執筆者 | 小泉 秀人(研究員(政策エコノミスト)) |
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初版:2024年3月 |
このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)
「親ガチャ」という言葉が、嘆きの文句として、X(旧ツイッター)などでこの数年広く使われるようになった。子どもが親を選べないために生じる能力の差や機会の不平等、といった文脈で使われる言葉であるが、「親ガチャ」による格差を是正しようとする政策は、相続税による再分配などで先進的な国ではすでに行われている。こうした格差是正や機会平等を推し進める政策は、何も親を選べないことだけに対してではない。今の先進的な世の中では、例えば所得税は、高所得者に高い税金を払ってもらう累進課税制度を採用して、福祉を充実させることで富の再分配を行っている。また、所謂「アファーマティブアクション」という名の下、性別や人種、年齢、生まれなどで差別されてきた人々に優先して機会を提供する政策は、官民問わずに行われている。社会においては、そうした属性によって差別されることなく、純粋に能力と成果で評価する、つまり「実力主義」(注1)を推進している。こうした流れは、先進的な国において近年共通するものではないだろうか。
これらの取り組みは、一見素晴らしいことのように見える。属性によって差別されることなく、皆が同じスタートラインに立って「よーいドン」で純粋に実力だけで勝負するのであれば、こんなに公平な社会はないだろう、と。果たして本当にそうだろうか。
実力主義の問題を一つ挙げるとしたら、それは結果に対して各人が全ての責任を負うことになる、ということである。つまり、成功したらそれはその人の生来の能力と努力によるものであり、失敗したら何らかの事故や事件などの不可抗力ではない限り、それはあくまで努力と能力が足りなかったためだと。つまり、全ては自己責任なわけだ。マイケル・サンデルなどは、自著の「実力も運のうち」の中で、いかに実力主義が「親ガチャ」という「運」に依存するものであって、正当性のないものであるかを主張している。
しかし、こうも考えることができる。現在の先進的な社会が目指しているように、サンデルが批判するような「親ガチャ」などの「運」による格差を是正して、皆同じスタートラインからスタートすればいい。そうすれば彼の批判の前提は崩れ、我々は公平な社会を実現できる。しかし、そうすることで、本当に公平な社会に向かっていると言えるのだろうか。
ここで大事なことは、サンデルが言うような「運」というのは、生まれる前に決まっている「先天的な」「運」を指しているということである。しかし、「運」は、実は生まれる前にも、後にもある。例えば、ある子どもが算数のテストでたまたまヤマカンが当たっていい点を取ったとしよう。いい点を取ったことで、友達に算数を教えて欲しいと頼まれるかもしれない。得意気になったその子は、友達に算数を教えるために勉強をし、また教えることで理解が深まる。理解が深まることで算数の学力が伸びる。そのおかげで、次の算数のテストでもいい点数を取る。そうすると自信をつけて、「得意な」算数になり、もっと勉強するようになる。最初は小さな運によるきっかけであったはずだが、この子どもは将来理系のトップ大学に進学することになるかもしれない。
こうしたことは、子どもだけではない。仕事において、キャリアの初期にいい上司に恵まれることも「運」である。いい上司に恵まれたことで、仕事へのモチベーションが上がり、スキルも磨かれ、昇進も速いかもしれない。その後ヘッドハンティングされて経歴とスキルをさらにアップさせ、その後別の会社にさらにいいポジションでスキルと給与を得ることができるかもしれない。
こうした「後天的な」初期の「運」が、例えそれが誰にでも起こりうるようなものであっても、これらのフィードバックループ、つまり、「成功」→「自信・機会の増加」→「更なる努力」→「成功」というようなループが起こることで、後々大きな差を生む—所謂「バタフライエフェクト」—を引き起こす可能性がある。問題は、これがどれだけ定量的に重要かである。もし初期の小さな「運」が大きな差を生むのであれば、実力主義の正当性は崩れる。なぜなら、いくら同じスタートラインに立ってスタートしても、「運」によって最終的なタイムに大きな差が出るのだとしたら、速いタイムがその人の生来の能力と努力によるもので、遅いタイムは生来の能力が低かった、または怠惰によるため、と言うことができないからである。宝くじが当たったことを、自らの実力だと主張する人間はいないだろう。
定量的にこの「バタフライエフェクト」を検証するための理想的なデータとしては、例えばこれからキャリアを積む新卒に、能力や属性、個人の特性に関係なく、一つのグループには将来のパフォーマンスに影響するような幸運な出来事を与え、もう一方のグループには何も与えないという、ランダム化対照実験を実施し、頻繁にその後の経過を調査したデータである。他の自然科学なら簡単なこうした実験も、社会科学において人間を使ったこうした実験は困難を極める。普通そのようなデータはないのだが、今回の研究では、2002年から2011年までの日本の競艇のデータを使うことでこの問題を解消した。
競艇は選手がモーターボートを使用して競争する競技であるが、レースの勝敗が、使用するモーターに強く影響を受けることが知られている。これは、大型車のエンジンと同様に、同じ型のモーターでも個体差があるためである。不公平にならないように、主催者側がこのモーターをトーナメント毎に、「ガラポン」などのくじ引きでランダムに選手に割り当てることが行われているのだが、この決め方自体は公平なやり方であろう。お笑いの大会であるM-1グランプリでも決勝は順番が大事で、不公平にならないように「笑みくじ」を使ってランダムに順番を決めるが、そのシステムに文句を言う芸人は少ないだろう。さらに、競艇の場合、大数の法則で、選手全員が何度もトーナメントに出ていれば、皆いずれは同じ回数だけラッキーなモーターを割り当てられる。そうした極めて公平な割り当て方であっても、ラッキーなモーターが当たる最初の「タイミング」にはバラツキが出てくる。デビュー戦で当たる選手もいれば、しばらくしてから当たる選手もいるだろう。このバラツキを本研究では利用し、早い時期にラッキーなモーターが当たった選手とそうでない選手を時系列で追跡比較した。
結果は驚くべきものであった。まず、市場退出率である。論文中のグラフで下図の「Figure 2」は、初期に運が良かったグループをTreatそうではないグループをControlとして、横軸にデビューからの時間を半年ずつとり、縦軸に各グループの退出率をとったグラフで、単純に平均の推移をとったものである。Treatの方が退出率が低く、その差は明らかに時間の経過とともに開いているのがわかる。
また、時間の経過とともに成績の格差が拡大し、それに伴ってチャンスが増え、リスクテイクする傾向があることが明らかになった。下図「Figure 4」では、(a) 1着数の累計値(b)累計収入の自然対数(c)G2グレード以上レース累計出走数 (d)リスク指標の単純平均値をFigure 2と同じ横軸で表している。(a)と(c)に関しては0の数が多い問題があり、外れ値に影響されやすい状態ではあるものの、1着数や収入などは差が広がる傾向にあり、リスク行動は一旦差が広がるが、その後差が急速に縮まる傾向が見てとれた。全体の累積平均をとって0の数が多い問題を克服し、統計検定すると、およそ4年間で、早い時期にラッキーなモーターが当たった選手の当初のわずかな優位性は、男性レーサーにおいて累積1着数が早い時期に当たらなかった選手に比べて69%増、累積収入48%増という驚くべき結果をもたらした。
本研究の結果は、能力や属性、個人の特性が同じ状態でスタートしても、「後天的な」初期の「運」によって後の結果に大きな差を生むことを定量的に示した。この差は無視できるレベルのものではないだろう。政策的には、所得税などの累進課税制度などに示唆がある内容である。高所得者層に高い税率をかける議論において、才能に対する高い課税率は不公平だと言う道義的な(実力主義的な)意見に対しては、「後天的な」「運」の「バタフライエフェクト」の定量的な大きさを提示できるだろう。また、広く見れば、どのような社会を目指すかという方向性においても含意がある。つまり、エリートや社会的成功を収めた人間に謙虚さを求め、途中で脱落したりコースアウトしてしまった人間に自信を取り戻させる社会づくりである。そうした社会こそ、サンデルが指摘するように、実力主義で落ちこぼれた集団が支持している、トランプ含め、世界中で巻き起こるポピュリスト運動に歯止めをかけ、リチャード・ローティが提案するような対話する社会を実現していくのではないだろうか。
- 脚注
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- ^ 原語meritocracyの訳としては「能力主義」と言ったほうが正確ではある。