




■設問7
 設問7

 1. 1950年代から1960年代に起業家が創業し、現在は大企業となっている会社を5社あげなさい。
 2. スモールビジネスからスタートして急成長を実現させた新興企業について、会社を3社あげな
    さい。
 3. 大学発ベンチャーとはどのような企業かについて簡単に説明しなさい。




                                (参考-2)株式の公開(I P O )
                                      株式の公開(
                                      株式

・会社は、株式を公開して株式市場で自由に売買する「公開企業  公開企業」と、株式市場では株を売買で
                               公開企業
 きない「未公開企業
     未公開企業」に分かれる。
     未公開企業
・公開企業となるには、一般の多くの投資家が株式を売買できるだけの充分な企業規模と体制に
 なる必要がある。ベンチャービジネスは創業時にはすべて未公開会社である。
・会社が株式市場(東京証券取引所等)に自社の株式を登録申請して受理されることを、株式公                 株式公
 開、もしくは株式上場
       株式上場という。英語では I P O (あいぴーおー、Initial Public Offering)と呼ぶ。
       株式上場
・会社が株式市場に自社の株式を登録申請して、市場で株式を売買できるようになると、企業は
 自社の株式発行によってさまざまの投資家から資金調達が可能となる。また、企業を立ち上げ
 た創業者や従業員達は、株式市場に公開することによって、自分達が保有している株式を売却
 する場ができることになる。
・したがって、起業家は、株式公開により自分が持つ会社の株式の価値(株価)が市場で取引さ
 れる上に保有株式の売却機会が得られるため、こうした経済的な魅力から、株式公開を目指し
 て頑張る刺激(インセンティブ)が起業家に生まれる。
・さらには、株式を公開すると、投資家が株式を買うべきかについて会社の価値を検討し、株価
 が株式市場の参加者によって決められることになる。一般的には、ある会社の株式が株式市場
 で取引できるようになると、未公開の時の株価より高い株価で取引される。




                                                ~ 36 ~
(2)ベンチャービジネスの事例
 この節では、日本国内のベンチャービジネスについて、第二次大戦以降に起業家が立ち上げて現在
は有名な大企業に成長している会社を中心に、創業の経緯から現在までを概括する。この事例紹介(ケ
ース)では、起業家が会社立ち上げる経緯と、事業が成長するきっかけと背景に焦点を当てており、
それ以外の情報は省いている事項が多いことに留意して読んでほしい。
  (注)第3部で述べる日本の起業家が立ち上げた企業(トヨタ自動車、パナソニック、ソニー、ホンダ、ダイ
     エー、リクルート、ソフトバンク、楽天など)はここでは省いている。



A. スモールビジネスから成長したグループ

【ケース ①】㈱マツモトキヨシ

 ドラッグストア・チェーンで国内トップの会社。主に関東地方
において小規模店舗を、全国の郊外においてロードサイド店舗を
主力に展開している。ドラッグストア事業が中心であり、売上高
の9割以上を占める。本社は千葉県松戸市。
 千葉県我孫子市出身の松本清(1909~1973年)が創業者。松本
は薬種商免許取得の後、1932年、23歳の時に「松本薬舗」を開業
した。1954年、有限会社マツモトキヨシ薬店を設立。松本はその
後、県会議員を勤めた後、1969年に松戸市長に当選、無給での勤
務や「すぐやる課」の設置など住民密着行政の先鞭となる。松本清が逝去した後は、長男の松本和那
が同社社長に就任し、  1975年に有限会社マツモトキヨシ薬店から株式会社マツモトキヨシに改組。1975
年当時の保有店舗数72店舗から、1981年には100店舗を達成した。
 1987年、上野アメ横店を開店し、都市型ドラッグストアの先駆けとなる。1990年8月、日本証券業
協会へ株式を店頭登録。1994年、郊外型ロードサイド店舗第1号店のドラッグストア柏加賀店開店。同
年、調剤薬局第1号店となる調剤薬局北松戸店開店。1995年、年間売上高がドラッグストア業界第1位
となる。1999年8月、東京証券取引所一部へ上場。2002年、マツモトキヨシポイントカードがスター
ト。2007年、持株会社の㈱マツモトキヨシホールディングスを設立し、㈱マツモトキヨシは同社の完
全子会社となる。2009年、大手コンビニエンスストアのローソンと業務提携。2011年1月末現在のグル
ープ店舗数は692。売上高は連結3,930億円、連結従業員数5,137名(2010年3月期)。



【ケース ②】㈱ヤマダ電機: 家電量販店日本一

 1973年、日本ビクターを退社した宮崎県出身の山田昇(1943年生)が
群馬県前橋市で個人商店「ヤマダ電化センター」を創業。創業時はパナ
ソニックの系列家電小売店(ナショナルショップ)であった。本社は群
馬県高崎市。
 群馬県を地盤とした郊外型家電量販チェーンとしてスタートし、      1980
年代からは北関東各県の同業である、コジマ(栃木県)     、ケーズデンキ
(茨城県)などと、互いの商圏への進出と価格競争で激しく競い合い規
模を拡大した。特に隣県に本社のあるコジマとの対抗心は非常に強く、
互いに近隣に対抗出店するケースもみられた。
 1999年、京都府八幡市に関西第1号店を開店し、全国展開に本腰を入れる。2000年9月、東京証券取
引所第一部に上場。上場以降、積極的に規模の拡大を指向しており、その手段の一つとして各地の地
元量販店のM&A(買収)を行っている。2002年に当時トップだったコジマを抜いて家電量販店で国内
ナンバーワンとなり、  2005年2月には、専門量販店としては日本で初めて売上高1兆円を達成している。
 現在の出店形態は、郊外型大規模店舗「テックランド」     、都市型小規模店舗「テックサイト」 、都市
型大規模店舗「LABI」の3形態で、47都道府県すべてに出店している。現在のグループ店舗数は1000
を越え、売上高は2兆161億円、従業員数は12,235人(2010年3月期、連結)の業容であり、日本の家
電販売額トップの小売店となっている。
 一方、消費者側や従業員の満足度は高くない企業でもある。日経ビジネス2008年7月号の消費者満足
度ランキングで業界16社中の最下位と報道されたことに対して、ヤマダ電機は発行元の日経BP社を提
訴する事態が起こっている。


                          ~ 37 ~
【ケース ③】㈱しまむら: 埼玉の雄

 郊外を中心に多数の店舗を持つ衣料品チェーンストアを展開する会社で、
普段着などの実用衣料を安価で販売し、ファストファッションのブランドと
して認知されている。本社は埼玉県さいたま市北区。
 1953年、埼玉県小川町において地元出身の島村恒俊(1936年生)が「島村
呉服店」を設立。商品回転率をもとに品揃えを考えるべきと考え、セルフサ
ービスによる販売手法を展開し、既製品、婦人ブラウスから寝具まで総合的
な品揃えの店となった。
 将来のチェーンストア時代を先読み、小川町に近いベッドタウンの埼玉県
東松山市へ進出し、  1961年に「しまむら」チェーン1号店を出店する。その後、
東松山店でのノウハウを生かし、鴻巣店(2号店)や小川町前店(3号店)をオープンして成功するな
ど、次第に店舗数に拡大していくことになった。
 日用衣料のユーザーが多く居住する都市部近郊地域への集中店舗展開と、     1店舗あたりの売場を1000
~1300m2が最適規模を定め、知名度の向上と運営の効率化が進んで業績が向上していった。また、こ
うした業容拡大により、同社専売品やプライベートブランドで安価な製品仕入れを実現し、2010年2
月現在で「ファッションセンターしまむら」は全都道府県に1,162店舗、売上高は4,296億円(2010年2
月期、連結)まで成長している。
 しまむらのブランドとしての地位は全国的に定着し、     しまむらの洋服を着る10代〜20代の女性を「し
まラー」とまでメディアで呼ばれるほどになっている。

                                               ㈱ヤマダ電機と㈱しまむら 連結売上高の推移                                (億円)
                                                                                                                               20,161
                                                                                                                                        7,000
   20,000
                                                                                                                                        6,000
                                       ヤマダ電機売上高(億円、目盛左)
                                                                                                                                        5,000
   15,000                                                                                                                      4,306
                                       しまむら売上高(億円、目盛右)
                                                                                                  11,024                                4,000

   10,000
                                                                                                  3,006                                 3,000


                                                                                                                                        2,000
                                                                                5,609
    5,000                              1,140

            530                                     1,265
                                                                                                                                        1,000
                                 467
       0    209                                                                                                                         0
            90    91   92   93   94     95     96    97     98   99   00   01    02     03   04     05     06   07   08   09    10




【ケース ④】㈱松屋フーズ: 吉野家を追う

 牛丼などを販売する飲食店チェーン「松屋」を展開している企
業。本社は東京都武蔵野市。
 創業者の瓦葺利夫(かわらぶき・としお、1941年生)が早稲田大
学第一商学部卒業直後の1966年に東京都練馬区羽沢の住宅街に
「中華飯店 松屋」を開業したのが始まり。中華の店はなかなか軌
道に乗らず、当時瓦葺が牛丼の吉野家の味に感銘を受けたことや
「ぶっかけ」という牛めしに衝撃を受けたことにより、瓦葺が研
究を重ねて独自の味を完成させ、1968年6月に練馬区の江古田に
牛めし・焼肉定食店として「松屋」1号店をオープンした。 当時は、
築地で営業していた吉野家が新橋に店を出す際に吉野家に入社す
るよう誘ったが、瓦葺を断ったというエピソードもある。
 同業他社と比較して、牛めし以外のカレーライスや定食の比率
が高いのが特徴である。これはチェーンがスタートした当時の拠
点でった江古田の立地から考えて、昼間の時間帯は大学の学生向
けの牛めし、夕方以降は独身サラリーマン層向けに定食とカレー


                                                                  ~ 38 ~
が必要と考え、  「牛めし」「定食」「カレー」の三本柱でメニューを構成することにしたもので、その後
も現在までこうした多種類のメニユー構成が続いている。芸能人の中にも、松屋ファンが多く、番組
のトークで松屋の牛めしが良く出てくる。い。なお、店入り口の近くにある自動販売機で食券を購入
するシステムを採用している。
  1975年に個人事業から有限会社に移行。1990年10月、店頭市場に登録。2000年に300店舗出店達成。
2004年に中国青島に進出した。同社は、2010年現在は店舗数が800店を越え、売上高は624億円(2010
年3月期、連結)である。



【ケース ④】㈱ハイデイ日高: 日本一のラーメンチェーン

  390円の中華そばを代表メニューとする低価格ラーメン
チェーン「中華食堂日高屋」を展開する企業。本社は埼玉
県さいたま市。
  埼玉県日高市出身の神田正  (1941年生)が中学校卒業後、
本田技研などに勤務の後、ラーメン店従業員として働く。
1973年、神田は32歳の頃に独立し、大宮市に5坪のラーメ
ン店「来来軒」をオープン。1975年、神田は会社員が昼食
を外でとるケースが増えた事に気づき、またファミリーレ
ストランチェーンの市場規模が拡大した事からラーメン店
でも同様の多店舗ビジネスを展開しようと考える。1978年
に個人事業から有限会社日高商事に移行し、低価格を売り
物とする「中華食堂日高屋」を駅前立地により展開した。
  1994年、東京都新宿区に山手線沿線第1号となる新宿歌舞伎町店を出店。1999年9月、日本証券業協
会に店頭登録。2002年、100店舗を達成。2004年、埼玉県行田市にセントラルキッチン行田工場を開
設。2008年、200店舗を達成した。
  店舗の立地は、都市部の駅前を中心とした方針を採用している。全店舗で使用する食材を、機械化
された行田工場で一元的に製造し、低コストの食材供給を可能にした上で、価格破壊的ともいえる300
円台のメニユーを多数そろえ、   「中華料理の安売り」  を実現している。その戦略は過去に「餃子の王将」
が展開していたが、ハイデイ日高はこれを首都圏で確実に実現したところに評価がある。同社のメニ
ューは、低価格なだけではなく、飽きられにくいシンプルなものにし、さまざまな客層が継続して来
店するようにしている。
  このような経営展開が奏功し、現在の同社の売上高は226億円(2010年2月期)と、全国一のラーメ
ンチェーンに成長した。




■設問8
 設問8

    1. 本節で解説した「スモールビジネスから高成長をとげた新興企業のグループ」には、ど
       のような特徴があるか。自分の考えを簡単に述べなさい。
    2. また、これらのグループは、どのような時代背景を活用して成長したと考えるか。2つの
       時代背景をあげなさい。
    3. 以上で取り上げた4社のうち1社を取り上げ、自分自身の視点から、会社としての強さ・長
       所、および会社の問題点・課題をあげなさい。




                          ~ 39 ~
B. 新機軸を作りだしたグループ
【 ケース ⑥】ユニ・チャーム㈱:女性進出の隠れた役割
  紙おむつ、 生理用品などの衛
生用品の大手メーカー。  紙おむ
つではシェア日本一。  本社は東
京都港区。
  愛媛県川之江市 (現四国中央
市)出身の高原慶一朗(1931
年生) 大阪市立大学商学部
     は、
を卒業後、関西紙業に入社。
1957年、父親の経営する国光
製紙に移り専務に就任。その後、1961年に自ら大成化工㈱を設立し建材の製造販売を開始。創業当時
は建材製造の会社であった。
  1963年、大成化工で生理用ナプキンの製造販売を開始し、この生理用品が現在のユニ・チャームの
基礎を築いた。当時、高原がアメリカ視察旅行をしたときに、生理用品が他の商品と同じように陳列
され、恥ずかしそうに振る舞うことなく女性が購入する姿に衝撃を受け、日本でも同様な女性専用用
品が成長すると確信し、家業である製紙業の製造技術を活かして生理用品製造への進出を決意したと
高原は言っている。また、高原が社内で生理用品の開発を発表した時は、社員が猛反発し、退職者が
続出したという。
  1974年、ユニ・チャーム㈱に社名変更、同年にタンポンの製造販売を開始する。1976年、薄型ナプ
キンの「チャームナップミニ」を発売し、テレビCMが好評でヒット商品となる。同年、東京証券取引
所市場第二部に株式上場。1984年、 台湾に合弁会社を設立。1992年、はかせるオムツ   「ムーニーマン」
を発売し、テレビCMで話題になりヒットした。2006年に本社を東京都へ移転した。
  現在の同社は、連結売上高3,568億円、連結従業員数7,086名(2010年3月期)の企業にまで成長して
いる。ユニチャームは、過去は古い価値観から表立って積極的に製造販売していなかった生理用品に
ついて高品質の製品開発を進め、また一般女性に堂々と購入してもらうマーケティングを推進した。
同社は、日本の生理用品を世界一の品質で普通に使われる日用品まで高め、また消費者や一般世間に
対する意識変革は女性の社会進出を支える脇役となった。タブーや偏見を打ち破るという観点からみ
れば、同社が実現した新しい機軸は歴史的なものといえる。



【ケース ⑦】㈱パソナグループ: 人材派遣の先鞭をつける

  日本における人材派遣サービスの
先駆けとなった企業である。本社は
東京都千代田区。
  兵庫県神戸市出身の南部靖之
(1952年生)が関西大学在学中に、
                 「家
庭の主婦の再就職を応援したい」と
いう思いで卒業直前の1976年2月、 大
阪市北区に人材派遣会社を主業務と
する㈱テンポラリーセンターを設立。当時、オイルショックの影響もあり、各企業ともに経営縮小を
余儀なくされており、南部の派遣ビジネスは企業から歓迎され、事業は急成長を遂げる。1986年7月、
労働者派遣法の施行により、一般労働者派遣事業許可を取得。1993年、社名を㈱パソナに変更。1999
年、本社を東京都千代田区に移転。2001年12月、大阪証券取引所のナスダック・ジャパン市場(現 ヘ
ラクレス)に株式を上場した。
  新卒派遣を始めたのはパソナが元祖である。最初の頃は面接試験や筆記試験を選抜した卒業前の学
生に何万円の学費を先に払わせビジネスマナー講座やOA講座を受けさせたために、一部の大学の就職
課からは問題企業の扱いをされたこともある。
  現在は、グループ各社を㈱パソナグループに統合し、同社は、アデコ、スタッフサービス、リクル
ートスタッフィング、マンパワー・ジャパンと並んで、人材派遣業では国内ではリーディングカンパ
ニーの一つとなっている。  現在のパソナグループは、連結売上高1,835億円、連結従業員数3,925名(2010
年5月期)である。



                          ~ 40 ~
【ケース ⑧】㈱ファンケル: 無添加化粧品の通販

 化粧品・健康食品の通信販売を主力とするメーカー。本社は
神奈川県横浜市。
 三重県出身の池森賢治(1937年生)が、産業能率短期大学を
中退後、ガス会社などを経てコンビニエンスストアを経営する
がうまくいかなかった。
 創業のきっかけは、池森の夫人の「化粧品アレルギー」であ
った。夫人との会話で池森は問題意識を持ちはじめ、皮膚科に
駆け込む女性の7割は化粧品が原因の接触性皮膚炎と医者から
聞き出し、また化粧品メーカーの知人からは化粧品の品質を維
持するために防腐剤・殺菌剤・酸化防止剤を必要悪として入れ
ているという情報を得た。池森は化粧品に含まれる防腐剤と肌
障害の関係に着目した。当時は、化粧品によって引き起こされ
る肌トラブルが社会問題になっており、こうした検討から池森は、ビジネスのチャンスありと考え、
化粧品業界で初めての「無添加化粧品」事業を企てた。
 1980年、池森は「ファンケル化粧品」を創業し、無添加化粧品の通信販売を開始した。1981年、個
人事業として営業していたファンケル化粧品から会社組織に移し、㈱ファンケルを設立した。池森は
専門家に「香りも無く、ちっぽけな薬みたいな化粧品が売れるはずがない」と一笑に付されたという
が、化粧品には添加物が入っていることが常識だった当時、    「一週間使い切り」のアンプル瓶に入った
ファンケルの化粧品は、肌トラブルに悩む女性の支持を受けてファンケルの売上は拡大した。この結
果、1990年、1992年には日経流通新聞において通販企業・顧客サービス度の第1位を獲得している。
 創業以来、無添加にこだわりつづけ、   「無添加スキンケア」「無添加クリアチューン」「無添加ベー
                                、            、
シックライン」を主力製品として展開した。バブル経済の後、売上が伸び悩んだ時にも、      「顧客が必要
な数だけ売る」コンセプトに立ち返り、購入金額を大きくするためのまとめ買いサービスを止め、商
品の1本売りのような小口化を断行。1997年には、返品を期限なしで受け付ける「返品・交換の無期
限保証」を始めた。スタートした当時は社内で反対が強かったものの、結果的に新規顧客の増加と定
着率のアップにつながった。
 さらに、1994年、健康食品がまだ高価だった当時、ファンケルは高品質・低価格をセールスポイン
トとしたサプリメントの通信販売を開始し、健康食品を一気に身近なものにした。1998年11月、日本
証券業協会に株式を店頭公開。1999年12月、東証一部に上場した。
 現在の同社は、連結売上高995億円、連結従業員数1,328名(2010年3月期)に成長している。無添加
化粧品を通信販売で市場に広げ、またサプリメント健康食品を日本国内の消費者に認知させたことは、
ファンケルによるところが大きいといえる。



【ケース ⑨】アスクル㈱: 親会社を超えた新規事業

 大手事務用品メーカーであるプラス㈱の子会社で、 事務用品を
中心とする通信販売会社。インターネット・コマース(EC)の
成功事例として知られる。
 アスクルはプラス㈱の社内新規事業として生まれた。 同社の製
品を既存の流通経路とは別に直販するための社内プロジェクト
が起源である。1993年、プラス㈱の社内組織であるアスクル事
業部が、首都圏の事業所を対象にアスクル事業を開始した。
 インターネットが商用化された中で、アスクル事業部は1997
年3月にインターネットを利用した事務用品の受注を開始。1997
年5月、プラス㈱はアスクル事業部を分社化し、同社の子会社を
アスクル㈱と社名変更し、アスクル事業を営業譲渡した。
 アスクルは、それまでになかった新たな市場を開拓した。アス
クルのビジネスモデルは、文房具やOA機器などのオフィス用品の注文を、企業からインターネットや
電話・FAXで受け付け、原則翌日に届ける(=アスクル、明日来る)というものである。小規模な事
業所をターゲットにしたオフィス用品の小売りである。大企業の場合、出入りの業者の営業員が各部


                        ~ 41 ~
署を回って注文を取ったり、担当部署が各部の注文を取りまとめてくれる。しかし小規模な事業所の
場合、IT機器の普及でこまごまとした事務用品の必要品数が増えていたにもかかわらず、そのような
サービスを受けられず、文房具店に出向いて購入することを余儀なくされていた。国内の企業の大多
数は中堅・中小であり、客先に出向いて受注するコストは大きい一方で、全体マーケットは大きく、
通販方式で小口注文を拾えば莫大な販売額になることに気づいたことに、アスクルの先見性があった。
 アスクルのビジネスモデルは、単純な直販とは異なる。取り扱い製品を掲載したカタログの配布、
顧客からの注文受け付け、注文品の配送はアスクルが行い、アスクルが在庫を抱える。しかし、新規
顧客の開拓と料金の徴収はアスクルではなく、アスクルと提携したオフィス用品の小売店が行ってい
る。全滅するというイメージがあった町の文具店をアスクルの代理店として販売システムに取り込み、
メーカーと小売の共存共栄が図られている。
 2000年11月、アスクル㈱は、ジャスダック市場に株式を上場。現在ではアスクルの登録顧客数は200
万を超えている。現在のアスクルは、連結売上高1,889億円、連結従業員数769名(2010年5月期)
                                                 。分
社した親会社であるプラス㈱の単独売上高(約800億円)に比べれば倍以上の規模に成長している。


                     各社の連結売上高の推移   (億円・年度ベース)
        年度 1998   1999   2000   2001   2002   2003   2004   2005   2006   2007   2008   2009   2010

 アスクル       107    226    471    753    925 1,086 1,278 1,446 1,617 1,763 1,897 1,905 1,890

 パソナグループ                        1,080 1,338 1,356 1,570 1,792 2,038 2,312 2,369 2,187 1,835

 ユニチャーム    2,063 2,102 2,121 2,067 2,231 2,401 2,461 2,704 3,019 3,369 3,478 3,568




■設問9
 設問9

   1. ユニチャームが展開した新しい機軸とは何か。それは時代の中でどのような意義があっ
      たか。
   2. ファンケルが展開した新機軸とは何か。それは消費者にどのようなニーズがあったから
      か。
   3. アスクルは大企業の新規事業組織から始まったが、事業を展開する上で、アスクルおよ
      び親会社であるプラスにとっては、どのようなリスクがあったと考えるか。
   4.   新しい発想により事業を立ち上げる場合、常識や価値観はどのような障害をもたらす
        か。上の4社から一つの事例を抽出して述べなさい。
   5. 時代のニーズを取り入れて新しい事業を始める場合、企業において何が必要だろうか。
      自分自身が考える重要な点をその理由とともに論じなさい。




                                              ~ 42 ~
C. ハイテクベンチャー、ネットベンチャー

【ケース ⑩】ザインエレクトロニクス㈱

  日本を代表する半導体メーカーのベンチャー。液晶テレビ向けを中
心にディスクリート、ASICの設計、開発、供給を行っている。本社
は東京都千代田区。
  茨城県土浦市出身の飯塚哲哉(1947年生)が創業者。飯塚は、1971
年に東京大学工学部物理工学科卒業、    1975年に大学院博士後期課程修
了(工学博士)  。1975年、東芝へ入社し、半導体設計に携わる。東芝
時代にアメリカへ転勤し、    現地のヒューレット・パッカード社に出向。
そこでシリコンバレーの考え方に衝撃を受けたのが起業を考え始め
たきっかけという。   米国から帰国した1980年代半ばは日本の半導体黄
金時代であり、飯塚も東芝の仕事が面白いために独立しなかった。飯
塚は43歳の若さで同社の半導体技術研究所     ・開発部長に昇進したが、帰国後10年経ち起業を決意した。
1991年5月に前身となる㈱ザイン・マイクロシステム研究所を設立し、当初は東芝時代の技術とノウハ
ウを活かしたコンサルティングを中心にしていた。
  以下は、飯塚が起業当時を振り返った言である。
 起業して感じた点は、起業は会社で行き詰まったためだととらえる人が多かったことです。アメリカでは優秀な学生
 ほど起業する傾向がありますが、日本では大学卒業後、官庁や大企業への就職を優先するケースが未だに多いですよ
 ね。個人的には、そのような起業に対する認識というか風潮が、日本の低迷期につながったのではないかと考えてい
 ます。
  1992年、㈱ザイン・マイクロシステム研究所と三星電子㈱(韓国)との合弁により、東京都中央区
にザインエレクトロニクス㈱を設立。飯塚は、8年の間三星電子との合弁会社を経営したが、1997年に
合弁を解消した。合弁解消後は、ザインエレクトロニクスで、自社ブランドによる液晶ディスプレー
向けデジタル信号処理チップのサンプル出荷を開始した。同社は、工場を自前で持たずに、設計・企
画・開発に特化するファブレスメーカーに挑戦した。しかし、製品の開発受注は簡単には入らず、飯
塚は昼間は下請けの受注開発、夜に独自に新製品開発を行ったという。
  1998年、同社は、液晶ディスプレイ向けデジタル信号処理チップ (システムLSI)の量産出荷を始め、
半導体ファブレスメーカーのビジネスモデルが動き始めた。同社の製品技術が世の注目を集めはじめ、
2000年にはニュービジネス協議会 「ニュービジネス大賞」アントレプレナー大賞最優秀賞を受賞、   2001
年には「LSIデザイン・オブ・ザ・イヤー2001」のデバイス部門優秀賞を受賞した。2001年8月、ジャ
スダック市場へ株式を上場した。
  ファブレスメーカーの事業を開始して5年後の2002年度には年間売上高が100億円を越え、日本の半
導体ファブレスメーカーで数少ない成功例となったが、   その後2005年度には売上高が200億円を越えた
が、2007年以降の半導体不況による受注減少の打撃を受けて、2008年度は売上高が最盛期に比べて半
減し苦闘しているが、半導体景気の回復の中で復活の途上にある。
         (参考)「NHKプロフェッショナル 仕事の流儀-飯塚哲哉」(2006年8月24日22時放送)

                          ザインエレクトロニクス㈱ 業績の推移      (億円)

    年度 1996     1997   1998   1999   2000   2001    2002    2003   2004   2005   2006   2007   2008   2009
  売上高     1.9    0.3    3.6   20.9   46.9   66.2     120    131    156    218    212    140     97    120
  経常利益    0.4    0.1    0.1    1.3    9.0   10.9    16.7    13.9   22.4   26.7   14.4   15.2    7.6   20.0




【ケース ⑪】アンジェスMG㈱

 遺伝子医薬の開発を行う日本のバイオ製薬企業。大学発の創薬バイオベンチャーとして初めて株式
を上場。本社は大阪府茨木市の彩都バイオインキュベータ内にある。
 岡山県出身の森下竜一(1962年生)が創業者。森下は祖父母から医者という家系で育ったが、高校
時代はあまり医者になる気はなく、どちらかと言えば官僚を考えていたという。1987年に大阪大学医
学部を卒業、1991年同大医学部老年病講座大学院を修了。1991年に米国スタンフォード大学循環器科


                                                   ~ 43 ~
研究員として米国に滞在。1998年に帰国し阪大医学部助教授に就任した。アメリカ滞在時代に、アメ
リカの医学研究は患者に還元されて初めて成り立つというシンプルなシステムにあることが重要な原
則だと改めて感銘を受け、新薬の実現によって患者に還元しようとしない日本の医学界に問題意識を
持ったという。
 1999年、遺伝子治療薬などの機能解析を行う研究用試薬の研究開発を目的として、大阪府和泉市に
㈱メドジーンを設立、2000年にメドジーン・バイオサイエンス㈱に商号変更。2001年、アンジェスエ
ムジー㈱に商号変更。2002年 9月に東京証券取引所マザーズに上場。2004年3月、アンジェスMG㈱に
商号変更。2004年 9月、本社を大阪府茨木市に移転。
 同社は以下の3つのプロジェクトを事業の柱としている。①HGF遺伝子治
療薬(創薬プロジェクト。HGF遺伝子を患部に投与して血管の新生を促し、
末梢性血管疾患や虚血性心疾患の治療を行う)    、②NFκBデコイオリゴ(創
薬プロジェクト。    免疫反応を強める遺伝子のスイッチである転写因子NFκB
に対するデコイを投与して、アトピー性皮膚炎・関節リウマチなどの免疫炎
症性疾患の治療を行う) ③HVJエンベロープベクター
               、             (ベクターを活用し、
遺伝子治療薬への応用や薬剤吸収を促進してドラッグデリバリーシステム
のツールとして活用する)     。
 しかし、  2002年に株式を上場した後も大幅な赤字経営が続いている企業で
あり、売上増が見込めず巨額な研究費負担が重荷になっている。また同社の
HGF遺伝子治療薬は計画よりも遅延を繰り返し、2008年3月に厚労省に製造
販売の承認申請を行うが、2010年10月に認可は差し戻されている。

               アンジェスMG㈱の業績の推移      (連結、単位:億円)
       年度   1999   2000   2001   2002   2003    2004    2005   2006   2007   2008   2009   2010
     売上高     0.0    0.5   13.0   17.9   24.5    27.0    24.3   29.1   17.2    9.5    5.9    2.9
     経常利益    0.0    0.0    2.8   -5.6   -9.5 -15.6 -18.7 -11.4 -17.3 -25.4 -27.8 -19.1
     当期利益    0.0    0.0    1.5   -5.6   -9.8 -15.4 -19.1 -11.1 -17.3 -35.3 -29.2 -19.7




【ケース ⑫】㈱ミクシィ

  日本国内最大のソーシャル・ネットワーキン
グ・サービス (SNS)である「mixi」を運営する
企業。本社は東京都渋谷区。
  大阪府箕面市出身の笠原健治(1975年生)が
創業者。父親は大学教授、母親はピアニストの
家庭に育つ。
  1994年、大阪府立北野高校を卒業後、東京大
学文科二類に入学。   笠原は東大3年在学中の1997
年、大学の経営戦略のゼミが刺激となり、夏休
みに求人情報サイト「Find Job!」を開設したと
いう。この時期の時代背景を振り返ってみよう。
1995年にインターネットの商用化が始まり、
1996年にはアメリカではYahoo!が株式を公開し、インターネットブームが本格化した。日本でも第3
部で述べるように、元ライブドアの堀江貴文は1996年に前身のオン・ザ・エッジを設立し、楽天の三
木谷浩史は1997年に楽天の前身であるエムディーエムを設立した。こうしたネットベンチャー創業の
盛り上がりの時代に、笠原は大学生として身を置いていた。
  1999年、笠原は有限会社イー・マーキュリーを設立し、同年11月にインターネットオークションサ
イト「eHammmer」をオン・ザ・エッジ(堀江貴文が社長、ライブドアの前身)と共同で設立した。
2000年、イー・マーキュリーを株式会社化。eHammmerのオークション運営権を売却。2001年、笠原
は入学から7年が経て東京大学経済学部を卒業した。
  2004年2月、イー・マーキュリーは「mixi」サービスを開始した。サービス名の由来は、「mix」と
「i(人)  」を組み合わせた造語であるという。mixiは、既に入会している登録ユーザーから招待を受け

                                               ~ 44 ~
ないと利用登録ができない完全招待制を採用                       ミクシィ会員数会員数の
                                           ミクシィ会員数の推移(万人)
                           2,500
していた。各ユーザーの素性が明らかになり、
安心感のある居心地の良いコミュニティを維       2,000
持するという目的で採用したもの。2010年3月
より招待状無しでも参加できる登録制となっ       1,500
たが、 招待制も引き続き使用している。  メール
アドレスについてはPCのメールアドレスを持      1,000

っていないと登録できなかったが、2006年12
                             500
月より携帯電話のメールアドレスでも登録可
能となった。また当初は18歳未満の参加は禁          0
止していたが、2008年12月より15歳未満に引         05/1 06/1   07/1   08/1 09/1 10/1 11/1
き下げられた。
 2006年、㈱イー・マーキュリーの商号を㈱ミクシィに変更。2006年9月14日、東京証券取引所マザ
ーズに株式を上場した。上場前の2006年3月期決算の売上高は18.9億円であったが、上場直後の時価総
額(初値ベース)は2079億円となり、ミクシィは上場により64億円の資金を調達した。
 2007年5月、ユーザー数が1000万人を突破。2010年4月、ユーザー数が2000万人を突破。2010年9
月、mixiアプリのスマートフォン版を開始。中国・韓国のSNSとの業務提携を発表。現在は、連結売
上高136億円、連結従業員数318名(2010年3月期)である。現在の笠原社長は若干35歳である。

●各社の株価の推移
 この3社について株式上場後の株価をみたものが下図である。一見してわかるように、上場直後と現
在を比較すると3社とも株価は下がっている。もちろん、株式相場全体から株価をみる必要があるが、
日本国内の株価が停滞しているとはいえ、 ザインエレクトロニクスの株価は上場直後から2011年2月ま
でに21%下落し、同じくアンジェスMGは79%、ミクシィは71%下落している。こうしたベンチャー
ビジネスが株式を公開しても、業績や行動が伴わなければ、投資家の期待はしぼみ、株価が急速に下
落することを3社の株価は示している。

                                 株価の推移(株式分割調整後、単位:円)
     2,000,000

                               ミクシィ
                               ザインエレクトロニクス
     1,500,000
                               アンジェスMG



     1,000,000




      500,000




            0
                 02/1   03/1     04/1   05/1   06/1   07/1   08/1   09/1   10/1   11/1




■設問10
 設問10

     1. ハイテクベンチャーの創業者は、どこで起業するきっかけをつかむことが多いかを、上
        のケースの例から示しなさい。
     2. ベンチャービジネスの経営が順調にはいかないことを、上のケースの例から示しなさい。
     3. ミクシィ創業者の笠原が創業のきっかけをつかんだ時は、どのような時代環境だったか
        を述べなさい。




                                               ~ 45 ~
Ⅳ.ベンチャービジネスの事例(アメリカ)
  ベンチャービジネスの事例 アメリカ)
            事例(
1.全体観
(1)アメリカに企業はどれだけあるか
  アメリカには2千万社もの企業が存在している。企業を広義に考えて、セルフ・エンプロイドや副
業として行われているビジネスを含めた企業数をみてみよう。米国で企業といえば、①常勤従業員を
有する企業(corporation)、②組合、合資会社(partnership)、③個人事業主(proprietorship)の3
種類に分けられる。これらの企業数を内国歳入庁の納税申告(1991年)から集計すると、それぞれ437
万社、  165万社、1,463万社と合計で2,000万社強の企業が存在するが、   個人事業主が圧倒的多数である。
  フルタイムで雇用する従業員を1名以上持つ企業は、1995年時点で約600万社存在しているが、この
うち従業員が500名を超える大企業は1万4千社       (従業員を1名以上持つ企業の1.5%) 従業員数が100
                                                   で、
名未満の企業が519万社(同98.4%)と、企業数でみればほとんどを占めている。従業員数のシェアで
みると、従業員が500名を超える大企業の雇用者数は全体の47.3%、従業員数が100名未満の企業は
38.1%となる。

(2)セルフ・エンプロイドとSOHO
  このようなあまたの企業群のうち、ベンチャービジネスは中小企
業の中にある氷山の一角にすぎない。ともすればハイテクの目新し
いベンチャーが注目されるけれども、アメリカのビジネスはごく普
通の小企業が支えているのである。
  2千万を超えるアメリカ企業では、一家で家業として営んでいる
「パパママ・ストア」や「ファミリー・ビジネス」    、そして脱サラに
よって家庭にオフィスを構えているような企業が大多数を占めてい
る。常勤の従業員を雇っている企業は2千万社のうちの600万社で
あり、  残りのほとんどはいわゆる個人事業主  (自営)である。事実、
アメリカにはフルタイムで働くセルフ エンプロイド
                     ・      (個人事業主)
が約900万人、パートタイムのセルフ・エンプロイド(日本でいえ
ばサイドビジネス)が約600万人も存在する。将来は従業員を雇っ
て中小企業の仲間入りを期する「中小企業の候補群」が、このよう
なセルフ・エンプロイドであり、その数は常勤従業員を有する企業
の2.5倍も存在する。こうしたセルフ・エンプロイドは70年代末以降
現在まで一貫して増加している。
  また、セルフ・エンプロイドと重複する概念であるが、個人や少
数のグループで会社を作って自宅や小さなオフィスで事業を営むSOHO    (Small Office, Home Office)
も増加している。米民間調査機関によると、自営業・被雇用者等のホーム・オフィスを構える人口は
1994年には4,320万人に達し、最近5年間で7割近くも増加しているという。中でもテレコミューター
と呼ばれる「サラリーマンの在宅勤務」が急増している。

(3)高い開業率・廃業率
 アメリカの中小企業では、実に多くの新規参入と退出が繰り返されている。毎年アメリカの企業全
体の十数パーセントにあたる70~80万社の企業が設立されているけれども、その一方で新規設立件数
と同レベルの廃業が起こっている。この開業率十数%という数値は、日本の開業率5%の3倍にあた
る。つまり、アメリカの企業は多産多死の世界であり、 我々
が名前を聞くようなハイテクベンチャーや高成長企業はご
く一部にすぎない。

(4)株式を公開するハイテクベンチャーはごく一部
 実際、これら企業の中でベンチャーキャピタルから出資
を受けているような企業の割合は極めて低い。全米のベン
チャーキャピタルが投資するベンチャーは年間1,000社前
後、その中で新規に投資する会社は300社程度にすぎない。
また、このようなハイテクベンチャーでも、さらに高成長
を実現してIPOまで到達する企業は、沢山あるベンチャ
ービジネスの中でも実に少数である。


                              ~ 46 ~
2.ベンチャービジネスの事例
 アメリカのベンチャービジネスは、先にみた日本と同じように、ハイテクベンチャーやネットベン
チャーばかりではなく、スモールビジネスやセルフ・エンプロイド(個人事業主)が大多数である。
 世界118ケ国に3万店を持つマクドナルドであっても、1940年にマクドナルド兄弟がカリフォルニア
州でスピード・サービスのハンバーガー店を始めた時は兄弟の個人事業であった。世界最大のスーパ
ーマーケット・チェーンであるウォルマートも、創業者のサム・ウォルトンが1945年にアーカンソー
州ニューポートでベン・フランクリン雑貨店という個人商店を開いたことに始まる。
 ベンチャービジネスの多くは、個人事業やスモールビジネスからスタートするのである。一方で、
ハイテクノロジーやネットベンチャーの場合は、事業の成長性が他業種よりも高い一方でリスクも他
より大きく、また資金と優秀な専門人材を必要とする。このため、こうしたセクターでは起業家は、
他のスモールビジネスや個人事業よりも、  「組織的に」事業を立ち上げる。投資家、コンサルタント、
弁護士、会計士、大学等の助言と資金を活用して、高度で洗練された経営基盤(技術、人材、資金な
ど)を作り上げてから事業を開始することが多いのである。
 ここでは、スモールビジネスからスタートしたベンチャービジネスと、ハイテクベンチャーとネッ
トベンチャーの2つに分類して、アメリカの代表的な事例をみていこう。


A. スモールビジネスから成長した企業

【ケース ①】マクドナルド(McDonald's Corporation)

  ハンバーガーショプを118ケ国に約3万店を展開し、         外食
産業では世界最大の企業である。
  この世界有数のグローバル大企業をベンチャービジネ
スと言うと、奇異に感じるかもしれない。もともとはマク
ドナルドの創業者であるマクドナルド兄弟(モーリス・マ
クドナルド(1902-1971年)       、リチャード・マクドナルド
(1909-1998年) )が、1940年にカリフォルニア州サンバ
ーナーディノで、工場式のハンバーガー製造、スピーディ
ーなサービス、セルフサービス、という新しい仕組みによ
って、  個人経営のドライブイン・ストアを開始したことが
起源である(右下の写真)         。
  1954年、日用雑貨のセールスマンをしていたレイ・ク
ロック(1902-1984年)が、ミキサーを売りに兄弟の店に
やってきた時、     マクドナルドの仕組みについて興味を持っ
た。 マクドナルド兄弟の店はハンバーガーを作る時間も客
に販売するまでの時間も他店より圧倒的に速く、           多くの客
を次々とさばけることに感心したクロックは、           店をフラン
チャイズ形式にする商売を兄弟に勧めた。           兄弟はフランチ
ャイズで事業を拡げることには消極的であり、           結局クロッ
クが店の技術 ノウハウのフランチャイズ権とマクドナル
           ・
ド商標の権利を兄弟から買い取った。1955年、クロック
はMcDonald's Systems Inc.という会社を設立し、シカゴに直営1号店をオープンさせた。1960年には
社名をMcDonald's Corporationに変更した。
  クロックは、立ち上げたマクドナルドのチェーンを順調に拡大することができた。店の生産性だけ
ではなく、家族向けの外食、特に子供を対象に重視したことが1960年代の時代の流れに適応した。家
族向けのマーケティングのために、業界で先駆けてキャラクターとテレビCMを活用した。サーカスの
道化師をキャラクターに採用して「ロナルド・マクドナルド」という名前で売り出し、大ヒットした。
  当初、クロックとマクドナルド兄弟との契約は、兄弟が生産工程について責任を負い、クロックが
販売拡張の責任を負うことになっていたが、事業の拡大で裕福になった兄弟は、兄の引退も理由とな
って、  1961年に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡した。      クロックは長い眼で見れ
ばメリットがあると判断し、多くの投資者から出資金を集めてこれを支払った。
  以後、McDonald's Corporationはクロックのグループが所有し経営する会社となり、1971年に東京
銀座に第 1号店を開店するなど 、世界中にフランチャイズを展開して いる。現在のMcDonald's
Corporationは年間売上高が240億ドル(約2兆円)    、本社はイリノイ州オークブルック市にある。


                                ~ 47 ~
【ケース ②】ケンタッキー・フライドチキン(KFC Corporation)

 「ケンタッキー・フライドチキン」のブランドで、ファストフ
ードチェーン店を運営するアメリカ合衆国の企業である。フライ
ドチキンのファーストフード店を世界規模で展開し、世界で初め
てフランチャイズ・ビジネスを本格的に始めた企業である。
 創業者は、カーネル・サンダース(本名はハーランド・サンダ
ース、1890年~1980年)は、アメリカ・インディアナ州ヘンリー
ビルに生まれる。6歳の時に父親が亡くなり、幼い弟、妹の世話を
させられる。学校を7学年で中退して働き始め、15歳の時に母が
再婚した相手から暴力を振るわれ家出をした。16歳の時に年齢を
いつわって米軍に入り、一兵卒としてキューバで勤務していた。
彼の軍隊における経歴は一兵卒であり、彼のニックネームである
カーネル(大佐)にはなっていなかった。その後、サンダースは、
路面電車の車掌を皮切りに、軍隊、消防士、保険外交員、船の仕事、タイヤ売り、ガソリンスタンド
の店員など、様々な職業を渡り歩いた。
 サンダースは、40歳の時にケンタッキー州でガソリンスタンドの一角を借りて食堂コーナーを始め
る。店は繁盛し規模を拡大したが、1950年代に入って高速道路の開通で客の流れが変わり、店に客が
入らなくなる。とうとうサンダースは維持できなくなった店を手放し、負債を支払ったカーネルの手
元にはいくらも残らなかった。
 店を手放した当時、サンダースに残っていた財産はフライドチキンの調理法だけであった。65歳の
サンダースは、フライドチキンの調理法を教える代わりに、売れたチキン1羽につき5セントを受ける
という歩合制のフランチャイズ・ビジネスを始める。ワゴン車で各地を回る強行軍ながらビジネスは
成功し、73歳の時にはチェーンは600店を超えていた。
 高齢だった彼は、1964年にフランチャイズの権利を売却して第一線から退いたが、以後も会社の広
告塔として働いた。サンダースは「カーネル」の呼称を用い、南部らしい白髪の紳士の装いをセール
ス・プロモーションに利用した。同社は現在、世界に36,000のチェーン店を展開しており、年間売上
高5億2000万ドル、従業員数24,000名(2007年)の巨大企業となっている。



【ケース③】ウォルマート(Wal-Mart Stores, Inc.)

  ウォルマートは、世界最大のスーパーマーケッ
ト・チェーン。売上高が世界最大の企業でもある。
アーカンソー州ベントンヴィル市に本社を置く。
  創業者サム・ウォルトン(1918-1992年)は第二
次世界大戦直後に軍隊を除隊し、       1945年にアーカン
ソー州ニューポートに雑貨店を開いた。          1954年には
弟とディスカウントストアWalton'sを開き、地元を
中心に16の雑貨店を所有した。      ウォルトンの事業は
雑貨店経営に限られていたが、       1962年、  ディスカウ
ントストアである最初のウォルマート・ディスカウ
ント・シティを、アーカンソー州ロジャーズに開いた。
  1969年に個人事業から会社Wal-Mart Stores, Inc.へ移行した。1972年、ニ
ューヨーク証券取引所に株式を上場。1990年には全米最大の小売業になった。
1991年にメキシコに海外店舗第1号店を開店。1997年には従業員数が全米最
大となった。
  ウォルマートが急激に伸びたのは1960年代から70年代である。          同社は大型
店を地方の町の郊外に出店するという当時の流通業界では異端の経営方式を
採用し、また現在では小売業の潮流ともいえるドミナント方式(特定地域へ
の集中的な出店戦略)をいち早く導入するなど流通革命を先導し、物流、情
報を最大限生かした効率的な経営によって、全米最大の小売業となった。
  ウォルマートは”Every Day, Low Price”(EDLP)がキャッチフレーズで、
強力な販売網を武器に、他社よりも安い価格で大量に仕入れ、大量に売ると
いう大量購入・大量販売の経営モデルの典型例である。特に、1990年代以降


                                ~ 48 ~
は中国で大量にウォルマート専用衣           4,500                                                                                200

料や玩具を委託生産し、ウォルマート          4,000

の対中輸入総額120億ドルは米国の対         3,500
                                                 ウォルマート連結売上高(億ドル、左目盛)
                                                                                                                150
中輸入総額の10%にも及び   (2002年時    3,000
                                                 ウォルマート連結純利益(億ドル、右目盛)

点) 、同社は中国にとって第8位の輸出        2,500
相手であり、中国のイギリス向け輸出                                                                                               100
                           2,000
額を抜くほどの製品を輸入している。
逆にアメリカ国内では「中国からの輸          1,500

                                                                                                                50
入でアメリカ国内生産が置き換えら           1,000

れて国内の雇用減を招いた犯人」とい            500

う批判も少なくない。                     0                                                                                0

  2010年現在、同社の連結売上高は                86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10


              、連結従業員
4,050億ドル(約33兆円)            9,000

数206万人の巨大企業となり、米国内         8,000
                                                  国外店舗数(店)
に約4000店以上、国外に三千数百店を        7,000
                                                  米国店舗数(店)
展開している。日本では、2005年に西
                           6,000
武百貨店グループから西友を買収し子
会社化して事業を行っている。             5,000


  サム・ウォルトンは、フォーブス誌         4,000

によると1985年から1988年まで世界       3,000

一の富豪であり、彼の死後も一族は世          2,000
界の長者番付の上位にいる。              1,000

                              0
                                   86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10




【ケース④】スターバックス(Starbucks Corporation)

  アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に世界規模で展開するコー
ヒー・チェーン。エスプレッソをメイン商品と、テクアウトと歩き飲
みが可能なコーヒー・チェーンを始め、シアトルスタイルのカフェ・
ブームの火付け役となった。
  スターバックスは1971年にシアトルで創業されたが、創業当初はカ
フェを持っておらず、コーヒー豆の焙煎会社として事業を行っていた。
  1982年、スターバックスの実質的な創業者であるハワード・シュル
ツ(1953年生、ニューヨーク州出身)が入社した。シュルツは、コー
ヒー等のドリンク販売を新しい事業として行うよう会社に提案するが
受け入れられず、彼はスターバックスを退社し、1986年にシアトルで
イル・ジョルナーレ社を設立、エスプレッソを主体としたテイクアウ
トメニューの店頭販売を開始した。これがシアトルの学生やキャリア
ウーマンの間で大人気となった。1987年、シュルツはスターバックス
の 店 舗 と 商 標 を 購 入 し 、 イ ル ・ ジ ョ ル ナ ー レ 社 を Starbucks
Corporationに社名変更し、 「スターバックス」      のブランドでコーヒー・
チェーンを拡大した。当時、1980年代後半のアメリカでは、イタリア
流のファッションや食事が流行しつつあり、エスプレッソを主体とす
るシアトル系コーヒー・チェーンはブームに乗って北米全土に広がり、
今では世界中にシアトルスタイル・カフェが定着している。
  スターバックスは、ソファ中心の座席と落ち着いた照明による長居したくなる店内設計、大通りに
面したオープンテラス方式、店内全面禁煙などのエコロジーを重視したブランドイメージ、カジュア
ルでフレンドリーな接客を特徴とし、従来のコーヒーショップとは異なる店舗運営が消費者に受け入
れられ、ブームとなって拡がっていった。
  1996年、東京銀座に北米以外では初めての日本1号店を出店した。1995年に日本で子会社として設
立したスターバックスコーヒージャパン㈱は、             2001年10月にジャスダック市場に株式を公開している。
  同社は、現在は世界40ケ国以上に店舗を展開し、連結売上高は109億ドル(約9000億円)にのぼっ
ている。

                                      ~ 49 ~
【ケース ⑤】ナイキ(Nike, Inc.)

 ナイキは、アメリカ・オレゴン州に本社を置く、ス
ニーカーやスポーツウェアなどスポーツ関連商品を扱
う世界最大のスポーツ用品メーカー。1968年設立。本
社はオレゴン州ビーバートン市にある。
 スタンフォード大学で経済学を学んでいた学生フィ
ル・ナイトと、オレゴン大学の陸上コーチであったビ
ル・バウワーマンが、1968年に前身であるブルーリボ
ンスポーツ社を設立し、   日本からオニツカタイガー    (現
アシックス)のランニングシューズを輸入し、アメリ
カ国内で販売していた。
 その後、 二人は、 スポーツ用品の輸入業だけでなく、
独自ブランドでスポーツ用品を製造販売するプランを企画し、独自
ブランドを立ち上げ、オニツカタイガーの競合社であるアサヒコー
ポレーション(福岡県久留米市)にトレーニングシューズに生産を
委託し、ナイキのブランド名でスポーツシューズの製造販売を始め
た。ナイキの由来は、社員の一人が夢で見た、ギリシャ神話の勝利
の女神ニケ(Nike)から取ったものである。
 1971年、ナイキはSwoosh(スウッシュ)のロゴマークをポートラ
ンド州立大学でグラフィックデザインを学ぶ女子学生に依頼し、デ
ザイン料として35ドルを支払った。現在では世界で最も有名なロゴ
マークの一つになっており、広告ではナイキの社名ロゴを出さなく
ともこのスウッシュのロゴが出るだけでナイキが想像できるほどに
拡がっている。
 ナイキは、製品デザインは自社で行うが、自社工場を持たずに生産を東南アジアの外部工場に委託
している。ナイキのスポーツ用品が急速に売れていったのは、そのブランド戦略とマーケティング戦
略が優れたものであったという評価がされている。プロバスケットボール選手のスーパースター、マ
イケル・ジョーダンと契約し、1985年に彼の名を採った「エア・ジョーダン」を発売し爆発的な売れ
行きとなった。その後、ゴルフのタイガー・ウッズ、サッカーのクリスチアーノ・ロナルドと契約し、
世界でナンバーワンのプロスポーツ選手と契約し、そのブランドを全面に押し出すマーケティング戦
略を採用し、また、”Just Do It.”に代表されるナイキのシンプルなCMは、スポーツ用品としての同社
のブランドを世界中に広め、グローバル・ブランドとしての地位を確立した。
 一方、委託生産する東南アジアでの工場労働の問題が世界的に批判の対象ともなった。1990年代の
半ばから、ナイキは海外工場において労働力の不当な搾取をしていると噂されていた。1997年、NGO
によって実際にナイキのベトナムなど東南アジアに所在する委託工場における児童労働、低賃金労働、
長時間労働、セクシャルハラスメント、強制労働、などの問題点の存在が明らかになる。こうした事
実を知った、アメリカ合衆国のNGO団体および学生たちは、大学キャンパスやインターネットを使用
してナイキの姿勢を批判し、運動は製品の不買や訴訟問題に発展した。これに対し、ナイキは1999年
にグローバル・アライアンスを設立し、世界各国の自社を含む多国籍企業における労働環境の調査を
行い労働環境の改善に対して迅速に取り組めるよう対応している。



■設問11
 設問11

    1. 2000万社にのぼるアメリカの企業の大半を占めているのは、どのような業態か。
    2. マクドナルドの最初の創業時は、どのような経営方式で、どのような事業を行っていた
       か。
    3. ウォルマートは、どのような経営手段で店を増やし事業を拡大させていったか。
    4. ナイキが事業を拡大させる要因となった経営政略を2つあげて説明しなさい。




                         ~ 50 ~
B. ハイテクベンチャー、ネットベンチャー

【ケース⑥】アップル(Apple Inc.)

  パーソナルコンピュータのMacintosh(Mac)      、携帯音楽プレーヤーのiPodシリーズ、携帯電話の
iPhone、タブレット型電子書籍情報端末のiPad、       ソフトウェア製品はオペレーティングシステムのMac
OSや統合ソフトウェアのiLifeの開発・販売を行うエレクトロニクス企業である。
  1974年、カリフォルニア州サンタクララ郡にある高校同級                   ジョブズ(左)とウォズニアク
生のスティーブ・ジョブズ(大学中退中)とスティーブ・ウ
ォズニアク(ヒューレット・パッカード勤務)の2人は、地元
のコンピュータマニアの自作製造展示会であった            「ホームブリ
ュー・コンピュータ・クラブ」に参加していた。1975年にイ
ンテルがマイクロプロセッサーi8080をリリースすると、ウォ
ズニアクは1975年10月から半年間かけて設計、1976年3月に
最初のプロトタイプ機を完成させ、         ホームブリュー・コンピュ
ータ・クラブでデモを行った。       ジョブズは自分達で売る事を考
えていたが、   ウォズは勤務しているだけに上司に自社開発を提
案したが断られ、結局、自分達でApple Iとして売り出すこと
となった。
  1976年6月に、電子部品店にApple Iを50台納品し、1台666           世界発のパソコン ”Apple Ⅰ”
ドルの価格を設定したが、     当初は売れ行きが良くなかった。        し
かし8月を過ぎると売上は好転し、ジョブズとウォズニアクは
徹夜をしながらApple Iを組み立て、8,000ドルを手にした。
Apple Iをさらに大量に販売しようと考えたジョブズは、投資
家のマイク・マークラに会い投資資金提供を申し入れた。            マー
クラは、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに
加わった。   マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、      銀行か
らもアップル社の融資枠を得た。        1977年1月、 3人はアップル・
コンピュータを設立した。
  1977年5月、マイケル・スコットをスカウトし、社長の座に
つける。   ウォズニアックはアップルに注力するためにヒューレ
ット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカ
ラー表示、内部拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほと
んど独力で開発し1977年4月に発表する。Apple IIは爆発的に売れ、1980年に10万台、1984年に200
万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。
  1980年にアップルは株式公開を果たし、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手
に入れることになった。また、フォーチュン誌で億万長者番付に名を連ねた唯一の20代(当時25歳)
となり、コンピュータ業界の天才児としてもてはやされる事となる。Apple IIの大成功は、当時コンピ
ューターメーカーの巨人であったIBMにパーソナルコンピュータ市場への参入を決断させる。1981年
にIBMのPCが発表されると、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われていった。
  1984年1月に初代Macintoshが発売され、マウス、GUIが付属し、視覚
                                                     iPadを発表するジョブズ
的にも動作的にも美しく分かりやすいパソコンとして歴史的なものであ
ったが、アップルは需要予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩
まされることになった。この年に同社は初の赤字を計上し、1/5の従業員
削減を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズ
だと考えるようになったスカリー社長は、          1985年4月にMacintosh部門か
らの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。1985年、ジョ
ブズはアップルを退社し、その後に自分でNeXT社を創立した。
  1997年、アップルはジョブズのNeXT社を買収し、ジョブズはアップ
ルに非常勤顧問で復帰した。      1997年7月に業績不振の責任を追及されたア
メリオ社長は辞任し、取締役会はジョブズにCEO就任を要請、ジョブズ
は暫定CEOとして就任した。ジョブズは1998年5月にiMacを発表する。
このiMacは無骨なベージュ色の機械ではなく、ポリカーボネイト素材を
ベースに半透明筐体を採用した、人間の感性に呼びかけるデザインテー
マの製品であった。デザインは視覚的にも訴えかけており、そのカラー


                               ~ 51 ~
リングが広く賞賛された。
 2001年、それまで主流だったフラッシュメモリ型とは一線を画す、大容量ハードディスクドライブ
型携帯音楽プレイヤーのi Po d を発売。当初は価格の高さにより売れ行きを疑問視する声が少なくなか
ったが、直感的な高い操作性と、管理ソフトiTunesとの抜群の連携機能もあり、徐々に売上を伸ばし
た。Windows向けiTunesが提供されたころからヒット商品となる。そして廉価版のiPod miniを登場さ
せた事で爆発的にヒットする。2003年にはオンライン楽曲販売のiTunes Music Storeを開始、2004年
にはiPodをヒューレット・パッカードにライセンスするなど、携帯音楽市場で独占的地位を確保する
に至った。日本でもウォークマンを圧倒し、2003年以降一貫して携帯音楽プレイヤーのシェア1位とな
っている。同社は、さらに携帯電話のi Ph o n e、タブレット型電子書籍情報端末のi Pad を発売して世界
に広め、2011年現在は時価総額が世界で第二位の企業にまで成長している。




【ケース ⑦】マイクロソフト(Microsoft Corporation)
                                                 1978年当時のマイクロソフト社の
 アメリカ・ワシントン州に本社を置く世界最大のコンピュ
                                                     従業員(前列左端がゲイツ)
ータ・ソフトウェア会社。              1975年にビル・ゲイツ
                                  ビ      (1955年生)
とポール・アレン(1953年生)らによって設立された。
 ビル・ゲイツはシアトルの弁護士の家庭に生まれ、高校時
代にミニコンを学校から借り、友人のポール・アレンと共に
ソフトウェアを作って金を稼いでいた。ゲイツは1973年にハ
ーバード大学に入学するが、1975年、世界発のパーソナル・
コンピュータの一つであるアルテア8800を販売していたハー
ドメーカーMITS社向けにBASICインタプリタ(プログラム
の一つ)の開発契約を結び、ゲイツはハーバード大学を休学
し、MITSの本社のあるニューメキシコ州アルバカーキに移り、
アレンと共に1975年にマイクロソフト社を創業した。
 1980年、オフィス向けの汎用コンピューターを主力として
いたIBMは、アップルのApple IIの成功を見て、               パーソナル・
コンピュータへ参入を決め、マイクロソフトにOS(コンピュータ                           Windows 3.1(1992年)
のオペレーティング・システム)の開発を依頼する。マイクロソフ
トはIBMにPC-DOSというOSを納入した。その後、このPC-DOS
をMS-DOSという名前で他社のパーソナルコンピュータにも供給
することにより同社の基礎を作った。
 1979年、マイクロソフトはアルバカーキからワシントン州のベ
ルビューに移転した。1980年、スティーブ・バルマーが入社し、
後にゲイツの後を継いでCEOとなった。1981年、ゲイツは同社の
社長兼会長となり、アレンは副社長となった。1985年、マイクロ
ソフトはM ic r o so f t W i n d o wsの最初のバージョンを発売した。
 1986年2月16日、      マイクロソフトはワシントン州レドモンドに移
                                                             ビル・  ゲイツ(現在)
転した。およそ1ヶ月後の3月13日、マイクロソフトは株式を公開し、6100
万ドルの資金を調達した。1992年3月、マイクロソフトはWindows 3.1を発
売し、初めてテレビにおいて大々的な宣伝を行い、Windows 3.1は、2か月
の間に300万本を売り上げた。この結果、Windowsは1993年までにパソコン
のOSとして世界トップのシェアを獲得した。
 1995年8月、マイクロソフトはOSの新バージョンであるWindows 95を発
売し、Windows 95は発売後4日間の間に100万本以上を売り上げた。1998年
にはスティーブ バルマーが社長に就任し、
            ・                         ゲイツは会長兼CEOに留まった。
 現在の同社は連結売上高が625億ドル                 (約5.1兆円) 当期利益が187億ドル
                                            、
(1.5兆円)の会社に成長しており、ワシントン州レドモンドの本社は75万
m²超の敷地を有し、約28,000人の従業員が働いている。
 2008年7月26日の英エコノミスト誌は、” The meaning of Bill Gates”とい
う題の記事で、ゲイツが時代に先駆けて2つのことを発見したことを評価している。それは、コンピュ
ーターソフトが大量生産の低収益型ビジネスとなり得ること、そしてハードウェアとソフトウェアは
ビジネスとしては別個のものであるべきだと考えたことである。

                                   ~ 52 ~
【ケース⑧】ヤフー(Yahoo! Inc.)

 アメリカのインターネット関連サービス企業。検索エンジンを
はじめとしたポータルサイトの運営を主力事業としている。
  創業者のジェリー・ヤン(1968年生、台湾出身、10歳の                    1995年創業当時のヤン(左)とファイロ
時に米国移住)とデビッド・ファイロ(1966年生、ルイジ
アナ州出身)は、スタンフォード大学の大学院生の頃、ネ
ットサーフィン中に見つけた興味深いページを”Jerry's
Guide to the World Wide Web”という題名でウェブサイト
に公開していた。リンクが階層的に分類され、ジャンル別
に検索しやすくなったこのウェブサイトは評判となり、そ
れに伴いウェブサイトが置かれていた大学のネットワーク
負荷が増えてきた。
  やがて2人はベンチャーキャピタルに事業化を持ちかけ
られ、1995年3月カリフォルニア州にYahoo!を設立して事
業を開始し、会社設立後わずか1年1ケ月の1996年4月に
NASDAQ市場に株式を公開した。
  株式公開前の1996年1月には、ソフトバンクと共同出資で日本にヤフー㈱を設立し、同年4月から
Yahoo! JAPANのサービスを開始し、ヤフー㈱は2003年10月に店頭市場に株式を公開し、ソフトバン
クはヤフー㈱の保有株式で多額の資金を得ている。
  1990年代後半には、MSN、Lycos、Exciteなど多くのポータルサイトが立ち上がった。ポータルサ
イトは人気を得て、ユーザーの多くはポータルサイトに滞在するようになった。1997年3月、Yahoo!
はウェブメールサービスのFour11を買収し、後のYahoo! Mailの原型となる。また、ClassicGame.com
も買収し、     Yahoo! Gamesとなった。    1999年1月にはGeoCitiesを、2000年6月にはeGroupsを買収した。
eGroupsはYahoo! Groupsになっている。2001年7月にはYahoo! Messengerを開始している。
  2002年後半になると、        Yahoo!は他のサーチエンジンの買収を行い、         2002年の12月にInktomiを、2003
年1月には、Overtureとその子会社のAltaVista、AlltheWebを買収している。
  2004年には、台頭してきたGoogleへの対抗策を積極化している。自社の検索エンジンでGoogleのエ
ンジンの利用を止めている。            GoogleのGmailに対抗して、  Yahoo!はメールサービスの増強を図り、Web
2.0関係のサービス強化を図るために買収をさらに行っている。2005年3月には写真共有サービスの
Flickrを買収、2005年10月にカレンダー共有サービスのUpcoming.orgを、12月にはソーシャルブック
マークのdel.icio.usを、2006年1月にはプレイリスト共有コミュニティのwebjayを買収している。
  2008年1月29日に、Yahoo!は同社の厳しい経営状況では、業界のリーダーであるGoogleと市場競争
ができないとして、全従業員14,300人のうち1000人を人員削減すると発表した。2008年11月にジェリ
ー・ヤンCEOは辞任し、以前の役職であるチーフに就任した。さらに、2008年12月には業績悪化に伴
い、世界で1500人の従業員の人員削減を始めた。




【ケース ⑨】フェイスブック(Facebook, Inc.)

  世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNS(ソーシャ
ル・ネットワーキング・サービス)  。2010年に全米でヒットした映画
「ソーシャル・ネットワーク」  の題材となったベンチャー企業である。
2011年現在、世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNSになった。同社はまだ株式を公開
していない。
 アメリカのハーバード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグ  (1984年生、ニューヨーク州出身)
が創業者。2003年にハーバード大学に入学したザッカーバーグは、大学でも寮の部屋でインターネッ
トのアプリケーション・ソフトウェアの開発することを趣味にしていた。ハッキングし得た女子学生
の身分証明写真をネット上に公開して投票させる「フェイスマッシュ」というゲームを考案したが、
ハーバード大学から保護観察処分まで受けてしまう。
 2004年2月、ザッカーバーグはハーバード大学の学生が交流を図るための「ザ・フェイスブック」と
いうサービスをハーバード大学の学生に限定して始めたが、すぐにリクエストに応えて東海岸の大学
生にもサービスを開放する。その後、徐々に全米の大学生に開放され、大学生のユーザーが増加して


                                    ~ 53 ~
いく。2006年初頭には全米の高校生に開放
し、2006年秋には一般ユーザーにも開放し
た。
  ザッカーバーグはフェイスブックがサー
ビスを開始した直後の2004年4月にLLC法
人として設立し、2004年夏にデラウェア州
の株式会社に移行し、   社名をFacebook, Inc.
とした。設立時の株式配分で当初の幹部
(CFO)であったサベリン氏と紛糾し裁判
になったことが映画に度々登場する。
  2004年7月には開発拠点をカリフォルニ
ア州パロアルト(スタンフォード大学に隣
接する市)に移して資金調達を本格化させ
る。 2004年9月にエンジェル(個人投資家)
のピーター・シールとリード・ホフマンか
ら50万ドルの出資を得る。  その後、  2005年、
2006年にはベンチャーキャピタルが合計
約4000万ドル(約32億円)をフェイスブックに出資を行った。
  2007年10月にはマイクロソフトと提携契約を結び、同社から2億4000万ドル(約200億円)の出資を
得る。この時のフェイスブックの会社の評価価格は150億ドル(約1兆2,300億円)であった。
  2010年7月、ユーザー数が全世界で5億ユーザーを突破した。2010年9月にフェイスブック創設のス
トーリーを描いた映画   「ソーシャル・ネットワーク」    が全米で公開、日本では2011年1月に公開された。
  フェイスブックは同社の提供するSNSサービスだけではなく、ユーザーが好きなアプリケーション
を選択して追加できる。また、一般ユーザーが様々なアプリケーションを開発し、フェイスブックの
ツールとして公開できることで、同社自身が提供する機能を超えてサービスを提供することができる。
特に、フェイスブックのSNS内でユーザー同士が楽しむネットワーク・ゲームは大人気となり、フェ
イスブック専用のゲームソフトを開発し急成長したベンチャービジネスも多数存在する。こうしたフ
ェイスブックのサービスの汎用性が強みになって全世界に広がっている。
  同社は5億人のユーザーとトラフィックの多さから、未公開企業であるにもかかわらず企業価値(時
価総額)が巨大となり、2011年3月には株式の時価総額は500億ドルと評価されている。
  また、同社が社会や政治に与えている影響も大きい。2011年にチュニジアで発生したジャスミン革
命では、情報交換のためにフェイスブックが大きな役割を果たしている。また、2011年のエジプト騒
乱でムバーラク大統領が辞任に追い込まれたが、革命運動家グループがフェイスブックやツイッター
などのインターネットサイトによって運動を広めたことから、       「フェイスブック革命」と評価する者も
いる。




■設問12
 設問12

    1. 創業段階のアップルについて、前節のスモールビジネスから生まれたグループと類似し
       ている点を述べなさい。
    2. アップルにおいて、スティーブ・ジョブズが復帰して何が変わったかを述べなさい。
    3. 創業当初のマイクロソフトと大企業との関係を具体的に述べなさい。
    4. ビル・ゲイツがコンピュータ産業で果たした役割について述べなさい。
    5. ヤフーやフェイスブックの創業者が、大学生や大学院生にもかかわらず、創業して短期
       間で巨大な企業になることができた理由について、自分の考えを述べなさい。




                          ~ 54 ~
第3部             日本の起業家(アントレプレナー)


Ⅰ.明治・大正期の起業家
  明治・大正期の
1-① 明治・大正の年表
 年号 年    ⻄暦            出来事                                  起業家
 天保 3    1832   天保の⼤飢饉。
     8   1837   ⼤塩平⼋郎の乱。
    12   1841   ⽼中⽔野忠邦、天保の改⾰。
 嘉永 5    1853   ペリー提督の⿊船来航。
 安政 元    1854   日米和親条約締結。
     5   1858   安政の⼤獄。日米修好通商条約を締結。
     6   1859   咸臨丸が渡米。勝海⾈、福沢諭吉ら。
 文久 3    1863   四国艦隊下関砲撃事件。薩英戦争。
 元治 元    1864   第一次⻑州征伐。
 慶応 2    1866   薩⻑同盟。                                             岩
     3   1867   徳川慶喜が、朝廷に⼤政奉還。王政復古   (慶応3)岩崎弥太郎、⼟佐商会・⻑崎留守居役に抜擢。渋沢 崎
                の⼤号令。坂本龍⾺が暗殺される。     栄一、幕府随員としてパリへ赴く。             弥           古
    4    1868   福沢諭吉、慶應義塾を開く。                                     太       中   河
 明治 元    1868   明治維新。五箇条の御誓文。                                     郎       上   市
    2    1869   版籍奉還。                (明2)中上川彦次郎、慶應義塾⼊学。                   川   兵
    4    1871   廃藩置県。                (明4)益⽥孝、⼤蔵省に出仕。                      彦   衛
    6    1873   日本初の正式な株式会社(第一国⽴銀    (明6)渋沢栄一、第一国⽴銀⾏頭取に就任。岩崎弥太郎、          次
                ⾏)。                  三菱商会設⽴。                              郎
    10 1877     ⻄南戦争。                (明9)益⽥孝、三井物産設⽴。(明10)古河市兵衛、⾜尾   渋
                                     銅山買収。(明11)渋沢栄一らにより東京株式取引所設⽴。   沢
    14 1881 明治14年の政変。⾃由⺠権運動拡がる。                                     栄
    22 1889 第日本帝国憲法発布。               (明21)中上川彦次郎、三井銀⾏の理事に就任。        一 益
                                                                                  豊
    23 1890 第1回衆議院総選挙、第1回帝国議会召       (明23)豊⽥佐吉、「豊⽥式⽊製人⼒織機」を発明。        ⽥
                                                                                  ⽥
            集、教育勅語発布。                                                 孝
                                                                                  佐
    27 1894 日清戦争勃発。
                                                                                  吉
    34 1901 官営⼋幡製鉄所操業開始。             (明34)古河に⾜尾銅山鉱毒事件が起こる。
    37 1904 日露戦争勃発。
    43 1910 韓国併合。
    45 1912 明治天皇崩御、⼤正に改元。
 ⼤正 2 1913 第一次憲政擁護運動始まる。
     3 1914 第一次世界⼤戦勃発。⼤戦景気。
     7 1918 シベリア出兵、米騒動。原敬が首相就任。      (⼤5)渋沢栄一、『論語と算盤』を著す。
    12 1923 関東⼤震災。                                                                    松
    14 1924 普通選挙法成⽴。                                                                  下   本
    15 1925 ⼤正天皇崩御、昭和に改元。            (⼤15)豊⽥佐吉、豊⽥⾃動織機製作所を設⽴。                          幸   ⽥
 昭和 2 1926 昭和⾦融恐慌。銀⾏破綻続出。                                                             之   宗
     4 1929 世界恐慌。                    (昭5)豊⽥佐吉、逝去。                                     助   一
                                                                                            盛
     6 1931 満州事変。                    (昭6)渋沢栄一、逝去。                                         郎
                                                                                            ⽥
     7 1932 満州国建国。五・一五事件。
                                                                                            昭
    11 1936 二・二六事件。
                                                                                            夫
    12 1937 日中戦争勃発。                  (昭12)トヨタ⾃動⾞⼯業設⽴。
    14 1939 第二次世界⼤戦勃発。
    16 1941 真珠湾攻撃。太平洋戦争開戦。
    18 1943 日本軍ガダルカナル島撤退。
    20 1945 ポツダム宣⾔を受諾。終戦。




1-② 近代以前の商制度
 明治初期に株式会社制度が創設されるまでは、資金を出し合って共同事業を行う会社形態は日本に
存在せず、個人経営の「商店」がビジネス組織の中心であった。後に大財閥となった三井も住友も、
江戸時代以前はそれぞれ越後屋、泉屋の商号で営む個人商店であった。
①商店の組織制度
 商店は経営トップ兼オーナーである「店主」が唯一の意思決定者である。株式会社のように事業の
共同パートナーは存在しないから、他の人間と相談をする取り決めは存在しない。ただし、一族が経


                                          ~ 55 ~
営する商店が多かったため、親や親族など年長者に相
談する慣習は存在した。同族経営であるために、組織
の規則は、公の法制度による取り決めではなく、一族
が決めた家法や家訓、あるいは店主が定める綱領や信
条が守るべき規則であった。
 商店の従業員は、10歳前後で店に入り、「丁稚」(ま
たは小僧)として店に住み込み、使い走りや力仕事、
雑役に従事し、その後「手代」(会社の係長クラス)に
昇進する。手代は接客業務を行うことができ、無給で
衣食住はタダの丁稚と違って給与が支払われた。手代
の中で優秀で経験を積んだ手代は「番頭」に昇進し、
店の経営に関与し、店主の家政もサポートすることも
あった。番頭は、羽織を着用することが許され、結婚
も通い(自宅通勤)も許された。番頭は店主から「暖
簾分け」が許されて独立することもあったが、 番頭を任されるまでには競争を勝ち抜く必要があった。
店や地域・時代により多少違いはあるが、この競争を勝ち抜いた者が概ね30歳前後で番頭職につくの
が一般的だった。
②店主の無限責任と子孫同族への継承
 先のように、商店は店主の個人経営だから、店の儲けた金も保有資産もすべて店主のものであり、
番頭以下の「勤め人」はもちろんのこと、外部の人間とも全く関係がなかった。その反面、店の事業
は全て個人出資であり、金を借り入れも店主個人の借金、信用で物を買っても店主の負債であり、す
べて店主が無限責任で営む個人事業であった。負債の返済が滞れば店主個人の財産を投げ打たねばな
らず、現代の株式会社における経営者の有限責任の仕組みはなかった。当時は親の職業を子が無条件
に継ぐのが当然とされ、また事業は代々の「家」の事業とされた封建社会であった。したがって、商
の事業継承は、店主の子息(あるいは養子)に継がせることが大半であり、優秀な番頭に継がせる場
合も、店主が番頭を養子に迎えて家の相続者として継承された。店主と血のつながりのない専門の経
営者が民間企業のトップとなって経営にあたるのは、明治以降の株式会社制度の登場以降であり、ま
た明治大正期においても封建時代の同族経営・店主経営の色彩は色濃く残って続いていた。


1-③ 株式会社制度
 株式は、英語ではstockあるいはshareである。stockの本来の意味は幹、茎、切り株、蓄え、貯蔵と
いう意味だが、 「一切れ」「一部の持ち分」という意味が派生して株式という概念を表す用語になった
               、
と推定されている。
 世界最初の株式会社は、第1部でみたように、1602年設立のオランダ東インド会社であるが、日本
の株式会社制度は明治期に作られたため、    「株式」という日本語はその頃に英語から輸入して作られた。
この「株式」は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「株」と、中世における土地収益
権を意味する「式(職)   」という語に由来している。日本初の株式会社は、諸説あるものの、法的には
「国立銀行条例」 (1872年)に基づいて1873年に渋沢栄一らによって設立された第一国立銀行である。
同社は1878年に開設された東京株式取引所(日本初の株式取引所)に上場した。また、一般会社の法
規である商法に基づいて最初に設立された株式会社は「日本郵船」       (1893年)である。三菱財閥の創始
者・岩崎弥太郎が日本郵船を設立した。
 なお、既に江戸時代末には株式会社の構想があった。1867年(慶応3年)に、幕臣の小栗上野介は日
本初の株式会社のビジネスプランともいえる「兵庫商社の設立建議書」を幕府に提出した。         『西洋各国
が日本国内に港を開いて国の利益を得ているのに反し、開港するたびに日本の損になっている。外国
人と取引するには、外国貿易の商社(カンパニー)のやり方に基づかなくては、とても国の利益には
ならない。 』という建白書である。なお、1865年に坂本龍馬らが結成した「亀山社中」      (後の海援隊)
を株式会社の祖とする説もある。




                         ~ 56 ~
2.ケーススタディ
■ポイント

   1.幕末から第二次大戦までの基本的な日本の歴史を把握する。
   2.なぜ、明治期に起業家が生まれ、経済を席巻するまでに至ったのかという問題意識を持つ。
   3.明治・大正期に活躍した「起業家の生きざま」を知り、現代と比較する。




【ケース ①】岩崎弥太郎:三菱財閥の創業者、 政商」
       岩崎弥太郎:三菱財閥の創業者、 政商」
                      「政商
                      「
 岩崎 彌太郎(いわさき・やたろう)   。
 天保5年(1835年)生まれ、明治18年(1885年)没。三菱財閥の創業者
で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。

(1)生い立ち
 土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎
の長男として生まれた。地下浪人とは、郷士の株を売ってしまって浪人を
している者のことで、弥太郎の曽祖父の代に郷士の株を売ったとされる。
 弥太郎は幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈に
も漢詩を披露し才を認められる。安政元年(1854年)
                         、21歳の時に学問で
身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、江戸に出て1年
後、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴え
たことにより弥太郎も投獄されるが、この時、 獄中で商人から算術や商法
を学んだことが、後に商業に従事する縁となった。
 出獄後は村を追放されるが、城下である高知に蟄居中であった吉田東洋(土佐藩の重役)が開いて
いた少林塾に入塾し、後に明治維新で活躍する後藤象二次郎の知遇を得る。1859年(安政5年)
                                            、吉田
東洋は岩崎の勉学を評価して藩の下横目役に推挙し、岩崎は藩吏として長崎に派遣されるが、公金で
遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
 (弥太郎の気性)
   弥太郎は、伯母が嫁いだ土佐藩随一の儒学者・岡本寧浦(ねいほ)について学んでいた。学問は、貧しくとも頭のきれる少
  年が世に出る道だった。弥太郎の勉強には鬼気 迫るような熱がこもっていた。が、彼は満足できないでいた。土佐には緊張
  感がない。江戸へ出たい。江戸へ出たい。とにかく江戸に出たかった。郷士でもない者が国を出ることは難しい。それが、江
  戸詰めになった奥宮慥斎(ぞうさい)の従者ということで実現する。時は安政元(1854) 弥太郎は、
                                            年。    やったという思いだ
  ったろう。いよいよ明日は旅立ちという夜、村の裏手の妙見山に登った。月明かりに太平洋が見える。弥太郎は山頂の星神社
  の門扉に墨痕鮮やかに書き記した。     『吾れ、志を得ずんば、再び此の山に登らず』
   大変な気負い。これ無くして大事はなし得ない。幕末・維新の志士たちは大酒を食らっては大言壮語した。


(2)幕末動乱への参加
 土佐勤王党の監視や脱藩士の探索にも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の
探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要
な届出に不備があった事をとがめられ帰国した。尊王攘夷派が勢いを増す中で任務を放棄し無断で帰
国したともいわれる。帰国後、弥太郎は長崎で藩費を浪費した責任も問われ、役職を辞任した。
 この後、慶応3年(1867年)
               、後藤象二郎に藩の商務組織である土佐商会の主任・長崎留守居役に抜
擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊と名称変更して土佐
藩の外郭機関となると、弥太郎は海援隊の経理(会計係)を担当した。記録上確認出来る弥太郎と龍
馬の最初の接点はこの時である。弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を
酌み交わすなどの様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。




                            ~ 57 ~
(3)明治維新、実業への進出
 明治元年(1868年) 、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、
明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称し、弥太郎は海運業に従事する。こ
のころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩
の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手して海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷
(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会」   (後の郵便汽船三菱会社)を設立、三菱商
会は弥太郎が経営する個人企業となった。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の
家紋を合わせて三菱のマークを作った。弥太郎は、三菱商会で働く海援隊出身や士族出身の社員に対
しても、出自に関係なく徹底して「商人としての教育」を施した。
 (弥太郎の独裁)
   弥太郎は激しい気性の男だった。商会の幹部たちは常に弥太郎の顔色を伺っていた。彼にはそれが歯がゆい。弥太郎の頭に
  ある事業のイメージは、何者をも恐れぬ攻撃的なものであった。弥太郎は収まりがつかない。ついに部下との話し合いの後、
  「ええい、まだるっこしい。これからはすべてわしが決断する」と宣言した。
 (前垂かけ精神)
   弥太郎は、事業の成功不成功はお客に対するサービス次第と確信していた。社員の大半は下級武士出身のため、お客になか
  なか頭が下げられない。弥太郎は、店の正面に大きなおかめの面を掲げ、客の応対をする者には、和服に角帯、 (まえだ
                                                    前垂
  れ)という姿でおかめのような笑顔を強いた。
   武士としてのプライドを捨てきれないでいた石川七財には、ある日、小判の絵が描かれた扇子を与えて言った。
   「おんしは、客に頭を下げると思うとから辛いのじゃ。この小判に頭を下げると思え。
                                         」

(4)政府との密着
 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣の全国統一化に乗り出した時のこ
とで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の
資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流
したのは新政府の高官となっていた岩崎の土佐時代の友人である後藤象二郎であり、政府と民間の癒
着である。弥太郎は最初から「政商」として暗躍した。
 さらに、三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得
る。明治10年(1877年)の西南戦争でも輸送業務を独占して大きな利益を上げた。政府の仕事を受注
することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。

(5)反三菱グループとの戦い
 しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従
道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て
焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。
 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈
重信が失脚し、弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批
判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎など
の反三菱財閥勢力が共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸
との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるという
すさまじさだった。また、パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、
これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融
資するという 「荷為替金融」  を考案し勝利した。  弥太郎が土佐商会で勤めたことから、長崎は三菱の
                                 発祥の地である(写真は建設中の長崎造船所)
 こうしたライバルとの競争の最中、明治18年
(1885年)2月7日、弥太郎は51歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈な
ダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併し
て日本郵船となった。

(6)三菱財閥の形成
 弥太郎の死後、弥太郎とその弟・岩崎弥之助
が三菱の2代目総帥となり、以後、岩崎家は経済
界の代表的な名門家系として続く。三菱の3代目


                            ~ 58 ~
総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥
にあたる。家紋は重ね三階菱。
 二代目である岩崎弥之助は「三菱社」と改名し、1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた
官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。炭鉱、鉱山事業の拡充、1887
年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収によ
る銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立した。
 1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資
の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎
造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。
 1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務
理事を置いた。  1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920
年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。そして、満州事変から第二次世
界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。スリーダイヤマークの「三
菱」の呼び名だが、これは土佐藩主山内家の家紋の「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わ
せたものであった。
 この三菱財閥は、第二次世界大戦後、連
合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令
により解体された(=財閥解体)。三菱財閥
は、俗に三井、住友とともに三大財閥であ
るが、三井、住友が三百年以上の歴史を持
つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が
明治期の動乱に政商として、巨万の利益を
得てその礎を築いたという違いがある。


                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 明治の日本には、三人の重要な人物がいた。福沢諭吉、渋沢栄一、そして岩崎弥太郎である。
 彼らは個人としては、まったく異なっていた。福沢は「実務家」、渋沢は「倫理家」、岩崎は「起業家」だった。
 だが、同じ目標と未来像を描き、勇気と先見性と手腕をもって近代国家・日本を創ったのである。
 今日、三人の偉業が意味するところは大きい。            ― ピーター・ドラッカー(経営学者)

 【引用文献】
 ・mitsubishi.com「三菱の歴史:三菱人物伝」
      http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro20.html




■設問13
 設問13

 ●岩崎弥太郎のアントレプレナーシップ論

    1. 岩崎弥太郎は、どのような出自であったか。
    2. 岩崎の性格、思想について述べなさい。
    3. 身分の低かった岩崎が土佐藩で登用された頃の時代背景について述べなさい。
    4. 岩崎が出世するきかっけとなった人脈、ネットワークはどのようなものだったか。
    5. 岩崎弥太郎が明治維新後に成功した原因は何だったと考えるか。
    6. 弥太郎後の三菱は、どのような経営スタイルとなるか。




                                             ~ 59 ~
【ケース ②】渋沢栄一:埼玉が生んだ「日本資本主義の父」
       渋沢栄一:埼玉が んだ「日本資本主義の
 澁澤 榮一(しぶさわ・えいいち)      。
 天保11年(1840年)生まれ、 昭和6年(1931年)没。
 幕末から大正初期に活躍した日本の武士、官僚、実業家。第一国立銀
行や東京証券取引所などといった500余に及ぶ企業の設立・経営に関わ
り、「日本資本主義の父」「日本初の近代起業家」といわれる。明治33
               、
年(1900)男爵、大正9年(1920)子爵。

(1)生い立ち
 天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深
谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名
は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。
 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がけ
る豪農だった。江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あり、
家の位置によって「東ノ家」   「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」
                              「新屋敷」な
どと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが、
「中ノ家」に養子に入ったという。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一が生まれた
頃になると村で二番目の豪農となっていた。
 渋沢家は、藍玉や繭という原料の買い入れと販売を行っていたために、一般的な農家と異なり、常
に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を
仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験が
ヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につなが
ったといわれる。

(2)幕末の志士、徳川将軍への出仕
 一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や日
本外史を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾
高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。
また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場 (お玉が池の千葉道場)に入門し、
剣術修行のかたわらで勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年
(1863年)に尊皇攘夷思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪
い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画
をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。
 栄一は、 親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京
都に上るが、 八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都では志士
活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡
円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。 仕官中は一橋家領
内を巡回し、農兵の募集に従事する。
 主君の慶喜が将軍となったのに伴い渋沢は幕臣となり、 パリで行わ
れる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随
員として、フランスを訪れた。渋沢はヨーロッパ各地で先進的な産
業・軍備を実見し、商人が役人や将校と対等に交わる社会を見て感銘
を受ける。
            (上の写真は、まげを結った洋行前の栄一と、帰国後のまげを切り洋服姿の栄一。
                                                )


(3)明治維新、大蔵省への出仕
 帰国後は静岡に謹慎していた徳川慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜よ
り「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。フランスで学んだ株式会社制度を実践
するため、及び新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立
するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部
省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀
行条例制定に従事する。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873
年)に井上馨と共に退官した。

                      ~ 60 ~
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、
現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。第一国立銀行だけでなく、七十七国立
銀行など多くの地方銀行設立を指導した。渋沢は多種多様の企業の設立に関わり、第一国立銀行のほ
か、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現・太平洋セメント)  、帝国ホテル、秩
父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、その数は
500団体以上であった。
  若い頃、栄一は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」
                                  (1912年)に見られる日本
移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本の
ニュースを送る通信社を立案した。成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起
源となった。
  渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の
明治の財閥創始者と大きく異なる点は、 「渋沢財閥」を作らなかったことにある。 「私利を追わず公益
を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。
  なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢
財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、
これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会
社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。

①富岡製糸場
 富岡製糸場
 明治3年(1870年)7月10日、民部大蔵両省は分離し、租税司と改正係が大蔵省に属し、渋沢栄一は
大蔵省改正係長に任命された。政府は、富国強兵、殖産工業、外貨獲得政策の一つとして、生糸を輸
出振興第一の商品とし、国内の製糸を改良する案を出した。養蚕に詳しい栄一が任じられ、栄一はか
ねてからの知人ジブスケ(フランス公使書記官)と相談して、上州富岡に洋式製糸工場を新設する計
画を立てた。ジブスケの紹介で工場の指導者に、フランス人ポール・ブリューナを雇い、国立富岡製
糸工場の主任に渋沢栄一らが任命された。
 建設の主任は、栄一の斡旋で尾高惇忠(渋沢の義兄)が当った。工場の建物には洋式レンガの建築
を取り入れたが、レンガ製造は日本で初めての試みだった。これが後に明治20年(1887年)に深谷市
に建設される日本初のレンガ製造会社のきっかけとなっている。
 工場は、着工以来1年7ヵ月後の明治5年(1872年)7月に完成したが、新しい洋式製糸場を、地元の
上州の人々は容易には受け入れなかった。   まず、     『上州富岡製糸場之図』 歌川国輝画
フランス人ブリューナの宿所を貸してくれる者
がいなかった。尾高新五郎は、上州富岡製糸工
場で働く女性労働者を近県で懸命に募集したが、
最初一人も応じる者がいなかった。   尾高はまず、
自分の娘を説得し、も工女第一号として働いて
くれと懇願し、娘はやっと父に応じてくれた。
これを機に、尾高の地元の村の5人の少女が応
募し、近県からも55人の応募者がでてきた。そ
の後山口県から60人前後の応募があり、一団と
なって工女として働いた。

②第一国立銀行
 第一国立銀行                         『東京名勝海運橋   第一国立銀行』
 日本政府は、明治6年(1873年)6月に国立銀行条
令によって、日本初の銀行となった第一国立銀行を創
立した。その本店は、東京日本橋の橋際にある三井組
の5階建ての洋館とした。設立以前にすでに三井組が
私立銀行創立の計画を立てて大蔵省に請願していた
が、渋沢栄一は、国立銀行条令を作成中でありその後
に設立するようにと延期させていた。  そして新条令の
もとに、栄一の指導で国立銀行創立の運びとなった。
 国立銀行の資本金の300万円のうち、200万円を三
井組、小野組が出資し、あとの100万円を公募した。
総会で栄一が銀行を総監督する「大頭取」に選ばれ就
任した。


                       ~ 61 ~
国立銀行条例(1872年制定)により円建で不換紙幣(金銀との交換義務のない通貨としての紙幣)
が法的に発行できるようになり、海外への金の流出で金不足であった当時において信用のある紙幣を
発行することが可能となった。しかし、この第一国立銀行は、栄一の資本で設立された私立銀行では
なく、渋沢は「大頭取」 という目付役として経営に参加し資本は出していない。   渋沢は、明治6年(1873
年)から大正5年(1916年)7月まで43年間にわたり第一国立銀行に勤め、77歳で辞した。その後、第
一国立銀行は、条令の改正により私立銀行として営業することになった。
 栄一の生きた徳川幕府の江戸時代、商人は、官吏の前では畳三枚隔てなければ挨拶できなかったと
いう。それほど身分の低い地位として「商人」は蔑視されていた。栄一は国立銀行制度の確立こそが
不可欠で、金融業務の近代化が産業の発展を促し、同時に「商人」の地位を昇格させるものと信じた。
しかし、一般民衆の銀行に対する認識は低く、信頼感もなく、預金する人は少なかった。また大店の
商人たちは、先端的な銀行をかえって敬遠していた。
 栄一は、第一国立銀行の得意先を増やすために、新しい会社の設立に力を入れた。これが栄一が自
称「よろずや」になった理由である。その後、年を重ねるごとに栄一の努力は認められていった。栄
一はやがて、指導的実業人として各方面から引っ張りだことなった。彼の誠実さとその実績が、社会
的信用を産み、「渋沢栄一ブーム」を巻き起こしたわけである。その一方、暴漢に襲われたり、脅迫状
を送られたりさまざまな試練を経ることになる。

(4)道徳と経済の合一
 大正5年(1916年) 渋沢栄一は
            、     『論語と算盤』を著し、
                            「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するので
はなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時
に自身にも心がけた。  『論語と算盤』に渋沢の考えが端的に現れている一節がある。
   富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。 正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。論語とそろ
  ばんは両立する。(渋沢栄一『論語と算盤』
                     )
   すべて物を励むには競うということが必要であって、競うから励みが生ずるのである。いやしくも正しい道を、あくまで進
  んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に
  勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。

 そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。同書
の次の言葉には、栄一の経営哲学が込められている。
   事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを
  考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理に
  もかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。(渋沢栄
  一『論語と算盤』)
 渋沢が世を去って久しい昭和の高度成長期には、次のような噂もささやかれたという。
   昭和46年(1971年)当時、こんな噂があった。新札を発行する時、新しいデザインの選考委員の一人が総理大臣就任前の田
  中角栄だったという。   むろん渋沢栄一もその新札の絵柄の候補者の一人だったが、金権指向の田中角栄は栄一を除外した。
                                                           「札
  を見る度に、カネに清潔な渋沢栄一に睨まれるのはご免だ」という理由だったなどと、そんな噂だったという。


(5)渋沢栄一の社会活動
  渋沢は、当時の実業界の中では最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めた
ほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、財団法人聖路加国際病院初代理
事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。関東大震
災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
  当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、渋沢は商業教育にも力を入れ商
法講習所(現一橋大学) ・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松
學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、
井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取りまとめに関わった。また、女子教育の必要性を考え、伊
藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
  また、日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなど
して、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同
情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお、渋沢は1926年と
1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。


                             ~ 62 ~
【引用文献】
・「埼玉が生んだ偉人 渋沢栄一」        http://www.geocities.jp/kazumihome2004/
・国立国会図書館「近代日本人の肖像」      http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/104.html
(6)渋沢栄一の生家
 渋沢栄一生誕の地は、現在の埼玉県深谷市血洗島である。
血洗島には、 渋沢栄一記念館、誠之堂という大正期の建築物、
栄一の生家など、ゆかりの建物が多く残されている。当時の
血洗島村は、中山道の深谷宿から北へ約6km程のところにあ
り、さらに村の北には利根川が流れ、上州(群馬県)の地に
接している。利根川には近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市
中瀬)があり、ここは江戸方面と往来する人や物資の中継基
地として、大いに栄えていた。栄一の育った頃には養蚕と藍
玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一
族の間でも「中の家(なかんち) 」と呼ばれ、本家筋とされて
いるが、この中の家における藍玉の年商は1万両を越えたと
され、渋沢は当時でも数少ない裕福な農家に育ったのである。
 上段の写真は、渋沢栄一の生家「中の家」の門で、この表
門は、当時の領主が訪ねて来る際に、乗馬したまま門をくぐ
れるよう高く作られたという。表門の前には、 「史蹟 澁澤榮
一生地」と書かれた碑が建っている。
 中段の写真は 「中の家」の屋敷。栄一は天保11年(1840年)
この「中の家」に生まれた。しかし栄一の生まれた屋敷は明
治25年の失火で焼失し、現在の建物は、翌年明治26年に渋沢
栄一の妹の夫によって再建されたものである。栄一は晩年
度々この家を訪れ宿泊している。
 明治20年、渋沢は深谷にレンガ製造会社を設立したが、こ
の深谷の工場で作られたレンガは東京駅や赤坂離宮、東京帝
国大学、日本銀行などの明治の近代建築に使われた。なお、JR東日本の深谷駅は「レンガのまち」を
PRするためにレンガ造りになっており、駅前には渋沢栄一の大きな銅像が建っている。




■設問14
 設問14

●渋沢栄一のアントレプレナーシップ論

   1. 渋沢の出自について述べなさい。
   2. 渋沢の経営に関する思想について述べなさい。
   3. 渋沢が初めて社会に出た頃の時代背景はどのようなものだったか。
   4. 人脈、ネットワーク。起業にどのように有利だっただろうか。
   5. 渋沢の経営の特徴を述べなさい。
   6. 渋沢が成功した原因は何だったと思うか。
   7. 明治における武士・豪農出身の経営者が持つ共通の特徴とは何だろうか。
   8. 渋沢と岩崎を比較すると、どのような点が違うか。自分の視点で述べなさい。




                         ~ 63 ~
【ケース ③】中上川彦次郎:企業リストラの元祖
       中上川彦次郎:企業リストラの
                リストラの元祖
 中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう)    。
 嘉永7年(1854年)生まれ、明治34年(1901年)没。日本の実業家。三
井銀行の理事に就任し、近代的な改革を打ち出し、また、他の三井財閥の
工業化と不良債権処理を推進し、  「三井中興の祖」として高く評価されて
いる。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。

(1)生い立ち
 現在の大分県中津市に中津藩士であった中上川才蔵・婉夫妻の長男とし
て生まれる。 15歳頃まで藩校進脩館で四書五経を学んだ。 福沢にあこがれ
洋学に関心をもった中上川は、  14歳の時に故郷を離れ、大阪で英語を習う。
その後、1869年(明治2年)に東京留学が許され慶應義塾に入学。17歳で
慶應義塾を卒業し教師をしていたが、政治家になりたいと考え、勉強のために留学を望んでいた。福
沢の力によりロンドンへの留学が実現し、20歳から 23歳までをロンドンで過ごした。3年間にわたっ
て滞在したイギリスでは専門的な勉強や大学に入学するでもなく、時たまロンドン大学の英国商業史
のレオンピー教授の講義を聞いたぐらいで、あとは毎日、ロンドンの町中を隅々まで歩いて知り尽く
し、文明の新知識を身をもって体験したという。

(2)官僚から民間へ
 この留学から、中上川は近代的な考え方、英国紳士の流儀を学び、その後の人生に生かした。また、
留学中、中上川は海外の経済事情を調査に来ていた井上馨(1836年~1915年。元長州藩士。明治政府
の要職を歴任。明治の元勲となる。  )と出会う。井上は中上川を大変気に入り、これは中上川にとって
人生を変える出会いとなった。井上が参議兼工部卿に就任するとともに井上の紹介で工部省に入り、
井上が参議兼外務卿になると、外務省に移り、若干26歳で外務省の局長を務めた。
 しかし政変に遭い、外務省での出世を諦め、   今度は福沢が創刊した時事新報社の社長兼主筆に就任。
経営が順調となると、中上川は次なる目標として貿易会社の設立を考えたが、福沢の反対にあって実
現しなかった。そこへ、新設される山陽鉄道会社社長就任の話が福沢門下の荘田平五郎から持ち込ま
れた。井上の後押しもあり、中上川は社長に就任したが、思い切った経営方針が株主の反感をかい、
社長から格下げになる。それを知った井上は、ちょうど三井の改革を依頼されていたため、中上川を
三井へ推挙した。明治24年(1891)、中上川は、三井銀行、旧三井物産、三井鉱山の各社の理事として
三井に席を置くことになった。この時、中上川は38歳である。

(3)三井銀行での活躍
  三井銀行は、幕末以来の三井組の大番頭であった三野村利左衛門の死後、さまざまな難問を抱えて
いた。政府は国庫金の運用を新設の日本銀行に任せることになり、三井銀行は政府関係者への多額の
資金提供が焦げつき、官金を取り扱っているために、重要でない地点に出張所を開いたり、政府関連
の不良債権も多く、銀行の資産の3分の1が不良貸し付けという危機的な状況にあった。さらに、明治
18年、19年の好景気で数多く生まれた企業がその後の景気後退で数多く倒産し、各銀行は取付け騒ぎ
が起こり、金融界は恐慌状態に陥っていた。三井銀行の本店、支店もその波に飲まれ、三井は最大の
危機を迎えた。
  中上川はまず、慶応義塾出身の有能な人材を採用した。当時の三井銀行の幹部職員は、三井組時代
からの手代たちであったが、中上川は人材の交替を図った。益田孝ら一、二の首脳部以外の旧来から
の三井の幹部番頭を全員辞めさせ、三十才前後の朝吹英二、波多野承五郎、柳荘太郎、日比翁助、藤
山雷太、武藤山治、池田成彬、藤原銀次郎などの中上川が集めた若手を銀行支店などの幹部に取りた
てた。彼らは、その後の三井各社をリードした人物が名を連ねている。中上川は、適材適所と実力主
義を用い、優秀な人物にずば抜けた高給を支払った。
  中上川の実力は、不良貸金の整理で発揮された。最初に行われたのが、東本願寺への100万円(現在
価値で約50億円)の貸金の回収であった。東本願寺が所有する動産・不動産は実際には抵当登記が行
われていなかったので、中上川は抵当登記を行い、返済できない場合は所有物を競売することを申し
入れた。東本願寺にとって最重要な枳殻邸を差し押さえる、と強行に談判させ、中上川は「明治の仏
敵」と寺社関係者から罵詈雑言を浴びせられても、断固として手を緩めず取り立てた。本願寺側はこ
れにあわて、180万円もの寄付を集めて三井銀行に返済した。中上川は、次々と不良貸付を回収してい
った。こうした中上川の経営スタイルは、強権には強く、業績を上げた者には思い切った高給で報い

                         ~ 64 ~
る、近代的な合理主義であった。
   あるとき、京都・祇園で遊興をつづけていた維新の元勲である伊藤博文から、三井銀行へ借金の申し入れ
  があった。中上川は、この使いの秘書に借金の担保を請求した。秘書はいつもと勝手が違うので困惑し、念
  を押すように伊藤博文の名を強調したが、中上川はとりあわない。
   「総理大臣であろうと、担保のない方に金を貸すわけにはいきません」
   中上川は、政界との腐れ縁を断ち、
                  「返済されざる賃金」を廃止することにした。こうして毅然たる姿勢で
  対処し銀行業務の正常化をはかった。
 また、官金取扱業務は三井銀行の近代化を阻むものであると考え、この業務からの脱却を行った。
旧三井物産を築いた益田孝が三井の商業化を進めたのに対し、中上川は、三井の工業化を推進した。
中上川は、王子製紙、鐘淵紡績、北海道炭鉱鉄道、芝浦製作所を三井の傘下にしてしまった。
 中上川は47歳で亡くなり、三井で活躍したのは10年間であったが、彼の才知により、三井財閥は大
きく前身する力を得たのである。

(4)中上川の評価
 日本産業史上における中上川の意義について、
                     「中上川彦次郎伝」の著者である白柳秀湖は次の三点
を指摘している。
   ①明治維新後も長年続いていた藩閥の権力者と富豪との間の慣れ合い的な金のやりとり、財政の
    私物化を断ち切った。
   ②三井の工業化を押し進めたこと。それまでの金貸し、ブローカー的な銀行業務を近代化し、官
    金預託業務を廃止し、商業銀行化を進め、銀行、物産から、生産的な工、鉱業に比重を移して
    いった。また、三井を総合的な企業グループへと切り替え、三井銀行、三井物産、三井鉱山、
    地所、工業部などの機構を整備した。
   ③少壮有為の人材を思いきって登用した。 旧幕からの商人タイプから近代的な実業家に切り換え
    たため、この実業家たちが日本の産業を転換させた。毎日新聞を大新聞に発展させた本山彦二、
    東洋の砂糖王といわれた藤山雷太、製紙王といわれた王子製紙の藤原銀次郎、三越を創った日
    比翁助、三井財閥の総帥・池田成彬、阪急グループの創設者小林三、森永製菓の森永太一郎ら、
    その後のわが国の代表的な実業家を育て上げた。

 【引用文献】
 ・前坂俊之「日本経営巨人伝⑨中上川彦次郎」      http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=550




■設問15
 設問15

●中上川彦次郎のアントレプレナーシップ論

   1. 中上川の出自はどのようなものか。それは事業に有利であっただろうか。
   2. 中上川が学んだ頃の時代背景を説明しなさい。
   3. 人脈、ネットワークは中上川に有利に働いたか。
   4. 三井家は、中上川入社の前後で、どのように変化したか。
   5. 自分が中上川を評価すると、評価できる点は何か。




                        ~ 65 ~
【ケース ④】益田孝:世界初の総合商社を創る
       益田孝:世界初の総合商社を
 益田孝(ますだ・たかし) 。
 嘉永元年(1848年)生まれ、昭和13年(1938年)没。草創期の日本経
済を動かし、三井財閥を支えた実業家。明治維新後、世界初の総合商社・
三井物産の設立に関わり、 更に日本経済新聞の前身である中外物価新報を
創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号した。男爵。

(1)生い立ち
 徳川幕府・佐渡奉行下役の長男として、 現在の新潟県佐渡市相川に生ま
れる。幼名は徳之進。父の鷹之助は元来は佐渡の地役人で採用され、正式
な幕臣ではなかったが、 能吏として評価されて後に幕臣に取り立てられた
人物である。父親が箱館(函館)奉行の下役を務めたのちに江戸に赴任し、
益田孝も江戸に出て、息子である孝の出仕を願い出て許可され、孝は幕府の外国方(外交業務)に従
事することになる。この外国方勤務が益田孝の人生の転換点となる。ヘボン塾(現・明治学院高校)
に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に護衛役として勤務する。アメリカ公使館は、公
使ハリス、のちに暗殺される通訳官ヒュースケンらが駐在し、ここに幕府の外国方の通訳として詰め
ていたのが若干14歳の益田であった。ハリスは気難しい性格だったらしく、机を叩いて叱る声がハリ
スの二間先の彼の部屋まで聞こえたと言う。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともにヨ
ーロッパを訪れている。帰国後は、幕府陸軍に入隊。慶応3年6月には旗本となり、慶応4年(1868年)に
は騎兵頭並に昇進した。

(2)明治維新後
 明治維新後は、自身が身につけた英語力を武器にして商売を始めようと期し、アメリカのウォルシ
ュ・ホール商会にその英語力を認められて横浜の貿易商館の事務員に迎えられた、
 明治5年(1872年)、井上馨(長州出身の明治の元勲、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、
大蔵大臣を歴任。 )の勧めで大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪に赴任し、貨幣の切り替えにともなう
金貨鋳造に取り組んだ。明治7年(1874年)には、井上から英語力を買われ、井上が設立した「先収会
社」で副社長に就任した。先収会社は、本店を東京に、支店を横浜、大阪、神戸に置き、陸軍省御用
として、絨、毛布、武器などを輸入するほか、銅や石炭、紙、米、茶、ロウなどを商っていた。特に
山口県の地租引当米の販売を担当するなど、米の売買で大きな利益を収めた。
 ところが、明治8年(1875)12月、井上馨が元老院議官に任命され、特命副全権弁理大臣として朝
鮮に派遣されることになったため、先収会社は閉鎖されることになり、明治9年(1876年)7月、益田
は三井組の支援を得て、先収会社を改組して「三井物産」を設立し、初代社主は三井組のトップであ
る三井武之助高尚と三井養之助高明としたが、総轄(現在の社長)は経営の実権を全面的に委任され
た益田孝が就任した。三井物産は、綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期
には日本の貿易総額の2割を占める大商社に育て上げた。

(3)三井物産の創業者社長として
  益田は、三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎
(商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋出身者が優勢を占めた。三井内部では、工業
化路線を重視した中上川彦次郎に対して、益田は商業化路線を重視したとされている。しかし、明治
24年に中上川が三井物産の理事に就任して、三井物産の実権を握り、益田は平の役員である委員に落
とされて雌伏の日々を送ることになる。明治34年に三井財閥の総帥であった中上川が死去すると、益
田が実権を握りトップに復帰した。益田は、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾を中心と
する学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総
帥には団琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた。また、益田は工部省から三池炭鉱の払下げを受
け、明治22年(1889年)に三池炭鉱社(のちの三井鉱山)を設立、団琢磨を事務長に据えた。
  益田は、金融業が主力であり金貸しに傾きがちであった三井を貿易商社、鉱山経営という実業路線
の強化により幅を広げさせ、三井財閥の基礎を作った。益田が「三井の大番頭」と呼ばれるのはこの
功績によるところが大きい。また、明治後半までの三井は、総本家、本家、連家のという11の家がそ
れぞれ資産を所有する一族の家族連合体であったが、益田が欧州の富豪経営を視察調査した上で、合
名会社の組織を取り入れ、明治42年、他の財閥に先駆けて三井合名会社を頂点とするコンツェルン体
制を確立した。他の財閥が本社を合名会社か合資会社とし、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッ

                        ~ 66 ~
ド型に結合する形は一般化した。大正2年(1913年)
                         、益田は三井物産を辞任し隠居生活に入った。
(4)茶人として
 益田は明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年                                益田鈍翁の建てた箱根の『白雲洞』
(1906年)には小田原市の板橋に掃雲台を造営し、「白
雲洞」「不染庵」「対字斎」という庵を立てた。この
    ・     ・
ことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めと
なっている。  近代小田原三茶人の1人としても知られる。
趣味の茶器収集も有名であった。  「鈍翁」(どんのう)
の号は、益田が収集した茶器「鈍太郎」に由来する。
墓所は護国寺にある。  また、弟で実業家の益田英作も、
野々村仁清作の色絵金銀菱文茶碗(重要文化財)など
に代表される収集家である。また、共に箱根強羅の別
荘地開発に深く関わった。大正15年(1926年)には慶
應義塾大学医学部に寄附を行い、食養研究所が設立さ
れた。

  ■ 三井物産の沿革
 1874年(明治7年)3月     井上馨、益田孝らとともに先収会社を設立。
 1876年(明治9年)7月     井上馨の政界復帰に伴い、先収会社の事業をもとに三井物産会社を設立。
                   益田孝が総轄に就任。
 1889年(明治22年)6月    三池炭鉱社(のちの三井鉱山)と三池炭の一手販売契約締結。
 1920年(大正9年)4月     綿花部を分離し、東洋棉花(のちのトーメン、現豊田通商)設立。
 1937年(昭和12年)7月    造船部を分離し、玉造船所(現三井造船)設立。
 1942年(昭和17年)12月   船舶部を分離し、三井船舶(現商船三井)設立。
 1947年(昭和22年)7月    財閥解体によりGHQより解散命令。同年11月、旧三井物産解散。
 1949年(昭和24年)5月    第一物産、東証上場。
 1959年(昭和34年)2月    第一物産を中心に旧三井物産系新会社結集、大合同成る。
 1969年(昭和44年)4月    オーストラリア・マウントニューマンからの鉄鉱石出荷開始。
 1969年(昭和44年)7月    三井グループ17社により三井石油開発設立。
 1971年(昭和46年)2月    アメリカNASDAQに上場。
 1971年(昭和46年)3月    リース事業部を分離し三井リース事業(現JA三井リース)設立。
 1977年(昭和52年)5月    アブダビ・ダス島のアブダビLNG生産開始。
 1989年(平成元年)10月    イラン・ジャパン石油化学(IJPC)より正式撤退。
 1995年(平成7年)6月     オーストラリア・ワンドゥー油田取得。
 2009年(平成21年)2月    ロシア・サハリン2LNG生産開始。
 2010年3月期決算        資本金3,414億円、連結売上高9兆3,583億円。

 【引用文献】
 港区人物データベース           http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=132
 三井広報委員会ホームページ        http://www.mitsuipr.com/history/hitobito.html



■設問16
 設問16

●益田孝のアントレプレナーシップ論

   1. 増田の出自はどのようなものか。それは事業経営にとって有利であったか。
   2. 父親と子(益田孝)にわたり「立身願望」を持っていたと思われるが、それはどこに
      あるか。
   3..益田が出世した理由は何か。
   4. 三井組は、益田の入社後にどのように変化したか。
   5. 益田は、岩崎弥太郎、渋沢栄一と比較すると、企業経営者としてどこが異なるか。 自
      分の考えを述べなさい。




                                      ~ 67 ~
【ケース ⑤】豊田佐吉:世界のトヨタの祖
       豊田佐吉:世界のトヨタの
              のトヨタの祖
 豊田佐吉(とよだ・さきち)  。
 1867年(慶応3年)生まれ、1930年(昭和5年)没。日本の実業家。

(1)生い立ち
 慶応3年(1867年)、遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)の
貧しい農家兼大工の家に生まれた。佐吉は小学校を卒業した後、父伊
吉のあとを継いで大工の修業を始めたが、13歳を過ぎた頃より新聞・
雑誌を読みふけり、国家や社会、人生などについて深く考えこみ、何
か成しうる事業は無いかと考慮を重ねる毎日だったという。

(2)発明家を志す
            、18歳の時に専売特許条例が公布され、それ以
 1885年(明治18年)
来、「教育も金もない自分は、発明で世に出よう。  」と決心し、発明を
志した。そうして、最初に原動力を案出しようと、永久・無限動力の発明にとりかかった。しかし、「な
るべく早く、国・社会のためになるものを」との思いから、当時政府の主導で機械化され大規模に行
われ始めた糸紡ぎ以上に、作業負荷の高い織布こそ機械化して、大仕掛にする必要があるとの考えの
もと、動力機械の発明・研究に専念した。当時の織布業の経営実態などを考慮して、まず簡単で身近
な手織機から着手し、苦労の末に1890年に「豊田式木製人力織機」を発明し完成させ、初めて特許を
取得した。

(3)発明と改善
 しかし、人力織機では能率に限界があることから、佐吉は再び当初から目指した動力織機の研究に
着手し、1896年、遂に日本で最初の動力織機である「豊田式木鉄混製動力織機」の発明・完成に成功
した。この発明により佐吉翁の工場には、時の総理大臣をはじめ、政府高官ほか名士多数が訪れて惜
しみない賛辞が送られた。なかでも大隈重信伯からは、  「発明という仕事は、外国人と知能の戦争をす
ることである、負けをとらないようにしっかりやってくれ」と激励があり、さらに、従業員に金一封
が授与されたという。
 こうして32歳の豊田佐吉は、日本一の織機の発明者として全
国にうたわれるようになる。この高い生産能力をもつ動力織機
は、瞬く間に広く普及し、時流に先んじた発明・完成で、日清
戦争で疲弊した国家財政の建て直しという、国策の遂行に大き
く貢献した。1899年12月には、三井物産より要請があって、織
機の製造販売に関する契約が結ばれ、合名会社井桁商会が設立
された。佐吉の発明・研究はさらに着々と進み、1901年10月に
は経糸(たていと)送出装置の特許を出願する。この送出装置
は現在も使用されている装置の原型をなすもので、画期的な発
明であった。その他にも織機の自動化に向けた重要発明に成功
し、試験研究と創造を重ねていった。
 そうして豊田佐吉は「発明の足場」として、1911年(明治44
年)に豊田自働織布工場(後の豊田自動織機製作所の栄生工場
で、現在は産業技術記念館)を設立し、研究および発明、創造
を重ねた。発明上の信念とする「創造的なものは、完全なる営
業的試験を行うにあらざれば、発明の真価を世に問うべからず」
に基づいて、紡織一貫の大規模で長期の営業的試験、研究を操
り返した。更に、より完全なる試験を行うため、新たに愛知県
刈谷町に営業的試験工場を設立した。
 1924年11月、佐吉は、世界最初で最高性能の完全な「無停止
杼換式(ひがえしき)豊田自動織機(G型)」を誕生させた。このG
型自動織機は、  高速運転中にスピードを落とすことなく杼(ひ)
を交換して緯糸(よこいと)を補給する完全な自動織機であっ
た。この自働織機は、従来の織機の15~20倍以上という画期的
な生産性と合わせて、織物品質も大幅に向上させた。

                         ~ 68 ~
このG型自動織機の発明・完成は、国際労働会議の決議による工場法の改正、
                                   「女子・年少者の深夜
業の禁止」と世界的な不況克服の産業・経営合理化対策など、時流に先んじたものであった。先端的
な発明を実現し、広く繊維産業の発展に大きく貢献し、発明を目指した豊田佐吉の思想は見事に実現
された。

(4)株式会社豊田自動織機製作所の誕生
 豊田佐吉が究極の発明目標としたG型自動織機が、事実上の豊田自動織機製作所の誕生となった。自
動織機を量産する新工場の用地は刈谷の試験工場に隣接した場所に決定、1926年11月、株式会社豊田
自動織機製作所が創立された。佐吉の自動織機は24に及ぶ特許があり、それらは不良品を未然に防ぐ
装置であった。後工程に不良品を送らない佐吉の自動織機は、機械に人間の知恵を付与するその考え
方が、人偏のついた「自働」にこめられているという。
 1926年の豊田自動織機製作所の設立時、佐吉は59歳であったが、婿養子の豊田利三郎を社長とし、
トップから退いた。晩年は会社経営を子息に譲ったが、   「一人一業」を説く佐吉は、息子である豊田喜
一郎(トヨタ自動車第二代社長、実質的な創業者)に、次代の事業として国産自動車の製造を勧めて
いた。1930年(昭和5年)10月30日、佐吉は逝去した。

(5)国産自動車の開発                        1936年のトヨタ初の乗用車「AA型乗用車」
 1923年(大正12年)、関東大震災で鉄道の機能が麻痺した時、
復旧に重要な役割を果たしたのは自動車だった。   それ以降、  外国
車が非常な勢いで輸入されるようになる。当時、   豊田自動織機製
作所の常務だった喜一郎は、   外国車の活躍の影で自動車製造の準
備を進め、1933年(昭和8年) 、豊田自動織機製作所に自動車部
門を設置し、1935年大型乗用車試作第1号が完成した。国策上の
要請に応え、  トラックとバスの製造にも同時に着手。 1935年(昭
和10年)11月には、東京芝浦で一足先に量産体制が整ったトラ
ックを一般公開。  次いで生産が軌道に乗り始めた乗用車について
も、1936年(昭和11年)9月に、東京丸の内の東京府商工奨励館
で大衆乗用車完成記念展覧会を開催した。

(6)トヨタ自動車の歴史
 この発表会翌日、豊田自動織機製作所は日産自動車株式会社とともに自動車製造事業法による許可
会社に認定された。国策は自動車事業発展のために急速な増産体制を要望していたが、当時、豊田自
動織機製作所の事業は拡大の最中にあり、リスクの多い新規事業への大量資金の投入には慎重を要し
た。しかし一方で、自動車の本格的な生産を目指して準備が進められ、1937年(昭和12年)8月、自動
車部門が分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社が設立された。

                             (トヨタ自動車の沿革)
        1930年(昭和5年)    豊田喜一郎、小型ガソリンエンジンの研究を開始。
        1930年(昭和5年)    豊田佐吉、逝去。
        1933年(昭和8年)    (株)豊田自動織機製作所に自動車部を設置。
        1936年(昭和11年)   トヨダAA型乗用車発表。
        1937年(昭和12年)   トヨタ自動車工業(株)設立(資本金1,200万円)。
        1938年(昭和13年)   挙母工場(現本社工場)操業開始。
        1950年(昭和25年)   経営危機(労働争議・人員整理)。トヨタ自動車販売(株)設立。
        1955年(昭和30年)   トヨペット・クラウン、トヨペット・マスター、クラウン・デラックス発表。
        1957年(昭和32年)   国産乗用車 対米輸出第1号(クラウン)。米国トヨタ自動車販売(株) 設立。
        1959年(昭和34年)   元町工場操業開始。
        1966年(昭和41年)   カローラ発表、日野自動車工業(株)と業務提携発表。
        1967年(昭和42年)   ダイハツ工業(株)と業務提携発表。
        1975年(昭和50年)   住宅事業に参入。
        1982年(昭和57年)   トヨタ自動車工業(株)、トヨタ自動車販売(株)合併。新社名「トヨタ自動車(株)」。
        1984年(昭和59年)   米国でのトヨタ・GM合弁会社(New United Motor Manufacturing, Inc.)生産開始。
        1988年(昭和63年)   米国 TMM(現Toyota Motor Manufacturing, Kentucky, Inc.)生産開始。
        1989年(平成元年)    米国 LEXUS店設立。
        1992年(平成4年)    英国 TMUK(Toyota Motor Manufacturing(UK)Ltd.)生産開始。
        1997年(平成9年)    プリウス(ハイブリッドカー)発表。
        1999年(平成11年)   国内生産累計1億台達成。
        2000年(平成12年)   中国 四川トヨタ自動車(有)生産開始。
        2001年(平成13年)   フランス TMMF(Toyota Motor Manufacturing France S.A.S.)生産開始。
        2002年(平成14年)   モーターレースF1参戦。中国 天津トヨタ自動車(有)生産開始。
        2008年(平成20年)   プリウス販売累計100万台達成。


                                         ~ 69 ~
(トヨタ自動車の年間生産・販売台数の推移)




【引用文献】
・トヨタ自動車ホームページ   http://www2.toyota.co.jp/jp/history/index.html
・トヨタ自動車、豊田佐吉記念館        http://www.toyota.co.jp/jp/about_toyota/facility/sakichi/




■設問17
 設問17

●豊田佐吉のアントレプレナーシップ論

    1. 豊田の出自は、起業家と関係があるかについて述べなさい。
       また、豊田は少年期に自分の置かれた環境から、どのような人生を目指したのか。
    2. 豊田が起業した当時の時代背景を簡単に述べなさい。
    3. 豊田の発明した製品はどこで使われ、どのような効果があったか。
    4. 佐吉の死後、会社はどのように発展したか。
    5. トヨタ自動車の発展期はいつ頃か。
    6. 豊田佐吉は、岩崎弥太郎、渋沢栄一に比べて起業家人生がどのように異なるか。




                                      ~ 70 ~
【ケース ⑥】古河市兵衛:挫折からの復活
       古河市兵衛:挫折からの
               からの復活
 古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ)   。
 天保3年(1832年4月16日)生まれ、明治36年(1903年)没。日本
の実業家で、古河財閥の創業者。   京都出身。幼名は木村巳之助、  幸助。

(1)生い立ち
 生家の木村家は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄であったが、父の
代には没落
   没落しており、市兵衛は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮ら
   没落
しで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営
んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行
をすることを希望し、嘉永2年(1849年)、盛岡に向かう。

(2)養子家での事業
 市兵衛は、盛岡では高利貸しの叔父のもとで貸金の取立てを手伝う。やがて南部藩御用商人の鴻池
伊助店に勤めるが、まもなく倒産する。安政4年(1857年)
                            、叔父の口利きで京都・小野組の番頭だっ
た古河太郎左衛門の養子となり、翌年には古河市兵衛と改名した。
 その後、養父と共に生糸の買い付けを行っていたが、養父に才能を認められ、順調に小野組内の地
位を高めていく。明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功
を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、市兵衛が奉公していた小野組は壊滅
的な打撃をこうむり、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。

(4)鉱山への進出
 しかし、その際、小野組と取引があった渋沢栄一が経営していた第一銀行に対し、市兵衛は倒産し
た小野組の資産や資材を提供して第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢栄一という有力な協力者を得るこ
とに成功した。
 小野組の破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営で
あった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。続いて新潟県の草
倉鉱山の入手を企て、渋沢栄一から融資の内諾を得るも、やはりこれも最初は政府の許可が得られな
かった。
 しかし、市兵衛は小野組時代からの縁があった元相馬藩主を名義人として立て、市兵衛が下請けと
して鉱山経営を行う条件で政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。明治8年(1875年)
のことであった。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意
を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる。
 明治10年、古河市兵衛は、草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収
した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、その後渋
沢栄一も共同出費者として名を連ねた。当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた
結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の
可能性は低いと判断されていた。そのため一時官
営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時に           1895年頃の足尾銅山
はお雇い外国人ゴットフリイの調査結果に基づ
き民間に払い下げられていた状態であった。しか
し市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然
たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われ
ていないことにあると見抜き、チャンスとみて足
尾銅山の経営に乗り出したのである。

(5)鉱山経営の苦闘と成功
 しかし、市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した
当初は、銅山は経営にならない悲惨な状況が続い
た。まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切って
いた山師集団(鉱山労働者達)の強い反発に遭っ
た。そのためせっかく経営権を入手したものの、


                         ~ 71 ~
市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。続いて山師集団
の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったものの約4年間にわたって全く成果があがらない状況が
続いた。現場責任者の坑長も立て続けに三人交代し、四人目のなり手が現れないありさまであった。
 明治13年(1880年) 市兵衛は四人目の坑長として当時まだ二十代の半ばであった甥の木村長兵衛を
             、
抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。その後、足尾銅山
では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、またたくまのうちに日本を代表する大銅
山へと発展した。市兵衛は採鉱事業の近代化を進め、西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山
は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日
本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。
 市兵衛は、足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などの多くの鉱山を経営し鉱山王と称され、のちの古河
財閥の基礎を築いたが、足尾銅山の急激な発展は市兵衛の晩年である1890年代から足尾銅山鉱毒事件
として社会問題化した。
 市兵衛は鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手した。明治17年(1884
年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅
所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになる。

(6)古河財閥
 市兵衛は、古河財閥の源流である古河本店(現・古河機械金属)を明治8年(1875年)に創立した。
古河本店は、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て、事業の多角化・近代化を強力に推進し、
一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)
の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学
工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。
 第二次大戦までの古河財閥の主要な傘下企業は、以下の通り。
 古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機ホールディングス)  、
富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽
金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほコーポレート銀行) 、大成火災海上
保険(現・損害保険ジャパン)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・ト
ウペ)
  、大日電線、日本電線(現・三菱電線工業)など。




■設問18
 設問18

●古河市兵衛のアントレプレナーシップ論

   1. 古河は、どのような出自であったかを簡単に述べなさい。
   2. 古河は、
         「生計上必要だった起業家」か、それとも「自分で機会を活かした起業家」か。
   3. 古河の性格をどう想像するか。自分の想像で述べなさい。
   4. 古河は、生糸等の繊維業に従事しながら、なぜ異分野の銅山経営に進出したのだろうか。
      自分の想像で推察しなさい。
   5. 古河の人脈、ネットワークはどのようなものと想像するか。自分の考えを述べなさい。
   6. 古河の挫折とは何か。




                       ~ 72 ~
■まとめ:明治の起業家論のポイント
 まとめ:明治の起業家論のポイント

               項目                    論点

 1.起業にいたる時代背景               文明開化、西洋近代技術の導入、四民平等、
                            富国強兵、薩長藩閥、など。

 2.出自、性格、教育、思想、価値観          武士、豪農、貧しさ、階級への反発、青雲
                            の志、寺小屋、藩校、儒教、など。

 3.明治の起業家は、何に影響されたか         尊王攘夷、統幕運動、欧米列強、文明開化、
                            欧州視察、主家の衰亡、など。

 4.起業家・事業経営者としての個人的強さ       武士の魂と価値観、幼年の貧しさ、闘志、
                            信念、など。

 5.人脈、ネットワーク                薩長との結びつき、明治新政府、武士の人
                            脈、欧米との人脈、など。

 6.公権力(幕府、政府)との関係           薩長出身の権力者との関係、など。


 7.事業形態(組織)                 家業、株式会社、同族グループ(財閥)の
                            形成、専門的近代経営者、など。

 8.事業の後世代への後継               強い家業意識、後継者・相続者、など。


 9.明治のアントレプレナーの長所と弱点        教育、組織、企業統治、国際化、など。


 10.明治において、起業家が経済社会に果たした    民間産業資本の拡大、近代会社経営の浸透、
    役割とは何か                  など。




                        ~ 73 ~
Ⅱ.昭和の起業家
  昭和の
1-①昭和の年表
年号 年 ⻄暦                   出来事                            起業家
⼤正 2 1913      第一次憲政擁護運動始まる。
    3 1914     第一次世界⼤戦勃発。⼤戦景気。
    7 1918     シベリア出兵、米騒動。原敬が首相就任。       (⼤7)松下幸之助、⼤阪市で松下電気器具製作所を創業。
   12 1923     関東⼤震災。
   14 1924     普通選挙法成⽴。
   15 1925     ⼤正天皇崩御、昭和に改元。             (⼤15)豊⽥佐吉、豊⽥⾃動織機製作所を設⽴。
昭和 2 1926      昭和⾦融恐慌。多数の銀⾏が破綻。
    4 1929     世界恐慌。                     (昭3)本⽥宗一郎、浜松市で独⽴し⾃動⾞修理業を始める。
    6 1931     満州事変。
    7 1932     満州国建国。五・一五事件。
    8 1933     国際連盟脱退。
   11 1936     二・二六事件。
   12 1937     日中戦争勃発。                   (昭12)トヨタ⾃動⾞⼯業設⽴。
   14 1939     独、ポーランド侵攻。第二次世界⼤戦。
   16 1941     真珠湾攻撃。太平洋戦争開戦。
   18 1943     日本軍ガダルカナル島撤退。
   20 1945     ポツダム宣⾔を受諾。終戦。
昭和 21 1946     日本国憲法公布。                  (昭21)盛⽥と井深、東京日本橋に東京通信⼯業を設⽴。
   24 1949     ドッジ・ライン実施。                (昭24)ホンダ、モーターサイクルの第一号機種を発売。
   25 1950     朝鮮戦争勃発。日本は朝鮮特需。
   26 1951     サンフランシスコ講和条約調印。
   30 1955     ⾃由党、日本⺠主党合同、⾃由⺠主党発⾜。      (昭30)松下幸之助、⻑者番付で日本一になる。東京通信⼯業、日本
                                         初のトランジスタ・ラジオを発売。
   32 1957 なべ底不況。                        (昭32)中内功、⼤阪市千林駅前に主婦の店ダイエー薬局を開店。
                                         (昭34)稲盛和夫、京都セラミック株式会社を創業。
   35 1960 日米安保条約改定。所得倍増計画。              (昭35)ソニー、アメリカ販社を設⽴し、盛⽥がアメリカに赴任。江副浩正、
                                         ⼤学卒業直後にリクルートを創業。
   37   1962   オリンピック景気始まる。
   39   1964   東海道新幹線開通。東京オリンピック。        (昭39)テレビの値引き販売をめぐって、「ダイエー・松下戦争」が勃発。
   41   1966   日本の総人口が1億人を突破。いざなぎ景気。     (昭42)ホンダ、本格的に軽四輪⾞に進出。N360販売開始。
   45   1970   日本万国博覧会。よど号ハイジャック事件。
   46   1971   ニクソンショック。円切り上げと変動相場制移⾏。
   47   1972   札幌オリンピック開催。沖縄返還。          (昭47)ダイエー、小売業界で売上高日本一に⽴つ。
   48   1973   第一次オイルショック。
   51   1976   「ロッキード事件」。
   53   1978   日中友好平和条約。
   54   1979   第二次オイルショック。               (昭54)第二電電企画株式会社を設⽴、稲盛和夫、会⻑に就任。
   60   1985   プラザ合意。円高始まる。              (昭59)トヨタ、米国で合弁生産開始。
   62   1987   バブル景気始まる。国鉄⺠営化でJR各社発⾜。
   63   1988   「リクルート事件」。                (昭63)ダイエー、南海ホークスを買収しプロ野球業界へ参⼊。




■起業家列伝の学習ポイント
 起業家列伝の学習ポイント

     1. 第二次大戦後から現在までの基本的な日本の経済史を把握する。
     2. 第二次大戦後の混乱期に「起業家」が企業を起こした背景、そして三度のベンチャーブ
        ームの状況と背景を理解する。
     3. パナソニック、ホンダ、ソニーといった世界に名だたる日本企業の創業過程を知る。
     4. 起業家の失敗を知り、その原因を考えてみる。
     5. それぞれの起業家の生きざまを知り、現代の我々と比較する。




                                         ~ 74 ~
【ケース ⑦】松下幸之助:パナソニックの創業者
       松下幸之助:パナソニックの
 松下 幸之助(まつした・こうのすけ)
 1894年〈明治27年〉生まれ、1989年〈平成元年〉没。日本の実業家。
パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所→松下電器製作所→松下電
器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者で、小学校中退の学歴で
日本の長者番付トップとなり、   「経営の神様」と称された。
 自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP
研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、     晩年は松下政経塾を立ち上
げ政治家の育成にも意を注いだ。

(1)生い立ち
 1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村(現:和歌山市)に、小地
主であった松下政楠の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとす
る。
 1899年頃、父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町に転居し下駄屋を始めた。しか
し父には商才もなく店を畳んだため、松下は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公
に出される。後に、奉公先を五代自転車に移した。
 自転車屋の奉公時代、店主に度々タバコを買いに行かされた。その際いちいち買いに走るよりもまとめ買いして
置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭をためた。しかしこれが丁稚仲間から
反感を買い、店主にやめるよう勧められたためにまとめ買いを止める。
 大阪に導入された路面電車を見て感動し、「これからは電気の時代が来る」  と直観し、大阪電燈(現:
関西電力)に見習工として入社し、7年間勤務する。1913年、大阪市関西商工学校夜間部予科に入学す
るも、翌年に夜間部本科を中退。
 大阪電燈の高津営業所の近くの鰻谷に、住友家の本邸があった。幸之助は、工事の途中、よくその門前を通った。
当時、住友家といえば、三井、岩崎と並び称せられる日本有数の大富豪であり、もちろん関西随一の大金持ちだっ
た。その本邸は実に豪壮で、大きな門構えには近寄りがたい雰囲気があった。彼は、その門前を通るたびに、その
立派さに驚いていた。
 その後三十年余が経ち、松下の事業も拡大し、住友銀行との関係も深まってから、彼は夫妻で住友家から一夕の
招待を受けた。その場所がこの鰻谷の屋敷だった。すでに住友本邸は芦屋に移りここは別邸になっていたが、彼は
昔のことをしのび、感慨無量の思いで門をくぐったという。


(2)独立して起業
 大阪電燈では、当時の電球が自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外
しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すこと
ができる電球ソケットを大阪電燈在職中に考案する。
 1917年(大正6年)、松下幸之助は大阪電燈を退職し、大阪府東成郡鶴橋町
(現:大阪市東成区玉津)の自宅で、妻・むめのと、その弟の井植歳男(営
業担当、後に専務取締役。戦後に三洋電機を創業して独立。  )および友人2名
の計5名で、電球ソケットの製造販売に着手した。しかし、新型ソケットの売
り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在の
パナソニック・エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことに
より窮地を脱した。その後、アタッチメントプラグ、二股ソケットがヒット
したため、経営が軌道に乗る。
 事業拡大に伴い、1918年(大正7年)に大阪市北
区西野田(現:大阪市福島区大開)で松下電気器具
製作所を創業。  電球ソケットに続き、カンテラ式で
取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、   これ
らのヒットで乾電池にも事業を広げた。1929年、
会社を松下電器製作所へ改称すると共に、会社の
「綱領・信条」を定めた。
 1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創
業記念式を開き、  ヘンリー フォードにならった
               ・        『水
道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を
     、       、


                         ~ 75 ~
社員に訓示した。また、事業拡大のため門真市に本社・工           1937年当時の「ナショナル」の広告
場を移転した。当時門真市から枚方市にかけての地域は大
阪市内から見て鬼門に当たるとされて開発が遅れていた地
域であったが、松下は東北に細長く延びる日本地図を指し
て「日本列島はほとんどが鬼門だ」といい本社移転を断行
した。1935年には松下電器産業株式会社へと社名変更し、
ついで1937年、松下は松下電器の統一的なイメージづくり
のために、一部で使用していた「ナショナル」マークを改
正・統一し、松下のすべての製品につけるというブランド
戦略を昭和初期に他社にさきがけて実行した。

(3)軍需生産と終戦
  第二次世界大戦中は、 松下は政府の下命で軍需品の生産に協力し、 いわゆる軍需工場となった。1943
年4月に松下造船株式会社を設立し、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造。ついで
1943年10月には松下航空機株式会社を設立し、練習用の木製急降下爆撃機を終戦までに7機試作したが、
品質と信頼性に対する認識不足から失敗に終わった。
  終戦後、GHQは松下電器を戦争に協力した財閥会社とみなして制限会社に指定し、幸之助・井植以
下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受けた。松下は、   「松下電器は一代で築き上げたもの
で、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と一貫して反論を続けた。1946年11月
にはPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出すことで世評を高め、  戦後に人員整理を極力避けたことを評
価した松下電器の労働組合もGHQに請願したため、松下電器はまもなく制限会社指定を解除され、松
下も1947年に社長に復帰した。

(4)長者番付日本一
 続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、直営工場の操業時間短縮・人員大量整理・賃金抑制
を断行し、危機を乗り切った。
 その後の松下電器は順調に業績の拡大を続けた。松下は、1950年以降、長者番付で10回の全国1位を
                                     、また40年連続で全国100位以内に登場し
記録し(1955~1959年、1961~1963年、1968年、1984年)
た。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000
                                       どこの町にもあったナショナル・ショップ
億円の資産を築いたと推定されている。
 1951年、テレビ事業視察のため外遊し、翌1952年にオラン
ダの電機会社フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工
業として分社化、1997年4月松下電器に統合)     。1954年には戦
前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金
相当額を投入して日本ビクターを子会社化した。
 1957年、松下電器は全国の「街の電器屋さん」が加盟する
日本で最初の系列店ネットワーク「ナショナル店会」         (後のナ
ショナル・ショップ)を発足させる。この制度は高度成長期
の強大な販売網として機能し、     ピーク時には全国で約5万店に
まで増加した(その後、後継者不足や量販店との競争激化に
より現在は約1万8,000店にまで減少している)     。

(5)会長就任
 松下は1961年に会長に就任して経営の第一線から退くが、松下電器はヒット商品欠如が岩戸景気後
の反動不況と相まって業績が赤字に転落した。また、家電製品の安売り問題をめぐって、当時のダイ
エー社長の中内功と30年にわたる「ダイエー・松下戦争」が勃発した。急成長を続ける小売のダイエ
ーが松下電器の要請にもかかわらず安売りを続け、全国のナショナル店会の小売業者が苦境に陥って
いたからである。1964年7月、松下幸之助は会社とナショナル店会業者を引き締める目的で熱海のホテ
ルを借り切り、全国販売会社代理店社長懇談会を開催し、全国の販売店と直談判する機会を設けた。
しかし、ナショナル製品の売れ行き不振や、熾烈なノルマや販促グッズの押しつけ、欠陥テレビの修
理費負担などを販売店側が問題視して紛糾し、幸之助は販売店から3日間にわたり吊し上げられた。こ
のため、松下は自ら営業本部長代行を兼務しトップセールスをする現場復帰を余儀なくされた。
 1967年7月、公正取引委員会は、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して松下
を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けたも

                           ~ 76 ~
のの、松下はこれを拒否したため、全国の消費者から批判を浴びた。
 1973年、松下は80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1979年、私財70億円を投じて財団法人
松下政経塾を設立し、政界にも影響力を及ぼそうとした。1989年4月27日に肺癌のため、松下記念病院
に於いて死去した。享年94歳。

(6)松下幸之助の思想
 松下幸之助は、独自の思想をもって経営にたずさわり技量を発揮した。それぞれの部門が事業を自
己責任で推進できる事業部制を採用したり、あるいは従業員との対話や企業の一体感の維持に並なら
ぬ努力を注いだりしている。1980年には、将来の日本には確固たる信念をもったリーダーの存在が特
別に必要であるだろうという信念のもと、リーダーを育成するための「松下政経塾」を開設した。や
がて多くの経営者や政治家が、この門下から輩出されていった。現在、松下政経塾出身の政治家は、
野田佳彦財務大臣、前原誠司前外相をはじめ30名を超えている。
 また、松下は、人間が生きる上での理念にも思いを巡らせており、  「繁栄こそが幸福で平和な生活を
もたらすものである。今の日本ではその繁栄をもたらす理念が認識されていないから平和な社会が築
けない。」という思想から、1946年、繁栄によって平和と幸福を実現するための研究機関として「PHP
研究所」を創設し、松下みずからもPHP運動に精力を注いだ。
  ●
   松下幸之助の 水道哲学」
   松下幸之助の「水道哲学」
  「産業人の使命は貧乏の克服である
   産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の
   産業人の使命は貧乏の克服である
   水は価有る物であるが、乞食がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人
   の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を
   もたらし、この世に楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命もまたその点にある。」

  ●
   松下幸之助 語録
  「価格決定権というのはメーカーが持っている。だからメーカーのゆうたとおりの値段で売ってくれりゃ、あなた方販売店は
   もうかる。社会のために貢献するんですよ。
                      」
  「企業は社会の公器である。」
  「松下は人をつくる会社です。あわせて家電もつくってます。」
  「商人に好況、不況は無い。いずれにしてももうけなくてはならぬ。」
  「よそさんの品もんのええ所を徹底的に研究して、何か一つか二つ足せばええんや。」
  「ご苦労さん、ええもんが出来たな。さあ、今日からこの商品が売れんようになるような新商品を作ってや。」

 【引用文献】
 ・パナソニック企業情報: 創業者 松下幸之助              http://panasonic.co.jp/founder/


■設問19
 設問19

●松下幸之助のアントレプレナーシップ論

      1. 松下の出自を説明し、それが起業にどのように影響したかについて「自分の考えを述べ
        なさい。
      2. 松下が関西電燈を辞めて起業した頃の時代背景を説明しなさい。
      3. 明治の成功した起業家が持っていたような強い人脈やネットワークは、松下にあった
        のだろうか。
      4. 松下の「水道哲学」について簡単に説明しなさい。
      5. 松下幸之助の先進性とは何か。
      6. 松下は中内功のダイエーと対立したが、どのような見解の相違があったのか。
      7. 松下幸之助を評価する点は何か。自分の意見を2つあげなさい。




                            ~ 77 ~
【ケース ⑧】本田宗一郎:ホンダを創った「町の技術屋」
       本田宗一郎:ホンダを創った「  技術屋」
 本田 宗一郎(ほんだ・そういちろう)
 1906年(明治39年)生まれ、1991年(平成3年)没。
 高等小学校卒の自動車修理工から身を起こし、日本の自動車エンジ
ンを世界最高レベルにまで高めた技術者、    起業家。独創性にこだわり、
人まねを嫌った。藤澤武夫という名伴侶を得て、一代で「世界のホン
ダ」を築いた。ネアカで自由奔放な性格、ユーモア精神に溢れるとい
う人間的魅力をそなえ、誰からも愛され、慕われた。晩年は引き際鮮
やかに後進に道を譲り、死ぬ直前も「交通渋滞が起きて迷惑をかける
から」と社葬を禁じた。

(1)生い立ち
 1906年、静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)で鍛冶屋をして
いた本田儀平と妻みかの長男として生まれる。1913年、光明村立山東
尋常小学校に入学。1914年、浜松市でアメリカ・フォード社のT型フ
ォードを初めて見て感動する。1917年、浜松町和地山練兵場で飛行機
の曲芸飛行を見学、ここで飛行機を初めて見たという。

(2)小学校卒業後、丁稚奉公で上京
 1922年、宗一郎は高等小学校を卒業し、東京市本郷区湯島(現在の
東京都文京区湯島)の「アート商会」  (現:アート金属工業)という
自動車修理工場に入社した。  当時の表現でいえば「丁稚奉公」である。
修理工場で見習い工の職を得たとはいうものの、   修理工場の主人から
押しつけられた仕事は子守であった。  本田はこれに落胆して故郷に帰
ると、6ヵ月もしないうちに元の修理工場に呼び戻されたという。

(3)帰郷して独立
 アート商会に6年間勤務した後、1928年にのれん分けの形で浜松市
に支店を設立して独立した。宗一郎ただ1人だけが社長からのれん分けを許された。当時の本田は22歳
で、浜松で修理工場をスタートさせた。
 修理工場の経営は順調に拡大していった。宗一郎の自動車に対する思い入れは仕事から自動車レー
スに広がり、趣味と実益をかねてレースに参戦し、1936年には平均時速の新記録をつくるまでになっ
た。ところが同年、レース中に大事故を起こし、手首まで折るという不幸に見舞われる。本田の妻は
心配のあまり、レースをやめるよう説得した。それでも本田はレースを続けながら、自分の仕事に精
力的に取り組んだ。1937年にはエンジン部品であるピストンリングの製造を手がけ、東海精機重工業
を設立した。同社はピストンリングの改善に2年近い歳月をかけ、トヨタ自動車や中島飛行機に納入で
きるようになり、戦前の最盛期には従業員が2,000人を超えるまでに大成長した。
 自分の教育のなさを気にしていた本田は、浜松高等工業学校に入学する。仕事に追われて出席する
ことが難しく、本田の成績はよくなかった。また、ピストンリングに関係のない講義を聞く気にはな
れず、講義のノートも取らなければ試験も受けなかった。本田に後にこう語っている。
  「卒業証書なんかに興味はありませんでしたよ。だって何の役にも立ちゃしないんだから。僕の成績はビリだ
   ったから、卒業試験も受けなかった。校長は私を呼びつけて退学だという。だから言ってやった、卒業証書
   なんか欲しくありません。映画館の入場券のほうがよっぽど値打ちがあるってね。入場券は映画館に入れる
   保証になるのに、卒業証書はなんの保証にもならないんだから。」
 卒業証書を放棄し、学歴のプライドとメリットをあきらめると、一匹狼の本田は自分独自の方法で
その運命を切り開いていくことになる。

(4)藤澤武夫との二人三脚経営
 第二次大戦後、1948年には東海精機重工業をトヨタ自動車に売却し、45万円を得た。すでに1946年
には本田技術研究所を設立しており、この資金を元手に引退しようとしたものの、技術の魅力にはど
うしても勝てなかったという。
 1948年、本田は本田技術研究所を継承し、本田技研工業株式会社を設立した。1949年、本田技研工

                        ~ 78 ~
業は、自社設計で98ccの2サイクル単気筒エンジンを搭載したドリーム号D型の生産を開始した。ホン
ダの作ったモーターサイクルの第一号機種である。
                                 本田宗一郎(左)と藤澤武夫(右)
 同じ時期に、本田は藤澤武夫(1910年~1988年、
当時は東京から福島に疎開したまま製材業を営んで
いた)にめぐり会い、戦後の日本の産業についての
考えが一致した二人はパートナーとして歩むことに
合意する。1949年に本田技研工業に入社して常務に
就任。これ以降、本田は技術に責任を持ち、藤澤は
マーケティングと販売に専念することになる。
 ホンダの最初の大ヒット製品は1952年に発売した
カブF型である。これは客のほうでエンジン単体を
購入して自分の自転車に取り付けるか、あるいはオ
ートバイの完成品として購入するか、そのどちらか
を選択できた。藤澤武夫は日本全国の自転車店にダ
イレクトメールを送って、一気に自前の販売網を作
り上げ、カブF型は大量生産に入った。1年もしない
うちに、このカブは毎月6500台を売り上げる大ヒッ
トとなり、日本国内のオートバイマーケットの70%
を占めるまでになった。
 一方で、ルールや慣例に従おうとしない本田宗一郎
の態度は、いくつかの分野で問題を起こした。特に、
他の自動車会社とはうまくことを進めていた通産省
との間で何かと軋轢を起こした。 そんな本田の取った
雇用戦略は斬新で開放的なものだった。 本田の学閥嫌
いから、同社は新卒の学生の採用に問題を抱えていた
にもかかわらず、 日本の保守的な企業に断られた優秀
な学生の中に、 本田に魅力を感じた者がたくさんいた。

(4)四輪自動車への進出
  企業として基盤が整いつつあった1960年7月、藤澤は、 研究
開発部門を本田技術研究所として独立させた。藤澤の狙いは、
技術者たちが企業の運営に煩わされることなく研究に没頭で
きる環境を作ることと、もうひとつ、本田の天才技術者とし
てのDNAを組織として受け継いでいけるようにという、未来
への布石であった。
  こうして体制が強化され、ホンダは念願であった四輪自動
車へ進出していくこととなる。進出のきっかけとなったのは、
1961年5月に通産省が発表した自動車行政の基本方針  (後の通
称・特振法案)であった。これは自動車メーカーの統廃合や
新規参入の制限を前提としたもので、ホンダは必要に迫られ
て急遽四輪車の開発にとりかかり、1963年8月に軽トラック
T360を、10月にはスポーツカーS500を発売した。結局、特振法案は廃案となったが、ホンダの車は評
判を呼び、四輪進出は成功を収めた。続いて1967年3月にホンダが本格的な量産車第1号として発売し
たのが、軽自動車業界の地図を塗り替えたといわれる「N360」である。5月には月間販売実績が5,570
台を記録し、長年、軽自動車のトップを独占していたスバルを抜いてベストセラーとなった。
  この実績をバネに、次にホンダ初の小型乗用車を製作する。1969年5月に発売された「H1300」であ
る。本田が陣頭指揮をとり、凝りに凝って開発した空冷エンジンを持つ高性能セダンであった。     「水冷
エンジンは最後には水を空気で冷やすんだから、最初から空気で冷やせばいい」というのが本田の持
論で、H1300はその結晶であったが、販売は振るわなかった。技術的には絶賛されたが、商品として
は独創的すぎたことが原因だった。ホンダの商品開発は転機を迎えようとしていた。1969年夏に軽井
沢に本田技術研究所の研究員約60人が集まって「なぜH1300は売れないのか」というテーマで議論が
交わされた。技術者たちは、次の新車は水冷でいくべきと考えていた。しかしそのアイディアは、何
度も本田宗一郎から跳ね返されていた。
  説得に立ち上がったのは、これまで技術のことには一切口を出さなかった藤澤武夫であった。

                        ~ 79 ~
「あなたは社長として残るか、技術者として残るか、選ぶべき時ではないですか。
                                        」
 藤澤は問いかけ、本田は「オレは社長で残るよ」と答えた。この本田の答えは、若い者たちの技術
に任せる、という水冷エンジンの容認だった。本田宗一郎の子供のような扱いであった技術研究所の
技術者たちはこれで一人前と認められた。ひとりの天才のDNAがホンダという企業体に受け継がれ、
N360に続く軽自動車「ライフ」は、水冷エンジンを乗せて1971年6月に発売された。

(5)二人三脚経営の転換
 順調に成長を続けているように見えたホンダだが、90年代に入ると国内販売が不振に陥り、急激な
円高の進行とも重なって自動車部門は実質赤字へ転落した。こうした状況のなか、1990年に4代目社長
に就任した川本信彦は大胆な改革に乗り出した。まず、役職や年齢を超えてワイワイガヤガヤと自由
闊達な議論を通して、意思決定につなげるホンダ伝統の「ワイガヤ」から、個人個人の役割責任を明
確にした即断即決型の意思決定システムへの移行を図った。販売、生産、開発の間に生まれていた壁
を取り払った。
 ホンダはもともと、ひとりの天才技術者と偉大な経営者が両輪となって走ってきた会社であったが、
大企業となったホンダが次世代へと受け継いでいくのは簡単なことではなかった。企業の規模が拡大
する中で、本田と藤澤が作ってきた社風を時代の変化に適合できる形に修正し、基盤を構築すること
が川本の仕事だった。この改革が次第に功を奏し、1994年10月にホンダ初のミニバンとしてデビュー
した「オデッセイ」が新しいホンダの原動力となった。
 本田宗一郎が創立した企業ホンダは、オートバイマーケットにおける支配的な地位を維持し続け、
四輪自動車マーケットにも大きな影響を与えている。21世紀に入った現在も、ホンダは世界ナンバー
ワンのオートバイメーカーである。1973年10月、本田は同社の経営から退き、東京にオフィスを構え
てホンダ財団の仕事に専念した。1989年、日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果
たした。1991年8月、肝不全のため死去。享年84歳。

  ●
   本田宗一郎 語録
 「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ。   」
 「石橋だと分かれば叩かずに、どんどん渡っちゃう。  」
 「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある。  」
 「人には失敗する権利がある。だがしかし、それには反省と言う義務が付く。    」
 「来年も最高のエンジンを作ってやるからな。(1988年、F1ワールドチャンピオンのアイルトン・セナに対し)
                       」

 【引用文献】
 ・先輩達の大地:本田技研工業     http://manabow.com/pioneer/honda/index.html
 ・ダイヤモンドオンライン「本田宗一郎: 常にリスペクトされる エンジニア的経営者」
                    http://diamond.jp/articles/-/4534


■設問20
 設問20

●本田宗一郎のアントレプレナーシップ論

      1. 本田宗一郎の出自は、彼の起業にどのように影響したか。
      2. 本田は、人脈や学歴のなさをどう思っていたか。そして、そのハンディをどのように
         克服しようと考えていたと思うか。自分の意見を簡単に述べなさい。
      3. 本田の経営手法は、どのような点に特徴があるか。
      4. 本田の先進性とはどのような点にあるか。
      5. 自分の考えから、本田宗一郎の欠点・弱点・問題点を上げて述べなさい。




                                ~ 80 ~
【ケース ⑨】盛田昭夫: 世界のSONY」の創業者
       盛田昭夫: 世界の
            「世界
            「       」
 盛田 昭夫(もりた・あきお)
 1921年(大正10年)生まれ、1999年(平成11年)没。井深大ととも
にソニー創業者の一人。ソニーを設立し、半世紀で世界有数のエレクト
ロニクス企業に育てた戦後日本を代表する国際派経済人。

(1)生い立ち
 1921(大正10)年、愛知県常滑市に酒屋「子の日松」の盛田久左エ門
の長男として生まれる。愛知県第一師範学校付属小学校、旧制愛知県第
一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)   、第八高等学校を経て、大阪帝
国大学に入学。1944年(昭和19年)、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業し、海軍技術中尉となる。

(2)井深大との出会い
 太平洋戦争中の1943(昭和18)年、盛田は海軍の軍需物資監督官であったが、陸海軍と民間の研究
者からなる科学技術研究会において、生涯のパートナーとなる井深大(いぶか・まさる、1908年~1997
年、後のソニー社長。早稲田大学理工学部を卒業し、当時は民間企業の日本測定器常務であった。  )を
知る。2人は敗戦後の混乱の中で音信不通となるが、朝日新聞に掲載された井深の作った短波受信機の
記事で消息を知り再会する。

(3)東京通信工業の立ち上げ
 1946(昭和21)年、盛田は東京・日本橋の白木屋デパート3階に東京通信工業を設立。井深の義父の
前田多門(元文相)が社長、井深が技術担当の専務、盛田
                                   盛田昭夫(左)と井深大(右)
が営業担当の常務となって事業を始める。  「大会社のできな
いことをやり、技術の力で祖国復興に役立てよう」と設立趣
意書で進取の気風をうたった。同社が初めに開発したのは、
国産初のテープレコーダーである。
   東京通信工業がワイヤーレコーダーの開発で懸命だった頃、紙
  テープで音が出る機械のことを聞いた。井深や盛田は、その頃仕
  事の関係で進駐軍のいるNHKの放送会館にしょっちゅう出入りし
  ていて、ある時CIE(GHQ内の民間情報教育局)の人からそのテー
  プレコーダーを見せてもらった。実際に音を聴くと、ワイヤーレ
  コーダーとは比較にならないくらい音が良い。

   「これだよ、我々のやるものは。これは、これからの商品だ。テープ
  でやってみよう。 この時、
           」     すでに井深の頭からワイヤーレコーダーのこ
  とは吹っ飛んでいた。テープレコーダーは、アメリカでもできたばかり
  の貴重品である。何しろ、その当時日本でテープレコーダーをやろうと
  考えている者など誰もいないし、参考書は何もない。唯一あったのが、
  丹羽保次郎氏が著した  『音響工学』という本だ。それもたった2行、
                                  『1936
  年に、ドイツのAEG社によってプラスチックに磁気材料を塗布したテープ
  レコーダーが発明された。 という記述があるだけで、
                』            何とも心もとない
  限りである。テープのベースを何にするか、磁気材料にはどういうもの
  が適しているのか、何もかもが手探りであった。  ・・・

 こうして、製品として日本初のテープレコーダーとなったのが
G型である。G型を発売するにあたって、東通工では「テープコ
ーダー(Tapecorder)」という登録商標を取った。今後、日本国
内で使われるテープレコーダーすべてを、東通工の商品名である
「テープコーダー」と言わせてしまおうという考えからであった。
続いてステレオ装置を完成させ、     この装置によってNHKが日本初
のステレオ放送を行った。
 1955(昭和30)年、東京通信工業は日本初のトランジスタ・ラ
ジオを発売した。この年から「SONY」のマークを使用したが、

                            ~ 81 ~
当時の東京通信工業は「TOTSUKO」というブランドで使いにくい
という苦情があったために、SONIC(音)の語源であるラテン語の
SONUSと、「小さい坊や」の意味のSONNYをあわせてSONYとし
たという。
   1950年代、日本のほとんどの家電メーカーがアメリカに輸出する際、ア
  メリカのメーカー名を付けて売っているというのが実情であった。    それは、
  当時日本製品の中で一流品としてアメリカでそのまま通用しているのは、
  カメラのNikonとCanonだけという状態で、それ以外の日本製品は「安かろ
  う悪かろう」の代名詞のように言われていたからだ。
   1957年のある日、アメリカ・ニューヨークに着いて諸事を済ませた盛田
  は、ぶらりと街に出た。
   するとどうだ。東通工のトランジスタ・ラジオが、堂々とSONYの名前を
  付け、それこそ一流といわれる販売店の店頭に置かれているではないか。ついこの間、売り出されたばかりという
  のに、この人気だ。ニューヨークの銀座ともいうべきマジソン・アベニューの名店「Liberty」にも置いてある。
  「Liberty」は、第一級のラジオ・レコード店で最高級の品しか置かない格調高い店として有名だ。むろん、これま
  で日本製品を扱ったことなどない。その店先で、道行く人が立ち止まっては、じっと東通工のトランジスタ・ラジ
  オに注目していく。あるいは「クリスマスには・・・」と話し合っている。こんな街の様子を見るにつけ、盛田は
  何とも言えない喜びを感じた。
  東京通信工業のトランジスタ・ラジオも、いろいろなモデルが出てきた。1956年、民生用として画
期的な商品の企画がたてられた。当時世界で一番小さいトランジスタ・ラジオとなった“ポッケタブ
ルラジオ” 「TR-63」である。TR- 63型は、これまで世界最小のトランジスタ・ラジオと言われた米リ
ージェンシー社のTR-1型ラジオ(4石で127×76×33mmのサイズ)に対して10%小さい112×71×
32mmという小さいサイズで、6石のため感度、出力とも優れており、消費電力もTR-1の半分以下とい
うことで、発売早々から評判になった。価格は1万3800円で、これはその当時のサラリーマンの1ヵ月
の平均給与に相当する額であった。盛田はアメリカに輸出のターゲットを定めて、アメリカに販売拠
点を設置した。
   TR-63が世に出た当時、小さくて、それこそポケットに入るようなラジオは、アメリカではポケットラジオという
  名称で呼ばれており、ポケッタブルというような言い方はしなかった。今でこそ”ポケッタブル”は違和感なしに
  使っているが、これは東通工がTR-63を売り出す時にキャッチフレーズとして考えて作った和製英語だった。ところ
  が、このTR-63、当時の既製のワイシャツのポケットに入れようとしても入らない。残念なことに、若干ラジオのほ
  うが大きかったのだ。これでは、せっかくのキャッチフレーズが泣いてしまう。それならと、専務の盛田がちょっ
  とした細工を考え出した。ワイシャツのポケットを少しばかり大きくすれば、何の問題もない。そこで、普通のワ
  イシャツのポケットより、やや大きめのポケットを付けた特製のワイシャツを用意してアメリカのセールスマンに
  着用させ、売り歩かせることにした。「Sony History」より)
                     (

  初めてのポケッタブル・ラジオに対する人々の期待の強さは、このTR-63の1号機と称するものが、
50台も世に出たことで分かる。1号機というのは文字どおり1台だが、何としても1号機を手に入れたい
という熱心な東通工ファンの願いをかなえるために、1号機と称されるものが50台も作られるという結
果になってしまったのだ。このTR-63は、東京通信工業のトランジスタ・ラジオのアメリカ向け本格的
輸出1号機であった。輸出価格は約40ドルであった。このアメリカ輸出は大成功で、1957年の暮れには
輸出が間に合わなくなり、日航機をチャーターしてアメリカに大量空輸するほどであった。東通工製
のトランジスタ・ラジオを順調に輸出できるようになったのは、同年の8月に盛田が渡米して、米国で
1、2位に数えられる電気機器販売会社のアグロッド社と東通工製品の長期取扱契約を結んだことが大
きく貢献している。

(4)ソニーへの変更と海外進出
                       ソニーと変更
 1958(昭和33)年、東京通信工業は社名をソニーと変更
                       ソニーと
し、1959(昭和34)年、盛田は副社長(井深は50年から社
長)に就任した。1960(昭和35)年アメリカ販社を設立し
同社の社長に就任。盛田はニューヨークに暮し、米放送大
手CBSと提携して音楽分野に参入するなど、事業の国際化
に努めた。
 この年、ソニーは世界初のトランジスタ・テレビ
            世界初のトランジスタ・テレビ
            世界初のトランジスタ・テレビを発売
した。1961(昭和36)年、ソニーは日本企業として初めて
アメリカで株式を新規発行したが2時間で完売し、新たな
「ソニー神話」が生まれた。1971(昭和46)年、盛田はソ
ニーの社長に就任し、井深は会長となった。ソニーは発展
を続け、トリニトロン・カラーテレビなどでヒットを続け

                          ~ 82 ~
る。1976(昭和51)年、井深の名誉会長就任と同時に会長となった盛田は、自ら企画したウォークマ
ンで大ヒットを飛ばすが、一方で家庭用ビデオデッキの企画統一問題では、あくまで自社独自のベー
タ方式を堅持し、VHS陣営に市場で敗れる結果となった。

(5)日本製といえば”SONY”
 ソニーをグローバルな会社にするという盛田の夢の中心には、いつもアメリカのマーケットがあっ
た。米国ソニーは、1670年に盛田が設立し、30年有余に渡り自らの手で育てたものである。盛田は、
外国の企業だという印象を与えることなく、ソニーという会社を最強の存在にしようとしていたが、
例外的とはいえそれに成功した。すなわち、1999年の米ハリス社の世論調査によると、ソニーはGEと
GMというアメリカを代表する大企業を抜いて、  米国の消費者から最も有名なブランドとして最高の評
価を与えられている。
 1973年には、盛田は、家族とともにニューヨーク・マンハッタンにあるアパートに移り住み、一年
以上をそこですごした。実際、米国人に物を売るには、彼らについてより多くの情報と暮らしぶりを
知ることが不可欠だと判断したからであった。井深は彼を行かせることには気乗りがしなかった。本
社で重要な意志決定をすべき会社のNo.2を海外に住まわせた企業はかつて日本にはなかったからだ。
盛田が、二ヶ月に一度東京に一週間ほど戻ってくると約束した時、ついに井深も了承したという。
 1986年、盛田は著書『メイド・イン・ジャパン』 (右)を世界17カ国で出版。1986年、最若手の経
団連副会長に就任した。盛田は、日米賢人会、日米財界人会議などでも活躍し、財界の外務大臣の異
名がある。1989年、ソニーはコロンビア映画を買収、また新しい日米関係のあり方を問う『NOと言
える日本』 (石原慎太郎との共著)を出版するなど、その言動は国際的にも反響を呼ぶ。1993(平成5)
年、脳内出血で倒れ、以後はハワイで療養を続けた。
 1998年、米誌タイムでビジネスの世界で今世紀に最も影響力のあった経済人20人に、自動車王のヘ
ンリー・フォード、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長らと並んで日本でただ一人「Made in JAPAN
の名声を築いた」人物として選ばれる。1999年10月、逝去。享年78歳。

  ●
      盛田昭夫 語録
 「黙っているほうが安全だという雰囲気は非常に危険だ。」
 「否定面にとらわれる人間に限って、失敗の理由を一所懸命数え上げたがる。 」
 「適材適所というのは自分で決めるものだ。働く場所は自分で選べ。」
 「ここは自分の思った会社と違うなと感じたらあなた方自身のために、 早く転職をしてほしい。人生は一
  度しかないのだから。」
 「まったく違う知識や考えを持った人とまず対話できることこそ大事だ。 」

 【引用文献】
 ・ソニーのホームページ:「Sony History」
            http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/index.html



■設問21
 設問21

●盛田昭夫のアントレプレナーシップ論

      1. 盛田が起業した当時の時代背景について簡単に述べなさい。
      2. ソニーやホンダでは、2人の起業家が二人三脚で発展したことに特徴がある。ソニーで
         の2人の役割分担を説明しなさい。
      3. 盛田の先進性はどこにあるかを説明しなさい。
      4. 盛田はソニーの海外市場開拓の立役者であるが、海外展開に関して、盛田は他人より優
         れたものがあったのだろうか。




                                          ~ 83 ~
【ケース ⑩】中内功:流通革命を起こしたダイエー
       中内功:流通革命を
 中内 功(なかうち・いさお)
 1922年(大正8年)生まれ、2005年(平成17年)没。実業家。ダイエー
創業者・元会長・社長・グループCEO。日本チェーンストア協会会長、流
通科学大学学園長、理事長を歴任した。    「流通王」「カリスマ」とも呼ば
                           、
れた。

(1)生い立ち
 1922年、大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法) に父・秀雄、母・
リエの長男として生まれる。  父は大阪薬学専門学校 ・
                         (現 大阪大学薬学部)
を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘であった。
祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)
に学び卒業後、神戸で眼科医となった。
 中内は、神戸三中を経て、1941年、神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身)を卒業。ゲーテ
『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、  「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸
術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記
す。勉強はできる方ではなく、大学受験には失敗した。

(2)フィリピン従軍と復員
 1943年、幹部生として扱われる大学生の仲間を尻目に、中内は一兵卒としてフィリピンの最前線の
戦場へ投げ込まれる。所属した陸軍部隊はフィリピン・ルソン島で玉砕したが、中内は重傷を負いな
がらも奇跡的に生還した。この戦争体験は、後の人生観に少なからず影響を与えた。
     「人の幸せとは、まず物質的な豊かさを満たすことです。(中内功)
                               」
 1945年11月、中内はフィリピンから復員。復員を機に神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)に
入り、1948年に神戸元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売
                                       闇商売を行った。旧
                                       闇商売
制神戸経済大学(現神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、商売に専念する為
に中退。6年後の1951年には次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品問
屋「サカエ薬局」で勤務。
                                           千林駅前に開店した
                                         主婦の店ダイエー薬局1号店
(3) 「安売り」のダイエー設立
 1957年、中内はサカエ薬品を離れ、末弟と神戸市長田区を本店と
する大栄薬品工業株式会社を設立し、     製薬事業に参入した。  しかし、
製薬からはすぐに撤退し、   1957年9月にこの会社を使って大阪市旭区
の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄
利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」     (ダイエー1号店)を開
店した。当初は薬局中心の業態であった。
 1957年9月23日、主婦の店ダイエー薬局が千林駅前にオープンした。
従業員は13人、100平方メートルもない売り場に薬品、化粧品、日用
雑貨などが所狭しと並べられた。開店当日は安売りもさることなが
ら、開店記念に映画鑑賞券などをつけたために客が殺到し、初日の
売り上げは28万円にのぼった。
 大量消費時代の到来をかぎとった中内は、豊かな生活を夢見る消費者の要求を満たそうと、大量仕
入れによる安売りを武器に小売業界に参入。     翌年1958年12月には神戸・三宮に食料品も扱う2号店を開
店。既成概念を打ち破り、 安売り」によって流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は定価を維持
               「安売り
しようとする勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。当時はモノを製造するメーカーや官庁
自治体の公権力の統制が戦時体制の残滓として根強く残っており、中内は営業と競争の自由を旗頭に
既成秩序に挑んだのである。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と書かれたが、中内は戦
時中の国家統制が様々な規制の形で残る日本をして「戦後はまだ終わっていない」と言ったという。

(4)ダイエーの「流通戦争」
 1962年に商号を「主婦の店ダイエー」に変更し、売上高100億円、従業員数1000人を超えた。以後
も順調に事業規模を拡大し、1971年には大証二部に株式を上場。ついに、1972年には百貨店の名門・

                         ~ 84 ~
三越を抜いて小売業界で売上高日本一に立った。
 1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって「ダイエー・松下戦争」が勃発した。松下
電器はダイエーの要請を無視した松下製品の安売りに対して、ダイエーの仕入れ先である松下の卸売
業者に締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。この時の松下幸
之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守り
なさい。安売り店への出荷は停止する。 」であった。1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費
者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議した。同年に、公正取引委員
会が二重価格問題に対して、 「メーカーに不当表示の疑いあり」という結論を出している。同年1970年
には社名をダイエーに変更した。
 幸之助は、1975年に中内を京都に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」
と諭したが、中内は応じなかった。その後、約30年後の1994年に最後は松下電器が折れる形で完全和
解となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれる。

(5)買収によるグループ拡大
 1980年、ダイエーは日本の小売業界初の売上高1兆円を達成した。また、紳士服のロベルト、ファミ
リーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コ
ンビニのローソン、百貨店のプランタン銀座などの関連事業を次々と展開し
ていった。また、リクルートや、忠実屋、ユニードなどを買収、1994年に忠
実屋、ユニードを合併、1981年には高島屋の株式を10.7%を取得した。グル
ープ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエー
による乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。また、ミシ
ンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノ
ウハウを子会社のダイエーファイナンスに導入した。
 しかし、売上高1兆円達成から3年後、1983年から三期連続で連結赤字を計
上し、ヤマハの社長であった河島博をヘッドハントして社長にすえて、業績
をV字に回復させる通称「V革」を行った。

(6)絶頂と凋落と                    福岡ダイエーホークスの監督就任会見。
  1988年には、南海ホークスの株式を南海   中内功オーナー(左から3番目)と王監督(1994年10月)
電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参
入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、更に
東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドーム
の建設に着手するなど、   グループを急拡大さ
せた。
  1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲
願であった流通科学大学を開学。   大学職員は
全員当時のダイエーから出向させ、   同時に理
事長に就任した。同年9月には自らの故郷・
神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・
劇場・専門店街が一体となった商業施設の新
神戸オリエンタルシティを誕生させた。   また、
1991年には経団連副会長に、 それまで他業種
より格下と見られていた流通業から初めて
抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。
  しかし、息子達に跡を継がせたいことなどで、他社からヘッドハントした人材も含む部下を辞職に
追い込み、周囲を自分に忠実なイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が次第に露呈していっ
た。1990年代後半になって地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエ
ーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷し。さらに展開して
いたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、消費者の意識が「安く」から「品質」
に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時
代に取り残されていった。
  大規模店舗小売はイオン、イトーヨーカ堂などが業界をリードするようになっており、世間から「ダ
イエーには何でもある。   でも欲しいものは何もない」と揶揄されるようになった。  中内自身も晩年、   「消
費者が見えんようなった」と嘆くこともあった。


                          ~ 85 ~
(7)晩年
 2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。しかし遅すぎた決断であり、ダイエーは多く
の部門で問題が露呈していた。2001年の株主総会では厳しい質問が続き、2時間を越える大荒れの総会
となったが、その場で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した。同日に退任する中内が記者会見を開き、
完全に経営から退くことを表明した。
 その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学の運営に専念した。晩年は謙虚な好人物とな
り、堀江貴文を見て「若いもんは元気があってええなあ。  」と漏らしたという。自動車免許を取得した
ときはいかにもうれしそうに知人に免許証を見せびらかし、いずれは米大陸のハイウエイを走りたい
と言っていた。
 ダイエーが経営再建できずに産業再生機構入りした時は「無念という一言しかありません」とのコ
メントを関係者に送った。2004年12月には芦屋と田園調布にあった豪邸や所持する全株式を売却処分
した。翌年2005年8月に脳梗塞で倒れ、療養中に神戸市内の病院において死去した。享年83歳。

  ●
      中内功 語録
      「ダイエーの存在価値は、既存の価格を破壊することにある。 」
      「価格決定権をメーカーから消費者に取り返す。」
      「消費者以外に頭を下げるのは嫌だ。」
      「売上げはすべてをいやす。」
      「古い体制から見れば、新しいものはすべていかがわしいのだ。 」
      「借金と元気だけはあるんやで。」
      「松下(幸之助)さんを経営者として非常に尊敬している。しかし価格決定権に対する考え方や、
       お客様の利益についての考え方は、私とは根本的に違っている。 」

 【引用文献】
 ・流通科学大学中内記念館    http://www.umds.ac.jp/nakauchi/
 ・日経ビジネス「中内功・ダイエー会長兼社長、優しくなった超ワンマン」

 (注記)長男の中内潤は、現在は流通科学大学・学校法人中内学園の理事長。次男中内正は、福岡ダイエーホー
  クス元オーナーで、後に読売ジャイアンツオーナー顧問を務めた。中内正は、2010年6月3日、父親から相続し
  た約5億5千円を贈与財産として申告せずに贈与税約2億7千円を脱税したとして、さいたま地方検察庁に相続税
  法違反容疑で逮捕されている。




■設問22
 設問22

●中内功のアントレプレナーシップ論

      1. フィリピン従軍体験は、中内の起業にどのような影響を与えたと思うか。自分の想像で
         述べなさい。
      2. 中内が主婦の店ダーエーを起業した当時の時代背景について述べなさい。
      3. 中内がダイエーの経営で打破しようとしていた構造について説明しなさい。
      4. 中内の先進性はどこにあるのかを述べなさい。
      5. 中内のカリスマ性とワンマンについて、長所と問題点の双方から述べなさい。
      6. ダイエー凋落の原因は何であったか。
      7. ダイエーの経営不振で退任し、挫折した中内の心境とその後の行動について、想像しな
         がら述べなさい。




                             ~ 86 ~
【ケース ⑪】稲盛和夫:京セラの創業者
       稲盛和夫: セラの創業者
 稲盛 和夫(いなもり・かずお)
 1932年(昭和7年)生まれ。日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)
創業者。現在は日本航空の会長。

(1)生い立ち
 鹿児島県鹿児島市薬師町生まれ。
 両親ともに浄土真宗の信者であったことから、稲盛も子供の頃から鹿児
島市の西本願寺別院に通っていた。お坊さんに「これから毎日『なんまん
なんまん、ありがとう』と声を出していいなさい」と言われ、今もことあるごとに自然に唱えている
と彼は言っている。
 1944年に鹿児島第一中等学校を受験するが失敗し、尋常高等小学校に入学。その後、鹿児島玉龍高
等学校を卒業し、地元の鹿児島大学工学部に入学する。

(2)京都で起業
 1955年、鹿児島大学工学部応用化学科を
卒業するも、不況による就職難の中で教授
の紹介で京都にある碍子メーカーの松風工
業へ就職する。会社は給与の遅配が続き、
いつ潰れてもおかしくなかったが、稲盛は
その中でファインセラミックスの研究に没
頭する。ある時、開発方針をめぐって上司
と衝突し退社。その後1959年、稲盛を信頼
して同時に退社した仲間とともに、知人の
出資により得た資金を元手に8名で京都市
中京区に京都セラミック株式会社を創業す
る。1966年にIBMよりIC用サブストレート
基板を大量に受注し、売上が急拡大する。
 1969年には稲盛の出身である鹿児島県の
川内市に川内工場を新設し、IC用セラミック多層パッケージを生産。同年には米国に現地法人KIIを設
立する。1971年、京都セラミックは大阪証券取引所第二部、京都証券取引所に株式を新規上場する。
会社設立から12年と当時の日本ではきわめて短期間で株式上場 (IPO)を実現した新興の急成長企業で
あった。新規株式上場時の稲盛は若干39歳、現在のベンチャー企業の経営者と同じような年齢であっ
た。

 (3)幅広い活動へ
 1976年、京都セラミックはアメ
リカのニューヨーク証券取引所へ
株式を上場。1982年は社名を京セ
               京
ラ株式会社とする。1984年、稲盛
は私財を投じて稲盛財団を設立し
理事長に就任した。同年、NTTに
対抗し新しい電話事業会社の設立
構想を主導し、第二電電企画株式
会社を設立、会長に就任した。
 1986年、稲盛は京セラの社長か
ら会長に就任し、自社も含めて幅
広い活動に従事していく。1995年、
京都商工会議所会頭就任。1997年
には、京セラ、第二電電の会長職
を退き、取締役名誉会長に就任。
同年には臨済宗妙心寺派円福寺に
て在家得度(得度は仏教僧侶となる


                         ~ 87 ~
ための出家の儀式)する。

  2000年、通信会社のDDI、KDD、IDOが合併し、KDDIが発足し、稲盛はKDDIの名誉会長に就任、
翌年2001年には同社の最高顧問に就任する。
  民主党を支持し、  同党元幹事長小沢一郎とは新進党時代からの仲であり、   前原誠司の後援者である。
2010年1月に日本航空の会長として日航再建に取り組むよう、鳩山由紀夫首相(当時)から要請され、
2月1日から、日航の会長を無給で務める。また、2010年2月末、鳩山首相から、非常勤の内閣特別顧問
に任命された。

(3)稲盛の唱えるアメーバ経営
 アメーバ経営は、稲盛が考案し、自身が創業した京セラと第二電電(現・KDDI)で適用されている
経営管理手法である。その手法は、以下のようなものである。
 ①企業の人員を6~7人の小集団(アメーバ)に組織する。
 ②アメーバごとに「時間当たり採算=(売り上げ-経費)÷労働時間」を算出し、時間当たり採算
  の最大化を図る。
 ③時間当たり採算の目標値を月次、年次で策定する。
 ④労働時間短縮や売り上げ増加策を実行に移して目標
  達成を目指す。
 アメーバ経営の利点は、①メンバーの数が少なく、成果
が数字にすぐに表れるので、当事者意識を引き出しやすい。
②計数管理能力を備えたリーダーを育成しやすい。③アメ
ーバの採算評価指標が統一されているため、アメーバ間の
競争を引き出しやすい。といいう点である。一方、その欠
点は、①アメーバが自らの採算にこだわりすぎると、会社
全体よりアメーバだけの利益を追求してしまう。②「時間
当たり採算」の計算には意外と手間がかかる。特に経費を
公正に計算しなければ、適正な採算評価ができない。とい
われている。
   (稲盛)京セラ創業当時より、企業を長期的に発展させるためには、正しい「経営哲学」を確立し、
  それを全社員と共有すること、また、組織の末端に至るまでの経営実態を正確かつタイムリーに把握す
  る「管理会計制度」が必要であると感じていた。アメーバ経営では、各アメーバのリーダーが中心とな
  って計画を立て、全員の知恵と努力により目標を達成していく。そうすることで、現場の社員ひとりひ
  とりが主役となり、自主的に経営に参加する「全員参加経営」を実現させていく。

(4)思想家稲盛
 稲盛は若い頃より仏教に傾倒し、仏教の哲学
                仏教の
                仏教 哲学を経営に活かしている点に特徴がある。こうした思想
に基づき、稲盛が重きを置いているのは、
                  「人間とは何かという追求」と「利他の心」にあると思われ
る。
 稲盛は講演でこう述べている。                       稲盛は経営哲学に関する著書を
                                          多数出している
   私は京セラを創業し、またこれを母体に長距離通信事業などを行
  う第二電電を創業した。ともに大変順調に成長した。返ってみると京セ
  ラを創業以来、自分でも不思議と思えるほどの人生を歩んでいる。
   しかし、京セラを創業するまでの私の人生は、不運の連続とさえ言え
  るものだった。十二歳の時には当時不治の病と言われた結核を患い、叔
  父叔母も三人が結核で立て続けに亡くなっていたので、もうすぐ死ぬ、
  と思っていました。また、志望した中学や大学の受験にも、さらには希
  望した会社の就職試験にも失敗するなど失望の連続だった。そのような
  全く不本意な人生を歩む中で私は「人生とは何か」「人間とは何か」を
                         、
  深く考えるようになり、仏教やその他の宗教・哲学の勉強を必死でする
  ようになった。また、京セラ創業以後は「集団のリーダーとはいかにあ
  るべきか」を日夜真剣に考えつづけた。(中略)


                         ~ 88 ~
現在、地球上には数十億の人類がいるが、ひとりとして同じ人はいない。姿恰好も違えば、性格も能
  力も全て違っている。ところが生まれる前に、「私はこういう能力を持ち、こういう姿で生まれたい」
  と思ってこの世に出てこられた方はひとりもいない。物心がつき気が付いてみると、現実の自分がある
  だけなのだ。つまり、人間はこの宇宙を創った神の悪戯か偶然か知らないが、たまたま現在の才能と容
  姿を持ってこの世に生まれてきただけであり、自分の意志で生まれてきたのではない。神様が存在する
  とすれば、自分の才能や容姿は神様に偶然項戴したものであり、たとえそれぞれ才能や容姿に違いはあ
  っても、人間は皆本質的には同じなのだ。
   そうであれば、集団のリーダーにとって必要なことは、たとえ如何に才能に恵まれていようとも、そ
  の才能はたまたま自分に与えられたものと考え、その才能を社会のために惜しみなく使うことなのであ
  る。また、人間は皆本質的には同じ筈なのだから、いかに成功しようとも、決して奢らず、常に謙虚さ
  を維持し続けることなのである。(中略)リーダーにとって最も大事なことは、人間の本質を考え、自
  分の才能を私物化しないように、また奢り高ぶらないように、常に自分自身を強く戒めて生きることで
  はないだろうか。

  ●
      稲盛和夫 語録
 (経営に権謀術数は一切不要) 「企業経営には、権謀術数が不可欠だと感じている人が多いかもしれな
  いが、 そういうものはいっさい必要ない。今日一日を一生懸命に生きさえすれば、未来は開けてくる。
  また、正々堂々と人間として正しいやり方を貫けば運命は開けてくると考えている。実際に京セラや
  DDIの経営に携わり、日々懸命に働いているうちに、次に打つべき手は自ずから見えてきたし、そうす
  ることが素晴らしい成果をもたらせてもくれた。 (稲盛和夫『人生と経営』より)
 (動機善なりや、私心なかりしか)「第二電電を設立し、電気通信事業へ参入するにあたって、自身の
  動機に利己的な心、
          「私心」がないかと、半年間にわたり自問した。動機が善であり、実行過程が善で
  あれば、結果は問う必要はない、必ず成功する。」
                      「能力とは、才能や知能といった「先天的な資質」を表し、
 (人生・仕事の結果 = 考え方×熱意×能力)
  「熱意」とは、情熱や努力する心といった「後天的な努力」を表す。 」


【引用文献】
・Kazuo Inamori Official Site http://www.kyocera.co.jp/inamori/index.html
・日経トップリーダー:京セラ・稲盛の「アメーバ経営」                           http://nvc.nikkeibp.co.jp/nveye/inamori/




■設問23
 設問23

●稲盛和夫のアントレプレナーシップ論

      1. 稲盛に影響を与えたものについて簡単に説明しなさい。
      2. 稲盛の経営手法はどこに特徴があるか。
      3. 稲盛が経営に取り入れている思想について簡単に説明しなさい。




                                           ~ 89 ~
【ケース ⑫】江副浩正:求人情報「リクルート」の創業者
       江副浩正:求人情報「リクルート」
  江副 浩正(えぞえ・ひろまさ)
  1936年(昭和11年)生まれ。日本の実業家。現在は江副育英会事務局長。
  株式会社リクルートの創業者であり、若手起業家の草分けでもある。
1988年(昭和63年)に発生した「リクルート事件」の贈賄側人物として
知られる。

(1)生い立ち
            、高校教師の江副良之、マス子の長男として母親の
 1936年(昭和11年)
郷里の愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)に生まれた。祖父の代から教
育者の一家で、父親の艮之も中学・高校の教師。幼い時分に母親と離別し
た浩正は小学校4年まで父の故郷の佐賀で過ごした。成績は優秀だが、体
操と音楽が苦手で、その大きな頭から当時のあだ名は「仮分数」  。江副一
家はその後、大阪市天王寺区に移り、戦災によって大阪府豊中市へ転居した。
 江副は、兵庫県芦屋市の甲南中学に進学。当時、甲南に通う生徒は資産家や中流以上の家庭の子弟
が大半で、数学教師の息子にすぎない江副のような生徒は少数派であった。江副は勉強でもスポーツ
でも飛び抜けたところはなく、同級生の間に印象らしい印象を残していない。地味で妙に理屈っぽい
ところがあり、あだ名は「じいちゃん」だった。

(2)サークル活動で求人ビジネス
 甲南高校を卒業し、1955年に東京大学に進学。東京大学教育学部教育心理学科卒業。
 江副は、大学で「中学時代、学内新聞を作ったから」という理由で東大新聞会に入会する。東大新
聞会はサークル活動の一つで「東京大学新聞」を発行していたが、入会して1カ月もしないうちに印
刷会社に100万円の未払金をつくってしまい、会は活動停止になる。このため、会のOBらが中心とな
って財団法人東京大学新聞社が設立され、その経営基盤を支える広告収入の確保を実現したのが、自
ら営業をかって出た江副だった。これまでように大学の周辺の喫茶店や書店、先輩のいる会社がお付
き合い程度で出してくれる広告収入ではたかが知れている。浩正が目をつけたのは大企業の会社説明
会だった。
 たまたま学内の掲示板に丸紅の会社説明会の案内が貼ってあるのを見かけ、直接、広告を頼みに行
ったが、すぐに丸紅から広告発注を受けて反響を呼ぶ。以後、日綿実業、伊藤忠商事など大企業の広
告出稿が相次ぎ、 「東大ブランド」を利用したこの学生商法は大成功を収め、東京大学新聞社の100万
円の赤字は300万円の黒字になった。当時は1960年安保が最高潮を迎えようという時代で、多くの学生
は安保反対運動に参加したが、江副は「デモより広告取りが面白い」と企業巡りに精を出すというノ
ンポリ学生であった。

(3)リクルートを創業
 広告担当として企業向けの営業を覚えた江副は、1960年の東大卒業と同時
に、求人広告専門の大学新聞広告社(現在のリクルート)を設立した。当時
の江副は若干23歳、本社は森ビル屋上の2坪のペントハウスであった。江副は
東大在学中につちかったツテで企業から求人広告を取り、早稲田、京大、一
橋などの各大学新聞に斡旋しょうとした。
 事業は急成長した。1960年からの岩戸景気のおかげで新聞に初めて「求人
難」の文字が躍り、青田買いが一般的になった企業からは大学新聞広告社に
広告出稿の依頼が殺到した。すぐに大学新聞にも掲載しきれなくなり、せっ
かく取ってきた広告の掲載場所がないという賛沢な悩みが生じる。江副は、
自分たちの責任で編集・発行できる媒体を持ちたいと考えた。そこで登場し
たのが、一冊丸ごと会社案内・求人広告だけを載せた『企業への招待』とい
う本、後の発展の原動力ともなったリクルートブックの原型である。
 こうした大卒求人広告雑誌のビジネスは、当時はすき間産業であったが、江副は大学時代の経験か
らニーズと成長性を感じて、日本で初めて本格的な商売にしたのである。1963年、社名を大学新聞広
告社から日本リクルートメントセンターに変更。1963年、社名を日本リクルートセンターに変更。後
の1984年には再び社名を株式会社リクルートに変更している。
 東京オリンピック開催前の景気により売上が急拡大したが、その後の不況により日本リクルートセ

                        ~ 90 ~
ンターはピンチに陥るが、それを乗り切った1966年、老舗出版社のダイヤモンド社が『就職ガイド』
という対抗商品をぶつけてきた。江副は社員に激を飛ばした。
 「この事業の創始者である我々にとって、2位になることはレーゾンデートルを失うことを意味する。」
 がっぷり四つに組んだまま5年が過ぎ、リクルートは生き残った。一説によると、江副は金一封付き
の「ダイヤモンド・ノックアウト賞」まで設けて社員を鼓舞したという。

(4)若手起業家の旗手
 その後は就職情報誌を女性向け、技術者向け、アルバイトと細分化し、あわせて住宅関連の情報誌
も発行した。事業は雑誌媒体にとどまらず、会社案内、入学案内、果ては入社模擬試験、各憧セミナ
ー、海外ツアーから人材斡旋、スキー場開発、農場経営にまで及んだ。一見すると無節操な事業展開
の裏には、江副の哲学、ライフサイクル論があった。人間の一生を考えたとき、幾つかの節目がある。
進学、就職、転職、結婚、住宅取得。これらに伴う需要を巧みに吸い上げてビジネスに結びつけた。
 リクルートの驚異的な成長と軌を一にして、若手起業家・江副の一風変わった個性も注目を集めて
いく。創業者によくあるカリスマ性やギラギラした押しの強さとは無縁で、  語り口はあくまで穏やか。
身長165センチ、痩せ型、爽やかな笑顔を絶やさず、髪を短めに刈り上げた童顔の坊ちゃんタイプ。 「東
大が生んだ戦後最大の起業家」と賞賛された。取引先で目の前に江副がいるのに、   「社長さんはどちら
に?」と尋ねられた話が流布した。社員には自分を「江副さん」と呼ばせ、ソフトなイメージが定着
した。一方で、若いアルバイト社員を使い、社員もノルマ達成者には特別ボーナスを支給し、3年勤続
すると1カ月の有給休暇を与えるなど、社内を鼓舞する施策を揃えた。
 江別が経営者としての裏側をのぞかせた話がある。1974年、「環境開発」(後のリクルート・コスモ
ス社)を設立して不動産部門に進出したとき、取引先の銀行トップは強く反対した。   「君は抜群に優秀
だが、不動産だけはやめておきなさい。 手を出せば必ず失敗する。 忠告を当時38才の江副は無視した。
                               」
一度思い込んだら、誰の言葉も受け入れず、異なる考えの持ち主は徹底して排除する。その傾向はリ
クルートが成長するにつれ、頭著になったという。

(5)リクルート事件                      1989年2月14日朝日新聞の朝刊一面
  リクルート事件は、1988年6月の『朝日新聞』横浜
支局のスクープ記事から発覚した戦後最大級の構造
汚職事件である。   贈賄側のリクルート社江副社長や、
収賄側の政治家や官僚らが次々に逮捕され、当時の
政界・官界を揺るがす一大スキャンダルとなった。
この事件では、リクルートの関連会社で未上場の不
動産会社リクルート・コスモス社の未公開株が賄賂
として使われていた。政・財・官界など特権階級の
人々の錬金術が白日の下にさらされた。
  事件の発端は、川崎市テクノピア地区へのリクル
ートの進出にからみ、権限を持っていた川崎市の助
役に対して、リクルート社の子会社である「リクル
ート・コスモス社の未公開株式を融資の仲介付きで
譲渡した」という疑惑のスクープ記事であった。ま
もなくマスメディアの調査追及によって、元閣僚を
含む76名にリクルート・コスモス社の未公開株式が
譲渡されていたことが発覚し、さらにはコスモス社
の社長室長から、この事件追及をすすめていた社会
党(当時)楢崎弥之助議員に500万円の贈賄工作があ
ったと楢崎議員自らが告発する事態に発展し、   この模様はテレビで放映されるなど、     世論は沸騰した。
  1988年10月、東京地検特捜部は、リクルート社などを強制捜査、同社社長室長を贈賄容疑で逮捕。
1988年7月には森田康日本経済新聞社社長のリクルート・コスモス株購入が発覚し社長辞任。その直後
に江副はリクルート社会長を辞任した。翌1989年2月13日には江副前会長ら2名が贈賄容疑で逮捕され
た。同年3月にはNTT会長真藤恒、元労働次官加藤孝、元労働省課長、前文部次官高石邦男らが各収賄
容疑で逮捕、さらに同年5月には第二次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生議員と池田克也公明党
議員らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベが行われた。
  疑惑が持たれた高級官僚や閣僚たちは、  「妻が株をもらった。私は知らない。、   」「家族がもらった、
秘書がもらった。   」と釈明、当時「妻が、妻が…。秘書が、秘書が…」という言葉が小学生の間にまで

                         ~ 91 ~
流行した。こうして事件は政界や経済界の大物の未公開株収受による収賄容疑で起訴、そして当時の
宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊というスケールに拡大した。しかし、密室の財テク的収賄疑惑がも
たれた政府・自民党の幹部に強い疑惑が集中し、国会証人喚問などでも追及されたが、多くの「灰色
高官」たちの立件は行われないままに事件は幕引きとなり、結局、戦後の他の大疑獄同様、核心の解
明なしで終結、国民の間には「政治不信」だけが残こることとなった。
 このリクルート事件の原因は、江副浩正リクルート社会長が、自社の政治的財界的地位を高めよう
いう目的で、1984年12月から1985年4月にかけて、有力政治家・官僚・通信業界有力者の3方面をター
ゲットに未公開株を相次いで譲渡したことにあり、譲渡者は個人40名、63社にのぼった。1985年10月
に株式が譲渡されたリクルート・コスモス株が店頭公開し、上記の譲渡者の売却益は合計で数億円を
上回ったといわれる。この事件解明の過程で、当時は50歳前後で若手の経営者であった江副が、閣僚
級の大物政治家や高級官僚、大企業トップの多くと交流があったことが明らかになり、こうした昔の
悪しき政商を思い起こさせる錬金術商法はリクルートのブランドイメージを大きく失墜させた。
 2003年3月、贈賄側の責任者である江副は東京地裁で懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、被告・
検察ともに控訴せず判決は確定した。また、事件発覚後の1988年8月には、江副の自宅玄関に銃弾が打
ち込まれ、後の犯行声明によって当時一連の右翼テロ事件(赤報隊事件)のひとつと判明している。

(6)事件後
 事件のリクルートは、信用失墜と共にバブル経済の崩壊に伴い、マンション・不動産事業の子会社
リクルート・コスモスや、金融子会社のファーストファイナンスなどの不良資産問題が顕在化し、グ
ループ全体が窮地に追い込まれていく。1992年、江副は保有するリクルート社の株式を中内功に譲渡
し、リクルートは事実上ダイエーグループの傘下に入り、これによってそれまでリクルートのシンボ
ルマークだった「かもめ」はリクルート本体から消えた。  しかしその後のダイエーの不振により、2000
年にリクルートは社員等や提携先が中内氏から株式を買い戻しダイエーグループから離脱している。
 江副は、2003年の有罪判決確定後は執行猶予の身となり、世間には登場せずに黙して語らないまま、
自身の江副育英会の事務局長や回想本を執筆するなど雌伏の日々を過ごしていたが、2009年10月に自
著「リクルート事件・江副浩正の真実」  (中央公論新社)を刊行し、自らがリクルート事件について明
らかにしている。

 【引用文献】
 ・江副浩正「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社)
 ・江副浩正「かもめが翔んだ日」
               (朝日新聞社)


■設問24
 設問24

●江副浩正のアントレプレナーシップ論

   1. 江副の出自について簡単に説明しなさい。
   2. 江副が起業した当時の時代背景について簡単に説明しなさい。
   3. 江副の起業の動機は何だったか。
   4. 江副の先進性について簡単に説明しなさい。
   5. リクルート社は、なぜ未公開株式を贈賄工作に使ったか。
   6. 江副の失敗の原因をどのように考えるか、自分の考えを述べなさい。
   7. リクルート事件は、江副のその後の人生にどのように影響したか。
   8. 起業家の大半は失敗の連続だという。江副は大失敗をしたが、それを避ける手立てがあ
      ったとすればどのようにすればよかったか。自分の考えを述べなさい。




                        ~ 92 ~
■まとめ:昭和の起業家論のポイント
 まとめ:昭和の起業家論のポイント

              項目                   論点

1.起業にいたる時代背景              第二次大戦前、戦後の復興と混乱、軍役から
                          の復員、など。

2.出自、性格、教育、思想、価値観         高等教育を受けていない、貧しさ、たくまし
                          さ、独立開業の志、など。

3.起業家は、何に影響されたか           貧しさ、反抗心、青雲の志、戦争、両親、学
                          校、など。

4.起業家・事業経営者としての個人的強さ      技術へのこだわり、独立心、欧米に負けない
                          とする気持ち、など。

5.人脈、ネットワーク               学校、同郷、学閥のなさ、など。


6.事業形態(組織)                個人事業、会社設立、同族経営、従業員の拡
                          大、など。

7.復興、高度成長期と起業家            経済成長の時代、アメリカ輸出、近代的経営、
                          専門経営者、など。

8.昭和の経営者の特徴               強い成長意識、ものづくりへのこだわり、高
                          品質へのこだわり、製品がよければ高く売れ
                          る、経営理念の追求、など。

9.起業家の失敗と凋落               大失敗、行きすぎの原因はなぜか、なぜそこ
                          までしなければいけなかったのか、など。

10.昭和の起業家が経済社会に果たした役割とは   世界的企業、現代的大企業、日本のものづく
   何か                     りを作った、など。




                       ~ 93 ~
Ⅲ.昭和後期・平成の起業家
  昭和後期・平成の
1.-①昭和・平成の時代

     年    ⻄暦               出来事                             起業家
     21   1946   日本国憲法公布。
     24   1949   ドッジ・ライン実施。
     25   1950   朝鮮戦争勃発。日本は朝鮮特需。
     26   1951   サンフランシスコ講和条約調印。
     30   1955   ⾃由党、日本⺠主党合同、⾃由⺠主党発⾜。
     32   1957   なべ底不況。
     35   1960   日米安保条約改定。所得倍増計画。
     37   1962   オリンピック景気始まる。
     39   1964   東海道新幹線開通。東京オリンピック。
     41   1966   日本の総人口が1億人を突破。いざなぎ景気。
 昭
     45   1970   日本万国博覧会。よど号ハイジャック事件。
 和
     46   1971   ニクソンショック。円切り上げと変動相場制移⾏。
     47   1972   札幌オリンピック開催。沖縄返還。          (昭47)柳井、実家に戻って家業に⼊社。
     48   1973   第一次オイルショック。               (昭53)澤⽥、⻄独のマインツ⼤学へ留学。
     51   1976   「ロッキード事件」。                (昭56)澤⽥、⻄独より帰国、輸⼊販売会社設⽴。
     53   1978   日中友好平和条約。
     54   1979   第二次オイルショック。               (昭55)澤⽥、格安航空券販売会社を設⽴。
                                           (昭56)孫、米国より帰国し、ソフトバンク設⽴。
                                                                      柳
     60   1985   プラザ合意。円高始まる。              (昭59)柳井、ユニクロ第1号店を広島市に開設。     澤
                                                                      井
     62   1987   バブル景気始まる。国鉄⺠営化でJR各社発⾜。                                 ⽥
                                                                      正   孫
     63   1988   リクルート事件が起こる。                                           秀   南
                                                                          正   三
     元    1989   東欧⾰命が勃発し、冷戦が終結。    (平元)江副・リクルート元会⻑等、逮捕。                雄   場
                                                                          義   ⽊
     2    1990   湾岸戦争勃発。                                                    智
                                                                              ⾕ 堀
     3    1991   ソ連が解体。バブル経済崩壊。                                             子
                                                                              浩 江
     5    1993   非⾃⺠連⽴政権の細川内閣発⾜。
                                                                              史 貴
     7    1995   阪神・淡路⼤震災。地下鉄サリン事件。 (平7)三⽊⾕、興銀を退社し、コンサル会社を⽴ち上げ。
                                                                                文
     8    1996                      (平8)堀江、⼤学在学中にオン・ザ・エッジを設⽴。
     9    1997                      (平9)三⽊⾕、楽天を設⽴。
 平   10   1998   山一證券が⾃主廃業。
 成   11   1999   インターネット・バブル。       (平11)南場、マッキンゼーを退社し、DeNAを設⽴。
     13   2001   小泉構造改⾰。アメリカ同時多発テロ事件
     15   2003   イラク戦争勃発。
     17   2005   郵政⺠営化法案成⽴。
     18   2006   ライブドアショック。          (平18)ライブドア事件、堀江貴文逮捕。
     19   2007   日本郵政公社⺠営化。
     20   2008   サブプライムローン問題。世界⾦融危機。




■起業家列伝の学習ポイント
 起業家列伝の学習ポイント

     1.現在活躍し注目を集めている起業家達の歩みを、経済社会の動きと同時並行で理解して
          いく。

     2.平成の時代における「現代の起業家」は、過去の明治大正昭和とどのように違うのか。
          どこが現代的であるのか、比較検討を行う。

     3.成功した起業家がいる一方で、刑事事件として起訴された起業家も存在する。成功の隣
          に大失敗があるのか、成功とリスクは隣り合わせなのか、きれいなすばらしいストーリ
          ーとして読まずに、どんな現実でどのように苦心し悩んだのかを想像してみる。




                                            ~ 94 ~
【ケース ⑬】孫正義:情報通信の革命児
       孫正義:情報通信の
 孫 正義(そん・まさよし)
 1957年(昭和33年)生まれ。日本の実業家。
 ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンク株式
会社代表取締役社長、ソフトバンクテレコム株式会社代表取締役社
長、ソフトバンクモバイル株式会社代表執行役社長兼CEO、福岡ソ
フトバンクホークスのオーナーを務める。

(1)生い立ち
 1957年、在日韓国人実業家の孫(安本)三憲の次男として佐賀県
鳥栖市に生れる。男ばかりの4人兄弟であった。孫は、 「今だから言えるが、密造酒も家で作っていた」
と週刊ポストのインタビューで述べるとともに、家業の密造酒、パチンコが大成功し、外車を何台も
保有するほどの裕福な家庭で育ったことも明らかにしている。
 福岡市立城南中学校を卒業後、1973年、久留米大学附設高校に入学。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』
を読み、  龍馬の脱藩に憧れて渡米を決意した。夏休みを利用してカリフォルニア州に語学研修で留学。
 高校生時代、日本マクドナルドの創業者である藤田田の話を聞くために藤田の会社を訪問する。最
初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田に社長室に通された。そこで藤田にアメリカ
で何をすべきかを尋ね、コンピュータを学ぶように助言されたという。
 1974年、久留米大学附設高校を1年で中退し渡米、米国カレッジの英語学校に入学。米国セラモンテ
高等学校(サンフランシスコ)の2年生に編入。高校卒業検定試験に合格したため、高等学校を3週間
で退学。1975年、米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学。1977年、カリフォルニア大学バークレ
ー校経済学部の3年生に編入。1979年、孫は自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」をシャープ
に売却して得た1億円の資金を元手に、米国でソフトウェア開発会社を設立。インベーダーゲーム機を
日本から輸入した。

(2)帰国しソフトウェア卸売で起業
 1980年、カリフォルニア大学バークレー校を卒業。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市南
区に事務所を構える。1981年、福岡市博多区で2名のアルバイト社員とともにコンピュータ卸売の「ユ
ニソン・ワールド」を設立(孫はこれをソフトバンクの始まりとしている)    。孫は社員の前で、「会社
を10年で年商500億の会社にする」と豪語した。聞いた二人はほら話と受け取り、孫の力量を見限って
退社してしまったという。
 1981年、株式会社日本ソフトバンクを設立。上新電機を相手にソフトウェア
卸売の契約を結ぶ。1982年、当時パソコンソフト最大手であったハドソンと契
約。さらにパソコン関係の出版業務に進出して業務拡大を図った。一時期はパ
ソコンソフトの卸売シェアの8割近くを占めていたと言われており、パソコンソ
フトの価格が下がらないのはソフトバンクのせいという批判もあった。
 1983年、孫は慢性肝炎を患い、病気療養のために日本警備保障(現セコム)
の副社長だった大森康彦を社長とし自らは会長に退く。1986年、孫が社長に復
帰し、大森は会長に就任。
 1987年、フォーバルと共同でNCC-BOX(世界初のLCR:自動で最安の電話
通信会社を選択する機能)  を開発。フォーバルが全国の中小法人に無償配布し、
新電電からのロイヤリティで莫大な利益を出す。この資金を基にソフトバンクは急速に成長していく。

(3)ITベンチャーの雄へ
  ソフトバンクは今では順風満帆な大企業のイメージがあるが、過去には事業の失敗を何度もしてお
り多額の負債を背負ったりして浮き沈みが激しい企業であった。こうした経営から金融機関の信用も
評価も高くなく、なかなか資金調達が実現できなかった。
  1990年、孫は韓国籍から日本に帰化。 同年、  日本ソフトバンクをソフトバンク株式会社に社名変更。
1994年7月、ソフトバンクは株式を店頭公開し、その資金を元にM&AやIT関連企業への投資などを積
極的に行う様になる。1995年、Windows 95の市場立ち上げのためマイクロソフトと提携し、8月にゲ
ームバンクを設立したが失敗に終わっている。また、11月にはジフ・デイビス社に資本参加したが、
収益が上がらず2000年に売却した。
  1996年、当時まだ未公開企業であった米国のYahoo!に多額の出資をし、合弁で株式会社ヤフーを設

                        ~ 95 ~
立した。  このヤフー社は1997年11月に株式が店頭公開され、
ソフトバンクはヤフー社の株式売却益により多額の資金を
得ることになる。1996年、DRAMモジュールで急拡大して
いたメモリーメーカーのキングストンテクノロジー社を買
収。しかし、この買収は失敗に終わり、1999年に創業者側
へ売却し多額の赤字を出した。また、オーストラリアのメ
ディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーシ
ョンと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の
21%を取得。しかし朝日新聞グループの反発に遭って、結
局、朝日新聞グループに買い戻された。
  1999年- 証券市場の開設を企図し、米国のナスダック・
ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資
しナスダック ジャパンプランニング株式会社を設立。
          ・                  1999
年、東京電力、マイクロソフトと共同で、無線による高速
インターネット接続サービスの合弁会社スピードネットを
設立。しかしながら2003年、東京電力に営業譲渡し清算手続きを行った。

(4)相次ぐ買収と、通信事業への進出
 2000年、経営破綻した日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)に、株式を長期保有することを条件
に筆頭株主として出資。2000年2月、ソフトバンクの株価が19万8,000円の高値を付け、時価総額がト
ヨタ自動車に継ぐ第2位となる。インターネット・バブル時代の象徴ともいえる。2003年、あおぞら銀
行株を米国投資ファンドのサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。2004年、子会社のソフ
トバンクBBによるYahoo! BB顧客情報漏洩事件が発生。Yahoo! BB登録者から450万人の個人情報が漏
洩し、この情報に対しYahoo! BBに現金を要求していたソフトバンク子会社元社員らが逮捕された。
 2004年5月、ソフトバンクは、米国投資ファンドのリップルウッド・ホールディングスから日本テレ    日本テレ
                                                    日本
コム(現:ソフトバンクテレコム㈱)を買収。買収価格は約3,400億円と報道された。日本テレコムの
コム
発行済み株式すべてを取得し、同年7月に完全子会社化(現在のソフトバンクテレコム㈱)          。ソフトバ
ンクは日本テレコムの持つ固定電話を主力とする通信事業に本格進出した。同年12月、ソフトバンク
は福岡ダイエーホークスを200億円   (ダイエーの持つ球団株式98%を50億円、  ほかに興行権を150億円)
で買収することが決定した。新チーム名は「福岡ソフトバンクホークス」となった。
 2006年4月、ソフトバンクは英携帯電話会社の日本
法人であるボーダフォン㈱を1兆7,500億円で買収し、
携帯電話事業に進出を果たした。     買収した会社は現在
のソフトバンクモバイル㈱である。2007年5月、ソフ
トバンクモバイルは携帯電話の月間純増数で16万台
を記録し、同業のNTTドコモ、auを抜いて第一位に
なった。
 ソフトバンクはこの20年間で大きく成長した。    同社
の連結売上高は1989年度の91億円から2009年度は2
兆76344億円と300倍になった。下図のように、2004
年の日本テレコムの買収と2006年のボーダフォンの
買収によって売上が飛躍的に増えて                             ソフトバンク・連結売上高の推移             (億円)
いる。しかし、ソフトバンクは巨大      30,000                                                             27,634

な借金を抱えるという難題がある。
                      25,000
孫は、2009年5月の決算説明会におい
て、リース債務を除いて約1兆9千億     20,000
円あるソフトバンクグループの純有
利子負債を2年度後の2011年度に半    15,000
減し、5年度後となる2014年度には完
済すると発表した。孫は「この完済      10,000

宣言は僕の人生の中でかなりの大き                                               3,971
                       5,000
なコミットメント。数か月前後して                                1,711
                               91
もコミットしたことは必ず実行する」         0
と発言し、また、純有利子負債を完               89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09



                                    ~ 96 ~
済し終えるまでは大規模な投資はしないと宣言した。
●
    孫正義 語録
    「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事
     業を後継者に引き継ぐ。(」 (孫19歳の時の人生50年計画)
    「最初にあったのは夢と、そして根拠のない自信だけ。そこからすべてがはじまった。」
    「ソフトバンクはたまたまパソコンソフトの流通で始まりましたけれど、僕はトラックで配送するパソコンソフトの流
     通だけを本業にしようと思ったことは、創業以来1日たりともありません。」
    「お金をかけて何かを独占するというとイコール悪だと思う人もいますが、必ずしもそうではない。マイクロソフトは
     あれだけ独占的にパソコンのソフトを押さえていますが、単純に悪でしょうか?。ビル・ゲイツがあれだけの労力と
     思い入れでやっているからこそ、パソコンがどんどん伸びているという見方もできると僕は思います。」
    「ソフトバンクは世界のデジタル情報革命に遅れないよう、それどころかトップに立とうと猛スピードで走っている車
     の一台かもしれません。しかしそれは多くの人からは暴走族に見える。とくに信号待ちをしている人から見ると、危
     なっかしくてしょうがないと見えるようです。」
    「組む以上はナンバーワンのところと最初からがっちり組む。これが僕の主義です。そのために全ての精力をつぎ込む。
     ナンバーワンのところと組むことに成功すれば、あとは黙ってもすべてがうまくいく。そういうものです。 」
    「ソフトバンクが何をしようとしているかというと『ネット財閥』というのを考えているんです。明治維新のころに日
     本は農耕社会から工業社会へ変わりました。このとき新しい時代がそれまでと何が違ってどういう方向に行くのかを
     一番理解していた岩崎弥太郎や渋沢栄一といった人たちによって財閥が生まれたのです。 僕は財閥が日本の近代化に
     果たした役割、産業界に果たした役割はものすごく大きいと思っています。」

    【引用文献】井上篤夫『志高く 孫正義正伝』実業之日本社


    ・
◎起業家 孫正義と大企業経営者との違いについて想像してみよう。
                            大企業経営者                  孫正義
    1.若い頃の目標:
    2.大学卒業後の就職:
    3.三十代に従事していたこと:
    4.会社組織における自分の位置:
    5.経営手法:
    6.目標、夢:


■設問25
 設問25

    ●孫正義のアントレプレナーシップ論

       1. 孫の出自は、彼の起業に影響したと思うか。自分の考えを述べなさい。
       2. 孫がパソコンソフト卸売を起業した当時の時代背景を想像して述べなさい。
       3. 孫に影響を与えたものとは何か。
       4. 孫の経営手法は異端だと思うか、それとも先端か。
       5. ソフトバンクがプロ野球を買収し、ソフトバンクホークスを持った効果をどう評価する
          か。
       6. ソフトバンクの「白戸家のコマーシャル」をどう評価するか。CMが目指したもの、消
          費者に好評価された理由を述べなさい。
       7. 孫の経営における問題点は何か。自分の考えを述べなさい。




                               ~ 97 ~
【ケース ⑭】澤田秀雄: 格安海外旅行」の推進者
       澤田秀雄: 格安海外旅行」
            「格安海外旅行
            「
 澤田 秀雄(さわだ ひでお)  。
 1951年(昭和26年)生まれ。株式会社エイチ・アイ・エス取締役会長。
エイチ・エス証券株式会社代表取締役社長。2003年よりモンゴルAG銀行
(現・ハーン銀行)の取締役会長。2010年よりハウステンボス社長。

(1)生い立ち
 1951年大阪府に生まれる。父親は菓子製造卸業を営む。本人は、子ど
もの頃は気が弱くて優しい性格だったという。大阪市立生野工業高等学
校に入学し、高校時代は友人と頻繁に旅行に出かける。紀伊半島を自転
車で1周旅行、北海道などに旅行する。
 海外への留学を夢見て、 高校卒業後、1973年から1976年まで旧西ドイツのマインツ大学に海外留学。
留学中にアルバイトで稼いだ資金を元手に、ヨーロッパ、中東、アフリカ、南米、アジアなど50か国
以上を旅行する。旅費を確保するために、日本からのビジネスマンや団体旅行者向けレストラン、ラ
イブ演奏の店などのナイトツアーを企画。澤田の取り分が月間で100万円を超えたこともあるという。
ナイトツアーでもうけた資金をフォルクスワーゲンと日立製作所の株に投資し、株価が上がって西ド
イツで稼いだ資金が数千万円になっていたという。

(2)留学から帰国後に旅行会社を立ち上げ
 1976年に帰国後、西ドイツ留学時代に株式投資で儲けた資金を元手にビジネスを始める。東京新宿
を事務所に最初に手がけたのは、  内外価格差が大きかった毛皮の輸入販
売であったが、  この頃ワシントン条約が採択されて毛皮の輸入が厳しく
なり、事業はあえなく断念した。
 その後、澤田は格安航空券の販売事業が頭に浮かび、1980年にエイ
チ・アイ・エスの前身となる㈱インターナショナルツアーズを設立し、
新宿のマンションオフィスの1室で机2台と電話1本からスタートした。
会社を設立した直後は、格安航空券の仕入れは、国内航空会社はもとよ
り海外の航空会社も無名の旅行会社と直接取引してくれず、  大手の航空
券卸売会社と日本ではマイナーな航空会社から少しずつ航空券の仕入
れを始めたという。街にポスターを張って宣伝しても、数カ月全くお客
様が来ず、澤田の言では本当に暇だったという。澤田は暇にまかせて歴
史小説ばかりを読んでいたが、そこに書いてある「継続は力なり」「石、
の上にも3年」というような登場人物の発言を信じて、いつか必ず突破
口は開けると我慢の日々であったという。

(3)格安航空券の拡がりと円高メリット
 1980年代は格安航空券の存在は知られておらず、旅マニアなどから少しずつ口コミで澤田の会社の
存在が広がっていった。最初のヒット商品はバンコク経由で行く格安の「インド自由旅行」の企画で、
ついでビザが取りづらかった「中国自由旅行」を香港経由で企画、大手旅行会社がなかなか手を出せ
ない隙間ビジネスに集中しヒットにつなげた。設立年(1981年)の年商が約3億円であったが、紆余曲
折を乗り越えながら倍々の成長を続け、1989年の年商は約164億円になった。
 1988年、満を持してパッケージツアーの企画販売に参画。タイミングを計りマーケットニーズを読
みながら、渡航先別営業カウンターの設置、国内在住の外国人向けツアーデスクなど、守備範囲を少
しずつ拡大していった。1980年代後半のバブル経済の時代も無借金経営に徹して、投資を控えたこと
が効を奏し大失敗をせずに順調に業容は拡大した。

(4)格安エアラインへの挑戦
 1990年、社名を㈱エイチ・アイ・エスに変更。1993年当時、新宿南口に新本社を構え、日本一のス
ペース面積を誇る海外旅行のデパート「トラベルワンダーランド」をオープンし、香港4日間1万9800
円という超格安の目玉商品を発売した。1995年3月、旅行業のベンチャー企業としては初めて株式を店
頭公開。1996年、澤田は格安航空会社のスカイマークエアランズ㈱(現・スカイマーク㈱)を設立し、
定額航空運賃専門のエアラインに参入し、1998年9月に就航する。しかし、 「半額運賃などできるわけ


                        ~ 98 ~
がない」と断言していた日航と全日空が、一気に低額運
賃政策を導入し始め、競争力が激減してスカイマークは
大赤字に転落した。この赤字事業との格闘は、2004年ま
で続いたが、スカイマークは2000年に東証マザーズに上
場し、その後黒字化を達成した。澤田のエイチ・アイ・
エスは2005年にスカイマークを軌道に乗せたことで経営
から離れ、同社のグループ外となった。1999年、澤田は
協立証券(エイチ・アイ・エス協立証券に改称、現・エ
イチ・エス証券)の株式を取得し、代表取締役に就任。
そのほか、モンゴルの旧国立銀行が民営化したハーン銀
行への経営参加、外為どっとコムへの経営参加を行って
いる。
  エイチ・アイ・エスは2005年度の海外旅行取扱人数において、長年旅行会社のトップにあったJTB
を抜いて旅行業界首位となる。2010年1月、8年連続赤字で経営難に陥った長崎ハウステンボスへの再
生支援を表明し、同年4月にハウステンボスはエイチ・ア
イ・エスの子会社(67%出資)となり、澤田が同社社長
に就任し再建が開始された。
  エイチ・アイ・エスは、2010年現在、国内227、海外
56都市66拠点の店舗をもち、社員数は約2500人、グルー
プ全体では約5000人の企業グループに成長している。ま
た売上金額も約3480億円(2009年度連結決算)に達する
までに成長している。




●
    澤田秀雄 語録
    「私はみんなが左に行けば、右に行きたくなる性分。生来のあまのじゃくなんです。」
    「問題が起きると人間は暗くなりがちですが、そこで、暗くなったら沈むだけ。」
    「必死に知恵をしぼって動き回って活路を見出すんです。九回失敗しても十回目で成功すればいい。起
     業家にはそれくらいの気構えが必要なんです。」
    「本当に正しければ、いずれルールが変わっていく。」

    【引用文献】
    Dream Gateスペシャルインタビュー:澤田秀雄   http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=455




■設問26
 設問26

    ●澤田秀雄のアントレプレナーシップ論

      1. 澤田の性格と考え方について、想像も含めて述べなさい。
      2. 格安航空券販売を起業した当時の時代背景について述べなさい。
      3. 澤田に影響を与えたものは何と思うか。
      4. 澤田のエイチ・アイ・エス社長時代には、格安航空券ビジネスの時代背景はどのような
         ものだったか。
      5. 澤田が格安エアラインに参入した理由はどのようなものだったと思うか。




                            ~ 99 ~
【ケース ⑮】柳井正:ユニクロの創業者
       柳井正:ユニクロの創業者
 柳井 正(やない ただし)
 1949年(昭和24年)生まれ。カジュアル衣料の製造販売「ユニクロ」
を中心とした企業グループ持株会社である㈱ファーストリテイリングの
代表取締役会長兼社長。ソフトバンクの社外取締役でもある。
 ㈱ユニクロ(ファーストリテーリングの子会社)    を中心として、   衣料・
靴等の小売店舗を展開する企業群を傘下に有する。社名は英語で「素早
く(提供する) 」を意味するFastと 「小売業」を意味するRetailingを組
み合わせた造語で、ファストフード的に素早く商品を提供できる小売業
(=ファスト・ファッション)を目指して名付けられたものである。企業
理念は「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」    。GAPに代表される
ような世界的な衣料品企業を目指し、    積極的に海外展開及びM&Aを行っ
てグループを拡大している。

(1)生い立ち
 山口県宇部市生まれ。  父である柳井等は、第二次大戦後の1949年に個人営業として
メンズショップ小郡商事を山口県宇部市に創業。1963年、個人事業を法人化し、ファ
ーストリテイリングの前身である小郡商事㈱を設立した。  柳井正が同社社長に就任し
た1984年まで父が代表取締役社長を務めた。

(2)二代目の社長に就任
 柳井は、早稲田大学政治経済学部を卒業後、ジャスコ(現在のイオンリテール)に入社したが9ヶ月
で退職し、1972年8月に山口県に戻って実家の小郡商事に入社。当時小郡商事が展開していた店舗「メ
ンズショップOS」は紳士服などの男性向け衣料が中心であった。当時の小郡商事は、メーカーから仕
入れてきた衣料の小売販売に徹しており、現在のような製造小売(SPA)ではなかった。
 衣料販売にたずさわる間で、洋服の青山やアオキなどの郊外型紳士服店が業績を拡大したため、後
発を避け安価で日常的なカジュアル衣料の販売店を着想し全国展開を目指
した。カジュアル衣料にこだわった理由は紳士服のように接客を必要とし      1997年頃のユニクロの
ない、物が良ければ売れるという点が自身の性に合ったためという。             フリース


(3)ユニクロに着手
  1984年、父親の後継者として小郡商事の社長に就任。柳井は「ユニーク
な衣料品」という意味をこめて、           「ユニーク・クロージング・ウエアハウス
(Unique Clothing Warehouse)」とブランド名をつけ、1984年6月に広島
市にユニクロ第1号店を開店し、その後中国地方に店舗を拡大していった。
  ユニクロのカジュアル路線が徐々に陽の目を見るようになった1991年、
社名を㈱ファーストリテイリングに変更。1994年7月、広島証券取引所に株
式を上場、1997年4月に東京証券取引所第2部に上場した。
  柳井は、ユニクロ店舗の全国展開によって、良品質のカジュアル衣料を
極めて安い価格で売るという「価格破壊路線」を進めた。1994年にはユニ
クロは100店舗を越え、1997年には300店舗を超えた。
  ユニクロが爆発的にヒットしたのは1999年から2000年にかけてである。一着1,900円のフリースや
2,900円のジーンズが価格破壊の象徴としてマスメディアなどにも紹介されて大ブームになった。あま
りに大量に売れ着用している人が多かったためユニクロの衣料を着用しているのが判明してしまう
「ユニバレ」と呼ばれる現象が広がり、ユニクロの服がダサい、恥ずかしいとの印象も広がり、経営
悪化の一因となった。
  大ヒットで売上高が倍々ゲームとなったファーストリテイリングは、2001年9月にイギリス・ロンド
ンに4店舗を開店し、海外進出を果たした。2001年11月、日本IBMから入社した玉塚元一が代表取締役
社長に就任し、柳井正が代表取締役会長に就任した。
  しかし、2002年から3年間、ファーストリテイリングは低迷期に陥った。消費者にユニクロ製品の飽
和感が広がり、イギリスに展開した海外店舗も不振に陥った。柳井はいったん社長を退いたが、2005
年には社長の玉塚を解任し、再び社長に復帰した。また2005年には持株会社制への移行を受けて、グ
ループ各社の会長職を兼務している。

                          ~ 100 ~
(保温性を高めた下着)や「ブラトップ」
 2006年頃から「ヒートテック」                 (ブラジャーのカップを内
蔵したキャミソール、タンクトップなど)など機能性を重視した商品に加え女性ものの商品に力が注
がれている。また、ユニセックスやお手頃価格の路線は堅持しつつも、一部で脱却を図り、外部と組
んだメッセージ性を持つ共同企画商品の開発や買収したブランドのノウハウ移入、乳幼児向け商品の
開発を行っている。

(4)ユニクロ批判                                  ㈱ファーストリテイリング・連結売上 高の推移            (億円)
                                                                                   6,850
                     7,000
 ビジネスモデルとしてのユニク
ロの低価格・大量販売戦略につい      6,000

て、賛否両論がある。同志社大学      5,000
教授の浜矩子は、「文藝春秋」2009                                         4,186

年10月号に『ユニクロ栄えて国滅     4,000
                                                                 3,098
ぶ』という論文を発表し、ユニク      3,000
ロのように企業が価格破壊のよう
な低価格で商品を販売することが      2,000

企業の利益を縮小させ、ひいては      1,000
                                                   831
                                       333
人件費の切り下げにつながってい            52

るとして、ユニクロのような経営          0

を「自分さえ良ければ病」である            90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09

と批判している。
 なお、柳井は、米フォーブス誌 「2009年 日本の富豪40人」             によると、個人資産が61億ドル                   (約5700
億円)で日本人トップの資産家とされている。

●
    柳井正 語録
「これまでも私は、いろいろなことで失敗しています。 そもそも商売というのは、失敗するのがふつうだと思うんです。
 新しいことをして成功する確率はほとんどない。10回やっても1回もないぐらいじゃないかな。だから、新しいことを
 やってダメだと思ったら、即座に撤退する。これがつぶれない秘訣ですね。 」
「フリースブームというものがありました。爆発的なヒットになりました。ただ、そこでマスの一員になったらダメで
 す。成功の復讐があります。ブームになると、終わったとなる。次の世代に行かなければならない。 」
「僕の好きな経営者は松下幸之助です。松下さんは経営に必要なことをほとんど経験し、そこから多くを学び、現代に
 通じる経営哲学を伝えています。どんなに技術が進歩しても経営の基本は松下さんの時代と変わることはありません。
 僕は松下幸之助や本田宗一郎の本をほとんど読んでいます。こういうことなのかと随分教えられました。 」
「日本の大企業の経営者のほとんどはサラリーマン経営者だから、失敗のリスクを100%背負わない。自分のお金で会社
 を動かすわけではないし、任期が終われば責任から解放される。だから、よほどせっぱつまらない限り、自分のした
 ことを否定しない。私は常に否定してこそ商売だと思うんです。 」



■設問27
 設問27

    ●柳井正のアントレプレナーシップ論

      1. 柳井の出自について簡単に説明しなさい。
      2. ユニクロ事業をスタートさせた当時の時代背景を説明しなさい。
      3. ユニクロは、何でどのように収益を得る事業か。
      4. ユニクロの強みを自分の視点で評価するとどのような点か。
      5. ユニクロの価格破壊を自分はどう考えるか。
      6. 柳井の先進的なところ、異端であるところはどこかについて、自分の考えを述べよ。
      7. 柳井のような二世経営者がベンチャービジネスを起こすことは有利か不利か。自分の考
         えを述べよ。




                                         ~ 101 ~
【ケース ⑯】三木谷浩史:楽天の創業者
       三木谷浩史:楽天の
 三木谷 浩史(みきたに ひろし)
 1965年(昭和40年)生まれ。楽天㈱の創業者で代表取締役会長兼社長。

(1)生い立ち
 兵庫県神戸市生まれ。父は経済学者の三木谷良一(神戸大学名誉教授)      。
3人兄弟で、姉は医師、兄はバイオ研究者の大学教授。6歳まで神戸市垂水
区にあった神戸商科大学職員住宅に居住。   1973年、小学校2年時に父がイェ
ール大学研究員に就任したため家族で渡米、    アメリカで2年間過ごしたのち、
帰国し明石市立松が丘小学校入学。1977年、岡山県私立岡山白陵中学校に
入学、実家から離れ寮生活を送る。スパルタ教育のため精神不安定になっ
たために中学2年生の6月に退学、実家に戻り近所の朝霧中学校へ転校する。後に、三木谷はこの経験
をバネにして奮起したと述懐している。
 1980年、兵庫県立明石高校に入学。高校時代はテニスのジュニア関西ベスト16。1983年同高校卒業
後、1年間の浪人生活を送った。1984年 一橋大学商学部入学。大学生時代は体育会テニス部主将。

(2)エリート銀行員
 1988年、一橋大学商学部を卒業し、日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行)に入行。名古屋支
店を経て、本店外国為替部配属。1991年に銀行派遣により米国ハーバード大学ビジネススクール
                               ハーバード大学ビジネススクールに留
                               ハーバード大学ビジネススクール
学。滞米生活で起業家への夢が芽生える。1993年、MBA取得後に帰国。帰国後は、銀行の企業金融開
発部でM&Aの斡旋を担当し、孫正義(ソフトバンク) 、増田宗昭(TSUTAYA)などが顧客であった。

(3)独立コンサルティングを経て楽天を起業
  1995年11月、日本興業銀行を退職し、
コンサルティング会社のクリムゾング
ループを設立。新卒者と2人だけの起業
であった。1997年2月にクリムゾングル
ープで稼いだ6000万円を元手に、㈱エ
ム・ディー・エム(現・楽天)を設立。
  1997年5月、楽天市場を開設。1999年
6月、社名を楽天㈱に変更。1999年9月、                                         楽天㈱・連結売上高の推移                (億円)
インターネットオークション事業楽天フ                                                                                          2,983
リ マ 開 設 。 2000 年 4 月 19 日 、 楽 天 は 3,000

JASDAQ市場に店頭登録(上場)を果た
す。当時はインターネット・バブルの最                2,500

中で、ネットベンチャーの注目銘柄とし                                                                        2,033
                                  2,000
て脚光を浴びた楽天は、株式公開直前期
の売上高が6億円(経常利益は2億2千万
                                  1,500
円)であったものが、株式公開直後の会
社時価総額が2,455億円というけた外れ              1,000
の株価(初値)がついた。この高い株価
のおかげで楽天が株式市場から調達した                  500
                                                                               456

資金は495億円という巨額なものとなり、                                     32    68   99
                                                                         181
                                          0    1    6
三木谷は公開後からこの資金を源資にし                    0
て積極的に買収を進めた。                              97   98   99   00    01   02   03    04    05    06     07   08    09



(4)買収による事業拡大
 株式公開後は、インフォシーク、コミュニケーションオンライン、ライコスジャパン、マイトリッ
プ・ネットなど、2002年末までの2年弱で8社を買収した。2003年9月、楽天は「旅の窓口」を運営す
るマイトリップ・ネット㈱を日立造船株式会社より買収、完全子会社化し、現在の楽天トラベル㈱と
した。同年2003年11月、DLJディレクトSFG証券㈱を買収・子会社化し、現在の楽天証券㈱とした。
 2004年9月、㈱あおぞらカードを買収・子会社化し、現在の楽天クレジット㈱とした。またプロ野球


                                      ~ 102 ~
で近鉄・オリックスの球団統合が議論されていた2004年9月に日本プロフェッショナル野球組織への加
盟を申請し、同年10月に㈱株式会社楽天野球団を設立した。2005年6月、 国内信販㈱を買収・子会社
化し、現在の楽天KC㈱とした。
  現在の楽天の運営する電子商店街「楽天市場」
は国内最大であり、   その規模は会員数4,000万人。
出店数25,000店。楽天市場内店舗の合計年間売上
高は6,933億円(2008年度)と、大手百貨店の三
越を上回る売上高となっている。楽天は2003年
10月に本社を港区の六本木ヒルズに移転したが、
業務拡大による人員増大と拠点分散を解消する
ために、2006年9月から品川シーサイドフォレス
ト内にオフィスを移転し、    新しい地上23階建てビ
ルは「楽天タワー」と名付けられている。
  三木谷は、2008年にはフォーブス誌の日本人富豪ランキング8位にランクインし、38億ドル(約4000
億円)の資産を保有していると報じられ、2009年には36億ドル(約3384億円)で日本人7位に、2010年に
は47億ドル(約4277億円)で6位となった。
  また、楽天は2010年6月に社内の公用語を英語にすることを発表、同社の決算発表等のメディア対応
も英語で行われ、世間の注目を集めている。

●
    三木谷浩史 語録
「仕事は僕にとって、最高のエンターテイメントなんです。  」
「僕はよくリスクテイカーだと言われます。でも、本当はそうじゃない。限りある自分の人生を、精一杯
 やったんだと思いたいだけ。人生を後悔するという最大のリスクを回避しているんです。  」
「経常利益で1000億円。目指すのはただですから。自分が飽きさえしなければ、絶対勝てる。最大のリス
 クは充実していないってこと。目標を決めて、逆算して行動を起こす必要があります。僕はハードルが
 高くなるほど、解決したくなってくるんです。 」
「ブレークスルーを起こすには100%の力ではだめで、120%出さなくてはいけない。それをやれるかどう
 かという差は大きいと思います。ひとつ言えるのは、頭を使って、成功するまでやり続けることだと思
 います。それには自分のエネルギーレベルとゴールへの執着心が必要なんだと思いますね。  」
「ナンバーワンであり、オンリーワンでありたいと思っています。いろいろな競争がある中で、自分たち
 が戦略的に『こういう風に展開していけばナンバーワンになれる』と考えた分野で世界一を目指す。そ
 れは利益力かもしれないし、従業員が一番幸せなことかもしれないし、安心感、ブランド ネームなどい
 ろいろな指標があると思います。 」


■設問28
 設問28

    ●三木谷浩史のアントレプレナーシップ論

      1. 三木谷の出自を説明し、それは起業を促すものであったかについて自分の見解を述べな
         さい。
      2. 三木谷に影響を与えたものは何かを述べなさい。
      3. 三木谷をハーバードMBAのエリート銀行員を捨てて起業に走らせたものは何だろうか。
      4. 楽天が次から次へと買収した理由は何か。
      5. 楽天がプロ野球(楽天ゴールデンイーグルス)を設立した理由は何か。自分の考えを述
         べよ。
      6. 三木谷、楽天の問題点、課題はどこにあると思うか。自分の考えを述べよ。




                          ~ 103 ~
【ケース ⑰】堀江貴文:ネットバブルと挫折と
       堀江貴文:ネットバブルと挫折
                   挫折と
 堀江 貴文(ほりえ たかふみ)  。
 1972年(昭和47年)生まれ。㈱ライブドアの元・代表取締役社長CEO。
あだなは「ホリエモン」   。

(1)生い立ち
 1972年、福岡県八女市で共働きの会社員の一人息子として生まれた。父
親は厳しかったという。堀江は著書の中で「温かい家庭がどんなものなの
か、まったく知らないままに子供時代を過ごした」と書いている。親友も
なく、孤独な少年だったが、頭脳明晰、成績優秀。中高一貫校の久留米大
学附設中・高校から、現役で東京大学文科Ⅲ類に入学した。
 高校の先輩がソフトバンク社長の孫正義で、その実弟である孫泰蔵とは、中学・高校・大学の同級
生である。少年時代に孫正義の活躍を目の当たりにして育ったことが現在の堀江の原点であるとも言
われる。

(2)学生ベンチャー
 東京大学に入学後は、大学の駒場寮へ入寮し、同部屋となっ
た2人の先輩のうちの1人から塾講師のアルバイトを紹介される。
アルバイト先の塾でのちに共同で会社を設立することとなるメ
ンバー達と知り合った。在学中の1996年、ウェブページ制作請
負会社である有限会社オン・ザ・エッヂを設立。資本金600万
円は堀江がアルバイトで教えていた学習塾の生徒の父親が全額
出資した。創立メンバーは大学生4名であった。
 翌1997年7月に株式会社オン・ザ・エッヂに改組。1998年9
月、インターネット広告事業のサイバークリックを開始。1999年11月、インターネットコミュニティ
運営の㈱フープスを設立した(2001年6月に売却)
                        。1999年頃にはインターネットブームが爆発してお
り、オン・ザ・エッジは事業を拡大させていく。だが、株式上場をめぐって、堀江と他の創立メンバ
ーとの意見が対立し、堀江が株式公開の路線を主張したのに対し、他のメンバーは「ちゃんとクライ
アント方を見て仕事をしていくのが先決」として意見が分かれ、一部の創業メンバーが退社した。

(3)株式上場後の拡大路線
  オン・ザ・エッジは2000年4月に東京証券取引所マザーズ市場に上場。この公募増資により60億円を
市場から調達し、上場直後の同社の会社時価総額は570億円であった。この調達資金をもとに、オン・
ザ・エッジは買収により拡大路線を始める。
  2002年11月、経営破綻した(旧)株式会社ライブドア(初代)より営業権を譲受。2003年4月、社
名をエッジ株式会社に変更。2004年2月、  (旧)株式会社ライブドア(初代)から譲り受けた無料ISP
のサービス名であるlivedoorを社名に採用し、株式会社ライブドアに社名を変更した。
  2004年3月、日本グローバル証券㈱(現・ライブドア証券㈱)の株式を93%取得し子会社化。2004
年3月、バリュークリックジャパン㈱の株式を取得し子会社化。そして、2004年6月、プロ野球球団大
阪近鉄バファローズを買収したい旨の意思を表明する。しかし、買収の賛同が得られず、プロ野球進
出は断念した。
  2005年2月8日、東京証券取引所に上場している
ニッポン放送の発行済み株式の35%を取得した。
ニッポン放送はフジテレビの親会社であるために
ライブドアがテレビ局の経営支配権を掌握する企
てとしてライブドアとフジテレビで抗争が始まる。
2005年5月、ニッポン放送の株式を32.4%保有す
るライブドア・パートナーズをフジテレビに670
億円で売却。フジテレビを割当先とした第三者割
当増資を実施(発行総額440億円)  。これによりラ
イブドアはフジテレビの経営権掌握は断念したが、
フジタレビ側から多額の資金調達が実現した。


                       ~ 104 ~
(4)派手な言動とホリエモン現象
 ライブドアは派手な買収劇の他にも、     大幅な株式分割で衆目
を集めた。2003年11月には株式を1:100の分割を発表し、株式
分割後、1株あたり株価が小額になった事で需要が増え、2003
年12月25日から2004年1月20日まで株価は15営業日連続でス
トップ高となり、終値で1802円まで高騰した。
 また堀江は、  テレビに出るときでさえTシャツの出で立ちで、
既存秩序にきつい疑問を投げかけて本音を語る独特の奔放な
言動は若い世代の支持を集め、    「ホリエモン」のあだ名は全国
に広がった。  「女は金でついてくる」の名セリフはマスコミで
叩かれ、2005年の流行語大賞では「想定内」で受賞した。
 2005年8月の衆議院総選挙では、自
民党支持のもとに無所属で広島6区か               ㈱ライブドア・連結売上高の推移                                (億円)

ら出馬し、郵政改革に反対して自民党       1,400
                                              1,379

を離党した亀井静香と激しい選挙戦
を繰り広げたが、次点で落選した。        1,200

                                                                                973
                                      1,000
(5)ライブドア事件                                                         784
  2006年1月16日、証券取引法違反の    800                                                         710

容疑により、六本木ヒルズ内のライブ
                         600
ドア本社と堀江社長の自宅等が、東京                                                                421
地検による家宅捜査を受ける。翌日は        400                                 309
                                                                                            268
ライブドア関連銘柄の株価が軒並み
ストップ安となった。1月23日、同容       200
                                                      59
                                                         108
                                                 36
疑で堀江貴文代表取締役、財務担当の                  1     3   12
                             0
宮内取締役、岡本取締役、ライブドア
                                  98    99   00  01   02 03  04    05  06     07 08  09     10
ファイナンスの中村社長の4名が逮捕  逮捕
された。  また急激な出来高増加により                            ライブドアの株価(分割後換算、円)
東京証券取引所の取引が停止する事 1800
態も発生した。この出来事は「ライブ 1600
ドア・ショック」と呼ばれた。        1400
  1月24日、堀江貴文社長が社長を辞
                      1200
任し、  平松庚三上級副社長が社長に就
任した。1月25日、堀江前社長がライ 1000
ブドア取締役を辞任。    ライブドアに対  800
する堀江貴文の支配権が完全になく       600
なった。2月13日、堀江は証取法違反
(風説の流布、偽計取引)容疑で東京      400

地検に起訴された。2007年3月16日、 200
東京地裁で判決公判が行われ、    小坂裁    0
判長は  「上場企業の責任者としての自        00/4 7  01/1   7 02/1 7  03/1  7   04/1   7    05/1    7      06/1
覚が微塵も感じられない」    として懲役
2年6ヶ月の実刑判決(求刑懲役4年)が言い渡したが、堀江側は東京高裁に即日控訴した。2008年7月
25日、東京高裁は堀江の控訴を棄却し、1審の懲役2年6か月の実刑判決を支持した。弁護側は即日最高
裁に上告した。現在は最高裁で審理中であり、今後その判決が予定されている。

 堀江の逮捕をはじめとする一連の「ライブドア事件」は、経済社会に様々な反響をもたらした。こ
の事件の明らかになった2006年1月中旬から新興株式市場が急速に下落し、その後村上ファンド事件や
新興企業の業績不振や粉飾事件が散発する中で2007年秋まで下落傾向が続いた。ライブドア事件は、
ベンチャー企業の業績があだ花であることの典型例であるとの見方はベンチャービジネスに対する疑
念のムードを拡げるきっかけとなった。また、堀江が小泉政権の規制緩和路線や郵政民営化を支持し
たことから、逆に反小泉改革運動の支持者らはライブドアや堀江の行状を「新自由主義の産物」「行、
きすぎた市場主義経済の弊害」ととりあげ、小泉路線で生じた悪事と扱われた側面もあった。また、
若い世代は、堀江とライブドアの失墜を、検察や大企業の横暴によるものと考える向きもあり、今で


                                              ~ 105 ~
も堀江をその犠牲者として支持する人々は少なくない。

(6)人物
 東京地裁での裁判では、罪状認否では「起訴状は悪意に満ち
て書かれている」「そのような犯罪も指示もしたことがなく、
         、
起訴されたことは非常に心外だ」と起訴事実を全面否定、無罪
を主張し、検察側と全面的に対決する姿勢を見せた。 また、2007
年1月の地裁の最終弁論では、堀江は涙声で「取り調べなしに突
然逮捕された」「おまえをつぶすという意気込みで、こちらは
       、
商売できない」などと、検察とは逆に堀江側が検察を痛烈に批
判した。堀江は現在は最高裁に上告中であるが、この一連の行
状に対して罪の意識を感じていないようであり、自身の運営するブログやインターネットテレビ等で
検察や大企業の悪行等と批判を続けている。
 また、堀江は1999年に女子社員と「できちゃった結婚」をし、男子をもうけたが、2002年に離婚。
元妻が引き取った子供に一度も会ったことがないという。  「世の中に温かい家庭ってあるんですか?。
僕には信じられない」とインタビューで答えたこともある。人を不快にさせる露悪的な発言を繰り返
すのは、両親との確執がトラウマになっているからだ、と心理学者が分析する向きもある。


●
    堀江貴文 語録
    「在学中にバイトしてみて、インターネットが大きな市場になることがわかった。     大学にはほとんど行っ
     てません。東大は、入ったことが重要で、人脈も勝手にできる。サラリーマンになろうと思ったことは
     一度もない。搾取される。(2004年11月、朝日新聞インタビュー)
                 」
    「僕に面と向かって『お前はおかしい』  なんて批判する人はいない。  マスコミがあおっているだけでしょ。
                                                       」
     (2005年2月、朝日新聞のインタビュー)
    「インターネット、メディア、金融のコングロマリット(複合企業体)を目指している。放送は一方通行
     で先細りする。ブランド力や多くの視聴者をもつ今のうちにIT事業で成功しなければ、  10年後にはビ
     ジネス機会を失う。(高速大容量通信が普及した)今がチャンスで、ここ1、2年が勝負だ。 2005年3月、
                                              」(
     日本外国特派員協会での講演)
    「小泉さんの改革路線、郵政民営化は賛成でして、改革を推進していくことに関しては大賛成で、志もま
      ったく共通のものです。亀井静香氏は、私とは考え方が百八十度異なる。ホントは他の人がやってくれ
      る方がいいんですけど、誰もやらないから僕がやる。(2005年8月、自民党本部で立候補表明会見)
                              」
    「選挙にはほとんど行ったことがありません。面倒くさいからです。    」
    「『想定内』という言葉が流行語になるなんて、想定外ですね。  来年もここに立っている気がする。(2005
                                                      」
     年12月、流行語大賞に選ばれて)
    「世の中にカネで買えないものなんて、あるわけないじゃないですか。」
    「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます。(2004年8月、著書「稼
                                          」
     ぐが勝ち」
         )
    「人間はお金を見ると豹変します。豹変する瞬間が面白いのです。    」
    「サラリーマンは現代の奴隷階級。 」
    「起業家は現代の貴族階級。 」
    「女は25歳超えたら無価値で有害なだけの産業廃棄物。 」
    「大衆の7割はバカで無能。 」
    「世論には意味がない。 」
    「年寄りは合法的に社会的に抹殺するしかない。 」
    「経済的に貧しくなると人間は狂気に走ります。 」
    「ずるい手でも法律に触れなければ勝ち。 」
    「ライバルはヤンキースの松井ぐらいしか想像できない、でも収入は僕の方が上。    」
    「検察・特捜部は「正義原理主義者」の集まりだ。(2010年1月、自身のブログ)
                            」
    「尖閣諸島を明け渡しちゃえばいいじゃない。(2011年2月4日『朝まで生テレビ』で)
                          」




                             ~ 106 ~
【引用】
六本木で働いていた元社長のアメブロ(堀江自身のブログ)      http://ameblo.jp/takapon-jp/




■設問29
 設問29

●堀江貴文のアントレプレナーシップ論

  1. 堀江の出自は起業やその後の転変に影響しているだろうか。
  2. 堀江の性格や考え方は、起業に影響しているだろうか。
  3. 堀江の起業当時の時代背景はどのようなものであったか。
  4. 少年時代の堀江に影響を与えたものとは。
  5. 堀江の経営手法の特徴を述べなさい。
  6. 堀江は異端か、先端か?。
  7. 堀江がテレビ局を支配下に置こうとした理由をどう考えるか。
  8. 堀江が衆議院選挙に出馬した意図はどこにあるだろうか。
  9. 堀江がプロ野球に進出しようとした意図はどこにあるだろうか。
  10. ライブドアが粉飾(嘘の財務諸表の記載)をして、何を企図していたのだろうか。
  11. 堀江やライブドアの若さや経験のなさが事件に影響したと思うか。そうであれば、堀
      江はどのように対処すべきであったか。
  12. ライブドアの粉飾により損害を受けた者は誰か。
  13. ライブドアの粉飾事件により、経済社会にどのような影響があったか。
  14. ライブドアの事件のような「インチキ」によって、世の中はベンチャービジネスにど
      のような認識を持つであろうか。
  15. 堀江は裁判が終わらない今も、盛んに検察や企業を批判しているが、どのような気持
      ちでやっていると考えるか。
  16. ベンチャービジネスは、このような「危ない橋を渡っている」会社が多いのだろうか。
  17. もし16のようなベンチャーが多いとすれば、どうして彼らはそのような行動に走るの
      だろうか。
  18. 堀江の不祥事は、先にあげたリクルートの江副と類似している点はあるか。それはど
      のようなものか。
  19. 堀江の反抗心の強さや「目立ちたがり」の性格は、ライブドアの経営に有益だっただ
      ろうか。
  20. 堀江の経営について、君は好評価するか、それとも違う評価か。それはなぜか。




                     ~ 107 ~
【ケース ⑱】南場智子:モバゲータウンの創業者
       南場智子:モバゲータウンの創業者
 南場 智子(なんば ともこ)  。
 1962年(昭和37年)生まれ。㈱ディー・エヌ・エー代表取締役社長。

(1)生い立ち
 新潟県新潟市出身。南場の言によると、厳格で封建的な家庭で育った。
父親は会社経営者であったが、絶対的な権力を持っており、そこに母親や
娘である彼女に発言権がまったくなかった。幼少期の彼女にとってただ怖
い存在だった。自転車が欲しいと母親に頼んで父親に上申したが、父親が
「だめだ」というと彼女に食い下がる余地はなかった。父親の許可を得な
ければ、彼女は何もできなかったという。

(2)父親への反発
 父親は、女に教育は必要ないと考える人であり、南場は小・中学校時代、学校で出た宿題を家でや
ったことがないという。家庭教育を学校教育より優先させるべきものだと考えていた父親は、 「授業な
どというのは聞くものではない」と彼女に教えており、南場は先生の話を聞かず、友達としゃべりに
興じたり歩き回ったりで困った生徒だったらしい。しかし、南場の学校の成績は常に上位であった。
高校は県トップの進学校の新潟高校に進学したが、大学は行かせてもらえるかわからず、高校3年の8
月に南場は父に聞いた。 「大学に行かせていただけますか」「地元の新潟大学に行きなさい。東京で独
                            。
り暮らしする女性は100%不幸になる」。耐えられないと思った南場は、初めて父に反抗した。
                                           「もう家
を出ていきます」と荷物をまとめ、本気で出ていこうとしたら、巨漢の父がドアの前に仁王立ち。父
に向って体当たりし、跳ね飛ばされて背中を家具の角にしたたかにぶつけたという。

(3)大学時代に留学
 高校の先生も父を説得し、南場が上京することを許してもらったが、父から提示された条件は、 「女
子寮がある女子大。卒業後は新潟に戻り就職は自分に任せること。ボーイフレンドをつくらない、学
生運動はしないこと。」であったため、津田塾大学を受験、他の大学は受けず選択の余地はなかった。
 父親から解放されたいと思った南場は、大学時代に留学すべく猛勉強をした。大学4年時に大反対の
父親を説得し、アメリカのブリンマー大学に1年間留学をした。留学から帰国した時には大学5年生で、
大学の同期は皆社会人になっていたが、大学の先輩を通じてコネで就職先を探しまわった結果、1986
年に米系大手コンサルティング会社のマッキンゼーに入社した。
 しかし、入社したものの、専門用語が全くわからず、必死で内容を理解し仕事をまとめて退社する
のが深夜の3時、4時だったという。南場は限界を感じてMBA取得を口実にした留学を考え、ハーバー
ド大学ビジネススクールに合格し、わずか2年でマッキンゼーを退社して再びアメリカに留学する。
 南場は2年間の留学後に何をするかで迷うが、結局、古巣のマッキンゼーに復帰するが、復職初日に
大後悔したという。転職を考えていた時にある大プロジェクトを任されたが、最初に「私はアホです」
とカミングアウトして、チームのみんなに助けてもらいながら進めたことが効を奏し。プロジェクト
は大成功しクライアントにも喜んでもらえた。このことが南場の成功体験と大きな転機になったと本
人は語っている。その後、担当するプロジェクトが次々に成功し、34歳でコンサルタントの最高位で
あるパートナーに抜擢され、コンサルティングの面白さが徐々にわかってきたものの、自らが事業を
作り上げる仕事ではないコンサルティングに限界を感じ、漠然と独立して起業することを考えていた。

(4)ネットベンチャーを立ち上げ
  マッキンゼーでの最後の3年間は、マルチメディア系
新規事業のコンサルティングに関わっており、先端の
ITビジネスを調査していたため、その業務の中からイ
ンターネット・オークションの可能性を信じて、     起業を
決意する。
  1999年3月、南場はマッキンゼーの同僚と有限会社デ
ィー・エヌ・エー   (DeNA)を設立し、インターネット・
オークション「ビッダーズ」を立ち上げようとした。南
場はベンチャーキャピタルや事業会社に出資を募り、


                         ~ 108 ~
1999年12月に7.2億円、2000年3月に13億円を調達し、ネットブームに乗っ
て大きな資金を調達することができた。しかし、現実は厳しく、ビッダー
ズのスタートは遅れたばかりか、Yahoo!オークションと競合して出品数も
落札数も伸びず、大規模なシステムトラブルも発生するなど、創業当初は1
年後に黒字になると思っていたものが、5年間赤字が続くことになった。
 (南場談)当時は、灯りの見えない暗くて長いトンネルを、やみくもに進んでい
 るような感覚でしたね。「業界の負け組」などという声は、耳をふさいでシャット
 アウト。明るい出口があるに違いないと、疑うことはしないで前のめりにすごし
 ていました。競争に負けることが大嫌いですから、Yahoo!を追い越すためには何
 でもしようと・・・。
 DeNAが大幅な赤字から黒字決算に転換するのは2003年度決算    (2004年3
月期決算)である。それまでは会社創業から累計で20億円もの赤字を出し
ていた。負けず嫌いの南場は、誰もいない場所でひとり嬉し泣きしたと言
っている。しかし、PCオークション・サービスではYahoo!オークションに
は勝つことができず、勝負の土俵をモバイルにシフトしようと考え、2004
年3月に「モバオク」    (携帯オークションサイト)を立ち上げた。
 2005年2月、DeNAは東京証券取引所マザーズ市場に株式を上場し、大人
気の中で上場直後の初値での時価総額は1010億円となった。2005年6月、
子会社モバオクを設立して「モバゲータウン」をスタートしたが、モバゲ
ータウンは釣りゲーム等の内製のソーシャルゲームが人気を集めて集客が
急増し、2007年5月にはモバゲータウンの会員数が500万人突破、2008年4
月には1000万人を突破した。特に2009年10月に始めた「怪盗ロワイヤル」
(2009年10月開始)が大ヒットし、2010年1月にはモバゲーAPIのオープ
ン化によって100種類以上のゲームが公開されている。
 この結果、DeNAは創業当初のPCベースでのインターネット・オークシ
ョン専業のベンチャービジネスから、モバゲータウンを中心とした携帯
  (ソーシャルネットワークサービス)
SNS                     主力の会社へと移行しつつある。
また、DeNAは2009年前後から海外進出を本格化させ、アメリカのネット
ワークベーム会社を買収し、2010年10月にはアメリカのベンチャーキャピ
タル・ファンドからスマートフォン用ネットワークゲームを開発するベン
チャーのngmoco.Inc.を買収した。買収金額は最大4億300万ドル(約342億
円)と発表されている。

 【引用】Dream Gateインタビュー:南場智子      http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=964




■設問30
 設問30

 ●南場智子のアントレプレナーシップ論

    1. 南場の子供時代の経験は、起業に影響しているだろうか。
    2. 南場がアメリカの大学に二度も留学したことは、起業に影響しているだろうか。
    3. 南場が起業した当時の時代背景はどのようなものだったか。
    4. 南場に影響を与えたものは何か。それは起業につながっているだろうか。
    5. 南場がマッキンゼーのエリート・コンサルタントの職を捨てて起業の道を選んだ理由
      は何だろうか。
    6. 南場の経営手法について特徴を述べなさい。
    7. ディー・エヌ・エーは、事業が大きく方向転換しているが、それは何か。
    8. 女性が社長となることは、どのような困難があると思うか。




                           ~ 109 ~
■まとめ:昭和後期・平成の起業家論のポイント
 まとめ:昭和後期・平成の起業家論のポイント

               項目                     論点

1.出自、性格、教育、思想、価値観。           インテリ、親との関係、有名大学、留学、反
                             大企業指向、独立心、商売指向、など

2.起業家は、何に影響されたか。             学生生活、アルバイト、親、友人、先輩起業
                             家、アメリカ、など。

3.起業家・事業経営者としての個人的強さ。        反抗心、独立心、留学の気概、キャリアプラ
                             ン、など。

4.人脈、ネットワークの有利不利。            友人、大学、先輩起業家、など。


5.事業形態(組織)の特徴。               有限会社、株式会社、友人と起業、対立、
                             トップダウン、独断専行、など。

6.時代の潮流と起業家。                 規制緩和、価格破壊、インターネットの商用
                             化、規制緩和、アメリカのベンチャー勃興、
                             シリコンバレー、スピンアウト増加、など。

8.平成の経営者の特徴。                 高等教育、国際人、自分の自由選択としての
                             起業、スピンアウト、エリート、など。

9.起業家の失敗と凋落。                 上場会社としての法律遵守意識のなさ、注目
                             企業のスキャンダル、スターダムから一気に
                             転落、世の毀誉褒貶、など。

10.なぜ失敗したのか。                 なぜ大失敗したのか、行きすぎの原因はなぜ
                             か、など。

11.平成の起業家が経済社会に果たした役割。       新しい企業グループを作る、先端的な企業経
                             営を生み出す、夢を与える、など。

12.起業家が及ぼした悪影響とは何か。          成功の裏にあったインチキ、ベンチャービジ
                             ネスへ見方の変化、など。




                         ~ 110 ~

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  • 1. 事業創造をどう学んでいくか ◆大学は将来を自分で拓く時期 君は何のために勉強しているか。あなたはどんな人生を歩みたいと思っているのか。何がしたいの か。あるいは、なぜ仕事をしなければならないのか。 大学生は、多かれ少なかれこうした真正面からの疑問に悩むものである。今の大人達も若い頃には 皆それを考えていた。自分で進む道を決めた者、決められずにやりすごした者はさまざまであるが、 ともかくもそれぞれの力で今を生きている。 過去に歴史に名を残した人間も、若き時代には同じように進むべき道を考えていた。土佐に生まれ た坂本龍馬は倒幕運動の志士として身を立てようし、埼玉の深谷で育った渋沢栄一は尊王攘夷に本気 になって横浜を焼き打ちにする企てを考えた。ソフトバンクの孫正義社長は福岡県久留米の高校を中 退してアメリカに渡り自分の人生を切り拓こうとした。 それとは逆に、自分で人生を考えて選択することができずに、定められた道を生きるために歩まざ るを得なかった者も多い。パナソニックを創業した松下幸之助は、家が貧しいために小学4年生で商店 に奉公に出された。トヨタの祖である豊田佐吉は父親の大工の仕事を継ぐしかなく、ホンダを創った 本田宗一郎は家が鍛冶屋だったから自動車修理店に入って子守の仕事をさせられた。皆がそういう人 生を歩まざるを得なかった時代であった。 現代は昔のそれとは異なっている。幸いなことに、若い頃に考える時間と環境が不足しているわけ ではない。日本の若者の半分以上は大学に進学し、本人にやる気かあるかどうかは別として、少なく とも4年間(就職活動を除けば実質的には3年弱)は社会に出る前のトレーニングを大学の内外で受け る時間はある。 ◆重要なのは、社会における「取り決め」 人は、憲法の基本的人権にあるように、社会で自由に活動することを許されている。学校を卒業す れば、学校の中の指導や強制からも「自由」になる。しかし、社会では他人が学校のように手取り足 取りでは人生を導いてくれないし、多くの場合は叱ってもくれない。 人間の実社会とは、自分と他の組織や個人との間で何かを決めて、自分が働き、その分の価値を金 銭で得ることを基本とする世界である。これは当たり前の話だが、わかりやすく言えば、自分が働い てお金を稼ぐことだ。サラリーマンはもちろん、お笑いタレントでもプロ野球選手でも大学の教員で も、日々の労働で収入を得ていることには変わりがない。人間でなくとも、生きるためのものを稼ぐ ことはすべての生物が行っている行為である。ライオンは獲物を追わなければすぐに飢えてしまう。 人間が賢いのは、生きるための稼ぎ方を「組織的」に行うことができることである。人間は頭を使 えるから、会社という集団の組織を作って、ものを個人が分担して生産し販売し、金を稼いでいる。 しかし、人間がその組織(会社)をうまく運営するには、さまざまな「取り決め」を学び理解した上 で円滑に処理をしなければ、ものがうまく作れない、製品を売っても損が出てしまう、あるいは代金 が回収できないことになる。 本質的にいえば、経営学部で学ぶ「経営」という学問は、生きるため に稼ぐことを目的に作った組織を、どのように運営して、満足できる稼 ぎを獲得することができるかを使命としている。稼ぐという言葉にはあ まり良いイメージがないかもしれないが、この本質から目をそらしては いけない。稼ぐという言葉が気にさわるならば、価値を創ることと言い かえても良い。植物は光合成によって水と二酸化炭素という原料から炭 水化物を生産し、生きるエネルギーという価値を生み出している。 人間は組織を作っているから、他の生物より圧倒的に優れた価値を創 っているけれども、それには多種多様な取り決めが定められて、参加す る人間がそれに従っているために、円滑な運営が可能になるのである。 このように、円滑に組織を運営する「取り決め」とそれを行う理由を学ぶのが経営学と考えてほしい。 経営学部で学ぶ企業マネジメントも、簿記も会計も、情報技術も、組織を運営する上で(あるいは組 織で働く上で)必要な知識を得ることが目的であるはずだ。 ~1~
  • 2. ◆事業創造を学ぶと、組織の本質がわかる このテキストでは、ゼロから始まる事業をどのように立ち上げていくか、あるいはそうした事業の 創造(起業)にはどのような特徴があるか、どのような人々が行っているのか、ということを解説し ている。 まったくの始まりから事業をスタートさせると、先に述べたような人間の価値の作り方(稼ぎ方) が現場で見えてくる。会社とはどのように作るのか、社長や部長や従業員はどのような役割の分担が あるのか、あるいは会社の資金はどのように調達しているのか。大きな会社や役所にいると、その事 業の本質がみえにくくなるものだ。1万人も従業員がいる大企業で働いていると、日々の自分の仕事で 会社の経営が見えるものではない。自動車メーカーで品質管理を担当している係長にとっては会社の 決算書は経理部の仕事でしかないだろうが、新宿でネットワークゲームを作っている従業員5名のベン チャーでは株主総会で何が議論されたか皆が知っている。 ◆自分の頭で批判的に考えることが重要 会社を作る、運営する、儲ける事とは何かというように、人間の経済活動の本当の意味を探ろうと して経営を学ぶならば、おそらく自分達が授業を受けている理由や目的も納得できるものになるだろ う。学生というものは若くて自由だからこそ、社会が決めた取り決めや慣習に対して無条件無批判に 従うだけではなく、まずはその意味を批判的に考えてもらいたい。 会計や情報技術の授業では、こういうルールだからこのように処理せよと決め事に従うことを強制 させられることが多い。しかし、このテキストで取り上げるアントレプレナーシップは、 「なぜ?」が 重要な学問である。その理由を一言でいえば、考えることなく無批判に生きていては新しい事業は生 まれないからだ。現存するビジネスや社会に疑問を感じて悩んだからこそ、多くのベンチャーが生ま れてきた。マクドナルドや吉野家は、それまでの飲食店のサービスが遅くて問題だと考えたからこそ、 「早い、安い、うまい」メニューを考え出してきた。ダイエーを作った中内功は小売店の価格が高す ぎると思ったから、 「安売り」を商売にして日本一になった。 このテキストはさまざまな情報を解説しているけれども、出てきた内容を覚えなければという義務 感を持つ必要はない。もちろん、太字ゴシックで記した重要項目は覚えてほしいが、大事なことは各 項目のストーリーを読んだ後に批判的に考えることである。このようなクリティカル・シンキング (critical thinking、批判的思考)を促すために、テキストの各節の終わりに150以上の「設問」を用 意している。講義においては、担当教員がこれらの設問から逐次セレクトして課題を出すことになる が、受講者は各章を読む前に末尾の設問を一読すると各節のねらいがわかるだろう。 経営は、社会で生活する限り誰もがさまざまな局面で直面することである。同時に、生きている以 上は誰もが経営に関わらざるをえない。サラリーマンでも、自営業者、公務員、あるいは家庭の主婦 でも、組織や家計に責任を負う者は、それぞれの視点で経営の仕組みを実践的に学ぶことにより、自 分の可能性を高めることができるはずだ。 学んで思わざれば 則ち罔(くら)し。 思うて学ばざれば 則ち殆(あや)うし。 (孔子「論語-為政」) ~2~
  • 3. 第1部 アントレプレナーシップ総論 Ⅰ.アントレプレナーシップを学ぶということ アントレプレナーシップを学 1.はじめに:6つのポイント (1)アントレプレナーシップは『新しい経済価値を創出すること』が目標である。 アントレプレナーシップ(9ページにその意味を掲載)は、新しい物や技術やサービスを現実に創り出すこ とであり、経済価値を増やすことを善とし、目標にしている。良い経済社会機能を作ることとか、 個人や企業が価値を分け合う分配する行動ではなく、あくまでも価値を創ること(商売で売上利益 を増やすこと)がアントレプレナーシップの目指すものである。 (2) アントレプレナーシップは『実践的』である。 アントレプレナーシップは、現実の人間の経済活動がほとんど唯一の関心であるから、その学問も 実践的で現実的なものである。現実のビジネスで商売がうまくいくために学ぶのである。 (3) アントレプレナーシップは、知だけでなく、『経験と行動』が重要である。 アントレプレナーシップは、教室の講義やゼミナールで学ぶ「知識」だけではなく、現実社会での ノウハウ・テクニック等の「経験」が重要であり、また新事業やベンチャーで「行動すること」(も しくは行動する起業家を理解すること、観察すること)が最終目標である。 アントレプレナーシップは大学の中だけで学べるものではない。英語や数学のように教室で学んで いくよりも、体育や音楽のように実技が重要な科目と考えたほうがよい。ルールや技術の知識があ っても野球ができないように、アントレプレナーシップは頭だけではなく経験と行動が欠かせない。 (4) アントレプレナーシップは『多面的』である。 アントレプレナーシップは孤立した学問分野ではなく、経営学や経済、金融、法律、政治、社会、 文化などの多くの要素が影響し作用している。したがって、アントレプレナーシップは経営学だけ で考えるのは充分ではなく、他の学問の知識や考え方を借用し活用していかなければならない。 (5) ベンチャーを起業するため、ベンチャーに入社するためだけの学問ではない。 過去20年の世界では、アントレプレナーシップが人間の幸福を向上させるうえで重要な役割を果た してきた。大学生は、ベンチャーに入る以前の段階において、現代の経済社会を理解するためにア ントレプレナーシップを学ぶべきである。ベンチャーの経営者を目指すためだけの講義ではない。 大企業や中堅企業の新規事業や、 社会福祉や社会改善のための新しい取り組み、地方振興の運動も、 その基盤はアントレプレナーシップである。 (6) 起業家は生まれるのではなく、作られる。 ”Entrepreneurs are made, not born.” 起業家は、生まれつきの素質を持った人間が起業しているのではなく、成 功したベンチャー経営者は才能だけで成功したわけではない。マイクロソ フトのビル・ゲイツ氏もソフトバンクの孫正義氏も、(すばらしい才能を持 っているが)生まれつきの天才ではなく、どこかで学習している。その場 所は大学ではなく、家庭や友人、あるいは職場の仕事からかもしれないし、 あるいは先輩の経験や失敗談から学んでいるだろう。アントレプナーは学 習が不可欠である。 また、起業家は自分の力だけで成功したのではない。ベンチャーで働く仲 間や部下、活用する技術やアイデア、そして足りない資金を提供する投資 家があってこそ経営を成り立たせることが可能である。したがって、自分 自身の知識能力だけではなく、世の中の資源について学んでいくことが重 要であり、そうした資源の有効活用技術を学んで実践できる能力を持った 人間が成功していると考えてほしい。 ~3~
  • 4. 2.アントレプレナーシップはなぜ重要か? ①教育の根底は、現実を理解すること 大学は、学術研究を行う場であると同時に、高等教育の場である。高等教育について大学が期待さ れているのは、学生に対して、充実した人生を送れる良き社会人となるための準備、幅広い知識、労 働意欲、科学的合理性、批判的思考、道徳性や文化教養の養成などを習得させることである。 これらはどれも重要な目標だが、もっと根本的な学習の目標がある。それは『理解すること』であ る。私達は、理解もしていない世界を改善することはできず、自分自身を、その強さ、限界、動機を 把握していなければ前に進むこともできない。世の中と自分をより理解可能なものにしていくことに より、大学教育は人間的成長、創造性、達成、進歩の基礎がためをすることができる。 「理解すること」が学習の基本的な目標であるとするならば、大学は、現代の生活における経験・ 条件を反映するものでなければならない。大学が世界から切り離され、そこに働きかけないのであれ ば、世界を理解可能なものにすることは難しい。 大学での学習は、学生に対してこれから生きていく現実をどのように理解しどのように影響を及ぼ していくかを教えなければならない。孤立し固定されてしまった教育が成功するはずもない。過去の 優れた業績を研究し、人間の本性について問い続けることは、教養ある人間になるための基本である が、大学の長所はそのダイナミズムと適応力であり、古典的な問題だけでなく、自然・社会・人間の 経験における切迫した目の前の問題に取り組む能力である。 ②アントレプレナーシップは、世界の重要なファクター 新しい事業に取り組んで新しい価値を創出しているアントレプレナーシップという概念と活動は、 世界の経済社会において重要なファクターである。アントレプレナーシップは、世界中の製品やサー ビスにイノベーションと改善をもたらし、より効率的で入手しやすく効果的なものにしている。アン トレプレナーシップは、私たちの個人としてのあるいはコミュニティとしての生活レベルを高めてお り、また人々の働き方やコミュニケーションを変化させている。また、世界的に天然資源が減少し、 人類が持続可能な将来を保っていくためには、イノベーションだけでは十分ではない。我々に必要な のは、新たなアイデアを実現し多くの人々が利用できるようにする活動であり、これこそアントレプ レナーシップなのである。 こうしたアントレプレナーシップをうまく利用できるかどうかは、結局は我々が「理解すること」 にかかっている。理解できないものを考案し改善することはできないのである。訳のわからない物を 修理して直すことはできない。理解することは大学教育の根本的な目的であり、アントレプレナーシ ップと大学教育は切っても切れない関係である。こうしたことから、アントレプレナーシップが大学 の学部教育のテーマとして取り上げられるのは自然な動きなのである。 アントレプレナーシップが対象とするのは「ベンチャーだけではない」 ~4~
  • 5. 3.日本でアントレプレナーシップが意味を持つ理由 ①新しい経済価値創出が求められている たとえば、世の中について次の4つを考えてみよう。 (1)現代の日本は、欧米に追いつけ追い越せという高度成長期までの時代ではない。中国等のアジア や新興国に負けないような製品・サービスを新しく生み出していかなければならない。 - 菅総理大臣の施政方針演説、2011年1月24日、衆議院本会議 - ・世界中が、新しい時代を生き抜くにはどうすればよいか模索しています。日本だけが、経済の閉塞、社 会の不安にもがいている訳にはいかないのです。現実を冷静に見詰め、内向きの姿勢や従来の固定観念 から脱却する。そして、勢いを増すアジアの成長を我が国に取り込み、国際社会と繁栄をともにする新 しい公式を見つけ出す。また、社会構造の変化の中で、この国に暮らす幸せの形を描く。今年こそ、こ うした国づくりに向け舵を切る。私のこの決意の中身をこれから説明いたします。 (2)大学生の就職が深刻な状況にある。企業が新卒採用を抑制している理由は、規模の拡大に積極姿 勢が取れないからである。新しい市場を創りだし、商売によって経済価値を増やしていかなけれ ば、社会で活躍すべき若者が損をする。「成長」は若い世代に恩恵をもたらすものなのだ。 (3)地方をみると、少子化・高齢化や過疎によって沈滞している。たとえば地方都市の商店街はシャ ッター通りと化し、働き手の若者がいない。雇用の受け皿であるべき大企業は、地方に工場に建 設するよりもアジアに工場を作って現地生産をしている。地方はアジアと見えない競争をしてい るのである。沈滞を打開しようと、県や市町村は、新しい地場産品、B級グルメの新商品作り、 海外観光客やプロスポーツの誘致など、さまざまな「地域振興策」を推進している。 (4)東日本大震災ですさまじい被害を受けた日本は、これから復興の時代になる。戦災の後のような 東北地方で、何万人もの人々が文字通りゼロから仕事を再開していく。水産業を再開する、小売 の商店を復活させる。それぞれが加工場を作り直し、店を新築し、新たな生きる糧を創り上げて いくことだろう。 以上は日頃のニュースで聞かされる話であるが、いずれにも「新しい取り組み」というフレーズが 入っている。民間企業だけでなく、国や自治体も地方の人々も学生も、新しいことを考えて企てて再 建していかねばならない。 ②それぞれの場におけるアントレプレナーシップ だからこそ、新しい取り組みを学ぶことが必要であり、重要である。 新しい経済価値を創出するこ 『 しい経済価値 創出するこ 経済価値を と』を目標とするアントレプレナーシップを学び研究し、21世紀日本の課題に対処していくことが重 要になっているのである。 もちろん、既存の経済学、経営学、社会学、あるいは理工学の分野から、こういった問題に取り組 むこともできる。しかし、アントレプレナーシップは、これらの学問領域に欠けている新しい知識を 世の中に提供できる概念である。 実社会の職場において、新しい事業を行う知識技術を活用する場面はどこにあるだろうか。たとえ ば、下の表で示した職場でアントレプレナーシップをどのように活用できるかを自分で想像してみよ う。そこで考える中で、アントレプレナーシップの重要性がおのずと明らかになっていくだろう。 それぞれの職場における「アントレプレナーシップ」 職場 課題と事業構想 アントレプレナーシップ NPO法人「カ 人とうまくコミュニケーションできない高校生と社会となじませるプロジェクトを立 民間非営利組織による社会改革運動の新 タリバ」 ち上げNPO法人を設立したが、活動資金もボランティアの数も足りない。 しい取り組み。 商店街で営業していた古本屋は店を閉めたが、4年前に始めたアマゾンに出 前橋市の古本 店しているアフィリエートプログラム(古書ECビジネス)が急成長。拡大するた 新しい流通形態(EC)への取り組み。 屋 めに古書買取の店を作ることを検討中。 過疎化が進む町において、町独自の新しい地場産品の企画、製品化を模索 福島県の町役 しているが、大半がうまくいかずに失敗しており、いかに低リスクでそこそこ売れ 新しい地場産品の開発と販売企画。 場 る製品を作っていくかが課題になっている。 千葉市の社会 千葉市の老人向け介護ケア施設が慢性的に不足で、福祉協議会のメンバー 社会福祉団体の新規事業進出。 福祉協議会 でデイケアセンター開設を考えている。 生徒のいじめの問題や学校近辺の治安の問題を、保護者や地域関係者を小 上尾市の小学 学校での新しい教育支援体制の企画と構 学校に参画してもらって一緒に学校経営を考えてアクションする取り組みを模 校 築。 索している。 ~5~
  • 6. 4.なぜ大学で「アントレプレナーシップ」なのか? アントレプレナーシップは、長らく経済学のテーマの一つにすぎないと考えられてきた。しかし、 最近の研究では、アントレプレナーシップが現代経済における富の創出の主役として先導的な役割を 担っていることが認められている。少なくとも過去20年の世界では、たえず新しい事業が誕生し、そ れらの事業の原動力であるアントレプレナーシップは人間の幸福を向上させるうえで重要な役割を果 たしている。 こうした認識がある中で、アメリカの大学ではアントレプレナーシップに関する講義は急激に増加 している。以前からビジネススクールでは一般的なカリキュラムとして扱われていたが、近年は関心 が高まる中で学部教育の中で最も急速に拡大しているテーマである。 ある調査によれば、1985年当時、 アメリカの大学で設置されているアントレプレナーシップ関連科目は約250だったものが、 2008年現在 では5000を超え、アントレプレナーシップを専攻科目にできる大学のプログラムは、1975年の104校 から2006年には500校超へと増加している。 下の表は、アメリカのアントレプレナーシップ教育で最先端にあるバブソン大学(米マサチューセ ッツ州)経営学部で開講しているアントレプレナーシップ関連科目のリストである。一見してわかる ように、大学ではベンチャービジネスの経営だけを教えているのではない。ファミリービジネス(家 業)や大企業のコーポレート・ベンチャー、世界各国のアントレプレナーシップ、あるいは社会問題を アントレプレナーシップの視点で分析して解決に向け取り組もうとする社会学関係の授業もいくつか 設けられている。これは4年制学部の大学生(ビジネススクール等の院生ではない)に対する授業であ り、専攻科目としてだけではなく「教養科目」としてアントレプレナーシップが教えられていること がわかるであろう。 バブソン大学・経営学部(学部)のアントレプレナーシップ関連科目 分野 主テーマ 講義の名称(英語原文) 経営管理 事業機会 Entrepreneurship and Opportunity 成長事業の経営管理 Managing Growing Businesses テクノロジー New Technology Ventures 起業家論 Great Entrepreneurial Wealth: Creation, Preservation and Destruction ファミリービジネス戦略 Key to Success Family Business Enterprises 起業家としての家業経営 Family as Entrepreneur コーポレート・ベンチャー Corporate Entrepreneurship マーケティング Marketing for Entrepreneurs 成長戦略 Venture Growth Strategies 事業の実践演習 The Ultimate Entrepreneurial Challenge ファイナンス 資金調達 Raising Money-VC, Angels & Incubators ベンチャーファイナンス Entrepreneurial Finance 国際 中国の起業 Entrepreneurship and New Ventures in China 中南米の起業 Entrepreneurship in Latin America アジアの起業 Entrepreneurship in Asia 社会 社会的起業家論 The Enlightened Entrepreneur: Changemakers, Inspired Protagonists, and Unreasonable People 社会的起業の計画 Social Entrepreneurship by Design 社会的起業の経営管理 Social Enterprise Management 社会問題の観察 The Enlightened Observer 環境と起業 Environmental and Sustainable Entrepreneurship トルコの環境関連起業 Social Responsibility through Eco-Enterprise in Turkey アフリカの起業と社会 South Africa: Entrepreneurship, Culture, & Society in Developing Economy 文化 起業的文化 The Creation of Entrepreneurial Culture within your Organization ワークショップ 起業体験(一般) Living the Entrepreneurial Experience (General Focus) 起業体験(企業) Living the Entrepreneurial Experience (Corporate Focus) 起業体験(技術開発) Living the Entrepreneurial Experience (Technology Focus) 起業体験(家業) Living the Entrepreneurial Experience (Family Focus) 起業体験(社会起業) Living the Social Entrepreneurial Experience (出所)バブソン大学ホームページ。 さらには、最近の大学自体が、起業活動を行っている。各大学は「技術移転オフィス」 (TLO、 Technology Transfer Office。)を通じて、大学内の教員や研究者がベンチャービジネスを設立して自ら の研究を市場向けに商品化することを支援している。研究機関としての大学は、イノベーションや、 新たな企業の基礎となるような新たな製品・プロセスの創造という点で、唯一ではないにせよ重要な 源泉となっているのである。大学が教員による重要な活動としてアントレプレナーシップを掲げつつ、 そうした活動を学生たちに教えていないとすれば、学校の使命と実践が乖離してしまう。 ~6~
  • 7. 5.アントレプレナーシップの学び方 (1)アントレプレナーシップ教育の特徴 アントレプレナーシップ教育の 教育 ①対象が具体的な「現実の活動」 では、大学生はどのようにアントレプレナーシップを学んでいけばいいのだろう?。 アントレプレナーシップは、音楽と同様に、テーマを自ら作り出すような学問であって、目標とな ることを発見するような学問ではない。たとえば、歴史学、社会学、人類学とは違って、アントレプ レナーシップは、その研究対象を学ぶ者が自分で作り出すものだ。また、アントレプレナーシップの 関心は具体的な現実、すなわち新事業や企業、製品、サービスを作っている活動である。哲学者はも っぱら他の哲学者を相手に話したり書いたりするだろうが、アントレプレナーや音楽家にとっては、 「観客」や「市場」が必要である。 ②音楽との類似 大学のカリキュラムの中で、アントレプレナーシップがどのように位置づけられるか理解するには、 アントレプレナーシップと音楽を比較するとわかりやすい。アントレプレナーシップ教育とは、音楽 教育と同じように、プロフェッショナルからアマチュアまで広がる連続体に沿って行われる。音楽の 場合、活動の一方の端には作曲家や演奏家がいる。他方の端には、作曲家や演奏家のパフォーマンス を鑑賞する観客がいる。その中間には、指揮、特定の楽器の習得、理論、歴史など、音楽における多 くのファクターが存在し、音楽という芸術テーマを理解し楽しむことに貢献し、また音楽をより発展 させている。音楽の教育とは、こうした連続体を大切にし、どのファクターも軽視しないものである。 音楽教育では、名演奏家にはどうすればもっと良い演奏ができるかを教え、鑑賞する人達にはどのよ うに音楽を味わうかを教える。音楽がどのように作用するかを示し、どのように変化しているかを図 示し、その要素を分析する。 さらに音楽は、アントレプレナーシップと同様に競争が行われる「実力主義」である。しかしその 実力というものは、単純なものでも絶対的でもない。音楽を聴く観客に影響され、観客が音楽のテー マの形成を手伝い、どのような音楽が大切なのかを聴き手が決める。聴き手の趣味が良くなり、期待 の水準が高まるほど、音楽は良いものになっていく。アントレプレナーシップも音楽と同様に実力主 義の世界だが、アントレプレナーシップの実力は市場(お客、需要家)により決められる。このよう に、音楽のシステムは、アントレプレナーシップに相当程度あてはまるのである。 ③大学それぞれに教育は異なる それぞれの大学で、アントレプレナーシップ教育の枠組みを画一的に適用できるとは考えにくい。 学校が違えば、対象とする学生も教員も、歴史も、文化も、目的も別々である。大学はさまざまな教 育的な機能を果たしており、学生の世代も多様化している。たとえば、ビジネススクールを併設する 大学におけるアントレプレナーシップは、ビジネススクールを持たない大学のアントレプレナーシッ プ教育とは別物かもしれない。アントレプレナーシップは、「この教育でどこの大学にもOK」という 学問ではない。それぞれの教育課程には特有の成果があり、教育対象の学生があり、大学の地元のコ ミュニティの中で活動している。したがって、アントレプレナーシップ教育は、一つの処方箋がある わけではないのである。 アントレプレナーが活動する社会は、偶然によって出現し、続いていくものではない。我々が、そ れを構築し維持していかなければならないのだ。そのためには、アントレプレナーシップがなぜ大切 なのか、それがどのように作用するのか、そうすればそれを維持できるのかを理解する必要がある。 そうした学習ができる場を提供するのが大学教育なのである。 ④アントレプレナーシップは、多面的な要素からなる実践的学問 先にみたように、アントレプレナーシップは実社会の現実活動がテーマであるが、それは一つ一つ の孤立した活動ではなく、多種多様な要素に影響される。経営学の実践としてアントレプレナーシッ プを考えてみても、経済や金融、法律、政治、社会、文化などの要素が活動に影響し作用している。 アントレプレナーシップはこれらの要素(学問の分野)が結びつき、おたがいに強化しあい、そして 理論と実践を橋渡しするシステムになっている。 アントレプレナーシップは現実のビジネスを重視しているから、理論や思索ではなく具体的なビジ ネスの成否が重要である。具体的なビジネスは、「学習」ではなく、「行動」である。アントレプレナ ーシップは、新しい事業を目指す意思や構想から「きっかけ」をつかみ、そして起業活動やそのプロ セスを理解する「知識」と「経験」を学び、そのような学習が終わった上で新しい事業のチャンスを とらえて起業していく(行動)というプロセスが望ましい。アントレプレナーシップの教育も、この プロセスにしたがって行われていくことが最適である。 ~7~
  • 8. 「アントレプレナーシップ教育のイメージ」 Heinonen. J., et al.(2006) ”An entrepreneurial-directed approach to entrepreneurship education: mission impossible?”, Journal of Management Development, vol.25, pp.80-94. (2)どのような科目を学んでいくか どのような科目を 科目 アントレプレナーシップは、日本では新しい学問領域である。日本で初めてアントレプレナーシッ プの専門コースが開設されたのは1992年の法政大学大学院の起業家コースであり、それからまだ20年 も経っていない。2008年時点では日本全国の247の大学・大学院でアントレプレナーシップ関連の科目 が教えられているが、まだ教育体系が充分に整備された大学は少ない。 ①大学学部で学ぶことが望ましいアントレプレナーシップ領域 では、学生はどのような科目を取りながらアントレプレナーシップを学んでいくか。大学が設置す る科目が少ないから、当然、学生が自由に選択する余地は少ない。そのような制約があるものの、現 在の日本におけるアントレプレナーシップからみて必要な学習領域は以下のようなものが考えられる。 しかし、下記のような講義科目が完備している大学は日本には少なく、多くの大学ではキャンパスで 1、2科目の講義を開いて運営しているため、内実は下表のようなテーマをまとめて講義するような 「あれもこれも」の総花的な講義になっているようにも思われる。 1.経営管理 ・アントレプレナーシップの意思、機会、事業構想。 ・ベンチャーの事業計画(ビジネス・プラニング) ・ 。 ・ベンチャーの経営戦略、組織論。 ・ベンチャーのマーケティング。 ・技術経営。ハイテクノロジーと経営管理。 2.起業家論 ・起業家の必要条件、素質、背景。 ・起業家の歴史。 3.制度 ・ベンチャーの会計、財務管理。 ・会社制度、法制度。 4.ファイナンス ・ベンチャーファイナンス。 ・株式市場。 5.ワークショップ ・ベンチャーの実践プログラム。 6.講演、イベント ・ベンチャー経営者の講演。 ・ビジネスプラン発表会。 ~8~
  • 9. ②実際に何から学んでいくか とはいえ、このような運営の話は大学側の問題であり、当の大学生は与えられた条件の下で学んで いくしかない。まずは、通う学部のシラバスを読み、講義を聞いてアントレプレナーシップを考え、 講義や書籍で知識をつけ、社会を知り、方向を考えることが望ましい。 大学の限られた講義を「受け身」で聞き学びながら、自分自身でアントレプレナーシップを主体的 に考えていくのである。アントレプレナーシップは独立した学問体系ではなく、経営・経済・社会・ 工学等の学識が組み合わさっている。何から学ぶかといえば、自分が興味あるか役立つかを考えて、 今ある講義を選び学んでいくことである。アントレプレナーシップ教育に、理想的なモデルとするよ うな履修体系を学生が考える必要はない。しいて言えば、アントレプレナーシップを入門的に教える 講義から選択していけばよく、そこで教員が重点とする内容(分野)を掘り下げて履修していくこと が最善の選択であろう。 また、アントレプレナーシップを学ぶ場は必ずしも大学の中だけではない。学内で学ぶことが最も 効率的で体系的と思われるが、真に実践的で最近の知識情報は学外の社会にあるからである。大学の 中でアントレプレナーシップを学ぶと同時に、社会いろいろな経験をし、実社会の先輩に話を聞くこ とも、アントレプレナーシップ教育の重要な一部分と考えるべきだ。 (引用:Kauffman Foundation (2008), “Entrepreneurship in Higher Education”) ■設問1 設問1 1. アントレプレナーシップは「実践的」であるが、それはなぜか。 2. アントレプレナーシップで「経験と行動」が重要である理由について、自分の考えを述べなさい。 3. 大企業はアントレプレナーシップの対象か。また、役所や社会福祉団体はアントレプレナーシッ プの対象か。 4. 東日本大震災から復興に向けて行う仕事は、どこにアントレプレナーシップがあるのか。 5. アントレプレナーシップは学べるのか。学べない部分があるとすれば何か。 6. アントレプレナーシップを大学で学べば、実社会でどのように役立つであろうか。自分自身の考 えをまとめてみよう。 ~9~
  • 10. Ⅱ.起業家とベンチャービジネス 起業家とベンチャービジネス (1)起業家の意味 (きぎょうか、英語:entrepreneur アントレプレナー 「企業家」とも言う。 『起業家』 entrepreneur アントレプレナー。 entrepreneur、アントレプレナー )とは、自 ら事業を起こす者をいう。日本では、通常はベンチャー企業を経営する人々を指すことが多いが、欧 米では自営業者や家業、あるいは新しい社会的組織の立ち上げ(社会起業家)などを含めて、日本よ りも幅広い意味に使われている。英語のentrepreneurは、フランス語である"entrepreneur"(アント ルプルヌール、請負業者・起業家)の英語読みから始まった。 何かに取りかかる、 事業を興すという意味の言葉としては、英語には「undertake」が一般的である。 しかし、「undertaker」には「葬儀屋」という意味もあることが嫌われて、現在では「entrepreneur」 というフランス語起源の言葉が「起業家」に相当する英語になっている。 ntrepreneurの定義) (Entrepreneurの定義) An entrepreneur is a person who has possession of a new enterprise, venture or idea and is accountable for the inherent risks and the outcome. The term was originally a loanword from French and was first defined by the Irish-economist Richard Cantillon. Entrepreneur in English is a term applied to a person who is willing to launch a new venture or enterprise and accept full responsibility for the outcome. Jean-Baptiste, a French economist, is believed to have coined the word "entrepreneur" in the 19th century - he defined an entrepreneur as "one who undertakes an enterprise, especially a contractor, acting as intermediately between capital and labor. 起業家は、新しい事業や挑戦を行おうとする熱意を持った人間であり、リスクや結果への責任を持つ人々で ある。この言葉はもともとフランス語から借用され、アイルランドの経済学者リチャード・カンティヨンが初 めて定義したものである。英語では、起業家という用語は、新しいビジネスや企業を設立し、結果に対する全 責任を負うことをいとわない人間に対して適用される。フランスの経済学者ジャン=バティストは、19世紀に 起業家という言葉が生まれたと考えており、彼は、起業家について、資本と労働の中間的存在として活動し、 その二つの要素の活用を請け負って、企業経営を引き受ける人間と定義した。 (Wikipediaより引用) (2)アントレプレナーシップの解釈 Entrepreneurship is the act of being an entrepreneur, which can be defined as "one who undertakes innovations, finance and business acumen in an effort to transform innovations into economic goods". アントレプレナーシップは、起業家、すなわちイノベーションを経済的価値に転換しようとして技術革新や 金融活動やビジネス技術に取り組もうとする人々の諸活動のことを言う。 (Wikipediaより引用) 『アントレプレナーシップ』(英語:entrepreneurship)は、日本では通常「起業家精神」 (あるい は企業家精神)と訳されることが多い。すなわち、心の動き、魂、気力、理念、自尊心といった心理 的気質をあらわすかように認識されることが少なくない。日本では、おそらく「スポーツマンシップ」 (スポーツマン精神)の解釈にまねて、entrepreneurshipの接尾辞である"-ship"を「精神」と解釈し たかもしれない。 しかし、上表のように、entrepreneurshipの英語を日本語に訳すと、起業家の活動、新しい事業を 生み出す活動、という意味となっている。つまり、英語のentrepreneurshipは、日本語で「起業家精 神」 と表現される精神的な意味よりも、 新しい事業を起こすという活動の全体的な意味を持っている。 日本の研究者においても、たとえば清成教授は『企業家とは何か』 (清成忠男編訳、東洋経済新報社、 1998年)の序文で「アントレプレナーシップは、正確には精神をも含めた全体的な企業家活動を意味 する」と述べている。 ~ 10 ~
  • 11. (3)ベンチャービジネスという和製英語 ①「ベンチャービジネス」か、「スタートアップ」か? 日本では、起業家が立ち上げた会社のことを『ベンチャービジネス』 (venture business)、あるい は「ベンチャー企業」「ベンチャー」という言葉で表現しており、この3つとも同じ意味で用いられて 、 いる。しかし、ベンチャービジネスは英語では使わない。つまり和製英語である。また、英語圏では 「ベンチャー」 という言葉もほとんど用いられておらず、 一般には 「startup」 という言葉が使われる。 startupは開業全体を指す広い意味があり、日本語で言う「自営業」も含まれる。英語では、新しく組 織を設立して行う事業はすべてstartupと言うのである。 Wikipediaに"A venture is a major undertaking, synonymous with adventure."と書いてあるよう に、ベンチャーとは冒険や挑戦に相当するものであって、企業活動を指す言葉ではない。日本でベン チャー企業を表す「高い成長を目指してリスクに挑戦する企業」という意味に対しては、英語圏で は”emerging enterprises”、”emerging companies”がよく使われる。また、米国の政策において は、”Emerging Business Enterprises” (EBE)、日本語でいえば「新興企業」が使われている。これら の英語はstartupよりも範囲が狭まったもので、 「新規性のある事業を行っている社歴の新しい企業」 を 指している。 ②「ベンチャービジネス」使用の経緯 「ベンチャー・ビジネス」という言葉をわが国で最初に用いたのは、中小企業庁指導部調査2課長(当時)の佃 近雄である。1970年5月にOECD工業委員会とボストン大学共催の第2回ボストン・カレッジ・マネジメントセミナー に参加した佃は、帰朝報告のなかで米国では「ベンチャー・ビジネス」という新しい中小企業が台頭しているとの 報告をおこなった。ところが、このセミナーは「ベンチャー・キャピタルと経営」をテーマとしており、佃はベン チャー・キャピタルの投資対象としている企業のことを、米国では「ベンチャー・ビジネス」と呼んでいると誤解 していたのだった。 そのころ、国民金融公庫調査課長の清成忠男(当時)と専修大学教授中村秀一郎(当時)は国民金融公庫の「小 零細企業新規開業実態調査」を通して、知識集約型ともいえる新しいタイプの中小企業を発見していた。清成と中 村は、この新型中小企業と「ベンチャー・ビジネス」とが、酷似していることから佃の報告に強い関心を持った。 そこで清成は、日本長期信用銀行調査役(当時)の平尾光司の紹介で、長銀主催の報告会で佃と会い、セミナーの 資料を借りた。そこにはベンチャー・ビジネスという用語は用いられていなかった。疑問に思った清成は文献にあ たって調査したところ、米国ではそのような用語法は存在しない事実を確認した。米国ではベンチャー・ビジネス は、単に新規事業一般を指しているに過ぎなかった。しかし、清成と中村は発見した新型中小企業を「小さいけれ ど、研究開発とか、知識集約的で、イノベーター的な企業は、やはり中小企業と呼ばない方がいい」と考え、あえ てそれらの呼称に「ベンチャー・ビジネス」を採用した。 このように、和製英語としてうまれた「ベンチャー・ビジネス」は、1970年に清成忠男「アメリカにおける新型 中小企業の展開」 (国民金融公庫『調査月報』114号)によってはじめて紹介された。さらに、1970年末から71年年 初にかけて、清成と中村が経済雑誌へ相次いで寄稿したことから、 「ベンチャー・ビジネス」が産業界に広く知ら れるようになっていった。しかしベンチャー・ビジネスの概念は抽象的であったため、多様な解釈を許すといった 欠点があった。大企業からのスピン・オフといった一面のみを捉え、当時流行した「脱サラリーマン」と同義に扱 い、概念が矮小化されるといった事態も生じた。 そこで、このような誤解を改めるため、清成と中村は、清成忠男、 中村秀一郎、平尾光司(1971) 『ベンチャー・ビジネス』(日本経済新聞社)を執筆した。 (山崎泰央「日本における1970 年代「ベンチャー・ビジネス」の展開」より一部抜粋。 ) (4)ベンチャービジネスと中小企業、大企業の違い ①明確な定義はない 『ベンチャービジネス』という言葉には、明確な定義は存在しない。概括的に表現すれば「新技術 や高度な知識を軸に、創造的・革新的な経営を展開する中小企業」であり、中小企業の一つのグルー プである。先に述べたように、アメリカではベンチャービジネスの概念を”Emerging Companies”と言 うことが多いが、これも明確な定義はない。中小企業は、中小企業基本法によって定義が定まってお り、製造業の場合は「資本金3億円以下の会社ならびに従業員の数が300人以下の会社」である。 では、ベンチャービジネス以外の中小企業は何と表現すればよいかとなると、アメリカでは通称「ス モールビジネス」(Small Business)である。上記のようなベンチャーの特徴を持っていない中小企業 はこのようにスモールビジネスと表現すればよい。 ~ 11 ~
  • 12. ②一般的にみてベンチャーはどう違うか ここで、基本的なベンチャービジネスの特徴をみてみよう。我々はベンチャーをどのように認識し ているだろうか。ベンチャービジネス、中小企業(スモールビジネス)、大企業の三者の違いは何か。 下表は、それをあえて明確に特徴づけてまとめたものである。これらは「一般的な傾向」であり、ベ ンチャービジネスがすべて実力主義で挑戦的であるわけではないし、大企業がすべて安定指向でもな く、あくまでも全体的な傾向ととらえてほしい。なお、ベンチャービジネスの組織運営や経営の特徴 とモデルについては、第2部で述べているので参考とされたい。 ベンチャービジネスを学ぶ上で重要なのは、これらの一般的な特徴、あるいは多少の先入観に基づ いた世間の常識を理解した上で、掘り下げて考察していくことである。なぜベンチャーがそのような 特徴を持つのか。具体的にどのように会社が運営されているのか。信用力のないベンチャーはどのよ うに資金を調達するのか。問題意識はそう簡単に尽きるようなものではない。ベンチャーがなぜ成功 するのか、なぜ失敗するのか。これらに対する完全な答えはないのである。 三者間の特徴の比較 ベンチャービジネス 中小企業(スモールビジネス) 大企業 企業規模 小~中規模。 小~中規模。 大規模 従業員数 概ね300人以下。 300人以下(製造業の場合)。 300人以上(製造業)。数千人も。 株式 未公開企業。株式公開を目指す。 多くは未公開企業。 大半が公開企業。 成長性(潜在力を含む) 高い。 高くない場合が多い。 - 技術、開発 高い場合が多い。 高くない場合が多い。 - 信用力 低い。 低位~中位。 高い。 資金調達力 低い。 低位~中位。 高い。 採用力 低い(人気がなく採用ができない)。 低位~中位。 高い(就職で人気がある)。 会社の運営 社長のトップダウン、独断。 社長や同族のトップダウンが多い。 組織による集団経営。 柔軟で自由な運営。 同族会社が多い。 厳格なルール、柔軟性は低い。 経営の意思決定が速い。 経営の意思決定が遅い(組織決定)。 あぶなっかしい運営。 安定した運営。組織でチェック。 社風 実力主義、挑戦、急成長指向。 安定、リスク回避、保守指向。 従業員 従業員がすぐ辞める。 長期安定雇用指向。 アルバイト等の短期雇用が多い。 給与、福利厚生 低い。 低い。 良い。福利厚生が良い。 従業員に求められるもの チャレンジ、リスクを取る姿勢。 組織に忠実、コミュニケーション。 従業員にとっての可能性 会社が急成長すると報われる。 安定していることが魅力。 従業員の職責 若いうちから高い役職に。 年功序列。若いうちは平社員。 会社オフィス 目抜き通りから外れた中小ビル。 ビジネス街の大規模ビル。 (注)上表の記述は、それぞれの相対的な特徴を強調して表現したもの。 ■設問2 設問2 1.「起業家」の意味を一言で説明しなさい。 2.「アントレプレナー」「アントレプレナーシップ」の語源は何か。 、 3.「ベンチャービジネス」「ベンチャー企業」「ベンチャー」について意味の違いはあるか。 、 、 4.「ベンチャービジネス」という言葉は、どうして和製英語になったのか。 5. 英語では、 「ベンチャービジネス」の意味としてはどのような言葉が使われているか。 6.「ベンチャービジネス」という和製英語が使われたのは、どのような時代背景があったか。 7. ベンチャービジネスと大企業の違いについて、主な特徴と考えるものを5つあげなさい。 ~ 12 ~
  • 13. Ⅲ.起業の歴史 起業の 起業家の活動は、現代のベンチャービジネスだけを対象に考えるのではなく、人類がどのよう に事業を発展させてきたかという世界の歴史の流れから俯瞰して考えることが重要である。 人類は、古代中世以降の冒険的な交易や、産業革命、工業化の発展、エレクトロニクス・コン ピュータ時代、そしてインターネット革命、新興国の発展、という時代の流れの中で、多種多様 な人々が新しい事業を起こし、その活動によって経済価値を創出してきたからである。 こうした世界の歴史を追いながら現代にたどり着けば、今日の我々がなぜイノベーションとア ントレプレナーシップを重要視しなければならないかが見えてくる。 1.歴史からみた「起業」 (1)古代から中世の冒険的貿易事業 (引用:「海上交易の世界と歴史」http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/index.html) ①ギリシアの「冒険貸借」 多くの都市国家が勃興した古代ギリシアは、海を使って文明を発展させた。ギリシアは農業に適さ ない土地であるために絶えず食糧の不足に悩まされており、農作物を輸入するために船が必要だった が、その資材である木材も輸入せざるをえない状況にあった。こうした中にあって、食糧の3分の2を 輸入しなければならない最大の都市国家アテネは、紀元前6世紀頃からフェニキアと争いながら、エジ プト、キプロスや、小アジア(現在のトルコ)から穀物を運んでいたが、やがてイタリアのシシリー 島や南イタリアに植民を送り、穀物を生産・輸入する植民地を建設するようになった。 ギリシアでは、はじめは、自分で船を持ち、船を動かして商品を売買する単純な仕組みであった。 船の所有者も船長も商人も一つの船を持つ集団で行われた。やがて、金のある資産家が船主や商人に 資金を貸すようになった。船主は船舶や運賃を抵当にして航海費用を、また商人は貨物仕入代金や前 払い運賃を資産家から借りた。 その中で、貿易(海商活動)についての取り決めが発展してきた。その取り決めとは、船舶や貨物 が喪失した場合は貸主(資産家)が丸損とし、金を借りた船主あるいは商人は返済の必要がないが、 それらが安全に到着すると、貸付金にその3分の1といった高率の利子をつけて、貸主に返済されるル ールを作った。また、船長が人命、船舶、貨物を救うために荷物を海上へ投棄(投げ荷)したり、敵 国や海賊に金品の支払いを強制された場合、その損害に応じて返済すべき貸付金は減額された。こう した普通の金銭貸借とは異なるルールのファイナンスを「冒険貸借」(Bottomry、海上保険の起源の一 つ)と呼んでいる。このような活発なギリシアの海商活動の中で、その後のヨーロッパ海上交易にお ける船舶の共有、船主と商人の分離、海事金融や海運取引といった取引の慣行が形成されていった。 古代ギリシアでは、資金の借り手の航海が失敗した場合には、借り手は貸主に金を全額返済する必要 のないファイナンスが生まれている。これは現代のベンチャー・ファイナンスの起源ともいえる。 ②中世地中海における「組合」の形成 中世の地中海貿易で活躍したのは、ヴェネツィア、ジェノバなどのイタリア半島の都市勢力であり、 東方貿易(レヴァント貿易)と呼ばれる東部地中海沿岸地域やオリエント地域との貿易で富を築いた。 ヴェネツィアやフィレンツェの都市がルネサンス芸術や都市建築で豊かな遺産を残しているのは、こ の東方貿易による富の産物である。 中世イタリアの海商経営は2つの方法で行われていた。その1つは共同冒険組合である。11世紀頃 にまとめられたアマルフィ海法(当時の海上交易の慣習法)では、船主、商人、船員が集まって1つの 組合を結成する。これら持分所有者は自分たちの中から管理船主を選んで、冒険組合の全般的な指揮 をゆだね、他の持分所有者は船員としてあるいは自分の商品を持った商人として乗組む。船主は船価 に応じて冒険組合の一定の持分があり、商人は自ら投じた資金または商品の額に応じて持分が割当て られ、また船員は自分の提供した労役に対して持分が与えられた。船員が船主また商人である場合、 その持分が追加された。貨物の取引から得た利益はすべて組合の勘定に入れられた。航海が完了する ~ 13 ~
  • 14. と裁判所で計算書の検査を受け、それぞれの持分数に応じて純益が船主、商人、船員に分配されるこ とになっていた。 また、1272年のラグーザ海法では、一定数の商人がそれぞれ船長および乗組員に対して、商品取引 に使用する貨幣や商品を委託する。船主や船員も、自分の計算で投資を行うことができる。共同冒険 組合の対象となった商品の運賃はそれぞれ計算され、また商品の取引から得られた利潤とともに、共 同の基金に入れられる。そして、航海が終了した時、船主と船員がこの共同基金の半分を受け取り、 残り半分は冒険商人がそれぞれの投資額に応じて配分を受けることになっていた。 もう1つは、船舶の共同所有である。古代のように、自らの所有船を自ら単独で経営する船主や、 代理人を乗せて監督する船主は中世になるとごく稀になり、経営は主として組合方式で営まれ、大多 数の船舶は共有で所有されるようになった。組合員のある者が管理船主になり、他の組合員の全部ま たは一部が船員となって、 しばしば乗船した。15世紀までは船舶はおおむね24の持分に分かれていた。 1人の組合員が2つ以上の持分を持つことも可能であった。そうした船主は、自らの商品を満船する場 合もあれば、そうでない場合もあった。船主が商人でない場合、商人の組合と用船契約を結んだ。そ れ以外に単なる融資もあったようで、ヴェネチアでは利子率が20%であったとされる。 このように、共同冒険組合であれ、船舶共同所有であれ、イタリアの場合、乗組員の全部または一 部がその船舶や海商の持分所有者であって、自分たちの労働の対価は、賃金の形式でではなく利潤分 配の形式でもって報酬を受けていた。それでも、乗組員のなかには持分所有者ではなく、単なる賃金 労働者として雇用された船員を補充しなければならない場合もあった。 中世イタリアでは古代ギリシアよりも海商活動の取り決めが発展し、資産家でなくても、一定の資 金や労力を出し合えば船舶を所有し、商品を売買することが可能となってきたのである。 中世イタリアの貿易事業は、船主、荷主の商人、労働者の船員が集まって1つの組合を結成したが、こ れは現代の企業の起源と考えられる。 労働者として本来は賃金を受け取るだけの船員は、一つの航海というプロジェクトで作られた組合の 持ち分を与えられ、無事航海を終えられるか交易で儲けられるかの事業成果によって、航海で得た利潤 の一部を「組合の分け前」として与えられた。 ● ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」 中世イタリアのヴェネツィア共和国を舞台に繰り広げられる、貿易と借金と恋に かかわる喜劇。 ユダヤ人の金貸しシャイロックが貿易商人アントーニオに金を貸す際に取った 担保(アントーニオの人肉1ポンド)の証文が現実になったことによって起こる裁 判と、美しく富裕な貴婦人ポーシャを射止めんとする若者の争いが展開される。 ・アントーニオ: 貿易商人。正義感が強く情に厚い。 ・バサーニオ: アントーニオの親友。ポーシャに求愛結婚を申し込む。 ・ポーシャ: 莫大な財産を相続した美貌の貴婦人。多くの若者達から求愛され ている。 ・シャイロック: 強欲なユダヤ人金貸し。恨みのあるアントーニオに、外洋貿 易の資金を貸しつけるが、担保として借り手アントーニオの人肉1ポンドを証 文に得る。 この劇で描かれたアントーニオはヴェネツィアの冒険商人である。アントーニオの出した船が洋上で難破したと いう情報(実は虚偽の情報であった)が入ったことから、シャイロックが訴えて裁判になり、金が返せないアン トーニオから担保である肉をシャイロックが切り取る権利はあるや否やという争いになる物語である。 しかし、実際のヴェネツィアでは先のような共同冒険組合が拡がっており、アントーニオのように貿易船が難破 しても借金の担保を取られる例は少なかったと思われる。 (2)近世ヨーロッパにおける貿易の株式会社制 イギリス(イングランド)は、中世には交易面でヴェネツィアやハンザの商人に圧倒されていたが、 15 世紀以降は海上交易で力をつけはじめ、イギリス船は外国船に海賊行為を働いていた。イギリス国 王も貿易による財政収入を増そうと軍艦を建造するようになり、外国人に与えていた特権を徐々に取 戻しつつあった。特に、国王ヘンリー8 世(在位 1509-47 年)はイギリス海軍の創設、王立造船所の開 設、造船補助金の支給などで、海運の発展に大きく貢献した。 この時代のイギリスの遠隔地貿易や大洋貿易では、国王の許可をえて貿易特許会社が作られていた。 それらは、冒険商人組合(Merchant adventurer's company)やレパント会社と呼ばれたものである。 ~ 14 ~ 16世紀のガレオン船交易
  • 15. 彼らは、 国王から特定の航路の海商について独占権が与えら 16世紀の交易船 れ、一航海ごとに自ら規約を作り護衛船などの費用を出し合っ て運営していた。しかし、交易そのものは加入している商人た ちが自らの勘定で船を所有あるいは用船して、 自らの危険負担 の下で行われていた。 特許を与えた王室も商人達が作った組合 に金を出して組合員になったり、 王室の船を護衛船として貸し 出していた。 この短期的な組合組織から、会社組織が発展した。組合とい う一時的に金を出しあう結社ではなく、 会社という自前の従業 員を持った組織集団が生まれた。 アジア貿易で台頭してきたオ ランダに危機感を持ったイギリスのレヴァント会社 (地中海東 部貿易に従事)の商人は、国王エリザベス 1 世に請願し、1600 年にイギリス東インド会社(The East India Company)を発足 させ、自前の従業員と組織を持った会社(ただし一回の航海に 限定した会社組織)を設立した。東インド会社は、株式を発行して資本金が調達され、一回の航海が 終わると持株に応じて利益が配分された。東インド会社は創業当時には 215 人の貴族や商人の出資者 から 68,373 ポンドの資金を集めた。1612 年までは当座企業制という一航海ごとの会社組織であった が、その後は数回の航海ごとの投資に変わり、さらに護国卿クロムウェルの特許状によって株式配当 になり、期間を限定した企業形態から、法人と資本の永続性がはかられるようになった。 現在の会社組織である「株式会社」は、イギリスの直後にオランダで設立されたオランダ東インド 会社(1602 年)が起源である。オランダ東インド会社の取り決めでは、出資者の出資金は(イギリス 東インド会社のように一航海毎ではなく)10 年間固定され、また出資者は出資金のリスク以外の責任 を負わないという有限責任が規定されており、この点で近代株式会社の祖とされている。 ある事業に対して株式を発行し、資金の出し手(投資家)から出資を募る「エクィティ・ファイナンス」 は、近世ヨーロッパの海上交易の商制度として成立した。 これは、当時リスクの高かった海上貿易において、資金の出し手が共同で企業を設立して、その事業の リスクを共同分担することによって一人当たりの危険度を低め、その代わりに、事業から得られた利潤を 出資者の持ち分に応じて皆に分配するという、現代の株式会社と同じ仕組みである。 (3)近代における起業 ①産業革命による近代的イノベーション 数十万年の人類の歴史を1年のカレンダーにすると、 産業革命以降の歴史は12月31日の23時半以降に あたるほどの極めて短い時間にすぎない。 18世紀半ばから現在までの300年に満たない短い時間の中で 大きな変化が起きた。人類の歴史においては、長い間その平均寿命は30歳以下であり、生まれた子供 は半分以上は成人までに半数以上が死ぬのが当たり前だった。人々は他の動物と同様に常に飢えと直 面して生きており、数十万年の間その状態が続いていた。しかし、西暦1800年前後から急に人々が豊 かになり、今のように世界の主要国では一人当たりで年間数万ドルという所得を得るようになった。 人類は1万年前までは、狩猟生活で数人の集団で移動しながら生活していた。 農耕による定住生活 (新 石器時代)が人類の第一のイノベーションであり、 農耕によって定住生活に入ることが可能となった。 第二のイノベーションは正確な文字の発明であり、情報を記録し的確に伝えることで大きな組織(国 家)の運営ができるようになった。 第三のイノベーションは、17世紀後半から18世紀前半にイギリスから起こった産業革命という新し い生産システムと資本主義といわれる近代システムである。資本主義以前の封建制の下では、人々は 農業を営んでいた。何かモノを作るにしても、1人の職人が1つのものをコツコツと作り上げていき、 その技能は自分の弟子に伝えていった。靴屋ならば1軒の靴屋の中で仕事が完結するという家内工業 で人類は数百年やってきた。それに対し、産業革命では製造技術の機械化が実現した。当時のイギリ スで盛んであった綿織物・毛織物の繊維産業における織物製造機械の自動化・動力化と、蒸気機関に 、 よる動力の発明というイノベーションである。産業革命におけるもう一つのイノベーションは、 「分業 システム」の導入である。アダム・スミスが「国富論」で述べているが、産業革命以前はピンを1つ 作るにも一軒の作業場で一人の職人が色々な工程をすべて作業し製作していたものが、その工程が1 つの工場の中でそれぞれの作業工程を専門とする工員によって行われるという「工場のシステム」を ~ 15 ~
  • 16. 生み出し、結果としてピンを製造する時間とコストが飛躍的に低減し、安いピンが大量に世の中に出 回るようになった。 ・1712年、ニューコメン(英)によって、蒸気機関を用いた排水ポンプが実用化された。 ・1733年、ケイ(英)が、織機の一部分である杼を改良した飛び杼を発明して織機が高速化。これ により綿布生産の速度が向上した。 ・1769年、アークライト(英)が水力紡績機を開発。工場を設け、機械を据え付けて多量の綿糸を 製造することが可能になり、本格的な工場制機械工業のはじまりとなった。 ・1785年、ワット(英)が蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成 功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。 ・18世紀に、コークス製鉄法がダービー(英)によって開発され、高熱が容易に利用できるように なったことから、良質の鋼鉄の大量製造が可能となった。 ・1807年、フルトン(米)によって蒸気船が実用化された。また1804年、トレビシック(英)によ り蒸気機関車が発明され、その後蒸気機関車はスチーブンソン(英)によって改良された。 この産業革命による工業化で、イギリスをはじめとする欧米では、工場経営に乗り出す資本家 資本家が多 資本家 数誕生し、彼ら中産階級(ブルジョアジー)が発展した。こうした当時の資本家達は、従来のやり方 をそのまま継続する経営者も存在したけれども、その多くは産業革命の技術を使って新しい事業や市 場進出で利得を得ようとする「起業家」でもあったのである。 ●リチャード・アークライト リチャード・アークライト(英) リチャード・アークライト :水力紡績機で富を築いた起業家 リチャード・アークライト(1732-1792年)は、1771年に水車を動力とする水紡機(水 力紡績機)を発明した。イギリス・ランカシャー地方のプレストンで生まれ、28歳まで 床屋で働いた。 その後かつらの商売を始め、 かつら向け防水染料を改良して資金を得た。 1768年、ジョン・ケイとともにジェニー紡績機を改良して、綿糸の強度、長さなど品 質を向上させた。翌年、馬を使った大規模な紡績機を作ったがすぐに水力によって運転 する方法に変更した(1771年) 。ジェニー紡績機のように小形のものではなく、人間の力 では動かないので、 水力利用を考えたが、個人の住宅ではできないので別に工場を設け、 機械を据え付けて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。大 量生産が可能になり、立地に制約がなくなったうえに紡糸作業に熟練した労働者が必要 としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けたが、次々に工 場を作り、品質の優れた綿糸を大量に生産して富豪の1人になった。1786年、国王ジョー ジ3世より Sir (ナイト)の称号を受けた。 ②19世紀後半におけるアメリカの工業化と起業活動 南北戦争(1861-1865年)が終わったアメリカは、工業化が進展した時代だった。1865年から20 世紀初頭までの間に、アメリカ合衆国は世界でも先進的な工業国に成長した。1880年代前半にアメリ カは“世界の工場”イギリスを抜いて世界一の工業国へと躍進し、1890年代にはいると当時の花形産 業だった鉄鋼生産でもイギリスを上回った。土地と労働力が豊富にあり、気候が多様で、運河、川お よび海岸水域など航行可能な水域があることで勃興する工業経済の交通需要を満たした。 ヨーロッパを中心とする他の大陸からは1840年から1920年までに3,700万人という世界史上で最大 の移民がアメリカに流入して安い労働力を提供し、また未開発の地域に多様な地域社会が形成された。 さらには、 技術の進歩や輸送機関の発展が拍車を掛けた。 19世紀後半は西部開拓運動の時期であり、 鉄道が西部を開き、誰もいなかった所に農場や町ができた。ただし、インディアンを駆逐し虐待する 負の歴史も並行して起こっている。1869年に最初のアメリカ大陸横断鉄道が開通し、巨大な北アメリ カ大陸間の移動と輸送が近代化し、さらに鉄道の建設によって広大な市場(西部や太平洋)が登場し、 事業を行おうとする者に大きなチャンスが生まれた。産業の経営手法においても、ヘンリー・フォー ドが始めた移動組立ラインやテイラーの科学的管理法などの経営面のイノベーションが起こった。 この時代のアメリカの資本家は、未開拓の市場、第二次産業革命といわれる技術革新、輸送手段の 発展、移民による人口の急増という事業を拡大する上で絶好の条件がそろっており、製造業のみなら ず、鉄道、運河、輸送などの多様な産業で新しい企業が設立され、富を得た資本家が急増した。アン ドリュー・カーネギー(鉄鋼) 、ジョン・ロックフェラー(石油)のように、富も人脈も持たない人間 が事業を起こして経営を拡大し、大富豪にのし上がった起業家が多数生まれることとなった。 また、彼ら資本家は、経営効率を高めるために、持株会社によるトラスト(企業合同)という経営 手法を採用し、大企業はトラストを結んで事業を拡大し、あるいは競合企業を合併して市場を独占す る行動が支配的となった。19世紀後半のアメリカは労働者運動と政府の競争政策が未成熟で、企業の 自由奔放な行動を規制することは稀であったが、その後、大資本家の市場独占や容赦のない経営に社 ~ 16 ~
  • 17. 会から強い反発が起こり、労働者運動や反トラスト運動につながった。 ●アンドリュー・カーネギー アンドリュー・カーネギー(米) 「鋼鉄王」 アンドリュー・カーネギー : アンドリュー・カーネギー(1835-1919年)は、スコットランド移民の実業家。 1835年、スコットランドで手織り 職人の長男として 生まれた。 父親が産業革命 で仕事がなくなってしまった ために、1848年に一家でア メリカ へ移住した。移住 の後、12歳のカーネギーは学校 へ行かずに紡績工場で 働く。そ の後、何度か転職 し、ピッツバーグ電信局の電報配達の仕事につき、電信技士に昇格した。その後、 トーマス・スコットに秘書兼電 信士として引き抜かれ てペンシ ルバニア鉄道へ入 社する。18歳の頃、スコットが ペンシルバニア鉄道の 副社長に 昇進すると、カー ネギーがピッツバーグ支店の責任者になった。 カーネギーは、持ちかけられ た寝台車のアイデア を取り上げ、 ペンシルバニア 鉄道は試験的な採用を決めた。 カーネギーは、借金を して寝台 車のための会社に 出資して富を得る。南北戦争後 にペンシルバニア鉄道 を退職し 、事業家となる。 当時の鉄道で多かった木製の橋から鉄製への需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成功した。さ らに、技術革新により鋳鉄よりも強靭な鋼鉄の大量製造が可能になり、鉄道のレールや建築へ使用されるこ とを予見し、製鉄事業の規模拡大に力を注ぎ、 「鋼鉄王」と呼ばれた。カーネギーは1901年に鉄鋼会社をモ ルガンへ売却し、 後の世界一のUSスティールとなった。 以後は慈善活動を行い、ニューヨークのカーネギー・ ホールやカーネギーメロン大学は彼の寄附により設立されたものである。 ●ジョン・ロックフェラー ジョン・ロックフェラー(米) ジョン・ロックフェラー :ロックフェラー財閥の祖 ジョン・ロックフェラー・シニア(1839-1937年)は、実業家。スタン ダ ー ド ・ オイルを創設した。 ニューヨーク州北部のリッチフォードで、移動販売を営む親のもとに生まれた。 1855年の16歳の頃に転居したオハ イオ州クリーブラン ドで記帳 係として働き始め た。1858年に、彼は友人と共にク ラーク・アンド・ロ ックフェ ラー社を設立し、 同社は1862年に当時のアパラチア 山脈近郊で発見され ていた油 田事業に目をつけ て石油会社に投資を行った 。1865年に友人との事業を 解散し、 精油事業を買収し ロックフェラー・アンド・ア ンドリュース社を設立 した。さら に同年、第二の精 油所を設立した。1867年にロック フェラー・アンド・ アンドリ ュース社はこの精 油所を吸収し、さらに規模 を拡大するために、1870年 にロック フェラー兄弟と他 のメンバーにより ス タンダ ード・オイ ル社 を創設し、ロックフェラーが社長に就 任した。 スタンダード・オイルは、徐々にアメリカ国内で石油生産の支配権を獲得した。巨大な利益を消費者に還 元せず高価格で販売し続けたそのビジネス手法は、広く厳しく批評され、スタンダード・オイルは反トラス ト運動の格好の目標として攻撃された。スタンダード・オイル社はアメリカ石油市場の90%を支配するに至 ったため、世論は次第に「反独占」 「反トラスト」へと向かい、1890年にシャーマン反トラスト法が成立し た。1911年、アメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイルが市場を独占していることで解体命令を 下し、同社は37の新会社に分割された(現在のエクソンモービルとシェブロンなど) 。1901年までに彼には 約9億ドルの資産があり、当時の世界で最も富を保有していた人物と考えられており、ロックフェラーの財 産を現代の価値に換算した場合、2,000億ドルを上回ると推定されている。 ●トーマス・エジソン トーマス・エジソン(米) 「発明王」 トーマス・エジソン : トーマス・エジソン(1847年-1931年)は、生涯におよそ1,300もの発明を行っ た発明家、起業家。 エジソンは1847年にオハイオ州ミランで生まれた。小学校に入学するも、教師と馬が 合わず中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜 呑みにすることができず、国語の授業中にも、 「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ば ないの?」と質問するといった具合で、授業中に事あるごとになぜを連発していたとい う。最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入 学からわずか3ヶ月で退学を勧められたという。見放されたエジソンは、基本的な勉強 は小学校の教師であった母親に教わった。母親は教育熱心だったらしく、元々好奇心が 旺盛だったエジソンに対して、家の地下室に様々な化学薬品を揃え、エジソン自身もその地下室で科学実験に没頭 していたという。 このような少年時代を送ったが、その後は母親の手伝いを得ながら発明研究を続け、1877年、エジソン30歳の時 に蓄音機の実用化 蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得した。その後、ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、研 蓄音機の実用化 究所では、電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。なかで も注力したのは白熱電球 白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。彼は白熱電球の名称を、ゾロアスタ 白熱電球 ー教の光と英知の神、アフラ・マズダから引用し、 「マズダ」と名付けている。一方で、白熱電球の売り込みのため の合弁会社を設立し、エジソンは起業家 起業家でもあった。鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営か 起業家 らは身を引くが、オカルトに関心を移し、研究所にこもって死者との交信の実験を続ける。1914年に研究所が火事 で全焼し損害を蒙ったが、臆せずその後も死者との交信についての研究を続けた。 ~ 17 ~
  • 18. (4)20世紀以降の現代社会における起業 ①軍事・産業・学術の複合 20世紀の世界は、産業革命後に発展を続ける実業界、列強の対立・世界大戦・東西対立で軍事力増 強を必要とした政府、および高度な科学技術が培われた大学の組織が複合的に結束し、技術の進歩の 速度が上がった。この関係は一般に「軍・産複合」として知られており、軍需による技術や製品の需 「 産複合」 要、資本と金融の集中による効率活用、および大規模な適用と高度集中管理による技術革新を生む潮 流となった。こうした革新は、医学、物理学、化学、電子計算、航空学、物質科学、造船学、金属学 で生まれたが、ベースとなる技術の進展は軍事目的の研究に負うところが大きかった。 例えば、航空機と宇宙ロケットの発展は20世紀前半の大きなイノベーションだが、この飛躍は軍事 利用なくしてありえなかったといえる。無線通信や衛星も軍事利用が技術を飛躍させたし、現代のイ ンターネットの原型であるARPANET(アーパネット)は、1969年にアメリカ国防総省・国防高等研究 計画局による指揮の下に構築されたコンピュータネットワークである。 ②幅広い業種での起業 ウォルト・ディズニー (1901~1966年) 19世紀後半以降、先進国を中心に国民生活が向上し、質の高い製品や多 様で魅力的なサービスへのニーズが高まっていった。 この中で、食料品や娯 楽のような重工業以外の業種でも新しい起業家が急成長する事例も出てき た。たとえば、 「ミッキーマウス」の生みの親であるウォルト・ディズニー が1924年に兄のロイと設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは、現 在の売上高が3兆円を越える国際的な大企業に発展した。また、1919年には コカ・コーラ社が創業し、1939年にはカーネル・サンダース(米)がケン タッキー・フライドチキンの新調理法を考案、 マクドナルドの祖であるマク ドナルド兄弟(米)は、1940年に開店している。 ③現代のベンチャー投資 起業家と新設立のベンチャーに対する資金提供も、新しいファイナンス技術が登場した。ベンチャ ーキャピタル(venture capital)という、外部の投資家が起業家の設立した会社の株式を取得(株式 投資)し、会社を監視し経営指導して会社の価値を向上させ、その後に株式売却により利益を得よう とするスキームの金融業である。 このようなベンチャーキャピタルが生まれたのは、第二次世界大戦後のアメリカ・ボストンで、ハ ーバード大学教授のジョージ・ドリオ教授や実業界の経営者によって1946年に設立された。これがア メリカン・リサーチ・アンド・ディベロップメント(ARD)という投資会社である。ベンチャーキャ ピタルは戦後のアメリカで始まった投資業であるが、 1970年代に日本にも導入され現在に至っている。 ④情報通信技術の急速な発展と起業家 パソコンやインターネットの発展は、ここで述べるまでもない。しかしコンピューターもトランジ スターも、初めて世で発明されたのは第二次大戦以降のことであり、また、世界発のパーソナルコン ピューターを作ったアップルの創業は現在から35年前の1975年である。さらには、インターネットの 商用化は1995年と今から15年前の最近の発明なのである。 この短い期間において、現代社会は製品・サービスの水準が飛躍的に向上した。半導体産業はトラ ンジスターが発明された1947年、IC(集積回路)が発明された1958年以降に急速に発展し、コンピュ ーター産業はその半導体のイノベーションを利用して1980年代に大きく伸長した。アメリカの起業家 やベンチャービジネスが集まっている「シリコンバレー」 (サンフランシスコ市を北端に南に100キロほどの 湾岸地帯、25ページの参考-1)は、シリコンを主体原料とするIC(集積回路)を取り扱うエレクトロニ クス関連産業が集まったために、1970年代からこのように呼ばれはじめた。 こうしたイノベーションの過程において、多くの起業家がベンチャービジネスを起こし業績を拡大 させ、 さらに資金調達をはかるために証券取引所に株式を上場 新規株式公開、 ( IPO、35ページの参考―2) させた。これによって、起業家が保有する会社の株式の価値が何百億円(あるいはそれをはるかに上 回る金額)となり、億万長者となる起業家が出てきた。その典型例がマイクロソフトのビル・ゲイツ、 アップルのステーブ・ジョブズであり、現在のアマゾン・ドット・コム、ヤフー、グーグル、フェイ スブックのようなベンチャーにつながっていく。 19世紀以前の起業家は、自分の立ち上げた会社からの給与報酬や配当で富を形成したが、20世紀後 半の起業家は、立ち上げたベンチャービジネスを株式市場に公開すること(株式市場で売買取引でき るようにすること)によって、持株の経済価値を増大させて富を得ているのである。 ~ 18 ~
  • 19. 2.起業を歴史と地理から広く俯瞰してみよう 欧 米 日 本 起業家 15c ヴェネツィア共和国、地中海貿易で全盛期。 15c 英でマーチャント・アドベンチャラーズ(冒険商人)が活躍。 ⼤ 1492 コロンブス、新大陸発見。大航海時代。 航 1600 イギリス、東インド会社設立。 海 時 1602 オランダ、東インド会社設立(世界初の株式会社)。 1603 徳川家康、江戸幕府を開く。 代 1620 メイフラワー号の移民、米に上陸。 1657 紀伊国屋文左衛門、明暦の⼤火で⽊材を買い占め財を築く。 1673 三井高利、越後屋呉服店(三越)を創業。 1700-1763 英仏の北米植民地戦争。 1701 赤穂浪士の討ち入り事件。 1733 ケイ(英)、飛び杼を発明。 英 の 1769 ワット(英)、新型蒸気機関を発明。 産 1776 アメリカ独立宣言。 業 1789 フランス革命勃発。 1787 老中松平定信、寛政の改革を始める。 ⾰ 命 1814 スチーブンソン(英)、蒸気機関⾞の実⽤化に成功。 米 19c後半 米の西部開拓時代。フロンティア消滅(1890)。 1853 米のペリー艦隊が浦賀に来航。 岩 の 1861 アメリカ南北戦争勃発。 ア 崎 ⻄ 1869 アメリカ、最初の大陸横断鉄道が開通。 1867 大政奉還。明治維新。 ン 弥 部 1870 ジョン・ロックフェラー(米)、スタンダード石油を創設。 ド 太 開 19c後半 アンドリュー・カーネギー(米)、製鉄事業を拡⼤。 1873 岩崎弥太郎、三菱商会を設⽴。 リ 拓 ト 郎 1877 エジソン(米)、蓄音機を実⽤化。電球を実⽤化(1879)。 1875 益⽥孝等、三井物産を設⽴。 ュ 時 | 1885 ジョン・ペンバートン(米)、コカ・コーラの原型を発売。 | 代 マ 渋 1886 カール・ベンツ(独)、ガソリン⾃動⾞を開発。 ・ ス 沢 1891 リーランド・スタンフォード(米)、スタンフォード⼤学を設⽴。 1896 豊⽥佐吉、「豊⽥式⽊鉄混製動⼒織機」発明。 カ 豊 ・ ヘ 栄 1908 ヘンリー・フォード(米)、T型フォードを製造開始。 1904 日露戦争勃発。 | ⽥ エ ン 一 1908 ゼネラル・モータース(GM)が創業。 ネ 佐 ジ リ 1911 米IBMが創業。 1910 韓国併合。 ギ 吉 ソ| 1912 シュンペーター(墺)、「経済発展の理論」執筆。 | ン ・ 1914 第一次世界大戦勃発。 フ 1919 コカ・コーラ社が創業。 1918 松下幸之助、松下電気器具製作所を創業。 二 ォ 1924 ウォルト・ディズニー(米)、ディズニー・ブラザーズ社を創業。 度 |ウ 1925 ベル研究所が設⽴。 1925 豊⽥佐吉、豊⽥⾃動織機製作所を設⽴。 の ド ォ 1929 世界恐慌が起こる。 1929 本⽥宗一郎、⾃動⾞修理業を始める。 世 ル 1939 カーネル・サンダース(米)、フライドチキン新調理法を考案。 1937 日中戦争勃発。 界 ト 1939 ヒューレット・パッカード社創業。⼤学発ベンチャーの嚆矢。 ⼤ ・ 1939 第二次世界大戦勃発。 戦 デ 1940 マクドナルド兄弟(米)、マクドナルドを開店。正式創業(1955)。 1941 太平洋戦争勃発。 ィ 1942 シュンペーター(墺)、「創造的破壊」を打ち出す。 1945 ポツダム宣言受諾。終戦。 ズ 松 1946 ジョージ・ドリオ教授(米)等、ARD社を創業。初のVC。 1946 盛⽥昭夫等、東京通信⼯業(ソニー)を創業。 本 ニ 下 1955 ウィリアム・ショックレー(米) 、ショックレー半導体研究所を設⽴。 ⽥ | 幸 1955 米アナハイム市でディズニーランドが営業開始。 サ 宗 之 1956 ウォーレン・バフェット(米)、投資会社を創業。 ム 一 助 1957 ケン・オルセン(米)、DECを創業。 1957 中内功、主婦の店ダイエー薬局を開店。 ・ 郎 1957 フェアチャイルド・セミコンダクター創業。 1957 稲盛和夫、京都セラミックを創業。 ウ 1960 ベトナム戦争勃発(-1975)。 1960 日米安保条約締結。所得倍増計画。 ォ 半 1962 サム・ウォルトン(米)、ウォルマートを創業。 1963 江副浩正、リクルートを創業。 ル ウ 導 盛 1964 東京オリンピック開催。 ト ォ 体 ⽥ 1968 インテル創業。フィル・ナイト(米)等、ナイキを創業。 1967 藤沢昭和、ヨドバシカメラを創業。 ン| ・ 昭 1970 リチャード・ブランソン(英)、ヴァージン・レコード創業。 レ コ ス 夫 1971 スターバックス、シアトル市で創業。 1971 ニクソンショック。円切り上げ。 ン ン テ 1972 KPCB、セコイアキャピタル創業。 1973 第一次石油危機。永守重信、日本電産を創業。 ・ ピ ビ ィ 1975 ビル・ゲイツ(米)等、マイクロソフトを創業。 バ ュ ル| 1976 スティーブ・ジョブズ(米)等、アップルを創業。 1979 第二次石油危機。 フ | ・ ブ 1977 ラリー・エリソン(米)、オラクルを創業。 1980 澤⽥秀雄、エイチアイエスを創業。 ェ タ ゲ ・ 孫 1982 スコット・マクネリ(米)等、サン・マイクロシステムズを創業。 1981 孫正義、ソフトバンクを創業。 ッ | イ ジ 正 1984 マイケル・デル(米)、デルを創業。 ト ツ ョ 義 1985 ドラッカー(米)、「イノベーションとアントレプレナーシップ」執筆。 1986 バブル経済始まる(~1989) ・ ・ ブ ・ 1988 リクルート事件。江副浩正逮捕(1989)。 現 現ズ 現 1994 アンドリーセン(米)等、ネットスケープコミュニケーションズ創業。 ・ 1994 ジェフ・ペゾス(米)、Amazon.comを創業。 イ 現 1995 米でインターネット接続が完全商業化。 ン 1995 ジェリー・ヤン(米)等、ヤフーを創業。 1996 堀江貴文、ライブドアを創業。 タ 1997 三⽊⾕浩史、楽天を創業。 | 1998 ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン(米)、グーグルを創業。 1998 藤⽥晋、サイバーエージェント創業。 ネ 1999-2000 インターネットバブル時代 1999 笠原健治、ミクシィを創業。 ッ 1999 南場智子等、DeNAを創業。 ト 2002 ルクセンブルグでSkype社創業。 時 2004 マーク・ザッカーバーグ(米)、フェイスブックを創業。 2004 ⽥中良和、GREEを創業。 代 2006 エヴァン・ウィリアムズ(米)等、Twitter社を創業。 2006 ライブドア事件、堀江貴文逮捕。 ~ 19 ~
  • 20. ■設問3 設問3 1. 新しい事業に挑戦する人々は、現代だけではなく、古代中世にも存在したが、それはどのような 人々であったか。 2. 共同で事業に出資して経営に参加するという株式会社の形態は、いつ頃に生まれたものか。 3. 18世紀のイギリス産業革命においては、どのようなイノベーションが生まれたか。 4. 欧米が産業革命の時代、日本はどのような時代であったか。起業家は存在しただろうか。 5. トーマス・エジソンが生み出したイノベーションを一つ述べなさい。 6. ウォルト・ディズニーが生み出したイノベーションを説明しなさい。 7. フォード、GM、ディズニー、コカ・コーラ、マクドナルドなど、現代アメリカのビッグビジネ スは20世紀初めに生まれている。その背景は何であろうか。 8. 20世紀世界のビッグビジネスは大半がアメリカから登場している。その背景は何であろうか。 9.「半導体・コンピューターの時代」はいつ頃を指すのかを説明しなさい。 10. 最近30年間において、起業家はどうして億万長者になるほどの資産ができたのか。 ~ 20 ~
  • 21. Ⅳ.イノベーション 1.イノベ-ションの意味 イノベーション(innovation)とは、物事の「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい 、 、 、 活用法」(を創造する行為)のことである。新しい技術の発明だけではなく、新しいアイデアから社会 的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い 変革である。つまり、それまでのモノ、仕組みなどに対して、全く新しい技術や考え方を取り入れて 新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすことを指す。 日本においては、イノベーションを「技術革新」と訳すのが一般的だが、イノベーションは技術面 だけではなく、サービスやビジネス手法の革新も含んでおり、 「新しい技術と手法」と広くとらえたほ うがよい。 2.イノベ-ションの歴史 人類の歴史では、「火の使用」に始まり、石器などの器具の製作、農耕の開始、村などの組織の形成、 宗教の創始など、先史時代より数々のイノベーションがなされてきた。 下表は、人類が生み出した主な発明とその発明者を年代順にリストアップしたものである。 一般に、 人類の三大発明は、火薬・羅針盤・活版印刷術と呼ばれている。人類史上最大の発明は「文字」とい 時期(西暦) 発明品 発明者(地域) 時期 発明品 発明者 500000 B.C. 火の利用 1866 ダイナマイト ノーベル(スウェーデン) 20000 B.C. 弓矢 1867 タイプライター ショールズ(米) 8000 B.C. 農耕 1869 二輪車 ロッパー(米) 7000 B.C. 土器 1873 ジーンズ デイビス(米)、ストラウス(米) 3500 B.C. 青銅器 1876 冷蔵庫 リンデ(独) 3500 B.C. 車輪 メソポタミア 1876 電話機 ベル(米) 3500 B.C. 文字 シュメール 1879 電球 エジソン(米) 3000 B.C. 算盤 中国 1884 写真フイルム イーストマン(米) 2800 B.C. 暦(こよみ) エジプト 1885 コカ・コーラ ペンバートン(米) 2737 B.C. 茶 中国 1888 カメラ イーストマン(米) 1500 B.C. ガラス メソポタミア 1889 自動車 ベンツ(独) 1100 B.C. 鉄器 ヒッタイト 1894 科学的工場管理システム テイラー(米) 650 B.C. 貨幣 ギリシア 1895 無線通信機 マルコーニ(伊) 210 B.C. 梃子(てこ) ギリシア 1897 アスピリン ホフマン(独) 150 B.C. 紙 中国 1900 飛行船 ツェッペリン(独) 4c 鐙(あぶみ、馬具) 中国 1902 エアーコンデショナー キャリア(米) 8-9c 火薬 中国 1905 相対性理論 アインシュタイン(独) 11c 羅針盤 中国 1906 真空管 フォレスト(米) 1180 風車 ヨーロッパ 1913 大量生産方式 フォード(米) 1286 眼鏡 ヨーロッパ 1913 ジッパー サンドバック(スウェーデン) 1300 糸車 ヨーロッパ 1927 テレビ受信機 ファームワース(米) 1335 機械時計 ヨーロッパ 1929 ペニシリン(抗生物質) フレミング(英) 1440 活版印刷術 グーテンベルグ(独) 1942 原子核反応 フェルミ(伊) 1642 計算機 パスカル(仏) 1944 マークⅠ・コンピューター アイケン(米)ら 1668 望遠鏡 ニュートン(英) 1947 トランジスター バーディン(米)ら 1752 避雷針 フランクリン(米) 1958 IC(集積回路) キルビー(米)ら 1775 水力紡績機 アークライト(英) 1958 レーザー シャウロー(米)ら 1798 種痘(牛痘法) ジェンナー(英) 1966 携帯自動計算機 キルビー(米)ら 1800 バッテリー ボルタ(伊) 1968 コンピューター・マウス エンゲルハート(米) 1804 蒸気機関車 トレビシック(英) 1968 マイクロプロセッサー ホフ(米) 1831 電磁誘導 ファラデー(英) 1973 インターネット サーフ(米) 1843 人工ゴム グッドイヤー(米) 1976 パーソナル・コンピューター ジョブズ(米)、ウォズニアク(米) 1845 チューイングガム アダムス(米) 1983 携帯電話 フレンケル(米)ら 1846 ミシン ホウ(米) 1991 ワールドワイドウェブ バーナーズ=リー(英) 1852 エレベーター オーチス(米) 1998 グーグル ブリン(米)、ペイジ(米) 1855 転炉製鋼法 ベッセマー(英) 2001 iPod ファデル(米) 1859 エスカレーター エイムス(米) 2004 フェイスブック ザッカーバーグ(米) 1860 掃除機 ヘス(米) 2006 ツイッター ウィリアムス(米)ら う情報の記録術かもしれないし、あるいは人によっては「お金」だと言うかもしれない。貨幣の取引 ~ 21 ~
  • 22. と蓄積があって初めて人類は本当の商売を始めたのであろう。 この表をみてわかるように、イノベーションの具体的な成果である発明は、19世紀半ば以降から現 在までに集中していることが改めて認識できるだろう。鉄器、貨幣、紙、印刷機といった基礎的な技 術は中世以前の発明品であるが、今の世の中で使われている品物のほとんどは最近200年間で発明され たものであり、さらにエレクトロニクスに限ればこの50年の間に生まれた技術なのである。 ここで、少し考えてみよう・・・。 1. 人類が鉄を利用するようになったのは、いつ頃にどこで発明されたか。 2. 人類の三大発明と呼ばれているものは何で、それはいつごろ発明されたものか。 3. 自動車はいつ頃だれが発明したか。 4. テレビはどの頃の発明品か。 5. コンピューターはどこ頃の発明品か。 6. インタ-ネットが発明されたのはいつ頃か。 これらの知識は、覚えておいても役立たないと思えるものもあるだろう。重要なのは、どの時代に イノベーションが加速化し多数の発明が生まれたかという歴史的な流れと、現代社会の技術を支えて いる機械工学とエレクトロニクス工学のそれぞれが発展した時期を把握しておくことである。 3.イノベ-ションの現在 現代の我々は、イノベーションの成果により、人類史のうえで最も豊かな生活を享受している。先 進国の平均寿命は70数歳であり、中でも日本は平均で82.5歳(2005年、男女平均)と世界一である。 人が死ななくなったのは医学や化学のイノベーションであることは間違いない。 今の世界を見てみよう。 ○アメリカに留学している高校時代の友人と、スカイプ(Skype、2002年創業)で無料インターネッ ト電話やチャットができる。 ○テレビを見ると、民族衣装を着たエチオピアの農民が畑の脇に立ってシカゴのコーヒー豆の相場を 聞こうと携帯電話 携帯電話(1983年発明)をかけている。 携帯電話 ○AKB48の話は、台湾やインドネシア人の女の子の方がよく知って いる。インターネットテレビ(1999年頃発明)やユーチュ-ブ (2005年創業)で日本の番組を毎日のように見ているからだ。ま だ公演を行っていないNMB48まで知っているという。 ○今年2011年に起こったチュニジアやエジプトの革命は、 民衆がア ラビア語のツイッター(2006年創業)で情報を交換してデモの情 報をやりとりしていたことから『ツイッター革命』と呼ばれている。 ○イノベーションは、過去のイノベーションを駆逐する。現代の若者で実際の真空管(1906年発明) を見たことのある人は少ない。わずか100年前に発明された現代エレクトロニクスの基幹製品であ ったものが、 電子回路の素子としての役目は半導体 (トランジスターは1946年発明)に置き換わり、 今の世の中で使われている製品は放送局や高級アンプに限定されている。 4.イノベ-ションの理論 社会科学において、人類を発展させてきたイノベーションは、どのように論じられてきたのか。こ れについて、3名の経済学者・経営学者の論点を以下にまとめている。 (1)アダム・スミスの論じた利己心と分業 世界で経済学を最初に作ったのは、産業革命期に生きたイギリスの経済学者アダム・スミス(1723 -1790年)であるが、彼は「利己心」という資本主義の根底にある精神要素と、 「分業」という資本主 義のイノベーションを評価し、経済社会を動かす基本的メカニズムだと論じている。 ~ 22 ~
  • 23. ①利己心の肯定 彼は、人間の利己心について、有名な著書『国富論』「諸国民の富」 ( 、1776 年刊行)の第1篇第2章で、 「我々が自分の食事を取るのは,肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく、 彼等自身の利害に対する彼等の関心によるのである。」 (「分業を引き起こす原理について」 ) と述べており、人間の利己主義を資本主義社会の倫理として肯定している。 簡単にいえば、人間の行動は自分にとっての利益がどうなるかを考えた上の ものであり、他人や社会に利益を与えるための行動ではないと論じている。 この言は今の世の中ではごく自然に受け入れられるものであるが、中世キ リスト教の倫理に束縛された当時のヨーロッパ社会においては、表立って功利主義を主張することは はばかられる世の中だったのである。たとえば、 「人はパンのみによって生くるものにあらず。 、 」「汝の隣人を愛せよ。」 という有名なキリストの言葉や、 「誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(マタイ福音書23章12節) 」 「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、だまし取った物は四 倍にして返します。(ルカ福音書19章8節) 」 という聖書の言葉のように、キリスト教では自分を利する行動を積極的に肯定せず、利益を図ること よりも他人のために動くことを奨励している。したがって、キリスト教社会においては、人間が金や 財産を増やそうとする事業意欲は、「良い行い」とはされなかったのである。 起業家や資本家が事業を行う動機はそれによって経済的利益を得るという利己心であり、隣人に施 すことを目的に起業する人間はほとんど存在しない。アダム・スミスは人間の利己心を重視すること で、当時の産業革命期における資本家の行動を、人間の行動原理に従っていると論じたのである。 ②分業システムの評価 また、近代以降の基本的生産システムである「分業」のメリットを論じたのもスミスである。彼は 著書『国富論』においてこう述べている。 「我々が、自分たちの必要としている他人の世話を互いに受け合うのは、互いの合意による交換や購買によっ てであるが、もともと分業を発生させるのも、取引しようとする同じ人間の性向である。 」 「人間に取引し交易し交換しようという性向がなかったなら、誰もが自分の必要とする生活の必需品と便益品 をことごとく自分だけで調達しなければならなかったに違いない。」 「ピンを製造する作業から、工程全部を一人の人間がやるのと十人で分担するのとでは、効率が全く異なる。」 ピンを1つ作るにも色々な工程に分かれていて、その工程が一つの工場の中で、それぞれを専門と する工員によって行われるという「工場の分業システム」というものが産業革命のイノベーションと アダム・スミスは考えたのである。 ●アダム・スミス アダム・スミス(1723-1790年) アダム・スミス スコットランド生まれのイギリスの経済学者、哲学者 。グ ラス ゴー 大学で 道徳 哲学 を学び 、 1748 年からエ ディン バラで修 辞学や 純文学 を教え る。1751年 にグラ スゴー大 学で論 理学教授 に就任 する。1763 年、教授職を辞してフランスに渡る。1766年にスコットランドに戻り、1776年に『国富論』を刊行し名声を 博した。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任、1790年にエディンバラで67歳で死去した。 (2)シュンペーターのイノベーション論 イノベーションという概念を初めて明確に打ち出して論じたのは、20世紀 前半のオーストリアの経済学者ヨ-ゼフ・シュンペーター(1883-1950年) である。彼は、主著『資本主義・社会主義・民主主義』 (1942年)において 「創造的破壊」という概念を打ち出し、アントレプレナー(当初の訳は「企 業者」とされている)の行う不断のイノベーションが経済を変動させるとい う理論を構築した。 シュンペーターは、イノベーションとして以下の5つの類型を提示した。 ①新しい財貨の生産、 ②新しい生産方法の導入、③新しい販売先の開拓、 ④新しい仕入先の獲得、⑤新しい組織の実現 彼は、イノベーションの実行者をアントレプレナーと呼び、アントレプレナーは一定の慣例的な過 程をこなすだけの経営管理者ではなく、生産要素を全く新たな組み合わせで結合し(これを新結合、 、新たなビジネスを創造する者として重視されるべきとした。 new combinationsと呼んだ) ~ 23 ~
  • 24. シュンペーターは、資本主義経済の動態的性格を強調した。資本主義企業は、既存の需要・供給構 造や技術体系,労働・生産体系のもとで合理的・効率的に対応するだけではなく、むしろそうした既 存の条件に積極的・能動的に働きかけて変化を促し、新しい条件を作りだしていくことに資本主義の 活動の本領があるとした。 彼は、利潤獲得のために、古いものを破壊し新しいものを創造していく資本主義の不断の活動を、 物と力の「新結合」による「創造的破壊」と呼び、この過程こそ資本主義の本質的事実であり、資本 主義はそれゆえ本来的に発展的・動態的性格を持つとした。 しかしながら、20世紀前半の経済学は、ジョン・メイナード・ケインズ(英の経済学者、1883-1946 年)による有効需要創出に重きを置くケインズ経済学が主流を占めていた。ケインズ理論を理論的支 柱にして大恐慌後のアメリカで実施されたルーズヴェルト大統領のニューディール政策に対して、シ ュンペーターは政府の産業への介入が害を及ぼすとして強く批判している。 現在は「創造的破壊の理論」と呼ばれるシュンペーターの理論は、20世紀の経済学としてはケイン ズ経済学に対抗できず、主流からは遠い経済学説であったが、1990年代以降にイノベーションや産業 競争力の強化を重視する世界の流れの中で、シュンペーターの理論が再評価されるようになっている。 まとめれば、シュンペーターの経済学の特徴は以下の3点である。 ①時間経過の中における供給構造の質的変化を重視する。(=商品やサービスを作りだす側の 変化) ②資本主義の本質を、アントレプレナーによるイノベーション(彼は新結合と呼んだ)による ダイナミックな発展過程ととらえる。 ③資源、人口、技術、社会組織といった条件に、経済主体が受動的に適応するのではなく、ア ントレプレナーの積極的活動による創造的破壊が経済価値を生み出していく。 ●ヨ-ゼフ・シュンペーター ヨ-ゼフ・シュンペーター(1883-1950年) ヨ-ゼフ・シュンペーター 1883年 、オーストリア・ハンガリー帝国モラヴィア(現チェコ)のトリーシュに生まれる。1901年、ウ ィーン大学法学部に進学。1906年、 ウィーン大学から博士号(法学)を取得。1909年、ツェルノヴィッツ 大学准教授に就任。1911年、グラーツ大学教授に就任。1912年、『経済発展の理論』発表。1913、米コロン ビア大学から客員教授として招聘。1919年、オーストリア共和国の大蔵大臣に就任、同年辞職。1921年、オ ーストリアのビーダーマン銀行の頭取に就任。1924年、ビーダーマン銀行が経営危機に陥ったため、頭取を 解任され、巨額の借金を負う。1925年、独ボン大学の教授に就任。1927年、米ハーバード大学の客員教授。 1931年、初めて来日し各地で講演。1932年、ハーバード大学の教授に就任。1939年、『景気循環の理論』発 表。1940年、計量経済学会会長に就任。1942年、『資本主義・社会主義・民主主義』発表。1947年、アメリ カ経済学会会長に選出。1949年、国際経済学会会長に選出。1950年、アメリカ・コネチカット州にて急 死 。 (3)ドラッカーによるアントレプレナーシップの評価 ピーター・ドラッカー(1909年-2005年)は、オーストリア生まれの 経営学者・社会学者である。ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興 に直面し、英国を経てアメリカに逃れた。 そこで彼が目にしたのは20世紀 の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。彼はその社会的 使命を解明すべく、GMを題材にした著作に取り掛かる。それが名著『企 業とは何か』に結実した。 ドラッカーの思想は、日本でも経営者やサラリーマンを中心に人気が高 く、著書の日本での売上は累計400万部を超えている。近年は、 「もし高校 野球の女子マネージャーがドラッカーの 『マネジメント』 を読んだら」(岩 崎夏海著)によって、再び日本では注目されている。 ①ドラッカーのイノベーション 1985年、ドラッカーは『イノベーションとアントレプレナーシップ』を著した。この著作は純粋な 『イノベーションとアントレプレナーシップ ーションとアントレプレナーシップ』 経済理論を論じたものではないが、ドラッカーはアントレプレナーシップを下記のように述べている。 「アントレプレナーシップとは、すでに行っていることをより上手に行うことよりも、まったく新しいことに 価値、とくに経済的な価値を見出すことである。これこそまさに、およそ二百年前、J・B・セイが起業家なる 言葉を作ったことの本質だった。それは、権威に対する否定の宣言だった。すなわち、起業家とは秩序を破壊 し解体する者である。シュンペーターが明らかにしたように、起業家の責務は創造的破壊である。(」「イノベー ションとアントレプレナーシップ」 ) ~ 24 ~
  • 25. ②経済社会での必要性 さらに、彼は、このイノベーションとアントレプレナーシップが経済社会の安定的な発展には不可 欠で、この二つの要素がなければ経済社会は陳腐化して衰退に陥るとしている。 「われわれは、人の手によるあらゆるものが、歳をとり、硬直化し、陳腐化し、苦しみに変わることを知って いる。かくして経済と同様に社会においても、あるいは事業と同様に社会的サービスにおいても、イノベーシ ョンとアントレプレナーシップが必要となる。 」 「われわれが必要としているものは、イノベーションとアントレプレナーシップが当たり前のものとして存在 し、継続していく起業家社会である。( 」「イノベーションとアントレプレナーシップ」) ③アントレプレナーシップは、勘やひらめきではなく、学ぶことが可能な仕事 学ぶことが可能な 可能 ドラッカーが例を挙げつつ、繰り返し強調しているのは、イノベーションやアントレプレナーに対 する世間一般の「ひらめきや神秘的なもの」というイメージは正しくなく、これらの大部分は体系化 が可能で、それゆえに「アントレプレナーシップを学んで実践することも可能だ」ということである。 「アントレプレナーシップは生まれつきのものではない。創造でもない。それは仕事である。」 「意思決定を行うことのできる人ならば、学ぶことによって、起業家的に行動することも起業家となることも できる。アントレプレナーシップとは気質ではなく行動である。しかもその基礎となるのは、勘ではなく、原 理であり、方法である。( 」「イノベーションとアントレプレナーシップ」) ●ピーター・ドラッカー ピーター・ドラッカー(1909-2005年) ピーター・ドラッカー 1909年、オーストリア・ウィーンでドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。1929年、ドイツ・フランクフル トの新聞記者になる。1931年、フランクフルト大学にて法学博士取得。1933年、自分の論文がナチスの怒り を買うことを確信し、ロンドンに移住。1937年、アメリカに移住。1939年、処女作『経済人の終わり』を著 す。1946年、ゼネラル・モータースでの調査活動をもとに『企業とは何か』を著す。1950年、ニューヨーク 大学教授。1954年『現代の経営』で目標管理を提唱し、マネジメントブームに火をつける。1959年、初来日。 1969年、『断絶の時代』で知識社会の到来、起業家の時代、経済のグローバル化などを予言。1980年代にイ ギリスのサッチャー政権が推し進めた民営化政策に大きな動機を与えたといわれる。1971年、クレアモント 大学大学院教授。1979年、自伝『傍観者の時代』を著す。2002年、アメリカ政府から民間人への最高位の勲 章である大統領自由勲章を授与される。2005年、カリフォルニア州の自宅で老衰のため死去。95歳没。 ■設問4 設問4 1. 「イノベーション」とは何か、一言で説明しなさい。 2. ディズニーランドは「イノベーション」だろうか。その是非を説明しなさい。 3. 人類の歴史において、最も影響力のあったイノベーションと自分が考えるものを3つあげて、そ の理由を説明せよ。 4. 身の回りにあるイノベーションを3つ取り上げて、その起源を調べて説明しなさい。 5. 日本でも多数のイノベーションが生まれてきた。身近な例では回転寿司やユニットバスがある。 日本で生まれたイノベーションを1つ取り上げてその影響を説明しなさい。 6. 経済学において、イノベーションを初めて明確に論じたのは誰か。 7.「創造的破壊」とはどのようなものか、簡単に説明しなさい。 8. 新しい技術や事業を思いつくための「アントレプレナーシップ」は、勘やひらめきに依存してい るのだろうか。「アントレプレナーシップ」は学べるものだろうか。自分の意見を述べなさい。 ~ 25 ~
  • 26. (参考-1)シリコンバレー シリコンバレー シリコンバレー(Silicon Valley)はアメリカ合衆国カリフォルニア州北部のサンフランシス コ湾の南部一帯にあるサンタクララバレーと周辺地域のことを指している。 北はサンフランシス コ市から南はサンノゼ市までの約70~100kmの距離の一帯がシリコンバレーにあたるが、 実際に シリコンバレーという都市は存在せず、京浜工業地帯というような意味の言葉である。 このシリコンバレーの地域には、コンピューターやインターネット関連のハイテク産業が数多 く集まっており、アップル、オラクル、ヤフー、グーグル、ツイッター、フェイスブックなど世 界に名だたる企業の本社がある。 トランジスターの発明者の一人であるウィリアム・ショックレーがこの地に「ショックレー半 導体研究所」を1955年に設立し、そこから分化したフェアチャイルド・セミコンダクター(1957 年設立)や、更にそこからインテル(1968年設立)をはじめとする多くの半導体企業が生まれ たことから、半導体材料のシリコンにちなんで「シリコンバレー」と1970年代から呼ばれるよ うになった。 また、シリコンバレーのほぼ中心には、私立スタンフォード大学(1891年創立)があり、こ の大学から数々の起業家とベンチャービジネスが生まれてきた。 ~ 26 ~
  • 27. 第2部 ベンチャービジネス Ⅰ.ベンチャービジネスの世界 ベンチャービジネスの世界 ベンチャービジネスとは、大企業ではなく、従来の中小企業でもない、「第三のセクター」である。 また、これはスタートアップしたばかりの若い中小企業だけを対象とするものではなく、大企業や伝 統的な中小企業における新事業展開や企業再生の活動を含んだものである。 日本に突出してそびえたつ規模と成長力を持った産業がなくなりつつある現在、少数の巨大産業と 大企業が幅をきかし、他の産業企業がつき従っていく構造が今後も続くとはだれも考えていない。大 多数の人々は新しい産業と企業を望んでおり、新たなビジネスを生み出す仕組みや人間に期待が集ま っている。 「日本経済を牽引する新しいフロンティア」にベンチャービジネスがなるのではないかと期 待しているのである。 (1)ベンチャービジネスの特徴 ①ベンチャービジネスの目的は「経済価値を創ること」 第1部で述べたように、ベンチャービジネスとは「高い成長を目指してリスクに挑戦する企業」の 総称である。高い成長を目指して危険かもしれないことに挑戦するかといえば、それによって経済価 値を得ることができるからだ。企業や個人が富を獲得することが出来るからである。これは考えるま でもなく当然の人間の行為であり、資本主義が発展する以前、さかのぼれば古代からこの理屈でビジ ネスは行われてきた。 アントレプレナーシップには、利益追求をする商売の世界だけではなく、社会貢献や地域振興の取 り組みも含まれている。しかし、アントレプレナーシップの活動のなかで、ベンチャービジネスとは、 会社という組織を立ち上げてビジネスを行って利益を出すことを第一目的とする組織のことである。 利益を得られるチャンスがありそうだから、起業家も従業員も投資家も銀行も、プロジェクトに参加 してみよう、資金を出してみようと思うのだ。 逆にいえば、ベンチャービジネスや起業家、従業員等の利益を得ようとする「功利心」(利己主義) を否定するなら、ベンチャービジネスは成り立たない。むしろ、リスクが高いだけに、お金をもうけ ようとする強い気持ちが起業家や従業員に強くなければ、事業に挑戦していくことはできない、と考 えるべきである。ベンチャービジネスを考える際には、あくまでも自分の「利益追求」が第一で最大 の目的であり、社会貢献、他者との協調といった「社会的公正」の概念はひとまず外して考えないと いけない。もちろん、ベンチャービジネスでは社会的公正を重視する場面もあるけれども、一般的に いえば、彼らは他の組織よりも利益追求を重視した方針で行動すると考えるべきである。 ②異質性、独自性、希少性の追求 ベンチャービジネスは、人と似たようなことをする事業ではない。世の中で沢山ある製品やサービ スをすることがベンチャービジネスではなく、他で行われていない、マーケットで少ない事業に挑む ことがベンチャーの本質である。 ③スピードの重視 スピードの重視 現代におけるイノベーションのスピードは速い。大企業であっても、技術や市場の発達に追いつい ていくために、あるいは他社を追い越すために懸命である。ベンチャービジネスは、ことにハイテク ベンチャーは、そうした大企業を更に上回るスピードで事業を推進しなければ、売上も利益もあげら れずに淘汰されてしまうリスクが高い。 ④自社の強みに特化 自社の みに特化 イノベーションに追いつけるベンチャーでなければ、その世界に身を置く意味がないとまで言い切 れるのがベンチャーの世界である。ベンチャービジネスでは、スピードをことのほか重視した経営ス タイルを取っており、迅速に経営の決断をし、自分達で不足するものは外部の人間や企業を活用する。 このため、ベンチャーでは、中途採用、ヘッドハンティングによる人材活用や、企業提携、M&Aによ る技術や顧客の獲得が盛んにおこなわれる。外部を活用しながら、自社の独自の強み(英語ではコア・ コンピタンスと呼ばれる)を更に進めるスタイルが現代のベンチャービジネスの経営手法である。 ~ 27 ~
  • 28. ⑤企業は倒れても、個人と技術は残る 企業は れても、個人と技術は 成功をとげたビジネスの陰に、失敗起業が累々と横たわっているのがベンチャービジネスでもある。 残念ながら、ベンチャーではすべての企業や参加者が平等に成果を享受することはなく、 「非民主的」 な世界ともいえよう。しかし、事業が頓挫して企業が閉鎖されても、挑んだ個人やその過程で生まれ た技術やノウハウは残り、次の新しいプロジェクトでうまく成功することもある。ハイテクベンチャ ーが多数生まれるシリコンバレーにおいても、最初の第一ラウンドでうまくいかなくても、そのベン チャービジネスを辞めた後の2回目、3回目以降の挑戦で成功した人間を輩出しているのである。 ⑤ベンチャービジネスというシステムと生態系が重要 ベンチャービジネスというシステムと生態系が 生態系 このベンチャービジネスが活発に発展するには、第4部で述べるように、ベンチャーを支える制度、 産業、金融、大学、研究所、あるいはコンサルタントのような集団が欠かせない。ベンチャー単独で は成り立たない世界である。ベンチャービジネスは、このような「支援システム」に支えられている。 また、この支援システムにいる人々が常に働き、学び、交流しあっている。そのやり取りの中で、 新しい企てのプランが生まれ、人々が集まり、プロジェクトに誘い、共に働いている。ここでは企業、 役所、団体、大学のような組織の中で、人のやり取りや交流が閉ざされた世界ではなく、オープンな 世界で活動している。このような活動領域は物理的制約からシリコナレーや東京圏のようなある地域 の中であるが、こうした地域内の人間の活動システムを「生態系」と呼ばれることが増えているが、 この生態系の活動のよしあしがベンチャービジネスの発展に強く影響すると最近では考えられている。 ⑥期待で成り立つビジネス 期待で ベンチャービジネスは、失敗することもあるという前提からスタートする。新しい企ての成果で大 きな経済的な価値(利益)を得られそうと考えるから、世の中はベンチャービジネスに参加し、資金 を投入するわけであるが、その行動は、利益が得られそうという「期待」に基づいたものである。期 待の実現度、可能性はどのくらいかを考えて、人やお金が動いていく。しかし、期待どおりに行かな いことが多い。バイオテクノロジー産業で開発している新薬候補のうち当局から承認されて新薬とし て製品発売されるのは1万件のうち3件もないといわれるほどである。日本のベンチャービジネスと呼 ばれる企業群でも、成功して会社が株式公開まで行きつくのはせいぜい年間150社程度である。 逆に、人々の期待が高すぎて、ベンチャービジネスの価値が過剰に評価される場合もある。たとえ ば、インターネットバブルといわれた1999年から2000年にかけては、日本で株式を公開したネットベ ンチャーの中には売上高が年間数億円にもかかわらず、会社の価値が1000億円以上で株価がつく現象 も起こった。ところが、そのベンチャーへの期待が低下すれば、そうした価値は一挙に崩れ、株価の 暴落で投資家が損をするだけでなく、企業の信用度低下や倒産など、 問題が生じてくる可能性が高い。 (2)ネットバブルの崩壊 世の中というものは均質的で、ある考えが通用し始めると、多くの人々が追随する。注目されると、 それが良いものだという考えで皆が一斉にそこに動いていく。 1997年から2005年にかけて、日本には第三次ベンチャーブームが起こったが、それは上記のように 皆が追随するお祭りのようなブームになっていた。その後、2001年にインターネットバブルがはじけ るとIT投資やインターネットの価値が見直され、ベンチャー企業はそれほど価値が高いものだろうか という疑念が生じてきた。ベンチャービジネスに大きな見直しが起こったのは、2006年1月に起こった 『ライブドア事件』である。ライブドアがファンド等を利用して巨大な粉飾(虚偽の財務諸表の作成) を行い証券取引法等に違反していた事実が報道されると、社会は「やはりベンチャービジネスはイン チキをやっていた」 、 「ベンチャービジ ネスというものは危ない!」 という印 ジャスダック株価指数(右目盛) 象を強めた。 典型的な現象が新興株式 マザーズ株価指数(左目盛) 市場 (東京証券取引所のマザーズ市場 やジャスダック証券取引所等の新興 企業向けの株式市場) で取引される株 式の暴落である。 図のように、東京証 券取引所のマザーズ指数 (新興企業を 対象とした株価指数)は、2006年1 月16日終値の2799.06を直近のピー クに下落し、1年9ケ月後の2007年9 月 18 日 の 620.42 ま で の 間 に 株 価 は 78%も下落している。 この東証マザーズ指数がピークを ~ 28 ~
  • 29. つけた2006年1月16日は、ライブドアが証券取引法違反容疑で東京地検特捜部から家宅捜索を受けた日 であった。その後も、村上ファンドの村上世彰代表が証券取引法違反容疑で逮捕(2006年6月) 、堀江 貴文(ライブドア前社長)の東京地裁初公判(2006年9月)という出来事が続いた。 さらに、株式公開を果たした新興企業で粉飾決算などの不祥事が相次いだ。投資家は新興企業が疑 念を持ちはじめ、ベンチャー企業が晴れて株式公開によって公募増資を行っても、投資家は買おうと しなくなった。 こうした結果、 日本国内での新規株式公開件数は2006年の年間188件から急減し、2009 年はわずか19件と史上最低のIPO件数となり、2010年も22件にとどまっている。 (3)栄枯盛衰 上の(1)-③で述べたように、現代における技術の最先端はスピードが速いから、行きわたった 技術やサービスを新しいイノベーションが短期間で置き換わることが起こっている。 ①破壊的イノベーション 世界発のHDD「IBM 350」 こうした新しい技術やビジネスモデルによって、既に形成された市 場の秩序を変え、市場と業界構造を劇的に変化させてしまうイノベー ションのことを「破壊的イノベーション」と呼んでいる。 ハーバード大学ビジネススクールのクリステンセン教授は、 『イ 著書 ノベーションのジレンマ』(The Innovator's Dilemma、1997年)にお いて、イノベーションには「持続的イノベーション」と「破壊的イノ ベーション」の2つがあるとしている。クリステンセンは、特に繰り返 し業界リーダーが入れ替わったハードディスクドライブ(HDD)業界 を取り上げ、この現象を説明している。 1980年代の8インチドライブから5.25インチドライブへの移行についていえ ば、1981年の時点で8インチドライブの容量は60MBであるのに対して、5.25 現在の8GBのUSBメモリー インチドライブの容量は10MBしかなかった。 8インチドライブの主要顧客であ るミニコンメーカーにとって、5.25インチドライブの記憶容量は不足してい た。しかし、ミニコンとは別のパソコン市場では5.25インチドライブが評価 されて販売が増え、結果として5.25インチドライブでは継続的な技術改良が 進み、数年のうちに5.25インチが8インチドライブの性能を上回って、8イン チドライブ製品が市場から駆逐された。 1976年に業界を構成していた17社は、 IBMのディスク・ドライブ事業部を除く全社が、1995年までに倒産したか買収 された。この間、129社が業界に参入し、そのうち109社が失敗した。 (クリス テンセン『イノベーションのジレンマ』より引用) 世界初のハードディスクドライブは、IBMが1955年に発表した「IBM-350 RAMAC」 (上の写真)だ が、直径が24インチのディスクを50枚内蔵し、高さは2mもある大きなものだったが、容量は5MBで あった。現在使われる親指サイズのUSBメモリーは容量はその千倍のギガバイトであることからも、 50年間の技術革新で極めて大きな変化が社会に起こっていることがわかるだろう。 破壊的技術は単に新事業や新市場を生み出すだけではなく、その後の持続的技術によって製品・サ ービスが改良・改善され、既存市場を侵食し、既存市場に販売している企業の地位を危うくする。こ のような業界変動の事例として、クリステンセンらは下表のような破壊的技術を挙げている。 確立された技術(現技術) 破壊的技術(新技術) コンピュータ メインフレーム技術 ミニ・コンピュータ技術 コンピュータ ミニ・コンピュータ技術 パーソナルコンピュータ技術 掘削機 ケーブル式掘削機 油圧式掘削機 ラジオ受信機 真空管式ラジオ技術 トランジスタ・ラジオ技術 HDDアーキテクチャ 14インチ・ウィンチェスター・ドライブ 8インチ・ハードディスクドライブ HDDアーキテクチャ 8インチ・ハードディスクドライブ 5.25インチ・ハードディスクドライブ HDDアーキテクチャ 5..25インチ・ハードディスクドライブ 3.5インチ・ハードディスクドライブ コピー装置 業務用乾式コピー機技術 小型卓上コピー機技術 ②業界の主役交代 インターネットの世界においても似た現象が起こっている。2000年当時は飛ぶ鳥を落とす勢いであ ~ 29 ~
  • 30. ったヤフーが、2008年以降は一転して低迷し身売り話まで出ている。また現在は企業価値が3000億ド ル(2011年初時点)と世界2位の時価総額企業に近づくほどの大復活を遂げたアップルであるが、1996 年頃の同社はサン・マイクロシステムズと合併交渉をしており、当時の交渉段階での時価総額は4~50 億ドルと2010年12月現在の2900億ドル超に比べれば50分の1にすぎなかった。しかも、交渉相手だっ たサンは今年2010年1月にオラクルに買収され現在は残っていない。このように、すさまじい盛者盛衰 を地で行っているのが21世紀におけるアメリカのベンチャー・エコノミーなのである。 下図はインターネット業界をリードしていきた企業の株価である。 ヤフーは1996年4月に会社設立か らわずか1年1ケ月でNASDAQにIPOを実現したが、その3年後の2000年初めには時価総額が1500億ド ルにも達した。一方、グーグルは1998年に設立され、ロボット型検索エンジンに特化して事業を行っ ていたが、グーグルは2000年6月にヤフーのサーチ・エンジンに採用されてその傘下で事業を展開して いたように、当時はヤフーの下請け的な存在にすぎなかった。 しかし、その後のヤフーは、グーグルやマイクロソフト等との競合によりネット内でのポ-タルと しての閲覧シェアは次第に低下し、2008年には大幅な人員削減が断行され、マイクロソフトから買収 が提案された。提案は破断になったが、最近でも2010年10月に20%の人員削減が報道されるなど、業 績の停滞は続いている。当然、同社の時価総額は往時から大きく減少した200億ドル前後で一進一退で ある。さらには、最近の2年で台頭してきたフェ-スブックがグーグルを脅かす存在となっている。 このように、1990年代後半のサーチ・エンジン、2000年代前半のポータル、そして現在のソーシャ ル・メディアへとインターネットの主流が移行する中で、巨大企業といえども旧来の構造から迅速に 脱皮を遂げないと買収の憂き目に遭うビジネスに進化している。 Apple 時価総額 Google 時価総額 Yahoo! 時価総額 (単位:億ドル) ■設問5 設問5 1. ベンチャービジネスにおいて、「功利心」とはどのような存在だろうか。 2. ベンチャービジネスにおける「期待」について説明しなさい。 3. ネットバブル崩壊によってどのような現象が起こっただろうか。 4. 「破壊的イノベーション」とはどのようなものか。 5. 破壊的イノベーションによって劇的に変化した製品(業界)を1つあげて、その変化を説 明しなさい。 ~ 30 ~
  • 31. Ⅱ.日本のベンチャービジネス 日本のベンチャービジネス (1)明治・大正時代 独立経営者に率いられた新興企業は、 明治時代から数多く登場している。 良く知られているように、 三菱財閥の創始者岩崎弥太郎(1869年に三菱商会の前身である九十九商会創業) 、渋沢栄一による第一 国立銀行(1873年設立)の設立、ミキモト(ミキモト真珠)の御木本幸吉(1899年創業) 、阪急電鉄の 小林一三(1907年創業)、日立製作所の小林浪平(1908年創業)が代表的なケースである。近代産業が 勃興した明治時代にスタートした企業の多くは独立した起業家によるものであった。 大正時代や昭和初期にも、現在の名だたる大企業を輩出している。パナソニック(1918年創業) 、マ ツダ(1919年) 、クボタ(1930年)、ブリヂストン(1931年) 、トヨタ自動車(1937年)などである。 たとえば、東証上場企業1,751社のうち、明治時代の設立会社は88社、大正時代は208社、昭和~第二 次大戦終戦前の設立が583社と、終戦前までに設立された会社が879社、全体の50%を占めている。 (2)昭和時代 日本において急速に新しい企業が勃興したのは、第二次世界大戦直後である。当時は、①文字どお り日本経済の焼跡からの再出発であり、 国民全体に新規巻き直しの気運が高まっていたこと。 ②財閥、 非財閥を問わず、戦前の大企業が戦災や財産没収によってほとんどゼロから出発し、新興企業が参入 するチャンスが大きい状況だったこと。 ③莫大な余剰労働力が生じた経済環境であり、 復員兵や学生、 荒廃した企業からのスピンアウト組など、むしろ独立して企業を起こしていく必要性が社会的に存在 したこと。という要因が時代背景にあった。実際、戦後から1950年末までの5年余りで、先の東証上場 企業のうちの27%にあたる481社が設立された。ソニー(1946年創業) 、積水化学工業(1947年)、パ イオニア(1947年)、本田技研工業(1948年) 、オムロン(1948年) 、ワコール(1949年) 、村田製作所 (1950年)のような独立系の企業が続々と誕生している。 (3)三つの「ベンチャーブーム」 (1)第一次ベンチャーブーム(1970~73年) 一般に「ベンチャーブーム」と呼ばれている戦後3回の時代をふりかえってみよう。 第一次ブームは1970年から73年にかけて起こっている。当時設立され、現在公開企業まで成長して いるような成功例をあげると、 アデランス (1969年創業、以下同じ) 大塚家具 、 (69年) ぴあ 、 (70年) 、 モスフードサービス(72年) 、コナミ(73年) 、コナカ(73年)がある。第一次ベンチャーブーム当時 の開業率をみると、7%と現在の4%台と比べ高く、創業は活発であった。 ベンチャー・ファイナンスにおいても、1972年以降大手中堅の銀行や証券が関連会社としてベンチ ャーキャピタルを設立した。日本初の民間ベンチャーキャピタルは、1972年設立の「京都エンタープ ライズ・デベロップメント」 (KED)であり、京都の財界が中心になって72年11月に発足した。また同 年11月に、日本長期信用銀行、富士銀行、大和銀行、第一勧業銀行、大和証券、伊藤忠商事などによ る大企業連合型で「日本エンタープライズ・ディベロップメント」 (現在は安田企業投資)が設立され た。そのほか、住友グループが「日本ベンチャーキャピタル」を72年12月に設立し、また73年4月に は野村証券、三和銀行、日本生命、東洋信託銀行などにより「日本合同ファイナンス」 (現在のジャフ コ)が発足するなど、70年代前半に現在の大手ベンチャーキャピタルの過半数が設立されている。 当時は高度経済成長期の頂点であり、列島改造ブーム下で各企業とも投資意欲が高かったことや、 好景気下で脱サラによるサラリーマンの独立開業が増加したことも一因である。ベンチャービジネス という和製英語が生まれたのも当時であり、外食、流通、サービスの分野で新興企業が続々登場した。 しかし、1973年の第一次石油ショックにより開業ブームは急速に消え去り、日本沈没の文句に代表 されるような悲観的な経済観とリセッションのもとで、日本企業は守りの時代が数年にわたり続いた。 (2)第二次ベンチャーブーム(1982~86年) 第二次ブームは1982年から86年にかけて起こっている。二度の石油ショックを経て、省エネルギー や軽薄短小を合い言葉に日本産業にイノベーションを求める気運が高まったことが背景にある。当時、 アメリカでも70年代末から80年代前半にかけてベンチャーブームが起こっており、 『シリコンバレー』 という言葉が日本に伝わり広がったのもこの頃である。また、ファイナンスの面でも、証券市場の店 頭登録市場において1983年に公開基準が緩和されるなどの規制緩和が実施された。 ~ 31 ~
  • 32. こうした動きの中で、エレクトロニクス、新素材、バイオ等の分野でベンチャーが輩出されていっ た。当時設立され、現在公開企業まで成長している例は、ソフトバンク(1981年創業) 、カプコン(83 年)、アイフルホームテクノロジー(84年) 、スクウェア(86年、現在のスクウェア・エニックス) 、イ マジニア(86年)がある。 ベンチャーキャピタルの設立は、1982年以降再び活発化した。米国におけるNASDAQ株式市場やベ ンチャーキャピタル投資の活況、 および日本における店頭公開市場の改革論議を背景に、 大手の銀行、 証券、事業会社が系列会社としてベンチャーキャピタルを設立した。1982年には5社、83年は10社、 84年には現在までの最高件数である22社が設立されている。 しかし、1985年のプラザ合意後に円高不況が到来し、86年にはベンチャー企業の雄と呼ばれた急成 長企業においても大型の倒産が起こった。三和機材(86年3月倒産、負債総額100億円) 、大日産業(86 年4月、300億円) 勧業電気機器(86年7月、120億円) 、 、ミロク経理(86年8月、500億円)などである。 このベンチャー倒産を機に、82年以降の第二次ベンチャーブームは鎮静化した。 (3)第三次ベンチャーブーム(1996年~2001年) 「第三次ベンチャ 1994年以降のベンチャー企業への関心の盛り上がりは、戦後3度目の波にあたり、 ーブーム」と呼ばれている。日本経済の停滞が長期化する中で各界の問題意識は大きく、ベンチャー 支援に積極的な意見が大企業や、政府・自治体、大学など幅広い層に広がり、変革の原動力としてベ ンチャーに強い期待感が寄せられている。 このような第三次ベンチャーブームが過去2回のブームに比べ裾野が広く持続性が感じられた。そ れは、以下のようなファクターがあった。 ①長期化する構造問題 経済成長停滞の長期化、エレクトロニクスや情報通信等の技術革新の拡大の中で、ベンチャー的な 新しいビジネスシステムで経済社会を変革すべきという認識が、社会全般に定着していること。低成 長と産業空洞化が現実に長期化する中で、日本の安定的な雇用制度は機能が低下している。現在の大 企業では、雇用を牽引する企業群が少なく、ベンチャーの輩出源となるべき中小企業も、不況や高齢 化にともなう後継者難なども加わって廃業率が上昇している。 ②世界的な潮流の変化 最近のベンチャーブームは世界的な現象である。興の中小企業が米国経済をかってない勢いで牽引 しているほか、台湾やシンガポール、インドでは米国で教育を受けたインテリ層や富裕家族が中心と なって起こした新興企業が株式公開ブームを生み出しており、またミニ・シリコンバレーと呼ばれる ハイテク集積地域がイスラエルやアイルランドにも誕生している。こうした新興企業の組織運営や彼 らの生み出す技術や発想に、各層から期待が強まっている。 ③大企業の構造打開運動、金融機関の積極化 構造問題の打開に苦しむ大企業では、ベンチャーやベンチャー的な経営システムへの注目度が高ま っている。金融機関も、成長企業との金融取引拡大に一段と注力するようになっている。 ④地域、大学等の打開策 地方の自治体・経済団体や、大学、研究機関でも、ベンチャー育成を地域経済や産学協同停滞の打 開策とみて関心が高まっている。 このような関心の盛り上がりが、中小企業経営者や起業家候補者の起業意欲も高め、過去2回のベン チャーブームよりも全国的に広がりがみられた。府・自治体のベンチャー振興策や、新規事業法・中 小創造法の認定ベンチャーの増加、民間ベンチャーキャピタルの設立、地方ベンチャー財団の発足、 金融機関のベンチャー融資制度の新設拡充などが実施された。 日本の新規株式公開(IPO)社数の推移   90年 91年 92年 93年 94年 95年 96年 97年 98年 99年 134 128 27 90 150 187 167 144 86 107 00年 01年 02年 03年 04年 05年 06年 07年 08年 09年 10年 203 169 124 121 175 158 188 121 49 19 22 (4)増加する株式公開企業 以上のようなベンチャー支援運動の成果もあってか、 株式の新規公開 (IPO、Initial Public Offering、 35ページ・参考-2)を行う企業の数も次第に増加していった。1996年の新規株式公開会社数は167社と ~ 32 ~
  • 33. 3年連続で100社を超え、1995年7月に新設された店頭特則市場にも初めて2社が新規登録した。しかし ながら、ベンチャーが成長して株式を公開するようになったとはまだ言えず、既に1990年代初頭に売 上が数十億円に到達していたような中堅企業が、第三次ベンチャーブームの中で自社の株式公開の可 能性に目覚めたケースがかなり多かった。 (4)ベンチャービジネスの分布 (1)日本の企業分布 次に、そもそも日本の企業がどのような分布になっているのか。以下は日本の企業構造を簡単に整 理したものである。 ①法人企業の形態 法人企業には、株式会社・合名会社・合資会社・合同会社・相互会社・外国会社という「会社」と、 協業組合、企業組合・医療法人・公益法人・公共法人等のそれ以外の法人がある。法人企業の他に、 個人企業がある。なお、過去には有限会社の設立が認められていたが、2005年(平成17年)制定の新 会社法で有限会社は株式会社に統合されている。 ②法人企業の数 国内の法人企業数を把握している公式統計は、国税庁の「税務統計から見た法人企業の実態」調査 が代表的なものである。これによると、日本の法人企業数は、2008年度時点で株式会社が250万7,661 社、合名会社が4,614社、合資会社が25,173社、合同会社が11,831社、その他54,086社と、合計で約260 万社が存在しており、そのうちの96%は株式会社である。 (2)ベンチャービジネスはどれくらいの数があるのか? では、この中でどれだけベンチャービジネスがあるのか。あるいは、米国ではどのくらいベンチャ ーの数が増えているのだろうか。この問いには誰も明確な答えを出すことはできない。前章で述べた 。 ように、ベンチャービジネスとは明確な定義を持った言葉ではない。極端な話、経営陣が我々はベン チャーだと公言すれば、それがベンチャー企業だともいえる。 とはいっても、正確に把握できないなら、別の手段をみつけられないか。実際、日本においてベン チャーのような新興企業に関する情報や研究の蓄積は少なく、ベンチャーの活動を理解することは難 しい。経済学、経営学の分野では、起業家セクターの研究は始まったばかりであり、論理的な検証を 踏まえた研究蓄積はきわめて少ないのが実態である。 部分的だが、新規事業法と中小創造法の認定企業は、認定条件からしてベンチャー企業と考えて良 いだろう。新規事業法の認定件数は、現在1997年7月末時点で101件の認定実績があり、中小創造法は 同年6月末現在で2,368件の実績がある。新規事業法の認定企業は、認定基準が通産省所管業種が認定 基準であることもあって、大部分が製造業、エレクトロニクス、情報処理の業種で、所管外の通信や 医療・バイオのような企業は含まれていない。中小創造法は各都道府県によって認定され、認定基準 も新規事業法より緩やかであるため、認定企業は新規事業法よりもはるかに多い。95年末には全国で 448件であったものが、 96年には約1200件と一挙に認定件数が3倍近くまで増加し、現在に至っている。 (引用)小野正人「ベンチャー 起業と投資の実際知識」 ) ■設問6 設問6 1. 第二次大戦直後に起業家を多く輩出した背景は何か。 2. 日本においてベンチャーブームは何度起こったか。 3. 第一次ベンチャーブームは、どのような時期と時代背景で起こったか。 4. 第二次ベンチャーブームは、どのような時期と時代背景で起こったか。 5. 日本において、法人企業の数はおよそどれだけあるか。そのうち株式会社はどの位の割 合を占めるか。 ~ 33 ~
  • 34. Ⅲ.ベンチャービジネスの事例(日本) ベンチャービジネスの事例 日本) 事例( (1)どのようなベンチャーがあるか ①創業年代別にみたベンチャービジネス ベンチャービジネスと呼ばれる企業は、日本に数えきれないほど存在する。それらのほとんどは売 上が10億円以下で株式を公開しておらず、一般の人々はあまり名前を知らない企業のグループである。 業績が伸びて株式公開を果たすような企業になると、名前が世の中に拡がってきて有名な企業となっ てくる。だから有名なベンチャービジネスというのは元ベンチャービジネスと呼ぶのが適当だろう。 年代別にみたベンチャービジネスの創業 1945 - 49 年 創業 IPO 195 0 - 54 年 創業 IPO 1955 - 59 年 創業 IPO ソニー 46 58 村田製作所 50 63 理想科学工業 55 89 パイオニア 47 61 ミサワホーム 51 71 ダイエー 57 71 オムロン 48 62 しまむら 53 89 カシオ計算機 57 70 すかいらーく 48 82 浜松ホトニクス 53 96 吉野家 58 90 ホンダ 48 57 堀場製作所 53 71 京セラ 59 71 ワコール 49 64 マツモトキヨシ 54 99 1960 - 64 年 196 5 - 69 年 1970 - 74 年 セガ・エンタープライゼズ 60 88 リクルート 64 92 やまや 70 94 シダックス 60 96 ユニデン 66 86 THK 71 89 ユニ・チャーム 61 76 伊藤園 66 92 モスフードサービス 72 85 セコム 62 74 はせがわ 66 88 ぴあ 72 ファーストリテイリング(ユニクロ) 63 94 ヨドバシカメラ 67 スターツ 72 89 青山商事 64 87 武富士 68 96 コナミ 73 95 CSK 68 80 第一興商 73 95 日本デジタル研究所 68 89 コナカ 73 96 大塚家具 69 80 ハドソン 73 ユニヘアー(アデランス) 69 85 ケーズホールディングス(ケーズデンキ) 73 88 キーエンス 74 87 日本電産 77 88 1975 - 79 年 198 0 - 84 年 1985 - 89 年 スターツコーポレーション 72 89 エニックス(現スクウェア・エニックス) 80 91 スクウェア(現スクウェア・エニックス) 86 94 サイゼリヤ 73 98 フォーバル 80 88 イマジニア 86 96 エイベックス 73 99 エイチ・アイ・エス 80 95 ベンチャーリンク 86 95 ヤオコー 74 88 ビッグカメラ 80 06 アプリックス 86 03 マツモトキヨシ 75 90 ファンケル 81 98 プラザクリエイト 88 94 メルコ 75 91 ジャストシステム 81 97 光通信 88 96 シャルレ 75 90 ソフトバンク 81 94 サンマルク 89 95 松屋フーズ 75 90 ソフマップ 82 01 パソナ 76 07 ベルシステムズ24 82 94 ラオックス 76 85 ケミプロ化成 82 95 イタリヤード 76 95 ゼンショー(すき家) 82 97 アオキインターナショナル 76 87 カプコン 83 90 ドトールコーヒー 76 93 ハイディ日高 (日高屋) 83 96 アスキー 77 89 アイフルホームテクノロジー 84 91 ヤマダ電機 78 00 オークネット 84 91 ソリトンシステムズ 79 07 1990 - 94 年 199 5 - 99 年 2000 - 04 年 NOVA 90 96 ACCESS 96 01 ミクシィ 00 06 アーバン・コーポレーション 90 96 ライブドア 96 00 カカクコム 00 03 グロービス 92 インターネット総合研究所 96 99 テラ 04 09 ザインエレクトロニクス 92 01 スカイマーク (スカイマークエアラインズ) 96 00 グリー 04 08 サワコー・コーポレーション 90 95 サイボウズ 97 00 デジタルガレージ 95 00 楽天 97 00 ヒマラヤ 91 96 一休 98 05 サイバーエージェント 98 00 ディー・エヌ・エー 99 05 ガイアックス 99 05 アンジェス 99 02 (注)各社の社名の右横の数字は創業年(西暦)、その右は株式公開年(西暦)。 ~ 34 ~
  • 35. 有名な元ベンチャービジネスをあげてみこう。そうした企業を知っておくのも学習の一つである。 創業者(起業家)が独力で会社を立ち上げ、株式市場に上場し、売上が5000億円、1兆円を超える堂々 とした大企業がある。ソニー、ホンダ、ワコール、堀場製作所、カシオ計算機といった大企業は、か つてのベンチャービジネスである。一方で、創業してまだ20年経っていない楽天、ディー・エヌ・エ ー、ミクシーといった株式上場企業は、現在も会社全体でリスクに挑戦し新機軸を打ち出す取り組み にチャレンジしており、まだベンチャービジネスの特徴を残している。 こうした元ベンチャービジネスの多くは、事業を立ち上げ、課題に挑戦して、業績を拡大し、現在 は大企業となり名が知られる存在になっている。忘れてはならないのは、同じ時代に立ち上げた企業 は多数あり、上記のような企業は成功して現存しているけれども、事業がうまくいかずに会社が破綻 したり他社に吸収された多数のベンチャービジネスがあったことである。今は会社が残っていないだ けにその記録もほとんどが残されていないのである。 ②高い成長率                 各社の売上高の推移  (単位:億円。連結決算企業は連結ベース) ベンチャービジネスから始まって大 ベンチャービジネス 大企業 企業まで成長した企業は、業績の成長性 年度 ソフト ユニ ヤマダ しま 楽天 DeNA ミク ソニー 新日鉄 ダイエー バンク クロ 電機 むら シィ が他の大企業よりもはるかに高い。売上 90 386 52 279 644 36,908 32,091 22,837 を拡大し、 店舗、 資産、従業員を増やし、 91 438 72 331 777 39,287 32,296 25,010 92 516 143 363 894 39,929 29,514 25,151 現在の地位まで伸びてきたのである。ど 93 641 250 467 998 37,337 27,494 26,537 れだけの成長があったのかをみてみよ 94 968 333 621 1,140 39,834 28,811 32,239 う(右表) 。 95 96 1,711 3,597 487 600 879 1,265 1,286 1,450 45,926 56,631 29,549 30,613 31,570 31,461 2009年度までの最近5年間の売上成長 97 5,133 750 1,620 1,551 0.3 67,555 30,765 31,633 率をみると、ベンチャービジネスのグル 98 5,281 831 2,428 1,757 1.5 67,946 27,594 30,320 99 4,232 1,111 3,322 2,047 6 66,867 26,806 28,471 ープでは、 ソフトバンクが3.3倍、 ユニク 00 3,971 2,290 4,712 2,270 32 1.8 73,148 27,504 29,141 ロが2倍、楽天が6.5倍、ディー・エヌ・ 01 4,053 4,186 5,609 2,545 68 6 0.7 75,783 25,814 24,989 02 4,068 3,442 7,938 2,770 99 10 1.4 74,736 27,493 21,975 エーは16.8倍、ミクシィは18.4倍である。 03 5,173 3,098 9,391 3,006 181 16 3 74,964 29,259 19,936 成長度の高さが実感できるだろう。一方 04 8,370 3,400 11,024 3,263 456 29 7 71,596 33,894 18,338 05 11,086 3,840 12,840 3,629 1,298 64 19 74,754 39,063 16,751 では、大企業であるソニーや新日鉄では 06 25,442 4,488 14,437 3,922 2,033 142 52 82,957 43,021 12,839 成長率が1倍とほとんど伸びていない。 07 27,761 5,252 17,678 4,120 2,139 297 101 88,714 48,270 11,960 経営再建中のダイエーでは0.5倍と半分 08 09 26,730 27,634 5,865 6,850 18,718 20,161 4,118 4,306 2,499 2,983 376 481 121 136 77,300 72,140 47,698 34,877 10,409 9,768 に減っている。ソニーやダイエーは、か (売上高成長率、倍) つて第二次大戦後にスタートした元ベ 04~09年度 3.3 2.0 1.8 1.3 6.5 16.8 18.4 1.0 1.0 0.5 90~09年度 71.6 132.8 72.2 6.7 - - - 2.0 1.1 0.4 ンチャ-ビジネスである。 ②スモールビジネスから成長した新興企業グループ 第1部で説明したように、ベンチャービジネスとは「高い成長を目指してリスクに挑戦する企業」 であるが、そうでない企業群、すなわち、当初の会社は「スモールビジネス」と言われる従来型の中 小企業の形態で立ち上げられて、着実に業容を大きくする中で、ある段階から急成長をとげている企 業も多数存在する。これらをベンチャービジネスと呼ぶかは判断が分かれるところだが、「新興企業」 (emerging company)と呼ぶのが最適である。 こうした新興企業は、自分達はベンチャービジネスとは呼ばないかもしれないが、もともとは創業 者が独力で会社を起こした会社か、同族会社の後継ぎ経営者が新機軸により会社を成長させた企業で ある。その意味では、彼ら経営者は「起業家」である。 このような起業家は全国津々浦々に存在し、その多くでは創業者が零細な中小企業として事業を立 ち上げ、拡大し、難しい状況で会社を存続させ、そしてある段階で事業が成長し、高い成長を続ける ようになっている。こうした新興企業にはどのような会社があるかは、次節(2)のケースの中の企 業では、以下の会社がそのような例としてあげられる。 ・マツモトキヨシ ・ユニチャーム ・ヤマダ電機 ・しまむら ・松屋フーズ ・ハイデイ日高 また、こうした新興企業は大きな雇用を生み出している。国内で積極的に新卒者の雇用を創出して いるのは新興企業であることに注目すべきである。新卒採用予定数をみると、ヤマダ電機は約1600名 、マツモトキヨシが約200名、しまむらが約50名(以上2011年度)の採用数であり、大企 (2009年度) 業と同規模以上の人材採用を行っており、大学生が卒業後にこうした新興企業に入社することも一般 的になっている。 ~ 35 ~
  • 36. ③大学発ベンチャーのグループ 近年は、大学の研究の成果を中心とした「大学発ベンチャー」という起業も段々と活発になってき た。特に、国立大学の国立大学法人化と大学と企業の間の産学連携を強化する流れの中で、文部科学 省や経済産業省の振興政策もあって、大学内の優れた研究をベンチャービジネスに移転して、技術を 製品やサービスのかたちにするプロジェクトが増えている。 2001年には経済産業省が「大学発ベンチャー1000社計画」(平沼プラン)を発表、大学発ベンチャー の数を3年間で1000社設立する計画を打ち出した。2009年3月の経済産業省調査では活動している大学 発ベンチャーは1,809社存在するとしているが、そのうち創出母体となった大学は252校で、トップは 東京大学の125社、ついで筑波大学の76社である。設立された大学発ベンチャーは、理系研究とモノづ くりを得意とする東大・阪大・京大などの旧帝国大学や、筑波研究学園都市にある筑波大学、早慶、 あるいは工業系大学から多くのベンチャー企業が生まれている。 ただし、21世紀になって活発化した大学発ベンチャーは、順調に成長している企業は少ない。2010 年までに株式公開を実現した大学発ベンチャーは20社に留まっており、依然多くの大学発ベンチャー では赤字が続いており、設立企業数も最近2年は減少している(下表) 。              大学発ベンチャーの年度別設立企業数    (経済産業省、H21年3月調査) 年度 ~ H2 H3 H4 H5 H6 H7 H8 H9 H10 H11 H12 H13 H14 H15 H16 H17 H18 H19 H20 設立 54 1 7 8 14 13 15 18 35 50 79 126 146 181 213 247 223 197 128 54 企業数 ■設問7 設問7 1. 1950年代から1960年代に起業家が創業し、現在は大企業となっている会社を5社あげなさい。 2. スモールビジネスからスタートして急成長を実現させた新興企業について、会社を3社あげな さい。 3. 大学発ベンチャーとはどのような企業かについて簡単に説明しなさい。 (参考-2)株式の公開(I P O ) 株式の公開( 株式 ・会社は、株式を公開して株式市場で自由に売買する「公開企業 公開企業」と、株式市場では株を売買で 公開企業 きない「未公開企業 未公開企業」に分かれる。 未公開企業 ・公開企業となるには、一般の多くの投資家が株式を売買できるだけの充分な企業規模と体制に なる必要がある。ベンチャービジネスは創業時にはすべて未公開会社である。 ・会社が株式市場(東京証券取引所等)に自社の株式を登録申請して受理されることを、株式公 株式公 開、もしくは株式上場 株式上場という。英語では I P O (あいぴーおー、Initial Public Offering)と呼ぶ。 株式上場 ・会社が株式市場に自社の株式を登録申請して、市場で株式を売買できるようになると、企業は 自社の株式発行によってさまざまの投資家から資金調達が可能となる。また、企業を立ち上げ た創業者や従業員達は、株式市場に公開することによって、自分達が保有している株式を売却 する場ができることになる。 ・したがって、起業家は、株式公開により自分が持つ会社の株式の価値(株価)が市場で取引さ れる上に保有株式の売却機会が得られるため、こうした経済的な魅力から、株式公開を目指し て頑張る刺激(インセンティブ)が起業家に生まれる。 ・さらには、株式を公開すると、投資家が株式を買うべきかについて会社の価値を検討し、株価 が株式市場の参加者によって決められることになる。一般的には、ある会社の株式が株式市場 で取引できるようになると、未公開の時の株価より高い株価で取引される。 ~ 36 ~
  • 37. (2)ベンチャービジネスの事例 この節では、日本国内のベンチャービジネスについて、第二次大戦以降に起業家が立ち上げて現在 は有名な大企業に成長している会社を中心に、創業の経緯から現在までを概括する。この事例紹介(ケ ース)では、起業家が会社立ち上げる経緯と、事業が成長するきっかけと背景に焦点を当てており、 それ以外の情報は省いている事項が多いことに留意して読んでほしい。 (注)第3部で述べる日本の起業家が立ち上げた企業(トヨタ自動車、パナソニック、ソニー、ホンダ、ダイ エー、リクルート、ソフトバンク、楽天など)はここでは省いている。 A. スモールビジネスから成長したグループ 【ケース ①】㈱マツモトキヨシ ドラッグストア・チェーンで国内トップの会社。主に関東地方 において小規模店舗を、全国の郊外においてロードサイド店舗を 主力に展開している。ドラッグストア事業が中心であり、売上高 の9割以上を占める。本社は千葉県松戸市。 千葉県我孫子市出身の松本清(1909~1973年)が創業者。松本 は薬種商免許取得の後、1932年、23歳の時に「松本薬舗」を開業 した。1954年、有限会社マツモトキヨシ薬店を設立。松本はその 後、県会議員を勤めた後、1969年に松戸市長に当選、無給での勤 務や「すぐやる課」の設置など住民密着行政の先鞭となる。松本清が逝去した後は、長男の松本和那 が同社社長に就任し、 1975年に有限会社マツモトキヨシ薬店から株式会社マツモトキヨシに改組。1975 年当時の保有店舗数72店舗から、1981年には100店舗を達成した。 1987年、上野アメ横店を開店し、都市型ドラッグストアの先駆けとなる。1990年8月、日本証券業 協会へ株式を店頭登録。1994年、郊外型ロードサイド店舗第1号店のドラッグストア柏加賀店開店。同 年、調剤薬局第1号店となる調剤薬局北松戸店開店。1995年、年間売上高がドラッグストア業界第1位 となる。1999年8月、東京証券取引所一部へ上場。2002年、マツモトキヨシポイントカードがスター ト。2007年、持株会社の㈱マツモトキヨシホールディングスを設立し、㈱マツモトキヨシは同社の完 全子会社となる。2009年、大手コンビニエンスストアのローソンと業務提携。2011年1月末現在のグル ープ店舗数は692。売上高は連結3,930億円、連結従業員数5,137名(2010年3月期)。 【ケース ②】㈱ヤマダ電機: 家電量販店日本一 1973年、日本ビクターを退社した宮崎県出身の山田昇(1943年生)が 群馬県前橋市で個人商店「ヤマダ電化センター」を創業。創業時はパナ ソニックの系列家電小売店(ナショナルショップ)であった。本社は群 馬県高崎市。 群馬県を地盤とした郊外型家電量販チェーンとしてスタートし、 1980 年代からは北関東各県の同業である、コジマ(栃木県) 、ケーズデンキ (茨城県)などと、互いの商圏への進出と価格競争で激しく競い合い規 模を拡大した。特に隣県に本社のあるコジマとの対抗心は非常に強く、 互いに近隣に対抗出店するケースもみられた。 1999年、京都府八幡市に関西第1号店を開店し、全国展開に本腰を入れる。2000年9月、東京証券取 引所第一部に上場。上場以降、積極的に規模の拡大を指向しており、その手段の一つとして各地の地 元量販店のM&A(買収)を行っている。2002年に当時トップだったコジマを抜いて家電量販店で国内 ナンバーワンとなり、 2005年2月には、専門量販店としては日本で初めて売上高1兆円を達成している。 現在の出店形態は、郊外型大規模店舗「テックランド」 、都市型小規模店舗「テックサイト」 、都市 型大規模店舗「LABI」の3形態で、47都道府県すべてに出店している。現在のグループ店舗数は1000 を越え、売上高は2兆161億円、従業員数は12,235人(2010年3月期、連結)の業容であり、日本の家 電販売額トップの小売店となっている。 一方、消費者側や従業員の満足度は高くない企業でもある。日経ビジネス2008年7月号の消費者満足 度ランキングで業界16社中の最下位と報道されたことに対して、ヤマダ電機は発行元の日経BP社を提 訴する事態が起こっている。 ~ 37 ~
  • 38. 【ケース ③】㈱しまむら: 埼玉の雄 郊外を中心に多数の店舗を持つ衣料品チェーンストアを展開する会社で、 普段着などの実用衣料を安価で販売し、ファストファッションのブランドと して認知されている。本社は埼玉県さいたま市北区。 1953年、埼玉県小川町において地元出身の島村恒俊(1936年生)が「島村 呉服店」を設立。商品回転率をもとに品揃えを考えるべきと考え、セルフサ ービスによる販売手法を展開し、既製品、婦人ブラウスから寝具まで総合的 な品揃えの店となった。 将来のチェーンストア時代を先読み、小川町に近いベッドタウンの埼玉県 東松山市へ進出し、 1961年に「しまむら」チェーン1号店を出店する。その後、 東松山店でのノウハウを生かし、鴻巣店(2号店)や小川町前店(3号店)をオープンして成功するな ど、次第に店舗数に拡大していくことになった。 日用衣料のユーザーが多く居住する都市部近郊地域への集中店舗展開と、 1店舗あたりの売場を1000 ~1300m2が最適規模を定め、知名度の向上と運営の効率化が進んで業績が向上していった。また、こ うした業容拡大により、同社専売品やプライベートブランドで安価な製品仕入れを実現し、2010年2 月現在で「ファッションセンターしまむら」は全都道府県に1,162店舗、売上高は4,296億円(2010年2 月期、連結)まで成長している。 しまむらのブランドとしての地位は全国的に定着し、 しまむらの洋服を着る10代〜20代の女性を「し まラー」とまでメディアで呼ばれるほどになっている。 ㈱ヤマダ電機と㈱しまむら 連結売上高の推移 (億円) 20,161 7,000 20,000 6,000 ヤマダ電機売上高(億円、目盛左) 5,000 15,000 4,306 しまむら売上高(億円、目盛右) 11,024 4,000 10,000 3,006 3,000 2,000 5,609 5,000 1,140 530 1,265 1,000 467 0 209 0 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 【ケース ④】㈱松屋フーズ: 吉野家を追う 牛丼などを販売する飲食店チェーン「松屋」を展開している企 業。本社は東京都武蔵野市。 創業者の瓦葺利夫(かわらぶき・としお、1941年生)が早稲田大 学第一商学部卒業直後の1966年に東京都練馬区羽沢の住宅街に 「中華飯店 松屋」を開業したのが始まり。中華の店はなかなか軌 道に乗らず、当時瓦葺が牛丼の吉野家の味に感銘を受けたことや 「ぶっかけ」という牛めしに衝撃を受けたことにより、瓦葺が研 究を重ねて独自の味を完成させ、1968年6月に練馬区の江古田に 牛めし・焼肉定食店として「松屋」1号店をオープンした。 当時は、 築地で営業していた吉野家が新橋に店を出す際に吉野家に入社す るよう誘ったが、瓦葺を断ったというエピソードもある。 同業他社と比較して、牛めし以外のカレーライスや定食の比率 が高いのが特徴である。これはチェーンがスタートした当時の拠 点でった江古田の立地から考えて、昼間の時間帯は大学の学生向 けの牛めし、夕方以降は独身サラリーマン層向けに定食とカレー ~ 38 ~
  • 39. が必要と考え、 「牛めし」「定食」「カレー」の三本柱でメニューを構成することにしたもので、その後 も現在までこうした多種類のメニユー構成が続いている。芸能人の中にも、松屋ファンが多く、番組 のトークで松屋の牛めしが良く出てくる。い。なお、店入り口の近くにある自動販売機で食券を購入 するシステムを採用している。 1975年に個人事業から有限会社に移行。1990年10月、店頭市場に登録。2000年に300店舗出店達成。 2004年に中国青島に進出した。同社は、2010年現在は店舗数が800店を越え、売上高は624億円(2010 年3月期、連結)である。 【ケース ④】㈱ハイデイ日高: 日本一のラーメンチェーン 390円の中華そばを代表メニューとする低価格ラーメン チェーン「中華食堂日高屋」を展開する企業。本社は埼玉 県さいたま市。 埼玉県日高市出身の神田正 (1941年生)が中学校卒業後、 本田技研などに勤務の後、ラーメン店従業員として働く。 1973年、神田は32歳の頃に独立し、大宮市に5坪のラーメ ン店「来来軒」をオープン。1975年、神田は会社員が昼食 を外でとるケースが増えた事に気づき、またファミリーレ ストランチェーンの市場規模が拡大した事からラーメン店 でも同様の多店舗ビジネスを展開しようと考える。1978年 に個人事業から有限会社日高商事に移行し、低価格を売り 物とする「中華食堂日高屋」を駅前立地により展開した。 1994年、東京都新宿区に山手線沿線第1号となる新宿歌舞伎町店を出店。1999年9月、日本証券業協 会に店頭登録。2002年、100店舗を達成。2004年、埼玉県行田市にセントラルキッチン行田工場を開 設。2008年、200店舗を達成した。 店舗の立地は、都市部の駅前を中心とした方針を採用している。全店舗で使用する食材を、機械化 された行田工場で一元的に製造し、低コストの食材供給を可能にした上で、価格破壊的ともいえる300 円台のメニユーを多数そろえ、 「中華料理の安売り」 を実現している。その戦略は過去に「餃子の王将」 が展開していたが、ハイデイ日高はこれを首都圏で確実に実現したところに評価がある。同社のメニ ューは、低価格なだけではなく、飽きられにくいシンプルなものにし、さまざまな客層が継続して来 店するようにしている。 このような経営展開が奏功し、現在の同社の売上高は226億円(2010年2月期)と、全国一のラーメ ンチェーンに成長した。 ■設問8 設問8 1. 本節で解説した「スモールビジネスから高成長をとげた新興企業のグループ」には、ど のような特徴があるか。自分の考えを簡単に述べなさい。 2. また、これらのグループは、どのような時代背景を活用して成長したと考えるか。2つの 時代背景をあげなさい。 3. 以上で取り上げた4社のうち1社を取り上げ、自分自身の視点から、会社としての強さ・長 所、および会社の問題点・課題をあげなさい。 ~ 39 ~
  • 40. B. 新機軸を作りだしたグループ 【 ケース ⑥】ユニ・チャーム㈱:女性進出の隠れた役割 紙おむつ、 生理用品などの衛 生用品の大手メーカー。 紙おむ つではシェア日本一。 本社は東 京都港区。 愛媛県川之江市 (現四国中央 市)出身の高原慶一朗(1931 年生) 大阪市立大学商学部 は、 を卒業後、関西紙業に入社。 1957年、父親の経営する国光 製紙に移り専務に就任。その後、1961年に自ら大成化工㈱を設立し建材の製造販売を開始。創業当時 は建材製造の会社であった。 1963年、大成化工で生理用ナプキンの製造販売を開始し、この生理用品が現在のユニ・チャームの 基礎を築いた。当時、高原がアメリカ視察旅行をしたときに、生理用品が他の商品と同じように陳列 され、恥ずかしそうに振る舞うことなく女性が購入する姿に衝撃を受け、日本でも同様な女性専用用 品が成長すると確信し、家業である製紙業の製造技術を活かして生理用品製造への進出を決意したと 高原は言っている。また、高原が社内で生理用品の開発を発表した時は、社員が猛反発し、退職者が 続出したという。 1974年、ユニ・チャーム㈱に社名変更、同年にタンポンの製造販売を開始する。1976年、薄型ナプ キンの「チャームナップミニ」を発売し、テレビCMが好評でヒット商品となる。同年、東京証券取引 所市場第二部に株式上場。1984年、 台湾に合弁会社を設立。1992年、はかせるオムツ 「ムーニーマン」 を発売し、テレビCMで話題になりヒットした。2006年に本社を東京都へ移転した。 現在の同社は、連結売上高3,568億円、連結従業員数7,086名(2010年3月期)の企業にまで成長して いる。ユニチャームは、過去は古い価値観から表立って積極的に製造販売していなかった生理用品に ついて高品質の製品開発を進め、また一般女性に堂々と購入してもらうマーケティングを推進した。 同社は、日本の生理用品を世界一の品質で普通に使われる日用品まで高め、また消費者や一般世間に 対する意識変革は女性の社会進出を支える脇役となった。タブーや偏見を打ち破るという観点からみ れば、同社が実現した新しい機軸は歴史的なものといえる。 【ケース ⑦】㈱パソナグループ: 人材派遣の先鞭をつける 日本における人材派遣サービスの 先駆けとなった企業である。本社は 東京都千代田区。 兵庫県神戸市出身の南部靖之 (1952年生)が関西大学在学中に、 「家 庭の主婦の再就職を応援したい」と いう思いで卒業直前の1976年2月、 大 阪市北区に人材派遣会社を主業務と する㈱テンポラリーセンターを設立。当時、オイルショックの影響もあり、各企業ともに経営縮小を 余儀なくされており、南部の派遣ビジネスは企業から歓迎され、事業は急成長を遂げる。1986年7月、 労働者派遣法の施行により、一般労働者派遣事業許可を取得。1993年、社名を㈱パソナに変更。1999 年、本社を東京都千代田区に移転。2001年12月、大阪証券取引所のナスダック・ジャパン市場(現 ヘ ラクレス)に株式を上場した。 新卒派遣を始めたのはパソナが元祖である。最初の頃は面接試験や筆記試験を選抜した卒業前の学 生に何万円の学費を先に払わせビジネスマナー講座やOA講座を受けさせたために、一部の大学の就職 課からは問題企業の扱いをされたこともある。 現在は、グループ各社を㈱パソナグループに統合し、同社は、アデコ、スタッフサービス、リクル ートスタッフィング、マンパワー・ジャパンと並んで、人材派遣業では国内ではリーディングカンパ ニーの一つとなっている。 現在のパソナグループは、連結売上高1,835億円、連結従業員数3,925名(2010 年5月期)である。 ~ 40 ~
  • 41. 【ケース ⑧】㈱ファンケル: 無添加化粧品の通販 化粧品・健康食品の通信販売を主力とするメーカー。本社は 神奈川県横浜市。 三重県出身の池森賢治(1937年生)が、産業能率短期大学を 中退後、ガス会社などを経てコンビニエンスストアを経営する がうまくいかなかった。 創業のきっかけは、池森の夫人の「化粧品アレルギー」であ った。夫人との会話で池森は問題意識を持ちはじめ、皮膚科に 駆け込む女性の7割は化粧品が原因の接触性皮膚炎と医者から 聞き出し、また化粧品メーカーの知人からは化粧品の品質を維 持するために防腐剤・殺菌剤・酸化防止剤を必要悪として入れ ているという情報を得た。池森は化粧品に含まれる防腐剤と肌 障害の関係に着目した。当時は、化粧品によって引き起こされ る肌トラブルが社会問題になっており、こうした検討から池森は、ビジネスのチャンスありと考え、 化粧品業界で初めての「無添加化粧品」事業を企てた。 1980年、池森は「ファンケル化粧品」を創業し、無添加化粧品の通信販売を開始した。1981年、個 人事業として営業していたファンケル化粧品から会社組織に移し、㈱ファンケルを設立した。池森は 専門家に「香りも無く、ちっぽけな薬みたいな化粧品が売れるはずがない」と一笑に付されたという が、化粧品には添加物が入っていることが常識だった当時、 「一週間使い切り」のアンプル瓶に入った ファンケルの化粧品は、肌トラブルに悩む女性の支持を受けてファンケルの売上は拡大した。この結 果、1990年、1992年には日経流通新聞において通販企業・顧客サービス度の第1位を獲得している。 創業以来、無添加にこだわりつづけ、 「無添加スキンケア」「無添加クリアチューン」「無添加ベー 、 、 シックライン」を主力製品として展開した。バブル経済の後、売上が伸び悩んだ時にも、 「顧客が必要 な数だけ売る」コンセプトに立ち返り、購入金額を大きくするためのまとめ買いサービスを止め、商 品の1本売りのような小口化を断行。1997年には、返品を期限なしで受け付ける「返品・交換の無期 限保証」を始めた。スタートした当時は社内で反対が強かったものの、結果的に新規顧客の増加と定 着率のアップにつながった。 さらに、1994年、健康食品がまだ高価だった当時、ファンケルは高品質・低価格をセールスポイン トとしたサプリメントの通信販売を開始し、健康食品を一気に身近なものにした。1998年11月、日本 証券業協会に株式を店頭公開。1999年12月、東証一部に上場した。 現在の同社は、連結売上高995億円、連結従業員数1,328名(2010年3月期)に成長している。無添加 化粧品を通信販売で市場に広げ、またサプリメント健康食品を日本国内の消費者に認知させたことは、 ファンケルによるところが大きいといえる。 【ケース ⑨】アスクル㈱: 親会社を超えた新規事業 大手事務用品メーカーであるプラス㈱の子会社で、 事務用品を 中心とする通信販売会社。インターネット・コマース(EC)の 成功事例として知られる。 アスクルはプラス㈱の社内新規事業として生まれた。 同社の製 品を既存の流通経路とは別に直販するための社内プロジェクト が起源である。1993年、プラス㈱の社内組織であるアスクル事 業部が、首都圏の事業所を対象にアスクル事業を開始した。 インターネットが商用化された中で、アスクル事業部は1997 年3月にインターネットを利用した事務用品の受注を開始。1997 年5月、プラス㈱はアスクル事業部を分社化し、同社の子会社を アスクル㈱と社名変更し、アスクル事業を営業譲渡した。 アスクルは、それまでになかった新たな市場を開拓した。アス クルのビジネスモデルは、文房具やOA機器などのオフィス用品の注文を、企業からインターネットや 電話・FAXで受け付け、原則翌日に届ける(=アスクル、明日来る)というものである。小規模な事 業所をターゲットにしたオフィス用品の小売りである。大企業の場合、出入りの業者の営業員が各部 ~ 41 ~
  • 42. 署を回って注文を取ったり、担当部署が各部の注文を取りまとめてくれる。しかし小規模な事業所の 場合、IT機器の普及でこまごまとした事務用品の必要品数が増えていたにもかかわらず、そのような サービスを受けられず、文房具店に出向いて購入することを余儀なくされていた。国内の企業の大多 数は中堅・中小であり、客先に出向いて受注するコストは大きい一方で、全体マーケットは大きく、 通販方式で小口注文を拾えば莫大な販売額になることに気づいたことに、アスクルの先見性があった。 アスクルのビジネスモデルは、単純な直販とは異なる。取り扱い製品を掲載したカタログの配布、 顧客からの注文受け付け、注文品の配送はアスクルが行い、アスクルが在庫を抱える。しかし、新規 顧客の開拓と料金の徴収はアスクルではなく、アスクルと提携したオフィス用品の小売店が行ってい る。全滅するというイメージがあった町の文具店をアスクルの代理店として販売システムに取り込み、 メーカーと小売の共存共栄が図られている。 2000年11月、アスクル㈱は、ジャスダック市場に株式を上場。現在ではアスクルの登録顧客数は200 万を超えている。現在のアスクルは、連結売上高1,889億円、連結従業員数769名(2010年5月期) 。分 社した親会社であるプラス㈱の単独売上高(約800億円)に比べれば倍以上の規模に成長している。          各社の連結売上高の推移   (億円・年度ベース) 年度 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 アスクル 107 226 471 753 925 1,086 1,278 1,446 1,617 1,763 1,897 1,905 1,890 パソナグループ 1,080 1,338 1,356 1,570 1,792 2,038 2,312 2,369 2,187 1,835 ユニチャーム 2,063 2,102 2,121 2,067 2,231 2,401 2,461 2,704 3,019 3,369 3,478 3,568 ■設問9 設問9 1. ユニチャームが展開した新しい機軸とは何か。それは時代の中でどのような意義があっ たか。 2. ファンケルが展開した新機軸とは何か。それは消費者にどのようなニーズがあったから か。 3. アスクルは大企業の新規事業組織から始まったが、事業を展開する上で、アスクルおよ び親会社であるプラスにとっては、どのようなリスクがあったと考えるか。 4. 新しい発想により事業を立ち上げる場合、常識や価値観はどのような障害をもたらす か。上の4社から一つの事例を抽出して述べなさい。 5. 時代のニーズを取り入れて新しい事業を始める場合、企業において何が必要だろうか。 自分自身が考える重要な点をその理由とともに論じなさい。 ~ 42 ~
  • 43. C. ハイテクベンチャー、ネットベンチャー 【ケース ⑩】ザインエレクトロニクス㈱ 日本を代表する半導体メーカーのベンチャー。液晶テレビ向けを中 心にディスクリート、ASICの設計、開発、供給を行っている。本社 は東京都千代田区。 茨城県土浦市出身の飯塚哲哉(1947年生)が創業者。飯塚は、1971 年に東京大学工学部物理工学科卒業、 1975年に大学院博士後期課程修 了(工学博士) 。1975年、東芝へ入社し、半導体設計に携わる。東芝 時代にアメリカへ転勤し、 現地のヒューレット・パッカード社に出向。 そこでシリコンバレーの考え方に衝撃を受けたのが起業を考え始め たきっかけという。 米国から帰国した1980年代半ばは日本の半導体黄 金時代であり、飯塚も東芝の仕事が面白いために独立しなかった。飯 塚は43歳の若さで同社の半導体技術研究所 ・開発部長に昇進したが、帰国後10年経ち起業を決意した。 1991年5月に前身となる㈱ザイン・マイクロシステム研究所を設立し、当初は東芝時代の技術とノウハ ウを活かしたコンサルティングを中心にしていた。 以下は、飯塚が起業当時を振り返った言である。 起業して感じた点は、起業は会社で行き詰まったためだととらえる人が多かったことです。アメリカでは優秀な学生 ほど起業する傾向がありますが、日本では大学卒業後、官庁や大企業への就職を優先するケースが未だに多いですよ ね。個人的には、そのような起業に対する認識というか風潮が、日本の低迷期につながったのではないかと考えてい ます。 1992年、㈱ザイン・マイクロシステム研究所と三星電子㈱(韓国)との合弁により、東京都中央区 にザインエレクトロニクス㈱を設立。飯塚は、8年の間三星電子との合弁会社を経営したが、1997年に 合弁を解消した。合弁解消後は、ザインエレクトロニクスで、自社ブランドによる液晶ディスプレー 向けデジタル信号処理チップのサンプル出荷を開始した。同社は、工場を自前で持たずに、設計・企 画・開発に特化するファブレスメーカーに挑戦した。しかし、製品の開発受注は簡単には入らず、飯 塚は昼間は下請けの受注開発、夜に独自に新製品開発を行ったという。 1998年、同社は、液晶ディスプレイ向けデジタル信号処理チップ (システムLSI)の量産出荷を始め、 半導体ファブレスメーカーのビジネスモデルが動き始めた。同社の製品技術が世の注目を集めはじめ、 2000年にはニュービジネス協議会 「ニュービジネス大賞」アントレプレナー大賞最優秀賞を受賞、 2001 年には「LSIデザイン・オブ・ザ・イヤー2001」のデバイス部門優秀賞を受賞した。2001年8月、ジャ スダック市場へ株式を上場した。 ファブレスメーカーの事業を開始して5年後の2002年度には年間売上高が100億円を越え、日本の半 導体ファブレスメーカーで数少ない成功例となったが、 その後2005年度には売上高が200億円を越えた が、2007年以降の半導体不況による受注減少の打撃を受けて、2008年度は売上高が最盛期に比べて半 減し苦闘しているが、半導体景気の回復の中で復活の途上にある。 (参考)「NHKプロフェッショナル 仕事の流儀-飯塚哲哉」(2006年8月24日22時放送) ザインエレクトロニクス㈱ 業績の推移      (億円) 年度 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 売上高 1.9 0.3 3.6 20.9 46.9 66.2 120 131 156 218 212 140 97 120 経常利益 0.4 0.1 0.1 1.3 9.0 10.9 16.7 13.9 22.4 26.7 14.4 15.2 7.6 20.0 【ケース ⑪】アンジェスMG㈱ 遺伝子医薬の開発を行う日本のバイオ製薬企業。大学発の創薬バイオベンチャーとして初めて株式 を上場。本社は大阪府茨木市の彩都バイオインキュベータ内にある。 岡山県出身の森下竜一(1962年生)が創業者。森下は祖父母から医者という家系で育ったが、高校 時代はあまり医者になる気はなく、どちらかと言えば官僚を考えていたという。1987年に大阪大学医 学部を卒業、1991年同大医学部老年病講座大学院を修了。1991年に米国スタンフォード大学循環器科 ~ 43 ~
  • 44. 研究員として米国に滞在。1998年に帰国し阪大医学部助教授に就任した。アメリカ滞在時代に、アメ リカの医学研究は患者に還元されて初めて成り立つというシンプルなシステムにあることが重要な原 則だと改めて感銘を受け、新薬の実現によって患者に還元しようとしない日本の医学界に問題意識を 持ったという。 1999年、遺伝子治療薬などの機能解析を行う研究用試薬の研究開発を目的として、大阪府和泉市に ㈱メドジーンを設立、2000年にメドジーン・バイオサイエンス㈱に商号変更。2001年、アンジェスエ ムジー㈱に商号変更。2002年 9月に東京証券取引所マザーズに上場。2004年3月、アンジェスMG㈱に 商号変更。2004年 9月、本社を大阪府茨木市に移転。 同社は以下の3つのプロジェクトを事業の柱としている。①HGF遺伝子治 療薬(創薬プロジェクト。HGF遺伝子を患部に投与して血管の新生を促し、 末梢性血管疾患や虚血性心疾患の治療を行う) 、②NFκBデコイオリゴ(創 薬プロジェクト。 免疫反応を強める遺伝子のスイッチである転写因子NFκB に対するデコイを投与して、アトピー性皮膚炎・関節リウマチなどの免疫炎 症性疾患の治療を行う) ③HVJエンベロープベクター 、 (ベクターを活用し、 遺伝子治療薬への応用や薬剤吸収を促進してドラッグデリバリーシステム のツールとして活用する) 。 しかし、 2002年に株式を上場した後も大幅な赤字経営が続いている企業で あり、売上増が見込めず巨額な研究費負担が重荷になっている。また同社の HGF遺伝子治療薬は計画よりも遅延を繰り返し、2008年3月に厚労省に製造 販売の承認申請を行うが、2010年10月に認可は差し戻されている。           アンジェスMG㈱の業績の推移      (連結、単位:億円) 年度 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 売上高 0.0 0.5 13.0 17.9 24.5 27.0 24.3 29.1 17.2 9.5 5.9 2.9 経常利益 0.0 0.0 2.8 -5.6 -9.5 -15.6 -18.7 -11.4 -17.3 -25.4 -27.8 -19.1 当期利益 0.0 0.0 1.5 -5.6 -9.8 -15.4 -19.1 -11.1 -17.3 -35.3 -29.2 -19.7 【ケース ⑫】㈱ミクシィ 日本国内最大のソーシャル・ネットワーキン グ・サービス (SNS)である「mixi」を運営する 企業。本社は東京都渋谷区。 大阪府箕面市出身の笠原健治(1975年生)が 創業者。父親は大学教授、母親はピアニストの 家庭に育つ。 1994年、大阪府立北野高校を卒業後、東京大 学文科二類に入学。 笠原は東大3年在学中の1997 年、大学の経営戦略のゼミが刺激となり、夏休 みに求人情報サイト「Find Job!」を開設したと いう。この時期の時代背景を振り返ってみよう。 1995年にインターネットの商用化が始まり、 1996年にはアメリカではYahoo!が株式を公開し、インターネットブームが本格化した。日本でも第3 部で述べるように、元ライブドアの堀江貴文は1996年に前身のオン・ザ・エッジを設立し、楽天の三 木谷浩史は1997年に楽天の前身であるエムディーエムを設立した。こうしたネットベンチャー創業の 盛り上がりの時代に、笠原は大学生として身を置いていた。 1999年、笠原は有限会社イー・マーキュリーを設立し、同年11月にインターネットオークションサ イト「eHammmer」をオン・ザ・エッジ(堀江貴文が社長、ライブドアの前身)と共同で設立した。 2000年、イー・マーキュリーを株式会社化。eHammmerのオークション運営権を売却。2001年、笠原 は入学から7年が経て東京大学経済学部を卒業した。 2004年2月、イー・マーキュリーは「mixi」サービスを開始した。サービス名の由来は、「mix」と 「i(人) 」を組み合わせた造語であるという。mixiは、既に入会している登録ユーザーから招待を受け ~ 44 ~
  • 45. ないと利用登録ができない完全招待制を採用 ミクシィ会員数会員数の ミクシィ会員数の推移(万人) 2,500 していた。各ユーザーの素性が明らかになり、 安心感のある居心地の良いコミュニティを維 2,000 持するという目的で採用したもの。2010年3月 より招待状無しでも参加できる登録制となっ 1,500 たが、 招待制も引き続き使用している。 メール アドレスについてはPCのメールアドレスを持 1,000 っていないと登録できなかったが、2006年12 500 月より携帯電話のメールアドレスでも登録可 能となった。また当初は18歳未満の参加は禁 0 止していたが、2008年12月より15歳未満に引 05/1 06/1 07/1 08/1 09/1 10/1 11/1 き下げられた。 2006年、㈱イー・マーキュリーの商号を㈱ミクシィに変更。2006年9月14日、東京証券取引所マザ ーズに株式を上場した。上場前の2006年3月期決算の売上高は18.9億円であったが、上場直後の時価総 額(初値ベース)は2079億円となり、ミクシィは上場により64億円の資金を調達した。 2007年5月、ユーザー数が1000万人を突破。2010年4月、ユーザー数が2000万人を突破。2010年9 月、mixiアプリのスマートフォン版を開始。中国・韓国のSNSとの業務提携を発表。現在は、連結売 上高136億円、連結従業員数318名(2010年3月期)である。現在の笠原社長は若干35歳である。 ●各社の株価の推移 この3社について株式上場後の株価をみたものが下図である。一見してわかるように、上場直後と現 在を比較すると3社とも株価は下がっている。もちろん、株式相場全体から株価をみる必要があるが、 日本国内の株価が停滞しているとはいえ、 ザインエレクトロニクスの株価は上場直後から2011年2月ま でに21%下落し、同じくアンジェスMGは79%、ミクシィは71%下落している。こうしたベンチャー ビジネスが株式を公開しても、業績や行動が伴わなければ、投資家の期待はしぼみ、株価が急速に下 落することを3社の株価は示している。 株価の推移(株式分割調整後、単位:円) 2,000,000 ミクシィ ザインエレクトロニクス 1,500,000 アンジェスMG 1,000,000 500,000 0 02/1 03/1 04/1 05/1 06/1 07/1 08/1 09/1 10/1 11/1 ■設問10 設問10 1. ハイテクベンチャーの創業者は、どこで起業するきっかけをつかむことが多いかを、上 のケースの例から示しなさい。 2. ベンチャービジネスの経営が順調にはいかないことを、上のケースの例から示しなさい。 3. ミクシィ創業者の笠原が創業のきっかけをつかんだ時は、どのような時代環境だったか を述べなさい。 ~ 45 ~
  • 46. Ⅳ.ベンチャービジネスの事例(アメリカ) ベンチャービジネスの事例 アメリカ) 事例( 1.全体観 (1)アメリカに企業はどれだけあるか アメリカには2千万社もの企業が存在している。企業を広義に考えて、セルフ・エンプロイドや副 業として行われているビジネスを含めた企業数をみてみよう。米国で企業といえば、①常勤従業員を 有する企業(corporation)、②組合、合資会社(partnership)、③個人事業主(proprietorship)の3 種類に分けられる。これらの企業数を内国歳入庁の納税申告(1991年)から集計すると、それぞれ437 万社、 165万社、1,463万社と合計で2,000万社強の企業が存在するが、 個人事業主が圧倒的多数である。 フルタイムで雇用する従業員を1名以上持つ企業は、1995年時点で約600万社存在しているが、この うち従業員が500名を超える大企業は1万4千社 (従業員を1名以上持つ企業の1.5%) 従業員数が100 で、 名未満の企業が519万社(同98.4%)と、企業数でみればほとんどを占めている。従業員数のシェアで みると、従業員が500名を超える大企業の雇用者数は全体の47.3%、従業員数が100名未満の企業は 38.1%となる。 (2)セルフ・エンプロイドとSOHO このようなあまたの企業群のうち、ベンチャービジネスは中小企 業の中にある氷山の一角にすぎない。ともすればハイテクの目新し いベンチャーが注目されるけれども、アメリカのビジネスはごく普 通の小企業が支えているのである。 2千万を超えるアメリカ企業では、一家で家業として営んでいる 「パパママ・ストア」や「ファミリー・ビジネス」 、そして脱サラに よって家庭にオフィスを構えているような企業が大多数を占めてい る。常勤の従業員を雇っている企業は2千万社のうちの600万社で あり、 残りのほとんどはいわゆる個人事業主 (自営)である。事実、 アメリカにはフルタイムで働くセルフ エンプロイド ・ (個人事業主) が約900万人、パートタイムのセルフ・エンプロイド(日本でいえ ばサイドビジネス)が約600万人も存在する。将来は従業員を雇っ て中小企業の仲間入りを期する「中小企業の候補群」が、このよう なセルフ・エンプロイドであり、その数は常勤従業員を有する企業 の2.5倍も存在する。こうしたセルフ・エンプロイドは70年代末以降 現在まで一貫して増加している。 また、セルフ・エンプロイドと重複する概念であるが、個人や少 数のグループで会社を作って自宅や小さなオフィスで事業を営むSOHO (Small Office, Home Office) も増加している。米民間調査機関によると、自営業・被雇用者等のホーム・オフィスを構える人口は 1994年には4,320万人に達し、最近5年間で7割近くも増加しているという。中でもテレコミューター と呼ばれる「サラリーマンの在宅勤務」が急増している。 (3)高い開業率・廃業率 アメリカの中小企業では、実に多くの新規参入と退出が繰り返されている。毎年アメリカの企業全 体の十数パーセントにあたる70~80万社の企業が設立されているけれども、その一方で新規設立件数 と同レベルの廃業が起こっている。この開業率十数%という数値は、日本の開業率5%の3倍にあた る。つまり、アメリカの企業は多産多死の世界であり、 我々 が名前を聞くようなハイテクベンチャーや高成長企業はご く一部にすぎない。 (4)株式を公開するハイテクベンチャーはごく一部 実際、これら企業の中でベンチャーキャピタルから出資 を受けているような企業の割合は極めて低い。全米のベン チャーキャピタルが投資するベンチャーは年間1,000社前 後、その中で新規に投資する会社は300社程度にすぎない。 また、このようなハイテクベンチャーでも、さらに高成長 を実現してIPOまで到達する企業は、沢山あるベンチャ ービジネスの中でも実に少数である。 ~ 46 ~
  • 47. 2.ベンチャービジネスの事例 アメリカのベンチャービジネスは、先にみた日本と同じように、ハイテクベンチャーやネットベン チャーばかりではなく、スモールビジネスやセルフ・エンプロイド(個人事業主)が大多数である。 世界118ケ国に3万店を持つマクドナルドであっても、1940年にマクドナルド兄弟がカリフォルニア 州でスピード・サービスのハンバーガー店を始めた時は兄弟の個人事業であった。世界最大のスーパ ーマーケット・チェーンであるウォルマートも、創業者のサム・ウォルトンが1945年にアーカンソー 州ニューポートでベン・フランクリン雑貨店という個人商店を開いたことに始まる。 ベンチャービジネスの多くは、個人事業やスモールビジネスからスタートするのである。一方で、 ハイテクノロジーやネットベンチャーの場合は、事業の成長性が他業種よりも高い一方でリスクも他 より大きく、また資金と優秀な専門人材を必要とする。このため、こうしたセクターでは起業家は、 他のスモールビジネスや個人事業よりも、 「組織的に」事業を立ち上げる。投資家、コンサルタント、 弁護士、会計士、大学等の助言と資金を活用して、高度で洗練された経営基盤(技術、人材、資金な ど)を作り上げてから事業を開始することが多いのである。 ここでは、スモールビジネスからスタートしたベンチャービジネスと、ハイテクベンチャーとネッ トベンチャーの2つに分類して、アメリカの代表的な事例をみていこう。 A. スモールビジネスから成長した企業 【ケース ①】マクドナルド(McDonald's Corporation) ハンバーガーショプを118ケ国に約3万店を展開し、 外食 産業では世界最大の企業である。 この世界有数のグローバル大企業をベンチャービジネ スと言うと、奇異に感じるかもしれない。もともとはマク ドナルドの創業者であるマクドナルド兄弟(モーリス・マ クドナルド(1902-1971年) 、リチャード・マクドナルド (1909-1998年) )が、1940年にカリフォルニア州サンバ ーナーディノで、工場式のハンバーガー製造、スピーディ ーなサービス、セルフサービス、という新しい仕組みによ って、 個人経営のドライブイン・ストアを開始したことが 起源である(右下の写真) 。 1954年、日用雑貨のセールスマンをしていたレイ・ク ロック(1902-1984年)が、ミキサーを売りに兄弟の店に やってきた時、 マクドナルドの仕組みについて興味を持っ た。 マクドナルド兄弟の店はハンバーガーを作る時間も客 に販売するまでの時間も他店より圧倒的に速く、 多くの客 を次々とさばけることに感心したクロックは、 店をフラン チャイズ形式にする商売を兄弟に勧めた。 兄弟はフランチ ャイズで事業を拡げることには消極的であり、 結局クロッ クが店の技術 ノウハウのフランチャイズ権とマクドナル ・ ド商標の権利を兄弟から買い取った。1955年、クロック はMcDonald's Systems Inc.という会社を設立し、シカゴに直営1号店をオープンさせた。1960年には 社名をMcDonald's Corporationに変更した。 クロックは、立ち上げたマクドナルドのチェーンを順調に拡大することができた。店の生産性だけ ではなく、家族向けの外食、特に子供を対象に重視したことが1960年代の時代の流れに適応した。家 族向けのマーケティングのために、業界で先駆けてキャラクターとテレビCMを活用した。サーカスの 道化師をキャラクターに採用して「ロナルド・マクドナルド」という名前で売り出し、大ヒットした。 当初、クロックとマクドナルド兄弟との契約は、兄弟が生産工程について責任を負い、クロックが 販売拡張の責任を負うことになっていたが、事業の拡大で裕福になった兄弟は、兄の引退も理由とな って、 1961年に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡した。 クロックは長い眼で見れ ばメリットがあると判断し、多くの投資者から出資金を集めてこれを支払った。 以後、McDonald's Corporationはクロックのグループが所有し経営する会社となり、1971年に東京 銀座に第 1号店を開店するなど 、世界中にフランチャイズを展開して いる。現在のMcDonald's Corporationは年間売上高が240億ドル(約2兆円) 、本社はイリノイ州オークブルック市にある。 ~ 47 ~
  • 48. 【ケース ②】ケンタッキー・フライドチキン(KFC Corporation) 「ケンタッキー・フライドチキン」のブランドで、ファストフ ードチェーン店を運営するアメリカ合衆国の企業である。フライ ドチキンのファーストフード店を世界規模で展開し、世界で初め てフランチャイズ・ビジネスを本格的に始めた企業である。 創業者は、カーネル・サンダース(本名はハーランド・サンダ ース、1890年~1980年)は、アメリカ・インディアナ州ヘンリー ビルに生まれる。6歳の時に父親が亡くなり、幼い弟、妹の世話を させられる。学校を7学年で中退して働き始め、15歳の時に母が 再婚した相手から暴力を振るわれ家出をした。16歳の時に年齢を いつわって米軍に入り、一兵卒としてキューバで勤務していた。 彼の軍隊における経歴は一兵卒であり、彼のニックネームである カーネル(大佐)にはなっていなかった。その後、サンダースは、 路面電車の車掌を皮切りに、軍隊、消防士、保険外交員、船の仕事、タイヤ売り、ガソリンスタンド の店員など、様々な職業を渡り歩いた。 サンダースは、40歳の時にケンタッキー州でガソリンスタンドの一角を借りて食堂コーナーを始め る。店は繁盛し規模を拡大したが、1950年代に入って高速道路の開通で客の流れが変わり、店に客が 入らなくなる。とうとうサンダースは維持できなくなった店を手放し、負債を支払ったカーネルの手 元にはいくらも残らなかった。 店を手放した当時、サンダースに残っていた財産はフライドチキンの調理法だけであった。65歳の サンダースは、フライドチキンの調理法を教える代わりに、売れたチキン1羽につき5セントを受ける という歩合制のフランチャイズ・ビジネスを始める。ワゴン車で各地を回る強行軍ながらビジネスは 成功し、73歳の時にはチェーンは600店を超えていた。 高齢だった彼は、1964年にフランチャイズの権利を売却して第一線から退いたが、以後も会社の広 告塔として働いた。サンダースは「カーネル」の呼称を用い、南部らしい白髪の紳士の装いをセール ス・プロモーションに利用した。同社は現在、世界に36,000のチェーン店を展開しており、年間売上 高5億2000万ドル、従業員数24,000名(2007年)の巨大企業となっている。 【ケース③】ウォルマート(Wal-Mart Stores, Inc.) ウォルマートは、世界最大のスーパーマーケッ ト・チェーン。売上高が世界最大の企業でもある。 アーカンソー州ベントンヴィル市に本社を置く。 創業者サム・ウォルトン(1918-1992年)は第二 次世界大戦直後に軍隊を除隊し、 1945年にアーカン ソー州ニューポートに雑貨店を開いた。 1954年には 弟とディスカウントストアWalton'sを開き、地元を 中心に16の雑貨店を所有した。 ウォルトンの事業は 雑貨店経営に限られていたが、 1962年、 ディスカウ ントストアである最初のウォルマート・ディスカウ ント・シティを、アーカンソー州ロジャーズに開いた。 1969年に個人事業から会社Wal-Mart Stores, Inc.へ移行した。1972年、ニ ューヨーク証券取引所に株式を上場。1990年には全米最大の小売業になった。 1991年にメキシコに海外店舗第1号店を開店。1997年には従業員数が全米最 大となった。 ウォルマートが急激に伸びたのは1960年代から70年代である。 同社は大型 店を地方の町の郊外に出店するという当時の流通業界では異端の経営方式を 採用し、また現在では小売業の潮流ともいえるドミナント方式(特定地域へ の集中的な出店戦略)をいち早く導入するなど流通革命を先導し、物流、情 報を最大限生かした効率的な経営によって、全米最大の小売業となった。 ウォルマートは”Every Day, Low Price”(EDLP)がキャッチフレーズで、 強力な販売網を武器に、他社よりも安い価格で大量に仕入れ、大量に売ると いう大量購入・大量販売の経営モデルの典型例である。特に、1990年代以降 ~ 48 ~
  • 49. は中国で大量にウォルマート専用衣 4,500 200 料や玩具を委託生産し、ウォルマート 4,000 の対中輸入総額120億ドルは米国の対 3,500 ウォルマート連結売上高(億ドル、左目盛) 150 中輸入総額の10%にも及び (2002年時 3,000 ウォルマート連結純利益(億ドル、右目盛) 点) 、同社は中国にとって第8位の輸出 2,500 相手であり、中国のイギリス向け輸出 100 2,000 額を抜くほどの製品を輸入している。 逆にアメリカ国内では「中国からの輸 1,500 50 入でアメリカ国内生産が置き換えら 1,000 れて国内の雇用減を招いた犯人」とい 500 う批判も少なくない。 0 0 2010年現在、同社の連結売上高は 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 、連結従業員 4,050億ドル(約33兆円) 9,000 数206万人の巨大企業となり、米国内 8,000 国外店舗数(店) に約4000店以上、国外に三千数百店を 7,000 米国店舗数(店) 展開している。日本では、2005年に西 6,000 武百貨店グループから西友を買収し子 会社化して事業を行っている。 5,000 サム・ウォルトンは、フォーブス誌 4,000 によると1985年から1988年まで世界 3,000 一の富豪であり、彼の死後も一族は世 2,000 界の長者番付の上位にいる。 1,000 0 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 【ケース④】スターバックス(Starbucks Corporation) アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に世界規模で展開するコー ヒー・チェーン。エスプレッソをメイン商品と、テクアウトと歩き飲 みが可能なコーヒー・チェーンを始め、シアトルスタイルのカフェ・ ブームの火付け役となった。 スターバックスは1971年にシアトルで創業されたが、創業当初はカ フェを持っておらず、コーヒー豆の焙煎会社として事業を行っていた。 1982年、スターバックスの実質的な創業者であるハワード・シュル ツ(1953年生、ニューヨーク州出身)が入社した。シュルツは、コー ヒー等のドリンク販売を新しい事業として行うよう会社に提案するが 受け入れられず、彼はスターバックスを退社し、1986年にシアトルで イル・ジョルナーレ社を設立、エスプレッソを主体としたテイクアウ トメニューの店頭販売を開始した。これがシアトルの学生やキャリア ウーマンの間で大人気となった。1987年、シュルツはスターバックス の 店 舗 と 商 標 を 購 入 し 、 イ ル ・ ジ ョ ル ナ ー レ 社 を Starbucks Corporationに社名変更し、 「スターバックス」 のブランドでコーヒー・ チェーンを拡大した。当時、1980年代後半のアメリカでは、イタリア 流のファッションや食事が流行しつつあり、エスプレッソを主体とす るシアトル系コーヒー・チェーンはブームに乗って北米全土に広がり、 今では世界中にシアトルスタイル・カフェが定着している。 スターバックスは、ソファ中心の座席と落ち着いた照明による長居したくなる店内設計、大通りに 面したオープンテラス方式、店内全面禁煙などのエコロジーを重視したブランドイメージ、カジュア ルでフレンドリーな接客を特徴とし、従来のコーヒーショップとは異なる店舗運営が消費者に受け入 れられ、ブームとなって拡がっていった。 1996年、東京銀座に北米以外では初めての日本1号店を出店した。1995年に日本で子会社として設 立したスターバックスコーヒージャパン㈱は、 2001年10月にジャスダック市場に株式を公開している。 同社は、現在は世界40ケ国以上に店舗を展開し、連結売上高は109億ドル(約9000億円)にのぼっ ている。 ~ 49 ~
  • 50. 【ケース ⑤】ナイキ(Nike, Inc.) ナイキは、アメリカ・オレゴン州に本社を置く、ス ニーカーやスポーツウェアなどスポーツ関連商品を扱 う世界最大のスポーツ用品メーカー。1968年設立。本 社はオレゴン州ビーバートン市にある。 スタンフォード大学で経済学を学んでいた学生フィ ル・ナイトと、オレゴン大学の陸上コーチであったビ ル・バウワーマンが、1968年に前身であるブルーリボ ンスポーツ社を設立し、 日本からオニツカタイガー (現 アシックス)のランニングシューズを輸入し、アメリ カ国内で販売していた。 その後、 二人は、 スポーツ用品の輸入業だけでなく、 独自ブランドでスポーツ用品を製造販売するプランを企画し、独自 ブランドを立ち上げ、オニツカタイガーの競合社であるアサヒコー ポレーション(福岡県久留米市)にトレーニングシューズに生産を 委託し、ナイキのブランド名でスポーツシューズの製造販売を始め た。ナイキの由来は、社員の一人が夢で見た、ギリシャ神話の勝利 の女神ニケ(Nike)から取ったものである。 1971年、ナイキはSwoosh(スウッシュ)のロゴマークをポートラ ンド州立大学でグラフィックデザインを学ぶ女子学生に依頼し、デ ザイン料として35ドルを支払った。現在では世界で最も有名なロゴ マークの一つになっており、広告ではナイキの社名ロゴを出さなく ともこのスウッシュのロゴが出るだけでナイキが想像できるほどに 拡がっている。 ナイキは、製品デザインは自社で行うが、自社工場を持たずに生産を東南アジアの外部工場に委託 している。ナイキのスポーツ用品が急速に売れていったのは、そのブランド戦略とマーケティング戦 略が優れたものであったという評価がされている。プロバスケットボール選手のスーパースター、マ イケル・ジョーダンと契約し、1985年に彼の名を採った「エア・ジョーダン」を発売し爆発的な売れ 行きとなった。その後、ゴルフのタイガー・ウッズ、サッカーのクリスチアーノ・ロナルドと契約し、 世界でナンバーワンのプロスポーツ選手と契約し、そのブランドを全面に押し出すマーケティング戦 略を採用し、また、”Just Do It.”に代表されるナイキのシンプルなCMは、スポーツ用品としての同社 のブランドを世界中に広め、グローバル・ブランドとしての地位を確立した。 一方、委託生産する東南アジアでの工場労働の問題が世界的に批判の対象ともなった。1990年代の 半ばから、ナイキは海外工場において労働力の不当な搾取をしていると噂されていた。1997年、NGO によって実際にナイキのベトナムなど東南アジアに所在する委託工場における児童労働、低賃金労働、 長時間労働、セクシャルハラスメント、強制労働、などの問題点の存在が明らかになる。こうした事 実を知った、アメリカ合衆国のNGO団体および学生たちは、大学キャンパスやインターネットを使用 してナイキの姿勢を批判し、運動は製品の不買や訴訟問題に発展した。これに対し、ナイキは1999年 にグローバル・アライアンスを設立し、世界各国の自社を含む多国籍企業における労働環境の調査を 行い労働環境の改善に対して迅速に取り組めるよう対応している。 ■設問11 設問11 1. 2000万社にのぼるアメリカの企業の大半を占めているのは、どのような業態か。 2. マクドナルドの最初の創業時は、どのような経営方式で、どのような事業を行っていた か。 3. ウォルマートは、どのような経営手段で店を増やし事業を拡大させていったか。 4. ナイキが事業を拡大させる要因となった経営政略を2つあげて説明しなさい。 ~ 50 ~
  • 51. B. ハイテクベンチャー、ネットベンチャー 【ケース⑥】アップル(Apple Inc.) パーソナルコンピュータのMacintosh(Mac) 、携帯音楽プレーヤーのiPodシリーズ、携帯電話の iPhone、タブレット型電子書籍情報端末のiPad、 ソフトウェア製品はオペレーティングシステムのMac OSや統合ソフトウェアのiLifeの開発・販売を行うエレクトロニクス企業である。 1974年、カリフォルニア州サンタクララ郡にある高校同級 ジョブズ(左)とウォズニアク 生のスティーブ・ジョブズ(大学中退中)とスティーブ・ウ ォズニアク(ヒューレット・パッカード勤務)の2人は、地元 のコンピュータマニアの自作製造展示会であった 「ホームブリ ュー・コンピュータ・クラブ」に参加していた。1975年にイ ンテルがマイクロプロセッサーi8080をリリースすると、ウォ ズニアクは1975年10月から半年間かけて設計、1976年3月に 最初のプロトタイプ機を完成させ、 ホームブリュー・コンピュ ータ・クラブでデモを行った。 ジョブズは自分達で売る事を考 えていたが、 ウォズは勤務しているだけに上司に自社開発を提 案したが断られ、結局、自分達でApple Iとして売り出すこと となった。 1976年6月に、電子部品店にApple Iを50台納品し、1台666 世界発のパソコン ”Apple Ⅰ” ドルの価格を設定したが、 当初は売れ行きが良くなかった。 し かし8月を過ぎると売上は好転し、ジョブズとウォズニアクは 徹夜をしながらApple Iを組み立て、8,000ドルを手にした。 Apple Iをさらに大量に販売しようと考えたジョブズは、投資 家のマイク・マークラに会い投資資金提供を申し入れた。 マー クラは、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに 加わった。 マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、 銀行か らもアップル社の融資枠を得た。 1977年1月、 3人はアップル・ コンピュータを設立した。 1977年5月、マイケル・スコットをスカウトし、社長の座に つける。 ウォズニアックはアップルに注力するためにヒューレ ット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカ ラー表示、内部拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほと んど独力で開発し1977年4月に発表する。Apple IIは爆発的に売れ、1980年に10万台、1984年に200 万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。 1980年にアップルは株式公開を果たし、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手 に入れることになった。また、フォーチュン誌で億万長者番付に名を連ねた唯一の20代(当時25歳) となり、コンピュータ業界の天才児としてもてはやされる事となる。Apple IIの大成功は、当時コンピ ューターメーカーの巨人であったIBMにパーソナルコンピュータ市場への参入を決断させる。1981年 にIBMのPCが発表されると、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われていった。 1984年1月に初代Macintoshが発売され、マウス、GUIが付属し、視覚 iPadを発表するジョブズ 的にも動作的にも美しく分かりやすいパソコンとして歴史的なものであ ったが、アップルは需要予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩 まされることになった。この年に同社は初の赤字を計上し、1/5の従業員 削減を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズ だと考えるようになったスカリー社長は、 1985年4月にMacintosh部門か らの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。1985年、ジョ ブズはアップルを退社し、その後に自分でNeXT社を創立した。 1997年、アップルはジョブズのNeXT社を買収し、ジョブズはアップ ルに非常勤顧問で復帰した。 1997年7月に業績不振の責任を追及されたア メリオ社長は辞任し、取締役会はジョブズにCEO就任を要請、ジョブズ は暫定CEOとして就任した。ジョブズは1998年5月にiMacを発表する。 このiMacは無骨なベージュ色の機械ではなく、ポリカーボネイト素材を ベースに半透明筐体を採用した、人間の感性に呼びかけるデザインテー マの製品であった。デザインは視覚的にも訴えかけており、そのカラー ~ 51 ~
  • 52. リングが広く賞賛された。 2001年、それまで主流だったフラッシュメモリ型とは一線を画す、大容量ハードディスクドライブ 型携帯音楽プレイヤーのi Po d を発売。当初は価格の高さにより売れ行きを疑問視する声が少なくなか ったが、直感的な高い操作性と、管理ソフトiTunesとの抜群の連携機能もあり、徐々に売上を伸ばし た。Windows向けiTunesが提供されたころからヒット商品となる。そして廉価版のiPod miniを登場さ せた事で爆発的にヒットする。2003年にはオンライン楽曲販売のiTunes Music Storeを開始、2004年 にはiPodをヒューレット・パッカードにライセンスするなど、携帯音楽市場で独占的地位を確保する に至った。日本でもウォークマンを圧倒し、2003年以降一貫して携帯音楽プレイヤーのシェア1位とな っている。同社は、さらに携帯電話のi Ph o n e、タブレット型電子書籍情報端末のi Pad を発売して世界 に広め、2011年現在は時価総額が世界で第二位の企業にまで成長している。 【ケース ⑦】マイクロソフト(Microsoft Corporation) 1978年当時のマイクロソフト社の アメリカ・ワシントン州に本社を置く世界最大のコンピュ 従業員(前列左端がゲイツ) ータ・ソフトウェア会社。 1975年にビル・ゲイツ ビ (1955年生) とポール・アレン(1953年生)らによって設立された。 ビル・ゲイツはシアトルの弁護士の家庭に生まれ、高校時 代にミニコンを学校から借り、友人のポール・アレンと共に ソフトウェアを作って金を稼いでいた。ゲイツは1973年にハ ーバード大学に入学するが、1975年、世界発のパーソナル・ コンピュータの一つであるアルテア8800を販売していたハー ドメーカーMITS社向けにBASICインタプリタ(プログラム の一つ)の開発契約を結び、ゲイツはハーバード大学を休学 し、MITSの本社のあるニューメキシコ州アルバカーキに移り、 アレンと共に1975年にマイクロソフト社を創業した。 1980年、オフィス向けの汎用コンピューターを主力として いたIBMは、アップルのApple IIの成功を見て、 パーソナル・ コンピュータへ参入を決め、マイクロソフトにOS(コンピュータ Windows 3.1(1992年) のオペレーティング・システム)の開発を依頼する。マイクロソフ トはIBMにPC-DOSというOSを納入した。その後、このPC-DOS をMS-DOSという名前で他社のパーソナルコンピュータにも供給 することにより同社の基礎を作った。 1979年、マイクロソフトはアルバカーキからワシントン州のベ ルビューに移転した。1980年、スティーブ・バルマーが入社し、 後にゲイツの後を継いでCEOとなった。1981年、ゲイツは同社の 社長兼会長となり、アレンは副社長となった。1985年、マイクロ ソフトはM ic r o so f t W i n d o wsの最初のバージョンを発売した。 1986年2月16日、 マイクロソフトはワシントン州レドモンドに移 ビル・ ゲイツ(現在) 転した。およそ1ヶ月後の3月13日、マイクロソフトは株式を公開し、6100 万ドルの資金を調達した。1992年3月、マイクロソフトはWindows 3.1を発 売し、初めてテレビにおいて大々的な宣伝を行い、Windows 3.1は、2か月 の間に300万本を売り上げた。この結果、Windowsは1993年までにパソコン のOSとして世界トップのシェアを獲得した。 1995年8月、マイクロソフトはOSの新バージョンであるWindows 95を発 売し、Windows 95は発売後4日間の間に100万本以上を売り上げた。1998年 にはスティーブ バルマーが社長に就任し、 ・ ゲイツは会長兼CEOに留まった。 現在の同社は連結売上高が625億ドル (約5.1兆円) 当期利益が187億ドル 、 (1.5兆円)の会社に成長しており、ワシントン州レドモンドの本社は75万 m²超の敷地を有し、約28,000人の従業員が働いている。 2008年7月26日の英エコノミスト誌は、” The meaning of Bill Gates”とい う題の記事で、ゲイツが時代に先駆けて2つのことを発見したことを評価している。それは、コンピュ ーターソフトが大量生産の低収益型ビジネスとなり得ること、そしてハードウェアとソフトウェアは ビジネスとしては別個のものであるべきだと考えたことである。 ~ 52 ~
  • 53. 【ケース⑧】ヤフー(Yahoo! Inc.) アメリカのインターネット関連サービス企業。検索エンジンを はじめとしたポータルサイトの運営を主力事業としている。 創業者のジェリー・ヤン(1968年生、台湾出身、10歳の 1995年創業当時のヤン(左)とファイロ 時に米国移住)とデビッド・ファイロ(1966年生、ルイジ アナ州出身)は、スタンフォード大学の大学院生の頃、ネ ットサーフィン中に見つけた興味深いページを”Jerry's Guide to the World Wide Web”という題名でウェブサイト に公開していた。リンクが階層的に分類され、ジャンル別 に検索しやすくなったこのウェブサイトは評判となり、そ れに伴いウェブサイトが置かれていた大学のネットワーク 負荷が増えてきた。 やがて2人はベンチャーキャピタルに事業化を持ちかけ られ、1995年3月カリフォルニア州にYahoo!を設立して事 業を開始し、会社設立後わずか1年1ケ月の1996年4月に NASDAQ市場に株式を公開した。 株式公開前の1996年1月には、ソフトバンクと共同出資で日本にヤフー㈱を設立し、同年4月から Yahoo! JAPANのサービスを開始し、ヤフー㈱は2003年10月に店頭市場に株式を公開し、ソフトバン クはヤフー㈱の保有株式で多額の資金を得ている。 1990年代後半には、MSN、Lycos、Exciteなど多くのポータルサイトが立ち上がった。ポータルサ イトは人気を得て、ユーザーの多くはポータルサイトに滞在するようになった。1997年3月、Yahoo! はウェブメールサービスのFour11を買収し、後のYahoo! Mailの原型となる。また、ClassicGame.com も買収し、 Yahoo! Gamesとなった。 1999年1月にはGeoCitiesを、2000年6月にはeGroupsを買収した。 eGroupsはYahoo! Groupsになっている。2001年7月にはYahoo! Messengerを開始している。 2002年後半になると、 Yahoo!は他のサーチエンジンの買収を行い、 2002年の12月にInktomiを、2003 年1月には、Overtureとその子会社のAltaVista、AlltheWebを買収している。 2004年には、台頭してきたGoogleへの対抗策を積極化している。自社の検索エンジンでGoogleのエ ンジンの利用を止めている。 GoogleのGmailに対抗して、 Yahoo!はメールサービスの増強を図り、Web 2.0関係のサービス強化を図るために買収をさらに行っている。2005年3月には写真共有サービスの Flickrを買収、2005年10月にカレンダー共有サービスのUpcoming.orgを、12月にはソーシャルブック マークのdel.icio.usを、2006年1月にはプレイリスト共有コミュニティのwebjayを買収している。 2008年1月29日に、Yahoo!は同社の厳しい経営状況では、業界のリーダーであるGoogleと市場競争 ができないとして、全従業員14,300人のうち1000人を人員削減すると発表した。2008年11月にジェリ ー・ヤンCEOは辞任し、以前の役職であるチーフに就任した。さらに、2008年12月には業績悪化に伴 い、世界で1500人の従業員の人員削減を始めた。 【ケース ⑨】フェイスブック(Facebook, Inc.) 世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNS(ソーシャ ル・ネットワーキング・サービス) 。2010年に全米でヒットした映画 「ソーシャル・ネットワーク」 の題材となったベンチャー企業である。 2011年現在、世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNSになった。同社はまだ株式を公開 していない。 アメリカのハーバード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグ (1984年生、ニューヨーク州出身) が創業者。2003年にハーバード大学に入学したザッカーバーグは、大学でも寮の部屋でインターネッ トのアプリケーション・ソフトウェアの開発することを趣味にしていた。ハッキングし得た女子学生 の身分証明写真をネット上に公開して投票させる「フェイスマッシュ」というゲームを考案したが、 ハーバード大学から保護観察処分まで受けてしまう。 2004年2月、ザッカーバーグはハーバード大学の学生が交流を図るための「ザ・フェイスブック」と いうサービスをハーバード大学の学生に限定して始めたが、すぐにリクエストに応えて東海岸の大学 生にもサービスを開放する。その後、徐々に全米の大学生に開放され、大学生のユーザーが増加して ~ 53 ~
  • 54. いく。2006年初頭には全米の高校生に開放 し、2006年秋には一般ユーザーにも開放し た。 ザッカーバーグはフェイスブックがサー ビスを開始した直後の2004年4月にLLC法 人として設立し、2004年夏にデラウェア州 の株式会社に移行し、 社名をFacebook, Inc. とした。設立時の株式配分で当初の幹部 (CFO)であったサベリン氏と紛糾し裁判 になったことが映画に度々登場する。 2004年7月には開発拠点をカリフォルニ ア州パロアルト(スタンフォード大学に隣 接する市)に移して資金調達を本格化させ る。 2004年9月にエンジェル(個人投資家) のピーター・シールとリード・ホフマンか ら50万ドルの出資を得る。 その後、 2005年、 2006年にはベンチャーキャピタルが合計 約4000万ドル(約32億円)をフェイスブックに出資を行った。 2007年10月にはマイクロソフトと提携契約を結び、同社から2億4000万ドル(約200億円)の出資を 得る。この時のフェイスブックの会社の評価価格は150億ドル(約1兆2,300億円)であった。 2010年7月、ユーザー数が全世界で5億ユーザーを突破した。2010年9月にフェイスブック創設のス トーリーを描いた映画 「ソーシャル・ネットワーク」 が全米で公開、日本では2011年1月に公開された。 フェイスブックは同社の提供するSNSサービスだけではなく、ユーザーが好きなアプリケーション を選択して追加できる。また、一般ユーザーが様々なアプリケーションを開発し、フェイスブックの ツールとして公開できることで、同社自身が提供する機能を超えてサービスを提供することができる。 特に、フェイスブックのSNS内でユーザー同士が楽しむネットワーク・ゲームは大人気となり、フェ イスブック専用のゲームソフトを開発し急成長したベンチャービジネスも多数存在する。こうしたフ ェイスブックのサービスの汎用性が強みになって全世界に広がっている。 同社は5億人のユーザーとトラフィックの多さから、未公開企業であるにもかかわらず企業価値(時 価総額)が巨大となり、2011年3月には株式の時価総額は500億ドルと評価されている。 また、同社が社会や政治に与えている影響も大きい。2011年にチュニジアで発生したジャスミン革 命では、情報交換のためにフェイスブックが大きな役割を果たしている。また、2011年のエジプト騒 乱でムバーラク大統領が辞任に追い込まれたが、革命運動家グループがフェイスブックやツイッター などのインターネットサイトによって運動を広めたことから、 「フェイスブック革命」と評価する者も いる。 ■設問12 設問12 1. 創業段階のアップルについて、前節のスモールビジネスから生まれたグループと類似し ている点を述べなさい。 2. アップルにおいて、スティーブ・ジョブズが復帰して何が変わったかを述べなさい。 3. 創業当初のマイクロソフトと大企業との関係を具体的に述べなさい。 4. ビル・ゲイツがコンピュータ産業で果たした役割について述べなさい。 5. ヤフーやフェイスブックの創業者が、大学生や大学院生にもかかわらず、創業して短期 間で巨大な企業になることができた理由について、自分の考えを述べなさい。 ~ 54 ~
  • 55. 第3部 日本の起業家(アントレプレナー) Ⅰ.明治・大正期の起業家 明治・大正期の 1-① 明治・大正の年表 年号 年 ⻄暦 出来事 起業家 天保 3 1832 天保の⼤飢饉。 8 1837 ⼤塩平⼋郎の乱。 12 1841 ⽼中⽔野忠邦、天保の改⾰。 嘉永 5 1853 ペリー提督の⿊船来航。 安政 元 1854 日米和親条約締結。 5 1858 安政の⼤獄。日米修好通商条約を締結。 6 1859 咸臨丸が渡米。勝海⾈、福沢諭吉ら。 文久 3 1863 四国艦隊下関砲撃事件。薩英戦争。 元治 元 1864 第一次⻑州征伐。 慶応 2 1866 薩⻑同盟。 岩 3 1867 徳川慶喜が、朝廷に⼤政奉還。王政復古 (慶応3)岩崎弥太郎、⼟佐商会・⻑崎留守居役に抜擢。渋沢 崎 の⼤号令。坂本龍⾺が暗殺される。 栄一、幕府随員としてパリへ赴く。 弥 古 4 1868 福沢諭吉、慶應義塾を開く。 太 中 河 明治 元 1868 明治維新。五箇条の御誓文。 郎 上 市 2 1869 版籍奉還。 (明2)中上川彦次郎、慶應義塾⼊学。 川 兵 4 1871 廃藩置県。 (明4)益⽥孝、⼤蔵省に出仕。 彦 衛 6 1873 日本初の正式な株式会社(第一国⽴銀 (明6)渋沢栄一、第一国⽴銀⾏頭取に就任。岩崎弥太郎、 次 ⾏)。 三菱商会設⽴。 郎 10 1877 ⻄南戦争。 (明9)益⽥孝、三井物産設⽴。(明10)古河市兵衛、⾜尾 渋 銅山買収。(明11)渋沢栄一らにより東京株式取引所設⽴。 沢 14 1881 明治14年の政変。⾃由⺠権運動拡がる。 栄 22 1889 第日本帝国憲法発布。 (明21)中上川彦次郎、三井銀⾏の理事に就任。 一 益 豊 23 1890 第1回衆議院総選挙、第1回帝国議会召 (明23)豊⽥佐吉、「豊⽥式⽊製人⼒織機」を発明。 ⽥ ⽥ 集、教育勅語発布。 孝 佐 27 1894 日清戦争勃発。 吉 34 1901 官営⼋幡製鉄所操業開始。 (明34)古河に⾜尾銅山鉱毒事件が起こる。 37 1904 日露戦争勃発。 43 1910 韓国併合。 45 1912 明治天皇崩御、⼤正に改元。 ⼤正 2 1913 第一次憲政擁護運動始まる。 3 1914 第一次世界⼤戦勃発。⼤戦景気。 7 1918 シベリア出兵、米騒動。原敬が首相就任。 (⼤5)渋沢栄一、『論語と算盤』を著す。 12 1923 関東⼤震災。 松 14 1924 普通選挙法成⽴。 下 本 15 1925 ⼤正天皇崩御、昭和に改元。 (⼤15)豊⽥佐吉、豊⽥⾃動織機製作所を設⽴。 幸 ⽥ 昭和 2 1926 昭和⾦融恐慌。銀⾏破綻続出。 之 宗 4 1929 世界恐慌。 (昭5)豊⽥佐吉、逝去。 助 一 盛 6 1931 満州事変。 (昭6)渋沢栄一、逝去。 郎 ⽥ 7 1932 満州国建国。五・一五事件。 昭 11 1936 二・二六事件。 夫 12 1937 日中戦争勃発。 (昭12)トヨタ⾃動⾞⼯業設⽴。 14 1939 第二次世界⼤戦勃発。 16 1941 真珠湾攻撃。太平洋戦争開戦。 18 1943 日本軍ガダルカナル島撤退。 20 1945 ポツダム宣⾔を受諾。終戦。 1-② 近代以前の商制度 明治初期に株式会社制度が創設されるまでは、資金を出し合って共同事業を行う会社形態は日本に 存在せず、個人経営の「商店」がビジネス組織の中心であった。後に大財閥となった三井も住友も、 江戸時代以前はそれぞれ越後屋、泉屋の商号で営む個人商店であった。 ①商店の組織制度 商店は経営トップ兼オーナーである「店主」が唯一の意思決定者である。株式会社のように事業の 共同パートナーは存在しないから、他の人間と相談をする取り決めは存在しない。ただし、一族が経 ~ 55 ~
  • 56. 営する商店が多かったため、親や親族など年長者に相 談する慣習は存在した。同族経営であるために、組織 の規則は、公の法制度による取り決めではなく、一族 が決めた家法や家訓、あるいは店主が定める綱領や信 条が守るべき規則であった。 商店の従業員は、10歳前後で店に入り、「丁稚」(ま たは小僧)として店に住み込み、使い走りや力仕事、 雑役に従事し、その後「手代」(会社の係長クラス)に 昇進する。手代は接客業務を行うことができ、無給で 衣食住はタダの丁稚と違って給与が支払われた。手代 の中で優秀で経験を積んだ手代は「番頭」に昇進し、 店の経営に関与し、店主の家政もサポートすることも あった。番頭は、羽織を着用することが許され、結婚 も通い(自宅通勤)も許された。番頭は店主から「暖 簾分け」が許されて独立することもあったが、 番頭を任されるまでには競争を勝ち抜く必要があった。 店や地域・時代により多少違いはあるが、この競争を勝ち抜いた者が概ね30歳前後で番頭職につくの が一般的だった。 ②店主の無限責任と子孫同族への継承 先のように、商店は店主の個人経営だから、店の儲けた金も保有資産もすべて店主のものであり、 番頭以下の「勤め人」はもちろんのこと、外部の人間とも全く関係がなかった。その反面、店の事業 は全て個人出資であり、金を借り入れも店主個人の借金、信用で物を買っても店主の負債であり、す べて店主が無限責任で営む個人事業であった。負債の返済が滞れば店主個人の財産を投げ打たねばな らず、現代の株式会社における経営者の有限責任の仕組みはなかった。当時は親の職業を子が無条件 に継ぐのが当然とされ、また事業は代々の「家」の事業とされた封建社会であった。したがって、商 の事業継承は、店主の子息(あるいは養子)に継がせることが大半であり、優秀な番頭に継がせる場 合も、店主が番頭を養子に迎えて家の相続者として継承された。店主と血のつながりのない専門の経 営者が民間企業のトップとなって経営にあたるのは、明治以降の株式会社制度の登場以降であり、ま た明治大正期においても封建時代の同族経営・店主経営の色彩は色濃く残って続いていた。 1-③ 株式会社制度 株式は、英語ではstockあるいはshareである。stockの本来の意味は幹、茎、切り株、蓄え、貯蔵と いう意味だが、 「一切れ」「一部の持ち分」という意味が派生して株式という概念を表す用語になった 、 と推定されている。 世界最初の株式会社は、第1部でみたように、1602年設立のオランダ東インド会社であるが、日本 の株式会社制度は明治期に作られたため、 「株式」という日本語はその頃に英語から輸入して作られた。 この「株式」は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「株」と、中世における土地収益 権を意味する「式(職) 」という語に由来している。日本初の株式会社は、諸説あるものの、法的には 「国立銀行条例」 (1872年)に基づいて1873年に渋沢栄一らによって設立された第一国立銀行である。 同社は1878年に開設された東京株式取引所(日本初の株式取引所)に上場した。また、一般会社の法 規である商法に基づいて最初に設立された株式会社は「日本郵船」 (1893年)である。三菱財閥の創始 者・岩崎弥太郎が日本郵船を設立した。 なお、既に江戸時代末には株式会社の構想があった。1867年(慶応3年)に、幕臣の小栗上野介は日 本初の株式会社のビジネスプランともいえる「兵庫商社の設立建議書」を幕府に提出した。 『西洋各国 が日本国内に港を開いて国の利益を得ているのに反し、開港するたびに日本の損になっている。外国 人と取引するには、外国貿易の商社(カンパニー)のやり方に基づかなくては、とても国の利益には ならない。 』という建白書である。なお、1865年に坂本龍馬らが結成した「亀山社中」 (後の海援隊) を株式会社の祖とする説もある。 ~ 56 ~
  • 57. 2.ケーススタディ ■ポイント 1.幕末から第二次大戦までの基本的な日本の歴史を把握する。 2.なぜ、明治期に起業家が生まれ、経済を席巻するまでに至ったのかという問題意識を持つ。 3.明治・大正期に活躍した「起業家の生きざま」を知り、現代と比較する。 【ケース ①】岩崎弥太郎:三菱財閥の創業者、 政商」 岩崎弥太郎:三菱財閥の創業者、 政商」 「政商 「 岩崎 彌太郎(いわさき・やたろう) 。 天保5年(1835年)生まれ、明治18年(1885年)没。三菱財閥の創業者 で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。 (1)生い立ち 土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎 の長男として生まれた。地下浪人とは、郷士の株を売ってしまって浪人を している者のことで、弥太郎の曽祖父の代に郷士の株を売ったとされる。 弥太郎は幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈に も漢詩を披露し才を認められる。安政元年(1854年) 、21歳の時に学問で 身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、江戸に出て1年 後、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴え たことにより弥太郎も投獄されるが、この時、 獄中で商人から算術や商法 を学んだことが、後に商業に従事する縁となった。 出獄後は村を追放されるが、城下である高知に蟄居中であった吉田東洋(土佐藩の重役)が開いて いた少林塾に入塾し、後に明治維新で活躍する後藤象二次郎の知遇を得る。1859年(安政5年) 、吉田 東洋は岩崎の勉学を評価して藩の下横目役に推挙し、岩崎は藩吏として長崎に派遣されるが、公金で 遊蕩したことから半年後に帰国させられる。 (弥太郎の気性) 弥太郎は、伯母が嫁いだ土佐藩随一の儒学者・岡本寧浦(ねいほ)について学んでいた。学問は、貧しくとも頭のきれる少 年が世に出る道だった。弥太郎の勉強には鬼気 迫るような熱がこもっていた。が、彼は満足できないでいた。土佐には緊張 感がない。江戸へ出たい。江戸へ出たい。とにかく江戸に出たかった。郷士でもない者が国を出ることは難しい。それが、江 戸詰めになった奥宮慥斎(ぞうさい)の従者ということで実現する。時は安政元(1854) 弥太郎は、 年。 やったという思いだ ったろう。いよいよ明日は旅立ちという夜、村の裏手の妙見山に登った。月明かりに太平洋が見える。弥太郎は山頂の星神社 の門扉に墨痕鮮やかに書き記した。 『吾れ、志を得ずんば、再び此の山に登らず』 大変な気負い。これ無くして大事はなし得ない。幕末・維新の志士たちは大酒を食らっては大言壮語した。 (2)幕末動乱への参加 土佐勤王党の監視や脱藩士の探索にも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の 探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要 な届出に不備があった事をとがめられ帰国した。尊王攘夷派が勢いを増す中で任務を放棄し無断で帰 国したともいわれる。帰国後、弥太郎は長崎で藩費を浪費した責任も問われ、役職を辞任した。 この後、慶応3年(1867年) 、後藤象二郎に藩の商務組織である土佐商会の主任・長崎留守居役に抜 擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊と名称変更して土佐 藩の外郭機関となると、弥太郎は海援隊の経理(会計係)を担当した。記録上確認出来る弥太郎と龍 馬の最初の接点はこの時である。弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を 酌み交わすなどの様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。 ~ 57 ~
  • 58. (3)明治維新、実業への進出 明治元年(1868年) 、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、 明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称し、弥太郎は海運業に従事する。こ のころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩 の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手して海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷 (土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会」 (後の郵便汽船三菱会社)を設立、三菱商 会は弥太郎が経営する個人企業となった。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の 家紋を合わせて三菱のマークを作った。弥太郎は、三菱商会で働く海援隊出身や士族出身の社員に対 しても、出自に関係なく徹底して「商人としての教育」を施した。 (弥太郎の独裁) 弥太郎は激しい気性の男だった。商会の幹部たちは常に弥太郎の顔色を伺っていた。彼にはそれが歯がゆい。弥太郎の頭に ある事業のイメージは、何者をも恐れぬ攻撃的なものであった。弥太郎は収まりがつかない。ついに部下との話し合いの後、 「ええい、まだるっこしい。これからはすべてわしが決断する」と宣言した。 (前垂かけ精神) 弥太郎は、事業の成功不成功はお客に対するサービス次第と確信していた。社員の大半は下級武士出身のため、お客になか なか頭が下げられない。弥太郎は、店の正面に大きなおかめの面を掲げ、客の応対をする者には、和服に角帯、 (まえだ 前垂 れ)という姿でおかめのような笑顔を強いた。 武士としてのプライドを捨てきれないでいた石川七財には、ある日、小判の絵が描かれた扇子を与えて言った。 「おんしは、客に頭を下げると思うとから辛いのじゃ。この小判に頭を下げると思え。 」 (4)政府との密着 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣の全国統一化に乗り出した時のこ とで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の 資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流 したのは新政府の高官となっていた岩崎の土佐時代の友人である後藤象二郎であり、政府と民間の癒 着である。弥太郎は最初から「政商」として暗躍した。 さらに、三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得 る。明治10年(1877年)の西南戦争でも輸送業務を独占して大きな利益を上げた。政府の仕事を受注 することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。 (5)反三菱グループとの戦い しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従 道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て 焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈 重信が失脚し、弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批 判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎など の反三菱財閥勢力が共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸 との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるという すさまじさだった。また、パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、 これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融 資するという 「荷為替金融」 を考案し勝利した。 弥太郎が土佐商会で勤めたことから、長崎は三菱の 発祥の地である(写真は建設中の長崎造船所) こうしたライバルとの競争の最中、明治18年 (1885年)2月7日、弥太郎は51歳で病死した。 弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈な ダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併し て日本郵船となった。 (6)三菱財閥の形成 弥太郎の死後、弥太郎とその弟・岩崎弥之助 が三菱の2代目総帥となり、以後、岩崎家は経済 界の代表的な名門家系として続く。三菱の3代目 ~ 58 ~
  • 59. 総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥 にあたる。家紋は重ね三階菱。 二代目である岩崎弥之助は「三菱社」と改名し、1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた 官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。炭鉱、鉱山事業の拡充、1887 年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収によ る銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立した。 1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資 の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎 造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。 1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務 理事を置いた。 1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920 年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。そして、満州事変から第二次世 界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。スリーダイヤマークの「三 菱」の呼び名だが、これは土佐藩主山内家の家紋の「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わ せたものであった。 この三菱財閥は、第二次世界大戦後、連 合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令 により解体された(=財閥解体)。三菱財閥 は、俗に三井、住友とともに三大財閥であ るが、三井、住友が三百年以上の歴史を持 つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が 明治期の動乱に政商として、巨万の利益を 得てその礎を築いたという違いがある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治の日本には、三人の重要な人物がいた。福沢諭吉、渋沢栄一、そして岩崎弥太郎である。 彼らは個人としては、まったく異なっていた。福沢は「実務家」、渋沢は「倫理家」、岩崎は「起業家」だった。 だが、同じ目標と未来像を描き、勇気と先見性と手腕をもって近代国家・日本を創ったのである。 今日、三人の偉業が意味するところは大きい。 ― ピーター・ドラッカー(経営学者) 【引用文献】 ・mitsubishi.com「三菱の歴史:三菱人物伝」 http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro20.html ■設問13 設問13 ●岩崎弥太郎のアントレプレナーシップ論 1. 岩崎弥太郎は、どのような出自であったか。 2. 岩崎の性格、思想について述べなさい。 3. 身分の低かった岩崎が土佐藩で登用された頃の時代背景について述べなさい。 4. 岩崎が出世するきかっけとなった人脈、ネットワークはどのようなものだったか。 5. 岩崎弥太郎が明治維新後に成功した原因は何だったと考えるか。 6. 弥太郎後の三菱は、どのような経営スタイルとなるか。 ~ 59 ~
  • 60. 【ケース ②】渋沢栄一:埼玉が生んだ「日本資本主義の父」 渋沢栄一:埼玉が んだ「日本資本主義の 澁澤 榮一(しぶさわ・えいいち) 。 天保11年(1840年)生まれ、 昭和6年(1931年)没。 幕末から大正初期に活躍した日本の武士、官僚、実業家。第一国立銀 行や東京証券取引所などといった500余に及ぶ企業の設立・経営に関わ り、「日本資本主義の父」「日本初の近代起業家」といわれる。明治33 、 年(1900)男爵、大正9年(1920)子爵。 (1)生い立ち 天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深 谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名 は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がけ る豪農だった。江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あり、 家の位置によって「東ノ家」 「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」 「新屋敷」な どと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが、 「中ノ家」に養子に入ったという。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一が生まれた 頃になると村で二番目の豪農となっていた。 渋沢家は、藍玉や繭という原料の買い入れと販売を行っていたために、一般的な農家と異なり、常 に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を 仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験が ヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につなが ったといわれる。 (2)幕末の志士、徳川将軍への出仕 一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や日 本外史を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾 高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。 また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場 (お玉が池の千葉道場)に入門し、 剣術修行のかたわらで勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年 (1863年)に尊皇攘夷思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪 い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画 をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。 栄一は、 親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京 都に上るが、 八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都では志士 活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡 円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。 仕官中は一橋家領 内を巡回し、農兵の募集に従事する。 主君の慶喜が将軍となったのに伴い渋沢は幕臣となり、 パリで行わ れる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随 員として、フランスを訪れた。渋沢はヨーロッパ各地で先進的な産 業・軍備を実見し、商人が役人や将校と対等に交わる社会を見て感銘 を受ける。 (上の写真は、まげを結った洋行前の栄一と、帰国後のまげを切り洋服姿の栄一。 ) (3)明治維新、大蔵省への出仕 帰国後は静岡に謹慎していた徳川慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜よ り「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。フランスで学んだ株式会社制度を実践 するため、及び新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立 するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部 省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀 行条例制定に従事する。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873 年)に井上馨と共に退官した。 ~ 60 ~
  • 61. 退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、 現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。第一国立銀行だけでなく、七十七国立 銀行など多くの地方銀行設立を指導した。渋沢は多種多様の企業の設立に関わり、第一国立銀行のほ か、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現・太平洋セメント) 、帝国ホテル、秩 父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、その数は 500団体以上であった。 若い頃、栄一は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」 (1912年)に見られる日本 移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本の ニュースを送る通信社を立案した。成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起 源となった。 渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の 明治の財閥創始者と大きく異なる点は、 「渋沢財閥」を作らなかったことにある。 「私利を追わず公益 を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。 なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢 財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、 これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会 社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。 ①富岡製糸場 富岡製糸場 明治3年(1870年)7月10日、民部大蔵両省は分離し、租税司と改正係が大蔵省に属し、渋沢栄一は 大蔵省改正係長に任命された。政府は、富国強兵、殖産工業、外貨獲得政策の一つとして、生糸を輸 出振興第一の商品とし、国内の製糸を改良する案を出した。養蚕に詳しい栄一が任じられ、栄一はか ねてからの知人ジブスケ(フランス公使書記官)と相談して、上州富岡に洋式製糸工場を新設する計 画を立てた。ジブスケの紹介で工場の指導者に、フランス人ポール・ブリューナを雇い、国立富岡製 糸工場の主任に渋沢栄一らが任命された。 建設の主任は、栄一の斡旋で尾高惇忠(渋沢の義兄)が当った。工場の建物には洋式レンガの建築 を取り入れたが、レンガ製造は日本で初めての試みだった。これが後に明治20年(1887年)に深谷市 に建設される日本初のレンガ製造会社のきっかけとなっている。 工場は、着工以来1年7ヵ月後の明治5年(1872年)7月に完成したが、新しい洋式製糸場を、地元の 上州の人々は容易には受け入れなかった。 まず、 『上州富岡製糸場之図』 歌川国輝画 フランス人ブリューナの宿所を貸してくれる者 がいなかった。尾高新五郎は、上州富岡製糸工 場で働く女性労働者を近県で懸命に募集したが、 最初一人も応じる者がいなかった。 尾高はまず、 自分の娘を説得し、も工女第一号として働いて くれと懇願し、娘はやっと父に応じてくれた。 これを機に、尾高の地元の村の5人の少女が応 募し、近県からも55人の応募者がでてきた。そ の後山口県から60人前後の応募があり、一団と なって工女として働いた。 ②第一国立銀行 第一国立銀行 『東京名勝海運橋 第一国立銀行』 日本政府は、明治6年(1873年)6月に国立銀行条 令によって、日本初の銀行となった第一国立銀行を創 立した。その本店は、東京日本橋の橋際にある三井組 の5階建ての洋館とした。設立以前にすでに三井組が 私立銀行創立の計画を立てて大蔵省に請願していた が、渋沢栄一は、国立銀行条令を作成中でありその後 に設立するようにと延期させていた。 そして新条令の もとに、栄一の指導で国立銀行創立の運びとなった。 国立銀行の資本金の300万円のうち、200万円を三 井組、小野組が出資し、あとの100万円を公募した。 総会で栄一が銀行を総監督する「大頭取」に選ばれ就 任した。 ~ 61 ~
  • 62. 国立銀行条例(1872年制定)により円建で不換紙幣(金銀との交換義務のない通貨としての紙幣) が法的に発行できるようになり、海外への金の流出で金不足であった当時において信用のある紙幣を 発行することが可能となった。しかし、この第一国立銀行は、栄一の資本で設立された私立銀行では なく、渋沢は「大頭取」 という目付役として経営に参加し資本は出していない。 渋沢は、明治6年(1873 年)から大正5年(1916年)7月まで43年間にわたり第一国立銀行に勤め、77歳で辞した。その後、第 一国立銀行は、条令の改正により私立銀行として営業することになった。 栄一の生きた徳川幕府の江戸時代、商人は、官吏の前では畳三枚隔てなければ挨拶できなかったと いう。それほど身分の低い地位として「商人」は蔑視されていた。栄一は国立銀行制度の確立こそが 不可欠で、金融業務の近代化が産業の発展を促し、同時に「商人」の地位を昇格させるものと信じた。 しかし、一般民衆の銀行に対する認識は低く、信頼感もなく、預金する人は少なかった。また大店の 商人たちは、先端的な銀行をかえって敬遠していた。 栄一は、第一国立銀行の得意先を増やすために、新しい会社の設立に力を入れた。これが栄一が自 称「よろずや」になった理由である。その後、年を重ねるごとに栄一の努力は認められていった。栄 一はやがて、指導的実業人として各方面から引っ張りだことなった。彼の誠実さとその実績が、社会 的信用を産み、「渋沢栄一ブーム」を巻き起こしたわけである。その一方、暴漢に襲われたり、脅迫状 を送られたりさまざまな試練を経ることになる。 (4)道徳と経済の合一 大正5年(1916年) 渋沢栄一は 、 『論語と算盤』を著し、 「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。 幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するので はなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時 に自身にも心がけた。 『論語と算盤』に渋沢の考えが端的に現れている一節がある。 富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。 正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。論語とそろ ばんは両立する。(渋沢栄一『論語と算盤』 ) すべて物を励むには競うということが必要であって、競うから励みが生ずるのである。いやしくも正しい道を、あくまで進 んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に 勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。 そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。同書 の次の言葉には、栄一の経営哲学が込められている。 事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを 考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理に もかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。(渋沢栄 一『論語と算盤』) 渋沢が世を去って久しい昭和の高度成長期には、次のような噂もささやかれたという。 昭和46年(1971年)当時、こんな噂があった。新札を発行する時、新しいデザインの選考委員の一人が総理大臣就任前の田 中角栄だったという。 むろん渋沢栄一もその新札の絵柄の候補者の一人だったが、金権指向の田中角栄は栄一を除外した。 「札 を見る度に、カネに清潔な渋沢栄一に睨まれるのはご免だ」という理由だったなどと、そんな噂だったという。 (5)渋沢栄一の社会活動 渋沢は、当時の実業界の中では最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めた ほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、財団法人聖路加国際病院初代理 事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。関東大震 災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。 当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、渋沢は商業教育にも力を入れ商 法講習所(現一橋大学) ・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松 學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、 井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取りまとめに関わった。また、女子教育の必要性を考え、伊 藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。 また、日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなど して、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同 情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお、渋沢は1926年と 1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。 ~ 62 ~
  • 63. 【引用文献】 ・「埼玉が生んだ偉人 渋沢栄一」 http://www.geocities.jp/kazumihome2004/ ・国立国会図書館「近代日本人の肖像」 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/104.html (6)渋沢栄一の生家 渋沢栄一生誕の地は、現在の埼玉県深谷市血洗島である。 血洗島には、 渋沢栄一記念館、誠之堂という大正期の建築物、 栄一の生家など、ゆかりの建物が多く残されている。当時の 血洗島村は、中山道の深谷宿から北へ約6km程のところにあ り、さらに村の北には利根川が流れ、上州(群馬県)の地に 接している。利根川には近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市 中瀬)があり、ここは江戸方面と往来する人や物資の中継基 地として、大いに栄えていた。栄一の育った頃には養蚕と藍 玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一 族の間でも「中の家(なかんち) 」と呼ばれ、本家筋とされて いるが、この中の家における藍玉の年商は1万両を越えたと され、渋沢は当時でも数少ない裕福な農家に育ったのである。 上段の写真は、渋沢栄一の生家「中の家」の門で、この表 門は、当時の領主が訪ねて来る際に、乗馬したまま門をくぐ れるよう高く作られたという。表門の前には、 「史蹟 澁澤榮 一生地」と書かれた碑が建っている。 中段の写真は 「中の家」の屋敷。栄一は天保11年(1840年) この「中の家」に生まれた。しかし栄一の生まれた屋敷は明 治25年の失火で焼失し、現在の建物は、翌年明治26年に渋沢 栄一の妹の夫によって再建されたものである。栄一は晩年 度々この家を訪れ宿泊している。 明治20年、渋沢は深谷にレンガ製造会社を設立したが、こ の深谷の工場で作られたレンガは東京駅や赤坂離宮、東京帝 国大学、日本銀行などの明治の近代建築に使われた。なお、JR東日本の深谷駅は「レンガのまち」を PRするためにレンガ造りになっており、駅前には渋沢栄一の大きな銅像が建っている。 ■設問14 設問14 ●渋沢栄一のアントレプレナーシップ論 1. 渋沢の出自について述べなさい。 2. 渋沢の経営に関する思想について述べなさい。 3. 渋沢が初めて社会に出た頃の時代背景はどのようなものだったか。 4. 人脈、ネットワーク。起業にどのように有利だっただろうか。 5. 渋沢の経営の特徴を述べなさい。 6. 渋沢が成功した原因は何だったと思うか。 7. 明治における武士・豪農出身の経営者が持つ共通の特徴とは何だろうか。 8. 渋沢と岩崎を比較すると、どのような点が違うか。自分の視点で述べなさい。 ~ 63 ~
  • 64. 【ケース ③】中上川彦次郎:企業リストラの元祖 中上川彦次郎:企業リストラの リストラの元祖 中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう) 。 嘉永7年(1854年)生まれ、明治34年(1901年)没。日本の実業家。三 井銀行の理事に就任し、近代的な改革を打ち出し、また、他の三井財閥の 工業化と不良債権処理を推進し、 「三井中興の祖」として高く評価されて いる。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。 (1)生い立ち 現在の大分県中津市に中津藩士であった中上川才蔵・婉夫妻の長男とし て生まれる。 15歳頃まで藩校進脩館で四書五経を学んだ。 福沢にあこがれ 洋学に関心をもった中上川は、 14歳の時に故郷を離れ、大阪で英語を習う。 その後、1869年(明治2年)に東京留学が許され慶應義塾に入学。17歳で 慶應義塾を卒業し教師をしていたが、政治家になりたいと考え、勉強のために留学を望んでいた。福 沢の力によりロンドンへの留学が実現し、20歳から 23歳までをロンドンで過ごした。3年間にわたっ て滞在したイギリスでは専門的な勉強や大学に入学するでもなく、時たまロンドン大学の英国商業史 のレオンピー教授の講義を聞いたぐらいで、あとは毎日、ロンドンの町中を隅々まで歩いて知り尽く し、文明の新知識を身をもって体験したという。 (2)官僚から民間へ この留学から、中上川は近代的な考え方、英国紳士の流儀を学び、その後の人生に生かした。また、 留学中、中上川は海外の経済事情を調査に来ていた井上馨(1836年~1915年。元長州藩士。明治政府 の要職を歴任。明治の元勲となる。 )と出会う。井上は中上川を大変気に入り、これは中上川にとって 人生を変える出会いとなった。井上が参議兼工部卿に就任するとともに井上の紹介で工部省に入り、 井上が参議兼外務卿になると、外務省に移り、若干26歳で外務省の局長を務めた。 しかし政変に遭い、外務省での出世を諦め、 今度は福沢が創刊した時事新報社の社長兼主筆に就任。 経営が順調となると、中上川は次なる目標として貿易会社の設立を考えたが、福沢の反対にあって実 現しなかった。そこへ、新設される山陽鉄道会社社長就任の話が福沢門下の荘田平五郎から持ち込ま れた。井上の後押しもあり、中上川は社長に就任したが、思い切った経営方針が株主の反感をかい、 社長から格下げになる。それを知った井上は、ちょうど三井の改革を依頼されていたため、中上川を 三井へ推挙した。明治24年(1891)、中上川は、三井銀行、旧三井物産、三井鉱山の各社の理事として 三井に席を置くことになった。この時、中上川は38歳である。 (3)三井銀行での活躍 三井銀行は、幕末以来の三井組の大番頭であった三野村利左衛門の死後、さまざまな難問を抱えて いた。政府は国庫金の運用を新設の日本銀行に任せることになり、三井銀行は政府関係者への多額の 資金提供が焦げつき、官金を取り扱っているために、重要でない地点に出張所を開いたり、政府関連 の不良債権も多く、銀行の資産の3分の1が不良貸し付けという危機的な状況にあった。さらに、明治 18年、19年の好景気で数多く生まれた企業がその後の景気後退で数多く倒産し、各銀行は取付け騒ぎ が起こり、金融界は恐慌状態に陥っていた。三井銀行の本店、支店もその波に飲まれ、三井は最大の 危機を迎えた。 中上川はまず、慶応義塾出身の有能な人材を採用した。当時の三井銀行の幹部職員は、三井組時代 からの手代たちであったが、中上川は人材の交替を図った。益田孝ら一、二の首脳部以外の旧来から の三井の幹部番頭を全員辞めさせ、三十才前後の朝吹英二、波多野承五郎、柳荘太郎、日比翁助、藤 山雷太、武藤山治、池田成彬、藤原銀次郎などの中上川が集めた若手を銀行支店などの幹部に取りた てた。彼らは、その後の三井各社をリードした人物が名を連ねている。中上川は、適材適所と実力主 義を用い、優秀な人物にずば抜けた高給を支払った。 中上川の実力は、不良貸金の整理で発揮された。最初に行われたのが、東本願寺への100万円(現在 価値で約50億円)の貸金の回収であった。東本願寺が所有する動産・不動産は実際には抵当登記が行 われていなかったので、中上川は抵当登記を行い、返済できない場合は所有物を競売することを申し 入れた。東本願寺にとって最重要な枳殻邸を差し押さえる、と強行に談判させ、中上川は「明治の仏 敵」と寺社関係者から罵詈雑言を浴びせられても、断固として手を緩めず取り立てた。本願寺側はこ れにあわて、180万円もの寄付を集めて三井銀行に返済した。中上川は、次々と不良貸付を回収してい った。こうした中上川の経営スタイルは、強権には強く、業績を上げた者には思い切った高給で報い ~ 64 ~
  • 65. る、近代的な合理主義であった。 あるとき、京都・祇園で遊興をつづけていた維新の元勲である伊藤博文から、三井銀行へ借金の申し入れ があった。中上川は、この使いの秘書に借金の担保を請求した。秘書はいつもと勝手が違うので困惑し、念 を押すように伊藤博文の名を強調したが、中上川はとりあわない。 「総理大臣であろうと、担保のない方に金を貸すわけにはいきません」 中上川は、政界との腐れ縁を断ち、 「返済されざる賃金」を廃止することにした。こうして毅然たる姿勢で 対処し銀行業務の正常化をはかった。 また、官金取扱業務は三井銀行の近代化を阻むものであると考え、この業務からの脱却を行った。 旧三井物産を築いた益田孝が三井の商業化を進めたのに対し、中上川は、三井の工業化を推進した。 中上川は、王子製紙、鐘淵紡績、北海道炭鉱鉄道、芝浦製作所を三井の傘下にしてしまった。 中上川は47歳で亡くなり、三井で活躍したのは10年間であったが、彼の才知により、三井財閥は大 きく前身する力を得たのである。 (4)中上川の評価 日本産業史上における中上川の意義について、 「中上川彦次郎伝」の著者である白柳秀湖は次の三点 を指摘している。 ①明治維新後も長年続いていた藩閥の権力者と富豪との間の慣れ合い的な金のやりとり、財政の 私物化を断ち切った。 ②三井の工業化を押し進めたこと。それまでの金貸し、ブローカー的な銀行業務を近代化し、官 金預託業務を廃止し、商業銀行化を進め、銀行、物産から、生産的な工、鉱業に比重を移して いった。また、三井を総合的な企業グループへと切り替え、三井銀行、三井物産、三井鉱山、 地所、工業部などの機構を整備した。 ③少壮有為の人材を思いきって登用した。 旧幕からの商人タイプから近代的な実業家に切り換え たため、この実業家たちが日本の産業を転換させた。毎日新聞を大新聞に発展させた本山彦二、 東洋の砂糖王といわれた藤山雷太、製紙王といわれた王子製紙の藤原銀次郎、三越を創った日 比翁助、三井財閥の総帥・池田成彬、阪急グループの創設者小林三、森永製菓の森永太一郎ら、 その後のわが国の代表的な実業家を育て上げた。 【引用文献】 ・前坂俊之「日本経営巨人伝⑨中上川彦次郎」 http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=550 ■設問15 設問15 ●中上川彦次郎のアントレプレナーシップ論 1. 中上川の出自はどのようなものか。それは事業に有利であっただろうか。 2. 中上川が学んだ頃の時代背景を説明しなさい。 3. 人脈、ネットワークは中上川に有利に働いたか。 4. 三井家は、中上川入社の前後で、どのように変化したか。 5. 自分が中上川を評価すると、評価できる点は何か。 ~ 65 ~
  • 66. 【ケース ④】益田孝:世界初の総合商社を創る 益田孝:世界初の総合商社を 益田孝(ますだ・たかし) 。 嘉永元年(1848年)生まれ、昭和13年(1938年)没。草創期の日本経 済を動かし、三井財閥を支えた実業家。明治維新後、世界初の総合商社・ 三井物産の設立に関わり、 更に日本経済新聞の前身である中外物価新報を 創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号した。男爵。 (1)生い立ち 徳川幕府・佐渡奉行下役の長男として、 現在の新潟県佐渡市相川に生ま れる。幼名は徳之進。父の鷹之助は元来は佐渡の地役人で採用され、正式 な幕臣ではなかったが、 能吏として評価されて後に幕臣に取り立てられた 人物である。父親が箱館(函館)奉行の下役を務めたのちに江戸に赴任し、 益田孝も江戸に出て、息子である孝の出仕を願い出て許可され、孝は幕府の外国方(外交業務)に従 事することになる。この外国方勤務が益田孝の人生の転換点となる。ヘボン塾(現・明治学院高校) に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に護衛役として勤務する。アメリカ公使館は、公 使ハリス、のちに暗殺される通訳官ヒュースケンらが駐在し、ここに幕府の外国方の通訳として詰め ていたのが若干14歳の益田であった。ハリスは気難しい性格だったらしく、机を叩いて叱る声がハリ スの二間先の彼の部屋まで聞こえたと言う。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともにヨ ーロッパを訪れている。帰国後は、幕府陸軍に入隊。慶応3年6月には旗本となり、慶応4年(1868年)に は騎兵頭並に昇進した。 (2)明治維新後 明治維新後は、自身が身につけた英語力を武器にして商売を始めようと期し、アメリカのウォルシ ュ・ホール商会にその英語力を認められて横浜の貿易商館の事務員に迎えられた、 明治5年(1872年)、井上馨(長州出身の明治の元勲、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、 大蔵大臣を歴任。 )の勧めで大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪に赴任し、貨幣の切り替えにともなう 金貨鋳造に取り組んだ。明治7年(1874年)には、井上から英語力を買われ、井上が設立した「先収会 社」で副社長に就任した。先収会社は、本店を東京に、支店を横浜、大阪、神戸に置き、陸軍省御用 として、絨、毛布、武器などを輸入するほか、銅や石炭、紙、米、茶、ロウなどを商っていた。特に 山口県の地租引当米の販売を担当するなど、米の売買で大きな利益を収めた。 ところが、明治8年(1875)12月、井上馨が元老院議官に任命され、特命副全権弁理大臣として朝 鮮に派遣されることになったため、先収会社は閉鎖されることになり、明治9年(1876年)7月、益田 は三井組の支援を得て、先収会社を改組して「三井物産」を設立し、初代社主は三井組のトップであ る三井武之助高尚と三井養之助高明としたが、総轄(現在の社長)は経営の実権を全面的に委任され た益田孝が就任した。三井物産は、綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期 には日本の貿易総額の2割を占める大商社に育て上げた。 (3)三井物産の創業者社長として 益田は、三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎 (商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋出身者が優勢を占めた。三井内部では、工業 化路線を重視した中上川彦次郎に対して、益田は商業化路線を重視したとされている。しかし、明治 24年に中上川が三井物産の理事に就任して、三井物産の実権を握り、益田は平の役員である委員に落 とされて雌伏の日々を送ることになる。明治34年に三井財閥の総帥であった中上川が死去すると、益 田が実権を握りトップに復帰した。益田は、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾を中心と する学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総 帥には団琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた。また、益田は工部省から三池炭鉱の払下げを受 け、明治22年(1889年)に三池炭鉱社(のちの三井鉱山)を設立、団琢磨を事務長に据えた。 益田は、金融業が主力であり金貸しに傾きがちであった三井を貿易商社、鉱山経営という実業路線 の強化により幅を広げさせ、三井財閥の基礎を作った。益田が「三井の大番頭」と呼ばれるのはこの 功績によるところが大きい。また、明治後半までの三井は、総本家、本家、連家のという11の家がそ れぞれ資産を所有する一族の家族連合体であったが、益田が欧州の富豪経営を視察調査した上で、合 名会社の組織を取り入れ、明治42年、他の財閥に先駆けて三井合名会社を頂点とするコンツェルン体 制を確立した。他の財閥が本社を合名会社か合資会社とし、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッ ~ 66 ~
  • 67. ド型に結合する形は一般化した。大正2年(1913年) 、益田は三井物産を辞任し隠居生活に入った。 (4)茶人として 益田は明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年 益田鈍翁の建てた箱根の『白雲洞』 (1906年)には小田原市の板橋に掃雲台を造営し、「白 雲洞」「不染庵」「対字斎」という庵を立てた。この ・ ・ ことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めと なっている。 近代小田原三茶人の1人としても知られる。 趣味の茶器収集も有名であった。 「鈍翁」(どんのう) の号は、益田が収集した茶器「鈍太郎」に由来する。 墓所は護国寺にある。 また、弟で実業家の益田英作も、 野々村仁清作の色絵金銀菱文茶碗(重要文化財)など に代表される収集家である。また、共に箱根強羅の別 荘地開発に深く関わった。大正15年(1926年)には慶 應義塾大学医学部に寄附を行い、食養研究所が設立さ れた。 ■ 三井物産の沿革 1874年(明治7年)3月 井上馨、益田孝らとともに先収会社を設立。 1876年(明治9年)7月 井上馨の政界復帰に伴い、先収会社の事業をもとに三井物産会社を設立。 益田孝が総轄に就任。 1889年(明治22年)6月 三池炭鉱社(のちの三井鉱山)と三池炭の一手販売契約締結。 1920年(大正9年)4月 綿花部を分離し、東洋棉花(のちのトーメン、現豊田通商)設立。 1937年(昭和12年)7月 造船部を分離し、玉造船所(現三井造船)設立。 1942年(昭和17年)12月 船舶部を分離し、三井船舶(現商船三井)設立。 1947年(昭和22年)7月 財閥解体によりGHQより解散命令。同年11月、旧三井物産解散。 1949年(昭和24年)5月 第一物産、東証上場。 1959年(昭和34年)2月 第一物産を中心に旧三井物産系新会社結集、大合同成る。 1969年(昭和44年)4月 オーストラリア・マウントニューマンからの鉄鉱石出荷開始。 1969年(昭和44年)7月 三井グループ17社により三井石油開発設立。 1971年(昭和46年)2月 アメリカNASDAQに上場。 1971年(昭和46年)3月 リース事業部を分離し三井リース事業(現JA三井リース)設立。 1977年(昭和52年)5月 アブダビ・ダス島のアブダビLNG生産開始。 1989年(平成元年)10月 イラン・ジャパン石油化学(IJPC)より正式撤退。 1995年(平成7年)6月 オーストラリア・ワンドゥー油田取得。 2009年(平成21年)2月 ロシア・サハリン2LNG生産開始。 2010年3月期決算 資本金3,414億円、連結売上高9兆3,583億円。 【引用文献】 港区人物データベース http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=132 三井広報委員会ホームページ http://www.mitsuipr.com/history/hitobito.html ■設問16 設問16 ●益田孝のアントレプレナーシップ論 1. 増田の出自はどのようなものか。それは事業経営にとって有利であったか。 2. 父親と子(益田孝)にわたり「立身願望」を持っていたと思われるが、それはどこに あるか。 3..益田が出世した理由は何か。 4. 三井組は、益田の入社後にどのように変化したか。 5. 益田は、岩崎弥太郎、渋沢栄一と比較すると、企業経営者としてどこが異なるか。 自 分の考えを述べなさい。 ~ 67 ~
  • 68. 【ケース ⑤】豊田佐吉:世界のトヨタの祖 豊田佐吉:世界のトヨタの のトヨタの祖 豊田佐吉(とよだ・さきち) 。 1867年(慶応3年)生まれ、1930年(昭和5年)没。日本の実業家。 (1)生い立ち 慶応3年(1867年)、遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)の 貧しい農家兼大工の家に生まれた。佐吉は小学校を卒業した後、父伊 吉のあとを継いで大工の修業を始めたが、13歳を過ぎた頃より新聞・ 雑誌を読みふけり、国家や社会、人生などについて深く考えこみ、何 か成しうる事業は無いかと考慮を重ねる毎日だったという。 (2)発明家を志す 、18歳の時に専売特許条例が公布され、それ以 1885年(明治18年) 来、「教育も金もない自分は、発明で世に出よう。 」と決心し、発明を 志した。そうして、最初に原動力を案出しようと、永久・無限動力の発明にとりかかった。しかし、「な るべく早く、国・社会のためになるものを」との思いから、当時政府の主導で機械化され大規模に行 われ始めた糸紡ぎ以上に、作業負荷の高い織布こそ機械化して、大仕掛にする必要があるとの考えの もと、動力機械の発明・研究に専念した。当時の織布業の経営実態などを考慮して、まず簡単で身近 な手織機から着手し、苦労の末に1890年に「豊田式木製人力織機」を発明し完成させ、初めて特許を 取得した。 (3)発明と改善 しかし、人力織機では能率に限界があることから、佐吉は再び当初から目指した動力織機の研究に 着手し、1896年、遂に日本で最初の動力織機である「豊田式木鉄混製動力織機」の発明・完成に成功 した。この発明により佐吉翁の工場には、時の総理大臣をはじめ、政府高官ほか名士多数が訪れて惜 しみない賛辞が送られた。なかでも大隈重信伯からは、 「発明という仕事は、外国人と知能の戦争をす ることである、負けをとらないようにしっかりやってくれ」と激励があり、さらに、従業員に金一封 が授与されたという。 こうして32歳の豊田佐吉は、日本一の織機の発明者として全 国にうたわれるようになる。この高い生産能力をもつ動力織機 は、瞬く間に広く普及し、時流に先んじた発明・完成で、日清 戦争で疲弊した国家財政の建て直しという、国策の遂行に大き く貢献した。1899年12月には、三井物産より要請があって、織 機の製造販売に関する契約が結ばれ、合名会社井桁商会が設立 された。佐吉の発明・研究はさらに着々と進み、1901年10月に は経糸(たていと)送出装置の特許を出願する。この送出装置 は現在も使用されている装置の原型をなすもので、画期的な発 明であった。その他にも織機の自動化に向けた重要発明に成功 し、試験研究と創造を重ねていった。 そうして豊田佐吉は「発明の足場」として、1911年(明治44 年)に豊田自働織布工場(後の豊田自動織機製作所の栄生工場 で、現在は産業技術記念館)を設立し、研究および発明、創造 を重ねた。発明上の信念とする「創造的なものは、完全なる営 業的試験を行うにあらざれば、発明の真価を世に問うべからず」 に基づいて、紡織一貫の大規模で長期の営業的試験、研究を操 り返した。更に、より完全なる試験を行うため、新たに愛知県 刈谷町に営業的試験工場を設立した。 1924年11月、佐吉は、世界最初で最高性能の完全な「無停止 杼換式(ひがえしき)豊田自動織機(G型)」を誕生させた。このG 型自動織機は、 高速運転中にスピードを落とすことなく杼(ひ) を交換して緯糸(よこいと)を補給する完全な自動織機であっ た。この自働織機は、従来の織機の15~20倍以上という画期的 な生産性と合わせて、織物品質も大幅に向上させた。 ~ 68 ~
  • 69. このG型自動織機の発明・完成は、国際労働会議の決議による工場法の改正、 「女子・年少者の深夜 業の禁止」と世界的な不況克服の産業・経営合理化対策など、時流に先んじたものであった。先端的 な発明を実現し、広く繊維産業の発展に大きく貢献し、発明を目指した豊田佐吉の思想は見事に実現 された。 (4)株式会社豊田自動織機製作所の誕生 豊田佐吉が究極の発明目標としたG型自動織機が、事実上の豊田自動織機製作所の誕生となった。自 動織機を量産する新工場の用地は刈谷の試験工場に隣接した場所に決定、1926年11月、株式会社豊田 自動織機製作所が創立された。佐吉の自動織機は24に及ぶ特許があり、それらは不良品を未然に防ぐ 装置であった。後工程に不良品を送らない佐吉の自動織機は、機械に人間の知恵を付与するその考え 方が、人偏のついた「自働」にこめられているという。 1926年の豊田自動織機製作所の設立時、佐吉は59歳であったが、婿養子の豊田利三郎を社長とし、 トップから退いた。晩年は会社経営を子息に譲ったが、 「一人一業」を説く佐吉は、息子である豊田喜 一郎(トヨタ自動車第二代社長、実質的な創業者)に、次代の事業として国産自動車の製造を勧めて いた。1930年(昭和5年)10月30日、佐吉は逝去した。 (5)国産自動車の開発 1936年のトヨタ初の乗用車「AA型乗用車」 1923年(大正12年)、関東大震災で鉄道の機能が麻痺した時、 復旧に重要な役割を果たしたのは自動車だった。 それ以降、 外国 車が非常な勢いで輸入されるようになる。当時、 豊田自動織機製 作所の常務だった喜一郎は、 外国車の活躍の影で自動車製造の準 備を進め、1933年(昭和8年) 、豊田自動織機製作所に自動車部 門を設置し、1935年大型乗用車試作第1号が完成した。国策上の 要請に応え、 トラックとバスの製造にも同時に着手。 1935年(昭 和10年)11月には、東京芝浦で一足先に量産体制が整ったトラ ックを一般公開。 次いで生産が軌道に乗り始めた乗用車について も、1936年(昭和11年)9月に、東京丸の内の東京府商工奨励館 で大衆乗用車完成記念展覧会を開催した。 (6)トヨタ自動車の歴史 この発表会翌日、豊田自動織機製作所は日産自動車株式会社とともに自動車製造事業法による許可 会社に認定された。国策は自動車事業発展のために急速な増産体制を要望していたが、当時、豊田自 動織機製作所の事業は拡大の最中にあり、リスクの多い新規事業への大量資金の投入には慎重を要し た。しかし一方で、自動車の本格的な生産を目指して準備が進められ、1937年(昭和12年)8月、自動 車部門が分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社が設立された。 (トヨタ自動車の沿革) 1930年(昭和5年) 豊田喜一郎、小型ガソリンエンジンの研究を開始。 1930年(昭和5年) 豊田佐吉、逝去。 1933年(昭和8年) (株)豊田自動織機製作所に自動車部を設置。 1936年(昭和11年) トヨダAA型乗用車発表。 1937年(昭和12年) トヨタ自動車工業(株)設立(資本金1,200万円)。 1938年(昭和13年) 挙母工場(現本社工場)操業開始。 1950年(昭和25年) 経営危機(労働争議・人員整理)。トヨタ自動車販売(株)設立。 1955年(昭和30年) トヨペット・クラウン、トヨペット・マスター、クラウン・デラックス発表。 1957年(昭和32年) 国産乗用車 対米輸出第1号(クラウン)。米国トヨタ自動車販売(株) 設立。 1959年(昭和34年) 元町工場操業開始。 1966年(昭和41年) カローラ発表、日野自動車工業(株)と業務提携発表。 1967年(昭和42年) ダイハツ工業(株)と業務提携発表。 1975年(昭和50年) 住宅事業に参入。 1982年(昭和57年) トヨタ自動車工業(株)、トヨタ自動車販売(株)合併。新社名「トヨタ自動車(株)」。 1984年(昭和59年) 米国でのトヨタ・GM合弁会社(New United Motor Manufacturing, Inc.)生産開始。 1988年(昭和63年) 米国 TMM(現Toyota Motor Manufacturing, Kentucky, Inc.)生産開始。 1989年(平成元年) 米国 LEXUS店設立。 1992年(平成4年) 英国 TMUK(Toyota Motor Manufacturing(UK)Ltd.)生産開始。 1997年(平成9年) プリウス(ハイブリッドカー)発表。 1999年(平成11年) 国内生産累計1億台達成。 2000年(平成12年) 中国 四川トヨタ自動車(有)生産開始。 2001年(平成13年) フランス TMMF(Toyota Motor Manufacturing France S.A.S.)生産開始。 2002年(平成14年) モーターレースF1参戦。中国 天津トヨタ自動車(有)生産開始。 2008年(平成20年) プリウス販売累計100万台達成。 ~ 69 ~
  • 70. (トヨタ自動車の年間生産・販売台数の推移) 【引用文献】 ・トヨタ自動車ホームページ http://www2.toyota.co.jp/jp/history/index.html ・トヨタ自動車、豊田佐吉記念館 http://www.toyota.co.jp/jp/about_toyota/facility/sakichi/ ■設問17 設問17 ●豊田佐吉のアントレプレナーシップ論 1. 豊田の出自は、起業家と関係があるかについて述べなさい。 また、豊田は少年期に自分の置かれた環境から、どのような人生を目指したのか。 2. 豊田が起業した当時の時代背景を簡単に述べなさい。 3. 豊田の発明した製品はどこで使われ、どのような効果があったか。 4. 佐吉の死後、会社はどのように発展したか。 5. トヨタ自動車の発展期はいつ頃か。 6. 豊田佐吉は、岩崎弥太郎、渋沢栄一に比べて起業家人生がどのように異なるか。 ~ 70 ~
  • 71. 【ケース ⑥】古河市兵衛:挫折からの復活 古河市兵衛:挫折からの からの復活 古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ) 。 天保3年(1832年4月16日)生まれ、明治36年(1903年)没。日本 の実業家で、古河財閥の創業者。 京都出身。幼名は木村巳之助、 幸助。 (1)生い立ち 生家の木村家は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄であったが、父の 代には没落 没落しており、市兵衛は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮ら 没落 しで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営 んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行 をすることを希望し、嘉永2年(1849年)、盛岡に向かう。 (2)養子家での事業 市兵衛は、盛岡では高利貸しの叔父のもとで貸金の取立てを手伝う。やがて南部藩御用商人の鴻池 伊助店に勤めるが、まもなく倒産する。安政4年(1857年) 、叔父の口利きで京都・小野組の番頭だっ た古河太郎左衛門の養子となり、翌年には古河市兵衛と改名した。 その後、養父と共に生糸の買い付けを行っていたが、養父に才能を認められ、順調に小野組内の地 位を高めていく。明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功 を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、市兵衛が奉公していた小野組は壊滅 的な打撃をこうむり、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。 (4)鉱山への進出 しかし、その際、小野組と取引があった渋沢栄一が経営していた第一銀行に対し、市兵衛は倒産し た小野組の資産や資材を提供して第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢栄一という有力な協力者を得るこ とに成功した。 小野組の破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営で あった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。続いて新潟県の草 倉鉱山の入手を企て、渋沢栄一から融資の内諾を得るも、やはりこれも最初は政府の許可が得られな かった。 しかし、市兵衛は小野組時代からの縁があった元相馬藩主を名義人として立て、市兵衛が下請けと して鉱山経営を行う条件で政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。明治8年(1875年) のことであった。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意 を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる。 明治10年、古河市兵衛は、草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収 した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、その後渋 沢栄一も共同出費者として名を連ねた。当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた 結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の 可能性は低いと判断されていた。そのため一時官 営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時に 1895年頃の足尾銅山 はお雇い外国人ゴットフリイの調査結果に基づ き民間に払い下げられていた状態であった。しか し市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然 たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われ ていないことにあると見抜き、チャンスとみて足 尾銅山の経営に乗り出したのである。 (5)鉱山経営の苦闘と成功 しかし、市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した 当初は、銅山は経営にならない悲惨な状況が続い た。まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切って いた山師集団(鉱山労働者達)の強い反発に遭っ た。そのためせっかく経営権を入手したものの、 ~ 71 ~
  • 72. 市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。続いて山師集団 の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったものの約4年間にわたって全く成果があがらない状況が 続いた。現場責任者の坑長も立て続けに三人交代し、四人目のなり手が現れないありさまであった。 明治13年(1880年) 市兵衛は四人目の坑長として当時まだ二十代の半ばであった甥の木村長兵衛を 、 抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。その後、足尾銅山 では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、またたくまのうちに日本を代表する大銅 山へと発展した。市兵衛は採鉱事業の近代化を進め、西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山 は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日 本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。 市兵衛は、足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などの多くの鉱山を経営し鉱山王と称され、のちの古河 財閥の基礎を築いたが、足尾銅山の急激な発展は市兵衛の晩年である1890年代から足尾銅山鉱毒事件 として社会問題化した。 市兵衛は鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手した。明治17年(1884 年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅 所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになる。 (6)古河財閥 市兵衛は、古河財閥の源流である古河本店(現・古河機械金属)を明治8年(1875年)に創立した。 古河本店は、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て、事業の多角化・近代化を強力に推進し、 一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学 工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。 第二次大戦までの古河財閥の主要な傘下企業は、以下の通り。 古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機ホールディングス) 、 富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽 金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほコーポレート銀行) 、大成火災海上 保険(現・損害保険ジャパン)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・ト ウペ) 、大日電線、日本電線(現・三菱電線工業)など。 ■設問18 設問18 ●古河市兵衛のアントレプレナーシップ論 1. 古河は、どのような出自であったかを簡単に述べなさい。 2. 古河は、 「生計上必要だった起業家」か、それとも「自分で機会を活かした起業家」か。 3. 古河の性格をどう想像するか。自分の想像で述べなさい。 4. 古河は、生糸等の繊維業に従事しながら、なぜ異分野の銅山経営に進出したのだろうか。 自分の想像で推察しなさい。 5. 古河の人脈、ネットワークはどのようなものと想像するか。自分の考えを述べなさい。 6. 古河の挫折とは何か。 ~ 72 ~
  • 73. ■まとめ:明治の起業家論のポイント まとめ:明治の起業家論のポイント 項目 論点 1.起業にいたる時代背景 文明開化、西洋近代技術の導入、四民平等、 富国強兵、薩長藩閥、など。 2.出自、性格、教育、思想、価値観 武士、豪農、貧しさ、階級への反発、青雲 の志、寺小屋、藩校、儒教、など。 3.明治の起業家は、何に影響されたか 尊王攘夷、統幕運動、欧米列強、文明開化、 欧州視察、主家の衰亡、など。 4.起業家・事業経営者としての個人的強さ 武士の魂と価値観、幼年の貧しさ、闘志、 信念、など。 5.人脈、ネットワーク 薩長との結びつき、明治新政府、武士の人 脈、欧米との人脈、など。 6.公権力(幕府、政府)との関係 薩長出身の権力者との関係、など。 7.事業形態(組織) 家業、株式会社、同族グループ(財閥)の 形成、専門的近代経営者、など。 8.事業の後世代への後継 強い家業意識、後継者・相続者、など。 9.明治のアントレプレナーの長所と弱点 教育、組織、企業統治、国際化、など。 10.明治において、起業家が経済社会に果たした 民間産業資本の拡大、近代会社経営の浸透、 役割とは何か など。 ~ 73 ~
  • 74. Ⅱ.昭和の起業家 昭和の 1-①昭和の年表 年号 年 ⻄暦 出来事 起業家 ⼤正 2 1913 第一次憲政擁護運動始まる。 3 1914 第一次世界⼤戦勃発。⼤戦景気。 7 1918 シベリア出兵、米騒動。原敬が首相就任。 (⼤7)松下幸之助、⼤阪市で松下電気器具製作所を創業。 12 1923 関東⼤震災。 14 1924 普通選挙法成⽴。 15 1925 ⼤正天皇崩御、昭和に改元。 (⼤15)豊⽥佐吉、豊⽥⾃動織機製作所を設⽴。 昭和 2 1926 昭和⾦融恐慌。多数の銀⾏が破綻。 4 1929 世界恐慌。 (昭3)本⽥宗一郎、浜松市で独⽴し⾃動⾞修理業を始める。 6 1931 満州事変。 7 1932 満州国建国。五・一五事件。 8 1933 国際連盟脱退。 11 1936 二・二六事件。 12 1937 日中戦争勃発。 (昭12)トヨタ⾃動⾞⼯業設⽴。 14 1939 独、ポーランド侵攻。第二次世界⼤戦。 16 1941 真珠湾攻撃。太平洋戦争開戦。 18 1943 日本軍ガダルカナル島撤退。 20 1945 ポツダム宣⾔を受諾。終戦。 昭和 21 1946 日本国憲法公布。 (昭21)盛⽥と井深、東京日本橋に東京通信⼯業を設⽴。 24 1949 ドッジ・ライン実施。 (昭24)ホンダ、モーターサイクルの第一号機種を発売。 25 1950 朝鮮戦争勃発。日本は朝鮮特需。 26 1951 サンフランシスコ講和条約調印。 30 1955 ⾃由党、日本⺠主党合同、⾃由⺠主党発⾜。 (昭30)松下幸之助、⻑者番付で日本一になる。東京通信⼯業、日本 初のトランジスタ・ラジオを発売。 32 1957 なべ底不況。 (昭32)中内功、⼤阪市千林駅前に主婦の店ダイエー薬局を開店。 (昭34)稲盛和夫、京都セラミック株式会社を創業。 35 1960 日米安保条約改定。所得倍増計画。 (昭35)ソニー、アメリカ販社を設⽴し、盛⽥がアメリカに赴任。江副浩正、 ⼤学卒業直後にリクルートを創業。 37 1962 オリンピック景気始まる。 39 1964 東海道新幹線開通。東京オリンピック。 (昭39)テレビの値引き販売をめぐって、「ダイエー・松下戦争」が勃発。 41 1966 日本の総人口が1億人を突破。いざなぎ景気。 (昭42)ホンダ、本格的に軽四輪⾞に進出。N360販売開始。 45 1970 日本万国博覧会。よど号ハイジャック事件。 46 1971 ニクソンショック。円切り上げと変動相場制移⾏。 47 1972 札幌オリンピック開催。沖縄返還。 (昭47)ダイエー、小売業界で売上高日本一に⽴つ。 48 1973 第一次オイルショック。 51 1976 「ロッキード事件」。 53 1978 日中友好平和条約。 54 1979 第二次オイルショック。 (昭54)第二電電企画株式会社を設⽴、稲盛和夫、会⻑に就任。 60 1985 プラザ合意。円高始まる。 (昭59)トヨタ、米国で合弁生産開始。 62 1987 バブル景気始まる。国鉄⺠営化でJR各社発⾜。 63 1988 「リクルート事件」。 (昭63)ダイエー、南海ホークスを買収しプロ野球業界へ参⼊。 ■起業家列伝の学習ポイント 起業家列伝の学習ポイント 1. 第二次大戦後から現在までの基本的な日本の経済史を把握する。 2. 第二次大戦後の混乱期に「起業家」が企業を起こした背景、そして三度のベンチャーブ ームの状況と背景を理解する。 3. パナソニック、ホンダ、ソニーといった世界に名だたる日本企業の創業過程を知る。 4. 起業家の失敗を知り、その原因を考えてみる。 5. それぞれの起業家の生きざまを知り、現代の我々と比較する。 ~ 74 ~
  • 75. 【ケース ⑦】松下幸之助:パナソニックの創業者 松下幸之助:パナソニックの 松下 幸之助(まつした・こうのすけ) 1894年〈明治27年〉生まれ、1989年〈平成元年〉没。日本の実業家。 パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所→松下電器製作所→松下電 器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者で、小学校中退の学歴で 日本の長者番付トップとなり、 「経営の神様」と称された。 自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP 研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、 晩年は松下政経塾を立ち上 げ政治家の育成にも意を注いだ。 (1)生い立ち 1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村(現:和歌山市)に、小地 主であった松下政楠の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとす る。 1899年頃、父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町に転居し下駄屋を始めた。しか し父には商才もなく店を畳んだため、松下は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公 に出される。後に、奉公先を五代自転車に移した。 自転車屋の奉公時代、店主に度々タバコを買いに行かされた。その際いちいち買いに走るよりもまとめ買いして 置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭をためた。しかしこれが丁稚仲間から 反感を買い、店主にやめるよう勧められたためにまとめ買いを止める。 大阪に導入された路面電車を見て感動し、「これからは電気の時代が来る」 と直観し、大阪電燈(現: 関西電力)に見習工として入社し、7年間勤務する。1913年、大阪市関西商工学校夜間部予科に入学す るも、翌年に夜間部本科を中退。 大阪電燈の高津営業所の近くの鰻谷に、住友家の本邸があった。幸之助は、工事の途中、よくその門前を通った。 当時、住友家といえば、三井、岩崎と並び称せられる日本有数の大富豪であり、もちろん関西随一の大金持ちだっ た。その本邸は実に豪壮で、大きな門構えには近寄りがたい雰囲気があった。彼は、その門前を通るたびに、その 立派さに驚いていた。 その後三十年余が経ち、松下の事業も拡大し、住友銀行との関係も深まってから、彼は夫妻で住友家から一夕の 招待を受けた。その場所がこの鰻谷の屋敷だった。すでに住友本邸は芦屋に移りここは別邸になっていたが、彼は 昔のことをしのび、感慨無量の思いで門をくぐったという。 (2)独立して起業 大阪電燈では、当時の電球が自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外 しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すこと ができる電球ソケットを大阪電燈在職中に考案する。 1917年(大正6年)、松下幸之助は大阪電燈を退職し、大阪府東成郡鶴橋町 (現:大阪市東成区玉津)の自宅で、妻・むめのと、その弟の井植歳男(営 業担当、後に専務取締役。戦後に三洋電機を創業して独立。 )および友人2名 の計5名で、電球ソケットの製造販売に着手した。しかし、新型ソケットの売 り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在の パナソニック・エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことに より窮地を脱した。その後、アタッチメントプラグ、二股ソケットがヒット したため、経営が軌道に乗る。 事業拡大に伴い、1918年(大正7年)に大阪市北 区西野田(現:大阪市福島区大開)で松下電気器具 製作所を創業。 電球ソケットに続き、カンテラ式で 取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、 これ らのヒットで乾電池にも事業を広げた。1929年、 会社を松下電器製作所へ改称すると共に、会社の 「綱領・信条」を定めた。 1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創 業記念式を開き、 ヘンリー フォードにならった ・ 『水 道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を 、 、 ~ 75 ~
  • 76. 社員に訓示した。また、事業拡大のため門真市に本社・工 1937年当時の「ナショナル」の広告 場を移転した。当時門真市から枚方市にかけての地域は大 阪市内から見て鬼門に当たるとされて開発が遅れていた地 域であったが、松下は東北に細長く延びる日本地図を指し て「日本列島はほとんどが鬼門だ」といい本社移転を断行 した。1935年には松下電器産業株式会社へと社名変更し、 ついで1937年、松下は松下電器の統一的なイメージづくり のために、一部で使用していた「ナショナル」マークを改 正・統一し、松下のすべての製品につけるというブランド 戦略を昭和初期に他社にさきがけて実行した。 (3)軍需生産と終戦 第二次世界大戦中は、 松下は政府の下命で軍需品の生産に協力し、 いわゆる軍需工場となった。1943 年4月に松下造船株式会社を設立し、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造。ついで 1943年10月には松下航空機株式会社を設立し、練習用の木製急降下爆撃機を終戦までに7機試作したが、 品質と信頼性に対する認識不足から失敗に終わった。 終戦後、GHQは松下電器を戦争に協力した財閥会社とみなして制限会社に指定し、幸之助・井植以 下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受けた。松下は、 「松下電器は一代で築き上げたもの で、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と一貫して反論を続けた。1946年11月 にはPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出すことで世評を高め、 戦後に人員整理を極力避けたことを評 価した松下電器の労働組合もGHQに請願したため、松下電器はまもなく制限会社指定を解除され、松 下も1947年に社長に復帰した。 (4)長者番付日本一 続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、直営工場の操業時間短縮・人員大量整理・賃金抑制 を断行し、危機を乗り切った。 その後の松下電器は順調に業績の拡大を続けた。松下は、1950年以降、長者番付で10回の全国1位を 、また40年連続で全国100位以内に登場し 記録し(1955~1959年、1961~1963年、1968年、1984年) た。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000 どこの町にもあったナショナル・ショップ 億円の資産を築いたと推定されている。 1951年、テレビ事業視察のため外遊し、翌1952年にオラン ダの電機会社フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工 業として分社化、1997年4月松下電器に統合) 。1954年には戦 前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金 相当額を投入して日本ビクターを子会社化した。 1957年、松下電器は全国の「街の電器屋さん」が加盟する 日本で最初の系列店ネットワーク「ナショナル店会」 (後のナ ショナル・ショップ)を発足させる。この制度は高度成長期 の強大な販売網として機能し、 ピーク時には全国で約5万店に まで増加した(その後、後継者不足や量販店との競争激化に より現在は約1万8,000店にまで減少している) 。 (5)会長就任 松下は1961年に会長に就任して経営の第一線から退くが、松下電器はヒット商品欠如が岩戸景気後 の反動不況と相まって業績が赤字に転落した。また、家電製品の安売り問題をめぐって、当時のダイ エー社長の中内功と30年にわたる「ダイエー・松下戦争」が勃発した。急成長を続ける小売のダイエ ーが松下電器の要請にもかかわらず安売りを続け、全国のナショナル店会の小売業者が苦境に陥って いたからである。1964年7月、松下幸之助は会社とナショナル店会業者を引き締める目的で熱海のホテ ルを借り切り、全国販売会社代理店社長懇談会を開催し、全国の販売店と直談判する機会を設けた。 しかし、ナショナル製品の売れ行き不振や、熾烈なノルマや販促グッズの押しつけ、欠陥テレビの修 理費負担などを販売店側が問題視して紛糾し、幸之助は販売店から3日間にわたり吊し上げられた。こ のため、松下は自ら営業本部長代行を兼務しトップセールスをする現場復帰を余儀なくされた。 1967年7月、公正取引委員会は、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して松下 を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けたも ~ 76 ~
  • 77. のの、松下はこれを拒否したため、全国の消費者から批判を浴びた。 1973年、松下は80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1979年、私財70億円を投じて財団法人 松下政経塾を設立し、政界にも影響力を及ぼそうとした。1989年4月27日に肺癌のため、松下記念病院 に於いて死去した。享年94歳。 (6)松下幸之助の思想 松下幸之助は、独自の思想をもって経営にたずさわり技量を発揮した。それぞれの部門が事業を自 己責任で推進できる事業部制を採用したり、あるいは従業員との対話や企業の一体感の維持に並なら ぬ努力を注いだりしている。1980年には、将来の日本には確固たる信念をもったリーダーの存在が特 別に必要であるだろうという信念のもと、リーダーを育成するための「松下政経塾」を開設した。や がて多くの経営者や政治家が、この門下から輩出されていった。現在、松下政経塾出身の政治家は、 野田佳彦財務大臣、前原誠司前外相をはじめ30名を超えている。 また、松下は、人間が生きる上での理念にも思いを巡らせており、 「繁栄こそが幸福で平和な生活を もたらすものである。今の日本ではその繁栄をもたらす理念が認識されていないから平和な社会が築 けない。」という思想から、1946年、繁栄によって平和と幸福を実現するための研究機関として「PHP 研究所」を創設し、松下みずからもPHP運動に精力を注いだ。 ● 松下幸之助の 水道哲学」 松下幸之助の「水道哲学」 「産業人の使命は貧乏の克服である 産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の 産業人の使命は貧乏の克服である 水は価有る物であるが、乞食がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人 の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を もたらし、この世に楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命もまたその点にある。」 ● 松下幸之助 語録 「価格決定権というのはメーカーが持っている。だからメーカーのゆうたとおりの値段で売ってくれりゃ、あなた方販売店は もうかる。社会のために貢献するんですよ。 」 「企業は社会の公器である。」 「松下は人をつくる会社です。あわせて家電もつくってます。」 「商人に好況、不況は無い。いずれにしてももうけなくてはならぬ。」 「よそさんの品もんのええ所を徹底的に研究して、何か一つか二つ足せばええんや。」 「ご苦労さん、ええもんが出来たな。さあ、今日からこの商品が売れんようになるような新商品を作ってや。」 【引用文献】 ・パナソニック企業情報: 創業者 松下幸之助 http://panasonic.co.jp/founder/ ■設問19 設問19 ●松下幸之助のアントレプレナーシップ論 1. 松下の出自を説明し、それが起業にどのように影響したかについて「自分の考えを述べ なさい。 2. 松下が関西電燈を辞めて起業した頃の時代背景を説明しなさい。 3. 明治の成功した起業家が持っていたような強い人脈やネットワークは、松下にあった のだろうか。 4. 松下の「水道哲学」について簡単に説明しなさい。 5. 松下幸之助の先進性とは何か。 6. 松下は中内功のダイエーと対立したが、どのような見解の相違があったのか。 7. 松下幸之助を評価する点は何か。自分の意見を2つあげなさい。 ~ 77 ~
  • 78. 【ケース ⑧】本田宗一郎:ホンダを創った「町の技術屋」 本田宗一郎:ホンダを創った「 技術屋」 本田 宗一郎(ほんだ・そういちろう) 1906年(明治39年)生まれ、1991年(平成3年)没。 高等小学校卒の自動車修理工から身を起こし、日本の自動車エンジ ンを世界最高レベルにまで高めた技術者、 起業家。独創性にこだわり、 人まねを嫌った。藤澤武夫という名伴侶を得て、一代で「世界のホン ダ」を築いた。ネアカで自由奔放な性格、ユーモア精神に溢れるとい う人間的魅力をそなえ、誰からも愛され、慕われた。晩年は引き際鮮 やかに後進に道を譲り、死ぬ直前も「交通渋滞が起きて迷惑をかける から」と社葬を禁じた。 (1)生い立ち 1906年、静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)で鍛冶屋をして いた本田儀平と妻みかの長男として生まれる。1913年、光明村立山東 尋常小学校に入学。1914年、浜松市でアメリカ・フォード社のT型フ ォードを初めて見て感動する。1917年、浜松町和地山練兵場で飛行機 の曲芸飛行を見学、ここで飛行機を初めて見たという。 (2)小学校卒業後、丁稚奉公で上京 1922年、宗一郎は高等小学校を卒業し、東京市本郷区湯島(現在の 東京都文京区湯島)の「アート商会」 (現:アート金属工業)という 自動車修理工場に入社した。 当時の表現でいえば「丁稚奉公」である。 修理工場で見習い工の職を得たとはいうものの、 修理工場の主人から 押しつけられた仕事は子守であった。 本田はこれに落胆して故郷に帰 ると、6ヵ月もしないうちに元の修理工場に呼び戻されたという。 (3)帰郷して独立 アート商会に6年間勤務した後、1928年にのれん分けの形で浜松市 に支店を設立して独立した。宗一郎ただ1人だけが社長からのれん分けを許された。当時の本田は22歳 で、浜松で修理工場をスタートさせた。 修理工場の経営は順調に拡大していった。宗一郎の自動車に対する思い入れは仕事から自動車レー スに広がり、趣味と実益をかねてレースに参戦し、1936年には平均時速の新記録をつくるまでになっ た。ところが同年、レース中に大事故を起こし、手首まで折るという不幸に見舞われる。本田の妻は 心配のあまり、レースをやめるよう説得した。それでも本田はレースを続けながら、自分の仕事に精 力的に取り組んだ。1937年にはエンジン部品であるピストンリングの製造を手がけ、東海精機重工業 を設立した。同社はピストンリングの改善に2年近い歳月をかけ、トヨタ自動車や中島飛行機に納入で きるようになり、戦前の最盛期には従業員が2,000人を超えるまでに大成長した。 自分の教育のなさを気にしていた本田は、浜松高等工業学校に入学する。仕事に追われて出席する ことが難しく、本田の成績はよくなかった。また、ピストンリングに関係のない講義を聞く気にはな れず、講義のノートも取らなければ試験も受けなかった。本田に後にこう語っている。 「卒業証書なんかに興味はありませんでしたよ。だって何の役にも立ちゃしないんだから。僕の成績はビリだ ったから、卒業試験も受けなかった。校長は私を呼びつけて退学だという。だから言ってやった、卒業証書 なんか欲しくありません。映画館の入場券のほうがよっぽど値打ちがあるってね。入場券は映画館に入れる 保証になるのに、卒業証書はなんの保証にもならないんだから。」 卒業証書を放棄し、学歴のプライドとメリットをあきらめると、一匹狼の本田は自分独自の方法で その運命を切り開いていくことになる。 (4)藤澤武夫との二人三脚経営 第二次大戦後、1948年には東海精機重工業をトヨタ自動車に売却し、45万円を得た。すでに1946年 には本田技術研究所を設立しており、この資金を元手に引退しようとしたものの、技術の魅力にはど うしても勝てなかったという。 1948年、本田は本田技術研究所を継承し、本田技研工業株式会社を設立した。1949年、本田技研工 ~ 78 ~
  • 79. 業は、自社設計で98ccの2サイクル単気筒エンジンを搭載したドリーム号D型の生産を開始した。ホン ダの作ったモーターサイクルの第一号機種である。 本田宗一郎(左)と藤澤武夫(右) 同じ時期に、本田は藤澤武夫(1910年~1988年、 当時は東京から福島に疎開したまま製材業を営んで いた)にめぐり会い、戦後の日本の産業についての 考えが一致した二人はパートナーとして歩むことに 合意する。1949年に本田技研工業に入社して常務に 就任。これ以降、本田は技術に責任を持ち、藤澤は マーケティングと販売に専念することになる。 ホンダの最初の大ヒット製品は1952年に発売した カブF型である。これは客のほうでエンジン単体を 購入して自分の自転車に取り付けるか、あるいはオ ートバイの完成品として購入するか、そのどちらか を選択できた。藤澤武夫は日本全国の自転車店にダ イレクトメールを送って、一気に自前の販売網を作 り上げ、カブF型は大量生産に入った。1年もしない うちに、このカブは毎月6500台を売り上げる大ヒッ トとなり、日本国内のオートバイマーケットの70% を占めるまでになった。 一方で、ルールや慣例に従おうとしない本田宗一郎 の態度は、いくつかの分野で問題を起こした。特に、 他の自動車会社とはうまくことを進めていた通産省 との間で何かと軋轢を起こした。 そんな本田の取った 雇用戦略は斬新で開放的なものだった。 本田の学閥嫌 いから、同社は新卒の学生の採用に問題を抱えていた にもかかわらず、 日本の保守的な企業に断られた優秀 な学生の中に、 本田に魅力を感じた者がたくさんいた。 (4)四輪自動車への進出 企業として基盤が整いつつあった1960年7月、藤澤は、 研究 開発部門を本田技術研究所として独立させた。藤澤の狙いは、 技術者たちが企業の運営に煩わされることなく研究に没頭で きる環境を作ることと、もうひとつ、本田の天才技術者とし てのDNAを組織として受け継いでいけるようにという、未来 への布石であった。 こうして体制が強化され、ホンダは念願であった四輪自動 車へ進出していくこととなる。進出のきっかけとなったのは、 1961年5月に通産省が発表した自動車行政の基本方針 (後の通 称・特振法案)であった。これは自動車メーカーの統廃合や 新規参入の制限を前提としたもので、ホンダは必要に迫られ て急遽四輪車の開発にとりかかり、1963年8月に軽トラック T360を、10月にはスポーツカーS500を発売した。結局、特振法案は廃案となったが、ホンダの車は評 判を呼び、四輪進出は成功を収めた。続いて1967年3月にホンダが本格的な量産車第1号として発売し たのが、軽自動車業界の地図を塗り替えたといわれる「N360」である。5月には月間販売実績が5,570 台を記録し、長年、軽自動車のトップを独占していたスバルを抜いてベストセラーとなった。 この実績をバネに、次にホンダ初の小型乗用車を製作する。1969年5月に発売された「H1300」であ る。本田が陣頭指揮をとり、凝りに凝って開発した空冷エンジンを持つ高性能セダンであった。 「水冷 エンジンは最後には水を空気で冷やすんだから、最初から空気で冷やせばいい」というのが本田の持 論で、H1300はその結晶であったが、販売は振るわなかった。技術的には絶賛されたが、商品として は独創的すぎたことが原因だった。ホンダの商品開発は転機を迎えようとしていた。1969年夏に軽井 沢に本田技術研究所の研究員約60人が集まって「なぜH1300は売れないのか」というテーマで議論が 交わされた。技術者たちは、次の新車は水冷でいくべきと考えていた。しかしそのアイディアは、何 度も本田宗一郎から跳ね返されていた。 説得に立ち上がったのは、これまで技術のことには一切口を出さなかった藤澤武夫であった。 ~ 79 ~
  • 80. 「あなたは社長として残るか、技術者として残るか、選ぶべき時ではないですか。 」 藤澤は問いかけ、本田は「オレは社長で残るよ」と答えた。この本田の答えは、若い者たちの技術 に任せる、という水冷エンジンの容認だった。本田宗一郎の子供のような扱いであった技術研究所の 技術者たちはこれで一人前と認められた。ひとりの天才のDNAがホンダという企業体に受け継がれ、 N360に続く軽自動車「ライフ」は、水冷エンジンを乗せて1971年6月に発売された。 (5)二人三脚経営の転換 順調に成長を続けているように見えたホンダだが、90年代に入ると国内販売が不振に陥り、急激な 円高の進行とも重なって自動車部門は実質赤字へ転落した。こうした状況のなか、1990年に4代目社長 に就任した川本信彦は大胆な改革に乗り出した。まず、役職や年齢を超えてワイワイガヤガヤと自由 闊達な議論を通して、意思決定につなげるホンダ伝統の「ワイガヤ」から、個人個人の役割責任を明 確にした即断即決型の意思決定システムへの移行を図った。販売、生産、開発の間に生まれていた壁 を取り払った。 ホンダはもともと、ひとりの天才技術者と偉大な経営者が両輪となって走ってきた会社であったが、 大企業となったホンダが次世代へと受け継いでいくのは簡単なことではなかった。企業の規模が拡大 する中で、本田と藤澤が作ってきた社風を時代の変化に適合できる形に修正し、基盤を構築すること が川本の仕事だった。この改革が次第に功を奏し、1994年10月にホンダ初のミニバンとしてデビュー した「オデッセイ」が新しいホンダの原動力となった。 本田宗一郎が創立した企業ホンダは、オートバイマーケットにおける支配的な地位を維持し続け、 四輪自動車マーケットにも大きな影響を与えている。21世紀に入った現在も、ホンダは世界ナンバー ワンのオートバイメーカーである。1973年10月、本田は同社の経営から退き、東京にオフィスを構え てホンダ財団の仕事に専念した。1989年、日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果 たした。1991年8月、肝不全のため死去。享年84歳。 ● 本田宗一郎 語録 「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ。 」 「石橋だと分かれば叩かずに、どんどん渡っちゃう。 」 「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある。 」 「人には失敗する権利がある。だがしかし、それには反省と言う義務が付く。 」 「来年も最高のエンジンを作ってやるからな。(1988年、F1ワールドチャンピオンのアイルトン・セナに対し) 」 【引用文献】 ・先輩達の大地:本田技研工業 http://manabow.com/pioneer/honda/index.html ・ダイヤモンドオンライン「本田宗一郎: 常にリスペクトされる エンジニア的経営者」 http://diamond.jp/articles/-/4534 ■設問20 設問20 ●本田宗一郎のアントレプレナーシップ論 1. 本田宗一郎の出自は、彼の起業にどのように影響したか。 2. 本田は、人脈や学歴のなさをどう思っていたか。そして、そのハンディをどのように 克服しようと考えていたと思うか。自分の意見を簡単に述べなさい。 3. 本田の経営手法は、どのような点に特徴があるか。 4. 本田の先進性とはどのような点にあるか。 5. 自分の考えから、本田宗一郎の欠点・弱点・問題点を上げて述べなさい。 ~ 80 ~
  • 81. 【ケース ⑨】盛田昭夫: 世界のSONY」の創業者 盛田昭夫: 世界の 「世界 「 」 盛田 昭夫(もりた・あきお) 1921年(大正10年)生まれ、1999年(平成11年)没。井深大ととも にソニー創業者の一人。ソニーを設立し、半世紀で世界有数のエレクト ロニクス企業に育てた戦後日本を代表する国際派経済人。 (1)生い立ち 1921(大正10)年、愛知県常滑市に酒屋「子の日松」の盛田久左エ門 の長男として生まれる。愛知県第一師範学校付属小学校、旧制愛知県第 一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校) 、第八高等学校を経て、大阪帝 国大学に入学。1944年(昭和19年)、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業し、海軍技術中尉となる。 (2)井深大との出会い 太平洋戦争中の1943(昭和18)年、盛田は海軍の軍需物資監督官であったが、陸海軍と民間の研究 者からなる科学技術研究会において、生涯のパートナーとなる井深大(いぶか・まさる、1908年~1997 年、後のソニー社長。早稲田大学理工学部を卒業し、当時は民間企業の日本測定器常務であった。 )を 知る。2人は敗戦後の混乱の中で音信不通となるが、朝日新聞に掲載された井深の作った短波受信機の 記事で消息を知り再会する。 (3)東京通信工業の立ち上げ 1946(昭和21)年、盛田は東京・日本橋の白木屋デパート3階に東京通信工業を設立。井深の義父の 前田多門(元文相)が社長、井深が技術担当の専務、盛田 盛田昭夫(左)と井深大(右) が営業担当の常務となって事業を始める。 「大会社のできな いことをやり、技術の力で祖国復興に役立てよう」と設立趣 意書で進取の気風をうたった。同社が初めに開発したのは、 国産初のテープレコーダーである。 東京通信工業がワイヤーレコーダーの開発で懸命だった頃、紙 テープで音が出る機械のことを聞いた。井深や盛田は、その頃仕 事の関係で進駐軍のいるNHKの放送会館にしょっちゅう出入りし ていて、ある時CIE(GHQ内の民間情報教育局)の人からそのテー プレコーダーを見せてもらった。実際に音を聴くと、ワイヤーレ コーダーとは比較にならないくらい音が良い。 「これだよ、我々のやるものは。これは、これからの商品だ。テープ でやってみよう。 この時、 」 すでに井深の頭からワイヤーレコーダーのこ とは吹っ飛んでいた。テープレコーダーは、アメリカでもできたばかり の貴重品である。何しろ、その当時日本でテープレコーダーをやろうと 考えている者など誰もいないし、参考書は何もない。唯一あったのが、 丹羽保次郎氏が著した 『音響工学』という本だ。それもたった2行、 『1936 年に、ドイツのAEG社によってプラスチックに磁気材料を塗布したテープ レコーダーが発明された。 という記述があるだけで、 』 何とも心もとない 限りである。テープのベースを何にするか、磁気材料にはどういうもの が適しているのか、何もかもが手探りであった。 ・・・ こうして、製品として日本初のテープレコーダーとなったのが G型である。G型を発売するにあたって、東通工では「テープコ ーダー(Tapecorder)」という登録商標を取った。今後、日本国 内で使われるテープレコーダーすべてを、東通工の商品名である 「テープコーダー」と言わせてしまおうという考えからであった。 続いてステレオ装置を完成させ、 この装置によってNHKが日本初 のステレオ放送を行った。 1955(昭和30)年、東京通信工業は日本初のトランジスタ・ラ ジオを発売した。この年から「SONY」のマークを使用したが、 ~ 81 ~
  • 82. 当時の東京通信工業は「TOTSUKO」というブランドで使いにくい という苦情があったために、SONIC(音)の語源であるラテン語の SONUSと、「小さい坊や」の意味のSONNYをあわせてSONYとし たという。 1950年代、日本のほとんどの家電メーカーがアメリカに輸出する際、ア メリカのメーカー名を付けて売っているというのが実情であった。 それは、 当時日本製品の中で一流品としてアメリカでそのまま通用しているのは、 カメラのNikonとCanonだけという状態で、それ以外の日本製品は「安かろ う悪かろう」の代名詞のように言われていたからだ。 1957年のある日、アメリカ・ニューヨークに着いて諸事を済ませた盛田 は、ぶらりと街に出た。 するとどうだ。東通工のトランジスタ・ラジオが、堂々とSONYの名前を 付け、それこそ一流といわれる販売店の店頭に置かれているではないか。ついこの間、売り出されたばかりという のに、この人気だ。ニューヨークの銀座ともいうべきマジソン・アベニューの名店「Liberty」にも置いてある。 「Liberty」は、第一級のラジオ・レコード店で最高級の品しか置かない格調高い店として有名だ。むろん、これま で日本製品を扱ったことなどない。その店先で、道行く人が立ち止まっては、じっと東通工のトランジスタ・ラジ オに注目していく。あるいは「クリスマスには・・・」と話し合っている。こんな街の様子を見るにつけ、盛田は 何とも言えない喜びを感じた。 東京通信工業のトランジスタ・ラジオも、いろいろなモデルが出てきた。1956年、民生用として画 期的な商品の企画がたてられた。当時世界で一番小さいトランジスタ・ラジオとなった“ポッケタブ ルラジオ” 「TR-63」である。TR- 63型は、これまで世界最小のトランジスタ・ラジオと言われた米リ ージェンシー社のTR-1型ラジオ(4石で127×76×33mmのサイズ)に対して10%小さい112×71× 32mmという小さいサイズで、6石のため感度、出力とも優れており、消費電力もTR-1の半分以下とい うことで、発売早々から評判になった。価格は1万3800円で、これはその当時のサラリーマンの1ヵ月 の平均給与に相当する額であった。盛田はアメリカに輸出のターゲットを定めて、アメリカに販売拠 点を設置した。 TR-63が世に出た当時、小さくて、それこそポケットに入るようなラジオは、アメリカではポケットラジオという 名称で呼ばれており、ポケッタブルというような言い方はしなかった。今でこそ”ポケッタブル”は違和感なしに 使っているが、これは東通工がTR-63を売り出す時にキャッチフレーズとして考えて作った和製英語だった。ところ が、このTR-63、当時の既製のワイシャツのポケットに入れようとしても入らない。残念なことに、若干ラジオのほ うが大きかったのだ。これでは、せっかくのキャッチフレーズが泣いてしまう。それならと、専務の盛田がちょっ とした細工を考え出した。ワイシャツのポケットを少しばかり大きくすれば、何の問題もない。そこで、普通のワ イシャツのポケットより、やや大きめのポケットを付けた特製のワイシャツを用意してアメリカのセールスマンに 着用させ、売り歩かせることにした。「Sony History」より) ( 初めてのポケッタブル・ラジオに対する人々の期待の強さは、このTR-63の1号機と称するものが、 50台も世に出たことで分かる。1号機というのは文字どおり1台だが、何としても1号機を手に入れたい という熱心な東通工ファンの願いをかなえるために、1号機と称されるものが50台も作られるという結 果になってしまったのだ。このTR-63は、東京通信工業のトランジスタ・ラジオのアメリカ向け本格的 輸出1号機であった。輸出価格は約40ドルであった。このアメリカ輸出は大成功で、1957年の暮れには 輸出が間に合わなくなり、日航機をチャーターしてアメリカに大量空輸するほどであった。東通工製 のトランジスタ・ラジオを順調に輸出できるようになったのは、同年の8月に盛田が渡米して、米国で 1、2位に数えられる電気機器販売会社のアグロッド社と東通工製品の長期取扱契約を結んだことが大 きく貢献している。 (4)ソニーへの変更と海外進出 ソニーと変更 1958(昭和33)年、東京通信工業は社名をソニーと変更 ソニーと し、1959(昭和34)年、盛田は副社長(井深は50年から社 長)に就任した。1960(昭和35)年アメリカ販社を設立し 同社の社長に就任。盛田はニューヨークに暮し、米放送大 手CBSと提携して音楽分野に参入するなど、事業の国際化 に努めた。 この年、ソニーは世界初のトランジスタ・テレビ 世界初のトランジスタ・テレビ 世界初のトランジスタ・テレビを発売 した。1961(昭和36)年、ソニーは日本企業として初めて アメリカで株式を新規発行したが2時間で完売し、新たな 「ソニー神話」が生まれた。1971(昭和46)年、盛田はソ ニーの社長に就任し、井深は会長となった。ソニーは発展 を続け、トリニトロン・カラーテレビなどでヒットを続け ~ 82 ~
  • 83. る。1976(昭和51)年、井深の名誉会長就任と同時に会長となった盛田は、自ら企画したウォークマ ンで大ヒットを飛ばすが、一方で家庭用ビデオデッキの企画統一問題では、あくまで自社独自のベー タ方式を堅持し、VHS陣営に市場で敗れる結果となった。 (5)日本製といえば”SONY” ソニーをグローバルな会社にするという盛田の夢の中心には、いつもアメリカのマーケットがあっ た。米国ソニーは、1670年に盛田が設立し、30年有余に渡り自らの手で育てたものである。盛田は、 外国の企業だという印象を与えることなく、ソニーという会社を最強の存在にしようとしていたが、 例外的とはいえそれに成功した。すなわち、1999年の米ハリス社の世論調査によると、ソニーはGEと GMというアメリカを代表する大企業を抜いて、 米国の消費者から最も有名なブランドとして最高の評 価を与えられている。 1973年には、盛田は、家族とともにニューヨーク・マンハッタンにあるアパートに移り住み、一年 以上をそこですごした。実際、米国人に物を売るには、彼らについてより多くの情報と暮らしぶりを 知ることが不可欠だと判断したからであった。井深は彼を行かせることには気乗りがしなかった。本 社で重要な意志決定をすべき会社のNo.2を海外に住まわせた企業はかつて日本にはなかったからだ。 盛田が、二ヶ月に一度東京に一週間ほど戻ってくると約束した時、ついに井深も了承したという。 1986年、盛田は著書『メイド・イン・ジャパン』 (右)を世界17カ国で出版。1986年、最若手の経 団連副会長に就任した。盛田は、日米賢人会、日米財界人会議などでも活躍し、財界の外務大臣の異 名がある。1989年、ソニーはコロンビア映画を買収、また新しい日米関係のあり方を問う『NOと言 える日本』 (石原慎太郎との共著)を出版するなど、その言動は国際的にも反響を呼ぶ。1993(平成5) 年、脳内出血で倒れ、以後はハワイで療養を続けた。 1998年、米誌タイムでビジネスの世界で今世紀に最も影響力のあった経済人20人に、自動車王のヘ ンリー・フォード、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長らと並んで日本でただ一人「Made in JAPAN の名声を築いた」人物として選ばれる。1999年10月、逝去。享年78歳。 ● 盛田昭夫 語録 「黙っているほうが安全だという雰囲気は非常に危険だ。」 「否定面にとらわれる人間に限って、失敗の理由を一所懸命数え上げたがる。 」 「適材適所というのは自分で決めるものだ。働く場所は自分で選べ。」 「ここは自分の思った会社と違うなと感じたらあなた方自身のために、 早く転職をしてほしい。人生は一 度しかないのだから。」 「まったく違う知識や考えを持った人とまず対話できることこそ大事だ。 」 【引用文献】 ・ソニーのホームページ:「Sony History」 http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/index.html ■設問21 設問21 ●盛田昭夫のアントレプレナーシップ論 1. 盛田が起業した当時の時代背景について簡単に述べなさい。 2. ソニーやホンダでは、2人の起業家が二人三脚で発展したことに特徴がある。ソニーで の2人の役割分担を説明しなさい。 3. 盛田の先進性はどこにあるかを説明しなさい。 4. 盛田はソニーの海外市場開拓の立役者であるが、海外展開に関して、盛田は他人より優 れたものがあったのだろうか。 ~ 83 ~
  • 84. 【ケース ⑩】中内功:流通革命を起こしたダイエー 中内功:流通革命を 中内 功(なかうち・いさお) 1922年(大正8年)生まれ、2005年(平成17年)没。実業家。ダイエー 創業者・元会長・社長・グループCEO。日本チェーンストア協会会長、流 通科学大学学園長、理事長を歴任した。 「流通王」「カリスマ」とも呼ば 、 れた。 (1)生い立ち 1922年、大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法) に父・秀雄、母・ リエの長男として生まれる。 父は大阪薬学専門学校 ・ (現 大阪大学薬学部) を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘であった。 祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部) に学び卒業後、神戸で眼科医となった。 中内は、神戸三中を経て、1941年、神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身)を卒業。ゲーテ 『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、 「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸 術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記 す。勉強はできる方ではなく、大学受験には失敗した。 (2)フィリピン従軍と復員 1943年、幹部生として扱われる大学生の仲間を尻目に、中内は一兵卒としてフィリピンの最前線の 戦場へ投げ込まれる。所属した陸軍部隊はフィリピン・ルソン島で玉砕したが、中内は重傷を負いな がらも奇跡的に生還した。この戦争体験は、後の人生観に少なからず影響を与えた。 「人の幸せとは、まず物質的な豊かさを満たすことです。(中内功) 」 1945年11月、中内はフィリピンから復員。復員を機に神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)に 入り、1948年に神戸元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売 闇商売を行った。旧 闇商売 制神戸経済大学(現神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、商売に専念する為 に中退。6年後の1951年には次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品問 屋「サカエ薬局」で勤務。 千林駅前に開店した 主婦の店ダイエー薬局1号店 (3) 「安売り」のダイエー設立 1957年、中内はサカエ薬品を離れ、末弟と神戸市長田区を本店と する大栄薬品工業株式会社を設立し、 製薬事業に参入した。 しかし、 製薬からはすぐに撤退し、 1957年9月にこの会社を使って大阪市旭区 の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄 利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」 (ダイエー1号店)を開 店した。当初は薬局中心の業態であった。 1957年9月23日、主婦の店ダイエー薬局が千林駅前にオープンした。 従業員は13人、100平方メートルもない売り場に薬品、化粧品、日用 雑貨などが所狭しと並べられた。開店当日は安売りもさることなが ら、開店記念に映画鑑賞券などをつけたために客が殺到し、初日の 売り上げは28万円にのぼった。 大量消費時代の到来をかぎとった中内は、豊かな生活を夢見る消費者の要求を満たそうと、大量仕 入れによる安売りを武器に小売業界に参入。 翌年1958年12月には神戸・三宮に食料品も扱う2号店を開 店。既成概念を打ち破り、 安売り」によって流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は定価を維持 「安売り しようとする勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。当時はモノを製造するメーカーや官庁 自治体の公権力の統制が戦時体制の残滓として根強く残っており、中内は営業と競争の自由を旗頭に 既成秩序に挑んだのである。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と書かれたが、中内は戦 時中の国家統制が様々な規制の形で残る日本をして「戦後はまだ終わっていない」と言ったという。 (4)ダイエーの「流通戦争」 1962年に商号を「主婦の店ダイエー」に変更し、売上高100億円、従業員数1000人を超えた。以後 も順調に事業規模を拡大し、1971年には大証二部に株式を上場。ついに、1972年には百貨店の名門・ ~ 84 ~
  • 85. 三越を抜いて小売業界で売上高日本一に立った。 1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって「ダイエー・松下戦争」が勃発した。松下 電器はダイエーの要請を無視した松下製品の安売りに対して、ダイエーの仕入れ先である松下の卸売 業者に締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。この時の松下幸 之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守り なさい。安売り店への出荷は停止する。 」であった。1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費 者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議した。同年に、公正取引委員 会が二重価格問題に対して、 「メーカーに不当表示の疑いあり」という結論を出している。同年1970年 には社名をダイエーに変更した。 幸之助は、1975年に中内を京都に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」 と諭したが、中内は応じなかった。その後、約30年後の1994年に最後は松下電器が折れる形で完全和 解となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれる。 (5)買収によるグループ拡大 1980年、ダイエーは日本の小売業界初の売上高1兆円を達成した。また、紳士服のロベルト、ファミ リーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コ ンビニのローソン、百貨店のプランタン銀座などの関連事業を次々と展開し ていった。また、リクルートや、忠実屋、ユニードなどを買収、1994年に忠 実屋、ユニードを合併、1981年には高島屋の株式を10.7%を取得した。グル ープ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエー による乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。また、ミシ ンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノ ウハウを子会社のダイエーファイナンスに導入した。 しかし、売上高1兆円達成から3年後、1983年から三期連続で連結赤字を計 上し、ヤマハの社長であった河島博をヘッドハントして社長にすえて、業績 をV字に回復させる通称「V革」を行った。 (6)絶頂と凋落と 福岡ダイエーホークスの監督就任会見。 1988年には、南海ホークスの株式を南海 中内功オーナー(左から3番目)と王監督(1994年10月) 電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参 入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、更に 東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドーム の建設に着手するなど、 グループを急拡大さ せた。 1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲 願であった流通科学大学を開学。 大学職員は 全員当時のダイエーから出向させ、 同時に理 事長に就任した。同年9月には自らの故郷・ 神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・ 劇場・専門店街が一体となった商業施設の新 神戸オリエンタルシティを誕生させた。 また、 1991年には経団連副会長に、 それまで他業種 より格下と見られていた流通業から初めて 抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。 しかし、息子達に跡を継がせたいことなどで、他社からヘッドハントした人材も含む部下を辞職に 追い込み、周囲を自分に忠実なイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が次第に露呈していっ た。1990年代後半になって地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエ ーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷し。さらに展開して いたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、消費者の意識が「安く」から「品質」 に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時 代に取り残されていった。 大規模店舗小売はイオン、イトーヨーカ堂などが業界をリードするようになっており、世間から「ダ イエーには何でもある。 でも欲しいものは何もない」と揶揄されるようになった。 中内自身も晩年、 「消 費者が見えんようなった」と嘆くこともあった。 ~ 85 ~
  • 86. (7)晩年 2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。しかし遅すぎた決断であり、ダイエーは多く の部門で問題が露呈していた。2001年の株主総会では厳しい質問が続き、2時間を越える大荒れの総会 となったが、その場で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した。同日に退任する中内が記者会見を開き、 完全に経営から退くことを表明した。 その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学の運営に専念した。晩年は謙虚な好人物とな り、堀江貴文を見て「若いもんは元気があってええなあ。 」と漏らしたという。自動車免許を取得した ときはいかにもうれしそうに知人に免許証を見せびらかし、いずれは米大陸のハイウエイを走りたい と言っていた。 ダイエーが経営再建できずに産業再生機構入りした時は「無念という一言しかありません」とのコ メントを関係者に送った。2004年12月には芦屋と田園調布にあった豪邸や所持する全株式を売却処分 した。翌年2005年8月に脳梗塞で倒れ、療養中に神戸市内の病院において死去した。享年83歳。 ● 中内功 語録 「ダイエーの存在価値は、既存の価格を破壊することにある。 」 「価格決定権をメーカーから消費者に取り返す。」 「消費者以外に頭を下げるのは嫌だ。」 「売上げはすべてをいやす。」 「古い体制から見れば、新しいものはすべていかがわしいのだ。 」 「借金と元気だけはあるんやで。」 「松下(幸之助)さんを経営者として非常に尊敬している。しかし価格決定権に対する考え方や、 お客様の利益についての考え方は、私とは根本的に違っている。 」 【引用文献】 ・流通科学大学中内記念館 http://www.umds.ac.jp/nakauchi/ ・日経ビジネス「中内功・ダイエー会長兼社長、優しくなった超ワンマン」 (注記)長男の中内潤は、現在は流通科学大学・学校法人中内学園の理事長。次男中内正は、福岡ダイエーホー クス元オーナーで、後に読売ジャイアンツオーナー顧問を務めた。中内正は、2010年6月3日、父親から相続し た約5億5千円を贈与財産として申告せずに贈与税約2億7千円を脱税したとして、さいたま地方検察庁に相続税 法違反容疑で逮捕されている。 ■設問22 設問22 ●中内功のアントレプレナーシップ論 1. フィリピン従軍体験は、中内の起業にどのような影響を与えたと思うか。自分の想像で 述べなさい。 2. 中内が主婦の店ダーエーを起業した当時の時代背景について述べなさい。 3. 中内がダイエーの経営で打破しようとしていた構造について説明しなさい。 4. 中内の先進性はどこにあるのかを述べなさい。 5. 中内のカリスマ性とワンマンについて、長所と問題点の双方から述べなさい。 6. ダイエー凋落の原因は何であったか。 7. ダイエーの経営不振で退任し、挫折した中内の心境とその後の行動について、想像しな がら述べなさい。 ~ 86 ~
  • 87. 【ケース ⑪】稲盛和夫:京セラの創業者 稲盛和夫: セラの創業者 稲盛 和夫(いなもり・かずお) 1932年(昭和7年)生まれ。日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI) 創業者。現在は日本航空の会長。 (1)生い立ち 鹿児島県鹿児島市薬師町生まれ。 両親ともに浄土真宗の信者であったことから、稲盛も子供の頃から鹿児 島市の西本願寺別院に通っていた。お坊さんに「これから毎日『なんまん なんまん、ありがとう』と声を出していいなさい」と言われ、今もことあるごとに自然に唱えている と彼は言っている。 1944年に鹿児島第一中等学校を受験するが失敗し、尋常高等小学校に入学。その後、鹿児島玉龍高 等学校を卒業し、地元の鹿児島大学工学部に入学する。 (2)京都で起業 1955年、鹿児島大学工学部応用化学科を 卒業するも、不況による就職難の中で教授 の紹介で京都にある碍子メーカーの松風工 業へ就職する。会社は給与の遅配が続き、 いつ潰れてもおかしくなかったが、稲盛は その中でファインセラミックスの研究に没 頭する。ある時、開発方針をめぐって上司 と衝突し退社。その後1959年、稲盛を信頼 して同時に退社した仲間とともに、知人の 出資により得た資金を元手に8名で京都市 中京区に京都セラミック株式会社を創業す る。1966年にIBMよりIC用サブストレート 基板を大量に受注し、売上が急拡大する。 1969年には稲盛の出身である鹿児島県の 川内市に川内工場を新設し、IC用セラミック多層パッケージを生産。同年には米国に現地法人KIIを設 立する。1971年、京都セラミックは大阪証券取引所第二部、京都証券取引所に株式を新規上場する。 会社設立から12年と当時の日本ではきわめて短期間で株式上場 (IPO)を実現した新興の急成長企業で あった。新規株式上場時の稲盛は若干39歳、現在のベンチャー企業の経営者と同じような年齢であっ た。 (3)幅広い活動へ 1976年、京都セラミックはアメ リカのニューヨーク証券取引所へ 株式を上場。1982年は社名を京セ 京 ラ株式会社とする。1984年、稲盛 は私財を投じて稲盛財団を設立し 理事長に就任した。同年、NTTに 対抗し新しい電話事業会社の設立 構想を主導し、第二電電企画株式 会社を設立、会長に就任した。 1986年、稲盛は京セラの社長か ら会長に就任し、自社も含めて幅 広い活動に従事していく。1995年、 京都商工会議所会頭就任。1997年 には、京セラ、第二電電の会長職 を退き、取締役名誉会長に就任。 同年には臨済宗妙心寺派円福寺に て在家得度(得度は仏教僧侶となる ~ 87 ~
  • 88. ための出家の儀式)する。 2000年、通信会社のDDI、KDD、IDOが合併し、KDDIが発足し、稲盛はKDDIの名誉会長に就任、 翌年2001年には同社の最高顧問に就任する。 民主党を支持し、 同党元幹事長小沢一郎とは新進党時代からの仲であり、 前原誠司の後援者である。 2010年1月に日本航空の会長として日航再建に取り組むよう、鳩山由紀夫首相(当時)から要請され、 2月1日から、日航の会長を無給で務める。また、2010年2月末、鳩山首相から、非常勤の内閣特別顧問 に任命された。 (3)稲盛の唱えるアメーバ経営 アメーバ経営は、稲盛が考案し、自身が創業した京セラと第二電電(現・KDDI)で適用されている 経営管理手法である。その手法は、以下のようなものである。 ①企業の人員を6~7人の小集団(アメーバ)に組織する。 ②アメーバごとに「時間当たり採算=(売り上げ-経費)÷労働時間」を算出し、時間当たり採算 の最大化を図る。 ③時間当たり採算の目標値を月次、年次で策定する。 ④労働時間短縮や売り上げ増加策を実行に移して目標 達成を目指す。 アメーバ経営の利点は、①メンバーの数が少なく、成果 が数字にすぐに表れるので、当事者意識を引き出しやすい。 ②計数管理能力を備えたリーダーを育成しやすい。③アメ ーバの採算評価指標が統一されているため、アメーバ間の 競争を引き出しやすい。といいう点である。一方、その欠 点は、①アメーバが自らの採算にこだわりすぎると、会社 全体よりアメーバだけの利益を追求してしまう。②「時間 当たり採算」の計算には意外と手間がかかる。特に経費を 公正に計算しなければ、適正な採算評価ができない。とい われている。 (稲盛)京セラ創業当時より、企業を長期的に発展させるためには、正しい「経営哲学」を確立し、 それを全社員と共有すること、また、組織の末端に至るまでの経営実態を正確かつタイムリーに把握す る「管理会計制度」が必要であると感じていた。アメーバ経営では、各アメーバのリーダーが中心とな って計画を立て、全員の知恵と努力により目標を達成していく。そうすることで、現場の社員ひとりひ とりが主役となり、自主的に経営に参加する「全員参加経営」を実現させていく。 (4)思想家稲盛 稲盛は若い頃より仏教に傾倒し、仏教の哲学 仏教の 仏教 哲学を経営に活かしている点に特徴がある。こうした思想 に基づき、稲盛が重きを置いているのは、 「人間とは何かという追求」と「利他の心」にあると思われ る。 稲盛は講演でこう述べている。 稲盛は経営哲学に関する著書を 多数出している 私は京セラを創業し、またこれを母体に長距離通信事業などを行 う第二電電を創業した。ともに大変順調に成長した。返ってみると京セ ラを創業以来、自分でも不思議と思えるほどの人生を歩んでいる。 しかし、京セラを創業するまでの私の人生は、不運の連続とさえ言え るものだった。十二歳の時には当時不治の病と言われた結核を患い、叔 父叔母も三人が結核で立て続けに亡くなっていたので、もうすぐ死ぬ、 と思っていました。また、志望した中学や大学の受験にも、さらには希 望した会社の就職試験にも失敗するなど失望の連続だった。そのような 全く不本意な人生を歩む中で私は「人生とは何か」「人間とは何か」を 、 深く考えるようになり、仏教やその他の宗教・哲学の勉強を必死でする ようになった。また、京セラ創業以後は「集団のリーダーとはいかにあ るべきか」を日夜真剣に考えつづけた。(中略) ~ 88 ~
  • 89. 現在、地球上には数十億の人類がいるが、ひとりとして同じ人はいない。姿恰好も違えば、性格も能 力も全て違っている。ところが生まれる前に、「私はこういう能力を持ち、こういう姿で生まれたい」 と思ってこの世に出てこられた方はひとりもいない。物心がつき気が付いてみると、現実の自分がある だけなのだ。つまり、人間はこの宇宙を創った神の悪戯か偶然か知らないが、たまたま現在の才能と容 姿を持ってこの世に生まれてきただけであり、自分の意志で生まれてきたのではない。神様が存在する とすれば、自分の才能や容姿は神様に偶然項戴したものであり、たとえそれぞれ才能や容姿に違いはあ っても、人間は皆本質的には同じなのだ。 そうであれば、集団のリーダーにとって必要なことは、たとえ如何に才能に恵まれていようとも、そ の才能はたまたま自分に与えられたものと考え、その才能を社会のために惜しみなく使うことなのであ る。また、人間は皆本質的には同じ筈なのだから、いかに成功しようとも、決して奢らず、常に謙虚さ を維持し続けることなのである。(中略)リーダーにとって最も大事なことは、人間の本質を考え、自 分の才能を私物化しないように、また奢り高ぶらないように、常に自分自身を強く戒めて生きることで はないだろうか。 ● 稲盛和夫 語録 (経営に権謀術数は一切不要) 「企業経営には、権謀術数が不可欠だと感じている人が多いかもしれな いが、 そういうものはいっさい必要ない。今日一日を一生懸命に生きさえすれば、未来は開けてくる。 また、正々堂々と人間として正しいやり方を貫けば運命は開けてくると考えている。実際に京セラや DDIの経営に携わり、日々懸命に働いているうちに、次に打つべき手は自ずから見えてきたし、そうす ることが素晴らしい成果をもたらせてもくれた。 (稲盛和夫『人生と経営』より) (動機善なりや、私心なかりしか)「第二電電を設立し、電気通信事業へ参入するにあたって、自身の 動機に利己的な心、 「私心」がないかと、半年間にわたり自問した。動機が善であり、実行過程が善で あれば、結果は問う必要はない、必ず成功する。」 「能力とは、才能や知能といった「先天的な資質」を表し、 (人生・仕事の結果 = 考え方×熱意×能力) 「熱意」とは、情熱や努力する心といった「後天的な努力」を表す。 」 【引用文献】 ・Kazuo Inamori Official Site http://www.kyocera.co.jp/inamori/index.html ・日経トップリーダー:京セラ・稲盛の「アメーバ経営」 http://nvc.nikkeibp.co.jp/nveye/inamori/ ■設問23 設問23 ●稲盛和夫のアントレプレナーシップ論 1. 稲盛に影響を与えたものについて簡単に説明しなさい。 2. 稲盛の経営手法はどこに特徴があるか。 3. 稲盛が経営に取り入れている思想について簡単に説明しなさい。 ~ 89 ~
  • 90. 【ケース ⑫】江副浩正:求人情報「リクルート」の創業者 江副浩正:求人情報「リクルート」 江副 浩正(えぞえ・ひろまさ) 1936年(昭和11年)生まれ。日本の実業家。現在は江副育英会事務局長。 株式会社リクルートの創業者であり、若手起業家の草分けでもある。 1988年(昭和63年)に発生した「リクルート事件」の贈賄側人物として 知られる。 (1)生い立ち 、高校教師の江副良之、マス子の長男として母親の 1936年(昭和11年) 郷里の愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)に生まれた。祖父の代から教 育者の一家で、父親の艮之も中学・高校の教師。幼い時分に母親と離別し た浩正は小学校4年まで父の故郷の佐賀で過ごした。成績は優秀だが、体 操と音楽が苦手で、その大きな頭から当時のあだ名は「仮分数」 。江副一 家はその後、大阪市天王寺区に移り、戦災によって大阪府豊中市へ転居した。 江副は、兵庫県芦屋市の甲南中学に進学。当時、甲南に通う生徒は資産家や中流以上の家庭の子弟 が大半で、数学教師の息子にすぎない江副のような生徒は少数派であった。江副は勉強でもスポーツ でも飛び抜けたところはなく、同級生の間に印象らしい印象を残していない。地味で妙に理屈っぽい ところがあり、あだ名は「じいちゃん」だった。 (2)サークル活動で求人ビジネス 甲南高校を卒業し、1955年に東京大学に進学。東京大学教育学部教育心理学科卒業。 江副は、大学で「中学時代、学内新聞を作ったから」という理由で東大新聞会に入会する。東大新 聞会はサークル活動の一つで「東京大学新聞」を発行していたが、入会して1カ月もしないうちに印 刷会社に100万円の未払金をつくってしまい、会は活動停止になる。このため、会のOBらが中心とな って財団法人東京大学新聞社が設立され、その経営基盤を支える広告収入の確保を実現したのが、自 ら営業をかって出た江副だった。これまでように大学の周辺の喫茶店や書店、先輩のいる会社がお付 き合い程度で出してくれる広告収入ではたかが知れている。浩正が目をつけたのは大企業の会社説明 会だった。 たまたま学内の掲示板に丸紅の会社説明会の案内が貼ってあるのを見かけ、直接、広告を頼みに行 ったが、すぐに丸紅から広告発注を受けて反響を呼ぶ。以後、日綿実業、伊藤忠商事など大企業の広 告出稿が相次ぎ、 「東大ブランド」を利用したこの学生商法は大成功を収め、東京大学新聞社の100万 円の赤字は300万円の黒字になった。当時は1960年安保が最高潮を迎えようという時代で、多くの学生 は安保反対運動に参加したが、江副は「デモより広告取りが面白い」と企業巡りに精を出すというノ ンポリ学生であった。 (3)リクルートを創業 広告担当として企業向けの営業を覚えた江副は、1960年の東大卒業と同時 に、求人広告専門の大学新聞広告社(現在のリクルート)を設立した。当時 の江副は若干23歳、本社は森ビル屋上の2坪のペントハウスであった。江副は 東大在学中につちかったツテで企業から求人広告を取り、早稲田、京大、一 橋などの各大学新聞に斡旋しょうとした。 事業は急成長した。1960年からの岩戸景気のおかげで新聞に初めて「求人 難」の文字が躍り、青田買いが一般的になった企業からは大学新聞広告社に 広告出稿の依頼が殺到した。すぐに大学新聞にも掲載しきれなくなり、せっ かく取ってきた広告の掲載場所がないという賛沢な悩みが生じる。江副は、 自分たちの責任で編集・発行できる媒体を持ちたいと考えた。そこで登場し たのが、一冊丸ごと会社案内・求人広告だけを載せた『企業への招待』とい う本、後の発展の原動力ともなったリクルートブックの原型である。 こうした大卒求人広告雑誌のビジネスは、当時はすき間産業であったが、江副は大学時代の経験か らニーズと成長性を感じて、日本で初めて本格的な商売にしたのである。1963年、社名を大学新聞広 告社から日本リクルートメントセンターに変更。1963年、社名を日本リクルートセンターに変更。後 の1984年には再び社名を株式会社リクルートに変更している。 東京オリンピック開催前の景気により売上が急拡大したが、その後の不況により日本リクルートセ ~ 90 ~
  • 91. ンターはピンチに陥るが、それを乗り切った1966年、老舗出版社のダイヤモンド社が『就職ガイド』 という対抗商品をぶつけてきた。江副は社員に激を飛ばした。 「この事業の創始者である我々にとって、2位になることはレーゾンデートルを失うことを意味する。」 がっぷり四つに組んだまま5年が過ぎ、リクルートは生き残った。一説によると、江副は金一封付き の「ダイヤモンド・ノックアウト賞」まで設けて社員を鼓舞したという。 (4)若手起業家の旗手 その後は就職情報誌を女性向け、技術者向け、アルバイトと細分化し、あわせて住宅関連の情報誌 も発行した。事業は雑誌媒体にとどまらず、会社案内、入学案内、果ては入社模擬試験、各憧セミナ ー、海外ツアーから人材斡旋、スキー場開発、農場経営にまで及んだ。一見すると無節操な事業展開 の裏には、江副の哲学、ライフサイクル論があった。人間の一生を考えたとき、幾つかの節目がある。 進学、就職、転職、結婚、住宅取得。これらに伴う需要を巧みに吸い上げてビジネスに結びつけた。 リクルートの驚異的な成長と軌を一にして、若手起業家・江副の一風変わった個性も注目を集めて いく。創業者によくあるカリスマ性やギラギラした押しの強さとは無縁で、 語り口はあくまで穏やか。 身長165センチ、痩せ型、爽やかな笑顔を絶やさず、髪を短めに刈り上げた童顔の坊ちゃんタイプ。 「東 大が生んだ戦後最大の起業家」と賞賛された。取引先で目の前に江副がいるのに、 「社長さんはどちら に?」と尋ねられた話が流布した。社員には自分を「江副さん」と呼ばせ、ソフトなイメージが定着 した。一方で、若いアルバイト社員を使い、社員もノルマ達成者には特別ボーナスを支給し、3年勤続 すると1カ月の有給休暇を与えるなど、社内を鼓舞する施策を揃えた。 江別が経営者としての裏側をのぞかせた話がある。1974年、「環境開発」(後のリクルート・コスモ ス社)を設立して不動産部門に進出したとき、取引先の銀行トップは強く反対した。 「君は抜群に優秀 だが、不動産だけはやめておきなさい。 手を出せば必ず失敗する。 忠告を当時38才の江副は無視した。 」 一度思い込んだら、誰の言葉も受け入れず、異なる考えの持ち主は徹底して排除する。その傾向はリ クルートが成長するにつれ、頭著になったという。 (5)リクルート事件 1989年2月14日朝日新聞の朝刊一面 リクルート事件は、1988年6月の『朝日新聞』横浜 支局のスクープ記事から発覚した戦後最大級の構造 汚職事件である。 贈賄側のリクルート社江副社長や、 収賄側の政治家や官僚らが次々に逮捕され、当時の 政界・官界を揺るがす一大スキャンダルとなった。 この事件では、リクルートの関連会社で未上場の不 動産会社リクルート・コスモス社の未公開株が賄賂 として使われていた。政・財・官界など特権階級の 人々の錬金術が白日の下にさらされた。 事件の発端は、川崎市テクノピア地区へのリクル ートの進出にからみ、権限を持っていた川崎市の助 役に対して、リクルート社の子会社である「リクル ート・コスモス社の未公開株式を融資の仲介付きで 譲渡した」という疑惑のスクープ記事であった。ま もなくマスメディアの調査追及によって、元閣僚を 含む76名にリクルート・コスモス社の未公開株式が 譲渡されていたことが発覚し、さらにはコスモス社 の社長室長から、この事件追及をすすめていた社会 党(当時)楢崎弥之助議員に500万円の贈賄工作があ ったと楢崎議員自らが告発する事態に発展し、 この模様はテレビで放映されるなど、 世論は沸騰した。 1988年10月、東京地検特捜部は、リクルート社などを強制捜査、同社社長室長を贈賄容疑で逮捕。 1988年7月には森田康日本経済新聞社社長のリクルート・コスモス株購入が発覚し社長辞任。その直後 に江副はリクルート社会長を辞任した。翌1989年2月13日には江副前会長ら2名が贈賄容疑で逮捕され た。同年3月にはNTT会長真藤恒、元労働次官加藤孝、元労働省課長、前文部次官高石邦男らが各収賄 容疑で逮捕、さらに同年5月には第二次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生議員と池田克也公明党 議員らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベが行われた。 疑惑が持たれた高級官僚や閣僚たちは、 「妻が株をもらった。私は知らない。、 」「家族がもらった、 秘書がもらった。 」と釈明、当時「妻が、妻が…。秘書が、秘書が…」という言葉が小学生の間にまで ~ 91 ~
  • 92. 流行した。こうして事件は政界や経済界の大物の未公開株収受による収賄容疑で起訴、そして当時の 宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊というスケールに拡大した。しかし、密室の財テク的収賄疑惑がも たれた政府・自民党の幹部に強い疑惑が集中し、国会証人喚問などでも追及されたが、多くの「灰色 高官」たちの立件は行われないままに事件は幕引きとなり、結局、戦後の他の大疑獄同様、核心の解 明なしで終結、国民の間には「政治不信」だけが残こることとなった。 このリクルート事件の原因は、江副浩正リクルート社会長が、自社の政治的財界的地位を高めよう いう目的で、1984年12月から1985年4月にかけて、有力政治家・官僚・通信業界有力者の3方面をター ゲットに未公開株を相次いで譲渡したことにあり、譲渡者は個人40名、63社にのぼった。1985年10月 に株式が譲渡されたリクルート・コスモス株が店頭公開し、上記の譲渡者の売却益は合計で数億円を 上回ったといわれる。この事件解明の過程で、当時は50歳前後で若手の経営者であった江副が、閣僚 級の大物政治家や高級官僚、大企業トップの多くと交流があったことが明らかになり、こうした昔の 悪しき政商を思い起こさせる錬金術商法はリクルートのブランドイメージを大きく失墜させた。 2003年3月、贈賄側の責任者である江副は東京地裁で懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、被告・ 検察ともに控訴せず判決は確定した。また、事件発覚後の1988年8月には、江副の自宅玄関に銃弾が打 ち込まれ、後の犯行声明によって当時一連の右翼テロ事件(赤報隊事件)のひとつと判明している。 (6)事件後 事件のリクルートは、信用失墜と共にバブル経済の崩壊に伴い、マンション・不動産事業の子会社 リクルート・コスモスや、金融子会社のファーストファイナンスなどの不良資産問題が顕在化し、グ ループ全体が窮地に追い込まれていく。1992年、江副は保有するリクルート社の株式を中内功に譲渡 し、リクルートは事実上ダイエーグループの傘下に入り、これによってそれまでリクルートのシンボ ルマークだった「かもめ」はリクルート本体から消えた。 しかしその後のダイエーの不振により、2000 年にリクルートは社員等や提携先が中内氏から株式を買い戻しダイエーグループから離脱している。 江副は、2003年の有罪判決確定後は執行猶予の身となり、世間には登場せずに黙して語らないまま、 自身の江副育英会の事務局長や回想本を執筆するなど雌伏の日々を過ごしていたが、2009年10月に自 著「リクルート事件・江副浩正の真実」 (中央公論新社)を刊行し、自らがリクルート事件について明 らかにしている。 【引用文献】 ・江副浩正「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社) ・江副浩正「かもめが翔んだ日」 (朝日新聞社) ■設問24 設問24 ●江副浩正のアントレプレナーシップ論 1. 江副の出自について簡単に説明しなさい。 2. 江副が起業した当時の時代背景について簡単に説明しなさい。 3. 江副の起業の動機は何だったか。 4. 江副の先進性について簡単に説明しなさい。 5. リクルート社は、なぜ未公開株式を贈賄工作に使ったか。 6. 江副の失敗の原因をどのように考えるか、自分の考えを述べなさい。 7. リクルート事件は、江副のその後の人生にどのように影響したか。 8. 起業家の大半は失敗の連続だという。江副は大失敗をしたが、それを避ける手立てがあ ったとすればどのようにすればよかったか。自分の考えを述べなさい。 ~ 92 ~
  • 93. ■まとめ:昭和の起業家論のポイント まとめ:昭和の起業家論のポイント 項目 論点 1.起業にいたる時代背景 第二次大戦前、戦後の復興と混乱、軍役から の復員、など。 2.出自、性格、教育、思想、価値観 高等教育を受けていない、貧しさ、たくまし さ、独立開業の志、など。 3.起業家は、何に影響されたか 貧しさ、反抗心、青雲の志、戦争、両親、学 校、など。 4.起業家・事業経営者としての個人的強さ 技術へのこだわり、独立心、欧米に負けない とする気持ち、など。 5.人脈、ネットワーク 学校、同郷、学閥のなさ、など。 6.事業形態(組織) 個人事業、会社設立、同族経営、従業員の拡 大、など。 7.復興、高度成長期と起業家 経済成長の時代、アメリカ輸出、近代的経営、 専門経営者、など。 8.昭和の経営者の特徴 強い成長意識、ものづくりへのこだわり、高 品質へのこだわり、製品がよければ高く売れ る、経営理念の追求、など。 9.起業家の失敗と凋落 大失敗、行きすぎの原因はなぜか、なぜそこ までしなければいけなかったのか、など。 10.昭和の起業家が経済社会に果たした役割とは 世界的企業、現代的大企業、日本のものづく 何か りを作った、など。 ~ 93 ~
  • 94. Ⅲ.昭和後期・平成の起業家 昭和後期・平成の 1.-①昭和・平成の時代 年 ⻄暦 出来事 起業家 21 1946 日本国憲法公布。 24 1949 ドッジ・ライン実施。 25 1950 朝鮮戦争勃発。日本は朝鮮特需。 26 1951 サンフランシスコ講和条約調印。 30 1955 ⾃由党、日本⺠主党合同、⾃由⺠主党発⾜。 32 1957 なべ底不況。 35 1960 日米安保条約改定。所得倍増計画。 37 1962 オリンピック景気始まる。 39 1964 東海道新幹線開通。東京オリンピック。 41 1966 日本の総人口が1億人を突破。いざなぎ景気。 昭 45 1970 日本万国博覧会。よど号ハイジャック事件。 和 46 1971 ニクソンショック。円切り上げと変動相場制移⾏。 47 1972 札幌オリンピック開催。沖縄返還。 (昭47)柳井、実家に戻って家業に⼊社。 48 1973 第一次オイルショック。 (昭53)澤⽥、⻄独のマインツ⼤学へ留学。 51 1976 「ロッキード事件」。 (昭56)澤⽥、⻄独より帰国、輸⼊販売会社設⽴。 53 1978 日中友好平和条約。 54 1979 第二次オイルショック。 (昭55)澤⽥、格安航空券販売会社を設⽴。 (昭56)孫、米国より帰国し、ソフトバンク設⽴。 柳 60 1985 プラザ合意。円高始まる。 (昭59)柳井、ユニクロ第1号店を広島市に開設。 澤 井 62 1987 バブル景気始まる。国鉄⺠営化でJR各社発⾜。 ⽥ 正 孫 63 1988 リクルート事件が起こる。 秀 南 正 三 元 1989 東欧⾰命が勃発し、冷戦が終結。 (平元)江副・リクルート元会⻑等、逮捕。 雄 場 義 ⽊ 2 1990 湾岸戦争勃発。 智 ⾕ 堀 3 1991 ソ連が解体。バブル経済崩壊。 子 浩 江 5 1993 非⾃⺠連⽴政権の細川内閣発⾜。 史 貴 7 1995 阪神・淡路⼤震災。地下鉄サリン事件。 (平7)三⽊⾕、興銀を退社し、コンサル会社を⽴ち上げ。 文 8 1996 (平8)堀江、⼤学在学中にオン・ザ・エッジを設⽴。 9 1997 (平9)三⽊⾕、楽天を設⽴。 平 10 1998 山一證券が⾃主廃業。 成 11 1999 インターネット・バブル。 (平11)南場、マッキンゼーを退社し、DeNAを設⽴。 13 2001 小泉構造改⾰。アメリカ同時多発テロ事件 15 2003 イラク戦争勃発。 17 2005 郵政⺠営化法案成⽴。 18 2006 ライブドアショック。 (平18)ライブドア事件、堀江貴文逮捕。 19 2007 日本郵政公社⺠営化。 20 2008 サブプライムローン問題。世界⾦融危機。 ■起業家列伝の学習ポイント 起業家列伝の学習ポイント 1.現在活躍し注目を集めている起業家達の歩みを、経済社会の動きと同時並行で理解して いく。 2.平成の時代における「現代の起業家」は、過去の明治大正昭和とどのように違うのか。 どこが現代的であるのか、比較検討を行う。 3.成功した起業家がいる一方で、刑事事件として起訴された起業家も存在する。成功の隣 に大失敗があるのか、成功とリスクは隣り合わせなのか、きれいなすばらしいストーリ ーとして読まずに、どんな現実でどのように苦心し悩んだのかを想像してみる。 ~ 94 ~
  • 95. 【ケース ⑬】孫正義:情報通信の革命児 孫正義:情報通信の 孫 正義(そん・まさよし) 1957年(昭和33年)生まれ。日本の実業家。 ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンク株式 会社代表取締役社長、ソフトバンクテレコム株式会社代表取締役社 長、ソフトバンクモバイル株式会社代表執行役社長兼CEO、福岡ソ フトバンクホークスのオーナーを務める。 (1)生い立ち 1957年、在日韓国人実業家の孫(安本)三憲の次男として佐賀県 鳥栖市に生れる。男ばかりの4人兄弟であった。孫は、 「今だから言えるが、密造酒も家で作っていた」 と週刊ポストのインタビューで述べるとともに、家業の密造酒、パチンコが大成功し、外車を何台も 保有するほどの裕福な家庭で育ったことも明らかにしている。 福岡市立城南中学校を卒業後、1973年、久留米大学附設高校に入学。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』 を読み、 龍馬の脱藩に憧れて渡米を決意した。夏休みを利用してカリフォルニア州に語学研修で留学。 高校生時代、日本マクドナルドの創業者である藤田田の話を聞くために藤田の会社を訪問する。最 初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田に社長室に通された。そこで藤田にアメリカ で何をすべきかを尋ね、コンピュータを学ぶように助言されたという。 1974年、久留米大学附設高校を1年で中退し渡米、米国カレッジの英語学校に入学。米国セラモンテ 高等学校(サンフランシスコ)の2年生に編入。高校卒業検定試験に合格したため、高等学校を3週間 で退学。1975年、米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学。1977年、カリフォルニア大学バークレ ー校経済学部の3年生に編入。1979年、孫は自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」をシャープ に売却して得た1億円の資金を元手に、米国でソフトウェア開発会社を設立。インベーダーゲーム機を 日本から輸入した。 (2)帰国しソフトウェア卸売で起業 1980年、カリフォルニア大学バークレー校を卒業。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市南 区に事務所を構える。1981年、福岡市博多区で2名のアルバイト社員とともにコンピュータ卸売の「ユ ニソン・ワールド」を設立(孫はこれをソフトバンクの始まりとしている) 。孫は社員の前で、「会社 を10年で年商500億の会社にする」と豪語した。聞いた二人はほら話と受け取り、孫の力量を見限って 退社してしまったという。 1981年、株式会社日本ソフトバンクを設立。上新電機を相手にソフトウェア 卸売の契約を結ぶ。1982年、当時パソコンソフト最大手であったハドソンと契 約。さらにパソコン関係の出版業務に進出して業務拡大を図った。一時期はパ ソコンソフトの卸売シェアの8割近くを占めていたと言われており、パソコンソ フトの価格が下がらないのはソフトバンクのせいという批判もあった。 1983年、孫は慢性肝炎を患い、病気療養のために日本警備保障(現セコム) の副社長だった大森康彦を社長とし自らは会長に退く。1986年、孫が社長に復 帰し、大森は会長に就任。 1987年、フォーバルと共同でNCC-BOX(世界初のLCR:自動で最安の電話 通信会社を選択する機能) を開発。フォーバルが全国の中小法人に無償配布し、 新電電からのロイヤリティで莫大な利益を出す。この資金を基にソフトバンクは急速に成長していく。 (3)ITベンチャーの雄へ ソフトバンクは今では順風満帆な大企業のイメージがあるが、過去には事業の失敗を何度もしてお り多額の負債を背負ったりして浮き沈みが激しい企業であった。こうした経営から金融機関の信用も 評価も高くなく、なかなか資金調達が実現できなかった。 1990年、孫は韓国籍から日本に帰化。 同年、 日本ソフトバンクをソフトバンク株式会社に社名変更。 1994年7月、ソフトバンクは株式を店頭公開し、その資金を元にM&AやIT関連企業への投資などを積 極的に行う様になる。1995年、Windows 95の市場立ち上げのためマイクロソフトと提携し、8月にゲ ームバンクを設立したが失敗に終わっている。また、11月にはジフ・デイビス社に資本参加したが、 収益が上がらず2000年に売却した。 1996年、当時まだ未公開企業であった米国のYahoo!に多額の出資をし、合弁で株式会社ヤフーを設 ~ 95 ~
  • 96. 立した。 このヤフー社は1997年11月に株式が店頭公開され、 ソフトバンクはヤフー社の株式売却益により多額の資金を 得ることになる。1996年、DRAMモジュールで急拡大して いたメモリーメーカーのキングストンテクノロジー社を買 収。しかし、この買収は失敗に終わり、1999年に創業者側 へ売却し多額の赤字を出した。また、オーストラリアのメ ディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーシ ョンと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の 21%を取得。しかし朝日新聞グループの反発に遭って、結 局、朝日新聞グループに買い戻された。 1999年- 証券市場の開設を企図し、米国のナスダック・ ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資 しナスダック ジャパンプランニング株式会社を設立。 ・ 1999 年、東京電力、マイクロソフトと共同で、無線による高速 インターネット接続サービスの合弁会社スピードネットを 設立。しかしながら2003年、東京電力に営業譲渡し清算手続きを行った。 (4)相次ぐ買収と、通信事業への進出 2000年、経営破綻した日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)に、株式を長期保有することを条件 に筆頭株主として出資。2000年2月、ソフトバンクの株価が19万8,000円の高値を付け、時価総額がト ヨタ自動車に継ぐ第2位となる。インターネット・バブル時代の象徴ともいえる。2003年、あおぞら銀 行株を米国投資ファンドのサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。2004年、子会社のソフ トバンクBBによるYahoo! BB顧客情報漏洩事件が発生。Yahoo! BB登録者から450万人の個人情報が漏 洩し、この情報に対しYahoo! BBに現金を要求していたソフトバンク子会社元社員らが逮捕された。 2004年5月、ソフトバンクは、米国投資ファンドのリップルウッド・ホールディングスから日本テレ 日本テレ 日本 コム(現:ソフトバンクテレコム㈱)を買収。買収価格は約3,400億円と報道された。日本テレコムの コム 発行済み株式すべてを取得し、同年7月に完全子会社化(現在のソフトバンクテレコム㈱) 。ソフトバ ンクは日本テレコムの持つ固定電話を主力とする通信事業に本格進出した。同年12月、ソフトバンク は福岡ダイエーホークスを200億円 (ダイエーの持つ球団株式98%を50億円、 ほかに興行権を150億円) で買収することが決定した。新チーム名は「福岡ソフトバンクホークス」となった。 2006年4月、ソフトバンクは英携帯電話会社の日本 法人であるボーダフォン㈱を1兆7,500億円で買収し、 携帯電話事業に進出を果たした。 買収した会社は現在 のソフトバンクモバイル㈱である。2007年5月、ソフ トバンクモバイルは携帯電話の月間純増数で16万台 を記録し、同業のNTTドコモ、auを抜いて第一位に なった。 ソフトバンクはこの20年間で大きく成長した。 同社 の連結売上高は1989年度の91億円から2009年度は2 兆76344億円と300倍になった。下図のように、2004 年の日本テレコムの買収と2006年のボーダフォンの 買収によって売上が飛躍的に増えて ソフトバンク・連結売上高の推移 (億円) いる。しかし、ソフトバンクは巨大 30,000 27,634 な借金を抱えるという難題がある。 25,000 孫は、2009年5月の決算説明会におい て、リース債務を除いて約1兆9千億 20,000 円あるソフトバンクグループの純有 利子負債を2年度後の2011年度に半 15,000 減し、5年度後となる2014年度には完 済すると発表した。孫は「この完済 10,000 宣言は僕の人生の中でかなりの大き 3,971 5,000 なコミットメント。数か月前後して 1,711 91 もコミットしたことは必ず実行する」 0 と発言し、また、純有利子負債を完 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 ~ 96 ~
  • 97. 済し終えるまでは大規模な投資はしないと宣言した。 ● 孫正義 語録 「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事 業を後継者に引き継ぐ。(」 (孫19歳の時の人生50年計画) 「最初にあったのは夢と、そして根拠のない自信だけ。そこからすべてがはじまった。」 「ソフトバンクはたまたまパソコンソフトの流通で始まりましたけれど、僕はトラックで配送するパソコンソフトの流 通だけを本業にしようと思ったことは、創業以来1日たりともありません。」 「お金をかけて何かを独占するというとイコール悪だと思う人もいますが、必ずしもそうではない。マイクロソフトは あれだけ独占的にパソコンのソフトを押さえていますが、単純に悪でしょうか?。ビル・ゲイツがあれだけの労力と 思い入れでやっているからこそ、パソコンがどんどん伸びているという見方もできると僕は思います。」 「ソフトバンクは世界のデジタル情報革命に遅れないよう、それどころかトップに立とうと猛スピードで走っている車 の一台かもしれません。しかしそれは多くの人からは暴走族に見える。とくに信号待ちをしている人から見ると、危 なっかしくてしょうがないと見えるようです。」 「組む以上はナンバーワンのところと最初からがっちり組む。これが僕の主義です。そのために全ての精力をつぎ込む。 ナンバーワンのところと組むことに成功すれば、あとは黙ってもすべてがうまくいく。そういうものです。 」 「ソフトバンクが何をしようとしているかというと『ネット財閥』というのを考えているんです。明治維新のころに日 本は農耕社会から工業社会へ変わりました。このとき新しい時代がそれまでと何が違ってどういう方向に行くのかを 一番理解していた岩崎弥太郎や渋沢栄一といった人たちによって財閥が生まれたのです。 僕は財閥が日本の近代化に 果たした役割、産業界に果たした役割はものすごく大きいと思っています。」 【引用文献】井上篤夫『志高く 孫正義正伝』実業之日本社 ・ ◎起業家 孫正義と大企業経営者との違いについて想像してみよう。 大企業経営者 孫正義 1.若い頃の目標: 2.大学卒業後の就職: 3.三十代に従事していたこと: 4.会社組織における自分の位置: 5.経営手法: 6.目標、夢: ■設問25 設問25 ●孫正義のアントレプレナーシップ論 1. 孫の出自は、彼の起業に影響したと思うか。自分の考えを述べなさい。 2. 孫がパソコンソフト卸売を起業した当時の時代背景を想像して述べなさい。 3. 孫に影響を与えたものとは何か。 4. 孫の経営手法は異端だと思うか、それとも先端か。 5. ソフトバンクがプロ野球を買収し、ソフトバンクホークスを持った効果をどう評価する か。 6. ソフトバンクの「白戸家のコマーシャル」をどう評価するか。CMが目指したもの、消 費者に好評価された理由を述べなさい。 7. 孫の経営における問題点は何か。自分の考えを述べなさい。 ~ 97 ~
  • 98. 【ケース ⑭】澤田秀雄: 格安海外旅行」の推進者 澤田秀雄: 格安海外旅行」 「格安海外旅行 「 澤田 秀雄(さわだ ひでお) 。 1951年(昭和26年)生まれ。株式会社エイチ・アイ・エス取締役会長。 エイチ・エス証券株式会社代表取締役社長。2003年よりモンゴルAG銀行 (現・ハーン銀行)の取締役会長。2010年よりハウステンボス社長。 (1)生い立ち 1951年大阪府に生まれる。父親は菓子製造卸業を営む。本人は、子ど もの頃は気が弱くて優しい性格だったという。大阪市立生野工業高等学 校に入学し、高校時代は友人と頻繁に旅行に出かける。紀伊半島を自転 車で1周旅行、北海道などに旅行する。 海外への留学を夢見て、 高校卒業後、1973年から1976年まで旧西ドイツのマインツ大学に海外留学。 留学中にアルバイトで稼いだ資金を元手に、ヨーロッパ、中東、アフリカ、南米、アジアなど50か国 以上を旅行する。旅費を確保するために、日本からのビジネスマンや団体旅行者向けレストラン、ラ イブ演奏の店などのナイトツアーを企画。澤田の取り分が月間で100万円を超えたこともあるという。 ナイトツアーでもうけた資金をフォルクスワーゲンと日立製作所の株に投資し、株価が上がって西ド イツで稼いだ資金が数千万円になっていたという。 (2)留学から帰国後に旅行会社を立ち上げ 1976年に帰国後、西ドイツ留学時代に株式投資で儲けた資金を元手にビジネスを始める。東京新宿 を事務所に最初に手がけたのは、 内外価格差が大きかった毛皮の輸入販 売であったが、 この頃ワシントン条約が採択されて毛皮の輸入が厳しく なり、事業はあえなく断念した。 その後、澤田は格安航空券の販売事業が頭に浮かび、1980年にエイ チ・アイ・エスの前身となる㈱インターナショナルツアーズを設立し、 新宿のマンションオフィスの1室で机2台と電話1本からスタートした。 会社を設立した直後は、格安航空券の仕入れは、国内航空会社はもとよ り海外の航空会社も無名の旅行会社と直接取引してくれず、 大手の航空 券卸売会社と日本ではマイナーな航空会社から少しずつ航空券の仕入 れを始めたという。街にポスターを張って宣伝しても、数カ月全くお客 様が来ず、澤田の言では本当に暇だったという。澤田は暇にまかせて歴 史小説ばかりを読んでいたが、そこに書いてある「継続は力なり」「石、 の上にも3年」というような登場人物の発言を信じて、いつか必ず突破 口は開けると我慢の日々であったという。 (3)格安航空券の拡がりと円高メリット 1980年代は格安航空券の存在は知られておらず、旅マニアなどから少しずつ口コミで澤田の会社の 存在が広がっていった。最初のヒット商品はバンコク経由で行く格安の「インド自由旅行」の企画で、 ついでビザが取りづらかった「中国自由旅行」を香港経由で企画、大手旅行会社がなかなか手を出せ ない隙間ビジネスに集中しヒットにつなげた。設立年(1981年)の年商が約3億円であったが、紆余曲 折を乗り越えながら倍々の成長を続け、1989年の年商は約164億円になった。 1988年、満を持してパッケージツアーの企画販売に参画。タイミングを計りマーケットニーズを読 みながら、渡航先別営業カウンターの設置、国内在住の外国人向けツアーデスクなど、守備範囲を少 しずつ拡大していった。1980年代後半のバブル経済の時代も無借金経営に徹して、投資を控えたこと が効を奏し大失敗をせずに順調に業容は拡大した。 (4)格安エアラインへの挑戦 1990年、社名を㈱エイチ・アイ・エスに変更。1993年当時、新宿南口に新本社を構え、日本一のス ペース面積を誇る海外旅行のデパート「トラベルワンダーランド」をオープンし、香港4日間1万9800 円という超格安の目玉商品を発売した。1995年3月、旅行業のベンチャー企業としては初めて株式を店 頭公開。1996年、澤田は格安航空会社のスカイマークエアランズ㈱(現・スカイマーク㈱)を設立し、 定額航空運賃専門のエアラインに参入し、1998年9月に就航する。しかし、 「半額運賃などできるわけ ~ 98 ~
  • 99. がない」と断言していた日航と全日空が、一気に低額運 賃政策を導入し始め、競争力が激減してスカイマークは 大赤字に転落した。この赤字事業との格闘は、2004年ま で続いたが、スカイマークは2000年に東証マザーズに上 場し、その後黒字化を達成した。澤田のエイチ・アイ・ エスは2005年にスカイマークを軌道に乗せたことで経営 から離れ、同社のグループ外となった。1999年、澤田は 協立証券(エイチ・アイ・エス協立証券に改称、現・エ イチ・エス証券)の株式を取得し、代表取締役に就任。 そのほか、モンゴルの旧国立銀行が民営化したハーン銀 行への経営参加、外為どっとコムへの経営参加を行って いる。 エイチ・アイ・エスは2005年度の海外旅行取扱人数において、長年旅行会社のトップにあったJTB を抜いて旅行業界首位となる。2010年1月、8年連続赤字で経営難に陥った長崎ハウステンボスへの再 生支援を表明し、同年4月にハウステンボスはエイチ・ア イ・エスの子会社(67%出資)となり、澤田が同社社長 に就任し再建が開始された。 エイチ・アイ・エスは、2010年現在、国内227、海外 56都市66拠点の店舗をもち、社員数は約2500人、グルー プ全体では約5000人の企業グループに成長している。ま た売上金額も約3480億円(2009年度連結決算)に達する までに成長している。 ● 澤田秀雄 語録 「私はみんなが左に行けば、右に行きたくなる性分。生来のあまのじゃくなんです。」 「問題が起きると人間は暗くなりがちですが、そこで、暗くなったら沈むだけ。」 「必死に知恵をしぼって動き回って活路を見出すんです。九回失敗しても十回目で成功すればいい。起 業家にはそれくらいの気構えが必要なんです。」 「本当に正しければ、いずれルールが変わっていく。」 【引用文献】 Dream Gateスペシャルインタビュー:澤田秀雄 http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=455 ■設問26 設問26 ●澤田秀雄のアントレプレナーシップ論 1. 澤田の性格と考え方について、想像も含めて述べなさい。 2. 格安航空券販売を起業した当時の時代背景について述べなさい。 3. 澤田に影響を与えたものは何と思うか。 4. 澤田のエイチ・アイ・エス社長時代には、格安航空券ビジネスの時代背景はどのような ものだったか。 5. 澤田が格安エアラインに参入した理由はどのようなものだったと思うか。 ~ 99 ~
  • 100. 【ケース ⑮】柳井正:ユニクロの創業者 柳井正:ユニクロの創業者 柳井 正(やない ただし) 1949年(昭和24年)生まれ。カジュアル衣料の製造販売「ユニクロ」 を中心とした企業グループ持株会社である㈱ファーストリテイリングの 代表取締役会長兼社長。ソフトバンクの社外取締役でもある。 ㈱ユニクロ(ファーストリテーリングの子会社) を中心として、 衣料・ 靴等の小売店舗を展開する企業群を傘下に有する。社名は英語で「素早 く(提供する) 」を意味するFastと 「小売業」を意味するRetailingを組 み合わせた造語で、ファストフード的に素早く商品を提供できる小売業 (=ファスト・ファッション)を目指して名付けられたものである。企業 理念は「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」 。GAPに代表される ような世界的な衣料品企業を目指し、 積極的に海外展開及びM&Aを行っ てグループを拡大している。 (1)生い立ち 山口県宇部市生まれ。 父である柳井等は、第二次大戦後の1949年に個人営業として メンズショップ小郡商事を山口県宇部市に創業。1963年、個人事業を法人化し、ファ ーストリテイリングの前身である小郡商事㈱を設立した。 柳井正が同社社長に就任し た1984年まで父が代表取締役社長を務めた。 (2)二代目の社長に就任 柳井は、早稲田大学政治経済学部を卒業後、ジャスコ(現在のイオンリテール)に入社したが9ヶ月 で退職し、1972年8月に山口県に戻って実家の小郡商事に入社。当時小郡商事が展開していた店舗「メ ンズショップOS」は紳士服などの男性向け衣料が中心であった。当時の小郡商事は、メーカーから仕 入れてきた衣料の小売販売に徹しており、現在のような製造小売(SPA)ではなかった。 衣料販売にたずさわる間で、洋服の青山やアオキなどの郊外型紳士服店が業績を拡大したため、後 発を避け安価で日常的なカジュアル衣料の販売店を着想し全国展開を目指 した。カジュアル衣料にこだわった理由は紳士服のように接客を必要とし 1997年頃のユニクロの ない、物が良ければ売れるという点が自身の性に合ったためという。 フリース (3)ユニクロに着手 1984年、父親の後継者として小郡商事の社長に就任。柳井は「ユニーク な衣料品」という意味をこめて、 「ユニーク・クロージング・ウエアハウス (Unique Clothing Warehouse)」とブランド名をつけ、1984年6月に広島 市にユニクロ第1号店を開店し、その後中国地方に店舗を拡大していった。 ユニクロのカジュアル路線が徐々に陽の目を見るようになった1991年、 社名を㈱ファーストリテイリングに変更。1994年7月、広島証券取引所に株 式を上場、1997年4月に東京証券取引所第2部に上場した。 柳井は、ユニクロ店舗の全国展開によって、良品質のカジュアル衣料を 極めて安い価格で売るという「価格破壊路線」を進めた。1994年にはユニ クロは100店舗を越え、1997年には300店舗を超えた。 ユニクロが爆発的にヒットしたのは1999年から2000年にかけてである。一着1,900円のフリースや 2,900円のジーンズが価格破壊の象徴としてマスメディアなどにも紹介されて大ブームになった。あま りに大量に売れ着用している人が多かったためユニクロの衣料を着用しているのが判明してしまう 「ユニバレ」と呼ばれる現象が広がり、ユニクロの服がダサい、恥ずかしいとの印象も広がり、経営 悪化の一因となった。 大ヒットで売上高が倍々ゲームとなったファーストリテイリングは、2001年9月にイギリス・ロンド ンに4店舗を開店し、海外進出を果たした。2001年11月、日本IBMから入社した玉塚元一が代表取締役 社長に就任し、柳井正が代表取締役会長に就任した。 しかし、2002年から3年間、ファーストリテイリングは低迷期に陥った。消費者にユニクロ製品の飽 和感が広がり、イギリスに展開した海外店舗も不振に陥った。柳井はいったん社長を退いたが、2005 年には社長の玉塚を解任し、再び社長に復帰した。また2005年には持株会社制への移行を受けて、グ ループ各社の会長職を兼務している。 ~ 100 ~
  • 101. (保温性を高めた下着)や「ブラトップ」 2006年頃から「ヒートテック」 (ブラジャーのカップを内 蔵したキャミソール、タンクトップなど)など機能性を重視した商品に加え女性ものの商品に力が注 がれている。また、ユニセックスやお手頃価格の路線は堅持しつつも、一部で脱却を図り、外部と組 んだメッセージ性を持つ共同企画商品の開発や買収したブランドのノウハウ移入、乳幼児向け商品の 開発を行っている。 (4)ユニクロ批判 ㈱ファーストリテイリング・連結売上 高の推移 (億円) 6,850 7,000 ビジネスモデルとしてのユニク ロの低価格・大量販売戦略につい 6,000 て、賛否両論がある。同志社大学 5,000 教授の浜矩子は、「文藝春秋」2009 4,186 年10月号に『ユニクロ栄えて国滅 4,000 3,098 ぶ』という論文を発表し、ユニク 3,000 ロのように企業が価格破壊のよう な低価格で商品を販売することが 2,000 企業の利益を縮小させ、ひいては 1,000 831 333 人件費の切り下げにつながってい 52 るとして、ユニクロのような経営 0 を「自分さえ良ければ病」である 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 と批判している。 なお、柳井は、米フォーブス誌 「2009年 日本の富豪40人」 によると、個人資産が61億ドル (約5700 億円)で日本人トップの資産家とされている。 ● 柳井正 語録 「これまでも私は、いろいろなことで失敗しています。 そもそも商売というのは、失敗するのがふつうだと思うんです。 新しいことをして成功する確率はほとんどない。10回やっても1回もないぐらいじゃないかな。だから、新しいことを やってダメだと思ったら、即座に撤退する。これがつぶれない秘訣ですね。 」 「フリースブームというものがありました。爆発的なヒットになりました。ただ、そこでマスの一員になったらダメで す。成功の復讐があります。ブームになると、終わったとなる。次の世代に行かなければならない。 」 「僕の好きな経営者は松下幸之助です。松下さんは経営に必要なことをほとんど経験し、そこから多くを学び、現代に 通じる経営哲学を伝えています。どんなに技術が進歩しても経営の基本は松下さんの時代と変わることはありません。 僕は松下幸之助や本田宗一郎の本をほとんど読んでいます。こういうことなのかと随分教えられました。 」 「日本の大企業の経営者のほとんどはサラリーマン経営者だから、失敗のリスクを100%背負わない。自分のお金で会社 を動かすわけではないし、任期が終われば責任から解放される。だから、よほどせっぱつまらない限り、自分のした ことを否定しない。私は常に否定してこそ商売だと思うんです。 」 ■設問27 設問27 ●柳井正のアントレプレナーシップ論 1. 柳井の出自について簡単に説明しなさい。 2. ユニクロ事業をスタートさせた当時の時代背景を説明しなさい。 3. ユニクロは、何でどのように収益を得る事業か。 4. ユニクロの強みを自分の視点で評価するとどのような点か。 5. ユニクロの価格破壊を自分はどう考えるか。 6. 柳井の先進的なところ、異端であるところはどこかについて、自分の考えを述べよ。 7. 柳井のような二世経営者がベンチャービジネスを起こすことは有利か不利か。自分の考 えを述べよ。 ~ 101 ~
  • 102. 【ケース ⑯】三木谷浩史:楽天の創業者 三木谷浩史:楽天の 三木谷 浩史(みきたに ひろし) 1965年(昭和40年)生まれ。楽天㈱の創業者で代表取締役会長兼社長。 (1)生い立ち 兵庫県神戸市生まれ。父は経済学者の三木谷良一(神戸大学名誉教授) 。 3人兄弟で、姉は医師、兄はバイオ研究者の大学教授。6歳まで神戸市垂水 区にあった神戸商科大学職員住宅に居住。 1973年、小学校2年時に父がイェ ール大学研究員に就任したため家族で渡米、 アメリカで2年間過ごしたのち、 帰国し明石市立松が丘小学校入学。1977年、岡山県私立岡山白陵中学校に 入学、実家から離れ寮生活を送る。スパルタ教育のため精神不安定になっ たために中学2年生の6月に退学、実家に戻り近所の朝霧中学校へ転校する。後に、三木谷はこの経験 をバネにして奮起したと述懐している。 1980年、兵庫県立明石高校に入学。高校時代はテニスのジュニア関西ベスト16。1983年同高校卒業 後、1年間の浪人生活を送った。1984年 一橋大学商学部入学。大学生時代は体育会テニス部主将。 (2)エリート銀行員 1988年、一橋大学商学部を卒業し、日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行)に入行。名古屋支 店を経て、本店外国為替部配属。1991年に銀行派遣により米国ハーバード大学ビジネススクール ハーバード大学ビジネススクールに留 ハーバード大学ビジネススクール 学。滞米生活で起業家への夢が芽生える。1993年、MBA取得後に帰国。帰国後は、銀行の企業金融開 発部でM&Aの斡旋を担当し、孫正義(ソフトバンク) 、増田宗昭(TSUTAYA)などが顧客であった。 (3)独立コンサルティングを経て楽天を起業 1995年11月、日本興業銀行を退職し、 コンサルティング会社のクリムゾング ループを設立。新卒者と2人だけの起業 であった。1997年2月にクリムゾングル ープで稼いだ6000万円を元手に、㈱エ ム・ディー・エム(現・楽天)を設立。 1997年5月、楽天市場を開設。1999年 6月、社名を楽天㈱に変更。1999年9月、 楽天㈱・連結売上高の推移 (億円) インターネットオークション事業楽天フ 2,983 リ マ 開 設 。 2000 年 4 月 19 日 、 楽 天 は 3,000 JASDAQ市場に店頭登録(上場)を果た す。当時はインターネット・バブルの最 2,500 中で、ネットベンチャーの注目銘柄とし 2,033 2,000 て脚光を浴びた楽天は、株式公開直前期 の売上高が6億円(経常利益は2億2千万 1,500 円)であったものが、株式公開直後の会 社時価総額が2,455億円というけた外れ 1,000 の株価(初値)がついた。この高い株価 のおかげで楽天が株式市場から調達した 500 456 資金は495億円という巨額なものとなり、 32 68 99 181 0 1 6 三木谷は公開後からこの資金を源資にし 0 て積極的に買収を進めた。 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 (4)買収による事業拡大 株式公開後は、インフォシーク、コミュニケーションオンライン、ライコスジャパン、マイトリッ プ・ネットなど、2002年末までの2年弱で8社を買収した。2003年9月、楽天は「旅の窓口」を運営す るマイトリップ・ネット㈱を日立造船株式会社より買収、完全子会社化し、現在の楽天トラベル㈱と した。同年2003年11月、DLJディレクトSFG証券㈱を買収・子会社化し、現在の楽天証券㈱とした。 2004年9月、㈱あおぞらカードを買収・子会社化し、現在の楽天クレジット㈱とした。またプロ野球 ~ 102 ~
  • 103. で近鉄・オリックスの球団統合が議論されていた2004年9月に日本プロフェッショナル野球組織への加 盟を申請し、同年10月に㈱株式会社楽天野球団を設立した。2005年6月、 国内信販㈱を買収・子会社 化し、現在の楽天KC㈱とした。 現在の楽天の運営する電子商店街「楽天市場」 は国内最大であり、 その規模は会員数4,000万人。 出店数25,000店。楽天市場内店舗の合計年間売上 高は6,933億円(2008年度)と、大手百貨店の三 越を上回る売上高となっている。楽天は2003年 10月に本社を港区の六本木ヒルズに移転したが、 業務拡大による人員増大と拠点分散を解消する ために、2006年9月から品川シーサイドフォレス ト内にオフィスを移転し、 新しい地上23階建てビ ルは「楽天タワー」と名付けられている。 三木谷は、2008年にはフォーブス誌の日本人富豪ランキング8位にランクインし、38億ドル(約4000 億円)の資産を保有していると報じられ、2009年には36億ドル(約3384億円)で日本人7位に、2010年に は47億ドル(約4277億円)で6位となった。 また、楽天は2010年6月に社内の公用語を英語にすることを発表、同社の決算発表等のメディア対応 も英語で行われ、世間の注目を集めている。 ● 三木谷浩史 語録 「仕事は僕にとって、最高のエンターテイメントなんです。 」 「僕はよくリスクテイカーだと言われます。でも、本当はそうじゃない。限りある自分の人生を、精一杯 やったんだと思いたいだけ。人生を後悔するという最大のリスクを回避しているんです。 」 「経常利益で1000億円。目指すのはただですから。自分が飽きさえしなければ、絶対勝てる。最大のリス クは充実していないってこと。目標を決めて、逆算して行動を起こす必要があります。僕はハードルが 高くなるほど、解決したくなってくるんです。 」 「ブレークスルーを起こすには100%の力ではだめで、120%出さなくてはいけない。それをやれるかどう かという差は大きいと思います。ひとつ言えるのは、頭を使って、成功するまでやり続けることだと思 います。それには自分のエネルギーレベルとゴールへの執着心が必要なんだと思いますね。 」 「ナンバーワンであり、オンリーワンでありたいと思っています。いろいろな競争がある中で、自分たち が戦略的に『こういう風に展開していけばナンバーワンになれる』と考えた分野で世界一を目指す。そ れは利益力かもしれないし、従業員が一番幸せなことかもしれないし、安心感、ブランド ネームなどい ろいろな指標があると思います。 」 ■設問28 設問28 ●三木谷浩史のアントレプレナーシップ論 1. 三木谷の出自を説明し、それは起業を促すものであったかについて自分の見解を述べな さい。 2. 三木谷に影響を与えたものは何かを述べなさい。 3. 三木谷をハーバードMBAのエリート銀行員を捨てて起業に走らせたものは何だろうか。 4. 楽天が次から次へと買収した理由は何か。 5. 楽天がプロ野球(楽天ゴールデンイーグルス)を設立した理由は何か。自分の考えを述 べよ。 6. 三木谷、楽天の問題点、課題はどこにあると思うか。自分の考えを述べよ。 ~ 103 ~
  • 104. 【ケース ⑰】堀江貴文:ネットバブルと挫折と 堀江貴文:ネットバブルと挫折 挫折と 堀江 貴文(ほりえ たかふみ) 。 1972年(昭和47年)生まれ。㈱ライブドアの元・代表取締役社長CEO。 あだなは「ホリエモン」 。 (1)生い立ち 1972年、福岡県八女市で共働きの会社員の一人息子として生まれた。父 親は厳しかったという。堀江は著書の中で「温かい家庭がどんなものなの か、まったく知らないままに子供時代を過ごした」と書いている。親友も なく、孤独な少年だったが、頭脳明晰、成績優秀。中高一貫校の久留米大 学附設中・高校から、現役で東京大学文科Ⅲ類に入学した。 高校の先輩がソフトバンク社長の孫正義で、その実弟である孫泰蔵とは、中学・高校・大学の同級 生である。少年時代に孫正義の活躍を目の当たりにして育ったことが現在の堀江の原点であるとも言 われる。 (2)学生ベンチャー 東京大学に入学後は、大学の駒場寮へ入寮し、同部屋となっ た2人の先輩のうちの1人から塾講師のアルバイトを紹介される。 アルバイト先の塾でのちに共同で会社を設立することとなるメ ンバー達と知り合った。在学中の1996年、ウェブページ制作請 負会社である有限会社オン・ザ・エッヂを設立。資本金600万 円は堀江がアルバイトで教えていた学習塾の生徒の父親が全額 出資した。創立メンバーは大学生4名であった。 翌1997年7月に株式会社オン・ザ・エッヂに改組。1998年9 月、インターネット広告事業のサイバークリックを開始。1999年11月、インターネットコミュニティ 運営の㈱フープスを設立した(2001年6月に売却) 。1999年頃にはインターネットブームが爆発してお り、オン・ザ・エッジは事業を拡大させていく。だが、株式上場をめぐって、堀江と他の創立メンバ ーとの意見が対立し、堀江が株式公開の路線を主張したのに対し、他のメンバーは「ちゃんとクライ アント方を見て仕事をしていくのが先決」として意見が分かれ、一部の創業メンバーが退社した。 (3)株式上場後の拡大路線 オン・ザ・エッジは2000年4月に東京証券取引所マザーズ市場に上場。この公募増資により60億円を 市場から調達し、上場直後の同社の会社時価総額は570億円であった。この調達資金をもとに、オン・ ザ・エッジは買収により拡大路線を始める。 2002年11月、経営破綻した(旧)株式会社ライブドア(初代)より営業権を譲受。2003年4月、社 名をエッジ株式会社に変更。2004年2月、 (旧)株式会社ライブドア(初代)から譲り受けた無料ISP のサービス名であるlivedoorを社名に採用し、株式会社ライブドアに社名を変更した。 2004年3月、日本グローバル証券㈱(現・ライブドア証券㈱)の株式を93%取得し子会社化。2004 年3月、バリュークリックジャパン㈱の株式を取得し子会社化。そして、2004年6月、プロ野球球団大 阪近鉄バファローズを買収したい旨の意思を表明する。しかし、買収の賛同が得られず、プロ野球進 出は断念した。 2005年2月8日、東京証券取引所に上場している ニッポン放送の発行済み株式の35%を取得した。 ニッポン放送はフジテレビの親会社であるために ライブドアがテレビ局の経営支配権を掌握する企 てとしてライブドアとフジテレビで抗争が始まる。 2005年5月、ニッポン放送の株式を32.4%保有す るライブドア・パートナーズをフジテレビに670 億円で売却。フジテレビを割当先とした第三者割 当増資を実施(発行総額440億円) 。これによりラ イブドアはフジテレビの経営権掌握は断念したが、 フジタレビ側から多額の資金調達が実現した。 ~ 104 ~
  • 105. (4)派手な言動とホリエモン現象 ライブドアは派手な買収劇の他にも、 大幅な株式分割で衆目 を集めた。2003年11月には株式を1:100の分割を発表し、株式 分割後、1株あたり株価が小額になった事で需要が増え、2003 年12月25日から2004年1月20日まで株価は15営業日連続でス トップ高となり、終値で1802円まで高騰した。 また堀江は、 テレビに出るときでさえTシャツの出で立ちで、 既存秩序にきつい疑問を投げかけて本音を語る独特の奔放な 言動は若い世代の支持を集め、 「ホリエモン」のあだ名は全国 に広がった。 「女は金でついてくる」の名セリフはマスコミで 叩かれ、2005年の流行語大賞では「想定内」で受賞した。 2005年8月の衆議院総選挙では、自 民党支持のもとに無所属で広島6区か ㈱ライブドア・連結売上高の推移 (億円) ら出馬し、郵政改革に反対して自民党 1,400 1,379 を離党した亀井静香と激しい選挙戦 を繰り広げたが、次点で落選した。 1,200 973 1,000 (5)ライブドア事件 784 2006年1月16日、証券取引法違反の 800 710 容疑により、六本木ヒルズ内のライブ 600 ドア本社と堀江社長の自宅等が、東京 421 地検による家宅捜査を受ける。翌日は 400 309 268 ライブドア関連銘柄の株価が軒並み ストップ安となった。1月23日、同容 200 59 108 36 疑で堀江貴文代表取締役、財務担当の 1 3 12 0 宮内取締役、岡本取締役、ライブドア 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 ファイナンスの中村社長の4名が逮捕 逮捕 された。 また急激な出来高増加により ライブドアの株価(分割後換算、円) 東京証券取引所の取引が停止する事 1800 態も発生した。この出来事は「ライブ 1600 ドア・ショック」と呼ばれた。 1400 1月24日、堀江貴文社長が社長を辞 1200 任し、 平松庚三上級副社長が社長に就 任した。1月25日、堀江前社長がライ 1000 ブドア取締役を辞任。 ライブドアに対 800 する堀江貴文の支配権が完全になく 600 なった。2月13日、堀江は証取法違反 (風説の流布、偽計取引)容疑で東京 400 地検に起訴された。2007年3月16日、 200 東京地裁で判決公判が行われ、 小坂裁 0 判長は 「上場企業の責任者としての自 00/4 7 01/1 7 02/1 7 03/1 7 04/1 7 05/1 7 06/1 覚が微塵も感じられない」 として懲役 2年6ヶ月の実刑判決(求刑懲役4年)が言い渡したが、堀江側は東京高裁に即日控訴した。2008年7月 25日、東京高裁は堀江の控訴を棄却し、1審の懲役2年6か月の実刑判決を支持した。弁護側は即日最高 裁に上告した。現在は最高裁で審理中であり、今後その判決が予定されている。 堀江の逮捕をはじめとする一連の「ライブドア事件」は、経済社会に様々な反響をもたらした。こ の事件の明らかになった2006年1月中旬から新興株式市場が急速に下落し、その後村上ファンド事件や 新興企業の業績不振や粉飾事件が散発する中で2007年秋まで下落傾向が続いた。ライブドア事件は、 ベンチャー企業の業績があだ花であることの典型例であるとの見方はベンチャービジネスに対する疑 念のムードを拡げるきっかけとなった。また、堀江が小泉政権の規制緩和路線や郵政民営化を支持し たことから、逆に反小泉改革運動の支持者らはライブドアや堀江の行状を「新自由主義の産物」「行、 きすぎた市場主義経済の弊害」ととりあげ、小泉路線で生じた悪事と扱われた側面もあった。また、 若い世代は、堀江とライブドアの失墜を、検察や大企業の横暴によるものと考える向きもあり、今で ~ 105 ~
  • 106. も堀江をその犠牲者として支持する人々は少なくない。 (6)人物 東京地裁での裁判では、罪状認否では「起訴状は悪意に満ち て書かれている」「そのような犯罪も指示もしたことがなく、 、 起訴されたことは非常に心外だ」と起訴事実を全面否定、無罪 を主張し、検察側と全面的に対決する姿勢を見せた。 また、2007 年1月の地裁の最終弁論では、堀江は涙声で「取り調べなしに突 然逮捕された」「おまえをつぶすという意気込みで、こちらは 、 商売できない」などと、検察とは逆に堀江側が検察を痛烈に批 判した。堀江は現在は最高裁に上告中であるが、この一連の行 状に対して罪の意識を感じていないようであり、自身の運営するブログやインターネットテレビ等で 検察や大企業の悪行等と批判を続けている。 また、堀江は1999年に女子社員と「できちゃった結婚」をし、男子をもうけたが、2002年に離婚。 元妻が引き取った子供に一度も会ったことがないという。 「世の中に温かい家庭ってあるんですか?。 僕には信じられない」とインタビューで答えたこともある。人を不快にさせる露悪的な発言を繰り返 すのは、両親との確執がトラウマになっているからだ、と心理学者が分析する向きもある。 ● 堀江貴文 語録 「在学中にバイトしてみて、インターネットが大きな市場になることがわかった。 大学にはほとんど行っ てません。東大は、入ったことが重要で、人脈も勝手にできる。サラリーマンになろうと思ったことは 一度もない。搾取される。(2004年11月、朝日新聞インタビュー) 」 「僕に面と向かって『お前はおかしい』 なんて批判する人はいない。 マスコミがあおっているだけでしょ。 」 (2005年2月、朝日新聞のインタビュー) 「インターネット、メディア、金融のコングロマリット(複合企業体)を目指している。放送は一方通行 で先細りする。ブランド力や多くの視聴者をもつ今のうちにIT事業で成功しなければ、 10年後にはビ ジネス機会を失う。(高速大容量通信が普及した)今がチャンスで、ここ1、2年が勝負だ。 2005年3月、 」( 日本外国特派員協会での講演) 「小泉さんの改革路線、郵政民営化は賛成でして、改革を推進していくことに関しては大賛成で、志もま ったく共通のものです。亀井静香氏は、私とは考え方が百八十度異なる。ホントは他の人がやってくれ る方がいいんですけど、誰もやらないから僕がやる。(2005年8月、自民党本部で立候補表明会見) 」 「選挙にはほとんど行ったことがありません。面倒くさいからです。 」 「『想定内』という言葉が流行語になるなんて、想定外ですね。 来年もここに立っている気がする。(2005 」 年12月、流行語大賞に選ばれて) 「世の中にカネで買えないものなんて、あるわけないじゃないですか。」 「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます。(2004年8月、著書「稼 」 ぐが勝ち」 ) 「人間はお金を見ると豹変します。豹変する瞬間が面白いのです。 」 「サラリーマンは現代の奴隷階級。 」 「起業家は現代の貴族階級。 」 「女は25歳超えたら無価値で有害なだけの産業廃棄物。 」 「大衆の7割はバカで無能。 」 「世論には意味がない。 」 「年寄りは合法的に社会的に抹殺するしかない。 」 「経済的に貧しくなると人間は狂気に走ります。 」 「ずるい手でも法律に触れなければ勝ち。 」 「ライバルはヤンキースの松井ぐらいしか想像できない、でも収入は僕の方が上。 」 「検察・特捜部は「正義原理主義者」の集まりだ。(2010年1月、自身のブログ) 」 「尖閣諸島を明け渡しちゃえばいいじゃない。(2011年2月4日『朝まで生テレビ』で) 」 ~ 106 ~
  • 107. 【引用】 六本木で働いていた元社長のアメブロ(堀江自身のブログ) http://ameblo.jp/takapon-jp/ ■設問29 設問29 ●堀江貴文のアントレプレナーシップ論 1. 堀江の出自は起業やその後の転変に影響しているだろうか。 2. 堀江の性格や考え方は、起業に影響しているだろうか。 3. 堀江の起業当時の時代背景はどのようなものであったか。 4. 少年時代の堀江に影響を与えたものとは。 5. 堀江の経営手法の特徴を述べなさい。 6. 堀江は異端か、先端か?。 7. 堀江がテレビ局を支配下に置こうとした理由をどう考えるか。 8. 堀江が衆議院選挙に出馬した意図はどこにあるだろうか。 9. 堀江がプロ野球に進出しようとした意図はどこにあるだろうか。 10. ライブドアが粉飾(嘘の財務諸表の記載)をして、何を企図していたのだろうか。 11. 堀江やライブドアの若さや経験のなさが事件に影響したと思うか。そうであれば、堀 江はどのように対処すべきであったか。 12. ライブドアの粉飾により損害を受けた者は誰か。 13. ライブドアの粉飾事件により、経済社会にどのような影響があったか。 14. ライブドアの事件のような「インチキ」によって、世の中はベンチャービジネスにど のような認識を持つであろうか。 15. 堀江は裁判が終わらない今も、盛んに検察や企業を批判しているが、どのような気持 ちでやっていると考えるか。 16. ベンチャービジネスは、このような「危ない橋を渡っている」会社が多いのだろうか。 17. もし16のようなベンチャーが多いとすれば、どうして彼らはそのような行動に走るの だろうか。 18. 堀江の不祥事は、先にあげたリクルートの江副と類似している点はあるか。それはど のようなものか。 19. 堀江の反抗心の強さや「目立ちたがり」の性格は、ライブドアの経営に有益だっただ ろうか。 20. 堀江の経営について、君は好評価するか、それとも違う評価か。それはなぜか。 ~ 107 ~
  • 108. 【ケース ⑱】南場智子:モバゲータウンの創業者 南場智子:モバゲータウンの創業者 南場 智子(なんば ともこ) 。 1962年(昭和37年)生まれ。㈱ディー・エヌ・エー代表取締役社長。 (1)生い立ち 新潟県新潟市出身。南場の言によると、厳格で封建的な家庭で育った。 父親は会社経営者であったが、絶対的な権力を持っており、そこに母親や 娘である彼女に発言権がまったくなかった。幼少期の彼女にとってただ怖 い存在だった。自転車が欲しいと母親に頼んで父親に上申したが、父親が 「だめだ」というと彼女に食い下がる余地はなかった。父親の許可を得な ければ、彼女は何もできなかったという。 (2)父親への反発 父親は、女に教育は必要ないと考える人であり、南場は小・中学校時代、学校で出た宿題を家でや ったことがないという。家庭教育を学校教育より優先させるべきものだと考えていた父親は、 「授業な どというのは聞くものではない」と彼女に教えており、南場は先生の話を聞かず、友達としゃべりに 興じたり歩き回ったりで困った生徒だったらしい。しかし、南場の学校の成績は常に上位であった。 高校は県トップの進学校の新潟高校に進学したが、大学は行かせてもらえるかわからず、高校3年の8 月に南場は父に聞いた。 「大学に行かせていただけますか」「地元の新潟大学に行きなさい。東京で独 。 り暮らしする女性は100%不幸になる」。耐えられないと思った南場は、初めて父に反抗した。 「もう家 を出ていきます」と荷物をまとめ、本気で出ていこうとしたら、巨漢の父がドアの前に仁王立ち。父 に向って体当たりし、跳ね飛ばされて背中を家具の角にしたたかにぶつけたという。 (3)大学時代に留学 高校の先生も父を説得し、南場が上京することを許してもらったが、父から提示された条件は、 「女 子寮がある女子大。卒業後は新潟に戻り就職は自分に任せること。ボーイフレンドをつくらない、学 生運動はしないこと。」であったため、津田塾大学を受験、他の大学は受けず選択の余地はなかった。 父親から解放されたいと思った南場は、大学時代に留学すべく猛勉強をした。大学4年時に大反対の 父親を説得し、アメリカのブリンマー大学に1年間留学をした。留学から帰国した時には大学5年生で、 大学の同期は皆社会人になっていたが、大学の先輩を通じてコネで就職先を探しまわった結果、1986 年に米系大手コンサルティング会社のマッキンゼーに入社した。 しかし、入社したものの、専門用語が全くわからず、必死で内容を理解し仕事をまとめて退社する のが深夜の3時、4時だったという。南場は限界を感じてMBA取得を口実にした留学を考え、ハーバー ド大学ビジネススクールに合格し、わずか2年でマッキンゼーを退社して再びアメリカに留学する。 南場は2年間の留学後に何をするかで迷うが、結局、古巣のマッキンゼーに復帰するが、復職初日に 大後悔したという。転職を考えていた時にある大プロジェクトを任されたが、最初に「私はアホです」 とカミングアウトして、チームのみんなに助けてもらいながら進めたことが効を奏し。プロジェクト は大成功しクライアントにも喜んでもらえた。このことが南場の成功体験と大きな転機になったと本 人は語っている。その後、担当するプロジェクトが次々に成功し、34歳でコンサルタントの最高位で あるパートナーに抜擢され、コンサルティングの面白さが徐々にわかってきたものの、自らが事業を 作り上げる仕事ではないコンサルティングに限界を感じ、漠然と独立して起業することを考えていた。 (4)ネットベンチャーを立ち上げ マッキンゼーでの最後の3年間は、マルチメディア系 新規事業のコンサルティングに関わっており、先端の ITビジネスを調査していたため、その業務の中からイ ンターネット・オークションの可能性を信じて、 起業を 決意する。 1999年3月、南場はマッキンゼーの同僚と有限会社デ ィー・エヌ・エー (DeNA)を設立し、インターネット・ オークション「ビッダーズ」を立ち上げようとした。南 場はベンチャーキャピタルや事業会社に出資を募り、 ~ 108 ~
  • 109. 1999年12月に7.2億円、2000年3月に13億円を調達し、ネットブームに乗っ て大きな資金を調達することができた。しかし、現実は厳しく、ビッダー ズのスタートは遅れたばかりか、Yahoo!オークションと競合して出品数も 落札数も伸びず、大規模なシステムトラブルも発生するなど、創業当初は1 年後に黒字になると思っていたものが、5年間赤字が続くことになった。 (南場談)当時は、灯りの見えない暗くて長いトンネルを、やみくもに進んでい るような感覚でしたね。「業界の負け組」などという声は、耳をふさいでシャット アウト。明るい出口があるに違いないと、疑うことはしないで前のめりにすごし ていました。競争に負けることが大嫌いですから、Yahoo!を追い越すためには何 でもしようと・・・。 DeNAが大幅な赤字から黒字決算に転換するのは2003年度決算 (2004年3 月期決算)である。それまでは会社創業から累計で20億円もの赤字を出し ていた。負けず嫌いの南場は、誰もいない場所でひとり嬉し泣きしたと言 っている。しかし、PCオークション・サービスではYahoo!オークションに は勝つことができず、勝負の土俵をモバイルにシフトしようと考え、2004 年3月に「モバオク」 (携帯オークションサイト)を立ち上げた。 2005年2月、DeNAは東京証券取引所マザーズ市場に株式を上場し、大人 気の中で上場直後の初値での時価総額は1010億円となった。2005年6月、 子会社モバオクを設立して「モバゲータウン」をスタートしたが、モバゲ ータウンは釣りゲーム等の内製のソーシャルゲームが人気を集めて集客が 急増し、2007年5月にはモバゲータウンの会員数が500万人突破、2008年4 月には1000万人を突破した。特に2009年10月に始めた「怪盗ロワイヤル」 (2009年10月開始)が大ヒットし、2010年1月にはモバゲーAPIのオープ ン化によって100種類以上のゲームが公開されている。 この結果、DeNAは創業当初のPCベースでのインターネット・オークシ ョン専業のベンチャービジネスから、モバゲータウンを中心とした携帯 (ソーシャルネットワークサービス) SNS 主力の会社へと移行しつつある。 また、DeNAは2009年前後から海外進出を本格化させ、アメリカのネット ワークベーム会社を買収し、2010年10月にはアメリカのベンチャーキャピ タル・ファンドからスマートフォン用ネットワークゲームを開発するベン チャーのngmoco.Inc.を買収した。買収金額は最大4億300万ドル(約342億 円)と発表されている。 【引用】Dream Gateインタビュー:南場智子 http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=964 ■設問30 設問30 ●南場智子のアントレプレナーシップ論 1. 南場の子供時代の経験は、起業に影響しているだろうか。 2. 南場がアメリカの大学に二度も留学したことは、起業に影響しているだろうか。 3. 南場が起業した当時の時代背景はどのようなものだったか。 4. 南場に影響を与えたものは何か。それは起業につながっているだろうか。 5. 南場がマッキンゼーのエリート・コンサルタントの職を捨てて起業の道を選んだ理由 は何だろうか。 6. 南場の経営手法について特徴を述べなさい。 7. ディー・エヌ・エーは、事業が大きく方向転換しているが、それは何か。 8. 女性が社長となることは、どのような困難があると思うか。 ~ 109 ~
  • 110. ■まとめ:昭和後期・平成の起業家論のポイント まとめ:昭和後期・平成の起業家論のポイント 項目 論点 1.出自、性格、教育、思想、価値観。 インテリ、親との関係、有名大学、留学、反 大企業指向、独立心、商売指向、など 2.起業家は、何に影響されたか。 学生生活、アルバイト、親、友人、先輩起業 家、アメリカ、など。 3.起業家・事業経営者としての個人的強さ。 反抗心、独立心、留学の気概、キャリアプラ ン、など。 4.人脈、ネットワークの有利不利。 友人、大学、先輩起業家、など。 5.事業形態(組織)の特徴。 有限会社、株式会社、友人と起業、対立、 トップダウン、独断専行、など。 6.時代の潮流と起業家。 規制緩和、価格破壊、インターネットの商用 化、規制緩和、アメリカのベンチャー勃興、 シリコンバレー、スピンアウト増加、など。 8.平成の経営者の特徴。 高等教育、国際人、自分の自由選択としての 起業、スピンアウト、エリート、など。 9.起業家の失敗と凋落。 上場会社としての法律遵守意識のなさ、注目 企業のスキャンダル、スターダムから一気に 転落、世の毀誉褒貶、など。 10.なぜ失敗したのか。 なぜ大失敗したのか、行きすぎの原因はなぜ か、など。 11.平成の起業家が経済社会に果たした役割。 新しい企業グループを作る、先端的な企業経 営を生み出す、夢を与える、など。 12.起業家が及ぼした悪影響とは何か。 成功の裏にあったインチキ、ベンチャービジ ネスへ見方の変化、など。 ~ 110 ~