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世界中から注目される東京五輪は、グローバル展開を目指す日本企業にとって、世界に発信できる絶好のチャンスです。やはり、オリンピックともなると巨額のマネーが動くのがつきもの。特に、スポーツ界の戦いは壮絶なものがあります。
さて今回は、我々が愛してやまないスポーツの裏側に潜む、ある兄弟の凄まじい兄弟ゲンカを探っていきたいと思います。
1920年、ドイツ、バイエルン北部の小さな町ヘルツォーゲンアウラッハで、ダスラー兄弟商会という製靴工場が産声をあげます。靴職人の子供として育った兄弟は、初めは仲良く会社を運営していました。
兄のルドルフ・ダスラーは優秀な営業マン、弟のアドルフ・ダスラーは腕のいい靴職人でした。1936年に開催されたベルリンオリンピックをきっかけに、ビジネスは大きく成長。当時のナチス政権がスポーツ振興に力を入れたことを追い風に、ダスラー兄弟商会は飛躍的に業績を伸ばすことになります。
ヒトラーは、オリンピックをとおして、ゲルマン民族の優秀さを国内外にアピールすることに成功します。しかし、二人の経営方針は、次第に反目し合うようになっていくのです。
第二次世界大戦中、仕事を請け負うには、ナチスの党員である必要がありました。ルドルフは党員となることを拒否して投獄され、アドルフはそれをうまくやり過ごしたのです。戦争後、ダスラー兄弟の確執が決定的になり、それぞれが別のブランドを立ち上げることになったのです。
兄のルドルフは持ち株を全て弟のアドルフに売却し、その資金で、新会社プーマを設立。弟のアドルフは、自分の愛称アディと姓のダスラーを略して、ダスラー兄弟商会からアディダスへと社名変更しました。販売部門の従業員の多くは兄ルドルフについて行き、技術者の多くは弟アドルフのもとに残りました。
ダスラー兄弟の争いは、町の人々までも巻き込んでいきました。それは、互いに相手のシューズを確認してからでないと、会話を始められないほど深刻なものになっていきました。街の人がみな、靴を意識していたので、「首を曲げた町」と呼ばれていたほどです。
優秀なスポーツ選手を広告塔に利用しはじめると、争いはさらにエスカレート。スポーツ界を巻き込む大きな争いへと発展していったのです。初めは、用具の無償提供から始まったセールス合戦も、すぐに札束が飛び交う抗争へと発展。スーパースター獲得競争の幕開けでした。
北斗四兄弟もビックリの兄弟ゲンカですね。
プーマとアディダスの抗争は、ルドルフとアドルフが亡くなったあとも続きます。
1970年のメキシコ・ワールドカップで、アーミン(ルドルフの息子)とホルスト(アドルフの息子)は、ひとつの取り決めを交わします。
「ブラジルの神様ペレだけには決して手を出さない」という、いわゆる、”ペレ協定”です。稀代の才能を持つペレ選手を奪い合ったら、金額の高騰は免れません。だから、互いにペレ選手とは提携しないという暗黙の取り決めをしたのです。
ところが、プーマはこの協定を呆気なく反故。アディダスの怒りに火をつけることになったのです。兄弟ゲンカ第二幕です。
ワールドカップの閉幕が近づいたある試合で、プーマの代理人ハンス・ヘニングセンと神様ペレは世界に注目させるある作戦を思いつきます。それは、キックオフの前に靴紐を結び直すというものでした。
この作戦は大当たり。ペレとの提携は、プーマに計り知れない宣伝効果をもたらすことになったのです。
現在では、両社ともダスラー家との繋がりはなくなっています。
プーマは、グッチやイヴ・サンローランを抱えるフランスの流通持株会社ケリングの傘下にあります。一方のアディダスは、経営危機からフランス人実業家のドレフュスに経営権が渡り、その後、サロモンやリーボック、テーラーメイドを加えて、あらゆるスポーツアイテムを手がけるグループとなっています。
二人の兄弟ゲンカから始まった2大メーカーの確執が、スポーツをビッグビジネスに育てあげてきたのは、紛れもない事実です。もし、ダスラー兄弟がいなければ、現代スポーツの繁栄はなかったかもしれません。
アーミン(ルドルフの息子)とホルスト(アドルフの息子)の代まで続いたプーマとアディダスの兄弟ゲンカでしたが、晩年、ある日本人が仲裁に入り、和解しています。仲裁したのは、あのオニツカタイガー(現アシックス)の創業者 鬼塚喜八郎さんです。鬼塚さんは面白い人物なので、また機会があれば取り上げてみたいと思います。
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