終着駅。
一年間にわたる長い旅路が終わりました。
その軌道は直線ではなく、所々曲がりくねってはいましたが、ちゃんと環状線的なまとまりを見せて終わりましたね。
最後の最後に、溜めさせていた涙を搾り取る構成は見事の一言。終わりよければ全てよしという常套句が霞む程、情感に溢れたクライマックスとなりました。
前回、イマジネーションが枯渇したライトにスポットが当たっている、という論旨を展開しましたが、それは概ね良い見当でした。そして、トッキュウジャーとして頑張ってきたトカッチ達四人の、類い稀なるイマジネーションは、ライトに再び光明を与える事になり、更にはライト達の肉親が、同様のイマジネーションを備えていた(!)という、この上ない「希望」を見せる事で、一気呵成に物語が収束して行きます。
この「ポカーンとしている間に一気に進む」感覚は、逆に冒頭の静謐なライトと四人の再会シーンと、エピローグにおける家族との感動の再会シーンを際立たせており、構成としても妥当で巧みなものでした。
一方、何となくですが、この最終話は前後編を駆け足で一話にまとめたという印象も。キャッスルターミナルが変形したロボ(?)も、巨大戦に持ち込まれる事なく瞬殺に近い形で倒されてしまいましたし、幹部との本格対決は、ネロとモルクがゼットに取り込まれるという驚きの展開へと収束してしまいました。終わってみれば何と、トッキュウジャーとシャドーライン幹部は、直接対決こそ何度も描かれましたが、ついぞ直接一人も倒す事なく最終話を迎えた事になります。結果的に、ゼットが全ての幹部を始末してしまった形になり、シャドーラインという組織がいかに特殊だったかが窺われます。
ただし、ネロとモルク相手の戦いは尺が割と長めに取られていて、その辺りのフラストレーションは溜まらない構成になっていました。敵味方双方に見せ場がちゃんとあり、アクションドラマとしてのプライドをしっかり見せてくれました。
曲解かも知れませんが、ライト達は子供という設定なので、幹部達に死を与えるという展開を嫌った可能性もありますね。勿論、毎回のシャドー怪人は躊躇なく倒していますが、幹部連中とは人格の描かれ方に雲泥の差があるわけで。子供のごっこ遊びに置き換えると、幹部連中にはキャストが居ますが、感覚的にシャドー怪人はソフビだったりするのではないでしょうか。
ちなみに、幹部がボスの力として使われるという展開は、「ライブマン」や「シャイダー」等で見られますが、今回の筋書きは「シャイダー」に近かったですね。幹部の忠誠心を見せて散っていくという、王道の展開が泣かせます。ネロは日和見主義っぽいキャラだったが故に、その最期の忠誠心がゼットならずとも本当に「キラキラ」に見えました。モルクはゼットの母親的な立場でしたから、その母性愛のようなものを見せる辺りがまた「キラキラ」していましたね。躊躇なく別れを告げて二人の力を得るゼットに至っては、そこに邪悪な者としての矜持は清々しい程に無く、むしろ「キラキラ」を欲する自らの本能が止められないといった、闇であるが故の悲しさを体現していたように思います。
また、この一連のアクションシーンの幕開けには、最終話恒例の「素顔名乗り」がちゃんと盛り込まれていて盛り上がりました。完全な素顔での名乗りは、バラエティ編でやってしまったので、今回は所謂マスクオフ状態での名乗りに仕上げていて、プレミアム感のあるシーンとなっています。アナウンスが代理で名乗るパターンから脱却し、自ら「トッキュウ○号」と名乗るのも、プレミアム感を強調していました。
そして、驚きのトッキュウレインボー!
この処理は様々な意味で合理的だなぁと思いましたが、とにかく盛り上がりましたね。
真にゼットと因縁を共有しているのはライトのみですから、最後の最後は両者の「サシの勝負」に持ち込まれるのが妥当。これを実現する為には、2~6号はリングアウトしてもらう必要が出て来ます。そこで採られたのは、「トッキュウジャー」の象徴たる「乗り換え」。
「生きる場所」に遂に到達した明は、ここで真のレインボーラインの一員、真のトッキュウジャーになれたわけで、ライトが明のオレンジにも乗り換えられたのは、五人と明の間にあった遮断機が取り払われたという意味すら感じられました。
次々と乗り換えてゼットに対抗するライトは、六色+金色で七色を揃えて、虹色に輝くトッキュウレインボーへと変身します。明のカラーを加える事で、遂に七色が揃うという究極のクライマックス。チープな七色の色分けスーツ等ではなく、合成で表現された輝くばかりのトッキュウ1号の格好良さは、筆舌に尽くしがたいものとして画面上に躍りました。ゼットを終始圧倒するカタルシスは、「トッキュウジャー」の中でも最強だったと思います。さすがは最終決戦。大昔、戦隊全員の力を結集した単体ヒーローがボスを倒すというストーリーを考えた事がありますけど、正にそんな感じで、おまけにビジュアル的には想像を超えていました。イマジネーションの勝利ですね。
最後の最後に構えたレンケツバズーカは、ライトを生身の五人が支えるという構図で放たれ、ライト一人の物語では無論無いのだという事をビジュアルで示しました。最終編はライトの独壇場とも言える展開でしたが、こうして終わってみると、ちゃんと他のキャラクターの話も丁寧に掘り下げられていて、本当に巧くまとめたなという印象です。
さて、今回がやや駆け足に見えたとの見解を述べましたが、そういったシーンの筆頭は、やはりライト達の家族が星祭りの灯籠を灯すシーンではないでしょうか。
終わってみれば(という言い方をまたしてしまいますが)、あのシーンの唐突感もどこかへ霧散し、納得してしまうのですが、シーンが登場した時点においては、やはり少々唐突でした。
一応、ライトの母が「もう一人居るような気がする」と呟くシーンを挿入し、当該シーンに至る段取りを付けているのですが、「もう一人居る」と感じる事へのきっかけが乏しいので、些か唐突に見えたわけです。これに関しても、前回に何となくライトを思い出しそうな彼女のシーンが挿入されていたりと、地味な伏線が張られていたりします。なので、唐突という感想は本来間違っているのかも知れませんが...。巧く言い表せませんが、積み上がる伏線がライトの闇のインパクトの前に薄まり過ぎていた...という事なのかも知れませんね。少なくとも、パズルが一気に組み上がるような快感という点においては、それほどではなかったと思います。
しかし、それらの要素が、灯籠の軌道で闇を払拭するシーンの感動をスポイルするかというと、そんな事は全くないわけで、この辺りの編集の巧さはさすがといった処でしょう。また、さすがに説明不足だと思ったのか、総裁や車掌さんにロジックを補強させるセリフを言わせてはいます。恐らく、尺が長ければもっとこの辺りを丁寧に描写したのではないでしょうか。今回の凄まじいテンポ感と秤にかける事となる為、どちらが良かったのか......いや、今回のが正解でしょうね!
イマジネーションという、解釈が難しい概念を見事に描くという点では、「子供達が居た記憶を取り戻す」というロジックではなく、「子供が居たような気がする」という「曖昧な感覚」を重視した演出にも注視したい処です。どうも子供がもう一人居たような気がするんだけど、よく分からない。じゃあ、居た事にして灯籠をもう一つ作ってしまおう(!)というのは、文字にすると強引な論ですけども、絵面では非常に納得出来る「感覚」だったのではないでしょうか。想像する力が、とうとう現実を動かしてしまったという意味で、このシーンは実に象徴的でした。劇中でも言及されたように、愛、夢、希望、親子の絆といった美辞麗句を全て内包する「感覚」こそが重要だったのだと思います(翻せば、言葉を並べる陳腐さに社会が辟易している...のかも)。
そして、その「家族のイマジネーション」は、もう子供には戻れないライト達を、子供に戻す程の力があると示されました。
自分の子だから、大きくなった姿は容易に「想像出来た」のです。どんな姿であっても自分の子である事を否定する根拠にはならない。再会した時は、皆むしろ大きくなった姿を喜んでいました。程度はまるで違うものの、丁度、林間学校に行って雰囲気を違えて帰ってきたような...そんな感覚の延長ですよね。
子供に戻るのは予定調和だという意見もありそうですが、少なくとも子供向けコンテンツなのだから「ハッピーエンドに勝る結末なし」ですし、子供に戻ったとは言え、大人の姿で経験したものは彼等の中で確実に活きるのですから、やはり彼等は旅の中で確実に成長して、家に帰ってきたのだと断言出来ます。
仲間の大切さを知った鈴樹来斗は、自分勝手に突っ走るのを、抑制出来るようになる...かも知れませんね。
戦いの中をかいくぐってきた渡嘉敷晴は、もしかしたら兄より強くなったかも知れません。
常に周囲を気遣いつつ自分の主張も大事だと気付いた夏目美緒は、以前にも増して頼れるリーダーシップを発揮するでしょう。
激戦模様の裏で観察眼と戦闘力そして優しさを磨いた野々村洸は、これから陰日向関係なく活躍する男になると思います。
弱さを自覚し克服してきた泉神楽は、他人の弱さに寄り添える女性として周囲を支えていくに違いありません。
そして、数奇な運命を辿って生きる場所を見つけた虹野明。彼はこれからもイマジネーションの為に、その軌道の保全に尽力していく筈です。
ゼットは、ついに消す事の出来なかったグリッタと共に、本来の居場所へと帰っていきます。
旅が終われば家に帰る。ゼットとグリッタとて例外でなかったという事が示され、実に美しい終結となりました。「キラキラ」を良心に換言するのは陳腐ですが、ゼットは自らの良心に従う事で、家に帰る事が出来たのだとも言えるのではないでしょうか。照りつける太陽に自らの灼け付くような良心を重ね合わせる姿には、「こう生きる事」を強制された彼の哀しいまでの抵抗が見えていました。
彼の鏡であるグリッタと共に、シャドーラインはどうなっていくのでしょうか...。
旅に終わりがあるように、旅にはまた始まりもあります。綺麗に終わったけれど、絶対に続きが作れそうな終わり方をしているのも巧かったですね。
というわけで、早くも続編の発表がありました。この「帰ってきた」シリーズは恒例となりましたが、やはり続きに触れられるのは楽しい事です。
では、この辺りで。今シーズンも駄文へのお付き合い、誠にありがとうございました。
次週より、「手裏剣戦隊ニンニンジャーを見たか?」の方をよろしくお願い致します!
この日曜日〜火曜日まで忙しくて更新出来ませんでしたm(_ _)m
今回を含め、遂に残すところ後二回。諸事情により、先週は特別編成による放送休止となった為、年間スケジュールが一週ずれる事になりました。
最終話に向けて、一気呵成に突き進む...といった趣よりも、むしろ追い詰められていくライトの絶望感が強調されるという、シリーズでも稀に見るhopelessな展開。勿論、ミオを中心とした「子役組」が、トッキュウジャーとしての記憶を取り戻していく...という希望的視点もあって、終盤は盛り上がります。しかしながら、ゼットの強大な闇に飲み込まれるという終わり方をする為、やはり重い。
最終話は、どうしても予定調和を迎えざるを得ない構造上、最も面白いのは最終話の一話前になるわけですが、ここまで絶望感を強調されると、単純に「面白い」という感想を添え難い(笑)。
今回も前回と同様に変身後としては闇のトッキュウ1号と、トッキュウ6号のみが登場。トカッチ、ミオ、ヒカリ、カグラは尺的に子役シーンがメイン。ライトと明が見せる、奇妙で強固な友情が前面にフィーチュアされます。
ライトとしては、明さえも巻き込まないつもりで戦いに臨んでおり、闇を纏ったその強さは、モルクやネロといった幹部連中をものともしない程。ただし、さすがにゼットには太刀打ち出来ないというバランスで描かれていて、毒を以て毒を制すというロジックでは解決させない辺り、テーマをネガティヴに持って行かない(「キラキラなど役に立たない」といった論に堕さない)よう、注意が払われています。
ダメ押し的に、「勝利のイマジネーション」が見えないというライトのモノローグが、その意志を補強しています。
私見ですけど、この「勝利のイマジネーション」って、名乗りに採用されている所為もあってか、殆ど形骸化していたような気がするんですよね。このキャッチコピーの「の」の部分を中心にしてひっくり返してみると、「イマジネーションの勝利」となりますが、これも形骸化していたような。
ハイパートッキュウジャーもイマジネーション由来ではありましたが、徐々に誰でも使えるガジェットと化し、ロボの合体バリエーションも「合体を編み出す」という面よりもギミックが強調され、シリーズ進行につれて段々とイマジネーションの重要性がスポイルされて来るんですよ。
これには、シリーズの進行と共に描写に慣れてくるという面も勿論ありますが、テーマの鮮度が徐々に落ちていくという部分が強く、長い戦隊シリーズの最新作である「トッキュウジャー」であっても逃れられないジレンマだったのではないでしょうか。
そしてここからはあくまで想像ですが、このジレンマを逆手にとったのではないかと。
イマジネーションの重要性が形骸化し、ライトが当初一人だけクライナーに乗っていたのが、類い稀なるイマジネーションの奔流ではなくゼットの影響であったと語られるに至り、特に終盤はイマジネーションというターム自体を否定に近い姿勢で批判しています。その最たる「成果」が闇のトッキュウ1号で、あの姿はライトのイマジネーションによる結果ではなく、あくまでゼットの影響で誕生したものなんですね。
イマジネーションに関する描写が希薄になってくるにつれて、トッキュウジャー達は大人に近くなり、ライトはイマジネーションの力そのものを逓減させ続けて来た...そんな風に見えるんです。
これがシリーズの弊害を見据えた構成の賜物だとすると、それはそれは実に物凄い事だと思います。
年間を通したテーマ性が完遂出来た作品群って、恐らくギリギリ「仮面ライダークウガ」辺りまでではないかと。ウルトラでは同時期に「コスモス」があって、こちらもバラエティ編を挟みつつ、また色々と批判がありつつもテーマは一貫していました。その辺りを堺に、コンテンツのライフサイクルが極端に短くなった印象があります。
「トッキュウジャー」も例外なく極端に短いライフサイクルの洗礼を受けていて、開始当初は新鮮だった鉄道パロディも、中盤からは殆ど省略されるようになり(構内アナウンスを模していた山口勝平さんのアナウンスも、途中からチケットくんそのものになったり)、シリーズを引っ張るのが鉄道関連の描写ではなく、群像劇に移っていったのは象徴的です(ドラマとして成立させる以上は当たり前ですが)。当初のインパクトがあればあるほどライフサイクルは短くなるので、恐らく当初よりそのような想定がなされていたのではないかと思うのです。
そして、そこまで追い詰めておいて、今回ですよ。
今回の鍵は、正にイマジネーションでした。
それはライトではなく、トカッチ、ミオ、ヒカリ、カグラの四人に関してです。明にそれとなくきっかけを託しておくライトには、無思慮な想像力で動いていた当初の彼から、遠く離れてしまった姿を感じずにはいられません(深層心理では助けを求めている辺りも切ない)。しかしそんなダメ押し企画を挟みつつも、ミオがチョコレートの数から違和感を募らせ、遂に秘密基地でライトの存在を思い出すシーンには、落涙を禁じ得ません。
思い出すだけならば、「仮面ライダー電王」のテーマと差はないのですが、トカッチ達が手書きパスを作り始め、そのパスがライトの元へ軌道を繋げてくれるというイマジネーションにより、烈車が目の前に到着するシーンに至り、遂に当初のテーマを反芻、いや昇華する時が到来した事を思い知らされるわけです。一旦沈静化させていたテーマ性を、土壇場で印象的にフィーチュアし、テーマの陳腐化を防いだとも言えます。
最終話に絶対的なラストバトルを持ち込まなければならない故に、この「イマジネーションの勝利」がそのまま勝利への希望へと直結しないのは仕方がないものの、やはり大人のキャストが戻ってくるシーンには否応なく燃えてしまいますね。
そんな盛り上がりの影に隠れてしまいましたが、車掌やチケット君、ワゴンといった面々が、積極的にライトに加勢する姿も熱い! ゼットの強大すぎる闇の前では無力に等しいものでしたが、最終決戦への盛り上がりを確実に担っていました。
最後にシャドーライン側について。
まず、ゼットはグリッタを手にかけた事について言及。剣がキラッと光る意味深長な描写があって、まだまだ顛末が気になる処ですね。また、等身大のゼットではラスボスとして不足という事なのか、やはりキャッスルターミナル自体をロボ化するという処理になりましたね。モルクが操縦するという辺り、なかなか気が利いています。悪の根城が最終巨大戦を飾るというパターンは、「サンバルカン」の最終話が嚆矢となるでしょうか。ボス自体が巨大化するパターンも数多くありましたが、それより説得力がありますよね。
ネロはクライナーを合体させた超クライナーロボで明のビルドダイオーを追撃。ヒーロー側は圧倒的に物量不足ですが、何となく総力戦っぽい雰囲気が出ていて良いです。
次回はいよいよ終着駅。ここまで来てもどんな結末が待っているのか読めません!!
最終4部作の第二弾。前回がググッと状況を変えてクライマックスへと招待するダイナミックな内容だったのに対し、今回は叙情性に訴える内容に。
様々な面でキャスト陣の集大成となっていて、特に芝居の面で大変見所のある内容になっています。
今回は何と、トッキュウ6号と黒いトッキュウ1号以外、変身後が一切出ないという徹底振りで、恐らくは、次回あるいは最終話に一大バトルを温存しておく構成なのだと思います。この思い切った構成を採った事で、ドラマの散開を防止しており、今回をあくまでライトの行動と決意、悲壮感が全てであるという線で徹底させています。
似たようなクライマックスの構成を持つ戦隊として、「ジャッカー電撃隊」が挙げられます。この頃は一話完結が主流だった為、最終編と呼べる二話分の直前はトンデモ風ギャグ編だったりするのですが、最終二話の前編はビッグワン以外誰も変身しないという、当時としては非常に異質な展開。基地に潜入するエースとカレン、二人のドラマに(やや唐突に)スポットが当たります。やがて、この潜入行動中に負傷したカレンを救命するドラマへと変転し、ビッグワンの前任・ジョーカーが満を持して帰ってくるという、燃える展開を呈するわけです。
これは推測に過ぎませんが、「ジャッカー」は放映打ち切りの憂き目にあったシリーズなので、最終編くらい、やりたいようにやっちゃったというのが真相なのではないかと思います。初期の暗く重いドラマ性を最終編で突如復活させたのも、そういう開き直りが根底にあるのではないかと、勝手に想像しています(笑)。
やがて、戦隊シリーズもバブル期に花開いたドラマ性の導入によってパターン破りも常態化。「トッキュウジャー」ではごく自然に「レッドすら登場しない」話を平然と繰り出す事が出来るようになりました。最終編では既に新戦隊がスタンバイしている状態なので、言い方は悪いですが、「ジャッカー」の前例とは状況こそ異なるものの、この時点でマーチャンダイジングの広告コンテンツとしては価値を失いつつあるという事にもなりますね。ということは、逆説的に純粋なドラマとしての価値が相対的に上昇しているという事にもなるわけで、今回のようにガッツリとドラマに入り込むようなエピソードが制作可能なんですよね。その恩恵は多大だと思います。
もう一つ、同様の構成を持つヒーローとして、「宇宙刑事ギャバン」の最終編があります。最終編は三部作ですが、怒濤の伏線回収編に続いて、父親との再会話があり、そして決戦編となります。二話目の「再会」が今回のテイストにかなり近く、叙情性に訴える極上のドラマでした。設定が荒唐無稽であっても、感情に訴えるドラマを作る事が出来るという好例を示していると思います。
今回も、それらの例に漏れずとにかく各キャラクターの感情が発露しまくっています。
トカッチ、ミオ、ヒカリ、カグラの四人は、昴ヶ浜の復活に心を躍らせつつも、闇を纏ってしまったライトへの心配、そして何より自分達は子供には戻れないという事実の前に、完全には喜びを弾けさせる事が出来ずに居ます。状況自体はハッピーであるにも関わらず、この寂寥感。ライト不在を強調するかのように、殆ど常に同フレームに四人を配置し、何となく突き放したようなカメラワークを多く採用した演出の凄味、ライティングを駆使して昴ヶ浜を夢見心地な印象に落とし込む感覚も凄いです。
やがて、彼等四人はライトの「自分勝手」によって子供に戻る事が出来るわけですが、トッキュウジャーとしての記憶がなくなっていくにつれて、次第に昴ヶ浜がリアリティを持ってくる辺り、神懸かっています。折に触れて描かれた「日常」が、肉親の存在を通して四人を迎えてくれるシーンには、少々の違和感(日常なのに自分がここに居ていいのかと感じているような表情が抜群!)を織り込んであって、その違和感が次回の展開に繋がってくる事は間違いありません。
当然、この時点で彼等四人はトッキュウジャーの記憶をなくしている筈なので、前述のような違和感は、設定上からはやや飛躍した演出であると言えるかも知れません。しかし、本当に記憶は失われたのか!? というフックとしては実に見事なものですし、こういう細かい部分が後に収斂していくとすれば、その快感は、こういったシリーズものならではの醍醐味でしょう。例えばライトの行為によって記憶が戻ったりというような、外的要因で話が動いていくのではなく、あくまで人物主体でドラマを動かしていくというのが、「トッキュウジャー」の選んだストラクチャなんだと強く思います。
さて、ライトはゼットと表裏一体の存在となっていた事が語られましたが...。
昴ヶ浜が闇に飲まれた際、ライトは「勝手に」ゼットの方に向かって行き、ゼットの闇が纏わり付いたまま大人になってしまったというのが真相でした。初回でライトがクライナーに乗っていたのはそれが原因との事。さらには、ライト達が「子供」から離れていくに従って(=成長して)、闇も一緒に成長してしまったという設定まで付いてきます。
これは恐らく物語の落とし処として当初より予定されていた事だと思いますが、些か弱い設定であるという印象も。闇自体はビジュアルで示されるものの非常に観念的で曖昧な為、あまりインパクトがないんですよね。黒いトッキュウ1号のビジュアルインパクトからすると、そのベースにある設定としてはやや弱い気がしました。あくまでライトは「ゼットの影響を受けた」という域を出ないので、ライト=ゼットという衝撃発言があっても実感が伴わないんですよね。ゼットに「抗し難い体内のキラキラ」のようなものがあれば、互いに対等なシチュエーションになるんですけど、ゼットにとってはそれが「渇望しても手に入らないもの」になってしまいました。ライトが光と闇の止揚あるいは仲介者となっている描写もないので、ゼットとライトは同じ土俵で戦っているという印象が薄いんです。
ただし、闇を抱えた者としてのライトは、トカッチ達と袂を分かつ理由をあれこれ説明する必要のない存在となり、それが今回の「別離」の悲壮感を盛り上げています。ここでのライト、そして子役の芝居合戦はこの上ない程素晴らしい。どちらかというと苦悩する姿が似合わないライトが、闇という属性を得た事で苦悩を許容されるキャラクターへと変化し、哀しい涙を流している姿には、「勝手な」レッドの「末路」とも形容出来るような寂寥感と悲壮感が滲み出ています。あの時、手を離さなければ...。勝手な行動から一直線に繋がって、今の自分を創り出しているという後悔の念と、勝手な自分にこれ以上トカッチ達を(後から明さえも)付き合わせないという「勝手な優しさ」がグッと迫って来ますね。正に落涙必至のシーンです。
一方、ゼットは、開き直って地上を闇の王国にしようと行動を開始します。ラスボスとしては完璧な段取りだと思いますが、グリッタを手に掛けたのか否かが今一つ不明瞭なので、もう一つ何かあるのではないかという想像を許します。ここまで消極的に大侵略を開始するボスも珍しいので(笑)、やはり色々と期待してしまいますねぇ。ここの処、実に待遇の悪いネロにも、何か期待してしまいます...。
この後どうなってしまうのか、待ちきれなくなってしまいますね。正直、ここまで暗い話になっていいのかと思う処もあるので、初期のぶっ飛んだ雰囲気での解決を期待しています。
いよいよクライマックス。今回を入れて残り後4週。前回がややバラエティ編寄りでしたから、今回より「最終4部作」という事になるかと思います。
幕開けに相応しく、サブタイトルもセンセーショナル。シャドーラインの本拠が昴ヶ浜だったという衝撃は、既に昨年中に提供されていた為、今回は「舞台に関する種明かしのインパクト」よりもキャラクターの動き方で衝撃度を高めていく構造を採用しています。さらに、飛び込んだ処がたまたま昴ヶ浜だったクリスマス編とは異なり、今回は自ら昴ヶ浜であるキャッスルターミナルへと飛び込んでいくという、最終決戦の常套句を応用した展開が見られ、そのスリリングな雰囲気に圧倒される事となりました。
まず、今回のテーマの一つ、ライトとゼットの関係。
両者は完全なる敵対者でありながら、どこか互いに気になる関係として描写されて来ました。そして、ゼットは登場当初より「キラキラ」を求め、ライトは先頃より時折その身体から闇を浸出させるようになりました。
今回はそれらの原因となった出来事を紹介しています。それは、昴ヶ浜が闇に飲まれた際、ライト達五人は互いに手を繋いでいた...筈が、実はライトだけが離脱して闇の発生源に向かって行ったというもの。ライトが向かったその先にはゼットが居て、闇の奔流を阻止しようと駆け寄ってくるライトの想いが「キラキラ」に見えたようです。一方ライトは、「キラキラ」の方に伸ばしたゼットの手を、闇の中から迫り来る巨大な手として視認していました。つまり、両者は互いに顔こそ突き合わせていなかったものの、昴ヶ浜が沈む時点でほぼ「会っていた」という事になります。
この出来事は、これまでゼットがキラキラ星を口ずさんでいたりといったヒントが散りばめられていた為、ある程度は容易に想像し得るものでした。あまり詳しくは描かれませんでしたが、恐らく、描写以上の出来事はなく、描かれたものが全てだったのではないかと思われます。ゼットの正体が闇に堕ちたライトの兄弟とか、そんな突拍子もない衝撃設定よりは、かなり理性的で粛々としていますが、やはり衝撃度という点では薄いと言わざるを得ません。
ところが、設定上の衝撃を追わず、展開の衝撃を採用する方針がとられていて、なるほど...と納得した次第。
というのは、他のキャラクターを状況によって追いやった上でいよいよ直接対決かという折、ライトから闇の奔流が発生して、黒いトッキュウ1号に変身するという展開が待っていたからです。
やはり、というかさすが、というか。レッドの立場が危うくなるパターンを繰り出してくる小林戦隊。
今回は何と、レッドという存在(色)そのものを消してしまいました。
この黒いトッキュウ1号の登場シーンは、ハイビジョン制作の恩恵を感じられる映像でした。黒い背景に黒いキャラクターを配置するという大胆な色設計でありながら、キャラクターの輪郭は明瞭。スーツは黒一色ではなく、闇の中に点在する光の如く、黒にラメ状の粒子が散りばめられます。この粒子の細かいキラキラを視認出来るか否かで、このキャラクターのポジションに関する認識が変わってきます。ライトがシャドーラインの戦士と化したわけではないと思わせる効果が、このスーツにはありました。ただ、そのダークヒーロー然とした出で立ちは、明らかにライトにとって危険な兆候である事も匂わせます。丁度、「仮面ライダークウガ」でアルティメットフォームが登場した時のようなキケンな衝撃が、ここにはあります。
恐らく、姿がどうなろうと、ライトはライトなのでしょう。残る話数でどのようにレッドを取り戻していくか、そこに注目したいですね。
さて、今回はもう一人、グリッタというキーパーソンが登場。
シュバルツのクライナーでキャッスルターミナルに突入出来るという、お膳立ての見事さもさることながら、グリッタの目的が復讐等ではなく、誰も消滅しない結果を以て事態を解決する...というのが秀逸です。グリッタのキャラクター変遷は、この「結論」を見るに周到に計算されたものなのかと思わされますが、(あくまで推測ですが)恐らくそうではなく、グリッタがキャラクター変遷と共に放ってきた稀に見る魅力が、このような展開に帰結させたと見て良いのではないかと。キャラの転がり具合が、作品のパワーになってこのような展開を生んだのだと思います。
この辺り、やはりTVシリーズは生き物だと形容出来ますね。特に東映制作のものはその傾向が強く、時に散りばめられたピースがガッチリとハマる場合もあれば、「迷走」のレッテルを貼られる場合もあります。
例えば「宇宙刑事シャリバン」では、初回から登場する謎の人物が、実は敵ボスの分身だったという展開を最終編で描きますが、この謎の人物はパイロットを担当した小林義明監督の単なる思いつき。画面作りにおける雰囲気重視で配されたキャラクターでした。制作者の誰もが土壇場まで正体を決めていなかったというこの件は、特異中の特異な例だと思いますが、こういう「奇跡」もあるんですよね。
多分、とりあえず出しておこうという感覚のキャラクターは多数存在すると思います。そもそも「仮面ライダー」の滝和也なんかも、藤岡さん不在の尺を補うキャラクターに過ぎませんでしたが、いつしか「もう一人の主役」になってしまいましたからね。
とにかく、グリッタは当初敵内部のラブコメを担う存在でしたが、ここまで物語を左右する存在になるとは思ってもいませんでした。勿論、闇連中の中にあって一人だけ光に関するネーミングを施されたという事に、「仕掛けておこう」という魂胆があるのは明らかですが、そういった仕掛けは、流れによっては捨てられる事もあります。グリッタの人気が出なかった場合を考えると、ゼットの中で生かしておく必要も見出せませんし(乱暴な言い方をすれば、ゼットは、ライトの「キラキラ」さえ追っていれば話を成立させてしまう)、今回の件にしても、シュバルツを生かしておけばクライナーでの突入は出来るわけですから。
話が大分逸れてしまいました(笑)。
最後にライトと他のメンバーの関係性について言及しておきます。
今回は、ライトの独断専行がかなり目立っていて、他のメンバーの事など意に介さない彼のネガティヴな部分がクローズアップされたような触感でしたが、昴ヶ浜が沈んだ際に一人だけ手を離した瞬間からこれまで、その独断振りは継続しているという事ですね。トカッチ達は多少手荒な手段でライトをレインボーターミナルに残そうとし、「たまには言う事を聞いてよ」と、ライトの特異性を改めて見つめ直す瞬間を視聴者に提供しました。
シリーズ年間を通して、突出するレッドは他のメンバーに懐柔されていくパターンが多い中、ライトはついぞライトのままだったという衝撃。他人の介在をものともしない猛進振りには、戦慄すら覚えました。今回の黒いトッキュウ1号のビジュアルショックもさることながら、こちらの方にも強い衝撃を受けましたね。
頭脳と体力の限りを尽くして(「スパイ大作戦」みたいですが)グリッタをキャッスルターミナルに届けようとするトカッチ達を、ピョンと飛び越えてゼットの元へ行ってしまったライト。この「自分勝手さ」が最終話までにどう作用するのか、興味は尽きません。
次回はいよいよ昴ヶ浜の復活。少なくとも次回は絶対にハッピーではない展開が待っていると思われるので、色々と心の準備をしてから見ましょう(笑)。
本年も何卒よろしくお願い致します。
というわけで、新年一発目のお話は、年末編に続いてあまり新年っぽくないエピソード。ただし、「新春編」に相応しい1月4日は放映休止だったので、やや遅れた今回をいかにもな新春編にしなかったのは正解でした。
内容としては、敵の珍妙な作戦に翻弄されるという、一話完結編のお手本のような作りなのですが、意外にもヒカリとカグラの家族について丁寧な描写が盛り込まれたり、ライトとゼットの関係に踏み込んでみたりと、後の展開に対する段取りが巧みに行われており、充実度は非常に高いです。
今回登場のドールハウスシャドーは、珍妙な名前が現すままの能力を持っていて、ドールハウスにヒカリとカグラを閉じ込めてしまいます。
何かに閉じ込めて火攻めにするという卑怯かつ残酷な作戦には、強い既視感があったのですが、それは恐らく「ゴーグルファイブ」でゴーグルピンク=桃園ミキが絵本の中に閉じ込められて燃やされると...いう話が原因ですね。桃園ミキは、快活で可憐(で華奢)な女の子というイメージでしたが、この回では不屈の闘志を感じさせる表情や体当たりのアクションが強い印象を残しました。また、仲間の助力なしに、自らの力のみで脱出を果たすという意味で、後のヒロイン大ピンチ編のパイオニアになったのではないかと思います。
今回は、カグラ単独ではなくヒカリと一緒。故に類型から離れて新鮮な印象に。またドールハウスというアイディアも良かったですね。前述の絵本等でもそうですが、どうしても「架空の内部」をセットとして表現する事になる為、現実感を持続させるには、演出にもキャストにもかなり高いテンションが要求されます。今回は、家の中であれば現実感が担保されるので、他の部分にテンションを割く事が出来、実際に巨大戦をドールハウス内部でやってしまうといった奇想天外な画作りにまで波及していると思います。
また、脱出劇に関しても、扉から出れば脱出出来るという至極単純明快なロジックが成立する為、いかにして扉から出れば良いかという点に収斂させる事が出来ます。サブタイトルに文字通り「開かない扉」とあるように、開く可能性のある唯一の扉が外から封印され、それがサスペンスを生んでいます。
火攻めに関しては、桃園ミキの例を挙げるまでもなく、生命の危険をダイレクトに感じさせる装置として、明快かつ一級です。
このように、サスペンス・アクションとして一級の舞台装置が揃っているわけですから、その展開に関しては全く心配が要らず、我々はその脱出がいかにして行われるかという事、そして付随するドラマに集中出来ました。カグラの靴が片方だけドールハウスの外に出た際、その靴は元の大きさに戻っている...という「提示」。ヒカリがそれを元にけん玉を使っての脱出方法を思いつく「応用」。そして「実行」。その流れが実にスムーズに、そして格好良く描写されました。このパターンは「冒険野郎マクガイバー」という海外ドラマで毎回展開されるものなのですが、あのアイディアを巧く応用している作品には、なかなか出会えないのが現実。今回は本当に良く出来ていると思います。
「トッキュウジャー」らしいのは、そこにさらに一捻り加えてある処でしょう。
サブタイトルの「開かない扉」は、カグラの危惧が悪夢にまでなった、「大人になった自分を認識してくれない肉親」を象徴しており、ドールハウスからの脱出が、そのジレンマからの脱却に重ね合わされています。面白いのは、自分を守ってくれる両親を、今度は自分が守れるようになるという発想の転換で、それは無力な子供からの成長の自覚といった観念的な部分にまで踏み込んでおり、なかなか哲学的です。しかし、話の流れが自然で明快な為、そのテーゼが非常に分かり易く、宮内洋さんの言う処の「教育番組」が成立していたと思います。
カグラがその境地へ至るに、ヒカリが欠かせない存在だったのも見事でしたね。
私はもっと下世話な話を予想していて、トカッチとミオが良い雰囲気になってきたから、次はヒカリとカグラも...とか思っていたのですが、そんなものは超越していて、少しだけ一歩前を歩いているヒカリが、カグラの手を引いて前へ進むという構図なんですよね。二人は一応良い雰囲気なのですが、恋愛感情が云々というよりは、むしろ互いのメンタル面を象徴している...つまりはヒカリのアニマがカグラで、カグラのアニムスがヒカリで...といった感じに捉えるのが自然だと思います。
そのヒカリの強さは、子供時代に味わう特有の孤独から来ているというのが判明しました。
基本的にヒカリはいわゆる「鍵っ子」というヤツで、けん玉はヒカリを心配している祖母の贈り物であった事が分かりました。今時の子供にしては古風なけん玉を持ち歩いているヒカリですが、送り主が祖母で、しかも回想中にわざわざ「ゲームとかが良かったんだろうけど」というエクスキューズを入れたりしていて、設定の違和感を払拭する外堀の埋め方が尋常ではないですね(笑)。
で、ヒカリの母親も登場するんですが、その母親がちょっと頼りないので、ヒカリ自身が自立しなければならないと考えていた事も分かり、何となく複雑な家庭環境も見え隠れしています。ただし、基本的に真っ直ぐな精神を有するヒカリを見るにつけ、決して悪い環境だったわけではなく、むしろ少々頼りなくも一生懸命な母親の姿に好感を持っていた事がちゃんと示されており、非常に暖かい回想シーンだったと思います。
そして何と言っても、母親役に長谷部瞳さんがキャスティングされていた事で、シーンの意図は達成されたと言っても過言ではないでしょう。
長谷部さんは「ウルトラマンマックス」でミズキ隊員を演じ、主人公のカイトと劇的に結ばれるという、ウルトラシリーズ中でも破格の扱いとなったヒロイン。かく言う私個人も、容姿端麗ながらもクールな印象が皆無な(!)ミズキ隊員には心奪われまして(笑)。現在でもシリーズ随一のウルトラヒロインだと思っている次第でして...。
そんな彼女も母親役にキャスティングされるのか...と感慨に耽っていたら、まだ20代じゃん!と我に返り、随分思い切ったキャスティングだなぁと変に感心してしまったわけです。
とにかく、長谷部さんの出演は私にとって福音でした。はい。
さて、シャドーライン側の動きですが、ゼットのイエスマンのみが生き残った事により、いよいよレインボーラインとの対立構図が強固になりました。いわば、舞台装置をシンプルにした事で見せたいドラマが作りやすくなったという事ですね。今回は更に、年末編でちょっとだけ示された「ライトから立ち上る闇」を一歩進めてフィーチュアし、ゼットがキラキラを渇望する理由と関連しているのではないか、という謎を提供。この、少しずつ伏線が回収されていく感覚は正に終盤といった雰囲気であり、俄然期待が高まっていきますね。
ゼットに関しては、闇そのものとなった関係か、より口数が少なくなっている代わりに、表情での芝居が際立つようになりました。他の面々が基本的に仮面劇を演じている関係上、ゼットのみが素面で感情を表現出来るわけで、そのコントラストが非常に面白いものとなっています。
次回は、やはりライトに何らかの試練があるようですね。いわゆる小林戦隊のレッドは数奇な運命に翻弄される感覚を有しているので、その辺りを踏まえた奇抜さに期待したい処です。
クリスマス編で一旦のクライマックスを展開したので、今回は順当に総集編的な色合いを持つ年末総括編となりました。
総集編のような趣向では、過去の映像をバックにメンバーが喋り倒すというパターンが多く、それはそれで番外編っぽさも出て来て面白いのですが、今回はクリスマス編で昴ヶ浜の状況が判明した事もあり、その感情を引き摺ってやや暗めのトーンに。年末でここまでトーンを落としていいものかとビックリしましたが、終盤は半ば無理矢理盛り上げるバラエティ編と化し、ある意味「トッキュウジャー」の特徴を浮き彫りにしてしまったようでもあります。
今回のメインテーマは、イマジネーションさえあれば、昴ヶ浜に居る肉親に思いが届くというもの。
そのテーマを、手紙を書くという行為で表現し、手紙の内容を近況報告、いわば「振り返り」とする事で総集編としても機能させています。手紙であるが故に、各個の感情をも乗り、そこにドラマを構築する隙を作っているわけです。この処理は巧いですね。
総集編という側面で捉えてみると、単なる名場面集どころか印象的な「カット」のチラ見せをつなぎ合わせるという感覚で、実はあまり充実していません。逆にロボ系は異様に充実しているという商魂逞しさ(笑)。面白いのは、過去シーンのよりもむしろ、トカッチとミオのドラマが優先されている事。なんと、回想シーンをわざわざ新撮しています。
特にミオに関しては、父親像が非常に具体的に示されており、彼女の利他的な正義感の源流が、この温厚で真面目そうな警察官である父親であろう事が判明するわけです。
その利他的に過ぎるミオを見かねたトカッチが、もう少し自分の感情を優先させるよう諫める...というのが、今回のドラマ部の本流となり、そのドラマパートが、しっとりとした情感を余計に盛り上げています。そこが、年末編にしては暗いという印象の要因になっているようですね。
当然、トカッチがミオに対して心配以上の感情を抱いているのは周知の通り。従って、いわゆる恋愛モノとしての側面も、微量ですが盛り込まれる事となりました。内面がまだ子供という「仕掛け」があるので、二人の恋模様(?)も実に淡〜いものとして描写されており、ググッと進展するといったような事はないのですが、実に微笑ましいですね。
結局、ミオはトカッチに自分の本当の感情を吐露する事になります。このシーンでは、堰を切ったように涙を流し始めるという梨里杏さんの芝居が実に素晴らしく、グイッと一気に感情移入させられます。一方もどかしいのはトカッチで、彼の不器用さが全開になっており(おにぎりは覿面でしたが・笑)、そのもどかしい芝居もまた、平牧さんの巧さ。恐らく、メンバーの中ではトップであろう演技力を持つ二人が魅せる情感たっぷりのシーンには、最も引き込まれましたね。
ただ、トカッチの言う「自分を優先する事が、結果的に他者の為にもなる」といった論理は、かなり歪曲した告白だとも解釈出来、実際にミオはグリッタとシュバルツの一件からそういう解釈をして、トカッチの気持ちを察したように見えました。エピローグでは、二人して赤面しまくるという可愛らしいシーンが用意されていて、その解釈を裏付けています。
一応、本当に一応ですけど、ちゃんと進展してますな(笑)。ちなみに、ミオの晴れ着も素晴らしかった!
それと、ゼットの闇がライトをゾットとさせるという、意味深長カットも挿入されましたね。こういう小ネタ伏線を入れてくる辺りが実に姑息(褒め言葉)。最終編でさらに何か大仕掛けがありそうですねぇ。
さて、他のパートは完全にバラエティ編の体裁。
車掌さんは単なる物真似だけでは飽き足らず、とうとうシーンの繋がりさえも超越し、関根さんの持ちネタである大滝秀治さんのメイクを施して登場。久々に「つまらん!」を聞けて幸せでした。
忘年会と称して盛り上げ役を任命された明の、これまた荒唐無稽なコスプレも目の保養(笑)。残念ながら、あまりフィーチュアされずに終わってしまいましたが、暗〜いトーンの中でキラキラしている明の違和感たるや凄まじいもので、前半の「違和感」として激しく機能していました。
後半には、レインボーライン保線員のバンドと称して、主題歌を担当するメンバーが集結。これも荒唐無稽ではあるのですが、一応ストーリー的にはなるべく無理のない形で説明されている辺りが逆に笑えます。個人的にはドラムの川口千里さんに衝撃を受けました。こんなに若い子だったとは! あと、キャラ的に弾けきれないヒカリにもちょっと笑いました。
というわけで、今年もありがとうございました。
今回から「ニンニンジャー」のCMが入ってきて、にわかに年度替わりを感じる事となりましたが、来年はまず「トッキュウジャー」から始まりますので、引き続きよろしくお願い致します。
文字通り、クリスマス三部作のクライマックスとなるエピソード。
前回が危機的状況を煽る「転」を全面的に担っていたのに対し、やはり今回は「結」。しかしながら、雰囲気的には前回の「鬱展開」を大いに引き摺っていて、最後の取って付けたような巨大戦にのみカタルシスがある感じになっています。
とは言え、グリッタとゼットを巡る様々な思惑が収斂していく様には、別種の快感が感じられました。年末編は、最終話かと思うような盛り上がりを見せて、年明けから失速してしまうパターンも散見されますが、今回はシリーズ構成としても妥当な盛り上がりを持ってきたと思います。
今回最も衝撃的だったのは、シャドーライン陣営の「スリム化」でしょう。これは終盤に向け、ゼット中心に回していくという意図の現れ。ゼットに敵対するシュバルツとノアを退場させ、グリッタは最終のワイルドカードとして、とりあえず脇に退避させておくというのが、シリーズのストラクチャに対する今回の役割でした。
ただ退場させるだけではつまらないと言わんばかりに、シュバルツとノアに関してはキャラクター性にグッと厚みを持たせていました。そして、これは多分意図的にだと思うのですが、逆にゼットをどんどん薄っぺらなキャラクターへと仕立て上げています。とりあえず、ドラマ上は退場組とゼットを分け隔てる要素として「キラキラ」の存在を挙げていますね。
シュバルツは、表面上「助けられた命を返す」という理屈を付けて行動していますが、他方で常日頃より「復讐」という言葉を口に出していた事を考えると、単なる照れ隠しであるのは間違いありません。つまりは、グリッタへの愛に殉じたという言い方が正しいわけで、それが最期の「自分はキラキラを手に入れた」という発言へとダイレクトに繋がっていました。
この「キラキラを手に入れた」という台詞、非常に素晴らしいものでしたね。ゼットとの力の優劣はシュバルツも良く理解しており、ドリルレッシャーを手に入れたり、虚を突いたりといった奇襲・強襲作戦しか取れなかった処を見てもそれは如実です。ところが、ゼットが何とかして手に入れたいと思っている「キラキラ」に関しては、最終的に手に入れてしまったシュバルツの方に軍配が。シュバルツは、ゼットが到達出来ない場所に先に到達してしまったという優越感を露わにするのです。この時、表情がフィクスされている筈のマスクに、勝ち誇ったような笑みが浮かんだように見えたのは、正に映像マジックの勝利といった処でしょう。
私自身は、シュバルツとグリッタが手を取り合ってシャドーラインの改革(?)へと突き進んで行く流れを予想していましたから、今回の「殉死」には衝撃を受けたクチですけれども(笑)。考えてみればシュバルツは順当に「悪役」だったわけで、東映ヒーローモノの正統としては粛正せざるを得ないんですよね。一時期、「どんなに悪いヤツでも改心すれば大団円」というパターンが頻出した時期もありましたが、アレはやっぱり東映的には有り得ないんだと思うわけです。法治国家としては「私刑」が許されない。だから、せめて勧善懲悪のフィクションの中でスカッとしましょうぜ...というのが、東映チャンバラからの伝統ですからね。
それに、シュバルツが生き残る展開もよくよく考えれば陳腐。「グリッタと結ばれて良かったね」という気持ちを味わいたい感もあるものの、それだとゼットの矮小化は避けられませんし、更にはゼットの対極にあるライト達へも良い影響は及ぼさないでしょう。今回の退場は正解でした。
続いてノア夫人。前回、半ば唐突にシュバルツ陣営に合流した彼女ですが、権力欲から盲目的な母性愛に移行していく過程が、少ないシーンながらも執拗なまでに挿入され続けた為、その合流は唐突ながらも心情的に自然な流れとなっていました。今回は更に、自己犠牲にまで踏み込み、グリッタに「自分からも自由になりなさい」と言い放つ等、無償の母性愛を見せて散っていくのです。
これには参りましたね〜。当初はネロと双璧を為すエゴイストとして描かれたノア夫人が、ここまで変化するとは(ネロも状況に流される内にエゴがフェイドアウトして行ってますが)。
一方で、シュバルツに気を取られているゼットを背後から刺すというシーンは、サスペンスフルに仕上がっていて、仮面劇としても超上質な仕上がり。こういうシーンがあると、やはり特撮というジャンルはいいなぁ...と思ってしまいます。情念的なドラマが色濃い今回ですけれども、こういった「手練が作り出すアクションシーン」がドライブ感を創出していて、とても良いです。
そして、言及はされませんでしたが、ノアにも「虹」が見えたのではないでしょうか。
シュバルツのように明言こそしなかったものの、グリッタを救う為だけに行動したノアは、既にエゴを消滅させていて、利他的、無償愛といった「キラキラ」を纏って散りました。シャドーラインを存在の場としていた者達は、「キラキラ」を見つけた途端に消える運命を背負わされるようで切ないですが、シュバルツにしろノアにしろ、勧善懲悪モノ特有のヒロイズムに殉じたように見えます。
ゼットが一向に「キラキラ」を手に入れられないのは、その「闇の権化」という性質に依る処が大きいと説明されているようにも見えますが、シュバルツやノアのように利他的な精神を持つ事が出来ないからではないでしょうか。
ゼットの求める「キラキラ」は、自らの所有欲に根ざしたものであり、非常に動機が利己的。グリッタは利他的な動機でゼットの中に留まっていましたが、それがゼットの求めるものと相容れなかったのは、容易に理解出来るわけです。
ここで、ゼットが何故グリッタを闇に塗り込めなかったのかも、何となく推測出来るようになりました。
考えられる理由は二つあって、ゼットが理解出来ない「キラキラ」だった為に消滅させる事が出来なかったというものと、グリッタがいなくなる事で自らが闇そのものになってしまう(=「キラキラ」から遙か遠ざかってしまう)のを予見していたというもの。
果たして今回、グリッタが分離した事で闇そのものとなり、いわば「単なる闇」になってしまったゼットは、そのキャラクター性を単一的で硬直したものへと堕してしまいました。その様子を見る限りは、闇そのものになるのを嫌がったという理由が色濃いのかも知れません。まぁ、一筋縄では行かない「トッキュウジャー」ですから、今後ゼットに何らかの変化が生じるのでしょうけれど、今の処はライト達の前に立ちはだかるラスボスの風格を持たされた「典型の枠を出ない悪役」にされた事は間違いないです。
そうそう、明についても言及しておかなければ。
明は冒頭にザラムとしてトッキュウジャーと戦っていたり(アクションシーンでちゃんと遠慮している・笑)、シュバルツの手助けをしたりと色々動いていましたが、結局は周辺で事態を見守ることしか出来ない状況になってしまいました。ハイライトはトッキュウ6号に変身したゼットとの対決でしたが、はっきりと事態に介入したのはこのシーン程度です。
しかしながら、ゼット使用のトッキュウ6号が描写されたが故に、巨大戦前に明がライト達の処に戻ってくるシーンの情感が、大幅にアップされた事を見逃してはなりません。トッキュウ6号という「誰でも使えるガジェット」が、やっと明と同一のものとなった瞬間、ライト達を「トッキュウジャー」ではなく個々の名前で呼ぶことが出来るようになった虹野明。彼はここで名実共にトッキュウジャーとなりました。
そして、巨大戦ではロボで名乗りを行い...という展開は、まぁ年末商戦編ではお約束になりつつあるので割愛(笑)。
次回は、何となくしっとりとした質感を期待出来そうな感じ。私は今回が今年最後と思っていましたが、そうではないんですね。盛り上がりまくったクリスマス編の後に、年末編として何を提示してくるのか楽しみです。
クリスマス編の第二弾。色々と仕掛けを盛り込んで盛り上げてきました。
中編ということもあってか、基本的に所謂「鬱展開」になってはいますが、それぞれに気合いを込めた芝居がぶつかり合うドラマの部分が、非常に充実しているのは、その鬱展開ならではといった処でしょう。「こう来たか」と思わせる部分もいくつか織り交ぜられていて、ギミック寄りの視点でも充実していると思います。
冒頭は、トッキュウ6号に変身した明が、ライト達に襲いかかってくるという衝撃の構図。
とはいえ、邪魔をするライト達にとりあえず道を空けさせるという意図がちゃんと見えていて、一応敵らしく振る舞いつつも手加減しているように見えるのが良いです。何かと縁のあったトカッチとの交流を回想するシーンもあったりで、実直な明の心中にある迷いが、少しずつ表面化していく構成には唸らされますね。
殆ど事情を知らないライト達は、「明を取り戻す」という決意を固め、その目的に向かって突き進もうとします。ところが、今回に限ってはそういった行動が殆ど空回りしているので、正に今回はゼット、グリッタ、そしてノア、シュバルツ、ザラムといったシャドーラインの面々が中心となって紡がれるドラマとなっています。従って、ライト達が事情を嗅ぎ回っているように見えるシーンの数々は、狂言回しに過ぎない格好となり、「デンジマン」や「サンバルカン」の終盤、「ダイナマン」~「ターボレンジャー」といった曽田作品で見られる敵側の奮った描写の数々(主人公置いてけぼりとも言う・笑)を彷彿させるものがあります。
そんなわけで、物語の中心に居るのはゼットとグリッタ。そこに、ゼットへの復讐を誓うシュバルツとそれに協力するザラム、グリッタ復活のチャンスを窺うノア、状況に流されるがままになってしまっているネロ男爵、皇帝の危機に焦るモルク侯爵が絡み、よくぞこんなストーリーが書けたものだと感心せざるを得ない、卓越した群像劇へと突き進んでいきます。
今回、より明らかになったのは、闇減りの今やゼットとグリッタは表裏一体で、「グレンダイザー」のガンダルとレディガンダルのような(違う?)関係になっているという事です。その為、グリッタが喋るシーンも増加しており、その複雑な心情を吐露するシーンには見応えがありました。グリッタ曰く、自分が皇帝から分離すれば恐ろしい事が起こるとの事。今すぐにシュバルツの元へ行きたいという願望がありながらも、その「恐ろしい事」を予見しているが為に、ゼットから離れられないというジレンマが、グリッタを「悩めるお姫様」に相応しい者としています。
ここで各キャラクターを見渡してみると、今回明によって強調されたシュバルツの変化だけでなく、他の面々にも善悪では割り切れない業を背負わされている事が分かります。
ゼットは、さすがに皇帝らしく真意を見せる事はなく、その出自にしても行動にしても不可解で謎めいていますが、何故か悪辣さは感じられない、不思議な存在感を放っています。今回はトッキュウ6号に変身(シチュエーションとしてはむしろ「変装」)し、レインボーラインに「亡命」してくる大胆さを見せながらも、実はグリッタの伝言をトッキュウジャーに頼みに来たのではないかと思わせる行動になっていて、その不可解さも絶好調。恐らく、そこにグリッタに対する優しさや情といったものは存在しないものと思われますが、それはゼット自身にも分かっていないのではないでしょうか。
グリッタは、自分がゼットから離脱すれば、それは裏切り者であるシュバルツの粛正を易々と許してしまう事に繋がる為、ゼットの中に留まっているというのが真相でした。しかし、それに加えて、前述のようにゼットから離脱=人間にとっても恐ろしい事が起こるという予測があり、既にグリッタはシャドーラインのみならず人間を含めたマクロな視点を獲得している事が分かります。それが博愛であると断定するのは無論早計ですが、グリッタのキャラクター性(殊に日髙さんの雰囲気)にとっては違和感ないものではないでしょうか。
シュバルツは、グリッタの為にのみ動くキャラクターへと完全に変貌しており、ドリルレッシャーを奪った際の悪辣さは未だ備えながらも、既に「単なる悪役」ではなくなっています。ザラムが怪人態であっても明にしか見えなくなっているように、シュバルツは最早、グリッタを護る黒い騎士にしか見えなくなっています。壤晴彦さんという、意外なキャスティング、恐らくはこの変化を見据えてのものだったのでしょう。
明=ザラムは、シュバルツと組む事自体はトッキュウジャーにとっても損ではないという、意外な損得勘定を以てライト達の前に現れました。つまり、明自身はトッキュウジャーの目的の一つである「昴ヶ浜への到達」を邪魔する気は全くなく、むしろ応援しているというスタンスであり、それはどこに居ようと変わっていないわけです。ただ、ライト達は、損得を超えた部分に明との友情を育んできたわけで、やはり明の論理には納得出来ない。近年、急激に陳腐化してしまった「絆」というタームですが、ここでの6人の在り方が正にそのタームを使うべき処なのかも知れません。
最も意外な振る舞いを見せたのが、ノアでしょう。
娘であるグリッタを何とかして助けたいと考えるノアは、このクリスマス編で「狡猾な外戚」から母性を前面に出すようになりました。前回は暗躍という言葉が似つかわしく、まだノーブルな女性としてのプライドを保っていたように見えましたが、今回は遂にシュバルツとザラムの前で跪くという行動に。プライドを捨てて娘の為に動く様子には、やはり深みが伴っており、こちらも単なる悪役ではなくなりました。
ネロやモルクにしても、ゼットに対する献身一徹で通しており、どうもシャドーラインの面々はそれぞれが狡猾さや野心を見せるといった、従来型の内部抗争劇から脱却しているようです。とりあえず今回に限って見れば、ゼットを除いてそれぞれが献身の対象となる人物を定めていて、その人物が各々異なっているが為に、各自バラバラに動いているという構造なのです。そして、思惑が合致した者達は一時的にでも力を合わせようとする様子が描かれる事で、ドラマが進行していきます。
今回はそういったドラマ性が重視された為、割とアクションはあっさり目だったように思いますが、それぞれに入魂のカットが見られました。そこはやはり年末編。手抜かりはないようです。特に巨大戦ではモルク専用のクライナーが登場して盛り上がりました。
そして、最後の最後に、今シリーズ最大のインパクトが待っていました。
キャッスルターミナルが浮上するという、ど迫力のシーンに喝采を贈っていたのも束の間、妙に緑色の強い違和感のある樹木が設えられていて、アングルもそこを強調。その違和感に包まれながらズームしたその先には...。
なんと、ライト達の秘密基地を現す文字が!
シャドーラインの本拠が昴ヶ浜だったという衝撃!
これは予想だにしませんでした。しかしながら、この事実を前提にすれば、ゼットが「きらきら星」を口ずさんでいた理由も朧気ながら見えてくる感じがします。
新年にもまだ「トッキュウジャー」は放送されるわけですから、ここまでネタの大盤振る舞いをしちゃって良いものかどうか心配になりますが、ここは素直に楽しむ事にしましょう。次回は三部作の最終編になるとの事で、今回の仕込みがどう生きてくるか楽しみですね。
年末という事で、シリーズとしても色々な意味で盛り上がりを演出していく時期となりました。今回は、その前哨戦といった趣。
今回は、明がシュバルツとの約束を果たすべく、レインボーラインから離脱するというトピックをメインとしています。クリスマス時期特有の「闇減り」と呼ばれる現象を設定する事で、シュバルツの「好機」を印象付け、更にはシャドーラインの静かな内部抗争を盛り上げています。
グリッタの新規となるセリフがあり、いよいよ日髙さんの本格的再登板も近いと思わせてくれます。まだどうなるか分かりませんけど。
いわゆる追加戦士は、毎年様々な工夫を凝らして見せ方を変えています。敵になったり味方になったりといったポジショニングは二極化せざるを得ませんが、そこにどのようなドラマや展開を盛り込むかどうかに注力されています。
今シリーズでは、出自がそもそも敵側であるという事に加え、馬鹿正直キャラという属性が与えられていて、類型を探すのが困難な仕上がりとなった明。彼は、味方になったり敵になったり(?)という贅沢なポジショニングの機会に恵まれたわけですが、根底にトッキュウジャーの目的を叶えてやりたいというきっかけがある事で、無類の優しさを付与されています。それだけに、明の立場は凄絶なまでに哀しい。故に、結構なお祭り騒ぎのビジュアルに彩られている筈の今回は、妙な物悲しさにも包まれていました。
そして、その物悲しさを盛り上げるシーン作りも抜群に素晴らしいものでした。
シャドータウンへのポイントを見つける方法を「書き置き」のように置いておいたというシーンには、明の底なしの優しさが溢れています。子供向けにひらがなを多用した内容は、ライト達を気遣っての事なのか、あるいはザラムの学力に相応だったのかは定かではありませんが、実に微笑ましい雰囲気。とても良い趣向だったと思います。で、その優しさがガツンと(特にトカッチに)響くから、とにかく物悲しい。
明のシンボルともいうべき黄色いヘルメットが残されている...というシーンも情緒に溢れていました。レインボーラインの離脱を端的に表現する名カットであり、ライト達が味わう喪失感を印象付けるに充分過ぎる演出。本編のこの辺り、切れ味鋭い演出が光っていて実に良いですね。それにしても、離脱後の明の出で立ちが、どうもバトルコサック=神誠に見えてしょうがないんですが(笑)。
また、クリスマスが盛り上がっているという設定のくせに、烈車内以外で殆どそういった描写がないのも、物悲しさに拍車をかけています。世間の賑わいから離れて、明の行動に心をかき乱される五人の心情を考えると、このような抑えた描写になったのも必然。まぁ、街のクリスマスに関する映像素材をわざわざ集めるのは大変だったという見方もありますが。昔の特撮だと、よくニュース映像が流用されてたりしましたね。いきなり画質が悪くなったりして、ライブラリからの拝借だとすぐわかるような(笑)。現在のハイビジョン制作だと、ライブラリの流用にも神経質になってしまいますよね。ましてや、個人情報だのプライバシーだのが厳しい世の中ですから。
さて、シャドーラインの動きですが、まずは「闇減り」の影響でグリッタの復活が確定的なレベルにまで達しているという状況描写。この「闇減り」の時期に何が起こるかを予測しつつ、グリッタを力技で抑え込む事をしなかったゼットの不可解な心情、絶好機と見て暗躍するノア夫人の空恐ろしさ、保身の為か、自ら動く事を由としないネロ男爵、皇帝を守る為に自ら前線へと赴く献身を見せるモルク侯爵。各キャラクターが各々の思惑に応じてバラバラに動いていく群像劇的な様相は、完全に主役を食っている感じです。ただ、今回はあくまで前哨戦的な意味合いが濃いので、主役を食っていても問題ないと思います。
ノア夫人は、「闇減り」に乗じて更に闇を減らす為に、闇を浪費するシャドー怪人であるボセキシャドーを遣わすのですが、それがいわゆる「再生怪人」に存在意義を与えていたり、ボセキシャドー自身が「鼻つまみ者」扱いされている事から、再生怪人自体の能力も非常に低く設定されている等、様々なエクスキューズがセルフパロディ的様相を呈していて楽しいです。
再生怪人は、それこそ「仮面ライダー」のお家芸ともいうべきもので、特に劇場版はスケールアップの為に、戦闘員よりも強い怪人を多数配置してアクションを盛り上げるという手法を採用していましたが、これが今見てもエキサイティングなんですよね。で、見事にパンチ一発とかで倒れていく怪人達の姿に、哀愁を感じるわけです。「再生怪人は弱い」というのは、ピンのボス怪人が存在するというセオリー上当たり前の事なのですが、それでも過去にヒーローを苦しめた怪人が簡単に倒れていく姿には、どことなく滑稽さも感じられ、またそれが味ともなっているわけです。
そもそも、旧本郷ライダー編の最終回(第13話)からして再生怪人編で、しかも爆弾でまとめて瞬殺されるという顛末でしたから、強力な伝統はこの時点で作られたと言えるのではないでしょうか。
話を元に戻しますが、今回は再生怪人が見事に弱いですし、更には各怪人から明に関連する思い出を想起させられるという展開になっていて、ちょっとした総集編も兼ねていました。この構成は巧いですね。明がいかに大切な仲間になっていたか、それをライト達が再認識するというくだりになっていて、ホロリとさせられます。コミカルで無理矢理な総集編を挿入されるよりは、ストーリーに密接している分、自然ですね。
それから、今回は年末商戦向けの宣材としての側面も大いに感じさせます。
既に忘れ去られたようなガジェットが登場したり、巨大戦での合体変形シーンがほぼフルサイズで挿入されていたりと、笑えるくらいの大充実振り。烈車武装も大盤振る舞いでしたし、大いに盛り上がっていました。巨大戦でも再生怪人が登場する事で、このようなてんこ盛り状態でもちゃんとバランスがとれている辺り、巧いと思います。
次回は、トッキュウ6号に関するトピックが満載の様子で。楽しみです。
前回の意外性を孕んだ展開とは打って変わって、完全なるギャグ編。一応、カグラがメイン? しかし、ヒカリも目立っています。
やはり撮影所を舞台とするお話は、非日常の異空間という雰囲気なのか、ギャグとは相性が良いようで。ただし、今回は結構スベってますが(笑)。
なお、スパイス程度ではありますが、ミステリー調の展開も含まれていました。
撮影所を舞台とするエピソードとしては、古くは「バトルフィーバー」の魔術怪人が登場する傑作があったりしますが、それ以降もちらほら。「シャイダー」では、かの澤井信一郎監督の手による「魔少女シンデレラ」を筆頭に、時代劇の撮影に紛れ込む話等もありました。今は亡き円谷浩さん、時代劇の扮装が実に良く似合っていて、後に時代劇の仕事を多くされていたのも納得ですね。本当に若くして鬼籍に入られたのが残念です。
今回は、撮影所に紛れ込むというパターンではなく、積極的に撮影に参加してしまうという点が新しいです。しかも、スタッフとして。
ライトは助監督、トカッチは撮影、ミオは音声、カグラは監督(!)となって撮影が行われるという、ある意味超展開を呈した流れですが、裏にちゃんとフィルムシャドーの暗躍があった事と、途中からヒカリが探偵を演じ始めた事で、一応の整合性がとられています(そこが可笑しいんですが)。ただ、脚本も演出も悪ノリ過多な印象は否めず、今一つノれなかったんですよね。←個人の感想です。
ギャグの大部分を占めるのは、カグラがやりたい放題を始めて映画がメチャクチャになっていくという流れですが、あんなに機嫌の悪そうなキャストが、何故カグラのメチャクチャな演出に従っていたのか大いに疑問ですし、結構豪華で派手なセットをあの短時間でどうやって用意したのか等、ヘンな処が気になってしまうんですよね。まぁ、ナンセンスギャグなんだと言ってしまえばそれまでですけど。
カグラ自体は、あの扮装が良く似合っていて実に可愛らしいですし、カットによって声のトーンが著しく変わる処なんかは、逆に妙な色気が発散されていたりして、実はカグラ編としてはこれまででベストなのではないかと思えるくらい、素晴らしい完成度です。ギャグは全体的にスベり気味だと思いますが、カグラが楽しそうに監督の真似事をやっているのは、見ていて和んでしまいます。
一方で、トカッチと明がまたまたセットで笑いに使われます。
恐らく、次回でシュバルツとの一件を明らか
にする筈の明ですが、素直に妙な扮装をさせられる辺り、良いヤツですよね。トカッチは完全に否応なく引き受けさせられた感じが在り在りと浮かんでいて、良い実に芝居です。この二人、後の名乗りシーンでもキャラを引き摺っていて、「ジャクリーン」「カトリーヌ」とか言っちゃってます(笑)。
そして、ヒカリのけん玉探偵再び。
今回は、守衛さんの推理の受け売りを披露するという感じで、こちらもギャグ要員扱いでしたが、途中までは事件の匂いを嗅ぎ取る表情がシリアスで、横溢するギャグテイストの中でピリッと存在感を効かせていました。実は、以前のけん玉探偵には結構違和感があって、面白くはあるんですが、ヒカリのクールなキャラクターからは乖離している印象があったんですよね。しかし、現在では彼等が子供であるという説明が付いている為、「ごっこ遊び」の延長だと捉えれば俄然納得が行きます。今回は、クールに推理を披露しようとするヒカリに子供っぽい可愛らしさが加味されていて、とても魅力的でしたね。こういう描き方を待っていたという感じで。
残念ながら、ライトとミオにはあまり見せ場がありませんでした。ライトのカチンコさばきはなかなか堂に入っていましたし、ミオの真面目さには魅力がありましたが、この二人、ギャグ編では意外と弾けた描写に恵まれないような気がします。その意味では、意外に典型的な戦隊ヒーロー&ヒロインなのかも知れませんね。
さて、アクションでは、映画のシーンを意識した工夫が沢山盛り込まれていて、ドラマ本編よりもむしろそちらの方が面白かったです。
前半戦は、合成やCGがふんだんに使われ、その画面のあまりの豪華さに思わず笑いが。前回ちょっと触れましたが、「デンジマン」に同じフィルムモチーフの怪人が登場し、カチンコを鳴らす度に様々なジャンルの世界へと誘う能力を披露します。それをそのまま現在の技術でリメイクしたような趣があって、感慨深かったですね。
後半戦では、カグラとフィルムシャドーの銃撃戦がアングル等の工夫でアクション映画の雰囲気になっており、こちらも凄い完成度。今年の紅白歌合戦に出場される事で話題の、薬師丸ひろ子さんの名台詞をトレースしていたり、小ネタも色々と。レンケツバズーカが登場したのも嬉しかったですね。
そのレンケツバズーカで射出されたのは、ヒカリに推理を耳打ちした「守衛さん」。何と、喜多川2tomさんが演じていて、キレのある攻撃で魅せてくれます。喜多川さんは戦隊スーツアクターを多数務められた方。フィーチュアしすぎでしょ...という感じで、今回最大のサプライズでした!
ちなみに、今回は変身シーンで久々に白線が登場しましたね。ガジェットが盛り沢山になってくると、なかなかこういった部分が省略気味にされてしまいますが、「年末商戦編」を前に、ベースの魅力を再認識させてくれましたね。
巨大戦は、有無を言わさずトッキュウレインボーで迎撃。「フィン」と言って爆発してましたが、あれは「fin」の事。「ファン」と読むだとか、色々と議論はあるようですが、「フィン」で正しかった筈。まぁ、それもどうでもいい事ですけど(笑)。
エピローグでは、カグラがカメラ目線で「映画を見よう」とアピールしていて、あ、なるほど、VSの映画をそれとなく宣伝してたのね、と。色々詰め込んで来ますなぁ...。
サブタイトルから受ける印象や、脚本担当である大和屋さんの名前から、壮絶ギャグ編なのだろうと思いきや、意外にもこれからのストーリーの根幹を一部担うであろう要素を披露する事となった一編。
トカッチ編は全体的に名編が多く、今回もそれに該当する仕上がり。当初レギュラーの中では最も個性的なキャラクターであるトカッチと、追加戦士である明を絡ませる事で、妙に大人っぽい雰囲気を放つ結果ともなりました。今回ばかりは「子供」というテーマを外して見られるドラマでしたね。
今回の大まかな感想は、冒頭に述べた一文で殆ど語り尽くしてしまいますが、それでは記事にする意味がないので(笑)。
まずは、明とシュバルツの密約について見ていきます。
明にシュバルツが要求したのは、「時が来れば軍門に降れ」というものでした。大方の予想通りで順当な内容でしたが、やはり画面上で明確に言及されると衝撃的ではあります。
この「約束」には、明の愚直なまでの正直さがよく現れていると思います。というのも、元々ドリルレッシャーは、シュバルツが明を含めたトッキュウジャーの面々を欺いて「奪取」したものであり、それを明が返して貰うにあたって何ら対価は発生しない筈だからです。明は実力の拮抗したシュバルツから「再奪取」する事が出来ないと悟るや、交換条件を持ち出して「返却を依頼」、つまりトッキュウジャーの利益の為に自らの正当性主張を放棄したわけで、ここに自己犠牲を見出す事が出来ます。さらに、シュバルツの意のままに動くようになるという、明にとっては屈辱的、ひいてはトッキュウジャーにとっては敵対勢力に身をやつすやもしれぬ状況に陥ったとしても、「約束」は「約束」だとして譲らない辺り、彼の頭の固さ、融通の効かない様子が見られます。
シュバルツの仕掛けた発端を考えれば、仮にもし明が狡猾に裏切りを働いたとしても、結果論として両者の行為は相殺される為、明のこの「約束」は、ある意味「不平等条約」と形容出来るでしょう。そこを、敢えて「約束」と捉える明、明(=ザラム)ならば裏切る事はないと踏んでドリルレッシャーを簡単に渡してしまうシュバルツ...この両者の関係には、ライト達にはないある種の深みを感じ取る事が出来ますね。
そんな明は、「約束」繋がりという事なのか、トカッチに「どんなに厳しい選択でも必ず決断しろ」と約束させます。
それは自らが下した厳しい決断を、少しでも誰かと共有したいという気持ちの表れなのかも知れませんが、ドラマの表面上は、トカッチの優柔不断さを見た明が、やがて来るであろう岐路(=自分がシュバルツと共にトッキュウジャーの前に立ちはだかるかも知れない時)の為に、覚悟を促しておきたいというものでした。明の心情を考えるとグッと胸に迫るものがあります。また今回は、変身不能となるシャドータウンでの戦闘という事で、ザラムの姿もかなりの尺を割いて描かれていますので、その「約束」の周囲に漂う影の深さがより強調されていて切ない感じを受けました。
一方、トカッチは優柔不断なキャラクターとして、明の真逆にポジショニングされました。とはいえ、これまでの話の中では、それほど優柔不断さを強調されてはおらず、むしろはっきり物事を発言出来ないという印象があった為、今回の描写はやや唐突に見えるきらいも。「はっきりしない」という言葉上では同じですが、「優柔不断」と「はっきり言わない」では差があると思ったので...。まぁ、それでもトカッチが優柔不断であっても特に違和感はないのでよしとしましょう(笑)。
冒頭の、弁当を迷うシーンから結構芝居が飛ばし気味で楽しいのですが、戦闘中にまで決断出来ないキャラが波及するとは思いませんでした。思慮を巡らせる際に挿入されるペシミスティックなイメージシーンが実に可笑しく、この辺りの巧さはさすがギャグ編担当の大和屋さんではないかと思います。勿論、笑いの部分は現場処理による描写がかなりの割合を占めている筈ですが、やはりイメージソースとなる脚本が大事ですからね。
シャドータウンを管理しているナイトのキャラクター性を含めて、この辺りでコメディ色を振りまきつつも、トカッチと明の絡みになると、ググッとシリアス度を増してくるのが今回の見所であり驚きでしょう。トカッチは今回、「目的の為に何かを犠牲にするような道は選ばない」とのポリシーを示して明に加勢する「決断」を下しましたが、その決断は、明が示す厳しい選択に際しても、トカッチなりの(明が期待する答えではない)何かを提示してくれるだろうとの期待を抱かせてくれます。私は、トカッチの迷いこそが最良の答えを出す土壌だと思いました。
そんなわけで、視聴者としてあんまり褒められた見方ではないですが、メインライターではない作家さんが、トカッチというキャラクターがこれから持って行くテーマ性にガッツリ関わるような文脈を書く! という意外性も相俟って、今回は実に衝撃度の高い一編だったわけです。
さて、その中でコメディ色の大部分を担っていたのは、先に触れたナイト。
声は、ギャグ作品でもその力量を遺憾なく発揮している阪口大助さんが担当。ちょっと高めの特徴的なトーンで愛馬・ジャスタウェイを駆る(?)姿は颯爽としていながらも笑える要素満載。シャドータウン内とはいえ、そのスピードで強者振りを発揮していて、どうやってトッキュウジャーが勝利するのか読ませない辺りが素晴らしいですね。ゲスト怪人とのバトルは、割と予定調和的に処理される事が多い中、今回はアクションの組み立てや流れに凝った工夫が盛り込まれていて、満足度が非常に高かったと思います。
そのナイト、トッキュウジャー達の「進路妨害」に「審議」を連呼し、ジャスタウェイはザラムに抱き寄せられて「牧場に帰れ」と言われて地球の軌道上にまで放り上げられるという、妙な競馬ネタに彩られ始めた頃から敗色濃くなっていきます。この競馬ネタは、大和屋さんが競馬マニアである事から来ているらしく、大和屋さんの所有(!)する競走馬の名前が「ジャスタウェイ」なんだとか! しかも、成績が良かったらしいですねぇ(競馬に詳しくなくてスミマセン)。色々な処で「銀魂」のネタ(阪口さん含めて)ではないかという話が上がっていますが、私は「銀魂」を真面目に観ていなかったのでよく分かりませんでした(笑)。
ちょっと残念なのは、サブタイトルがあんまりフィーチュアされなかった事ですかね。単純な「痛い系の究極選択」だったので、「デンジマン」のナゾラーみたいな不条理なシチュエーションを期待していたら、かなり肩すかしを食らわされると思います。
エピローグは、明がライト達に謝るシーンが挿入されて、再びシリアスな雰囲気で締められましたが、その直前の巨大戦が完全にギャグ一辺倒だったので、またまたギャップに当てられてしまいました。とにかく今回は、あらゆるギャップを駆使してトカッチのシリアスな面を浮き彫りにする作風だったのかも知れませんね。それはそれで存分に成功していると思います。
次回は、撮影風景のお話(?)。前述のナゾラーじゃないですが、「デンジマン」にはフィルムラーという傑作怪人が登場しているので、同様の不条理なギャグ編に期待してしまいます。
「昴ヶ浜の記憶」に斬り込む、しっとりとした感触を持つ名編。ヒカリが頭脳戦やアクション重視ではない、叙情的なシチュエーションに挑んだ回でもあります。
ゲストはアイドリング!!!の外岡えりかさんで、妙にリアルな大学生を的確に表現していました。普段、大人と少年の間を揺れ動いているような雰囲気を持つヒカリが、彼女とのシーンで、グッと小学生の感覚に近付いていく辺りの演出と演技は、今回の見所となります。
まずは、今回のシャドー怪人に触れておきましょう。マンネンヒツシャドーは、右肩の万年筆から落第点を発射し、それを付けられた人間から闇を発生させるという、何とも手間のかかる作戦を担うシャドー怪人。この雰囲気は正に70年代後半~80年代にかけてのもので、妙に小さいスケール感から良質なドラマを生み出す手法を踏襲しています。今回の脚本は會川さんで、上原・長坂両巨頭の薫陶を受けた作家さんですから、この辺りの巧さは見事という他ありません。
マンネンヒツシャドーの声は飛田展男さんで、少々とぼけた味が堪りません。要所要所に(多分)アドリブを挟んで場面を賑やかに彩っており、かなり格好良いデザインを与えられながらも、良い意味でやっぱりスケール感の小さい辺りが素晴らしいです。飛田さんと言えば、「ゴセイジャー」では狡猾で高貴な黒幕(しかも1話からずっと出演)の声を演じられ、絶大なインパクトを発揮していました。今回はある意味真逆のキャラクターですが、飛田さんの幅広さを感じる事が出来ます。飛田さんは「ちびまる子ちゃん」の丸尾君や「Zガンダム」のカミーユ・ビダンといった代表作を挙げるまでもなく、アニメでのお仕事が多いのですが、特撮は意外な程に少なく、もっと登場願いたくもあります。
いきなり話が逸れましたが、逸れついでにマンネンヒツシャドーって、仮面ライダーブレイドのデザインに似てますよね(?)。肩部がちょうど握り手のようになっているデザインも非常に面白いです。「バトルフィーバー」のヒダリテ怪人とか、「デンジマン」のビーダマラーとかを思い出してしまいました。
さて、続いて外岡さん演じる「さくら先生」ですが、これほど実習生と大学生とで印象が変わるとは、やはりメイクの力は恐ろしい(笑)。多分、私はヒカリのように同一人物だとは気付かないと思います...。外岡さんの素顔がニュートラルな感じなので、極端なメイクが映えるのでしょうね。
今回、巧いな~と思ったのは、ヒカリが小学生のまま大人の姿になっているという状況を、視聴者に観察させる感覚です。ヒカリは小学生の意識のままさくらに接していて、一方のさくらは同年代にしか見えないヒカリに違和感を持ちながら応じている構図。ビジュアルでは、同年代の男女の間にある一般的な関係性を想起させながら、心情描写では年齢のギャップが在り在りと描き出される巧みさ。これは「トッキュウジャー」のテーマを別の角度から眺めたものであり、一度は「子供から大人へ確実に進んでいる」というテーゼを投げかけつつも、「やはり子供である事は否定しようがない」という事実を見つめ直す行為でもありました。
二人の一連のシーンの中では、さくらが「合コン」とか「酔ってて覚えていない」とか「適当に入学した」といった、いかにもその日暮らしな大学生像を披露していて、子供向けコンテンツとしてはなかなか衝撃度が高いのですが、ウン十年前の自分の頃を振り返ってもそれは結構リアルな感覚だったわけで、それが悪いとは言い切れないのが現実なんですよね。その辺り、ヒカリのような純粋な人格が「それは良くない」と否定しつつも、ドラマ全体ではやや突き放した感覚で統一されていて、非常に良かったと思います。メインターゲットからすれば未知の世界である大学生相手に、説教臭い作風をとらなかったのは理性的ですよね。
そんな感じでシーン作り、キャラクター造形共に虚無感に包まれたさくらが、ヒカリによってかつての夢を思い出すというくだりは、良い読後感を生んでいます。この展開自体、在り来たりと言ってしまえばそれまでですけど、「トッキュウジャー」ならではの要素としての「昴ヶ浜の記憶」と絡ませているので、ヒカリ側のカタルシスとシンクロさせていて、余計に読後感がいいのです。ここで改めて面白さを感じたのは、さくらが実習生として赴いた昴ヶ浜に関する記憶を取り戻したかどうかが至極曖昧な処です。ヒカリの名前を思い出したような描写はありましたけれど、イメージシーンのような処理へ振り切られていましたし。昴ヶ浜の記憶を多くの人々が思い出す事によって、何か事態が進展するという展開も有り得ますが、それでは既視感ありありですからね。一応ゲスト作家という事もあって、敢えて本筋に影響するような語り口を避けられたのではないでしょうか。
そして、メインを務めるヒカリです。
実習生に強い印象を抱いていたという設定は、ヒカリに最もマッチしていたと思います。ライトは「0点なら慣れている」といった具合ですし、トカッチにはヒカリ程の繊細さがない。女の子二人組だと同性になってしまって、何気に今回の肝になっている「違和感」を感じにくい。消去法から行ってもヒカリはベストチョイスでした。
ヒカリというキャラクターは、クールなキャラクターという設定の為か、割と表情に乏しい感があるのですが、今回は大袈裟な表情を一切せずとも、「目で演技」という難題を見事にクリアしていたのではないでしょうか。特に印象的なのは、はじめにさくらの前に立った時の子供っぽい輝き。いつもの面々と居る際は、ちょっと背伸びした雰囲気を漂わせているので、その可愛らしさには驚きました。
メインを務めた事もあって、ハイパートッキュウ4号になる流れもごく自然。既にそのアクションに定評ある横浜さんですが、素面アクションを割愛したのは、逆に良かったと思います。今回の(変身前の)ヒカリはとにかくスタティックで通して大正解です。さくらを助ける為に素面アクションで活躍しまくるというシーン設計もありですが、それだと感情の継続が破断されてしまいますからね。本当に英断だったと思います。
ヒカリ以外はとにかくコミカルに動く事が意識されていたようで、トッキュウ0号とか-100号とか、笑わせるギミックもふんだんに。等身大戦では、殆ど役に立っていない辺りが凄いですね。中でも脱力したミオの、声のトーンが良かったです(笑)。
巨大戦では、マンネンヒツシャドーがトッキュウレインボーの大きさにわざわざ合わせた処(順番は逆ですが)に可笑しさが。殆ど飛田さんの一人舞台になっていて、そちらにも笑ってしまいました。
車掌さんは、終始モノマネを披露してましたね。いわゆる「若大将」の真似でしたが、正に嬉々として演じておられるのが伝わってきました。それでもまだ、「やりたい放題」の域には達していないんですよね。この辺りの理性的な判断は、関根さん自身のものなのか、制作陣のものなのかは、定かではありませんが(笑)。
次回は、明とシュバルツの密約の内容が明らかになるとか。一話分引っ張りましたが、意外に早く明らかになるんですね。
最終形態(?)の全部合体・トッキュウレインボー登場編。
とはいえ、「トッキュウジャー」の特徴なのか、新形態の登場自体にはあまり盛り上がりのポイントを置いておらず、むしろ明とシュバルツの間に何があったのかを引っ張る事で、今後の展開への興味を引くという方面が強調されていました。
また、シャドーライン側は幹部総攻撃という体裁をとっているものの、こちらも何故かあまり盛り上がらず。数回前のシュバルツを交えた大乱戦があまりにも高い完成度を示していたので、普通の総攻撃では普通に見えてしまうという贅沢な感覚...。何となく3クール序盤に盛り上げ過ぎてしまったのではないかと思います。
今回は手持ちの駒でドラマを転がしていく手法がとられており、それはそれで各キャラクターの描き分け深度を上げられるので良いのですが、今回に関してはちょっと裏目に出たのではないかと思われます。
と言うのも、ゼットがグリッタの「キラキラ」を気に入らず不機嫌になっているというくだりで興味を引いたまでは良いものの、その後殆ど進展を見せず、しかもゼットが本気を出せば、その闇の力でグリッタを消滅させる事など造作もないと示され、見ているこちらもイライラさせられてしまうという(笑)。グリッタを消滅させたくないのか、実は消滅させられないのか、その辺りを推測する楽しみはありますが、意外な程にゼット自身の描写が不十分なので、誰をクローズアップしたいのかがボヤけてしまっているんですよね。
シャドーラインで一番目立っていたのはモルク侯爵。このキャラクターは登場時から話数を経る毎に魅力を増していますね。本当に「うるさいババァ」である事を強調したキャラクター作りは完璧に成功していると思います。魅力的なのは、シャドーラインの勢力拡大に邁進している一方、ゼットが可愛くて仕方がないという描写。この描写がある事によって、ゼットが実は無垢な存在である(=対極にあるライトとは出発点が違うだけで同質である)という事に言及し、ライトとの関係を強化しているわけです。
なお、今回のモルクはシャドーラインの勢力拡大姿勢を強調しています。ゼットが不機嫌になって吐き出した闇に対し、ゼット自身を心配するというよりは、これを利用してしまおうという「組織の重鎮」としての判断が魅力的です。終始、司令のみならず戦闘力の面でも幹部達のリーダーであり続ける様子には、大幹部の威容が充分に感じとれます。巨大戦でも画面の真ん中を占有して主張していたのには思わず笑ってしまいましたが。
それにしても、ターミナルが易々と占拠されるに至るとは、レインボーラインの防衛体制は脆弱そのもの(笑)。ゼットの闇の力が物凄いという理由付けは納得出来るんですけど、ターミナルの人員が総裁しか出て来ない為、抵抗、対抗といったキーワードが全く想起出来ない。以前より、ターミナルはモブキャラすら出て来ない「無人駅」なので、ある意味徹底しているとも言えますが、この辺りは何か仕掛けがあるんですかね? 制作陣が一筋縄では行かない構成力を示してきた実績を持つ方々なので、何かあるのかも知れませんね。
まぁその所為で、「占拠」という行為が今一つ盛り上がらなかったのは確かな処。ミニチュア特撮をこれでもかと投入したクライナーの乗り入れシーン等、魅力的な描写は沢山ありましたが、パワフルなビジュアルで強引に納得させる手法を持ってきた事に、些か戸惑いを覚えるのも確かです。
さて、ここで先に総裁について言及しておきましょう。
殺伐としたシチュエーションの中にあって、総裁はギャグ関連を一手に担っています。そのギャグの多くは、「被り物」である事を示す一連のシーン。明らかに正面を向いている状況で頭が90度横を向いていたり、受話器を頭の中に突っ込んでいたり、被り物に慣れていない様子で頭をぶつけたり...。どれもベタなギャグですが、実に効果的。車掌さんとの掛け合いも抜群で、特に「ラビット」というキーワードを過剰に強調する辺りは、楽屋オチ(関根さんはかつてラビット関根という芸名で活躍されてました)としても一流でした。
この総裁の正体不明っぷりは、前述の「無人駅」と相俟って、レインボーラインを得体の知れない組織にしています。シャドーラインが割と組織構造を詳細に描いているので、面白いですよね。正義側がリアリティある組織で、悪側が得体の知れない集団というのが定番なのですが、思いっきり逆転させている辺りにセンスを感じます。
そして、今回のメインと私が勝手に認定しているのは、明とシュバルツのくだり。
トッキュウレインボーを完成させる為に、ドリルレッシャーが必要であるという総裁の論には、強引さという点で可笑しさを含みますが、段取りの良さが感じられます。無理なく明とシュバルツの対峙へと導線が張られ、すぐに対決へとなだれ込み、途中、電話が入るというギャグを交えつつ、何と明が頭を下げてシュバルツに頼み込むという衝撃のシーンに至るまで、正に一気呵成。隙も無駄もない構成に息をのみます。
この対決では、トッキュウジャーとして戦い慣れしてきたトッキュウ6号の姿を見る事が出来る一方、ドリルレッシャーを取り戻す為には手段を選ばないという覚悟も見られ、その覚悟はザラムの雨を呼ぶ能力を使うシーンに現れています。ザラムである事を殆ど忘れかけているのではないかと思わされるシーンが、ここの処散見されていましたから、このシーンはなかなか衝撃度が高かったですね。
最後に、シュバルツと交わした密約は何なのか。
これに関しては全く読めませんね。エピローグの土壇場で該当シーンが繰り返されたので、早くも明かされるのかと思いきや、思いっきりダメ押しで引っ張っちゃったという...(笑)。しかも、次回は全く毛色の異なる話になりそうなので、それなりの期間オアズケ状態になりそうですね。しかし、こういった「引き」はあって良いと思います。意外な「答え」に期待したい処ですね。
次回は、ヒカリ編。脚本も會川さんという事で、どうキャラクターを料理してくるか楽しみです。
愛すべき不器用娘・ミオと超不器用男・明、そして面倒臭い不器用男・トカッチの模様を描く一大コメディ。
とにかくミオの魅力にどっぷり浸れる名編だと(個人的に)断言出来ます。
また、周辺の人物も活き活きと描かれているのが、コメディとして合格点以上ですね。「トッキュウジャー」のコメディ編は、空回りしていたり演者が無理をしているように見えたりと、なかなか乗り切れない感も否めなかった(中には傑作もあった)のですが、ようやく板に付いて来た感じがしますね~。
実の処、今回は戦隊シリーズのフォーマットを借りつつも「不思議コメディシリーズ」そのものの構造になっていて、語法等を正しく(?)踏襲しています。
まず、ミオに一目惚れする表参道義雄なる人物。この造形は「中華魔女」とか「ポワトリン」にそのまま出て来てもおかしくないものです。そもそも、そのネーミング自体がいかにもな感じで、ファーストネームなんかは不思議コメディのメインライターとして著名な浦沢義雄さんから採ったとしか思えないのです(ちなみに今回脚本担当の大和屋暁さんは浦沢さんの弟子)。
この表参道、演ずる坂本真さんの怪演が光りまくっており、寄りアングル多用も相俟って、単純に視聴者へ嫌悪感をもたらす凄まじさ。ミオの恋愛沙汰としては、かつてゲキチョッパーこと聡太郎さんが出演した回もありましたが、そちらはミオの感情の機微にやきもきさせられる構成でした。なので、今回のようにミオと嫌悪感を共有してしまうという構成は新鮮に映ります。不思議コメディでは、このようなキャラクターの良い処を見つけて微妙な感情に陥ってしまうパターンも散見されましたが、今回は徹頭徹尾「キモキャラ」が貫かれていたように思います(笑)。
そして今回は、トカッチがミオに対する恋愛感情を露呈した後の話ですから、当然トカッチ絡みが異様に活き活きしてくるわけでして、正直ミオを見ているよりトカッチを見ている方が面白さの点では上だという...。怒りに任せて巨大戦まで単独で突っ走ってしまう辺り、トカッチのキャラも行き着く処まで行き着いたのかも知れません。メインキャラの暴走も不思議コメディの常套句ですよね。
巨大戦のこういったパターン破りは、年一回は挿入されているように思いますが、やはりコメディの上で繰り広げられた方が爽快感がありますよね。個人的に印象深いのは、「ジェットマン」での、怒りが頂点に達した小田切長官による単独巨大戦で、「恐ろしいキャリアウーマン」という、いかにもバブルな時代を反映させたものとして強いインパクトを放っていました。巨大戦ではありませんが、長官繋がりでは、「バトルフィーバー」の鉄山将軍が単独で怪人や幹部を斬り倒したり、「サンバルカン」でも黒幕をいきなり爆殺するのが嵐山長官だったり、「チェンジマン」では藤巻長官がとうとう変身してしまったりと、大物俳優が演じる長官キャラは、戦隊シリーズでそれぞれ絶大なインパクトを放っていた事が忘れられません。関根さんもモノマネ空手でクローズをバッタバッタと倒してくれないかなぁ...(笑)。
続いては、表参道から逃れる為にミオが明との恋人関係を偽装するというくだり。
よりにもよって明を選ぶ辺りが可笑しい。しかしながら、ライトだとヒカリが言う以上に面倒臭そうだし、ヒカリはトカッチの事を知っている唯一の人物だけに端から除外。トカッチは当然の如く有り得ない。ワゴンから聞いていた(のを大幅に端折った)「ガッチリした背中で語る」というイメージに最も合致するか否かを度外視しても、既に明しか適任がいないというのが本当に可笑しいのでした。
このキャラクターの自然な転がり方が素晴らしく、今回のコメディの屋台骨をガッチリと形成しているように思います。コメディになればなるほど、リアリティも足下もしっかりしていないとダメで、今回はこの辺りが本当に素晴らしいと思いますね。
そして、長い尺を割かれている偽装デートが、これまた手本のような見事さ。二人の不器用さが正反対に出ていて、これが巧い具合に笑いを生み続けるのです。
ミオは、恥ずかしい気持ちが最優先されてしまい、器用に恋人を演じる事が出来ない一方、明は不器用すぎて愚直なまでに指示に従う以外、手が回らないという構造。ここでのミオの反応が、いちいち可愛いのは反則染みていて良いです(笑)。演技プランとしては、まだ子供であるという部分がかなり意識されているように思いますが、それを「可憐な大人」という雰囲気を持つビジュアルで見せてくるものですから、何だか異様なくすぐったさを醸し出しているんですよね。これは実にマズいです。良い意味で。
恐らくですが、ミオ的には明のビジュアルが自分の好みから外れていないのだと思います。そう考えると、ジーッと接近してガッと反発するという反応が繰り返されても、全く違和感がありません。ある意味、明は、トカッチとは高身長以外共通点を見出せない真逆のワイルドキャラで売っているので、そういう点でもトカッチ暴走に至る流れを巧く作っているのではないでしょうか。
明は、人間の男女関係に関する知識も、そもそもそういった本能すらも持ち合わせていない特殊なキャラクターである事が存分に活かされています。その代わり、妙に「お茶」に関する造詣が深かったりといった部分が、笑いを誘うわけで。
ミオの手を全く躊躇なく取ったり、肩を抱いたり密着したり。終始険しい表情で行われる「指示通りの行動」の数々は、演技とはいえ普通はドキッとする何かがあるものですが、明の場合はそれを全く、本当に全く感じさせない。最高ですよね。
そして、明にそういった感情がそもそもないという事がはっきり分かる、衝撃のクライマックス(笑)。結局、表参道は明に惚れてしまうという、コメディの常套句においても、何ら違和感がない辺り、抜群の構成力でした。いやぁ、凄い回でしたね...。
なお、嫉妬に狂って失神までしてしまうトカッチのオーバーアクションっぷりは鉄板でしたが、一方で完全に興味本位なライトをそっと抑止するヒカリが素敵な存在感。ワゴンが車外に出て外ロケをやっているのも新鮮で、この「異質な存在が日常風景に溶け込んでいる」という感覚こそが、正に不思議コメディの雰囲気なんですよね。
カグラは、さり気なく「なりきり」を披露していて楽しい。セクレタリー風の女スパイというか、設定は何だかよく分かりませんが、とにかく背伸びした感が可愛い。いちいち言動やポージングも決まっていて楽しい限りです。何気にカグラが活躍するカットは多めで、興味本位とミオへの気遣いの丁度中間に居る事を、存分に表現していたと思います。ニュートラルな分、状況説明を担当するシーンも多く、実は重要なキャラクターだったりするんですよね。本当、今回はキャラクターの配置が抜群だと思います。
最後に、ビリヤードシャドーについて。「付き合う」を「突き合う」とシャレてしまう辺りは、正に浦沢脚本のセンス。デザインもかなりモチーフを強調していて、コメディ要員である事を伺わせます。闇を集める為にやっている事はかなり凄惨ですが、描写がそのまんまなので、これも不思議コメディのセンス(笑)。シュシュトリアンが出て来てもおかしくない雰囲気が横溢してました。
次週は放送休止。次回はゼットに何らかの動きがありそうですね。一週程、ゼットに備えてゆっくりさせて頂く事に致します。
重要回直後のバラエティ編の趣ですが、何者であるかを悟った後のライト達を存分に堪能出来るエピソードとして、意外な重要回でもありました。
今回のメインは、ライトとヒカリのアクションという事になりますが、メインにフィーチュアされただけあって素晴らしい出来映え! 当初より折に触れて描かれて来た、ライトとヒカリの戦闘力の高さを裏付けるという意味でも大成功のアクション編だったと思います。
3クール半ばで「記憶を取り戻す」という一大テーマを達成してしまった事で、次なる展開をどう持ってくるのかと思っていましたが、まずは順当なバラエティ編を持ってくるというのは、定番かつ良い選択だったと思います。しかし、今シーズンの巧さは、そこに「記憶を取り戻したからこその展開」を込めてくる事にあり、今回はそれを明確に表現したものとして評価出来ます。
思い出した事柄も、ライトとヒカリが空手の同門だったという事に加え、師がライトの祖父だったというのが面白い処で、堰を切ったように回想上に肉親が登場してくる辺り、出し惜しみのなさを感じます。祖父役には、井上高志さん。特撮ファンには「仮面ライダークウガ」の先生役として印象に残る役者さんですが、その誠実そうな雰囲気が今回もピッタリハマっていました。「相棒」の前シーズン最終話にも出演されていましたが、超法規的な正義の在り方を静かに語る姿に感動しましたね。
この空手の同門という設定は、ライト役の志尊さんが格闘技経験者であり、ヒカリ役の横浜さんが中学生の頃空手の世界チャンピオンになったという、素晴らしい経歴から来たものだそうで、そのポテンシャルは遺憾なく発揮されていました。劇中の設定では、彼等は小学校低学年くらいの年齢なので、あそこまで達人級にはならないだろうというツッコミが成立してしまいますが、問答無用の迫力の前には霧散してしまいますね。好意的な解釈をするならば、それだけ彼等は成長しているという事になり、劇中の流れとシンクロしているとも言えると思います。
もう一つ面白いと思ったのは、ミオがいかにも武道経験者として扱われていたにも関わらず、あまりフィーチュアされなくなった事(今回も「ちょっとだけ」剣道をやってたという発言あり)。逆に何だかよく分からないが強いライトと、頭脳派としての描写が前面に出ていたヒカリが、ここに来て急激に格闘方面へと方向転換していく辺り、シリーズが生き物であると感じられます。昔で言えば、「ゴーグルファイブ」でゴーグルブラックが将棋部キャプテンの頭脳派という設定でありながら、演じたのが春田純一さんという事もあって、設定からは想像も付かない超絶アクションを見せたりしていましたね。「バイオマン」のイエローフォー両名なんかもそうです。
シリーズが進行していく過程でのこうした変化はむしろ歓迎すべき事で、志尊さんと横浜さんの更なる魅力を引き出す事に繋がっているし、梨里杏さんの雰囲気がミオを男勝りではない方向性にシフトさせているのも実に魅力的です。勿論、シリーズ構成として予め織り込まれていたのかも知れませんが、ガチガチでない部分にこそ命が宿るという事がままあるので、なかなか難しい処です。
さて、もう一人のゲストは春日太平なる人物で、こちらはロッキー刑事こと木之元亮さんが担当。これまた特撮ファンには「ウルトラマンダイナ」の熱血隊長としてお馴染みですが、そのヒビキ隊長の「その後」がそのまんま出て来たかのようなキャラクター性に笑ってしまいました。実質、豪傑親父とチュウシャキシャドー変身体の二役だったわけですが、どちらも楽しそうに演じられているのが分かりますね。
そのチュウシャキシャドーですが、シャドー怪人の中でも随一の悪辣さを持っていて、それだけに倒し甲斐があるキャラクターでした。明確に死をゴールとした作戦は実に恐ろしく、コミカルな言動が目立つ割には憎々しさが強調されていました。
攻略戦に関しては、ヒカリの名探偵振りが織り込まれる等、以前の要素をちゃんとくみ取っている辺りが凄い。推理モノの定番である種明かしが挿入されたりと説明の巧さも抜群で、アクションだけでない知能的な逆転劇によって、その爽快感が増しています。
また、格闘技と言えば...という事なのか、「燃えよドラゴン」を彷彿させる突入パターンが燃えます。倒したクローズの数を数えながら進んでいくシーンは、もう手数が凄い事になっていて、純粋な格闘モノの映画もかくやの出来映え。ヒカリは途中で数えるのをやめてしまっていた一方、ライトは自分の数のみならずヒカリの方も数えていたという執心っぷりが面白く、結果的にヒカリが僅差で勝ってはいたわけですが、両者の違いを如実に表す事項であったのに加え、やはりライトの方が「強い」のではないかと思わせられるのが巧い処ですね。ヒカリが余裕を失っていった一方、ライトは無駄な事を考える余裕があったと。
それから、印象面で言うと、彼等のアクションはより実践的なベクトルに向いていたように見えます。これは映像的なアクションを見せるという意味では、まだこなれていないという事なのかも知れませんが、最近の世界的な(というよりハリウッド的な)トレンドとしては、ワイヤーアクションを盛り込むといった派手な荒唐無稽さが求められる一方で、よりリアルにコンタクトを見せるという方向性も重視されているようなので、そのトレンドを踏襲したという見方が出来るかと。当然、戦隊は子供向けのコンテンツですから、フルコンタクトに近い殺陣は導入しておらず(これはある意味東映の伝統芸でもある)、軽快さが前面に出ていますが、それでも格闘技経験者による一挙手一投足にはやはりリアリティがあると感じました。
そして、逆転された後に、全く手も足も出ないままライトに瞬殺されるチュウシャキシャドーの哀れさに、カタルシスがありました。高層ビルから落下しながらダイカイテンキャノンをぶっ放す映像の素晴らしさは、それまでのリアリティある格闘シーンとは対極にあるヒロイックな描写で引き込まれざるを得ません。
これらのくだりが実に素晴らしかった為に、巨大戦は蛇足になってしまう危険性がありましたが、意外な能力を発揮して超超トッキュウダイオーを無力化してしまう等、見所を創出。ハイパーレッシャテイオーを登場させる為のエクスキューズだったわけですが、流れは概ね自然でした。何より、夕景で繰り広げられる巨大戦の美しさよ! ハイパーレッシャテイオーの金色が、見事に夕陽を表現する照明に映えていて良いシーンになっていましたね。
最後に、車掌さんの印象的なシーンにスポットを。
ライト達を見て「子供ではなくなっていく」と感慨深げに呟くシーンがありましたが、あれこそが車掌さんのポジションですよね。それこそ「銀河鉄道999」の頃から。関根さんという「子供っぽい感覚を持ち合わせた明確な大人」が演じている意味を、今回ほど強く感じられた事はありませんでしたね。正に神懸かったキャスティングだと思います。
次回は「子供じゃなくなっていく」事を更に強調するコメディ編になりそうですね。ミオと明、そしてトカッチという素晴らしい組み合わせには、期待せざるを得ません(笑)。