クォンタム・ファミリーズ
2,200円(税込)
発売日:2009/12/21
- 書籍
批評から小説へ、ゼロ年代のラストに放つ東浩紀の新境地!
書評
波 2010年1月号より 東浩紀と「家系」の問題
『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』と略記)は、量子(クォンタム)コンピュータのネットワークによって相互干渉する並行世界を舞台に、出会うはずのない「家族」が時空を超えてリンクされる歴史改変SFである。グレッグ・イーガンやP・K・ディック、瀬名秀明や麻枝准らの先行作品と、ジャック・デリダの脱構築哲学を同時に視野に収めながら、作者自身とその家族を投影した作中人物(東浩紀は作家のほしおさなえと結婚し、娘がひとりいる)が離合集散する、思弁的でプライベートな色合いの濃い小説になっている。
作中で示唆されているように、『QF』は村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に宛てた、二一世紀からの返信でもある。春樹作品はディック(世界の終り)とレイモンド・チャンドラー(ハードボイルド・ワンダーランド)のハイブリッド小説だが、本書の中にチャンドラーの占める席はない。その空隙を埋めるのは、一九六〇年代以降のカリフォルニアを舞台に、フロイト的な「父親探し」の物語を書き続けたハードボイルド作家、ロス・マクドナルドの幽霊だ。『QF』の入り組んだ構成は、ディックの解離的な多重世界とロスマクの「家庭の悲劇」が骨がらみになっている。ただし後者は、作者の意図を越えて物語外から侵入したものだろう。
いくつか興味深い事実を指摘しておく。紙幅の都合で詳述できないが、『QF』のストーリーの骨子は、ロスマク『一瞬の敵』(一九六八)のプロットを倒立したような構造になっている。同書を訳したのは作者の義父に当たる小鷹信光(作中では大島考哉)で、翻訳当時、小鷹の年齢は三五歳だった(村上春樹の「三五歳問題」)。さらに本書の第二部で明かされる出来事の一部は、ロスマク夫人だったマーガレット・ミラー『まるで天使のような』(一九六二)の挿話と近接している。したがって、『QF』という物語を支配するZ型のダイアグラム(四つの並行世界をリンクする貫世界通路)の背後には、小鷹信光という「翻訳者/父」を媒介(トンネル)にして、ミラー-ロスマク夫妻とほしお-東夫妻という二組の作家夫婦がZ型にリンクされる物語外の構造がひそんでいるわけだ(ミラー-ロスマク夫妻の間にはリンダというひとり娘がいたが、彼女のたどった不幸な人生についてここで触れる余裕はない)。
このような読解は恣意的に見えるかもしれない。しかし思想的な背景に目を向けると、両者の接続には必然性がある。たとえば『一瞬の敵』には、後年「カリフォルニア・イデオロギー」(東の情報環境論「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を参照)の発信源となるパロアルトという地名が出てくる。つまりこの時期のロスマクと『ヴァリス』の作者であるディックは、同じトポスの呪縛から逃れられない。またウィリアム・ゴールドマンはロスマクの作風について、「幽霊(ゴースト)が彼のテーマである。彼の登場人物はわたしたちがそうであるようにみな幽霊をしょっている」と述べている。いうまでもなく、東のデリダ論『存在論的、郵便的』の第一章は「幽霊に憑かれた哲学」と題されていた。
こうした共鳴が生じるのは、ロスマクが「家系」、すなわち個人を同定(アイデンティファイ)する情報の伝達経路という問題を扱っているからだ。六〇年代の彼の小説、特に『ウィチャリー家の女』『さむけ』といった中期の代表作では、親-子二世代の「家系」の錯誤が物語の核になっているが、『一瞬の敵』以降の後期作品では、錯誤の生じる伝達経路が親-子-孫の三世代に及び、それに伴ってプロットの複雑さも倍加している。世代の次数が上がったために「家系(ファミリー・ツリー)」を構成する複数の結節点(ノード)が重なり合い、見通しのいいツリー構造から分節困難なセミ・ラティス構造(クリストファー・アレグザンダー「都市はツリーではない」)に変質したといってもいい。ロスマクの作品史において、ツリーからセミ・ラティスへの移行は、精神分析的なドラマに還元されてしまった「悲劇」から自然生成的な「神話」への遡行と見なすことができる。
回り道が長くなった。引き続き「家系」=伝達経路という主題を切り口に、『QF』の構造を駆け足で見ていこう。本書は第一部と第二部に分かれているが、三〇年の時差と異なる歴史に隔てられた父(葦船往人)と娘(風子)が交互に語り手を務める第一部は、並行世界とタイムトンネルというSF的なガジェットを用いて、葦船家の「家系」をセミ・ラティス化することに費やされている(むろん、これはかなり乱暴な要約である。ここでは『QF』という作品の工学的な性格を重視して、あえてツリー/セミ・ラティスという粗い図式を採用しているけれど、より精緻な分析を求める読者は、『存在論的、郵便的』をひもといていただきたい)。
おのおのの並行世界はツリー状に分岐するのではなく、より上位を占める階層からの計算的介入によってそのつど結節され(ディックの「不気味なもの」のモチーフが、形を変えて幾度も現れる)、葦船往人と妻の友梨花、娘の風子といった固有名の上に複数の世界線(歴史)が重ね書きされていく。人格や記憶は時空を超えて引き継がれるものの、リンクされてしまった並行世界は、互いに独立した関係を維持できない。フラッシュバックという形で、複数の世界線がオーバーラップするからだ。「家系」を構成する成員(ノード)のそれぞれが並行世界とつながっているために、出来事が複数の平面上で同時に繰り広げられ、それらの平面どうしの間にも複雑な連接があって、全体をひとつの体系に閉じている。言い換えれば、これは「神話」を生成する工学的なプロセスにほかならない。
第一部の6章「娘III」に挿入された、葦船往人作の童話「汐子の物語」にも同じことが当てはまる。イソップ寓話と『オズの魔法使い』を混ぜ合わせたような筋立てだが、この物語は未完で、後半は複数のプロットからなる準備稿しか残されていない。そのプロットは選択によって分岐するツリー状の物語ではなく、「閉じた変換群としての神話」(クロード・レヴィ=ストロース)の構造をなしており、こうした作業は、論理的な変換の可能性が尽きるまで続けられる。「汐子」と名づけられた人工知能プログラムが、物語の感想を問われて、母親の不在を指摘するのはそのためだ。さらに第二部では、主に母親・友梨花の視点から、検索性同一性障害という架空の精神疾患が蔓延した世界が描かれる。破滅に瀕した世界は、「家系」の工学的なセミ・ラティス化がさらに進行した結果、物語が完全に「神話」の領域へ移行したことを示しているといっていいだろう。
「世界の終わり」を夢みていたものの正体は第二部後半で明かされ、救済の道が示される。しかしこの謎解きには、また別の罠がひそんでいる。デウス・エクス・マキナ(一種の神託機械)を導入して、セミ・ラティス化した「家系」のオーバーラップを解消するのは、「神話」をツリー状の「悲劇」に還元することを意味するからだ。「自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上で和解へと導くそのからくり」(柄谷行人「マクベス論」)を見抜いた葦船往人は、土壇場でその罠を拒絶する……。だが「悲劇」による再ツリー化を回避し、「神話」のセミ・ラティス構造にとどまるのは、二〇世紀的な実存に関わる決断というより、むしろ二一世紀の工学的な倫理と受け取るべきではないか。
だとすれば「物語外2」と題された突発的なエピローグも、同じ倫理から導かれたものだろう。それは宇野常寛の「レイプ・ファンタジー」批判(『ゼロ年代の想像力』)に対する、ぶっきらぼうな回答なのかもしれない。
作中で示唆されているように、『QF』は村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に宛てた、二一世紀からの返信でもある。春樹作品はディック(世界の終り)とレイモンド・チャンドラー(ハードボイルド・ワンダーランド)のハイブリッド小説だが、本書の中にチャンドラーの占める席はない。その空隙を埋めるのは、一九六〇年代以降のカリフォルニアを舞台に、フロイト的な「父親探し」の物語を書き続けたハードボイルド作家、ロス・マクドナルドの幽霊だ。『QF』の入り組んだ構成は、ディックの解離的な多重世界とロスマクの「家庭の悲劇」が骨がらみになっている。ただし後者は、作者の意図を越えて物語外から侵入したものだろう。
いくつか興味深い事実を指摘しておく。紙幅の都合で詳述できないが、『QF』のストーリーの骨子は、ロスマク『一瞬の敵』(一九六八)のプロットを倒立したような構造になっている。同書を訳したのは作者の義父に当たる小鷹信光(作中では大島考哉)で、翻訳当時、小鷹の年齢は三五歳だった(村上春樹の「三五歳問題」)。さらに本書の第二部で明かされる出来事の一部は、ロスマク夫人だったマーガレット・ミラー『まるで天使のような』(一九六二)の挿話と近接している。したがって、『QF』という物語を支配するZ型のダイアグラム(四つの並行世界をリンクする貫世界通路)の背後には、小鷹信光という「翻訳者/父」を媒介(トンネル)にして、ミラー-ロスマク夫妻とほしお-東夫妻という二組の作家夫婦がZ型にリンクされる物語外の構造がひそんでいるわけだ(ミラー-ロスマク夫妻の間にはリンダというひとり娘がいたが、彼女のたどった不幸な人生についてここで触れる余裕はない)。
このような読解は恣意的に見えるかもしれない。しかし思想的な背景に目を向けると、両者の接続には必然性がある。たとえば『一瞬の敵』には、後年「カリフォルニア・イデオロギー」(東の情報環境論「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を参照)の発信源となるパロアルトという地名が出てくる。つまりこの時期のロスマクと『ヴァリス』の作者であるディックは、同じトポスの呪縛から逃れられない。またウィリアム・ゴールドマンはロスマクの作風について、「幽霊(ゴースト)が彼のテーマである。彼の登場人物はわたしたちがそうであるようにみな幽霊をしょっている」と述べている。いうまでもなく、東のデリダ論『存在論的、郵便的』の第一章は「幽霊に憑かれた哲学」と題されていた。
こうした共鳴が生じるのは、ロスマクが「家系」、すなわち個人を同定(アイデンティファイ)する情報の伝達経路という問題を扱っているからだ。六〇年代の彼の小説、特に『ウィチャリー家の女』『さむけ』といった中期の代表作では、親-子二世代の「家系」の錯誤が物語の核になっているが、『一瞬の敵』以降の後期作品では、錯誤の生じる伝達経路が親-子-孫の三世代に及び、それに伴ってプロットの複雑さも倍加している。世代の次数が上がったために「家系(ファミリー・ツリー)」を構成する複数の結節点(ノード)が重なり合い、見通しのいいツリー構造から分節困難なセミ・ラティス構造(クリストファー・アレグザンダー「都市はツリーではない」)に変質したといってもいい。ロスマクの作品史において、ツリーからセミ・ラティスへの移行は、精神分析的なドラマに還元されてしまった「悲劇」から自然生成的な「神話」への遡行と見なすことができる。
回り道が長くなった。引き続き「家系」=伝達経路という主題を切り口に、『QF』の構造を駆け足で見ていこう。本書は第一部と第二部に分かれているが、三〇年の時差と異なる歴史に隔てられた父(葦船往人)と娘(風子)が交互に語り手を務める第一部は、並行世界とタイムトンネルというSF的なガジェットを用いて、葦船家の「家系」をセミ・ラティス化することに費やされている(むろん、これはかなり乱暴な要約である。ここでは『QF』という作品の工学的な性格を重視して、あえてツリー/セミ・ラティスという粗い図式を採用しているけれど、より精緻な分析を求める読者は、『存在論的、郵便的』をひもといていただきたい)。
おのおのの並行世界はツリー状に分岐するのではなく、より上位を占める階層からの計算的介入によってそのつど結節され(ディックの「不気味なもの」のモチーフが、形を変えて幾度も現れる)、葦船往人と妻の友梨花、娘の風子といった固有名の上に複数の世界線(歴史)が重ね書きされていく。人格や記憶は時空を超えて引き継がれるものの、リンクされてしまった並行世界は、互いに独立した関係を維持できない。フラッシュバックという形で、複数の世界線がオーバーラップするからだ。「家系」を構成する成員(ノード)のそれぞれが並行世界とつながっているために、出来事が複数の平面上で同時に繰り広げられ、それらの平面どうしの間にも複雑な連接があって、全体をひとつの体系に閉じている。言い換えれば、これは「神話」を生成する工学的なプロセスにほかならない。
第一部の6章「娘III」に挿入された、葦船往人作の童話「汐子の物語」にも同じことが当てはまる。イソップ寓話と『オズの魔法使い』を混ぜ合わせたような筋立てだが、この物語は未完で、後半は複数のプロットからなる準備稿しか残されていない。そのプロットは選択によって分岐するツリー状の物語ではなく、「閉じた変換群としての神話」(クロード・レヴィ=ストロース)の構造をなしており、こうした作業は、論理的な変換の可能性が尽きるまで続けられる。「汐子」と名づけられた人工知能プログラムが、物語の感想を問われて、母親の不在を指摘するのはそのためだ。さらに第二部では、主に母親・友梨花の視点から、検索性同一性障害という架空の精神疾患が蔓延した世界が描かれる。破滅に瀕した世界は、「家系」の工学的なセミ・ラティス化がさらに進行した結果、物語が完全に「神話」の領域へ移行したことを示しているといっていいだろう。
「世界の終わり」を夢みていたものの正体は第二部後半で明かされ、救済の道が示される。しかしこの謎解きには、また別の罠がひそんでいる。デウス・エクス・マキナ(一種の神託機械)を導入して、セミ・ラティス化した「家系」のオーバーラップを解消するのは、「神話」をツリー状の「悲劇」に還元することを意味するからだ。「自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上で和解へと導くそのからくり」(柄谷行人「マクベス論」)を見抜いた葦船往人は、土壇場でその罠を拒絶する……。だが「悲劇」による再ツリー化を回避し、「神話」のセミ・ラティス構造にとどまるのは、二〇世紀的な実存に関わる決断というより、むしろ二一世紀の工学的な倫理と受け取るべきではないか。
だとすれば「物語外2」と題された突発的なエピローグも、同じ倫理から導かれたものだろう。それは宇野常寛の「レイプ・ファンタジー」批判(『ゼロ年代の想像力』)に対する、ぶっきらぼうな回答なのかもしれない。
(のりづき・りんたろう 作家)
著者プロフィール
東浩紀
アズマ・ヒロキ
1971年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。1993年に批評家としてデビューし、1998年に出版した『存在論的、郵便的』でサントリー学芸賞受賞。2006年10月より、東京工業大学世界文明センター特任教授。著書に『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『キャラクターズ』(桜坂洋と共著)など多数。
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